いばらを取りのぞけ!


2008.4.27(SUN)
新城教会牧師 上條実師
新約聖書 マタイの福音書27章29節
それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」

 ハレルヤ!今日はこうしてメッセージを語れますことを、心から感謝します。滝元明牧師は今日まで、沖縄にて中村裕二先生ご夫妻と岩井寛兄とともに奉仕しております。また滝元順牧師は和歌山県の橋本バプテスト教会で奉仕しております。そしてフェルナンド師ご夫妻はオーストラリヤにて奉仕しております。ぜひ各先生方の奉仕と健康が守られますようお祈り下さい。また来週の礼拝は特別礼拝になります。北海道の札幌よりジェリー・ジャンセン先生ご夫妻がご奉仕くださいます。去年豊橋で行われたアグローの集会でご奉仕くださった先生です。とても楽しい話をして下さる先生です。ジェリー・ジャンセン先生が牧会されています教会は、大変祝福されています。一九九〇年に教会が創立され、今二百三十名以上の方々が集われています。そこには多くの癒しや奇跡が表されているとのことです。素晴らしい神の器です。ぜひ来週期待してお越し下さい。さてこれから「いばらを取りのぞけ!」というタイトルで学びます。先ほど読んでいただいた
 
『それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」』

というみことばから学んでいきます。イエスキリストは私たちのために十字架にかかりました。その時にお読みしたように、いばらの冠をかぶり、右手に葦を持たせられ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」とローマ兵にからかわれて言われた言葉です。先週の礼拝で滝元明牧師が「神のみ声をどのように聞くか」というタイトルで語られました。神の声を聞きなさいと語って下さいました。ですから神様に本日の礼拝に何を語ったらよいのかを願い祈り続けていました。そして聖書を読んでいくうちに、先ほどのみことばがすごく気になりました。しかしどのように礼拝でみことばを語ったらよいのか分からずに大変苦労しました。しかし今日私に教えてくださったことを語らせていただきます。我が家にいばらの冠があります。二十数年前に私はイスラエル旅行に行かせてもらいました。その時私はお土産として、いばらの冠がもし手に入るならば欲しいと願って探しました。しかし見つかりませんでした。その数年後にイスラエル旅行がこの教会で企画され、そのツアーに行かれる方に、もしあったら買ってきてとお願いしておきました。そしてある兄弟がいばらの冠を見つけて来てくださり、お土産として私にプレゼントして下さいました。イスラエルのホテルでいばらの骨の所をトイレットペーパーで厳重に巻いて保護し、わざわざ機内に持ち込んで大事に持ってきてくれました。とても大きなとげがついています。この品種のいばらがイエスさまのかぶせられたいばらと同じ品種かわかりませんが、一番長いところで約六センチのとげがあります。昨日数年前に上映された『パッション』という映画を見てみました。今日この礼拝でお見せできたらと思っていたのですが、R指定で、十五才以下は見てはいけないとなっていますし、あまりにもむごい場面でイエスさまがいばらの冠をかぶせられていましたので、これは見せることができないと思いました。イエスさまがむち打たれ、血だらけになり、そこにある一人のローマ兵がいばらの冠を、イエスさまにかぶせました。私がプレゼントしてもらったものと同じような、いやそれ以上のとげがついていばらを冠にしてかぶせられていました。その上二人の兵士たちに棒でイエスさまの頭にのせられたいばらの冠を押さえつけていました。するとイエスさまの頭にいばらが食い込み、鮮血が流れ、痛み苦しんでいる、見るも無惨な姿が映し出されていました。その映画を見て、再度イエスさまの愛を感じました。私のためにイエスさまは苦しみを受けて下さったと感謝しました。教会のシンボルは十字架と言われていますが、イエスさまは私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られて三日目によみがえってくださいました。その十字架の苦しみの中でいばらの冠を受けて下さいました。マタイ二十七章二十九節に、いばらの冠をかぶせられ、また弱々しい葦の棒を持たされて「ユダヤ人の王さま。ばんざい」とイエスさまはバカにされました。私のためにイエスさまは罰を受けて下さいました。なんと感謝な事でしょう。私たちが時々「いばらの道」という言葉を使います。辞書には

「いばらが茂った険しい道。困難な状況。苦難に満ちた人生などの例え。」

と書かれていました。皆さんはどんな人生を歩まれていますか。ほとんどの方が恵まれた人生を歩まれていると信じますが、あなたはどんな道でしょうか?我が家の四男・恵太がこの四月で小学校一年生になりました。彼が一年生になって、我が家では今までは朝遅くまで寝ていましたが、早く起きるようになり朝七時少し過ぎまでに全部準備ができたら、テレビを見ても良いという決め事をしました。食事がなかなか食べることができない彼ですが、頑張って食べ、朝ニコニコしながらカバン、帽子などを整えて、テレビを見ています。そして通学団の班長が迎えに来てくれて、喜んで出かけていきます。彼を見ると、いばらの道など全く想像ができない感じがします。毎日が楽しくて希望に満ちているように見えます。私にも幼い頃がありました。小学校の時は毎日楽しくて仕方がありませんでした。今になってはとても良い思い出です。どんなに家が貧しくても、関係ない。どんなに兄弟が多くて生存競争の激しい所であっても、とても満足した楽しい生活でした。学校から帰ってきてから、真っ暗になるまで遊びほうけていました。楽しい時でした。しかし知らないうちにいばらの道に飛び込んでしまっています。眉間にしわを寄せ、喜びがなく、毎日口から出るのはため息ばかり。どこでどう狂ったのか分からないのですが、人生の歯車が狂ってしまいました。また「茨を負う」という言葉があります。

「キリストの受難から出た言葉で、茨の冠をかぶせられたことから、人の罪を一身に背負うこと。また人の苦しみを自分の苦しみとして生きること。」

とあります。毎日いばらを背負って生活しています。私たちはイエスさまによって救われて今ここににいます。イエスキリストがいばらを負って下さいました。私たちの苦しみも罪もすべて背負って下さり、私たちの身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。いばらは聖書のどこに出てくるでしょうか?創世記が出てきます。それも創世記の初めの天と地を創造された後に出てきます。神は天と地を創造しその後アダムを創り、そしてエバを創られました。その二人はエデンの園に住まわされました。しかしエデンの園にはいばらはありませんでした。神の栄光で輝きながら楽しく生活していました。神と出会う、神の国のなかで生活していました。そんなある時、エバの所に蛇が遣わされました。そして「善悪を知る木の実を食べてみよ。これを食べたら目が開かれるぞ」と悪魔であるへびが誘惑しました。エバは「食べてはいけないから…」と答えますが「そんなことはない」とそそのかされて食べてしまいました。そして夫にも与えたとあります。その時に目が開かれました。それは自分が裸であることがわかりました。神に背いたのです。その罪の結果、エデンの園から追い出されました。創世記三章十六節から十九節に、

『女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」』

とあります。人類に罪が入ったために、女性は苦しんで子を産まなければならないとあります。私の孫が二月に生まれました。すこしお産が大変だったようです。私は女性でなくて良かったなぁと思います。私は少し腸が動くだけで、家族に痛みを訴えているので、もし私がお産を体験したら発狂するような状況下も知れません。女性は強いと思います。しかしこの産みの苦しみは、人類に罪が入ってからだと書かれています。そして男性は、

『あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。』

とあります。汗を流して働くようになりました。そして

『土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。』

とあります。いばらは人間の罪の結果としてこの地上に生えてきた植物です。そしてあなたは野の草を食べなければならないとあります。先週我が家の小さな畑に、きゅうりやなすなどの夏野菜の苗を植えました。これを読んだときに、エデンの園では自由に木の実をとって食べていたのに、この苗を植える仕事も罪の結果なんだと思いながら作業しました。そして『土地はあなたのためにいばらとあざみを生えさせ』とあります。私たちはこの地球上に神様がはじめに地におかなかった物を、罪の結果この地上に生えてきたことを聖書から見ることができます。マタイ十三章十八節から二十三節に、

『ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」』

とあります。これは有名な種まきの話です。種の例えには四種類あります。一つは道ばたに落ちた種、もう一つは岩地に落ちた種、そしていばらの中に落ちた種。そして良い地に蒔かれた種です。その中で二十二節に、

『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』

とあります。この世の心づかいと富の惑わしが、ふさぐので実を実らせないと言っています。この世の心づかい。私たちは毎日重荷があります。険しい道、困難な状況、また苦難に満ちた人生があります。この世の心づかいばかりをしています。種は途中まで成長します。しかしいばらがふさいで邪魔をするため実を結ぶことができません。二十三節には、『ある者は百倍、ある者は六十倍、ある者は三十倍の実を結んだ』とあります。自分で収穫した野菜は、きゅうりならどんなきゅうりよりも美味しく感じます。嬉しいものです。しかし成長し、さあこれから実を結ぶという時に、いばらが塞いでしまったというのです。実がならないのです。順調に進んでいるかのように見えたものが、突如いばらに妨げられて実を結ぶことができません。私たちの人生もいばらが覆い繁って実を結ばない事ばかりかも知れません。初めは成長します。しかしいばらにぶつかり、実が結ぶのを期待していたものの成長を妨げられて、実を実らせません。そして自分でいばらをとりのぞこうとするととげが刺さり、傷つき痛みを覚えます。私たちの人生、はじめはうまくいっているかのように見えます。しかしいばらが邪魔して実がならず、問題だらけ。まさにいばらの道です。自分で問題を取り除こうとすると、人間関係、また様々な事で傷つき、痛みを覚えます。やっといばらを取りのぞいたと思っても、いばらは繁殖力が非常に強い植物です。水や栄養分がなくても生えてきます。私たちの人生は次々と苦しみ、悲しみが襲ってきます。あなたはどうでしょう。クリスチャンの中でも「世の心づかいや富の惑わし」がないでしょうか?人間関係をうまくやっていきたい。家族みんなで愛し合って行きたいと思ってもうまくいかないことがあると思います。好きで結婚した夫婦でさえ修復不可能な状態になり、ただ傷をおって苦しんでいる方はいませんか?私たちは酒を飲みませんが、しかし会社の酒の席があります。そんなとき「ここで断ったらうまくいかないかも知れない」と考えます。営業の仕事をされていると「自分の成績に響く」と思ってしまいます。「これが飲めたらどんなにか楽だろう」と悪魔は思わせます。クリスチャンを罪に導くのです。私たちはイエスさまを知り、少しずつ成長します。さあこれから実を結び、祝福を頂くことができる。ここまで神に従ってきたのだからどんなによくしてくださるだろうと期待します。しかし現実はいばらの道です。そして自分で一生懸命取ろうもがけばもがくほど、血だらけになり、痛みしか残りません。同じ種のたとえが他の福音書には若干違った表現がされています。マルコ四章十九節には、

『世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。』

とあります。マタイの福音書には「この世の心遣い」と「富の惑わし」とだけでしたが、「いろいろな欲望」ということばが書いてあります。金銭欲、名誉欲、性欲などなど多くあります。欲に塞がれて実を結ぶことができません。またルカ八章十四節に、

『いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。』

とあります。ルカの福音書は、「この世の心づかい」「富」そして「快楽」とあります。快楽を求めて、快楽にふさがれて実が熟することがないとあります。私たちの信仰生活にいばらがふさいで祝福を見ることができないのです。「絵に描いた餅」のように、祝福されると聞きをするが、苦しむばかり、いばらの信仰生活を送っています。今日気づいて下さい。イエスさまが十字架にかかられるとき、頭にいばらの冠をかぶってくださいました。「ユダヤ人の王様、ばんざい」とバカにされたのです。ここに大きな意味があります。ただ近くにいばらがあったので、ローの兵が編んでいばらの冠をつくったのではありません。アダムとエバの呪いを、イエス・キリストは勝利をしてくださるために、十字架にかかり、いばらの冠をかぶって下さいました。つまり「この世の心づかい」「富」などで祝福を奪い取られた所を打ち砕いて下さるために「いばらの冠」をかぶって下さいました。イエス・キリストによって勝利して下さいました。私たちはイエスキリストによっていばらから解放されます。悪魔は世の心遣い、富の惑わし、快楽、欲望を巧みに持ってきます。そして祝福の実を実らせないように。いばらによって回復不可能だと囁いてきます。今日イエス・キリストによって、このいばらら取りのぞいていただきましょう。その暗闇の力を打ち砕く祈りをささげて、今までがいばらの道であった所に、神の道、祝福の道を頂きましょう。悪魔は私たちをある面、信仰を成長させることを赦します。しかし祝福をもらえそうになる寸前にいばらを用意しています。そして心身を傷つけ、霊的にも束縛を与えてきます。悪魔の策略は巧みです。しかし恐れることはありません。私たちには主イエスキリストの権威とみことばの剣があります。数週間前のみことばで「信じて、宣言しよう!」と学びました。私たちがみことばを宣言するとき圧倒的な勝利ができます。関節と骨髄を貫く程に、神のことばは生きています。いばらを全部打ち破ることができます。様々な惑わしや暗闇があったならば、みことばによって勝利していきましょう。マタイ十一章二十八節に、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

とあります。今日、疲れている方、重荷をもって苦しまれている方はこのみことばをあなた自身の口で宣言して下さい。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

イエス・キリストがあなたの重荷を全部解決して下さいます。休ませて下さいます。いばらを取り除いて下さいます。十字架によって呪いを打ち砕いて下さいました。百倍、六十倍、三十倍の実を実らせる土壌に変えて下さり、私たちのうちに収穫させて下さいます。今多くの人が人生に行き詰まりを覚えています。二〇〇六年の統計で三万二千一五五人の方が自殺しました。単純に計算すると一日で約百名の方が、自分から命を絶っています。今社会現象になっている硫化水素で自殺する。これは絶対に霊的なものです。みこころではありません。主が与えて下さった命を、自ら亡くしています。この一ヶ月間、毎日誰かが硫化水素で自殺をしています。そしてそのガスが流れて、二次災害を起こしています。悪魔がいばらである問題を見させて、行き詰まらせ、死を選ばせます。ヨハネの福音書十四章一節に、

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

とあります。「神を信じなさい」とあります。これは聖書を信じなさいということです。
みことばがあなたの悩みを解決します。いばらを取り除いて下さいます。私は二十数年前に原因不明の病気になりました。何の病気かわからず、一ヶ月検査入院をしました。その入院時の最後に医者から「これで何の病気かがわかります」と言われ、あるガンの検査をしました。最終の検査で、これでわかると言われました。その時非常に恐れが来ました。目の前が真っ暗になりました。このまま自分は死んでしまう!家族はどうなるのだろう?等怖くなりました。真っ暗な状態になった時、あのときは確かに主が私に語って下さったと信じています。誰かが耳元で、

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

と語ってくれました。そのみことばが語られたとき、いばらは取りのぞけられました。私は小心者なので、みことばがなければ押しつぶされてしまっていたかもしれません。しかし検査中も平安でした。結局何も病気は発見できず、もう何も検査がないと言われたので、自ら退院しました。そして今に至っています。あれは何の病気であったかわかりません。しかしあのときほどみことばに大きな力があるかを体験できたことはありません。「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」このみ言葉で、いばらがとりのぞけました。私の力ではありません。みことばで私を生かして下さいました。
また悪魔は「お前は駄目だ。」と語ってきます。しかし私たちはそのようなとき必死に祈ります。しかし「祈りは答えられないぞ」と囁いてきます。そんなときピリピ四章六節から七節に、

『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

とあります。あなたが誰にも打ち明けることができなくても、主の御名を呼ぶとき祈りは確かに答えられます。また神は私たちに平安と解決を下さいます。

『そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

普通では考えることができないような平安を神様が与えて下さいます。不安といういばらを取り除き、良い地に植えて種のように、百倍、六十倍、三十倍の祝福を神が与えて下さいます。心配や思い煩いがある時、第一ペテロ五章七節に、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

とあります。一寸先が闇のように、真っ暗のようであっても真昼のように光が差し込みます。私たちは考えれば考えるほど、暗闇に入り、恐れてしまいます。しかしイエスさまにゆだねましょう。神があなたがたのことを心配して下さいます。神があなたに触れて下さいます。いばらを取りのぞいて下さいます。ヘブル二章十四節から十五節に、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

とあります。死の恐怖から解放して下さいます。先週は田中たず子姉の葬儀が遠州中央浜北教会にて行われました。彼女はいつも私の家庭集会に参加して下さっていましたが、いつも「私はクリスチャンで良かった。死ぬことは怖くない」と言っていました。九十二才で亡くなられました。クリスチャンは違います。死の恐怖から勝利することができました。死といういばらを取りのぞいて下さったのです。また第一テサロニケ二章十九節に、

あなたがたではありませんか。
『私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。』

とあります。イエス・キリストはいばらの冠を受けて、十字架にかからり、葬られ、三日目によみがえられました。いばらの冠ではなく、私たちは百倍、六十倍、三十倍の実を見て大喜びで喜ぶことができます。いばらではなく、望み、喜び、誇りの冠をかぶらせて下さいます。あなたは今どこを歩まれていますか。いばらの道ですか。まだあなたにいばらがありませんか?自分で処理したら傷つきます。しかしみことばに勝利があります。今日みなさんの中でいばらが生えて苦しみ、煩いで心を病まれている方がありませんか。イエス・キリストには時期もどんな問題も関係ありません。三十倍、六十倍、百倍の実をくださる神様です。大収穫があなたの人生に訪れます。あなたがみことばを信じたら、いばらが打ち破られることを信じましょう。お祈りします。


[バックナンバー]