ジェリー・ジャンセン師特別講演記録


2008.5.4(SUN)
ジェリー・ジャンセン師
マタイの福音書 14章22節〜31節
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

 おはようございます。今日ここに皆さんと共にいることは感謝です。この教会に招いていただき光栄です。この教会と牧師先生方は、日本中で有名な方たちです。私は甲子園ミッションに行かせていただきました。当時は日本に来てまだ数年という時でした。滝元明先生が偶像礼拝について一生懸命メッセージをされていたのを覚えています。私も偶像が大嫌いなので、札幌の教会に戻ったとき、「明先生が大好きです」と皆に言いました。

 滝元順先生が私の教会に昨年の十一月に来てくださいました。大変評判の良い奉仕をしてくださり、また今年も来ていただきたいと思っています。
 日本で良い牧師を捜すのはとても大変で、牧師先生はとても価値があると思います。北海道には教会堂があっても、牧師がいない教会がたくさんあります。ですから、皆さんは牧師先生夫妻のお世話をしてあげてください。もし皆さんがそれができなければ、先生方をぜひ札幌にお招きしたいと思います。彼らのために祈り、愛し、励ましてください。
 私は札幌のメンバーから皆様に挨拶を送りたいと思います。毎年札幌には四〜五メートルの雪が降ります。結構寒いです。しかし、聖霊様は札幌でも熱く燃えています。私たちの教会の屋根の上には雪が積もりません。溶けてしまうからです。初めての場所で話をするときは少し緊張します。初めて招いてくださったけれど、気に入られなかったらどうしようと心配します。
 しかし神様に語られました。「あなたには選択の余地がない。彼らはあなたを愛さなければなりません。」と言われました。なぜならイエスさまは、「互いに愛し愛さない」と語られたからです。ですから、皆さんに選択の余地はありません。それで、私は心配しないことにしました。もし皆さんが私のことを気に入らなければ、皆さんは罪を犯すことになります。私が皆さんを愛することはとても簡単です。皆さんがメッセージをするのを私が聞くわけではないからです。

 皆さんのことを愛しています。通訳しているのは私の妻です。私は日本にフィリピンから来ましたが、札幌の聖書学校で講師をすることになりました。彼女はちょうど、イギリスから日本に戻った時でした。その聖書学校の通訳をすることになりました。彼女はなかなか通訳が上手だったし、とても美しかったので、いっそのこと結婚した方が良いなあと思いました。そして通訳者と結婚しました。それからずっと通訳してくれています。タダで通訳してくれるので貯金できると思いました。しかしそれは間違っていました。結婚したら、私のお金を全部彼女が持っているようになりました。男性の方々は、私が何を言おうとしているかよくわかると思います。

 牧師業は、世界で一番大変な仕事でないでしょうか。私は伝道者が大好きです。伝道者はやってきて、火を付けてどこかに行ってしまいます。けれども牧師は取り残されて、その後を引き継ぎます。ゲストスピーカーは行き来しますが、牧師はいつも皆さんの側にいます。赤ちゃんが産まれるのと、赤ちゃんを育てるのでは違います。生まれるだけなら簡単ですが、生まれた赤ちゃんが大人になるまで育てることは大変なことです。
 同様に、牧師にはすごい役割があります。アメリカでは、色々な専門職の中で、牧師という職業が一番途中で辞めてしまう率が高い職業です。ですから、牧師のために祈ってください。皆さんに素晴らしい牧師がいるのなら、ぜひ、お世話してください。日本の教会は、これから勝利から勝利へと歩む時代です。日本には、一パーセントもクリスチャンはいませんが、私たちはそれを変えて行くことができます。皆さんを励ましたいと思います。

 マタイ十四章二十三節に、イエスさまが『祈りのために、ひとりで山に登られた』とあります。いつも聖書で注意したいところがあります。「誰かが祈った」という箇所の後には、必ず何かが起こっています。祈りは皆さんの信仰生活の土台となるものです。イエスさまの生涯は、祈りから次の祈りの間に素晴らしい奇跡が起こりました。祈りは基礎であり、土台です。
 関西空港は、海を埋め立てて作ったそうです。作っているときに土台が少し傾き出したことがあったそうです。そのときには工事をいったん止めました。そして土台をもう一度修復し、土台が完成するまでは次の工事を行わなかったそうです。
 多くのクリスチャンにも同じ事が起こります。基礎がしっかりしていないと、神様はその上に建て上げることを一時停止されます。基礎がしっかりと保つことができなければ、神様はそこに建物を建て上げることができません。
 「ピサの斜塔」がイタリアにあります。それは斜めに建っています。なぜ斜めに建っているのでしょうか。やはり土台が悪かったからです。その建物は何の役にも立ちません。何にも使えません。記念写真を撮るくらいにしか使えません。アメリカでは、斜めに立っているようなクリスチャンに出会うことがありました。土台が良くありません。ですから色々なことに用いることができません。写真を撮ることはできるかも知れません。しかしその人を用いることはできません。なぜなら、土台がしっかりしていないからです。皆さんの持っている土台以上に、大きなものを建てることはできません。大きな建物を建てたければ、しっかりとした土台が必要です。高層ビルを建てようとして、小さな土台で良いと思う人がいるでしょうか。そんなことでは高い建物は建てられません。
 神様は素晴らしい大きな事をなさろうとしています。素晴らしいクリスチャンの人生を、建て上げようとされています。皆さんの人生で大きな事を神様が成されようとされています。ですから、その建物を建てる土台をどんどん築いてください。

 韓国では、祈りで天の窓が開かれています。あるアメリカの軍隊の牧師が韓国にやってきて、アメリカの兵士たちにメッセージをしました。メッセージの中、兵士たちは泣き出しました。救われる人もいました。その牧師がチョー先生の所に行き、聞きました。「私はドイツでも同じメッセージをアメリカ人兵士たちにしました。しかし皆、寝ていました。しかし、韓国に来て同じメッセージをしたら、皆が泣き出し、救われました。わけがわかりません。」
 チョー先生がこう言われました。「わからないのですか。この町には何百万人というクリスチャンたちが上空が開かれるように祈っています。そこに違いが出てくるのですよ。」

 誰がメッセージをしたかではなく、天が開かれているかが問題です。日本の上空の窓を開けていきましょう。
 缶切りがあります。また、栓抜きがあります。私たちにも、天のかんぬきがあります。喉が渇いたらコカコーラの瓶があります。奥さんが栓抜きで栓を抜けば良いと言います。しかしそれを聞かずに、「喉が渇いた」と言っています。彼女が「栓を抜きなさい。栓抜きでとれば良いのよ。」と言います。しかし、「喉が渇いた」と言っていると、奥さんが怒って「これで抜きなさい」と言うかも知れません。
 天の窓を開きましょう。私たちには天の栓抜きが与えられています。日本で私たちには選択があります。皆で韓国に移住してしまう、あるいは日本で天を開くかのどちらかです。
 私はトロントやペンサコーラ、アルゼンチン、韓国などに行くことに段々疲れてきました。今度は人々が日本に来るように、彼らがここに来るようにしたいです。外国の人たちにお金を使ってもらいましょう。韓国のクリスチャンたちと同じ栓抜きが、私たちにも与えられています。

 ブラジルである宣教師がパラグアイとブラジルの国境の町に行きました。国境線がありますが、そこを簡単に行き来できるようです。宣教師がパラグアイ側でトラクトを手渡しました。しかし誰も受け取ってくれなかったそうです。しかし国境線をまたいで、同じトラクトを配ると皆受け取ってくれました。
 またパラグアイ側に行ってトラクトを渡すと、「結構です」と断られました。そしてまたブラジル側に戻って配るという具合に、繰り返していたそうです。
 パラグアイの方に女性がいたそうです。その人に手渡そうとすると、「結構です」と断られたそうです。宣教師は彼女が国境を渡ったのを見て、もう一度トラクトを渡しました。すると受け取ってくれました。宣教師はとても混乱したそうです。あちらでは受け取ってくれなかったのに、ここでは受け取ってくれたのはなぜだろうかと思ったそうです。
 実はブラジル側の村では祈りのグループがあったそうです。その地域の霊を縛る祈りをささげていました。そこでわかりました。その地域の霊的なものが開かれているから、そのことが起こっていたことがわかりました。
 それで秘訣を学んだそうです。それは、トラクトをどう渡すかではなく、どのくらいニコニコして渡すかが問題ではありません。テクニックでもありません。そういうのは関係ない、天が開かれているかどうかが問題です。天が開かれると、人々はイエスさまを受け入れるようになります。
 私たちの戦いは血肉に対するものではなく、空中の権威に対するものです。私たちは人に対する戦いではなく、霊的なことに対するものです。ですから、霊的土台をしっかりしましょう。

 二十四節には、『風が向かい風であった』とあります。イエスさまの弟子たちは、神様のみこころのただ中にいたはずです。そしてイエスさまが言われるとおりのことをしていました。ところが、向かい風になっていました。
 時々私たちは神のみこころを行っているのに、色々な攻撃が来るときがあります。しかしそのような時は、ただ前進し続けることです。
 聖書の中で最高の箇所があります。モーセが紅海でエジプトの兵隊に追われ、絶体絶命の時、目の前には紅海があります。モーセは神様に叫びます。「あ〜、神様!」と叫びました。その時神様は、「前進しなさい。前に進みなさい」と言われました。

 「前進しろ」と言う単語が、私の人生を何よりも助けました。皆さんがどのような問題を抱えておられるかわかりません。しかし答えは持っていると思います。前進し続けてください。イエスさまは水の上を歩いておられました。ペテロが、『主よ、もしあなたでしたら私に水の上を歩いてくるようにお命じになってください』と言いました。

 なぜペテロはそのように言ったのでしょうか。水の上に誰か伝道するべき人がいたのでしょうか。水の上に癒しを必要とする人がいたのでしょうか。水の上を歩くことには、目的がなかったような気がします。しかし、なぜペテロはこのようにイエスさまに頼んだのでしょうか。

 それはペテロは、「自分もイエスさまのようになりたい」と願ったからだと思います。イエスさまが成されていることを、自分もしたいと思ったからです。私は、そのように頼まれたイエスさまはとても嬉しかったのではないかと思います。イエスさまはここでペテロに怒ってはいません。
 「船に静かにとどまっていなさい。こんな所に来てもどうしようもないでしょう。本当にあなたは口先だけなんだから…」とは言われませんでした。
 「おいで、おいで!わたしがやっていると同じ事を、あなたもやってごらん!」

 お父さんたちの中で、自分の息子がお父さんのようになりたいと憧れてくれることを、どれほど嬉しいと思うでしょう。
 私にも息子がいます。私は日用大工が大好きです。トンカチを持ち、ノコギリで色々切ったりしますが、彼が小さかった頃、お父さんと同じようにトンカチを持って叩き出しました。居間にテーブルがあり、私が目を離しているうちに、息子はノコギリを手にしてテーブルを切り出しました。その傷が今もまだ残っています。子どもはそのようなものです。お父さんのようになりたいと思います。お父さんのようになりたいという思いは、とても健康的なものだと思います。

 イエスさまも弟子たちが、「イエスさまのようになりたい」と願ったことを喜ばれたと思います。ペテロが、「イエスさま。あなたがなさっているのと同じ事をさせてください」と願ったとき、イエスさまの答えは「良いよ。」でした。
 同じように、聖書に出てくるイエスさまが成されたことに対して、皆さんが同じように、「私もして良いですか?」と聞くと、イエスさまは「良いよ。やってごらん」と言われるはずです。これがポイントです。

 『私がする同じわざをあなたもするようになる』とイエスさまは言われました。イエスさまがなさった同じ事を、「私たちもして良いですか」と尋ねたら、イエスさまは「良いよ」と答えるはずです。

 九ヶ月ほど前に、札幌の教会でたくさんの方が癒され始めました。アルゼンチンの話ではなく、韓国の話ではなく、私たちの教会の枝教会での証です。
 ある女性が七歳の息子さんと一緒に教会に来ていました。その男の子が足を怪我し、手術をしました。手術の時に太いワイヤーを入れて骨を固定しました。ギブスをしていたので歩けませんでした。
 手術の次の日に、その息子さんを教会に連れて来られ、彼のために祈りました。私は詳しい事情を知りませんでしたので、「歩いてご覧!」と言いました。次の日、お母さんが包帯をして手術した後をよく見ると、ワイヤーが飛び出していました。お母さんは「あら、大変。また手術をして戻さなくてはいけないのかしら」と思ったそうです。そこですぐに病院に連れて行きました。
 レントゲンを撮ると、「もう骨は治っていますね。あまり早く治っちゃったから、それでワイヤーが出てきちゃったのだろうね」と医者が言いました。六週間かかるはずでしたが、二日で治ってしまいました。その事をお母さんが証してくれたときに、その男の子が走り回っていました。

 今頃、札幌で証をしていると思いますが、ある女性が足首を怪我していました。病院に行き、三週間は仕事を休むようにと言われ、ギブスをされていました。彼女のためにも祈りました。すると瞬間的に痛みがなくなり、彼女はギブスをとって普通に歩き出しました。
 もう一つは、六十代の姉妹がひざを痛めて全然治りませんでした。いつも包帯やサポーターを巻いていました。彼女のために祈ると、聖霊に倒されてその間に足が小刻みに動き出しました。あまりに激しかったので、足が抜けそうな感じがして押さえてあげました。しばらくして、彼女が立ち上がるとひざの痛みが取れており、頼んでないのですが、本人がジャンプして皆に見せてくれました。
 「先生、本当に癒されたのです」と言い、今度はもっと高い椅子のぼって椅子から降りて見せてくれました。私は「もう止めてください。あまりやるとまた怪我してしまいますよ」と言いました。そのような事が毎週のように起こっています。

 聖書でイエスさまがなさっていることを読む時に、それは皆さんにもできるのです。皆さんもイエスさまに、「私もして良いですか?」と聞いてみてください。「良いよ」と言ってくださいます。
 イエスさまの方がワクワクされると思います。だからペテロも水の上を歩きたいと願ったのでしょう。

 この箇所からメッセージが語られるとき、ほとんどの場合、「ペテロが沈んだ」ことがポイントになると思います。ペテロは沈みかけた人としてとても有名になってしまいました。
 この箇所からたくさんメッセージがあったと思います。私は色々なメッセージを聞きましたが、「残りの十一人が船から一歩も出なかった」というメッセージは、まだ聞いたことがありません。
 皆さんは、皆さんに関するメッセージを聞きたいでしょうか。船から降りましょう。船の中にいる間は安全です。ボートとは、知性や知識に頼って生る領域であり、理にかなっており、安全です。しかしその状態では、皆さんに関するメッセージを聞くことはできないかも知れません。船から一歩出たところには信仰が必要です。船に座っている限り、信仰は必要ありません。しかし、そこから出て行くためには、信仰が必要です。もし皆さんがたとえ沈んでも、イエスさまが引き揚げて下さいます。イエスさまは船にいた十一人ではなく、沈みかけたペテロを助けて下さいました。船にイエスさまと一緒に、水の上を歩いて戻ることができたのは、ペテロだけでした。ですから、船から出ていきましょう。やってみてください。

 信仰=危険に近いですが、少し違います。皆さん、ぜひやってみてください。病気の人のために祈ってみるとか、伝道してみることをしてみて下さい。職場に出かけるときには、満面の笑顔で出て行って下さい。そして職場の人が、「なぜ、あなたはそんなに幸せそうなのですか」と聞いてくれます。「私の心にイエスさまがいるからよ。」と答えてみませんか。ぜひ、やってみてください。イエスさまに感謝と礼拝をささげることをしてみてください。
 誰でも船の中に座ったままで、将来の年金のことを心配すること、ガソリンの値段を心配することはできます。船の中にいる人たち同士で、「どうしましょう\\\」と相談することもできます。しかし、船から出ていく人は全く違うことを話します。それは、「イエスさま、助けて!沈んでしまいそうです。」と叫びます。

 私も船の中で人生を過ごすよりも、大海で沈んでしまいそうでイエスさまに助けていただく生き方のほうが良いと思います。皆さんもやってみませんか。船から出てみましょう。神様に信頼し、神様に感謝して、主を礼拝し、ニコニコして人生を楽しんで下さい。ポジティブに職場でもニコニコして行きませんか。
 「私は救われています。」「私は愛されています。」「私は祝福されています」と思ったら、ニコニコせざるを得ません。

 じゃあ、なぜペテロは沈んでしまったのでしょうか。とても一般的な理由としては、ペテロは風を見たとあります。イエスさまから目をそらして、風を見てしまいました。そして疑い出しました。しかしペテロを沈ませたのは、風が原因ではありません。彼の「心の疑い」です。
 良く聞いて下さい。サタンは私たちクリスチャンを引きずり降ろす力を持っていません。サタンができることは、不信仰や疑いを持たすことです。それによって私たちの信仰が下がってしまいます。
 ふぐは小さな魚ですが、敵の前で膨らんで見せます。そうすると他の魚が恐れます。ふぐには何もできません。鋭い歯もないですが、ただ膨れるだけです。サタンも同じです。膨れます。そして私たちは怖くなります。信仰と恐れは同じ場所に同居しません。ですから、サタンは私たちの心に恐れをもたらそうとします。そうすると、私たちは沈んでしまいます。しかし信仰があると、サタンを恐れさせ、沈むことはありません。
 エデンの園でサタンは強制的に実を食べさせることはできませんでした。騙したり、嘘をついて食べさせました。三十一節でイエスさまが、『なぜ疑うのか。』と言われました。これをしっかりと受け止めて下さい。イエスさまはペテロが沈んだ理由を疑いと言われています。水の上を歩く時に、彼が小走りに走らなかったから沈んだわけではありません。波に乗るように歩くべきだったということではありません。ペテロの技術ではなく、私たちの技術でもなく、信仰です。
 ペテロがイエスさまから目を離して、風に目を向けましたが、目は二つあります。天井を見て床を見てください。片目は天上、片目は床を見ましょう。それは、できないと思います。同じように、イエスさまを見ながら、問題・波を見ることはできません。ですから正しい方にいつも目を向けましょう。

 あるメッセンジャーはこう言いました。「ペテロは水の上を歩いたのではなくて…」と言ったときに、私は「何を言っているのだろう。あの人は」と思いました。
 しかしその後、彼はこのように言っていました。「ペテロは水の上を歩いたのではなく、み言葉の上を歩いた」と言われました。イエスさまの『来なさい』と言われた言葉、その言葉の上をペテロは歩いたと言われました。
 それを聞いて、私は気に入りました。水が人を支えたのではなく、神様のみ言葉が人を支えることができます。ペテロを支えることができた神様のみ言葉は、私たちをも支えて下さいます。
 イエスさまが言われた「来なさい」という言葉が、ペテロを支えました。良く聞いて下さい。マタイの福音書に、『全世界に出て行きなさい。』『弟子たちを作りなさい』と言われました。イエスさまがペテロに言われた、『来なさい』という言葉はペテロを支えることができたと信じることができますか。信じますか。

 イエスさまの『来なさい』という言葉が彼を支えました。しかしイエスさまが『出て行きなさい』という言葉は皆さんを支えることができますか。同じイエスさまの言葉です。
 『来なさい』と言われたペテロへの言葉は、彼を支えることができると誰でも信じることができますが、イエスさまが『出て行きなさい』と言われた言葉が、自分を支えてくれるとはなかなか信じることができないものです。
 しかしできます。『出て行きなさい』と言う言葉は、必ずしも外国に行けということではありません。「職場に行きなさい」「学校に行きなさい」「お隣に行きなさい」「そこで弟子を作りなさい」と言われます。イエスさまの言葉は私たちを支えることができます。神様は私たちが変えていく家庭の中でも私たちを用いて下さいます。もっと完璧にならなくてはと心配しないでください。完璧な信仰が必要ではありません。ペテロも持っていませんでした。変えられていく過程の中で神様が用いられます。皆さんに啓示を差し上げます。神様は私を用いて下さっていますが、まだ完璧ではありません。皆さんも同じです。お祈りします。


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