あなたに預けられたもの


2008.5.11(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘師

新約聖書 ルカの福音書 19章11節〜17節
人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。今日主の前に礼拝をささげることができることを感謝します。先日、私の家内の母の葬儀の際には皆さんにお世話になり、お祈りいただいたことを心から感謝します。ちょうど昨年の四月に私の母・キヨが亡くなり、そして一年後のこの四月に家内の母が亡くなり、淋しい思いがあります。しかし、私たちクリスチャンの国籍は天にありますから、母たちは、今は苦しみ、悲しみ、痛みがない天国で、この光景を見ていることを思い、感謝します。

 二十九日には大勢の方が遠足に行かれました。私は、地引網で捕れた魚をさばきに、昼の時間だけ行きましたが、楽しい時を持てました。また、五月四〜六日には、「どっぷり福音漬け3days」と題したミッションの集会が開かれました。どんな集会になるのかと思いましたが、私もその中でたくさんの恵みをいただくことができました。

 先週の礼拝は、その講師として招かれていたジェリー・ジャンセン先生が、マタイ十四章二十二〜三十二節を題材にメッセージをしてくださいました。弟子たちが船に乗っていた時、イエスさまが湖の上を歩いて来られました。それを見た弟子たちは、幽霊だと思いおびえましたが、その時イエスさまが「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われたのを聞き、ペテロは、「もし主でしたら、私に歩いてくるように言ってください」と願いました。そして、イエスさまが「来なさい」と言われたので、ペテロは信仰を持って湖の上を歩いてイエスさまの方へ近づいて行きましたが、風が吹いたのを見て不安になり、沈みかけてしまいました。イエスさまはペテロの手をつかんで「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言いました。

 ペテロが不信仰になって沈みかけたことは、度々語られます。しかし、ジャンセン先生がクローズアップされたところは違いました。常識的に考えると、水の上を歩くことなどできませんから、「水の上を歩いて来るように言ってください」とペテロが言ったこと自体、あり得ません。しかし、ペテロが信仰を持って言った言葉を喜び、イエスさまは「来なさい」と言ってくださいました。私たちも信仰を持って船から一歩踏み出す者になりましょうと、先生は力強く語られました。私もそれを聞いて、新しいチャレンジを受け大変恵まれました。

 今日は、ルカ十九章から「あなたに預けられたもの」というタイトルで学びます。

 初めに、マタイ二十五章を見てみましょう。ここには、その能力に応じてある人には五タラント、ある人には二タラント、ある人には一タラントを預けて旅に出た主人について書かれています。一タラントは、六千日分の給金なので、一日一万円と考えると六千万円です。二タラントの人は一億二千万円、五タラントの人は三億円を預かりました。どうやって儲けたかは書かれていませんが、結果として、五タラント預かった人は五タラント儲けて主人に差し出したと書かれています。

 私たち自身には力がありませんが、神さまが私たち一人ひとりに与えられた能力に、さらにタラントという賜物が預けられています。五タラントを与えられているということは、三億円です。見たこともないような大金です。いちばん少なくても六千万円という大金が私たちにゆだねられているのです。賜物には、癒し、異言、奉仕、預言、伝道、また聖書に書かれていないものもたくさんあります。皆さんは自分の賜物が何であるかわかっていないかもしれませんし、それほど大きな賜物が与えられていることに気づいていないかもしれません。しかし、一人ひとりに賜物が与えられていることを覚えてください。

 次に、すべてのクリスチャンに平等に預けられたものがあることを学んでいきましょう。

 ルカ十九章十一節には、

『人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。』

と書かれています。これは、イエスさまが都エルサレムに上っていく途中の出来事です。弟子たちは三年半の間、イエスさまと共に行動し、たくさんの奇跡、癒しを見、「この人について行けば間違いない。王になる人だ」と思っていました。そして、エルサレムに近づいた時、今こそイエスさまがイスラエルの王となり、国を再興してくださるに違いないと期待しました。彼らのその考えを見抜いてイエスさまはたとえで話をされました。

『ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。「私が帰るまで、これで商売しなさい。」』(ルカ十九章十二〜十三節)

 身分の高い人が王位を受けるために遠くに旅に出ました。彼は出かける時に十人のしもべを呼び、これで商売するようにと一人に一ミナずつ渡しました。これは、神さまが神のしもべである私たち全員に、同じように一ミナずつを預けているということです。一ミナは百日分の給金と記されていますので、百万円くらいだと思われます。タラントに比べると少ないですが、一ミナの百万円も私にとっては大金です。百万円があったら何に使おうかと考えます。ここでは、このお金で商売をしなさいと言われています。

 その後、主人が帰ってきて結果を知ろうと、しもべたちを呼び出しました。

『さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現われて言った。「ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。」主人は彼に言った。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」』(十五〜十七節)

 この後を読むと、二番目に報告に来た人は一ミナから五ミナを儲けて主に差し出しましたが、もう一人の人は、もらった一ミナを風呂敷に包んで隠しておいたとあります。

 このたとえ話の中で、私たちが預かっているものは何かを学びたいと思います。

 第一に、一ミナとあるように、文字通り私たちに与えられている「財産」です。私たちは自分で生まれ育ち、自分で生きているように考えます。そして自分で稼いだものを自分の思いのままに使って何が悪いのかと思います。しかし、私たちは神さまに生かされていることを忘れてはいけません。

 私は今、プレイズ出版の働きをしています。ビジネスはとても面白いです。私は人に、「私は口八丁ですから」とよく言います。口八丁というと、何か人を騙すようなイメージがあるかもしれませんが、そうではありません。

 お客さんと話す時、「私がこう言ったら相手はこう言うだろう。そうしたら、私がこう言って、相手がこう言って…」と、将棋のように五手、六手、七手先まで考えます。そんな駆け引きを、「バクチのようなものですね」と言う方がおられます。私はギャンブルをしたことがないのでよくわかりませんが、自分が話しながら、うまいこと言うなぁと思うことがあります。先週は、ほんの数分の間に何百万という仕事の商談が成立しました。話ひとつで仕事がもらえる、こんなに楽しいことはありません。しかし、私に知恵がないのは私自身がいちばんよく知っています。商売がうまくいくのも私の力ではなく、神さまの知恵により、話すべき言葉が与えられたからだと思います。

 第一コリント十章十二節には、『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』とありますが、この御言葉にあるように、自分の力で人生を切り開いてきた、自分の力で稼いできたと思ったら大間違いです。そのことを、皆さんにも覚えていてほしいと思います。

 またルカ十二章には、ひとりの金持ちの話が出てきます。

 ある年、金持ちの畑が豊作で作物をしまっておく場所がありませんでした。そこで今ある倉を取り壊してもっと大きいのを建てて、穀物や財産をそこにしまっておこうとしました。そしてこう言いました。

『「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』(十九節)

 しかし、神さまは、彼に死を宣告されました。

『「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。』(二十〜二十一節)

 彼は、それまで蓄えてきた多くの財産、多くの富を、何も使わずに生涯を終えることになってしまいました。

 神の前に富まない者は、ルカ十九章にあった一ミナを風呂敷に包んで隠していた人と同じようです。私たちがどんなに儲けたとしても、どんなに多くの財産を蓄え、高い地位や名誉を受け、称賛を受けたとしても、死ぬ時に私たちは何一つ持って行くことができません。私たちは主から預けられた一ミナを主のために使い、五ミナ、十ミナと増やし、天に宝を積むために励んでいきたいと思います。

 第二に私たちに預けられているものは、「時間」です。

 「時は金なり」という言葉がありますが、私たちに与えられた時間をどのように使うかは、重要なことです。この世で私たちが肉体を持って生活できる時間は限られています。百五十歳、二百歳と生きられるわけではありません。ですから、限られた時間、限られた年数を精一杯生きなければなりません。

 四月二十九日に、家内の母が天に召されました。義母の病気は「悪性リンパ腫(ガン)」で、化学治療、放射線治療を行い、辛い副作用にも耐えて病気と闘ってきました。一時は良くなったのですが、三月中旬から症状が悪化し、四月の初めには担当医師から「あと一ヶ月は持たないでしょう」と宣告されました。それを聞いた時は本当にショックでした。一部の方には状況をお知らせして祈っていただいていましたが、公には詳しいことはお知らせしていませんでした。私たちも母も信仰を持ち、最後まで癒されることを信じて祈ってきましたが、結果は、天に召されることになりました。それは、神の手にあることなので仕方がないことです。最後は少し苦しそうだったので、今は、そんな苦しみから解放され、痛みも苦しみもない天国にいることを覚え心から感謝しています。

 私は毎日のように浜松の病院に見舞いに行きました。義母はメッセージのCDを聞いて恵まれたと言い、いつも祈る人でした。また、どんな時にも笑顔を絶やさない人でした。自分は熱があり体調がすぐれない時にも、いつも周りの人を気遣う人でした。私に対しても、「忙しいのに、本当にありがとう。あまり無理しなくてもいいから…」と言ってくれました。病院までは一時間ちょっとかかり、仕事を終えてから出かけて、帰ってくると十時近くになってしまうので、「大変だから、そんなに毎日行かなくてもいいかなあ」と思ったこともありました。

 そんなことを思っていたある日、私は疲れていたので、義母と家内が話している様子を少し離れたところから見ていました。その時、義母は熱もあり、胸に水がたまっていて話すのも苦しいはずなのに、とても嬉しそうにしているのに気が付きました。私も、一年前に亡くなった私の母の所へ毎日のように行っていましたが、私と母の関係とは違い、娘と母親というのは特別なのだろう、母親にとっては、娘と話すのがいちばん楽しいのだろうと思い、どうしても行かれない時以外は見舞いに行き、祈ろうと思って、できる限り病院に通いました。

 また、義母はいつも感謝を表す人でした。召される前の日に私が見舞いに行くと、かなり苦しそうな様子でしたが、私の手を握り、弱って声もあまり出ない中でも最後の力を振り絞って「感謝」と言っていました。それが私が交わした最後の言葉でした。義母は洗礼を受けて三十年余、多くの人に慰めを与え、励ましの言葉をかけ、信仰生活を全うしました。

 人は死を迎える時、最後の時にその人の真価が問われると言われます。私たちに与えられた時間を短いと考えるか、長いと考えるかは人それぞれです。私たちもこの地上に生かされている期間は、あとどれだけあるかわかりませんし、毎日忙しく、自分の用事だけで手一杯かもしれません。しかし、少しでも自分の時間を割き、家族のために祈り、とりなし、あなたの隣人に対して、誰かに対して、預けられた時間を有効に使ってできることをしていきたいと思います。

 そして第三に、私たちに預けられたものは「魂」です。

 あなたにゆだねられた人、あなたにしか伝道できない人がいることを覚えてください。あなたの家族の中でまだ救われていない人がいるかも知れません。使徒十六章三十一節に、

『ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。』

とあります。まだ救われていない家族のために祈りましょう。また皆さんの親しい友人や救われていない方が周りに大勢います。パウロはこんなふうに語っています。

『私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。』(第一コリント九章十九〜二十二節)

 私たちに預けられている魂がいます。私たちクリスチャンには、魂を救いに導くという大きな使命が神さまからゆだねられています。預かったものには責任が伴いますから、自分は何もできないし、そんな大きなものを預かりたくないと思われているかもしれません。

 もしも主人から金を預かり、これで商売しなさいと言われたら、儲かること考える一方で、預かったものを減らしてしまったらどうしよう、失敗したら・・・と考えます。ビジネスでは儲かる時もありますが、失敗をして何百万と損をする時もあります。私は性格的にあまりくよくよしないので、周りの人からは「いいですね、先生は。落ち込まないから」と言われるのですが、それでもそれだけの大損をしたら、五分か十分は落ち込みます(笑)。しかし、また儲ければいいのです。

 伝道も同じです。「誰かに伝道したい」、「福音を伝えたい」と思っても、断られたらどうしよう、迫害されるかもしれないと心配して、一歩を踏み出せないことがあるかもしれません。しかし、そんな心配ばかりして何もしなければ、一ミナを風呂敷に包んでしまい込んでいた人と同じです。その人に対して主人がこう言っています。

『主人はそのしもべに言った。「悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。」』(ルカ十九章二十二〜二十三節)

 主人は、しもべを信頼して一ミナを預けましたが、一ミナを風呂敷に包んでいた人は、主人を恐れ、失敗を恐れ、減ることを恐れて何もしませんでした。しかし、主人は、そのお金が減ることや、儲からなかったことを責めてはいません。何もしなかったことに対して主人は怒り、がっかりしたのです。

 私たちにも神さまからゆだねられた一ミナがあることを覚えてください。私たちが何もしなかったらこの人と同じように、悪いしもべと言われる者になってしまいます。

 そして、そのような悪いしもべに与えられている結末は、『ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』(二十七節)でした。残酷な言葉です。しかし、最後の審判の時に、私たちも神の前に立ち、自分の行った仕業に応じて裁かれる時が来ます。

 主人の本当の目的は何だったのでしょうか。十九章の初めには、ザアカイの話があります。ザアカイはエリコに住んでいました。彼は取税人でした。彼は悪徳でたくさんのものを騙し取って私腹をこらし、裕福な生活をしていました。ある時、その町にイエスさまが来られると聞いたのです。彼はイエスさまの噂を聞いてました。「世の罪を取り除く神の小羊」である真の神さま、癒しをし、奇跡をなし、素晴らしい業を行われる方に、彼は期待していたのだと思います。彼は自分が悪くてどうしようもない人間だという後ろめたさを持っていました。ですから、イエスさまなら、自分を変えていただけるのではないかと思ったのです。しかし彼は背が小さく、群衆にはばまれてイエスさまを見ることができなかったので、近くの大きないちじく桑の木に登って待っていました。

 イエスさまは、その前を通られて言われました。

『「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」』(十九章五〜六節)

 それを聞いたザアカイは、急いで降りて来て、大喜びでイエスを家に迎えました。そしてこの時、彼は救いを受けました。

『ザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」』(八〜九節)

 私たちもザアカイと同じ、いやザアカイ以上の罪人ですが、イエス・キリストによって贖われ、救われました。ザアカイは自分の家にイエスさまを迎え入れたとありますが、これは自分自身にイエスさまを迎え入れたことを意味しています。

 ヨハネ一章十二節には、

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

とあり、イエスさまを迎え入れたなら、私たちは神の子どもとされる特権を得ることができるのです。

 そして、ザアカイの物語の最後に重要な言葉が書かれています。

『人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』(十九章十節)

 ここには、弟子たちが願っていた神の国の訪れではなく、イエスさまがこの世に人となって来られたいちばん重要な目的は、「人々を救うため」だという、福音の原点が書かれています。そして、このことを語った後に、イエスさまは一ミナのたとえを話されているのです。

 今月五月二十四日に、青年会が主催する「The Call」があります。そのために青年たちは毎日のようにとりなしをし、祈って頑張っています。

 三月には教会で行われ、二百人近い人が集まりました。今回は目標五百人と聞いて、「五百人かぁ。大きな風呂敷を広げたなあ」と思いますが、前回のコンサートでは来られた方々が喜んで帰られましたし、今回は、その素晴らしい演奏にボーカルも加わります。価値あるコンサートです。青年会主催ではありますが、ぜひ新しいお友達をお誘いくださり、お出かけください。教会までは足を踏み入れることができないと言われる方もいるかと思いますが、今回は一般のホールを借りてのコンサートですから、そのような人も誘いやすいのではないでしょうか。あと二週間、預けられている一ミナをフルに使って、ぜひ誰かを連れてご参加ください。

 私も、昨日プレイズ来た業者の方にチラシを渡して、「来るよね!?」と誘いました。「でもね、一人だけじゃなくて、誰か誘って一緒に来てね。来週また聞くから、それまでに誘っておいてね」とプレッシャーを掛けると、その方は「は、はっ、はい!」と答えました(笑)。以前にも何回かコンサートに来てくださった方です。

 どんなに素晴らしいコンサートでも、誘わなければその素晴らしさをわかってもらえません。後から、「言ってくれれば良かったのに…」と言われるかもしれません。私たちは一ミナを風呂敷に包んでおくような者にならないで、預かったものを、神さまのいちばん喜ばれる「魂を救いに導く」という働きに使いたいと思います。ですから、まず声を掛けてみてください。ぜひ何人かの方に案内をしてみてください。そして会場いっぱいの方が集まられ、福音を聞くことができたらと願います。

 礼拝後に青年会からのPRもあるようですが、このThe Callは、預けられているものを使う絶好のチャンスですから、私たちに預けられた魂、預けられた時間、預けられた財を有効に使い、主に喜ばれる者となっていきましょう。お祈りします。


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