主よ。私の唇をきよめて下さい!


2008.5.18(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

旧約聖書 イザヤ書 6章1節〜8節
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

 ハレルヤ!久しぶりに、新城教会でメッセージできることを感謝します。皆さんのお祈りに支えられ、毎日守られていることを感謝します。
 先週は、一つの記念日でした。それは、「ペンテコステの日」であり、教会の誕生日でした。教会の誕生日に起こった出来事が、使徒の働き二章一節から四節に記されています。

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

 聖霊が注がれ、教会ができました。その時、『炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。』とあります。
 さて、今日お読みした聖書の箇所は、預言者イザヤが頼りにしていたウジヤ王が死んでがっかりしていた時、神を見たという記録です。彼は肉の目で神を見てしまったと告げています。
 人生の中で、時々頼りにしていた事柄が崩れる時があります。ある人物を頼りにしていたけれど裏切られてしまったとか、頼りにしていた人が死んでしまったとか、色々とあります。頼りにしていた人物や事柄が姿を消すとき、それはまた、神に出会うチャンスなのです。

 私は今月の『新城教会ニュース』に、ダイレクトな記事を書きました。それは、「自殺しないで下さい!」というタイトルと記事です。
 最近多くの人が自ら命を断っています。年間約三万数千人が自殺すると言われます。一日に換算すると、約百名ほどが自らの命を断っていることになります。硫化水素を使って自殺する人が増えています。本来は生活に必要なものを使用して自らの命を断ち、また周囲にも迷惑をかけています。しかし人は、頼りを失ったときに死を選ぶのです。

 イザヤも頼りにしていたウジヤ王が死んでしまったという悲しみの中で、神に会いました。神と出会うときに、いままで気づかなかったことに気づかされます。イザヤは、神を見てから、このように語っています。六章五節に、

『「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」』

 彼が気づいたことは、「私はもう駄目だ!」ということでした。頼りにしていたウジヤ王が死んで駄目だと思っていたのに、さらに神と出会ったら、「もう駄目だ!!」と落ち込んだのです。
 しかし、その理由は、「唇がけがれている」という事と、「私の周りの人たちもみんな、唇がけがれている。にも関わらず神を見てしまった。もう駄目だ!」と彼はショックを受けたのです。

 人間は言葉を持った動物です。世界には、五千から六千の言語があると言われます。私たちは日本語を使っています。日本語は大変都合の良い言葉だと思います。日本に住んでいると日本語が全てのように考え、日本人の思考形態がノーマルだと思っています。しかしそれは間違いです。
 日本語の文法を解析すると、動詞は最後に来ます。私は小学校の頃、「ことばのきまり」という授業が大嫌いでした。教科書が薄かったので、一番必要のない教科だと思って、勉強しませんでした。しかし大きくなってから、「しっかり勉強しておけば良かった」と残念に思います。私の家内や娘は、英語の文法も、日本語の文法もよく知っていて、私の間違いを正してくれます。でも、文法を知らなくても生きることはできますが。
 日本語では動詞を最後に言います。例えば、「私は教会に行きます」と言う場合でも、最後まで結論を先送りすることができます。「私は教会に\\\」とまで言って、行くのか、行くまいかを迷いながら、相手の顔色を見て、「行きます」とか、「行きません」と変えることが出来ます。

 しかし日本から一歩外に出ると、このような文法を持つ言語は少ないのです。例えば、アメリカやヨーロッパ人は性格がはっきりしていて、自分の意見をはっきりと述べます。はっきりものを言う人に対しては、日本人は少し引いてしまうところがあります。しかし、英語などは先に結論を告げます。「私は行きます。教会に。」という語順です。まず先に、「行きます!」とはっきりと結論を告げてから、後から目的を述べます。常に結論ばかり先に言っていれば、性格もはっきりとしてきます。言葉が私たちの性格を形作るのです。

 聖書は「ことば」は大変重要であると教えています。人間である証拠は、言葉を話せることです。今まで何度も、頭が良さそうな猿に言語を教える実験をしたそうです。しかし、未だかつて言葉を覚えた猿は存在しないと、先日テレビでやっていました。皆さんが言葉ができるとしたら、人間である証拠です。言葉は学問ではありません。自然にできるようになります。言葉があることによって、より深いコミュニケーションが可能となります。
 しかし同時に、言葉で傷を受けたり、問題が起こる場合が多いと思います。皆さんの人生も言葉関連で問題が起こったと思います。私もそうです。

 牧師は仕事上、言葉が多い職種だと思います。牧師の仕事は大変な仕事だと自分を慰めています。他の職業なら、何らかの商品があります。八百屋であれば、目に見える野菜などの商品があります。キリスト教以外の宗教は、何らかの目に見える神々があります。しかし、プロテスタント教会においては、何もありません。使えるのは、舌一枚です。言葉で勝負するしかありません。語った言葉が実現しなければ、信用問題です。ですから、大変です。
 言葉は人間だけに与えられたものです。しかし言葉で色々な問題が起こります。今日は、「主よ。私の唇をきよめてください!」というタイトルを付けましたが、これはイザヤの祈りではなく、私自身の祈りでもあります。常に「主よ。私の唇をきよめてください。使わなくても良い言葉を語らないように。また、言うべきことはしっかりと語ることができますように」と祈ります。

 幸せな日々を過ごしたいと願っていたら、どうしたら良いのでしょう。誰もが幸せになりたいと願っています。「私は不幸でいい」などと言う人はいないでしょう。人生は一度だけですので、幸せに生きたいと考えます。聖書は、どうしたら幸せに生きることができるかについて教えています。
 聖書が教える、「幸せになる秘訣」を捕らえたらすばらしいです。その秘訣の一つとして、第一ペテロ三章十節から十一節に記されています。

『いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。』

 このみ言葉を自分の心に留めたら、良いと思います。先週のことを考えてみて、いかがでしょうか。皆さんは舌を使って、どのような会話をされたでしょうか。「会話の半分くらいが人の悪口だった」と言うかも知れません。
 ある人の会話を分析すると、その約八割、九割が文句かも知れません。ある人は常に、誰かにクレームを付けることにしか、唇が使われていないかも知れません。
 聖書は、幸せになりたいと思ったら、「舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず」とあります。
 偽りをつい言ってしまうことがあります。しかし偽りは怖いです。

 この言葉は旧約聖書の言葉ですが、ペテロが引用しました。なぜ、ペテロはこの言葉をピックアップしたのでしょうか。
 彼は舌で大きな失敗をしました。その結果、不幸のどん底に落ちたのです。なぜなら、自分が一番お世話になったイエスさまを裏切ったからです。イエスさまが十字架につく前に、「お前はあのイエスの弟子だろう」と言われたときに、「私は知りません。」と否定しました。呪いをかけて「知らない」とイエスさまを裏切りました。その後、彼は大きな挫折に陥りました。彼の人生で最も大きなショックは、イエスさまを裏切ってしまったことでした。だから彼は幸せになるためには、偽りを語ってはならない、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めることだと気がつきました。
 今週幸せに生きていきたいと思うならば、まず、舌をコントロールすべきです。偽りを語らないように、悪い言葉を口から出さないように注意すべきです。これは聖書のみ言葉であり、真理を教えています。
 最近私は感動したみ言葉があります。それは出エジプト記二十章八節から九節です。

『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。』

 『安息日を覚えて、これを聖なる日としなさい』とあります。ユダヤ人は金曜日の夕方から土曜日の夕方まで、安息日として何の仕事もしません。キリスト教会においての安息日は、日曜日です。なぜならば、イエスさまが日曜日の早朝によみがえられたからです。よみがえりのイエスさまを礼拝する思いで、日曜日の朝礼拝が持たれています。このように日曜日の朝、教会に集って礼拝することは重要です。
 しかしなぜ、『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ』と語られたのでしょうか。それは、『主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。』とあります。

 天地創造は、誰も見たことがありませんので、科学ではなく、「啓示の領域」に属するものです。神が創造されたので、み言葉を信じれば良いのです。
 天地創造について、聖書の言葉を文字通り信じるならば、『それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造った』とあります。
 神は広大な宇宙、地球の全て、地球の中に存在するすべての生物を創られたのです。それも、「六日の内」に創られたというのです。そして七日目に休んだとあります。
 安息日をなぜ守らなければならないのかというと、「神が六日間ですべてのものを創られたことを覚えるため」です。
 この言葉をまともに信じることができるでしょうか。いくら神様でも、天と地、その中に住むすべてのものを「六日間で創った」とは、あり得ないと考えます。進化論的考え方が影響して、そのように考えてしまいます。

 しかし聖書によると、神は六日間で何もかも創られました。六日間ですべて完成できる神様と私たちはお付き合いしています。今週、「六日間」に期待してください。
 私は、「また一週間が始まってしまった。忙しいなあ。今週はこれだけ、こなさなくてはいけない」というようにしか考えていませんでした。
 しかし最近はそのようにではなく、一週間の中で「六日間はとても重要」と感じています。今週、六日間に期待してください。なぜならば、神は六日間ですべてを完結されるお方だからです。

 人生を連続の日々のように生きるのではなく、主が自由に働いてくださるためにも、唇を制御しなければならないと教えています。
 『舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。』とあります。常に自分の唇を見張って、悪口を言っていないだろうか。人をさばいていないだろうか。また、文句ばかり言っていないだろうかとチェックし、神を礼拝し、賛美する唇として使わなければなりません。

「主よ。私の唇をきよめてください」

 実は今日のメッセージのフォーカスは、個人的な言葉の制御ではなく、更に一歩進んだところにあります。もう一つの視点において、「主よ。私の唇をきよめてください」と祈りたいと願っています。

 イザヤは、「自分のくちびるの汚れている」と共に、『くちびるの汚れた民の間に住んでいる。』ということに気づかされました。彼がそのことに気づかされた時、燃えさかる炭火がイザヤのくちびるに触れました。その時主から何と語られたのでしょうか。七節から八節に、

『「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」』

 イザヤは、自分のくちびるが汚れていると共に、「くちびるの汚れた民の間に住んでいる」と気づかされました。その時に火がくちびるに触れ、「もう駄目だ」と言っていたイザヤが、「私が行きます!!」と、積極的に出て行く勇士と変えられました。

 自分自身のくちびるの汚れと同時に、「くちびるの汚れた民の間に住んでいる」ことに気づくことが、火が触れるための重要な条件です。

 イザヤ書六章のみ言葉は、ペンテコステ・五旬節の日の出来事に対応しています。使徒二章一節から三節に、

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。』

 聖霊の注ぎは、炎のような分かれた舌が現れたことによってなされました。イザヤ書六章と対比してみると、聖霊を受ける秘訣は、くちびるの汚れに気づくことと、私たちが住む言葉の環境について気づかされることに関連していると思います。
 日本語は汎用性が低い言語です。日本から一歩出ると使い物になりません。
 今年八月に関西でリバイバルミッションが行われます。今回は今までとは違い、キャンプ形式で行われます。先日、「どっぷり福音漬け3days」が行われましたが、内容の濃い集会でした。「関西リバイバルミッション」は同じような、内容の濃い集会にしたいと願っています。
 そして来年は、韓国でリバイバルミッションを開こうと願っています。アジヤに福音が伝えられるように願っています。
 現在、アジアの土台が揺るがされているように感じます。ミャンマーで大きなサイクロンがあり、多くの人が亡くなったと報道されています。また先週は、中国で大地震がありました。テレビのニュースで見ると、その悲惨さに目を覆いたくなります。
 特に中国が世界から注目を受けています。今年は八月にオリンピックがあるという話題と共に、チベットで大きな暴動があり、国際社会から非難を浴びています。日本と中国の間には食品問題があったりと、何かと中国がらみで話題が多いです。

 そして先週は、四川省に大地震が起こり、一瞬にして何万人という人々の命が失われました。
 私たちは前々から、本日の午後、一つの祈りのプランを作っていました。それは、「台湾、韓国、そして、中国のために祈りましょう」というプログラムです。アジア諸国の宣教の手始めに台湾、韓国、中国のために祈るように導かれていました。ただ祈りましょう、というだけではなく、楽しい祈りのプログラムを用意しています。その一つは、岡本信弘先生の特製餃子です。また韓国ミッションを意識して、キムチも食べます。
 しかし先週は中国で大地震があったので、餃子も楽しく食べることができないかもしれません。
 今、私の両親と娘が台湾で奉仕しています。台湾と日本は大変深いつながりがあります。台湾は世界で最も日本語が通用し、親日国です。ですから台湾は大変重要な場所です。甲子園ミッションの時にも、台湾から多くの方が来てくださいました。私の両親の世代は、多くの台湾教会ともつながりがありましたが、そのような先生方も徐々に亡くなられたり、引退されています。今日も台湾教会で集会が行われています。ぜひお祈り下さい。私たちは中国関係を真剣に祈る必要があると思います。

 同時に、地震の怖さを知らされます。日本もいつ何時、同じようなことが起こるかわかりません。私たちは国の守りを祈らなければなりません。中国の四川省で起こった地震は、日本と全く無関係ではなく、日本でも地質学的に同じような状況があると言われています。
 そして日本のリバイバルについて考えるとき、日本だけにとどまるものではなく、諸国のために祈らなければなりません。そのような中、日本のリバイバルも位置づけられると思います。

 日本人はこの日本列島に太古の昔から住んでいるように考えていますが、実はそうではなく、皆、渡来人です。聖書を見ると、神様は人種を創られませんでした。白人、黄色人、黒人というようには創られませんでした。皆同じ肌の色の国民でした。そして言語も今あるような五千、六千とは創られませんでした。一つの言葉で同じ場所に住み、人々は幸せに暮らしていました。
 しかしある日、人々の言葉が乱れ、散らされていくという事件に遭遇しました。それ以来、人類は世界各地に散らされ、気候・風土と関連し、肌の色も徐々に変わったのです。その証拠として、肌の色が違う同志でも結婚でき、結婚したら中間色の子どもが生まれます。これは神が色を分けて人類を創造したのではない、何よりの証拠です。今は肌の色、語る言語などで差別があり、乱れた世界となっています。

 漢字は、ネストリウス派のキリスト教である「景教」の影響を受けています。「乱」という漢字は、左側に「舌」があり、右側に釣り針のような部位がありますが、これは右足を表しているようです。舌がもつれて、人が移動していった様子を現しているのです。これが聖書の中の「バベルの塔」のストーリーです。創世記十一章一節から九節に、

『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。』

 「乱」という漢字は舌と足で構成されていますが、バベルの塔で舌がもつれたこと、互いに言葉が通じなくなったことにより、人類は世界中に散らされました。
 さて、神様が最初の人類アダムとエバに教えた言語は、何語であったのでしょうか。神様はどんな言葉を、最初の人類に教えたのか興味があります。

 元々言葉は、神の領域に属するものでした。神が「光よ。あれ」と言われると、光ができました。神様は六日間で天と地と海と、その中に住むすべてのものを創造されたのは、金槌やノコギリで創造したのではなく、言葉によって創造されました。「光よ。あれ」「山よ。生まれよ」「海よ。出てこい」と言葉によってすべてを創られました。
 そして最後に人間が創られました。神様は、自分が使っていた言葉の一部をとって、アダムとエバの口に授けたはずです。そうならば、最初人類が神様からいただいた言葉は、相当パワフルであったはずです。なぜならば、天地創造のために使っていた言葉の一部を、人間に授けたのですから。今まで創造のために使用していた、湯気が立っているような言葉の一部を人間に与えたはずです。すごいパワフルであったと思います。
 その証拠に、アダムとエバは神様とも、蛇である悪魔とも、自由に会話ができました。今私たちは、祈りによって神様と会話をしますが、アダムとエバのように神様と顔と顔とを合わせて会話できるような状況ではありません。
 イザヤの時代もそのようではありませんでした。なぜならイザヤは、「神の顔を見たから、死んでしまうかも知れない、私の唇は汚れている」と語っているからです。イザヤの時代とアダムの時代を比べてみても、相当な開きがあります。

 人類は神からもらった言葉のパワーを失っています。その原因となったのが、人間が行った一つの行為でした。神様がそれをご覧になり、「これはやばい。これを止めなければ、たいへんなことになる!」と言われたことにあります。創世記十一章六節から七節に、

『主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」』

 ここに、『このようなことをし始めたのなら』とあります。どのようなことをしたのでしょうか。
 それは神様から授けられた強力な言葉を使って、一つの行為をし始めたのです。それがあまりにも危険な行為だったので、神様はその行為に対してストップをかけました。
 リビングバイブルで読むと、その中で行われたことがよくわかります。創世記十一章三節から4節に、

『やがて大都市を建設しようという話が持ち上がりました。 永遠に残る記念碑として、天にも届くような塔の神殿を造り、自分たちの力を見せてやろうというのです。「こうやって一致団結すれば、あちこちに散らされる心配もなくなるというものだ。」 そう豪語すると、人々はよく焼いた堅いれんがをうずたかく積み上げ、アスファルトを集めてモルタル代わりにしました。』

 塔を建てて塔の頂上に「神殿」を作り、悪霊を呼ぶ行為、降霊術・シャーマニズムを始めたのです。それを見た神様は、「ちょっと待って。これを始めると人類は大きな危険にさらされるから…」とストップをかけました。
 言葉がバラバラになった原因は、人間が神様から預かった強力な言葉を使い、自分たちの名を上げるために、神ではなく、サタンと関係を持ち、そこからさらなる力を得て、自己実現を果たそうとした行為でした。この行為に対して、神はストップをかけられたのです。

 バベルの塔から東の方向に移動していったのがアジア人です。それは私たちの祖先です。
 考古学によると、世界で最も古い文明はバビロニアに起こった、メソポタミア文明であると言われています。そんな中で更に古い文明は、シュメル人が築いた、シュメル文明です。彼らは歴史に突如として現れ、最高の文明を築きました。それはバベルの塔の周辺の人々ではないかと思われます。言葉は元々神が与えた純粋なものでしたが、その内容が徐々に変わってしまいました。

 今私たちは日本語を使っていますが、当然のように使っている日本語も、本来聖書の神を礼拝し、表現するためにはふさわしくない言葉がたくさん含まれています。
 例えば、「神様」という用語を、日本人ならば誰でも使います。クリスチャンならば、天地万物を創られた神を意味します。しかし、一般的には、「八百万の神々」をイメージします。今日も御霊について話していますが、そもそも「御霊」という言葉はどうでしょうか。靖国神社に行くと、「戦争で亡くなった二百数十万柱の御霊」と同じ御霊という言葉を使っています。また御霊神社という神社も各地にあります。そうしてみると、私たちが普段使っているキリスト教用語も、「汚れたくちびる」という事できます。
 英語もギリシャ神話が語源になっている言葉が多くあります。英語が日本語になった言葉もたくさんあります。例えば、「パニック」という言葉を日本人はよく使います。この言葉はギリシャ神話の中に登場する、「パン」という神からきています。
 「パン」という神は森の中でよく寝そべっています。しかしそれを誰かに邪魔されたりすると、パンは辺り構わず大音響を立てて暴れまくり、人々に迷惑をかけるというのです。普通は穏やかですが、何かあると大音響を発する神として描かれています。そこから「パニック」という言葉ができたと言われます。私たちは「パニック」と簡単に使っていますが、それはパン神と同じことをしているという意味になります。それは汚れたくちびるです。

 今日午後から、短いセミナーがありますので、ぜひご参加下さい。それは東アジア一帯の宗教観について話します。私たちが「当然だ」と考えている事柄が、実はバベルの塔から派生した、サタンによって教えられた知識を、自分の知識としている場合が多くあります。
 先日も話したように、日本人が「仏教」と言っていますが、中身は「儒教」です。先祖崇拝は仏教ではなく、儒教から来ています。儒教の中心を「考」と呼び、先祖崇拝です。
 もう一つ儒教の重要な要素は、「礼」です。日本人は礼儀を重んじます。アメリカやヨーロッパと比べると日本は礼儀正しい国です。それは悪いことではありません。互いに尊敬し合うことは悪いことではないので、今から話す事柄に関して、誤解しないでください。しかし、そのような背後にも、悪魔の策略があることに気づくことが大切です。

 ある本に、日本人の儒教的概念は、日本人の言葉遣いにあるとありました。日本語には、目上の人に対する尊敬語があります。また、ご主人が奥さんに対する言葉、子どもたちに対する言葉、友だち用語、自分よりも年の若い人たちに対して使う言葉と、様々な表現を使い分けています。それも一瞬にして自分と相手のポジションを見極めた上、どの言葉を使用したらよいのかを決めています。ある人には服従するような丁寧な言葉、ある人には圧力をかけるような言葉を瞬間的に区別して用いています。それは生まれ育った環境の中で、自然と身に付いています。ある意味で、それにより社会的秩序が保たれているところもありますが、実はその概念は儒教から来ており、縦型のラインをしっかりと固定することにより、人が人を支配し、支配される構造を作り、最終的には先祖崇拝へ向かわせる力となっているのです。
 丁寧な言葉を使うのは良い事ですが、そんな中で、誰かを差別したり、傷付けたりするのは、儒教的考えから身に付いているものです。私たちは日本に住んで、言葉遣いなどのシステムを壊すことはできませんが、それらが元々神が教えた言葉ではないことに気づくことが必要です。

 聖書を見ると、「キリストがかしらでひとりひとりは各器官」とあり、みんな平等なのですが、上下関係でプレッシャーをかける、力関係の言葉を使っていることが多いのです。もちろん、尊敬することは良いですが、誰かを言葉で差別したり、優越感を持ったり、また劣等感を持ったりと、それらは儒教的な影響です。日本語がそのような影響から来てることに気づくならば、私たちのくちびるは聖霊の火によってきよめられます。
 誰に対しても「自分よりもまさった者と思いなさい」と聖書にあるので、力関係の言葉遣いではなく、キリストの各器官としての言葉遣いが大切です。各自、心持ちを変えていかなければなりません。

 アジアは三つの宗教が力を持っています。それは、「仏教」、「儒教」、もう一つ「道教」です。道教と言ってもピンと来ないのですが、道教の影響も強くあります。
 日本語の中でよく使われる言葉があります。それが¢気£という言葉です。「元気、気の毒、気配り、根気、気が狂う、気が塞ぐ、気が小さい、気が弱い、人気がある、天気、病気、殺気、気配、気分、雰囲気、勇気、陽気、陰気、気が合う、気に入る、気がつく、気が遠くなる、やる気…」など、「気」がつく言葉を多く使っています。
 去年のハワイリバイバルミッションのテーマソングは¢勇気を出して」という賛美でした。「気」という概念は、道教から来ています。それは世界は気によって成り立っており、気を集めることによって人は幸せになり、気を集めると竜を手なづけ、竜が何でも言うことを聞いてくれるという考えに基づいています。
 アニメに『ドラゴンボール』がありますが、それは道教的世界観をうまく表しています。「勇気を出して」というのは、道教的には、「勇ましい気を出す」という意味になります。しかし、日本語としてどうしても使わざるを得ません。
 このような現実に気づくと、神様が元々人類のくちびるに与えた言葉とは、大きく異なっていることがわかります。まさしく、汚れたくちびるの民と言えます。私たちはそのような世界から抜け出ることができませんが、「気づく」ことが大切です。

 私は「汚れたくちびるの民の間に住んでいた!」とイザヤが気づいたときに、燃えさかる炭火がくちびるにつき、どんな言葉を語っていても、「あなたの唇はきよめられた」と言われました。そして、この言葉を通して奉仕できるのです。
 日本語を分析してみると、たくさん汚れた言葉、偶像礼拝とつながる言葉があります。私たちは汚れたくちびるの民の間に住み、自らも使っています。
 しかし聖霊の炎が私たちに触れる時、「あなたはきよめられる」とあります。ペンテコステの出来事は、分かれた炎のような舌が人々の上にとどまったとありますが、バベルの塔で失った言葉のパワーをもう一度回復する働きであったと思います。

 イザヤが唇の汚れに気づいたときに、聖霊の火が下りました。普段使っている言葉によっても、主の言葉を語ることができるようになりました。s
 同じように日本語がいくら様々な神々とのつながりがある言葉であっても、聖霊の火によってきよめられた言葉となるのです。回復された言葉を持つものとして、主に遣わされる者になりましょう。

 「主よ。唇をきよめてください」とは、私たちの使う言葉に気をつけることと同時に、一歩進んで、「私はくちびるの汚れた民の中に住んでいる」と、何気なく使っている言葉も、神が人類に最初に与えた言葉とは遠く離れていると気づくことが、聖霊の炎をいただくための重要な条件であると思います。

 また今週は、「この六日間に、一つのことが完結させてください」と祈りましょう。神様が使われた言葉は、六日間で天と地とその中に住むすべてのものを創造するほどに力がありました。私たちも言葉を回復していただいて、主と交わるならば、同じ事が起こされると期待します。
 また自分自身が常に使っている言葉で人を傷付けたり、差別したり、劣等感を持っているならば、今日はそれをきよめていただき、人の徳を高めることができるように祈りましょう。お祈りします。


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