問題を解決する神の法則


2008.6.1(SUN)
新城教会牧師 上條実師

旧約聖書 イザヤ書 58章6節〜10節
わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。

 ハレルヤ!皆さんのお祈りに支えられ韓国から無事帰ることができたことを感謝します。お祈りいただきました韓国リバイバルミッションの説明会は、私たちを含めて六十名ほどの先生方が集まられました。今回集まって下さった韓国教会の先生方は、長老格的な、大きな教会の牧師や韓国を代表する牧師先生方が集まってくださいました。韓国リバイバルミッションをできれば来年の五月最終週ぐらいにできたらと考えています。これから話し合いがなされて、少しずつ決定していくと思います。是非神のみこころがなされるようにお祈り下さい。説明会後に、ある方々とお会いしました。それはキム・ウヒョンという映画監督の方と交わりました。今年七月十九日から二十二日まで、韓国の教会からこの教会に七十名程の方が来られることになっています。今韓国では日本のために祈るようにと神さまから示され、映画監督の方を中心に一昨年から、日本に自分たちで来られてとりなしの祈りをされているそうです。去年と一昨年は長野の方で祈られ、昨年は韓国から三百五十名を引き連れて祈りに来られたそうです。そして昨年「次はどこに祈りに行けば良いでしょう」と祈っている時、神様が「新城教会に行きなさい」と言われというのです。そして来月七十名が自費で新城に来てくださり、日本のために祈り、とりなしてくださるそうです。今韓国では、日本のために祈る祈とう会が行われているそうです。映画監督の方を中心に、毎週月曜日、日本のために祈る祈とう会を百名から百五十名ほどが集まっているそうです。日本を愛して本気で祈ってくださっています。今日の礼拝後、韓国のとりなしをしようと計画しているので、何か韓国のおみやげがないかと相談すると、「日本の方が韓国のためにとりなしてくれるのならば…」と言って、大きな段ボール四箱お菓子をプレゼントして下さいました。また夜は李浩文牧師の教会に訪問し徹夜祈とう会に参加させて頂きました。その教会は五千人が入る会堂で、二万人から二万五千人の教会員が出席されているそうです。韓国は今約二十五パーセント、四人に一人がクリスチャンだと言われています。しかし李牧師が牧会されている仁川市は三十五パーセントの方がクリスチャンだそうです。仁川市から国会議員が十二名選出されており、その内十一名がクリスチャンだそうです。また仁川の市長さんもクリスチャンだそうです。その市長は李牧師の教会役員であるようです。再近徹夜祈祷会は人が集まらないと言っておられましたが、集まられた方は千名以上でした。日本のために真剣に祈ってくださいました。私たち日本人は韓国の方々に戦争などを通して多くのご迷惑をかけてきました。しかし今韓国の方々が、日本のために祈ってくださっています。リバイバルミッションが「韓国」で集会をしようと祈って決定し、その話を持って行ったように思いますが、今回韓国に行ってみて、私たちの祈りではなく、韓国の方が日本のために祈ってくださったことの答えが、今度のリバイバルミッションであるように感じました。韓国の方々が私たちのために祈ってくださっているのなら、私たちがもっと韓国のために祈る必要があることを覚えます。ぜひ午後の時間、韓国のためにお祈りしましょう。さて今日は「問題を解決する神の法則」というタイトルで学びたいと思います。イザヤ書五十八章三節に、

『「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。』

「私たちは断食したのに」と記されています。断食するということはなにか真剣に祈る事柄があるから祈ります。多くの祈りの課題、問題、病気などがあるため、私たちは断食の祈りをします。三節に、「私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」とあります。断食して真剣に神様に取り組んだのに、なぜ祈りは答えられないのですか?身を戒めて生活したのにどうしてそれを認めてくださらないのですか。と神さまに不満を漏らしています。私たちは断食して祈り、奉仕をし、聖書を読み、徹夜の祈り会に出席し、また献金を普段より多くささげ、霊的戦いの祈りを真剣にし、地域でもクリスチャンとして戦ってきたのに、なんで問題が進んでいかないのだろうか?解決しないのだろうか?なぜ主は認めてくださらないのかと神さまにぼやいています。その時にイザヤ書五十八章六節に、

『わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。』

とあります。わたしの好む断食。それはこのみことばの後半を読むと、悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか、これは霊的戦いを意味していると思います。この日本は悪魔、悪霊に支配されているかのようです。韓国へは飛行機で二時間で行ける距離です。韓国は人口の二十五パーセント、また仁川市では三十五パーセントほどの人々がクリスチャンだと言われます。しかしこの日本は〇・二パーセントという微々たるクリスチャン人口です。なぜこんなに違うのだろうかと思います。私たちの教会に霊的戦いが始まってわかったことは、この日本には霊的に悪魔、悪霊の力にスッポリ覆われてしまっていると思います。今新聞やテレビの報道を見ると、誰が見てもこの国は純情な事態ではありません。刃物で人を脅して傷付けたり、人を殺して切断したりなど、そんなことは誰が考えても普通ではできないことです。まさに終末の時が近づいたのではと感じます。霊的に戦いがあることを知れば知るほど、この日本は霊的に覆いがかけられ、悪魔、悪霊の力にスッポリ覆われてしまっていると思います。くびきがはめられ、人々は自由の身ではなく、不自由の身になって多くの問題を持っています。しかしみことばは『わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。』とあります。私たちの窮する祈りに必要なことは霊的戦いです。霊的にくびきやなわめが解かれ、私たちの日本に覆っている暗闇が破られるように祈ることを主が好んでいることを覚えましょう。霊的戦い。これこそが問題を解決する神の法則の一つであると信じます。もう一つのポイントがあります。それはイザヤ書五十八章七節に、

『飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか』

とあります。飢えた者にはあなたのパンを分け与えなさい。また家のない貧しい人々を家に入れて、裸のものを見て着せなさい。またあなたの肉親の世話をしなさいと言っています。この箇所から「問題を解決する神の法則」は霊的戦いとともに愛が必要であることを見ることができます。私たちの霊的戦いのベースは十字架の愛です。イエス・キリストの十字架、罪の赦しがなくては戦うことができません。イエス・キリストを信じたことのゆえに、イエス・キリストの十字架と復活により救われ、そのイエスキリストの名前によって祈ることができる。イエスキリストの名前には権威と力があります。そのイエス・キリストの愛を受け取るだけでなく、愛を行うことが「問題を解決する神の法則」です。ルカ十章二十七節に、

『すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」』

とあります。ここでは「神を愛する」と同時に、「自分自身のように隣人を愛しなさい」と記されています。またマタイ二十五章三十五節から四十節に、

『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

とあります。愛について教えています。私たちは神に愛をいただいている者として、愛の行いをする器になりたいと願います。神は愛ある行動の中におられることを覚えてください。有名なトルストイという作家が『靴屋のマルチン』という本を書きました。靴屋のマルチンは本当のタイトルではなく、『愛のあるところに神もある』というタイトルだそうです。靴屋のマルチンのストーリーは皆さんご存じだと思いますがストーリーをご紹介いたします。

『くつ屋のマルチンは ひとりぼっちで淋しく住んでいました。彼の最愛の妻は、はやく病気のために死んでしまいました。それからは、残された一人の息子とふたりで生活していました。ところが、その息子も病気のために死んでしまったのです。マルチンは何のために生きているのか、生きる望みもありませんでした。ある日、見かけたことのない人が入ってきました。その人は旅を続けている老人でした。マルチンはこの老人に自分の受けた不幸を話し、自分は何のために生きているのかわからない、神様なんかいないと語りました。老人はマルチンの話を泣きながら聞いてくれました。そして、「それでも神様はあなたのことをご存じですよ」と言いながら、聖書を一冊残して、「これを毎日読み、神様にお祈りするといい」と教えてくれました。マルチンはそれから一生懸命に、神様のことを考え、聖書を毎日読んで「神様がもし本当におられるのでしたら、私の所に来てください」と祈るようになりました。ある日のこと、確かにだれかの声を聞いたように思いました。「マルチン、明日通りをよく見ていなさい。お前の所に行くから。」マルチンは「これは夢だろうか。それとも神様のお告げなのだろうか。」と思いました。翌朝、マルチンは昨晩の出来事を思い出しながら、神様を迎えるために、ストーブに火をつけ、お湯を沸かし、部屋を暖かくしました。それから仕事をはじめましたが、昨晩のことが気になって、なかなか仕事に身が入りません。いつもあまり通りを見ていませんでしたから、こうして通りをよく見てみると、色々な人たちがいます。その日は特に寒い日でした。やがて通りの雪かきをする、おじいさんが、寒そうに歩いて来ました。マルチンは久しぶりに、おじいさんに温かい紅茶でもご馳走しようと思いました。おじいさんは嬉しそうに、マルチンの家に入って来ました。それで、温かい紅茶とクッキーを出してあげました。しばらくすると今度は赤ちゃんを抱いた女の人が、この寒さの中、オーバーも着ないで町を歩いていました。そしてマルチンの家の窓の側に来て、うずくまってしまったのです。知らない女の人でした。それを見てマルチンは大急ぎで声を掛け、二人を家の中に入れて、暖炉の側に座らせました。「暖まったら赤ちゃんにお乳を飲ませなさい」と声を掛け、台所に行って、朝からお客さん用に準備をしたパンとシチューを食べさせました。そしてマルチンは自分が持っているオーバーを、その人に着せてあげました。辺りが暗くなった頃、一人のおばあさんがマルチンの窓の前に、重そうなかごを肩から降ろして、座り込んでしまいました。かごにはリンゴが入っていました。すると、見窄らしい少年が歩いてきました。少年はリンゴ売りのおばさんの前に来ると、突然手を出し、かごからリンゴをひとつ取ると、さっと逃げ出しました。リンゴ売りのおばさんは、「泥棒!」と叫びました。マルチンは大急ぎで通りに出て行って、少年を捕まえました。そして二人の間に入り、おばあさんには、「赦してあげてください。」また少年には「おばあさんにちゃんと謝りなさい。もう二度とこんなことはしない。」と話しました。少年は素直におばあさんに謝りました。マルチンはかごの中からリンゴをひとつ取りだし、「この代金は私が払うからお食べ」と少年に差し出しました。辺りはもう暗くなりました。マルチンはランプを灯し、仕事場のあと片付けをして、いつものように棚から聖書を取り出しました。すると突然、後ろにだれかが近づいてくるような気配を感じ、こういう声が聞こえました。「マルチン。お前にはわたしがわからないのかね。」「どなたですか?」とマルチンは聞きました。「わしだよ」と声が聞こえました。「ほら、わしだよ」雪かきのステパノじいさんが出てきて、にっこりと笑い、雲のようにもやもやっとなって消えていきました。「これもわしだよ」赤ちゃんを抱いた女の人が出てきて、にっこりすると赤ちゃんも笑いだし、これもじきに消えてしまいました。「これもわしだよ。」と、おばあさんとリンゴを手にした男の子が出てきて、ふたりはにっこりしたかと思うと、同じように消えていきました。マルチンの心は喜びでいっぱいになりました。』

心温まるストーリーです。愛のあるところに神もいます。私たちの日常生活の中で、いつも神が訪れてくださっている時があります。私たちは問題ばかりを見ていると、自分のことしか見えなくなってしまいます。しかし主は私のために犠牲を払ってくださいました。私たちはその愛をいただき、その愛の中で生かされています。今日「「問題を解決する神の法則」のひとつは霊的戦い。そして愛の生活が「「問題を解決する神の法則」のもう一つは「自分自身のように隣人を愛しなさい」です。自分のために祈ることは罪ではありません。さらにお祈り下さい。それと同時に「自分自身のように隣人を愛しなさい」とあります。ですから、あなたが一歩愛の行動を始めたとき、主が動き始めることを信じて下さい。私たちは自分の住んでいる地域のために祈っています。わたしが今住んでいる地域は、新城市豊栄という場所です。行政区では「諏訪」という行政区です。因習の深い所です。
私は私なりにこの豊栄地域を愛して祈ってきたつもりでした。しかし神社の祭りの寄付があったり、偶像の関係する出来事があると、「自分と家族が守られるように」という祈りと「地域の人の霊的な目が開かれるように」いう祈りをよくしていました。しかしつい最近、地域を愛するということはこういうことなんだと教えられた出来事がありました。それは私の家に四男「恵太」がいます。彼は小学校一年生になりました。通学の集合時間が七時半なので、地域の方も仕事に出かける時間と重なります。ある時は道路の真ん中を歩いたりして、通勤の車が通られないほどの時があります。地域の方が各交差点に立って下さっていますがそれでも危ない時があるみたいです。ですから運動のためにと思い少しの間恵太たちと一緒に歩くことにしました。子どもたちが右往左往したら、「車が来た」とか、「危ない!」とか、うるさい親父をしながら、一緒に歩いています。歩き始めて三日目のことでした。ある交差点に行くと、地域の区長さんがおられ、「ああ、上條さん!これ差し上げます」と言って私に一つのものを渡してくださいました。それは黄色の帽子で「安全、安心、新城市」と書かれている帽子です。子どもたちと一緒に歩いていると不審者に見られるのでしょう。だから私はその帽子を持って、私はその帽子を手に持って帰りました。行きに出会った人が「この人、誰?どういう人?」という目で見ていましたが、黄色い帽子を持っているだけで、地域の人がなぜか挨拶をしてくれるようになりました。そして今まで中学生は、私を見ても振り向くこともなく、逆の方に横断してさけられていましたが、女の子でさえ私に「おはようございます!」と挨拶をしてくれるようになりました。不思議です。その帽子を持ってから変わったのです。次の日から毎日その黄色い帽子を持って歩いています。すると、今まで話したこともなかった地域の方からも声を掛けてくれるようになりました。「仕事は何をしているかね?」と聞かれ、「教会の牧師です」と言うと、「牧師さんかねぇ。時々新城教会ニュースが折り込みに入っているねぇ」と言ってくださり、色々な方と交わりをすることができるようになってきました。また地域の人たちが交通整理をした後で、地域の諏訪神社に上がっていきます。そして毎日拝んで帰って行きます。私はクリスチャンであり、牧師です。地域を愛して祈っています。しかし見えていませんでした。地域の人たちが毎日拝んでいることを知ったとき「自分は地域のために祈っていると言っても、忘れてしまうときがある。しかし地域の人は毎日悪霊礼拝している」こと知りました。また私の地域に、首のない地蔵があります。新しいよどかけや帽子を常にして、一生懸命拝んでいる人を見ます。自分があまりにも愛の行いがなかったこと、口では「地域を愛しています」と言いながら時々しか祈っていたことが「これは本当の愛ではない」と思いました。そして自分がクリスチャンとして予防線を張り、戦いの中で「私はこれ以上近づかないよ。遠ざかってください」としています。そして守られたら、「感謝します。戦いがありましたが、守られたことを感謝します」と喜んでいます。しかしそれが本当の愛なのかと思わされました。決して妥協しなさいといってはいません。霊的に戦って行かなくてはなりません。しかしそれだけでなく、私たちが毎日の生活の中で「隣人を自分自身のように愛しなさい」と言うことを実践する。愛の実践が必要だということを知りました。今韓国では、日本のために真剣に祈ってくださる方がいます。今韓国では先ほどお話しした映画監督の方を中心にして毎週月曜日に、百名から百五十名程の方が、日本のためにだけをテーマにして真剣に祈ってくれています。またある方はこの新城教会のために毎日祈ってくれているそうです。日本は過去戦争やその他のことで多くの方を傷付け、殺したという痛ましい過去があります。普通ならば赦せないことをしてしまいました。しかしそのような敵国であった日本を愛して、毎週祈って下さっている。私は韓国のことをどれだけ愛しているかと考えれば、韓国でリバイバルミッションをするという話が出てきたため、祈るようになったがしかしどれだけ愛しているだろう?愛がない者だと思いました。韓国の方は今度日本を愛して自費で新城に来て恵みを受けたい、日本のため、新城のために祈りたいととても期待していて下さるのです。しかし私たちは韓国のためにとりなしの集会がある時だけ祈り、あとは全く忘れてしまっています。自分のことしか祈っていません。先週の礼拝で「韓国のリバイバルが日本のリバイバルにつながる」と話されていましたが、全くその通りだと思います。「隣人を自分自身のように愛しなさい」私たちが韓国を愛し、まず自分ができること、今まで関心がなかったところ、何も眼中になかったことに関心を持ち、靴屋のマルチンが自分の仕事ばかりをしていましたが、通りを見はじめときに神に出会えたように、愛の行いが「問題を解決する神の法則」として働き始まります。今まで見なかった部分が見え始める時「ここに愛を置きなさい。愛しなさい。祈りなさい」と主が語ってくださいます。愛の中で祈り始めると、行動し始めると問題が解決し、病やすべてのことが動き始めます。自分のことは主にお任せしましょう。しかし私たちは自分のことを祈らないと不安になってしまいます。祈らないとイエスさまが聞いて下さらないように考えてしまいます。自分のことを祈らないと不安というのも暗闇の力です。私たちは「イエスさま。あなたに任せます」と祈って下さい。隣人を自分自身のように愛しましょう。イザヤ書五十八章八節に、

『そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。』

戦って愛を行っていくとき、神が暗い自分に地域に、問題に病に、暁のように光を照らしてくださり私たちの傷が癒されていきます。今多くの方が傷を持っています。苦しんでいます。その傷がいやされるのです。主が傷を癒してくださいます。また十節に、

『飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。』

リバイバルミッションのテーマになったみ言葉ですが、「あなたの光は闇の中に輝く」とあります。主の光が闇の中に輝いてくださるのです。そしてそれもただの光ではなく、「あなたの暗闇は真昼のようになる」とあります。昼間にまっすぐに歩けと言われたら、簡単に歩くことができます。しかし真っ暗な夜道ならば前が見えず、進むことができません。霊的戦いと愛の行いを通して真昼のようになります。十一節に、

『主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。』

骨が枯れたように状態でも、焼きつくような土地でも、産物が取れない状況であっても、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになるというのです。私たちは何も祝福がもらえない、どうして祈りは答えられないのかと訴えていました。霊的戦いと愛の行いが「ここは潤された園のようになり、水のかれない源のようになる」状況となります。十二節に、

『あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。』

とあります。六日間で神が天と地を創造されました。私たちも権威を持って祈りましょう。「廃墟を建て直し、古代の礎を築き直し」とあります。霊的戦いと愛の行いによって破れを繕う者、町に住めるように回復する者ものとして下さいます。韓国のリバイバルミッションのために祈ってください。またささげて下さい。またとりなししてください。七月に来られるときには一緒にお祈りしましょう。問題が、祈りの課題が人手によらず、主が解決してくださいます。「主の栄光があなたのしんがりとなられる」と読みました。あなたの後ろに主の栄光があります。ということは私たちにはいつも祝福だけです。問題を解決する神の法則は霊的戦いと愛の実践であることを知り、今から行いましょう。お祈りします。


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