最も大切なこと


2008.6.8(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

マタイの福音書 22章34節〜40節
しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日こうして、新城教会でメッセージを語れますことを感謝します。
 先々週は、「韓国リバイバルミッション」の打ち合わせに韓国へ出かけ、また先週の日曜日には仁川にある教会で奉仕しました。礼拝には千名ほどの方々が来られていました。大変素晴らしい礼拝を持たせていただきました。皆さんのお祈りを心から感謝します。

 また、先週は中高生の集まり「レッツプレイズ」があり、約200名の中高生が集まりました。この教会は若い方々からお年寄りまで、共に集まり神を賛美できることを感謝します。教会のホームページで、毎週語られているメッセージを読むことができますので、ぜひお読み下さい。またいろいろな催しの様子も、フォト・レポートとして見ることが出来ます。

 今日は皆さんと共に、「最も大切なこと」というタイトルで学びたいと思います。聖書は厚い書物なので、この中から真理を見出すことは難しく思うかも知れません。しかしイエスさまは、この厚い聖書を、二言でまとめてくださいました。
 パリサイ人たちが、イエスさまを試そうとして次のように尋ねました。マタイ二十二章三十六節から四十節。

『「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』

 イエスさまは分厚い聖書の中身を、二つの言葉でまとめました。第一に重要なことは、「神を愛すること」。また、それと同じように重要なことは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と言われました。
 要約すると、聖書の教えの中心は、「神と人を愛すること」になります。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているとイエスさまは語られました。

 まず第一に知らなければならないことは、「神を愛する」ということです。
 日本人には、「神を愛する」という考え方が備わっていません。なぜなら、日本の神々は、おおよそ怖い顔つきをしている神々ばかりだからです。神から愛してもらえるとは、とても考えられません。誰が不動明王や千手観音に愛してもらいたいと思うでしょうか。千本も手があるような化け物と、一緒に新城銀座を歩きたいとは思いません。
 日本の神々は、一生懸命拝めば神になるけれど、ちょっとでも拝みが不足すると鬼になるという、「神にもなれば、鬼にもなる」存在です。

 しかし聖書の神様は、恐ろしい神ではなく、私たち人類を愛していると教えています。本当の神とは天地を創り、人間を創られたお方ですので、人間に害を与える存在であるはずはありません。もしも、言うことを聞かなかったら害を与えるというのなら、それは神ではなく、神の振りをした化け物であり、悪魔・悪霊たちです。
 本当の神様は、私たちを愛してくださっています。今日ここにおられるお一人一人を、神は豊に愛しておられます。そして一人一人を大切に思ってくださっています。

 神の愛は、どうしたらわかるのでしょうか。それは心を開ことです。ここには結婚されている方が多くおられますが、結婚するときご主人となる方が、「愛します」と言ってくれた言葉に心を開き、自分からも愛を返したので成り立ったと思います。全く愛のない結婚は成り立ちません。
 同様に、神様から、「あなたを愛してますよ」と語られたら、あなたが心を開くなら、神の愛がわかります。

 神の愛を知るとき、人生は変わってきます。そもそも人間に愛情があるのは、創造主なる神が、愛という性格を持っておられる証拠です。皆さんにも愛情があると思います。
 「私には愛情なんて一欠片もありません」となどと言う、ひねくれた人に出会うことがあります。しかしその人の部屋に行ってみると、小動物などを飼っていて、話しかけながらピーナツを上げたりしています。人間は動物に愛情を表したり、人を愛したりします。
 そのような性格はどこから来たのかというと、神から分与されたものです。しかし人間は神の愛の片鱗を貸していただいているだけで、完全な愛は持っていません。完全な愛は神さまが持っておられます。私たちは不完全ですが、完全な愛を持っておられるお方につながる時、神の愛により、人をも愛することができるようになるのです。

 「人を愛する」と聞くと、愛しやすい人もいれば、愛しにくい人もいます。皆さんの周りにも愛しやすい、受け入れやすい人もいれば、逆に、あまり心を開きたくない、愛したくないと思われる人もいるかもしれません。そのような人たちに対して、どうしたら良いのでしょうか。それは、完全な愛の持ち主を知らなければ、愛することは不可能です。

 今日お読みしたマタイ二十二章と関連し、同じことがルカ十章二十五節から記されています。二十五節から二十八節、

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

 ここでは、「この二つの事柄を実行したらいのちを得る」と記されています。神を愛すること、人を愛することを実行したら、「いのちを得る」というのです。
 聖書が教える「いのち」とは、究極的には「永遠のいのち」です。
 聖書は、死後の世界観について、はっきりと啓示しています。それは、イエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちに生きることができると教えています。

 日本の諸宗教は死後の世界に関して、ほとんど曖昧です。現世については話しますが、永遠の世界については曖昧です。
 例えば日本の仏教は、輪廻なのか、先祖崇拝なのか、はっきりしていません。本来仏教は輪廻思想が元となっているはずですが、先祖崇拝もしています。輪廻は一度死んでも、またこの地上に戻って来るという設定です。四十九日が済むと、またどこかに宿って一年後にはこの地上に戻って来るというものです。そうすると、先祖はいないはずです。なぜなら皆、生ける世界に戻ってくるからです。そこから解脱するのは容易でありません。

 しかし日本人がやっていることは、輪廻を片方で意識しながらも、一方では先祖崇拝を真剣にしています。先祖崇拝とは、先祖の霊が近くにウロウロしているという前提です。先祖の霊達は、輪廻もせずに漂っているという考え方です。しかも、先祖の霊たちをよく拝まないと、それらは祟る存在に変化するようです。何か問題があって、占い師の所に行くと言われることはただ一つ、「あなたの先祖が祟っている。一生懸命先祖崇拝をしなさい」。
 拝まないと先祖は鬼になってしまうようです。この教えは仏教ではありません。これは儒教から来ています。
 最近私に面白い友人ができました。それは、現役の坊さんです。先日彼が我が家に遊びに来てくれました。私は、「仏教を分析するとほとんど中身は儒教ですが、仏教という名前はおかしくありませんか?」と質問しました。すると、彼は「そうなんです。わかっています。だから私は檀家の皆さんに、仏教と言いますが、実は儒教ですと説明している」と言われました。
 私は、「仏教と名乗るなら、原始仏教を意識しなければいけないのでは」と言うと、「そうですね。一時努力してみましたが諦めました」と言われました。仏教も、曖昧なものです。私は、彼の救いのために祈っています。

 輪廻といっても、この地上は「苦の世界」という設定です。地上からよく拝んでもらえないと、人間に生まれ変われるとは限りません。畜生や鬼の世界に生まれ変わるかもしれないのです。
 さて皆さんは、永遠の輪廻のサイクルにはまりたいのか、鬼になって現実の世界の人たちを祟る存在になりたいのか、それとも、死も苦しみも悲しみもない天国で、永遠に神と共に過ごすのが良いのか、選択しなければなりません。

 永遠のいのちを受けて、永遠に神と共に過ごす方がずっと良いはずです。聖書の死後の世界は曖昧ではありません。はっきりと、永遠の世界があると告げています。
 そして、永遠のいのちを受けることは難しいことではありません。一生懸命、業を積んだり、努力して悟りを開いたらやっともらえるのではなく、神と人を愛するなら、永遠のいのちに入ると教えています。
 神に愛され、神を愛し、そして、人を愛するという喜びの関係の中で、永遠のいのちを得ることができるのです。

 またいのちとは、やがて受ける永遠のいのちだけではなく、いのち溢れる人生も含んでいます。
 特に神を愛することと共に、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』というみ言葉が、いのちにつながるための鍵です。このみ言葉をしっかりと受け取ることが大切です。
 いのちとは、病からのいやし、こころの解放にもつながります。自分のいやしのためにも、自分と同じように、隣人を愛することを学ばなければなりません。

 現代人を調べると、八十パーセント以上が、何らかの劣等感と、低い自己評価で苦しんでいると言われます。皆さんの中にも苦しんでいる方がいるかも知れません。
 聖書に、「隣人を自分と同じように愛しなさい」とありますが、隣人とは、自分自身をも含んでいます。自分自身を愛するとは、ナルシストのように自分を賛美するという意味ではなく、人生は神からいただいたものとして、ありのままの自分を喜んで受け入れることです。エペソ二章十節に、

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』

とあります。神様が、私たちを良い作品として創ってくださいました。ですから、決して劣等感や低い自己評価を持ってはいけません。なぜならば、自分で自分を創ったのではなく、私たちは神の作品だからです。

 日本における劣等感や低い劣等感の原因に、日本人の宗教観があります。それは、仏教ならぬ儒教的世界観にあります。
 儒教は縦型組織であり、上下関係です。そのような中、自分のポジションは自ずと社会や家族の中で決まります。その結果、自分に低い評価を下してしまうのです。
 神様は皆、平等に創られ、一人一人に最高の価値を付けてくださっているはずです。イザヤ書四十三章四節に、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

とあります。神様の目から見たら、私たちは高価で尊い存在であり、愛してくださっていることを知り、まずは自分自身を喜んで受け入れてください、というのが聖書のメッセージです。
 その時、いのちが湧いてきます。自分自身を低く評価したり劣等感を持っていたら、いのちが溢れることはありません。悲しい、寂しい人生になってしまいます。
 今日あなたが、どのように自分を評価しているのかは別にして、神はあなたに「高価で尊い、わたしはあなたを愛している」と語っておられます。
 ですから教会に来たら、自信をもって「私は高価で尊い存在。神様から愛されている存在だ」と自分を受け止めてください。

 日本語には尊敬語がたくさんあり、難しいです。誰かと出会ったら、どういう言葉を使ったらよいのかを瞬時に判断し、選びます。自分よりもちょっと目上の人が来たら、尊敬する言葉を使います。また、少し下の人が来たら、砕けた言葉、もっと下の人が来たらプレッシャーをかける言葉を使います。人の顔を見て、自分が使う言葉を決めるのです。これが日本語なのではなく、宗教的な概念が反映されているために、そのような言葉づかいをしているのです。
 今朝、ブラジルの方と話しました。「ポルトガル語に丁寧語はありますか?」と聞きました。すると、「基本的にはない」と言われました。もちろん少し自分を引いた言い方はあるけれど、普通はないと言われました。だから年下からでも、「ジュン!」と呼ばれます。

 息子・娘から呼び捨てで呼ばれたらどうでしょうか。私は今週アメリカに行きますが、アメリカに行くと私のことを「順先生、順牧師」と呼んでくれる人はいません。みんな、「ジュン!」と呼び捨てにします。日本だとちょっと、ムッとしてしまうかも知れません。それは儒教的束縛だと思います。知らないうちに、序列が決まり、知らないうちに劣等感や優越感を持ち、低い自己評価を下してしまいます。これは儒教的世界観から来ています。

 しかし聖書の世界観は違います。神様は、「あなたを愛していますよ。あなたは高価で尊いです」と語られます。教会に来たら、神のみ言葉に従って生きることが大切です。ですから、まずは自分自身を受け入れて下さい。

 隣人を愛することに関して、律法学者はイエスさまに、「では、私の隣人とはいったいだれのことですか」と尋ねました。するとイエスさまが一つのたとえ話をされました。それは「良きサマリヤ人」という有名な話です。ルカ十章三十節から三十七節に、

『イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

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 この物語を理解するために、いくつかの背景を知ることが重要です。ここでは「サマリヤ人」が登場します。サマリヤ人が強盗に襲われて、倒れている人を助けるというストーリーです。
 最初、事件現場を通りかかったのは、祭司とよばれる神の宮に仕える人でした。しかし彼は、面倒に巻き込まれたくないと、知らない振りをして通り過ぎました。
 次にレビ人が通りかかりました。彼も宮で仕える人でしたが、彼もまた祭司同様、知らない振りをして通り過ぎました。しかし最後に通りかかったサマリヤ人が、倒れていた人を助けたのです。

 倒れていた人はユダヤ人であったと思われます。背景とは、当時、ユダヤ人とサマリヤ人はあまり良い関係ではなかったと言うことです。
 紀元前八世紀、イスラエルにアッシリアが攻めてきて、住民を捕虜として自分の国に連行しました。それとともにアッシリア人がサマリヤ地方に入植し、やがて地域住民と混じり合い、混血児たちが多く生まれました。その子孫がサマリヤ人たちです。
 北イスラエルの宗教であったユダヤ教はアッシリアの偶像礼拝と習合し、違った形の宗教となりました。
 そんな歴史的背景があったので、イエスさまの時代のユダヤ人達は、ユダヤ人の誇りと純粋性を失ったサマリヤ人達を軽蔑し、交際しませんでした。サマリヤ人たちは服装も違い、礼拝する場所も違っていました。そこには大きな溝があり、同じ地域に住んではいても、ほとんど交わらない人たちでした。

 時々、私たちが悪い思いの中で、ほっとする時があります。それは、あまり快く思っていない人が何か失敗したり、倒れたという情報を聞いたときです。「何。あいつが失敗したって?気の毒に…」と言いながらも、何か、ほっとする自分がいたりします。人間には嫌な性質があります。敵が倒れると喜ぶ性質です。
 スポーツの世界ではどうでしょうか。昨日は、アルゼンチンと日本がバレーボールの試合をしました。大接戦の上、日本がアルゼンチンに勝ちました。敵が倒れたので日本は大喜びをしました。そういうときは嬉しいです。しかしアルゼンチン人は悲しんでいました。
 誰でも一般的に、敵が倒れることは嬉しいものです。しかし聖書の教えは、スポーツとは関係ありませんが、あまり快く思っていない人が倒れた時、喜んではいけないと教えています。そういう時にこそ、近寄って助けてあげるなら、神の愛を体験できると教えています。

 あまり好きではない人がいるかも知れません。あの人がいるから私の人生はハッピーではない、と言う人がいたらその人が倒れることを願うのではなく、その人に何らかの助けの手を差し伸べることができるように、祈らなければなりません。
 また、自分が愛しやすい人だけを愛するのではなく、愛しにくい人を愛することが隣人を愛することなのです。
 しかしそうなるとちょっと難しいと思います。けれども、神の愛は完璧です。神の愛を受け取ったら、自分が持っている愛ではなく、神の愛によって愛しにくい人をも愛することができるのです。今日は、普段では愛しにくい人に愛を向け、愛を現す者になりたいと思います。

 先週の日曜日、私は韓国で奉仕しました。皆さんのお祈りに支えられ、たぶん来年五月、韓国においてリバイバルミッションが開かれる事になると思います。ぜひお祈りください。
 日本と韓国の歴史を見るとき、日本はサマリヤに攻め込んだアッシリアのようです。日本は十六世紀頃から朝鮮半島に侵略を始め、多くの人を犠牲にしました。
 特にその先頭に立ったのが、「豊臣秀吉」でした。彼は私たちと同じ愛知の人でした。豊臣秀吉や加藤清正らが中心となり朝鮮半島に攻め入り、朝鮮の人々の首を一つ取ったら賞金をかけ、多くの朝鮮半島の人々の首を日本に持ち帰りました。
 しかし、首が集まり過ぎたので、耳や鼻でも良いとしました。それで耳や鼻を切り落として塩漬けにし、日本に送りました。
 ですから今でも各地に、耳塚、鼻塚といったものがあります。それは朝鮮半島から持ち帰った耳や鼻を埋めた場所だと言われています。

 二十世紀初頭、日本は自分たちが神国であると唱え、帝国主義によって朝鮮半島に進出し併合しました。朝鮮半島を「ここは日本の一部だ」と、彼らの文化を全て否定し、日本語教育をし、日本そのものとして扱いきました。
 また、朝鮮半島の人たちを強制徴用し、労働力として日本本土に連行し、特に、北海道開拓や危険な鉱山、鉄道敷設、工場などで働かせ、ひどいことをしました。かつて、アッシリアがやっていたのと同じようなことを日本は行ったのです。
 ゆえに、近代に至るまで日本と韓国との間には大きな壁があります。地理的には一番近いところにありますが、意識的には高い壁があるのです。それはそのような歴史的背景があるからです。

 「隣人を愛する」こと、それはもちろん近くの人々との人間関係も重要ですが、「いのちを得る」ということを、「リバイバル」と理解するならば、国のリバイバルについて考えるときに、「国対国」という中で「隣人」について考えなければなりません。
 そんな中、私たちが一番愛さなければならない国、それは韓国です。韓国のために心を砕いて祝福を祈る必要があるのです。

 特に日本と朝鮮半島は、太平洋戦争を境に最も大きな壁ができたと思います。去年、主はハワイリバイバルミッションを開いてくださいましたが、その次に、「あなたがたは韓国でミッションをしなさい」と語ってくださいました。
 その働きのために、新城教会が中心的に支えてくださっていることに心から感謝いたします。去年のハワイリバイバルミッションもたいへん祝福されました。ハワイから、「二〇〇十年にもう一度やってください」という要請があります。これは見えない世界で大きな勝利が勝ち取られているからだと思います。

 神が今願っておられることは、「隣人を愛すること」です。
 今まで韓国教会は日本に対して、隣人としての役割を果たしてきたと思います。韓国教会は日本の教会が祝福されることを喜んで、一生懸命助けてくださいました。今でも毎年のように、韓国から大勢の宣教師が日本宣教のために来日しています。
 しかし日本が、韓国の救いのために働いたという歴史は今までありません。今回の韓国リバイバルミッションは、キリスト教の歴史の中で初めてだと思います。

 日本のプロテスタント・クリスチャン人口は、たったの二パーセント程です。今度、リバイバルミッションを行う仁川市は韓国の中でもクリスチャン率が高いところです。仁川は約三十五パーセントがクリスチャンであると言われます。そこは二百七十五万人が住んでいますが、教会が四千あるそうです。日本は全体で八千弱です。しかしその半分以上が一つの街にある計算です。仁川はどこを見ても教会ばかりです。
 そんな所で、クリスチャン人口〇・二パーセントの教会が、「お宅のリバイバルのために働きましょう」というのは、普通から考えたらバカではないかと思われます。それは、個人商店が、隣にある大型スーパーの売り上げ拡大のために協力するようなものです。
 しかしそんな中に、神の祝福の鍵が隠されているのです。神の国の法則は、私たちが普段考えていることとは違うようです。「自分の敵を愛する」とか、「受けるよりも与えるほうが幸い」とか、「悲しむ者は幸い」など、普通では考えられない教えばかりです。

 日本の教会は小さな教会かも知れませんが、あのようなキリスト教が広がっている国のために働くとき、気づいたら自分たちも祝福されているという事を体験する事でしょう。それが神の国の法則です。

 私は去年のハワイリバイバルミッションの頃から、「韓国でのリバイバルミッション開催のために祈りなさい」という思いをいただき、ミッションの先生方と共に祈っていました。まず可能性を探るために、今年二月、平岡先生とソウルに話し合いに行くと、喜んで迎えてくださり、「ぜひやってください」と言われました。そんな中でもう一つ、考えていたことがありました。

 今年、主からいただいたみことばは、「神の国は人手によらず前進するもので、夜は寝て、朝は起きて、そうこうしているうちに種は芽を出し、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」という、マルコ4章26-29節のみ言葉です。
 人間の手で種を蒔くという作業もありますが、「種は人手によらずに実をならせる」という領域について祈るように示され、祈って来ました。
 私たちは今回、韓国リバイバルミッションのために、こちらから韓国側に話を持ちかけました。
 しかし、もしかすると、韓国側でも人手によらず、既に主が動いてくださっていることがあるのかも知れないと、思っていました。

 今回韓国に行って、驚いたことがありました。実は、来月七月十九日から四日間、韓国から新城教会に七十名程の方々が来られます。7月20日は、韓国から来られる七十名の方々と共に日韓合同礼拝を行います。彼らはぜひ、「新城教会で共に礼拝を守りたい」ということで来られます。キムチをたくさん持って来るようです。
 韓国には戦後、大きなリバイバルがありました。しかし、最近そのリバイバルが下火となり、徐々にクリスチャンが減っているようです。その中で、国のリバイバルをもう一度祈らなければならないという思いが、あるグループに与えられたそうです。
 彼らにも今までは、「日本から被害を受けた」という、被害者意識があったようですが、日韓の歴史を調べてみると、日本に仏教を伝えたのも、神道の原型を伝えたのも、全て朝鮮半島からであったことに気づかされたそうです。
 そして日本の一番古い寺・長野県の「善光寺」の本尊が、百済から日本に入った仏像であることがわかったそうです。そして、日本人を福音から遠ざける最初の原因を作ったのは、自分たちであったと気づかされ、去年、三百五十人程の韓国のクリスチャン達が善光寺にとりなしに来たそうです。
 そのリーダーが、韓国でドキュメンタリー映画を制作している映画監督の方です。去年、長野に行った帰りに監督さん達一行が、新城教会に立ち寄られました。私も少しだけお会いしました。
 その時私は、『主が立ち上がられた日』という、私の著書を差し上げました。去年、英語版ができていたので、それも差し上げました。
 彼らは帰ってから、『主が立ち上がられた日』を韓国語に翻訳して読んだそうです。それは、新城教会で一九九二年から起こり始めた霊的戦いについての記録です。それを読んでとてもびっくりしたそうです。そして、神の前に祈ったときに、主からの語りかけを受けたそうです。
 「新城教会にリバイバルの糸が出ているから、それを引っ張り出しなさい。あなた方はそこに行って、一緒に祈りなさい」と語られたというのです。
 「だから、どうしても新城教会に行って一緒に祈りたいのです。もしも新城教会の人たちが受け入れてくれなければ、玄関先で祈りたい」と言われました。七十名の方が玄関先で祈っていたら異様だと思いますが。

 私は昨年何気なく、彼らに本を差し上げただけですが、今回、韓国に行ってとてもビックリしました。『主が立ち上がられた日』が全て、韓国語に翻訳されていて、「今度この本を韓国語で出版したいのですが、良いですか」と聞かれました。頼んだわけでもなく、ただ一冊差し上げただけなのに、出版される寸前にまでなっていました。現在、一番良い出版社を探していると言われました。
 ちょうど一緒に岡本信弘先生がいて、「プレイズ出版でやりましょう」と言われました。そのために今週は信弘先生が韓国に行きます。不思議なことですが、人手によらず前進していました。すでに神様が人手によらず、進めてくださっていました。

 私はこう見えても、時々、不安になることがあります。それは、「このままで良いのだろうか」という不安です。
 「ハワイでリバイバルミッションを行ったり、韓国でリバイバルミッションを行ったり、霊的戦いなどといって、色々な場所へとりなしに行ったり、もしもこれが神のみこころではなかったら、本当に私たちのやっていることはバカみたいだな」とふっと思う時があります。
 私が色々な場所や国々でとりなしをしているときに、神様が天から見て、「順はバカだなあ。彼は何を無駄なことをしているんだ」と言われていたら、本当に悲しいと思うことがあります。
 一九九二年に聖霊様が訪れてくださり、「霊的戦いをしなさい」と語られたと私たちは信じています。だからいくら批判されても、十六年間も続けてきました。
 しかし、身を粉にしてやっていても、これが私たちの大きな勘違いで、神のみこころではなかったとしたら、まるでバカみたいです。

 先日、韓国に行く前、私は、「神様。私たちはバカなことをしているのでしょうか?」と祈ってみました。
 もしもこれがバカなことではなく、神様から百パーセント与えられた使命そのものだとしたら、私たちは時々、「神様。感謝します」と祈りますが、神様の方から、「ありがとう!」と言ってくれてもよいのではないだろうかと思いました。
 神様から百パーセント与えられたみこころならば、神様の方から「本当にご苦労さん。ありがとう。」と言ってくれても良さそうだなあと、風呂に入りながら考え、祈っていました。

 それは、韓国に行く前のことでした。神様から「バカ」と言われるのか、または「ありがとう」と言われるのか、二つに一つのどちらかだなあと思っていました。
 風呂から出て、そのことを家内と娘に話すと、「ふ〜ん」と笑って、あまり構ってもらえませんでした。

 それで、私は韓国に行きました。すると監督さんの事務所へぜひ来てください、と言われたので訪問すると、人手によらず私の本が翻訳されていてびっくりしました。
 そこへ行くと、去年のグループの中におられたという女性が、(私は覚えていませんが)私の所に涙を流しながら来て、「順先生。今日来てくださって嬉しいです。」と言われました。そして、「この頃ずっと、神様から語られていることがあって…、そのことを話しても良いですか」と言われました。

 彼女が韓国で祈っているときに、一つのことを語られたそうです。それは、「あなたは一人でも、新城へ行き、順先生にこのことを伝えなさい。」と言われたというのです。
 それで、「私はいつ日本に行って、順先生に話そうかと思っていました」と言われました。

 私は、「それは何ですか?」と聞きました。すると彼女は、「神様が順先生に、本当にありがとう!」と語っている、「神さまの方が感謝していると言うことを、彼のところに行って告げなさい、とずっと語られていた」と言いました。

 私はとても驚きました。韓国へ来る前に、「私はバカか、それとも、感謝されるかのどちらかだ」と思っていたところでしたから。
 知らない人がいきなり私の所に来て、「神様が順先生に感謝している」と聞かされ、本当に感動しました。
 神のみこころの道を歩むときに、周囲からはバカのように見えるかも知れないけれど、主が喜ばれていることを預言的に確認し、韓国のリバイバルミッションもばかげたことではなく、主の偉大な計画であると確信しました。この働きを通して、目に見えない世界においては大きな変革となり、見える世界にも大きな事が起こると信じます。

 日本は朝鮮半島に対して侵略を繰り返した歴史がありますが、今度は良きサマリヤ人として、悪いアプローチではなく、真の敵である悪魔と戦うため、また韓国の方々の救いのために働くときに、気がついたら日本もいのちを得ている事でしょう。
 またその行動が神を愛することにつながるのです。私たちはみ言葉をしっかりと受け取り、共に歩みたいと願います。
 神を愛し、また隣人を愛することは最も大切です。日本人として他国を心から愛し、良きサマリヤ人のように、倒れている人たちを解放する仕事をしたいと願っています。
 しかしさらに大事なことは、倒れた人々を解放することと共に、強盗が出没して危険地帯を安全な場所へと変えることです。強盗をやっつけない限り、犠牲者は絶えません。それが「霊的戦い」です。神を愛し、人を愛して働きましょう。一言お祈りします。


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