揺るぐことのない土台を据える


2008.6.15(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘師

新約聖書 コリント人への手紙 第一 3章10節〜11節
与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。今日皆さんとともに礼拝でみ言葉をまなぶことができ、心から感謝します。
 皆さんのお祈りに支えられ、健康が支えられていることを心から感謝します。
 私は先週3日間、韓国に行ってきました。去年はハワイ・リバイバルミッションがあり、何度かハワイを行き来しましたが、ハワイに比べると韓国は、飛行機が動き出せば約一時間半で到着するくらい近く、時差もないので楽です。しかし、いくら近いといっても海外ですから、二時間前には空港に着いていなければはならず、飛行機が飛び立つまでの待ち時間は私にとってはとても苦痛です。しかし今回はこの礼拝の奉仕のことがあったので、コンピューターを開いてみ言葉を準備する時間が与えられて感謝します。 
 先月末にはミッションの先生方と一緒に、来年五月に計画されているリバイバルミッションのために韓国を訪問しました。今回は、プレイズの仕事で行ったのですが、ミッションのために、先回得ることができなかった情報や貴重な意見を聞くことができたことも感謝しました。

 最近、韓国のクリスチャン人口が減っていると聞きました。日本は0・二パーセントなので、これ以上減ったらクリスチャンがいなくなってしまうと思いますが、減ったといっても韓国にはまだ、二十五パーセントから三十パーセントのクリスチャンがいます。しかし、先生方は、危機感を持っておられました。なぜ減っているのかと聞いてみると、「様々な要因があるが、その一つは、はっきりと救いの確信を得ていなかったクリスチャンが多かったのではないか」と話されていました。
 一九七〇年から八十年代は戦後の復興途上にあり、韓国は大変貧しい時でした。そんな時代に、牧師たちは「クリスチャンになったら豊かになる」と話し、それを聞いた大勢の人が豊かさを求めて教会に集まりました。元飛行場のヨイド広場に二百万人以上の人が集まり、野外で土砂降りの中で冷たいコンクリートの地べたに座って徹夜で祈っていたという時代がありました。飢え渇きがありました。その真剣な祈りと願いがあって、韓国に大きなリバイバルが起こり、一年間に何十万、何百万という人が救われました。その一方で、高度成長に伴って人々の生活は豊かになりました。豊かさ、祝福を求めて祈ることは悪いことではありません。しかし、その豊かさを手にした御利益信仰の人たちが離れていったのが原因のひとつだということです。
 また、カトリックや仏教に改宗する人が増えているそうです。それは、「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたとき、日本人が「私の宗教は仏教です」というのと同じに、韓国では「私はクリスチャンです」と答えるような、あいまいな信仰の人たちが改宗してしまうのではないかということです。
 ある牧師先生が、「今、韓国にどんなに有名な伝道者や牧師先生を連れて来たとしても、十万人を集めるのは不可能でしょう」と寂しそうに言っておられました。「単に表面的な豊かさを求めているだけであれば、そのような人たちは神さまから離れてしまう。何とかしなければ」と、多くの先生方が考えておられるまさにその時、韓国でミッションをという話が日本から持ち込まれたのです。
 私も初めはなぜ韓国なんだろうかと思いましたが、二度の韓国訪問をとおして、そのような韓国の状況を知り、確かに主が私たちにこの働きを委ねてくださり、時を備え、導いてくださっていることを感じました。皆さんもぜひお祈りください。そして、共に韓国ミッションに行きましょう。

 今日は第一コリント三章から、イエス・キリストにある土台について学びたいと思います。
 私たちはクリスチャンになり、豊かな恵み、祝福をいただきました。ここにいる皆さん誰もが、クリスチャンにならなければ良かったと思われている人はいないと思います。しかし、もし私たちが目に見える祝福だけを求めているなら、問題が起こったり、病気になったりしたとき、心が揺れ、たやすく信仰から離れてしまうのではないでしょうか。今日は、どんなときにも揺り動かされることのないしっかりとした土台について、考えてみたいと思います。
 家を建てるときは、どんな家を建てようかといろいろと夢を膨らませることでしょう。しかし、まず土台をどれだけしっかりと据えようかとは、なかなか考えないと思います。近年は、大きな地震で家が倒壊したことから、土台や強度というものがクローズアップされています。昨日も東北で地震がありビックリしました。中国の四川でも大きな地震があり、多くの方が亡くなられました。悲惨なことです。
 テレビで、中国の地震によって、多くの家が倒壊したと同時に、しっかりとした強度を取るべき学校や施設がペチャンコになっている様子が映し出され、授業を受けていた何百人もの子どもたちが一瞬にして亡くなったことが報道されていました。なぜ、そのようになったかが検証されていましたが、その原因の一つは、業者が手抜き工事をしていたからだということです。柱に鉄筋を十本入れるところを六本しか入れなかったりすることが、日常茶飯事のように行われていたようです。地震が起こるまでは何の支障もなく使われていた建物でしたが、地震や問題が起こったときに、原因が探られ、手抜きが暴かれます。この近くに住んでいる方は、地震が起こったら教会に来ると良いと思います。この教会は基礎がしっかりしているので倒れにくいと思います。
 聖書に、次のような言葉があります。

『ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。』(コロサイ人の手紙一章二十三節)

 クリスチャン人生において、あなたは頑丈な土台を据えておられますか。私の土台は大丈夫ですと自信を持って言える人はなかなかいないと思います。
 あちらこちらで綺麗な花を目にする季節になりました。花は一夜にして咲くのではありません。種を蒔き、根が伸び、時季が来たときに芽を出します。そして段々成長し、やがて咲かせます。私たちは花を見て、綺麗だと言います。しかし、土の下に隠れている部分について、この花には根がどれだけ張っているだろうかと考える人はあまりいないと思います。しかし根は重要です。芽が出たとしても根が張っていなければ、栄養をとることができませんし、雨や風で倒れてしまい枯れてしまうでしょう。私たちの人生も同じだと思います。
 先日、秋葉原で悲惨な事件がありました。何の前触れもなく、何の罪もない一般の人が殺されてしまいました。秋葉原へは、プレイズ出版の関東事務所から自転車で二〜三分で行くことができるので、東京に出張したとき私もたまに出かけていきます。買うことは少ないのですが、どんなものが流行っているのか、どのくらい進歩しているのかと見るのが楽しみです。そこには、いつもどこから来るのかと思うほど、人が往き来しています。
 あの日も、買い物をしたり、歩行者天国を楽しんでいる人たちが大勢いたその中で事件が起きました。事件を起こした人の背景から、親子の関係などの家庭の問題や、彼を取り巻く環境に問題があるなどと語られていましたが、専門家の中には、そのような外面的なものではなく、彼の心の内側の問題にもっと大きな原因があると言っている人もいました。この人も、根を張ることができずに人生において体験すべき事柄を吸収することができず、人間としての成長が止まっていたのかもしれません。いずれにしても、亡くなられた方のことを思うと、心が痛みます。二度とこのようなことがないようにと願います。

 皆さんはどれくらいの揺れに耐えられるでしょうか。それは現実に起こる地震ではなく、皆さんの人生に起こる問題や苦しみに遭遇したときのことです。建物の土台を見ることができるように、人生の土台がどれくらいしっかりと据えられているかを目で見ることができたらいいと思います。また、自分の人生の基礎がどれくらいの揺れに耐えられるか、耐震強度のように数字で示されたなら点検が簡単だと思います。
 例えば、リストラされたらどうでしょう。家族のことや将来のことを考えると、心が揺れることでしょう。私は先日健康診断に行きました。幸い「少し痩せた方がいいですね」と言われただけでしたが、もし「あなたはガンで余命一ヶ月です」と宣告されたらどうでしょう。震度九くらい心が揺れるかもしれません。私たちの周りには心を揺さぶるような出来事が次々に起こります。皆さんはどんな問題が起きえても耐えられるという確信があるでしょうか。
 クリスチャン人生を振り返るとき、たくさんの恵みをいただいたと思います。病が完全に癒されて元気になった方もいるでしょう。経済的に苦しんでいたけれど、教会に来て事業が祝福され、立て直された方があるかもしれません。幸せの絶頂にいらっしゃる方もおられるでしょう。それは素晴らしいことです。受けた恵みは祝福ですが、しかしそれは、これからいつ起こるかわからない大きな揺れに耐えられるという保証にはなりません。
 教会に来たら祝福されるというのは確かです。しかし、目に見える祝福は一時的です。クリスチャンの本当の強さ、本当の力は、目に見えない部分にあることを皆さんはよく知っておられると思います。
 
『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(第二コリント四章十八節)

 聖書に、賢い人と愚かな人の話があります。賢い人は岩の上に家を建てたので、洪水が来たときにもその家はビクともしませんでした。しかし砂の上に家を建てた愚かな人の家は、押し流されてペチャンコになりました。目に見えるところがどんなに素敵なデザインで素晴らしい家であったとしても、土台をしっかりと据えていないなら、すべてを失うことになりかねないのです。
 人生においても同じです。強固な土台とは、目に見えない霊的な部分にあります。人は、外見ではわかりません。実は私はとても気が小さいです。いくら「私は気が小さいんです」と言っても信じてもらえませんが、もし心を取り出して「ほら、これくらいなんですよ」と見せることができたら、そんなに小さいのか…と驚かれると思います。人は一見強そうに見えても実際は弱かったり、弱そうに見えても実は強かったりします。また、霊的な部分において敏感な人がいる一方で、私のように鈍感な者もいます。それは目に見えません。

 皆さんに目に見えない部分について、どうやって説明したらよいかを考えていたとき、第一コリント十三章のみ言葉が与えられました。ここは愛について書かれている箇所です。

『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』(十三章十三節)

 「信仰」、「希望」、「愛」、これらは、私たちの霊的な土台を据えるために、どうしてもなくてはならないものです。
 信仰とは何でしょうか。信仰とは、神であるイエス・キリストが人となってこの世に来られ、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、死んで、三日目に死の力を打ち破ってよみがえり、今も生きておられることを信じることです。ヤコブ書には「行いのない信仰は死んだもの」と記されていますがその一方で、ヘブル書には「信仰がなくては神に喜ばれることはできません」とあります。どちらも聖書のみ言葉ですので、間違っていたり矛盾していることはありません。また、ピリピ書四章六節には、

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。』

とあります。このみ言葉を断片的に読むと、私たちが願ったことを何でもやっていいのだとも見て取れますが、初めに「神は、みこころのままに志を立てさせ」という言葉が書かれています。この言葉を外してしまうなら、その願いは単なる野望であり、欲望にすぎません。神さまが立ててくださった計画の中で、御心に沿った働きをするなら、神さまがすべて実現に至らせてくださるのです。
 慈善事業はもちろん大切です。しかし、単なる良い行いならば、世の中にはクリスチャン以上に素晴らしい行いをしている人がたくさんいます。しかし、信仰の土台のもとになされる行いが重要だと思います。それを忘れてはなりません。 
 
 日本の教会が成長しない理由は、いろいろあると思いますが、目に見える行いを重視したことも要因の一つではないかと私は考えます。
 日本の文化の中で、当たり前のように行われている、「ひなまつり」や「鯉のぼり」「たなばた」などの年中行事を、ほとんどの人は宗教行事だとは思っていないでしょう。また、多くの教会でも、それを認識しているかいないかは別として、行政や組付き合いの中で、文化行事の一貫、伝統を守るという前提のもとに、そのような行事を肯定し行っているという現状を耳にします。しかしそれは、悪しきものに祈りをささげることであり、悪霊と深いかかわりを持つ偶像礼拝にほかならず、霊的にすごく悪影響を受けることであり、信仰の根幹を揺り動かしかねないことなのです。みなさんの中に、そのような文化、伝統といった言葉によって惑わされている部分はないでしょうか。今一度、点検してみてください。

 次に「希望」とは何でしょうか。エレミヤ書二十九章十一節に、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

とあります。クリスチャンには希望があります。
 今、六十歳以上の方の自殺が多いそうです。秋葉原の事件を起こした青年が、「自分を必要としてくれる人がいるだろうか。絶対にいないだろう」と携帯のブログに書いていましたが、定年退職した人たちも、仕事を失い、将来に夢や希望もなく、世の中に必要とされているという実感もなく、死に急ぐのでしょうか。核家族化が進み、一人暮らしの人も多く、何週間も誰とも話さないという人がいます。しかしクリスチャンは感謝です。

『ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人
は日々新たにされています。』(第二コリント十二章)

 人は年齢を重ね、機能が衰え、足腰が痛くなり、目がかすんだり、いろいろなところに老化が表れます。私も若い頃と比べたら、ずいぶんあちこちが弱くなったと思います。しかし、私たちは、主によって内なる人が日々新たにされているのです。教会に来られているお年寄りたちと話すといつも励まされます。それは、みなさんがいつも主を仰ぎ、イキイキと生きておられるからです。

 次に「愛」を考えてみましょう。マタイの福音書二十二章に、大切な戒めとして主が語られているところがあります。
 
『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(三十七節、三十九節)

 私たちが全力で神を愛することと同時に、隣人を愛することを神は望んでおられます。

 今回、韓国を訪れた本来の目的は、順先生の本を韓国語で出版するための打ち合わせでした。しかし反対に、韓国でベストセラーになっている二冊の本を日本語で出版できないか、という相談を受けました。私はこれが日本で売れるかどうか、ビジネスになるだろうかと考えていています。その一冊はすでに日本語に訳され、DVDになっていて、私は帰る飛行機の中でそれを読みました。『八福―裸足のおじさん』というタイトルで、韓国の伝道者チェ・チュソンという方のドキュメンタリーです。
 本の後半に、彼が召された後、息子の一人が語っているところがありました。

 『父は若い頃から何十万坪という土地を所有し、まだ韓国で車に乗っている人が少ない一九六〇年代に、数台の車を持ち、一日の内にワイシャツを二枚着替え、多くの使用人がいて贅沢三昧に暮らしていました。しかし主に出会い、主のみ言葉を悟ったときから、財産を自分のためではなく、教会、学校、孤児院、ホームレスの人のために使い、多くの人を助け、人々から「希望の星」と呼ばれ、多くの人を神の元に導いた人でした。父が「ここにあるものはすべて神からのものだから」と言った言葉を思い出します。すべての財をなげうっていたので、自分は何もない貧しい生活をする中で、ある日、食べる物がないと尋ねてきた人に残っている少しばかりの米を全部あげてしまった。我慢の限度を超えた母が、「最後の米なのにどうするの」と言ったときも、「明日のことは心配するなと聖書に書いてある」と言ってみ言葉を実践したのです。事実、ご飯が食べられなかった日は一度もありませんでした。』
 こんな話も書かれていました。
 『お父さんは、土地はすべて神さまのものだと信じていたので、登記すらしませんでした。誰かが勝手に自分の土地として登録したために訴訟が起こりましたが、父から土地を分けてもらった貧しい農民の証言によって、その訴訟に勝利しました。また息子である私が三十歳になるまでに、三十回以上の引っ越しをしました。多くの孤児とともに生活をしていたので、人々から迫害され、町を転々としたそうです。なぜ自らそのような苦難の道を選んだのか、私には理解できないところがあります。』
 『毎日裸足で地下鉄に乗り、伝道していました。零下十度以上になるときでもいつも裸足で伝道し続け、「イエス、天国。ハレルヤ!アーメン!!」と訴え続けました。人々からは変人扱いされ、一時は私たち息子も、みんな父から離れていきました。しかし今はみんな成長し、ある者は牧師になっています。まさしく、現代のイザヤのように、「荒野で叫ぶ声」として人々に訴え続けた人生でした。』
 『いつも裸足で伝道していた父に、ある人が「なぜあなたは靴を履かないのですか」と質問をしました。父は「朝鮮南北が統一されたときには靴を履きます」と答えました。また、「あなたは疲れないですか。寒くないのですか」という問いに、「イエスは我が力なり」と一言だけ答えました。』

 私はこの本を全部読んだわけではなく、DVDの一部を見ただけですが、こういう人生があるのか、こういうことができるのか、私には到底できないなぁと思いました。この方の伝道方法が誰にでもできるとは思いませんし、これが最善なのかはわかりませんが、すべては神さまから与えられたものとして自分の全財産を投げ出し、どんな貧困や迫害にも耐え、揺るぐことのない信仰を持ち、天の御国のことだけを考え、希望を抱き続け、見せかけではなく、人の関心を買うことを求めたのではなく、愛を実践し、主を伝え続けたことは事実です。そして、それが多くの人の心を打ったからこそ韓国で何十万部と本が売れてベストセラーになっているのだと思います。
 私は、精一杯頑張っていると言いながらも、これくらいの生活レベルは保ちたい、これくらいの余力を残していたいと考えている自分が恥ずかしくなりました。こんな私には、このおじさんのすべてを理解することはできないし、こんな生き方をすることもできないと思います。この方と同じようにすることを神さまが求めておられるわけではありませんが、愛の実践という点で、考えさせられる一冊でした。

 この方は、信仰を全うされて天に帰られましたが、私たちの信仰生活はこれで十分だということはありません。ピリピ書三章十六節に、

『それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。』

とあります。私たちはすでに多くの恵みをいただいて信仰の家を建て上げていますが、さらに前進し増築させていただくために、もう一度土台を点検し、強固にしていきたいと思います。

『それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。』(第一テモテ三章十五節)

とあるように、教会は真理の柱であり、土台です。一人ではなかなか乗り切れない問題も、教会につながることにより、揺るぐことがない、また決して倒れることがない素晴らしい恵みをいただくことができます。イエス・キリストを土台とし、教会生活の中でよき信仰を建て上げ、ますます祝福された人生を送っていきましょう。


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