主はあなたに、圧倒的勝利を与えてくださいます!


2008.6.29(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

新約聖書 ローマ人への手紙8章35節〜37節
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。久しぶりに新城教会でみ言葉を語ることができ、心から感謝します。
 皆さんのお祈りに支えられ、約二週間、アメリカで奉仕できました。感謝します。前半四日間は、タコマの竹内先生の教会で奉仕し、素晴らしい一時を持ちました。その後はジョー先生の教会で奉仕させていただきました。日本とアメリカには時差があります。今日は日曜日ですが、アメリカではこの時間、土曜日の夕方です。
 先日私の所にメールが来て、「順先生、今日の新城教会の礼拝は恵まれたでしょう?」ありました。なぜかと聞くと、同時刻に新城教会の礼拝のために、ヤキマから祈ってくださったそうです。ジョー先生の教会では、新城教会の礼拝の時刻に合わせて、ヤキマの山の上で町の祝福と、新城教会の礼拝の祝福のために祈ってくださっています。心から感謝しました。
 先週は皆さんが礼拝されている時刻に、私もヤキマの山の上で祈りました。今日こうして礼拝ができるのも、知らないところからの支えがあることを、心から感謝したいと思います。

 今回はアメリカで、中高生キャンプでも奉仕しました。あちらの中高生も真剣に主を求めていました。
 また先々週の土曜日は、ジョー先生の教会を会場に、周辺の牧師たちやリーダーが集まり、霊的戦いセミナーを行いました。それは、昨年行われたハワイ・リバイバルミッションの勝利の結果だと、心から感謝しました。
 もしもハワイでジョー先生たちとともに働かなかったら、ヤキマでセミナーをすることもできなかったと思います。主が戦いの結果を、アメリカ本土にも拡大してくださっていることを感謝します。

 一九九二年七月、新城で突如として地域の霊的戦いが始まりました。最初はたいへん混乱しました。当時から教会に来られている方々は、その様子を知っていると思います。
 前情報がある中で事が起こるなら、ある程度落ち着いて問題に対応できます。しかし全く前情報がない事柄が目の前に起こると、パニックします。
 私たちの教会にも、そんなことがありました。それは、考えてもみなかった地域を支配する敵と戦うことを教えられたからです。初めは、これから自分たちはどこへ向かっていくのだろうか・・・、と大きな不安がありました。
 しかし、十六年が経って言えることは、あの日、訪れてくださったのは主であったということです。なぜならば、この働きは国内だけでなく、世界中に広がっているからです。昨年はハワイで、来年は韓国でリバイバルミッションが行われます。

 今日は六月最後の礼拝ですが、七月になると韓国から祈りに重荷がある方々が、七十名以上、新城に来られます。ぜひお祈りください。七月十九日から二十三日まで新城教会に滞在され、霊的戦いについて学びたいということで来られます。韓国リバイバルミッションを示されていた中で、韓国の方々が日本に興味を持ち、人手によらずに主が働いてくださいました。
 今年の始め私はマルコの福音書からみ言葉をいただきました。それは、「種を蒔いたら人手によらず実を結ぶ。夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに種は実を実らせる」というみ言葉をいただきました。
 福音宣教の働きは本来、そうあるべきだと教えられました。今年は特に、主が人手によらずに、働きを進めてくださると教えられました。しかしその条件は、種を蒔く土地がどのような土地であるかをよく知りなさい、ということでした。
 今まで日本の教会は、純粋なみ言葉の種を追求してきました。教会は、より純粋なみ言葉を人々に伝えようと努力しています。しかし日本宣教が始まって百五十年も経っても、なかなか働きは進みません。それは、種には関心があっても、種が蒔かれる土地についてあまり関心がなかったという理由かも知れません。種が蒔かれる土地が、道ばたであろうと、いばらの中であろうと、岩地であろうと、どこにでも蒔けば良いと思っていたのかも知れません。
 けれども、種は良い地に蒔かれない限り、いくら純粋でも実を結ばない、土地を改良しなければならないと教えられました。

 そして、土地改良とは、まさに「霊的戦い」です。今日は午後から「霊的戦いセミナー」を行いますが、そのような事についても詳しくお話したいと思っています。主が私たちの中に、みこころを持って働いておられることを心から感謝します。

 今日は、「主はあなたに、圧倒的勝利を与えてくださいます!」というタイトルで学びます。「圧倒的勝利」という言葉は、新約聖書の中で一箇所しか使われていません。それは「度を超えて打ち勝つ」という意味の言葉です。「度を超えて」と「打ち勝つ」という単語がドッキングしてできた言葉です。
 圧倒的勝利者になる秘訣について学びたいと思います。

 キリスト教の初期の段階で最も活躍した人物は、パウロです。彼は聖霊の力と賜物をいただき、福音が伝えられていない地域へ福音を伝えました。
 しかしそれは同時に、大変な困難が伴いました。皆さんもクリスチャンとして歩まれていますが、ある方は、圧倒的勝利とはほど遠く、試練の中にあるかも知れません。教会に来られるきっかけは、人生の良い体験ではなく、悪い体験で来られる方が多いです。毎日、教会に入る一報は、良い知らせはあまりありません。教会によく電話がありますが、良い知らせは、「子どもが無事に生まれました」という知らせぐらいです。先週も赤ちゃんが無事に生まれたという、良い知らせがありましたが、その他の知らせはあまり良いものではありません。苦しい、悲しい、問題についての知らせが多いのです。

 パウロも大きな困難を体験しました。しかしそのような中にあっても、圧倒的勝利者になれると語った言葉には重みがあります。
 教会には人々が集まっています。ある意味、社会の中で教会ほど珍しい集団はないのではないかと思います。何の脈略もなく、イエスさまという人物を中心に集まっています。年代も、性別も、趣味も、出身地も違い、一人一人に様々な人生体験があります。
 一般的には、自分を紹介する場合、悪いことはあまり紹介したくないと思います。良いところだけを見せたいというのが、一般的考えです。教会はひとり一人のプライバシーを守りながら、問題解決のために日々努力しています。けれども、教会は、過去、ひとり一人が体験した様々な事柄の情報を共有するところでもあります。
 教会に来られたら、自分を隠すのではなく、今までの体験の中で勝ち得た事柄、また失敗など、互いにガラス張りにして分かち合うときに、互いに励まされます。
 一般的には、人生の諸問題は、その人の生き方が悪かったから、選択を間違ったから問題に発展したという考え方がありますが、クリスチャンになるとそうではありません。選択が悪かったことよりも、目に見えない敵の力が働いていたことに気づかされます。それがわかると、隠しておきたいような事柄も、周りの人たちに分かち合うことが出来ます。

 今日も「新城教会ニュース」が皆さんのお手元に配られました。そこにある女性の証が載っています。それは、「私はかつてニートでした」という証です。そんなことを普通なら言いたくないと思いますが、そこから解放されたという証です。
 過去、辛い体験をし、そんな中から勝利を得たことは、同じ境遇の人たちにとって大きな希望です。

 パウロの人生には、私たちには考えられないような辛いことが多くあり、もう駄目だという事件にも、何度も遭遇しました。しかしそんな体験がありながら、彼はすべての事柄に関して、圧倒的勝利者になれると告げているのです。三十七節を口語訳聖書で読むと、

『しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。』

 「勝ち得て余りがある」とあります。勝ってもまだ余裕があるというのです。
 時々、ボクシングの試合を見ていると、ボコボコにやられて顔を大きく腫れ上がらせてノックアウト寸前、うまいことパンチが相手にヒットして勝ったという試合があります。また、一ラウンドで相手をKOし、意気揚々と引き揚げる選手もいます。
 私たちクリスチャンの人生はボコボコにされてようやく勝つのではなく、本来は、勝ち得て余りある人生であると教えています。
 しかしそれを語ったのが、世界で最大級の試練を体験した人物なのです。
 さて、パウロの体験した苦労が、一箇所にまとめられています。第二コリント十一章二十三節から二十九節に、

『彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。』

 彼は様々な苦しみを体験しました。ある人は、苦難のただ中にいるかも知れませんが、パウロの苦難と照らし合わせるならば、「私はまだ、ましかも知れない」と思われるかも知れません。彼は主を信じ、み言葉を宣べ伝える勇士として働くただ中で、そのような試練に出会ったのです。

 私たちはイエス・キリストを信じたら、すべての苦難から解放されると結論づけることは極端だと思います。信仰生活の中にも、色々な苦難がありますが、そんな中でも勝ち得て余りある勝利に結びつく、そのことに対して希望を持っようにと聖書は語っています。第一コリント十章十三節に、

『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』

 今日、何か試練がある方は、このみ言葉を受け取ってください。時々、私はこれ以上の苦しいことはない、今回は駄目かも知れないというような出来事に遭遇するかも知れませんが、失望してはいけないと教えています。
 『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。』とあります。自分が体験している試練は、他の人たちは体験したことはないだろうと考えがちですが、そうではなく、「どこかで誰かが、同じ体験をしている」のです。
 そしてそれだけに終わらず、「主を信じる者には、耐えることのできないような試練は決してない。試練があっても、必ず、脱出の道が備えられている」のです。
 イエス・キリストを信じる者には、耐えることのできない試練はなく、必ず、「脱出の道」があります。み言葉を信頼することは重要です。
 また、神を信じる人々には、全てのことが働いて益とされると教えています。ローマ八章二十八節に、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

 私たちの人生は、二転三転して、大変スリリングの場面もあるかも知れませんが、『神のご計画に従って召された人々』とは、イエス・キリストを信じた者たちです。その人たちのためには、全てのことが相働いて益となるのです。
 しかしその条件が、『神のご計画に従って召された人々』です。それはイエス・キリストを自分の救い主として歩む人を意味します。ですから、まだイエス・キリストを信じていない方がいたら、イエスさまを信じていただきたいと願います。
 イエス・キリストを信じるならば、脱出の道が備えられており、苦しい体験があったとしても、それらの体験が生かされ、やがて、すべてが益と変わっていくのです。
 ピリピ人への手紙四章十三節に、

『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』

とあります。イエス・キリストによって解決できない問題はありません。必ず、あなたの人生に勝利があります。苦しみの中で来られている方々は、決して失望せずに、必ず主は、脱出の道を用意しておられる、すべてが益とされるというみ言葉を自分のものとして下さい。

 しかしこのような大勝利、大逆転の人生を歩むためには、学ぶべき条件があります。ローマ八章二十六節から二十八節に、

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

 勝ち得て余りある、圧倒的勝利に導かれるために必要なことは、私たちの中に住んでくださっている聖霊様が、私たちのすべてを知っておられ、とりなしの祈りをしてくださっているという事実に気づくことです。

 私たちは日本語を使ってコミュニケーションしています。日本語を使うことに、何も不自由はありません。何でも自分の心の中を誰かに伝えることができると思っています。
 しかし言葉はなかなか難しいです。私は毎週のようにみ言葉を語らせていただきますが、言葉が通じているときと、通じていないときがあります。自分の思いとは別の形で相手に伝わって、ショックを受けることもあります。それは私の話し方が悪かったからです。

 更に外国に行くともっと大変です。私は先週までアメリカに居ましたが、英語でメッセージを語るのは難しいので、通訳が付いてくださいます。通訳をしていただくと、その方の英語のレベルがわかるので、難しさを覚えることがあります。しかし今回はアメリカ人教会を牧会されている日本人の先生が通訳してくださいました。先生は大変良い通訳をしてくださいました。日本人男性ふたりがアメリカ人の方々に語るという構図でした。私たちの心の中の思いを、言葉に置き換えて誰かに伝える作業は、なかなか難しいです。

 特に祈りという領域において、神の前に祈りたいという思いはあるけれど、どうやって祈ったら良いのかわからない、どう表現したら良いのかわからない時があります。
 しかし、『御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって』と記されているように、口から「ウー、アー」という、うめきしか出て来ないときもありますが、聖霊様ご自身が私たちの心の奥底まで、すべてを知った上で、内側から父なる神の元にとりなして下さっているのです。
 「そのことに気づいてください、そうしたら、勝ち得て余りある勝利につながっていきます」とパウロは自分自身の体験から語ったのです。
 祈りの中で、うめきが多いときがあるかも知れませんが、ぜひ知ってください。主を信じる者には、聖霊様が共に住んで下さっており、必要の全てを一つも漏らさずに、とりなしてくださっているという事実です。
 聖書には、「聖霊によらなければ、誰もイエスは主であると告白できない」と教えています。今日皆さんが心の底から、「イエスさまは私の主です」と告白できるとしたら、既に、皆さんの心の中に聖霊様の支配があります。あなたのことをすべて完璧に知っておられ、うめきにもならないような領域に関しても、すでにとりなしていてくださるのです。

 あなたは決して一人で祈っているのではなく、祈りの言葉はつたないかも知れないけれど、聖霊様があなたと共に祈って下さっているのです。聖霊によるとりなしの祈りの領域に気づくことは重要です。

 同時に聖霊によるとりなしの祈りは、内なる聖霊様が祈ってくださるというだけではなく、キリストのからだにある、すべての兄弟姉妹の中に隠されています。互いが互いのためにとりなし祈るときに、動かなかった問題は動き初め、最終的に、圧倒的勝利につながるのです。
 教会の素晴らしさは、御霊によるとりなしの祈りが「キリストのからだの各器官の中に、役割として散りばめられている」ということです。ですから、自分では祈り切れないところを、聖霊様が他の人に祈りを与え、その人の祈りによって壁が打ち破られるのです。

 今週、聖霊様がとりなしの祈りを与えてくださいます。それはもしかしたら、自分自身の事ではないかも知れません。全く脈略のないような課題かも知れません。しかしそれは重要な祈りです。聖霊様からいただいた祈りを膨らませ、ぜひ、御霊によって祈ってください。その時に、圧倒的な勝利がキリストのからだの中に拡大していきます。

 昨日リバイバル新聞を読んでいたら、ハワイの中野雄一郎先生の記事がありました。先生にはハワイで大変お世話になりました。私たちの娘たちの住まいを提供してくださり、食事にもよく招待して下さいました。
 それは、こんな記事でした。

 『神戸の結婚披露でのご馳走を口に入れようとしたその時、「お電話です!」リバイバルミッションの滝元明先生からでした。「中野先生、講師が一人来られなくなったのです。急いで申し訳ありませんが、今夜九州に来てくださいませんか。」
 尊敬する先生のたってのお願いですから、お断りすることはできません。口に運びかけていた料理をそれも一口だけ口に放り込んで、新神戸から新幹線に飛び乗りました。
 翌日、九州での早天祈祷会の最中にグラグラッと揺れが来ました。阪神淡路大震災です。犠牲者六千名を越える大惨事でしたが、幸いにも前日の結婚式に出た人は皆助かりました。新郎新婦も不思議に守られました。疲れて体調を壊した新婦は実家の教会に泊まり、新郎のみ新居へ。新居は地震で大破しましたが、新郎の寝ているところだけ何も落ちて来なくて無事でした。もし二人でいたら新婦は完全につぶされていただろうとの事でした。
 私はと言うと、実は神戸のその教会の近くのホテルを予約していました。ホテルは由緒ある明治時代からの歴史的建造物で煉瓦作りのその建物は、大地震で完全に崩壊してしまっていたのです。数日後、お見舞い旁々神戸をお訪ねしました。教会はかなり傷んでいましたが、それでも主の守りで建っていました。
 ホテルの方は無惨にも瓦礫の山になっていました。もしそこに私が泊まっていたらどうなっていたでしょう。私の体は瓦礫の下で冷たくなっていたかも知れません。もし九州に行かなかったら、滝元先生が私を呼んでくださらなかったら、主の導きにいくら感謝してもしきれません。
 ハワイに戻った私は、私が死んだと思ってお葬式のお花代のつもりで献金してくださいと教会員にお願いし、ホノルル教会から神戸に義援金を送りました。主の助けと滝元先生に感謝します。だから、明日のための心配は無用です。』

 先生は一本の電話で、いのちを取り留めたようです。私の父、滝元明が震災の前日、披露宴のただ中にいた中野先生に電話をしました。ちょうど予定されていた講師が来られなくなり、困っていました。きっと祈った事と思いますが、その時ピンと来たのが中野先生でした。それで電話をしたようです。
 もちろん、多くの方々が亡くなっているので、一側面を強調することはできませんが、中野先生においては、自分が泊まろうとしていたホテルに泊まらないで九州に来たゆえに、いのちが助かったのです。
 あの時にもしも電話がなかったら、きっと瓦礫の下に埋もれていた事でしょう。紙一重のところで、神の守りと計画がありました。これもキリストのからだの、とりなしの祈りに属する勝利であると思います。

 案外私たちは、大きな事件によって扉が開くように思うかも知れませんが、実は、私たちの生活のただ中、普段何気なく決断しているただ中に、人生を大きく左右する鍵があるのです。
 そのような中、聖霊によって導かれるとりなしによって、またキリストのからだに属する聖霊によるとりなしの祈りによって、大きく方向が変わるのです。
 今週一週間の働きにおいても、一人一人に神が役割を与え、御霊によるとりなしに導いてくださるよう祈ります。

 最初にお読みしたように、「圧倒的勝利」という言葉があります。これはギリシャ語では「度を超えて打ち勝つ」という意味です。「度を超える」とは、「ヒュペル」、「打ち勝つ」とは「ニカオ」、その合成語です。
 この打ち勝つ「ニカオ」という言葉は、ルカ十一章二十節から二十二節に最初出てきます。

『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。』

 「もっと強い者」というのは聖霊様のことです。神の指、聖霊によって悪霊どもを打ち破るという所に、「打ち勝つ/ニカオ」という言葉が使われています。
 霊的戦いの勝利の秘訣は、「もっと強い者」、聖霊様にあることに気づかされます。パウロは人生の中で多くの試練を体験しました。神に真剣に仕えているのにも関わらず、なぜ、あんなに多くの試練を受けたのだろうかと、私たちも主に仕えていくことに躊躇してしまいそうな記事もたくさんあります。

 しかし聖書の理解は、パウロの人生の時間的推移とともに、最終的結論を見出さなければなりません。パウロがまだ若く、元気に働いていた頃には気づかなかった事柄が、最終的に神から示されたと読み取れます。それはローマで捕らえられ、獄舎の中で時間があった時、今までの人生を振り返り気づかされたのです。
 それが、「私たちの戦いは血肉の戦いではない」ということでした。それまでは色々、苦しみや試練があっても、聖霊の力によって、ようやく勝利があったと考えていましたが、実は、色々な試練や苦しみの背後に、敵の力が関わっていたという事実に気づかされたのです。

 彼はその点について、全く理解していなかったわけではありませんでしたが、完全な理解はなかったのかも知れません。
 けれども、彼は最後の最後にはっきりと気づかされました。そのことが、エペソ六章十節から十八節に記されています。

 エペソ人への手紙は、パウロがローマにおいて記されました。それは彼の人生の最後の時でした。
 人生を振り返って、今まではただ単に、都市の難や偽兄弟の難であったり、文化の違いで事件が起こってたと思っていたのでしょう。しかし、実はもっと深いところに原因があった事に気づかされたのです。エペソ六章十節から、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 彼は人生の最後の部分で、今までの試練や苦しみの背後に「サタンの策略」があったこと、戦いは血肉に対するものではないことに気づかされました。そして、その中で勝利を得るための重要なことは、

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 私たちの人生に起こってくる様々な出来事は、目に見えない世界との関連性があると教えています。それは、聖霊によって互いに祈り合うことにより、打ち勝つことができると教えています。それが、「圧倒的勝利」につながるのです。

 「邪悪の日に際して対抗できるように」とあります。悪魔は策略を持って私たちに対して特定の日、「邪悪の日」を計画し挑戦します。そのような時、私たちがどのように対抗するのか、常に武具を付けて御霊によるとりなしの祈りをするならば、圧倒的勝利につながります。しかし邪悪の日に際して対抗できないならば、クリスチャンであっても、パウロのように多くの苦しみを体験しなければならない側面もあると思います。

 今回私はアメリカへ行き、人生は大きな事というよりも小く見える事柄の中に鍵があり、私たちが気づいていても、気づかなくても、霊的戦いのただ中にあることを再認識しました。
 タコマでは綾子・ビラップス先生にお会いし、一緒にお祈りしました。私との長年の友人で、この教会にも何度も来られ、良いミニストリーをしてくださいました。少し病気で伏しておられたので心配していましたが、元気になられて私の集会に来て下さいました。

 綾子先生と初めて出会ったのは、今から二十二年ほど前でした。それも私がハワイから日本へ帰る途中の大韓航空の機中で出会いました。それからお友達になりました。綾子先生と出会わなかったら、ジョー先生とも会わなかったし、また、ヤキマにおいての霊的戦いセミナーや、ハワイリバイバルミッションにもつながらず、もしかしたら、新城教会に霊的戦いは始まらなかったのかも知れません。あの日の出会いが、その後、大きな展開となりました。

 しかし今考えてみると、二十二年前に、すでに悪魔は「邪悪の日」というキーワードで働いていたことに、今となって気づかされます。

 今から二十二年前、新城教会はどんな様子であったかと言えば、この会堂ができたのが一九八〇年でした。今日も礼拝をもっていますが、実は、この会堂は建ってから二十八年も経過しています。その時は百人足らずの兄姉姉妹でしたが、新城に五百人入る会堂を作ろうというビジョンを持って建設しました。その時は十分な資金がなかったので、会堂だけ作りました。
 続いて教育館を作りたかったのですが、どうやったら良いのかわかりませんでした。どんな施設を作るのか、教会の将来についてもビジョンがないと設計できないということで、キリスト教先進国であるアメリカへ視察に行くことにしました。
 建築委員会を作り、ロサンゼルスの大きな教会をいくつか見学することにしました。

 その計画ができたと同じ頃、教会に色々な問題が起こり始めました。特に私の家内が立ち上がれなくなり、やせ細って食事もできなくなり、三十七キロという体重になってしまいました。それに加え、私の弟も変な咳をし始め病気になってしまいました。彼が慶応大学病院に入院して検査をすると、背骨の中に腫瘍があるかもしれないと言われました。彼もやせ細っていきました。

 教会の中に色々なことが起こっている中、なぜか、アメリカへ行かなくてはならないと思いました。しかしその計画が進むと共に、アメリカに行くことができなくなるような問題が起こり始めました。
 特に、一緒に行くことになっていたメンバーの奥さんが病気になってしまいました。半身がしびれて、感覚がなくなり入院しました。検査をすると、その奥さんも背骨の中に何らかの腫瘍があることがわかりました。周りにはそんな人ばかりで、とても恐れました。
 私は、「これは祈りしかない」と思いました。そして、「今回のアメリカ行きは中止だ」と思いました。その時、私は一番不得意な断食の祈りをしました。三日間も断食をしたことはありませんでしたが、家内と弟とアメリカに一緒にいくメンバーの奥さんのために、真剣に祈りました。
 その頃は霊的戦いについて全く知りませんでした。ただ、神にすがる祈りでした。「神様。助けてください!!」という祈りだけでした。

 三日目の断食が終わった日に、入院していた奥さんが仮退院して教会に来られました。その方が、「祈ってください」と言われるので、お祈りしました。
 「神様、病が癒されますように」と祈りました。すると彼女に、何かを吐き出すかのような反応がありました。すると、不思議なことに、麻痺も腫瘍も消えてしまったのです。

 アメリカ旅行はほとんど中止になっていましたが、彼女が癒されたのでアメリカに行くことになったのです。
 そして、ロサンゼルスからハワイに立ち寄り、ハワイから日本に帰る途中、私の座席の斜め横に座っていた、綾子先生との出会いがあったのです。

 しかし、彼女にも大きな戦いがあったことが後にわかりました。
 彼女が日本に飛び立つ前日、アメリカ本土から電話がかかってきたそうです。
 「あなたの息子さんが病気で死にそうです。すぐ会いにきてください」と言われたそうです。彼女は日本へ行く準備が整っていました。普通ならば何があっても、子どもの所に飛んで行くと思います。
 しかし彼女は神様に祈ったそうです。すると、「あなたは日本に行きなさい。息子の命はわたしが預かっているから心配するな。恐れずに日本に行きなさい」と語られたそうです。
 そして、「明日飛行機に乗ると、一人の男性に出会います。その出会いは大きな事だから、よく祈って飛行機に乗りなさい」と語られたそうです。
 それで彼女は、緊張して飛行機に乗りました。しかし主が語られたような、神の器のように見える男性は、どこにも居なかったそうです。

 彼女の斜め前には、アロハシャツを着、パンチパーマをかけ、サングラスをかけ、白いパンツを履いた変な男がいたそうです。すると、突然、その男がカバンの中から聖書を取り出し、二時間くらい連続して読んでいました。
 彼女はそれでも信じられず、祈っていたそうです。「本当にこの人でしょうか。この人に話しかけて良いのでしょうか」と祈っていると、「そうだ、この男だ。話しかけなさい!」と語られたそうです。
 そこから私と綾子先生との交わりが始まりました。やがて綾子先生がタコマに移動し、通い始めた教会がジョー先生の教会でした。それは全く脈略なく、ただ自分が住むようになった地域にある一つの教会でした。その教会の副牧師がジョー先生でした。そして今や私とジョー先生は一緒に働くようになり、去年は共にハワイ・リバイバル・ミッションで奉仕しました。

 今回、ヤキマで「霊的戦いセミナー」を行うことができました。ヤキマの幾人かの牧師たちは霊的戦いのことを理解し、一生懸命、街のために祈るようになりました。その中の一人はヤキマ市長となりました。
 二十二年前、私たちがアメリカに行かなければ、このような出会いは決してありませんでした。新城教会も今頃、まったく様子が違っていたと思います。
 あの日は悪魔の「邪悪の日」であり、大攻勢の日であったのかも知れません。けれども、霊的戦いについてよくわかりませんでした。しかし、曲がりなりにも、真剣に祈ったことによって勝ち取ったと思います。

 しかし、今はわかります。「あれはただ単なる出来事ではなく、霊的戦いだった!」と。
 霊的戦いを意識し、聖霊によってとりなしの祈りをするならば、必ず、大きな勝利へと結びつくと信じます。パウロが語ったように、「主があなたに、圧倒的勝利を与えてくださいます」。

 今週私たちは色々な出来事や、判断の局面に遭遇するかも知れませんが、私たちは常に聖霊様の声を聞き、とりなしの祈りの中で働きを進めたいと願います。
 この戦いが肉の戦いではなく、霊的な戦いであることをしっかりと意識して働きましょう。

 七月、八月は日本において偶像礼拝が強く、悪魔も真剣に働く季節であると思います。霊的戦いを理解しないならば、大変なことになりかねません。しかし、戦いに目覚めたならば、主の勇士となることができます。お祈りします。


[バックナンバー]