心を騒がしてはなりません


2008.7.27(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

旧約聖書 イザヤ書35章3節〜4節
弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」

 ハレルヤ!おはようございます。暑い日が続いていますが、お互いに祈り合い、支え合っていきたいと思います。
 今、お祈りの中にもありましたが、ぜひMくんのためにお祈り下さい。主が彼を守ってくださり、癒されるように祈ってください。Mくんは金曜日に救急車で運ばれました。
 彼が運ばれる十分程前に、私は不思議な体験をしました。それは、どうしても彼の家の前に行って祈らなければならないという思いが与えられ、彼の家の前まで行って、一家の守りを祈りました。
 その後、彼が突然倒れて搬送されたという、知らせを聞きました。主が彼のために真剣に祈るようにと、語っておられると思いますので、ぜひ、キリストのからだの中で、一つとなって祈っていきたいと思います。

 教会は大きな家族のようなものです。ですから、一人が苦しめば、皆が共に苦しみ、一人が喜べば、皆が共に喜びます。そのような中で神の国は前進していきます。自分のことだけではなく、隣人のことも思いやらなければならない、と聖書にありますが、隣人のことを自分のこととして互いに祈り合うことは、大変重要です。からだが大きくなれば、悪く見える事柄も時にはありますが、教会は、互いに祈り合う特権が与えられていることを、感謝したいと思います。

 今日は「心を騒がしてはなりません」というテーマで学びます。
 時々、大波のように心が騒ぐことがあります。牧師をしていると、「一喜一憂」という言葉がありますが、「一喜百憂」くらいしているかも知れません。しかしそれらに対して、主イエスの名によって立ち向かっていくのが、教会の使命と信じ、頑張っています。

『弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」』

 力強い言葉です。イエスさまが十字架にかかる前、一つのことばを語られました。イエスさまはご自分が、十字架にかからなければならない事を知っていました。ヨハネ十四章一節、

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

 聖書は、記されていることを歴史的な視点で読むのか、また他人事として読むか、また自分の事として読むのかで、全く意味合いが変わります。もちろん、聖書は深い歴史的意味合いもありますし、また、対象となる人物にも目を留めなければなりません。
 しかし聖書を読むとき、自分がその中に入って、み言葉を受け取ることが重要です。『あなたがたは心を騒がしてはなりません。』とイエスさまが語られましたが、私ならば、「滝元順は心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたし(イエス)を信じなさい。」と言う具合に、皆さんの名前を入れて読んで下さい。

『○○は心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

 このみ言葉を、自分のものとして信じることが大切です。
 マタイ十八章三節から四節に、

『「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。』

とあります。聖書の価値観は、この世の価値観とは正反対です。この地上において偉い人は、知識を持った人、経済力がある人、人の上に立つ人が偉い人と定義づけられます。しかし神の国で一番偉い人と定義づけられるのは、「子どもたち」とあります。
 イエスさまは子どもたちを呼び語りました。特にユダヤ人社会の子どもとは、一番価値のない者とされていました。日本ではそうでもありませんが、ヨーロッパなどに行くと同様の考えがあるようです。
 例えば、日本で電車に乗って子どもが立っていたら、親が子どもたちに席を譲ることもあります。子どもが汗を流しながら前に立っていたら、大人は座っていてはいけないような、雰囲気になります。しかしヨーロッパでは、大人が来たら子どもは大人に席を譲るそうです。なぜならば、「大人は疲れていて、子どもは元気」という考え方があるからです。

 しかし、イエスさまは全く逆のことを言われました。「子どものようにならないと、神の国に入ることはできない」。
 子どもたちのような生き方が、一番神の国に近いのです。人は知識や経験が増えていくと、物事を複雑化します。今までの経験や学んだことを付け加えて、一つの評価を下します。
 しかし子どもたちは単純に物事を考えます。聖書が教える信仰の世界は、「複雑化しないで、単純に主により頼む」という教えです。

 先週は韓国から大勢のお客さんが来られ、礼拝の雰囲気もだいぶ違ったかも知れません。日曜日は五十数名が来られていましたが、月曜日から来られた方々を含めると、七十名以上の韓国の兄弟姉妹と共に、五日間を過ごしました。
 日本人と韓国人を比べると、文化や生活習慣がだいぶ違います。しかし今回は、心を一つにして主を求め、韓国の兄弟姉妹も、大変恵まれて帰って行かれました。
 そのような中、私たちもたくさんのことを彼らから学びました。韓国の兄弟姉妹は、お年寄りから若い方々まで、単純に主を求めておられました。彼らがいつも単純なのかというと、そうではありません。しかし、主に向かう姿勢は単純で、真剣に主を求めて叫んでいる姿に、心を打たれました。
 「祈りましょう!」と言うと、日本人はボソボソと小さな声で祈り始めます。しかし、韓国の方々は、大声を上げて祈られます。
 月曜日の夜、教育館で合同祈祷会をしました。大変恵まれました。いつも月曜日の夜祈祷会をしていますが、全員が祈り始めて、祈りを止めるタイミングに苦労したことはあまりありません。しばらく放っておけば、普通に祈りは終わります。
 しかし韓国の方々は、祈り始めると止まりません。一つのテーマを、太く長く祈ります。それは神からの賜物です。
 火曜日に、私たちは彼らとともに各地へとりなしの祈りに行きました。一つのチームは設楽原をくまなく巡って祈りました。またもう一つのチームは京都、もう一つは奈良、もう一つは諏訪にとりなしに行きました。どこも観光地のような所で、人が多くいるので、あまり大声で祈ると目立つと思っていました。

 私は、「日本ではあまり大きいな声で祈ると問題になるから、小さな声で祈ってください」と言いました。しかし、最初は小さな声で祈っているのですが、段々とボリュームが上がって大きな声になりました。最後は、真剣に幼子のようになって主を求めていました。

 私たちは、その姿勢を学ばなければならないと思いました。新城教会は近ごろ、だいぶ品が良くなってきましたが、クリスチャンとしては、ワイルドな部分と品の良さの両方を持っていなければなりません。私たちは幼子のようにならないと、天の御国に入ることができないと教えています。「天の御国」とは、地上でも体験できる「リバイバル」につながります。リバイバルのためには、私たちは単純に、激しく、主を求めることが必要だと教えられました。

 特に、色々な心配事が目の前に起こったら、激しく主を求めて祈る者でありたいと願います。箴言三章二十五節に、

『にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。』

とあります。色々な事件が起こると、普段はイエスさまが共にいて下さると信じていますが、その瞬間、イエスさまが遠いところに行ってしまい、自分だけとり残されるような気がします。
 しかしどんな状況にあっても、主はともにおられます。「にわかに起こる恐怖に脅えてはいけない」と教えています。

 数年前アメリカに行く途中、飛行機に乗っていると、突然機内のランプが消え、非常ランプが点灯しました。何が起こったのだろうかと心配になりました。床にも非常灯が付き、非常口への導線が敷かれました。しかし太平洋の上で脱出することはできません。急に血の気が引き、冷や汗が出て、もう駄目だと思いました。
 すると何となく煙の臭いがしました。更に私は脅えました。私の隣に座っていた人がトイレから帰ってきて、「トイレが煙で充満していた」と言いました。「この飛行機は落ちるかも知れない」とさらに思いました。あと何分後、私はこの地上から去るのだろうかと思い、平常心ではいられなくなりました。何の情報も、アナウンスもありませんでした。しかし最終的には、電気系統の故障で、事なきを得ました。

 突如として、恐ろしいことが人生に起こることがあります。しかし、決して脅えなくても良い、悪者が襲いかかってきたとしても、脅えなくても良い、主が共におられるからと、聖書は告げています。

 イエスさまが一緒にいて下さるとは言っても、実際どこにおられるのか肉眼では見えません。イエスさまがここに立っておられ、目と目を合わせて話すことができるならば、恐れないで済むかも知れません。
 しかし、私たちの目では確認することはできません。けれども聖書は、色々な方法で確認できると教えておられます。
 一般的に、神とは、いと高きところに住まわれていて、かけ離れた存在のように思います。しかし聖書は、この地上における神の住まいについて教えています。イザヤ書五十七章十五節に、

『いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』

とあります。その名は聖と呼ばれる聖い方、高く聖なる所に住まわれている方ですが、地上のどこに住まいを設けられるというと、「へりくだった人とともにいる」とあります。
 色々な問題が起こると、人はそれまでの高ぶった思いが一瞬にして変えられ、へりくだらされます。
 最近、教会に来られる方々は、色々な問題があって来られる方々が多いです。それは、心がへりくだったから、教会に来たと言うことができます。問題が何もない時は、神なしで生きていけると思います。しかし、自分ではどうにもならない時、イエスさまに助けていただかなければと、このような田舎でも教会の門でも叩くのです。
 田舎で教会に行くことには勇気がいりますし、プライドがあったら入れないかも知れません。しかし苦しみがあれば、プライドは関係なくなり、イエスさまの所に行こうと決断します。それは、へりくだりの結果です。そこに、主が住んでおられるのです。

 もしも今日、自分ではどうしようもない問題があり、心がダウンし、落ち込んでいるならば、ある意味で、落ち込みは良いことです。なぜなら、そこに主が座を設けて下さっているからです。落ち込んだことが一度もないと言う人はかわいそうです。人生に落ち込みがあるとき、主がそこにおられる時なのです。イザヤ書五十七章十五節から十九節に、

『いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。』

 ここでも、砕かれた魂とともに主はおられると教えています。また、色々な問題は、「人の罪のため」であることも教えています。十七節に、

『彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。』

とあります。色々な問題が、罪のゆえに起こってくる場合があります。特に、「むさぼりの罪」とあります。コロサイ三章八節に「むさぼりの罪」とは「偶像礼拝の罪」と記されています。
 現代訳聖書には、「彼の偶像礼拝のためにわたしは怒って彼を打ち、顔を隠して怒った」とあります。色々な問題の背後に、「偶像礼拝」が存在することを、聖書は言及しています。問題の背後に、悪しき敵の力が働いているのです。それらに対して立ち向かっていかなければならないのです。

 私にとって、「もう駄目だ、これ以上進めない」と最も強く感じたのが、一九九二年の事でした。七月になると毎年思い出します。一九九二年七月は、主が新城教会に霊的戦いを預言的に開いてくださり、戦いが始まった年でした。
 十六年前の今頃、私たちはこれからどっちの方向へ向くのかわからず、苦しんでいました。しかしこの十数年の間に、世界は変わってきました。十六年前に新城教会に霊的戦いが始まったとき、日本中の教会が、「霊的戦いはおかしい」と言っていました。

 教会は、神様のことだけを話していれば良い、悪魔や悪霊の事を話すのはおかしい、と言われ、色々と攻撃されました。それで、大変な試練の中にありました。

 しかし今は世界の教会の状況も変わりました。時々、世界中の教会リーダー達が集まって「世界伝道会議」が行われ、世界宣教の方策をたてる会議が行われます。スイスのローザンヌで行われた決議に基づき、二〇〇〇年にナイロビで一つの宣言が成されました。

「世界伝道のためのローザンヌ委員会の焦点は、世界伝道である。これは教会を倒し、教会の世界伝道のわざを失敗に終わらせようと絶えず目論んでいる、悪の力と支配に対するたゆまざる霊的闘争についての、不可避の要素を含んでいる。この協議会の目的は、以下の事柄について、聖書的かつ包括的な理解を得ることである。
一、敵とは誰なのか。
二、敵はどのように働いているのか。
三、私たちはすべての人々に、最も効果的に福音を述べ伝えるために、敵とどのように戦うことができるのか。」

 この宣言文にもあるように、霊的戦いに関して、聖書学的にも、歴史的にも、神学的にも、また実践的にも、どのように扱ったら良いかということが、世界宣教の大きなテーマとなっています。
 しかし一九九二年、新城教会に霊的戦いが始まった当初、突如として主がそのような働きを始められたので、私たちには大きな混乱がありました。当時属していたグループからも追い出され、日本中の教会からも批判され、大変でした。
 今でも忘れることはできませんが、甲子園ミッションの激しい戦いのただ中で、大阪で準備集会がありました。その日、新城から一つの知らせが届きました。それは、当時私たちが属していた教団から手紙が届いたという知らせで、それは決別の知らせでした。私たちはショックで、食欲がなくなってしまいました。
 その当時、甲子園ミッションの準備集会に対する、実際的ないやがらせや妨害が多くありました。たびたび、変な男が入ってきて、集会を混乱させました。
 その日の集会は、日本中の伝道者が集まる集会でした。その中に体の大きな破壊的な顔つきをした男が突然入ってきて、最前列に座りました。彼の顔は、まさしく悪しき力に支配され、縛られた顔つきでした。賛美中に目がひっくり返って白目だけになり、集会後、暴れ出しました。講師のメッセージのちょっとした表現に文句を付け、その場にいた牧師たちが一室に集められました。彼は暴言を吐いて暴れました。たいへん暴力的でした。
 その当時、包丁を紙袋の中から出して人を刺すという事件が起こっていました。彼は終始紙袋に手を入れて、凶器を持っているような仕草をしていました。誰も身動きできませんでした。

 その日、そもそも一つの事件が起こって、落ち込んでどうにもならない心境であったのにも関わらず、その上、そんな大きな事件が起こりました。私は、すべてを放棄したい気持ちでした。
 私は大男に脅されながら、心の中で、「主よ。これ以上どうすることもできません。」と絶望して祈りました。
 そのとき、ふっと、目の前に投げ出されていた聖書に目を留めると、一つのみ言葉が光のように私に飛び込んできました。そのみ言葉が、イザヤ書三十五章三節、四節でした。
 私の体からは、力が抜け、ひざがガクガクとよろめいていました。しかし目の前に開かれていた聖書から、み言葉がいなずまのように飛び込んで来たのです。『弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ!』

『弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」』

 時々主は、聖書からいなずまのようにみ言葉を語ってくださいます。大変なことがあったら、へりくだって主に叫び、み言葉を求めなければなりません。主に向かうときに、主は私たちに語ってくださいます。
 その日は、人生の中で最も落ち込んでいた時でしたが、突然、いなずまのようにみ言葉が語られました。
 誰一人としてその男に立ち向かうことができませんでしたが、突然、私は天から力をいただきました。その瞬間、私は男に飛びかかりました。危険なことだとわかっていましたが、彼にアタックしました。
 後ろから、今は亡き、田中政男先生の声が聞こえました。「順、やめろ!」
 彼は大男のように見えましたが、彼の肩に手を触れた瞬間、空気が抜けていく風船のように彼は萎れて倒れたのです。その間に警察官が来ました。そして、彼は逮捕されました。紙袋の中身は包丁ではありませんでした。

 その時、み言葉によって私は奮い立たされ、目に見える戦いのようでしたが、今から考えると、あれは霊的戦いだったとわかります。
 私たちが一番弱くされ、一番へりくだりを強いられたただ中で、主は霊的戦いを前進させて下さいました。そして今、世界の流れは、世界宣教を阻んでいるのは、「霊的な悪しき力である」と気づき始めています。
 私たちは時々、困難に遭遇しますが、そんな時にこそ、私たちは勇気を失ってはいけません。へりくだりとともに、主に近づいて行かなければなりません。そして、背後にある敵の力に立ち向かう祈りをしなければならないのです。

 ルカの福音書十九章に、ザアカイについて記されています。ザアカイはイエスさまに知られているとは、思っても見ませんでした。エリコにイエスさまが来られたとき、イエスさまは有名人でしたから、皆がイエスさまを見に行きました。ザアカイは収税人で、皆から嫌われていました。彼は背が低かったので皆から邪魔され、イエスさまが見えませんでした。それで、いちじく桑の木に登ってイエスさまが来るのを見物していました。
 そうしたらイエスさまが木の前に立ち止まり、木の上に登っているザアカイに対して言われました。十九章五節に、

『「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」』

 何とイエスさまは、既に彼の名前を知っておられ、その町で最も嫌われ者、拒絶され、悲しい思いを持っていた男の家に泊まられたとあります。
 イエスさまはどんな人の名前も知っておられ、一人一人を実名を呼んで引き出してくださるのです。
 また、聖書は、私たちが生まれる前から、神によって支えられ、選ばれていることを告げています。イザヤ書四十六章三節に、

『わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。』

 胎内にいる時から担われているとあります。週報を見ると、幾人ものお母さん方が出産の準備をしています。三月に私に孫が生まれ、今日は東京集会があるので会えるので嬉しいです。生まれてくるまでは、どんな子が生まれるのかわかりません。しかし聖書は、胎内にいる時から担われており、生まれる前からすでに主によって運ばれたとあります。今、胎内に赤ちゃんを宿している方々は、神が赤ちゃんを支え、担っておられますから安心して下さい。
 また、エレミヤ書一章五節に、

『「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」』

とあります。エレミヤを将来、国々への預言者にしようと、胎内に形造られる前から聖別されていたとあります。これを信じることができますか。お母さんの胎内に宿ってもいないのに、すでにエレミヤは神に知られており、どんな働きをするのか決定づけられていたのです。
 このエレミヤを特殊な人だとは思ってはいけません。人間は神の前に皆、平等ですから、それぞれに使命があり、その人にしかできない仕事があるのです。たまたま、エレミヤは預言者という使命でしたが、皆さんには皆さんの、私には私の、神からの使命があります。
 ということは、このみ言葉を自分にも適応できます。私は胎内に宿る前から知られており、この地上に使命が備えられているということです。

 今日ここにおられる方々は、皆、目的をもって生まれました。その事を思うときに、ひとりひとりが大切な存在であることがわかります。神様は私たちを、無駄に創られてはいません。エペソ一章四節に、

『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』

とあります。天地宇宙ができる前から、地上に生まれる計画があったということです。あまりにも深淵で、私たちには理解できませんが、神の計画が天地創造の以前にあったということです。神の深淵で偉大な計画の中、誕生が決定づけられ、名を呼んでくださいました。誰一人として偶然の人生はありません。
 しかしその目的を手に入れるためには、神の愛を受け入れなければなりません。愛は、いくら愛していても、相手が受け入れてくれなければ成立しないものです。結婚されている方は体験されたと思います。
 私は家内に、「結婚してください」と申し込みました。すると、最初は断られました。彼女は私の愛を拒絶しました。辛いことでした。もう駄目かと思いましたが、真剣に祈りました。すると、彼女の心が変えられました。心が変わると、こちらの愛は彼女に通じ、また彼女からも愛が返って来ました。
 神様は、一人一人を大きな愛という基礎の上で創造されています。ですから、私たちと神様との関係は愛です。神の愛に私たちが心を開く時、人生の目的が流れてきます。

 しかし残念ながら、人間は普段ではなかなか神の愛を知ることができません。けれども、色々な問題があってへりくだりが来るときに、神の住まいが心の中に現れます。ゆえに、へりくだりの中で神と出会うことが多いのです。私たちは、常にへりくだった思いで生きていきたいと願います。

 幼子には、プライドがありません。誰かと喧嘩しても、次の日は喧嘩した相手と仲良く遊んでいます。幼子の心理状態を私たちの信仰の心にしたいものです。そのような中に神の国が現されます。今日私たちの中に、神が既に、住まいを設けてくださっています。もしも心騒いでいる方がいるならば、神は語られます。

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』
『弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」』

 復讐とは、敵に対しての復讐です。目に見えない領域の敵に対する復讐です。心が騒いでいたら、このみ言葉を思い出し、自分のものとして受けるとき、素晴らしい勝利が現されます。

 先週、韓国の方々が来られましたが、一途に主を求める姿の中にへりくだりを見ました。

 今回のグループを率いてくださっていたキム先生は、牧師ではなく、映画監督です。彼はある日、聖霊様に触れられて変えられました。彼は韓国では有名で、韓国のクリスチャンで彼を知らない人はいないようです。

 しかし、彼はある時気づかされたそうです。それまで彼には、日本が韓国を傷付けたという被害者意識がありました。しかし日本が韓国を傷付けた根底に、韓国から日本へ渡っていった偶像礼拝があり、偶像礼拝が日本で悪しき熟成をとげ、今度は韓国に対して逆流したことに気づかされたそうです。それで、韓国も日本に対する偶像礼拝の罪を、悔い改める必要があると、気づかされたそうです。それはなかなか、へりくだりがないと出来ないことです。
 日本とはこういうもの、韓国とはこういうものと、なかなか自分の国のアイデンティティーを捨てることは難しいのです。しかし彼はそのことに気づかされ、日本のとりなしの為に、二年ほど前から長野県に行って祈っていたそうです。なぜなら、仏教が百済から日本に入ってきましたが、その流れでできた寺が「善光寺」だからです。韓国から流入した悪しき力が打ち破られるようにと、祈っていたそうです。
 昨年、その帰り道、新城教会に少し立ち寄り、会堂で祈った時、主から語られたそうです。「ここに出ているリバイバルの糸を引き出しなさい」。
 それで彼は、「新城教会で集会ができますように」と一年間祈ったそうです。私の所にメールが来ましたが、私は一回しか会ったことがないし、その方の背景がわかならいので、しばらく放っておきました。けれども今回、人手によらず、日韓合同の集会が実現しました。

 彼のインターネットのブログが韓国で有名です。彼が一つの文章を掲示すると、多いときには一万人ほどが読むために訪れます。その中で、「新城教会に行き、日本のリバイバルのために祈りたい人は連絡してください」と出すと、あっという間に若者達が集まったそうです。それで今回、七十名限定で新城に来たと言われました。へりくだりの心がないと、なかなか、できないことだと思います。彼はそんなことをしなくても、十分生活ができる人です。しかし神の声に忠実に従い、新城へ来てくださいました。
 また、私たちも、彼らに新城教会で起こった霊的戦いについて、分かち合うことができました。彼らはたいへん驚き、感動していました。
 「こんな話は今まで聞いたことがない。これはどうしても韓国に必要な働きだ。すべてのクリスチャンがそのメッセージを聞かなければならない」と、興奮して帰っていきました。
 来年、韓国リバイバル・ミッションを計画していますが、神が人手によらず、彼らを感動させそのために準備されています。彼がブログで、「韓国リバイバルミッションあるから、みんな集まりましょう!」と書くだけで一万人くらい集まりそうです。

 神は一人の人を選んで大きな事をされます。また一人がどのように主に応答するかで、国が変わり、世界の歴史が変わります。
 そんなきっかけが、心がくじけたり、弱ったり、へりくだらなければならない状況が起こる中で導かれることが多いのです。それは正に、主が私たちの近くにおられるときであり、永遠の計画が実行される瞬間であるのです。

 今日ひとりひとりに用意された計画があります。それを受け取っていきたいと願います。またそれを受け取るために、幼子のように祈っていきたいと思います。今日はMくんが癒されるようにも祈りましょう。主の前に叫び声を上げ祈りましょう。韓国の方々が、隣の人は関係なく大声で主に祈っていたように、私たちも主の前に叫んで祈りましょう。日本にリバイバルが起こされるように、癒しと解放が起こされるように祈りましょう。


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