God is Love/神は愛です


2008.8.3(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

新約聖書 ヨハネの手紙 第一 4章9節〜12節
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日は皆さんとともに、神様の愛について学んでいきたいと思います。
 先週から皆さんにお祈りいただいています、Mくんは、岡崎市民病院のICUにいて、まだまだ祈りを要します。しかし、皆さんが祈ってくださったことにより、一山越えたかのようにも思います。
 教会は祈りによって支え合うことができます。問題の山に向かって、「海に移れ」と命じることができます。立ちはだかる山に向かい、神の権威を使って祈っていきましょう。
 今日は「God is Love/神は愛です」というタイトルです。

 日本人は霊の存在は認めますが、「創造主はいますか?」と聞くと、「どうかな?」と答えます。しかし、「霊魂が存在すると思いますか?」と聞くと、ほとんどが、「存在すると思う」と答えます。
 両親が亡くなって、「あなたの両親の霊魂は存在しますか?」と聞くと、必ず「存在する」と答えます。だいたい、日本人は、三代、四代位までの霊魂は周りにいると答えるそうです。

 しかし「創造主」となると、首をかしげます。聖書は、創造主なる神がおられると告げています。日本人は諸霊は信じても、創造主となると学校で教わっている進化論を持ち出し、人間は猿から進化したと言います。進化論は、突然変異で説きますから、もしも人類が突然変異の連続で出来上がったのであれば、人生の意味や意義について考えることはナンセンスです。なぜなら、私たちの未来も、すべて偶然と突然変異の連続だからです。人生に発生するすべての事象は、偶然に他ならないからです。何の計画もなく、すべて偶然進んでいくとしか言いようがありません。

 しかしもしも、天地宇宙を創り、人間を創造した神がおられるならば、創造の前に綿密な計画があるはずです。将来は、神のみ手の中にあるのです。

 ダーウィンは進化論を提唱しましたが、それがあたかも真理かのように、世界中に広がってしまいました。けれども最近は、人間が遺伝子によって創られていることがわかって、ダーウィンの理論に矛盾があることに気づいています。けれども、人は創造主を信じることは嫌がります。人が神かのように考えています。
 最近では、教育や科学の世界でも、聖書の創造主とは言わないにしても、インテリジェント・デザインという言葉が使われるようになりました。それは、人間以上の知的存在によって宇宙がデザインされたという考えです。宇宙も生物もすべてあまりにも、完璧にできているから、何らかの知的存在が関わっているのではないかというのです。

 先日ある記事を読みました。その中に記されていたことですが、現代は情報化時代ですが、情報論という立場からも、神がおられることが証明されると述べられていました。それは、なかなか興味深いものでした。
 情報とは知的存在が関わって初めて、情報として発信され、また受け取ることができます。無機質な石ころは、千年経っても自らが情報の発信源にはなり得ません。なぜならば、そこにはいのちはなく、人格的な存在ではないからです。
 けれども、石ころに人が関わるなら、そこから情報を引き出すことができ、人間を通して情報は伝達されます。石ころの成分や成り立ちなどの情報を伝達できます。
 ということは、情報とは、必ず、知的存在が関わることによって発信されると定義できます。そうしてみると、人間は、遺伝子DNAよって形成されますが、お母さんのお腹に宿って、十月十日の時間の経過中、手が出来、足が出来、徐々に人となっていきます。そしてやがて一つの命として生まれ出ます。なぜなら、遺伝子から、「手を作りなさい、足を作りなさい、目を作りなさい。足を作りなさい」という命令を発信しているからです。それらを誰が発信しているのでしょうか。お父さんとお母さんが命令しているわけではありません。

 私は孫の指を見ると、五本あるのを見て不思議に思います。それは情報が発信されたことによってできたと言えます。何らかの知的存在が関わっていなかったら、それはあり得ません。
 ということは、創造主なる神がおられるのです。

 日本人の神概念は一生懸命拝むと神になるが、放っておくと鬼になるという考えです。日本人は一年の内、二回真剣に拝み事をします。それは一月と七月、または八月です。一月から見て、七月は一年のうちの真ん中です。東洋人には、「陰陽理論」があり、陰と陽のバランスが取れているときに人は幸せだ、という考え方があります。この考え方の根底は、悪神と、善神が一体化して、初めて人間は幸せに暮らせるという考え方です。
 その考えが年間のサイクルに組み込まれています。一月は、神社に行きます。それは「年神」という良い神の部類を拝むという意味があります。そして七月、八月は盆の時期です。盆は祖先崇拝ですが、その目的は、「先祖が祟るといけないから」ということで一生懸命祀ります。
 何か悪いことが起きると、「今年は盆行事をおろそかにしたから、こうなってしまった」と言います。
 私たちは、百年もしたら皆、先祖になります。皆さんが先祖になった時、孫やひ孫にたたりたいでしょうか?そんな人はいないと思います。にも関わらず、一生懸命先祖供養をします。

 先祖供養をするとき、人々は何らかの感触を覚えます。何か先祖のような存在が来ているのを感じるので、一生懸命やります。しかし、「この霊感は何だろうか・・・」と疑わなければなりません。
 人が死んだらそこらへんにフワフワしていることはありません。人間は神が創られたので、生まれるときも神から来ますが、死んだら神の支配下に戻ります。神の完全管理下に任されるのです。ゆえに、生きる者の世界と、死者の世界とはつながりがありません。

 けれども、何らかの手応えを感じるならば、それは、先祖ではなく先祖のふりをし、人々を騙している霊的存在に他ならないのです。神にもなれば、鬼にもなる存在は、初めから鬼だということです。
 聖書は神の存在について、はっきりと教えています。第一ヨハネ四章九節から十節に、

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』

 本当の神は神にもなれば、鬼にもなるような存在ではなく、人類をとことん愛しておられるお方です。
 初めの人類アダムとエバが神の教えに背き、悪魔の教えを受け入れました。その結果、人類全体が悪魔の手に渡ってしまいました。しかし、神は人類を愛するがゆえに、ご自分のひとり子イエスさまを地上に送り、サタンの手から人類を取り戻してくださいました。「ここに愛がある」と教えています。

 現在も北朝鮮に拉致されている人々がおられます。横田めぐみさんという人が、中学生くらいの頃に北朝鮮に拉致され、30年以上経ちました。しかし今でも懸命に、救出運動がなされています。めぐみさんのお母さんはクリスチャンですが、毎日、自分の娘を取り戻すために働いています。
 なぜならば、親は子どもを愛しているからです。親は何として、自分の命をかけても子どもを取り戻したいと願っているのです。そこに親の愛を見ることができます。人類の根源である神様が、人間を愛していないはずはないのです。

 神とは、愛そのものです。時には良いことをし、時には悪いことをするような存在ではありません。教会に来たら、神概念を変えなければなりません。クリスチャンになる前の世界観が、自分の考え方を支配していて、神から少し離れるとパンチが飛んでくるように考えてはいけません。神はご自分のひとり子、イエスさまを人類の罪の身代わりとして差し出すほどに、人類を愛しておられます。
 第一ヨハネ四章九節と十節を声に出して読んでみてください。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』

 四章十二節に、『いまだかつて誰も神を見た者はありません』と記されています。神は目には見えないお方です。時々、「神がいたら、目の前に出してください。そうしたら信じますから…」と言われます。しかし目に見えたら、それはすでに神ではありません。神は霊的存在なので、目には見えません。
 わかりやすく言えば、天地宇宙を創られた神様に、もしも体があって、地球も太陽も、他の宇宙も全て創られたとしたら、体は相当大きなはずです。宇宙よりも大きな体ならば、ちっぽけな私たちに見えるはずがありません。

 いずれにしても、いまだかつて神を見た人はいません。しかし、神がおられることは色々なところで確認できると教えています。先週はへりくだる中に、神がともにおられることを学びました。時々人生には、神の前にひれ伏さなければならないような、辛いことがありますが、そこに神がおられると学びました。神の住まいがそこにあると学びました。
 今日は神がおられる場所についてもう一つ学びます。第一ヨハネ四章十一節から十二節に、

『愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。』

 互いに愛し合うところに、神がおられると教えています。教会は大きなファミリーのような所です。新城教会に属しておられる方々は、現在、六百名ほどおられます。しかしその裾野は、何千人にもなると思います。一般的に言うならば、全く関係のない人々がイエスさまを中心に集まったのが教会です。ここにおられるお一人一人は、イエスさまがいなければ、全く脈略のない人たちだと思います。イエスさまがこの地上に生まれなければ、私は地上に生まれませんでした。なぜなら、私の両親は教会で出会って結婚したからです。イエスさまが生まれたことによって、大きなファミリーが生まれました。家族は互いに愛し合うものです。互いに愛し合う中で、家族としての位置が生まれます。私たちクリスチャンは、神の家族であり、互いに愛し合うことが大切だと教えています。

 時々教会の中に、ちょっぴり悲しいことや心配なこと、緊張することが起きます。それはお互いの愛を確認する機会としてくださると思います。先週から今週に掛けて、特に、Mくんの病気のいやしのために、日頃はあまり交わりがない方々も真剣に祈ってくださっています。彼のために、韓国やアメリカでも祈っています。自分の家族のように心配しています。しばらくは緊張感があって大変ですが、そこに主がおられるのです。
 病で苦しんでいる方々のために、また色々な問題で苦しんでいる方々のために、自分のこととして祈り、支えてあげることが神の愛を全うすることです。問題のテーマを皆で祈り、また問題の背後に隠れている敵の力に立ち向かうのが、神の家族の役割です。
 Mくんの病気は原因がわからないそうです。医者が色々な検査をしていますが、症状だけがあると言われています。どういう薬を使えば良いのかわからないと言われています。正にこれは、霊的戦いです。キリストのからだが一致し、皆で戦って祈るときに、どこかでヒットすると思います。悪魔の力が倒れるときに、彼も立ち上がると信じます。先週、私たちは考えられるだけの領域を祈りました。今週も彼のために、また、色々な方々のために祈りたいと願っています。今週一週間を、とりなしの週にしたいと思います。「どのようなことを祈ったら良いですか?」と主に聞き、それぞれに与えられるテーマを祈ってください。それが、互いに愛し合うことにつながり、そこに神がおられることを確認できるのです。
 神は愛であり、愛という領域でしか確認できないと教えています。互いに愛し合う中、神ご自身を感じることができます。

 聖書の中には数々の有名なストーリーがありますが、その一つに「放蕩息子」のストーリーがあります。放蕩息子の話は、子どもたちの集会などでもよく話され、一度は聞いているかと思います。親に背いて遠い国に行ってしまった息子の話です。
 しかしこれは父の愛、すなわち、神の愛について述べているストーリーです。ルカ十五章十一節から二十四節。

『またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。』

 ある人に、二人の息子がいました。ある日、弟がお父さんのところに来て、「お父さん、私が受け継ぐ財産を先に分けてください」と言いました。彼はお父さんから財産をもらうと、荷物をまとめて遠い国に旅立っていきました。
 彼は遠い国で放蕩の限りを尽くし、自分の財産を使い果たしてしまいました。お金がある時は良かったのですが、やがてその国に陰りが来て、大飢饉がありました。その時、彼には何の蓄えもなく、仕事もなくなったので知人を頼っていくと、豚でも飼っていなと言われ、畑に追いやられました。それで、豚が食べている餌に手出して食べようとしましたが、それさえも許してらえなかったと記されています。
 そんな時、彼は自分の故郷のことを思い出しました。「私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯した。でもお父さんの所にはたくさんの食糧があるから、そこに、へりくだって帰って行こう。子どもとしては受け入れてくれないだろうから、雇い人の一人としてもらおう」と勇気を出して帰って行きました。

 しかしお父さんは、弟息子が出て行ったその日から、いつ息子は帰ってくるだろうかと、戸を開けて遠い国に続く道を毎日見つめていました。
 やがて息子が帰ってきた日、お父さんが先に息子を見つけ、走り寄って抱きついて口づけし、服を替えてあげ、指輪まであげたのです。そして祝宴まで開催したとあります。
 これは放蕩息子の話と言われていますが、実は、神の愛がどれほど大きいかについて教えているストーリーです。

 私たちも、神が用意された道から離れ、自分勝手に遠い国へ旅立ってしまうことがあります。そのようなことがないように、という戒めも含んでいるストーリーだと思います。
 しかし、どんなに落ちぶれても、神は「どうにでもなれ!」とは言わず、一人の魂が救われるために、いつも待っておられるのです。神の所に帰るならば、心から喜んで、雇い人どころか、もう一度息子として受け入れてくださると教えています。
 指輪をもらったとありますが、指輪はかつて印鑑でした。それは、まだまだ、相続財産が残っているよ、と言うことです。そして祝宴まで開いてくれたと教えています。

 このストーリーから、神の愛について知ることが出来ます。しかし同時に、神から離れてしまう結果がいかに悲惨かを教えています。
 人は神によって創られているので、神の計画があります。しかし、神の計画から離れて自分の道に行ってしまうと、その行く末は悲惨です

 弟息子は、「遠い国」に旅立ったとあります。イエスさまが拠点として働いていたのは、イスラエルのガリラヤ地方でしたが、そこから見て、遠い国とはどこでしょうか。私がそのことについて調べていると、一つの説明を見つけました。その説明を読んでみます。

 「放蕩息子が旅立った遠い国とは、当時のデカポリスで、ガリラヤ湖の南東部に位置していました。デカポリスは、ギリシャ語で十の町を意味し、ギリシャの支配下にあり、ギリシャ的な習慣に染まっていました。こうした習慣は、ユダヤ本来の聖書的な文化とは相容れないものでした。実際に、信仰深いユダヤ人たちは、これらの町に一歩も足を踏み入れませんでした。
 アレキサンダー大王がこの地域を紀元前三三二年に征服して以来、ローマ時代になってからも、そのギリシャ的な習慣は引き継がれ、偶像崇拝の文化が聖書的なユダヤ文化を追い落とし、争いが各地に起こり続けていました。
 なぜ放蕩息子がデカポリスに行ったことがわかるのでしょうか。彼が財産を使い果たし、豚小屋に住み、豚の餌をあさるまで身を落としていたと書いてあるからです。
 こうしたポリスのギリシャの町々での生活とはどんなものだったのでしょうか。ポリスに入ると、ヒッポドロムと呼ばれる、戦車競技場や剣闘士たちによる、競技が行われたコロシアムがありました。コロシアムでは、剣闘士はどちらかが死ぬまで戦わされました。
 このようにギリシャ人やローマ人は、人間のいのちの価値を認めていませんでした。町の中心には、フォーラムと呼ばれる大広間があり、行政関係の建物、青空市場、ギリシャの神々が祀られた神殿、訓練所、劇場やファーストフードのレストランがありました。市場ではユダヤ教の食物規定に反する汚れた食物、また聖書の教えに反する偶像や守り札が売られていました。
 異教の神々が祀られ、神殿娼婦たちが控えており、神への礼拝行為の一つとして参拝者は、彼女たちと性交渉を持ちました。スポーツジムのような場所があるギムナジウムは、建物に入る際、アポロン神の偶像にお辞儀をしなければなりませんでした。
 またここで人々は裸になって格闘技を行っていました。(ギリシャ語で裸を「ギムノス」と言います。「ジム」というのは、裸という意味の語源があるようです。)
 劇場で上演されていたのは、偶像の神々にまつわる悲劇や喜劇でした。ファーストフードのレストランは、現代の私たちが利用するのと、あまり変わりがありませんでした。ただし、ここで出される料理は、偶像に献げた料理を客用に降ろしたもので、放蕩息子にとってこの町は、見かけ異常に危険な場所だったのです。」

 遠い国とは、デカポリスという地方でした。それは、ヘレニズム文化の影響によってできた町々で、上記にあるような環境でした。父から財産を分けたもらった弟息子は、ガリラヤ湖を渡り、デカポリスへ行って、身を持ち崩したと考えられるとあります。私はこの説は正しいと思います。

 そして、ギリシャ風の町と今の町が、ほとんど変わりがないことに気づかされます。私たちは町に住んでいますが、町には至る所に偶像があり、性的な罪がはびこり、偶像に献げた食べ物があり、危険です。放蕩息子のストーリーは聖書に出てくる物語で、自分とは関係がないとは言えないのです。私たちも同様な危険性をはらんだ町に住んでいるのです。
 現代社会には問題が溢れています。どうしたら良いのかわからないのです。

 昨日は名古屋で興味深い祈祷会がありました。それはクリスチャンでなおかつ、専門的に社会問題を扱っている人たちが集まって、一緒に祈る会でした。どういうわけか、私も呼ばれましたので、情報を交換し、一緒に祈りました。
 そこには問題解決のスペシャリストたちが集まっていました。教育の専門家、医療関係者、コンピューター関係の専門家、弁護士、学者、引きこもりを更正させる専門家、また現職の国会議員も来られました。最先端で問題解決の為に働いている人々が集まり、情報を共有し、どうしたらこれらの問題を効果的に解決できるかを話し合い、祈る一時でした。

 今年不思議に、主が、そのような働きを人手によらずに始めて下さっています。私は霊的戦いの専門家として招かれたので、私はその方面から話しました。
 弁護士の仕事も近ごろは大変で昔とは違い、人生の相談のようなものだと言われました。また引きこもりの人々を専門にケアーしている人が話しました。少し前は引きこもりの話題が多かったが、今は他に関心があり、あまり関心がなくなってきていると話していました。
 「社会的引きこもり」という分野があるようです。それは、六ヶ月以上に渡り、家族以外と接触を持っていない人たちのことを言うそうです。
 そのような人たちだけでも、百三十万人以上いると言われました。そのような人の一人を助けるためには、一人の子どもを私立大学に入れるのと同じくらい、お金がかかると言われていました。色々な方法でアプローチして関係を築き、社会に戻す作業は、並大抵な仕事ではない、と言われました。

 また、弁護士の方から興味深い話を聞きました。それは、犯罪に関わる人々は、百パーセント借金の問題がある、そして、その因果関係がわからないと話していました。
 しかしクリスチャンとして、それらの問題をどのように捕らえ、解決できるかについて話し合いました。
 そこで私も話しましたが、問題は環境によっても発生しますが、もしも、目に見えない透明人間のような敵がいたらどうですか、悪魔・悪霊がいたらどうなりますかと話しました。皆、興味を持って聞いておられました。全体の発表が終わってから、色々な質問がありました。私をそのような中に加えていただいて感謝しました。背後にある敵の力に気づくようにと私は祈りました。
 社会的引きこもりは、世界では、中国と韓国、そして、日本にしかないそうです。これは「儒教圏」です。国を支配し、地域を支配している力から解放されないと、どうにもならないのです。

 放蕩息子は、ヘレニズムの偶像礼拝の町で人生が壊れたのです。しかし、放蕩息子が父の家に帰ったとは、そのような霊的環境からの解放として受け取ることができます。
 放蕩息子がどのような環境で身を崩したかというと、まず第一に、「快楽へのあこがれ」がありました。この世が楽しそうに見え、快楽が楽しそうに思えたのです。
 教会に来ているよりも、ネオンが輝いている町に出て行きたいと思います。放蕩息子は最初から放蕩息子ではありませんでした。しかし彼は町へ行って、神殿娼婦と呼ばれるような風俗にはまったのです。性的な罪にはまってしまいました。その時、彼の人生は音を立てるように崩れていきました。

 また彼はその街で、偶像礼拝にはまっていきました。聖書は偶像礼拝が人生を壊す重大な罪であると教えています。そこから離れなければなりません。
 また、この男は最初、財産を分与してもらったために、金によって身を持ち崩しました。第一テモテ六章六節から十節に、

『しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』

とあります。「金銭を愛することがあらゆる悪の根だ」とあります。
 問題のない人生を送るためには、お金の誘惑に打ち勝たなければならないのです。もちろん、お金がなかったら生きていくことはできませんが、お金に支配されてはいけません。毎日の生活の中で、思考の中心が「金、金…」となると、放蕩息子と同じように滅びの道を歩んでいるサインです。

 クリスチャンは、お金の支配の上に立たなければなりません。イエスさまが生活の中心とならなければなりません。お金が中心となったら、この弟息子と同じように転落してしまいます。
 同時に、不品行と偶像礼拝が私たちの人生を壊すと教えています。私たちは放蕩息子と同じような、危険な町に住んでいますが、決して悪影響を受けるのではなく、主と共に生きる者でなければなりません。

 罪があると幸せにはなれません。罪には二つの側面があることがわかります。放蕩息子は、「私は天に対して罪を犯しました。」と言いましたが、罪はすべて神に対することです。
 同時に、「お父さんに対して罪を犯しました」とあります。それは人に対する側面です。その両者への悔い改めが必要であることがわかります。
 神に悔い改めると同時に、何か悪いことをしたら、相手に対しても悔い改めることが必要です。

 けれども、どんなに身を持ち崩したとしても、神に愛されていない人は一人もいません。神はさばきの神ではなく、泥まみれになっている息子に対して、走り寄って、子どもの地位を回復させ、宴会までしてくださる素晴らしい愛なる神なのです。
 私たちの神様は、私たちを決して見捨てないお方です。けれども、私たちが住んでいる町々は、デカポリス以上に危険をはらんだ場所であることを知り、悪しき力に立ち向かっていかなければなりません。

 イエスさまがデカポリスに行かれたときに、最初に何をされたのでしょうか。それは、墓場に住んでいて、悪霊に支配されていた男を解放しました。それはレギオンという、地域に関わっていた悪霊の軍団でした。
 私たちの町にも同じような環境がありますが、毒されることがないように注意してください。
 また、今日初めて教会に来られた方々も、そのような道に行ってはいけません。不品行、偶像礼拝、お金を愛する道に行ったら、目の前はよく見えるかも知れませんが、最終的には悲惨です。
 しかし神に帰るなら、全てを回復してくださいます。なぜならば、神は愛だからです。ご一緒にお祈りしましょう。

(告白の祈り)
「イエスさま。今私はイエスさまだけに目を向けます。あなたが私を愛して下さっていることを心から感謝します。私もあなたの愛に応えていきたいと願っています。私が犯したすべての罪を赦してください。神と人の前に、今、すべての罪を悔い改めます。私を救い出して下さい。私に駆け寄ってきて、私を救い出して下さることを感謝します。イエスさまのお名前でお祈りします。アーメン」

ヘブル十三章一節から六節に、

『兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」』

 主を味方につけるためには、苦しんでいる人々を思いやることです。お互いに愛し合うところに神がおられると学びました。苦しんでいる人たちを思いやりましょう。
 そして、『不品行や姦淫を行う者をさばかれる。』とありますので、常にきよく歩めるように祈りましょう。また『金銭を愛する生活をしてはいけない』とあります。
 これらの条件を満たす時、「主は私の助け手です。私は恐れません。」と宣言できます。今日はこの条件を満たして祈りましょう。


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