The Decision/決断


2008.8.10(SUN)
新城教会牧師 滝元順師

新約聖書 ローマ人への手紙 12章1節〜2節
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 ハレルヤ!今日はゴスペル・クワイヤーの素晴ら賛美を聞かせていただき、心から感謝します。新城教会には賛美の賜物が溢れていて、毎週、素晴らしい特別賛美を聞くことができて感謝します。主の名が高らかに賛美され、主が喜んで賛美を受け取ってくださっていると信じます。
 オリンピックが始まり、日本中、世界中が浮き立っています。オリンピックが始まると、自分が日本人だとわかります。自然と日本を応援しているからです。私たちは韓国リバイバルミッションのために働こうとしていますが、日本と韓国が戦いはじめると、「日本、頑張れ!!」という気持ちになります。「世界のリバイバルを祈りましょう」と言いながらも、まだまだだなぁ、と思う時がよくあります。
 オリンピックはもともと、あまり良い意味で始まったものではありません。ギリシャの神々に対する奉納から始まっています。相撲も神道の神々に対する奉納ですが、オリンピックも同じです。このような時には、世界の国々の守りのために祈らなければなりません。特に、中国のオリンピックでは、テロが起こる可能性が大きいと言われています。決してそのようなことがないように、祈らなければなりません。

 今日は皆さんとともに「決断」というテーマで学びます。私たちは毎週教会に集まって、主を礼拝しています。また、一度しかない人生を幸せに生きるための秘訣を聖書から学びます。しかし、聖書にある幸せの秘訣は、世の中の一般で語られる秘訣とはだいぶ違います。
 ローマ書十二章は、クリスチャンのライフ・スタイルについて教えています。ぜひ十二章をお読み下さい。一節から二節に、

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

 信仰の世界は、「決断」と深く関わっていることがわかります。この中に、『心の一新によって自分を変えなさい』と勧められています。私たちは、何らかの決断をしながら生きています。一日は、大小様々な決断により成り立っています。仕事の中でも多くの決断をしなければなりません。

 また、昼ご飯にレストランに入っても、決断を迫られます。メニューを広げると、全て食べたくなりますが、その中から予算に合わせて一点のメニューを決断しなければなりません。決断力がない人と共にレストランに入ると、イライラすることがあります。決断するのはたいへん難しいです。
 特に信仰の世界では、心の一新によって自分を変えることが大切です。それは、人生の中で最も優先すべき決断です。神に対して心を決めることが、祝福への道なのです。すでにクリスチャンになられた方は、ある時点で心を決めたと思います。「私はイエスさまについて行くんだ!」と心を決めたとき、祝福が流れてきたと思います。

 み言葉が語っているように、「心の一新によって自分を変える」決断を、神の前にしなければなりません。十二章二節に、

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

 私たちは世の中に住んでいますので、体制に流されることはとても簡単です。しかし聖書は、『この世と調子を合わせてはいけません。』と告げています。調子を合わせるのではなく、抜け出す決断をしなければならないと強く迫っています。
 霊的戦いの勝利の鍵は私たちの手の中にあります。それは私たちの正しい決断とともにあるのです。神の前に正しい決断をする時、勝利のスイッチが入ります。

 今、私たちは神の前で礼拝をささげています。礼拝は、毎週日曜日午前十時半に始まります。皆で賛美し、牧師のメッセージを聞くのが礼拝のように考えているかも知れません。
 しかし聖書が教える礼拝は、『あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』とあります。
 礼拝の中心的意味は、私たちの生き様そのものです。礼拝とは、日々の生活で、いかにきよく生きるかどうかにかかってきます。ですから、私たちはこのような世界の中で、常にきよさの道を選ぶ決断をしなければなりません。

 この世は罪で満ち、汚れで満ちているかも知れませんが、どのような行動を選択すれば主が喜んでくださるかについて常に考え、主が喜ばれる、きよい道を選び取っていかなければなりません。

 『この世と調子を合わせてはいけません』と、聖書は、「世界」ではなく「世」と表現しています。「世」とは、「神に敵対する力や考え」を意味しています。神に敵対する力や考え方を採択してはいけないのです。罪に染まった価値観を共有してはいけません。そこから抜けだし、断ち切り、良い決断をしなさいと教えています。
 今週も様々な決断が迫られると思いますが、常に、神のみこころを求め、神が喜ばれるきよい道を選ばなければなりません。

 最近の社会はじっくりと考える時間が不足しています。実際、落ち着いて思索にふけるような時間はどのくらいあるのでしょうか。一週間、考える暇もないくらい忙しい中で過ぎ去っていきます。何かボーッとしている時間が、あたかも罪であるかのように思えてしまいます。少しでも時間があったら、何かをするライフスタイルです。
 しかし聖書は、私たちの行動について、時には立ち止まり、見つめ直すように勧めています。神の前に出て、自分の行動について見つめ直す時間を持たなければならないのです。

 イスラエルをカナンの地に入国させた人物はヨシュアです。ヨシュアが死ぬ前に、イスラエルの十二部族のリーダーたちを集めて遺言を語りました。ヨシュア記二十四章十四節から十五節に、

『今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」』

 ヨシュアはリーダーたちを集め、一つの決断を迫っています。彼らが住んでいる環境は、カナンの偶像で満ちていました。エジプトから帰ってきたのにも関わらず、周りは偶像で満ちていました。
 ここでヨシュアは、「あなたがたはどっちを選びますか。カナン人たちが仕えている神々に仕えますか。それとも、主に仕えるのですか」と決断を迫っています。そしてヨシュアが人生の最後に語ったことばが、『私と私の家は、主に仕えます』という宣言でした。

 ある意味で日本においては、『私と私の家とは主に仕える』という決断を下すのは、なかなか難しい環境です。しかしそんな中でも、『私と私の家とは、主に仕える』という決断をしなければなりません。かつてイスラエルも、同様な決断を迫られたことをここで教えています。私たちの周囲の環境は劣悪で、少し手を伸ばせば、すぐに罪に手が届くような環境です。しかし、私たちは常に、正しい決断をしなければなりません。

 先日ある人が不思議な夢を見たと言いました。自分に、頼んでもいないのに、次々と宅急便が届いたそうです。その小包を開けてみると、黒い壷が入っていて、開けた途端黒い煙が出たそうです。
 それで祈ったそうです。「主よ。これは一体何ですか?」、すると、「それはインターネットだ。気をつけろ!」と語られたそうです。
 インターネットは便利ですが、不必要な情報もどんどん入ってきます。新城教会のホームページも毎週更新され、全世界の人たちが見てくださっています。
 私が、「Mくんのために祈ってください」と語ると、韓国からもアメリカからも、「Mくんのために祈っています」と連絡が入りました。主が、全世界の兄弟姉妹を動かしてくださっています。

 近ごろでは、教会に行く前に「この教会は大丈夫だろうか」と、必ず、ホームページをチェックしてから来ます。インターネットは、本当に素晴らしい道具ですが、ページを一枚めくれば、汚らしいホームページやサイトがたくさんあります。それらを見るか見ないかは、個人の決断にかかっています。自分がどういう決断を下すのか、見るのか見ないのか・・・、どのような決断を下すか否かで入ってくる情報が変わります。
 インターネットを通して、黒い煙が出る壷が次々と送られてきます。それらをしっかりと拒否しなければなりません。

 今、若者や子どもたちの世代に、多くの問題があります。しかしその背後に、昔では考えられなかったような、若者たちの罪があります。それも罪とは思われないような形で忍び込み、悪魔の手口に引っかかります。ネット上には危ないゲームやアニメ、漫画などが溢れています。また本屋に行けば美しく装丁してありますが、開くと危ない内容の雑誌が多くあります。それらは、子どもたちの世界をどんどん蝕んでいます。
 現代は小学生くらいでも携帯電話を持っている時代です。時々東京に行き、地下鉄や環状線に乗って人々を見ていると面白いです。全員が携帯を開いて睨めっこしています。ほとんどの人が、この小さな物体に支配されています。携帯によって支配され、決断が成されています。それが良い結果を生めば良いのですが、その多くが悪い結果を生みます。
 今は幼い頃から、決断が迫られる時代です。ここには多くの若者たちや子どもたちがいますが、彼らの人生は私の人生よりもずっと長いです。子どもたちは良い決断をしなければなりません。たとえば、ある漫画を読んだら、イエスさまが喜ばれるかどうかをよく考え、自分で決断を下さなければなりません。

 一九九二年に、この教会に激しく聖霊様が訪れてくださいました。当時も、色々なアニメや漫画、ゲームがかなり一般化していました。しかし聖霊様が子どもたちの所に訪れた時、不思議なことが起こりました。それは、私たちが「これはやめなさい。ここから離れた方が良いよ」とは言いませんでしたが、子どもたちが聖霊の声を聞き、「これを捨ててください」と申し出てきました。聖霊の力による決断が成されないと、今の時代は生きることができません。
 しかし反面、聖霊様の働きが私たちの中に始まるためには、正しい決断が必要です。自分で、「私は主を選ぶ」「私と私の家族は主に仕える」という決断が成されなければ、容易に悪魔に食われてしまうのです。罪は初めは楽しそうに見えるかも知れません。しかし、どんどん暗闇の世界に引き込まれます。
 ですから、常に神のみこころを求め、行動が神の前で、どのように評価されるのか、よく考え、自分の身の安全のためにも、正しい決断をしなければなりません。それらは自己責任の領域に属することです。自分の決断がないと、いくらクリスチャンでも、ずるずると罪に引っ張られてしまいます。そして、最後は悪魔が大きな口を開いていているのです。そうなってからでは遅いのです。

 教会は、警告を発する場所でなければなりません。「私は決断が甘かったかも知れない」と感じている人は、今日決断してください。離れなければならない領域から、離れる決断をしてください。そうしたらあなたは幸せになれます。しかし、決断がないと、どんどん暗闇に引きずられます。ヘブル書十三章一節から六節に、

『兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」』

 ここには人生の中で、主からの助けをいただくための条件が記されています。その第一は、「兄弟愛」です。特に、「苦しめられている人々を思いやる」ことです。
 この時代は個人主義的で、それも、歪んだ個人主義がはびこっています。個人主義的であっても悪くはありませんが、自分さえ良ければ良いというのは、本来の個人主義ではないのです。私たちは互いに思いやることが重要です。
 先週も話しましたが、教会は大きなファミリーで、時には悲しいこと、嬉しいこと、心配なこと、緊張することがあります。現在、新城教会に属する兄姉姉妹は、六百名以上になりました。ですから、その家族や親族を合わせると、何千人という方々が新城教会という家族に属しておられます。
 クリスチャンにならなかったら、こんな悲しい情報を聞かなくても済んだのに、ということがあります。しかし、お互いを思いやることは、神の祝福を受けるために重要です。週報に載っている病の方々や、問題を持って苦しんでいる方々のために祈るときに、聖書のみ言葉が実現します。「主がともにおられます。主は私たちの助けです」と憚らずに、語ることができるのです。

 Mくんのためにも、祈ってくださっていますが、まだまだ大変な状況が続いています。しかし徐々に前進しているのを感じます。多くの方の祈りがあることを感じています。
 先週ある方と話しました。個人的にも大きな問題を抱えている方ですが、こう言われていました。「私にも問題がありますが、問題は横に置いて、Mくんのことを優先的に祈っています」。
 それを聞いて感動しました。大きな問題があるのにも関わらず、Mくんのために真剣に祈っていると聞き、キリストのからだの励ましを受けました。
 お互いを思いやりながら、色々な領域でとりなしの祈りが成され、戦いが成される時に、思いもよらない大勝利が現されます。私は必ず、この問題に関しても、大きな勝利を与えて下さると信じています。

 先日一人の女性が来られ、「私の息子のために祈ってください。息子は生まれつき障害があります。それは、尿をコントロールできない障害です。」と言われました。
 生まれてから十二年以上になりますが、一度も尿をコントロールすることができないと言われました。おむつをしなければ学校に行くことも出来ません。それで、この夏、辛い検査をし、生まれつきのものだからどうなるかわかならいけれど、検査して、治療方針を決めると言われました。私も、良い治療ができるようにと、知り合いの泌尿器科の医者や小児科の医者にも連絡をし、相談しました。どこの医療機関が最適かを相談し、情報をあげました。
 教会には色々な情報がありますので、何か困ったことがあったら相談してください。色々なコネクションがありますから、いろいろとご紹介できる領域もあると思います。
 その方に、「ここに電話をしたら良いですよ」と、良い医療機関を紹介しました。しかし、不可能かも知れないけど、やっぱり、少しは祈らなければいけないと思いました。
 それで、この季節は真剣に先祖崇拝がなされていますから、その領域のとりなしてみようと思いました。

 先祖崇拝は、仏教の行事ではありません。それは儒教の行事です。日本人が行っている仏教は、そのほとんどが儒教であり、黄河中流域の先祖崇拝を専門にやっていたシャーマン集団が編み出した手法です。それは、先祖の霊と呼ばれる霊を呼び出すのですが、それは先祖ではなく悪霊です。
 人間は死ぬと神の永遠の手の中に戻り、神の完全管理化に入ります。そのため、生ける者と死者の世界とは、全く隔たれてしまいます。神がすべて責任を持っておられるので、祖先崇拝は必要ないのです。
 それにも関わらず、何らかの手応えを感じるのは、先祖ではなく、先祖の振りをした死の霊なのです。日本人は、勘違いして先祖の霊と称する死の霊をわざわざ呼び出しています。その結果、家族や家系の中に、死の力や、破壊の力が関わってきます。

 私はその方の父方と母方に働いている、先祖の振りをした死の霊を打ち破る祈りをするように、主から教えられているような気がしました。
 それでその方に、「教会スタッフと一緒に、先祖崇拝の背後に働く力が砕かれるように、祈って下さい。」と勧めました。
 まずは父方関係を調べて、霊的拠点に戦いの祈りに行きました。すると、十二年間続いていた、生まれつきの夜尿症がピタリと止まったのです。
 それを聞いて、「母方にも祈りに行ってください。」と言いました。するとその方は、祈りに出かけて行きました。その人の母方の霊的拠点は岡崎市にあり、そこに祈りに行きました。

 ちょうどその日、Mくんが豊川市民病院から岡崎市民病院に搬送される事が急に決まりました。私はその人たちが岡崎方面へ祈りに行っていたのを知っていたので、すぐに電話をし、「あなたたちは、すぐにMくんが入院予定の病院に行って、先に守りを祈ってあげてください」とお願いしました。
 それで、救急車が到着する前に、彼女らが病院に行き、「Mくんを癒してください。また、この病院全体が守られますように」と祈って帰って来たのです。

 そうしたら、十二年以上続いていた、息子の障害が、完全にいやされたのです。今までは、トイレに行っても少ししか尿が出なかったのが、正常な量、出るようになったそうです。これは奇跡です。
 Mくんのためにとりなし祈ったときに、自分の息子に奇跡が起こったのです。それを見て、Mくんに対しても、奇跡が起こらないはずはないと思いました。
 自分のことだけではなく、他の人のためにも祈るときに、勝利のスイッチが入ります。この証を聞き、自分のことだけではなく、他の人のことを思いやる重要性について、改めて確認させられました。
 『苦しめられている人のことを思いやりなさい』とあります。周りの苦しんでいる方々を思い、その方々のために祈ることは、結果的に自分自身の祝福へつながります。
 また次に、

『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。』

 インターネットやメディアが、性的に汚れた情報をどんどん流しています。そのようなもので汚されると、実際にも悪い行動をとるようになっていきます。聖書はどんな時代が来たとしても、『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。』とあります。
 さばかれるとは、そのような罪を犯すなら、敵が関わって、人生が壊されるという意味です。どんなに誘惑があっても、まだ結婚されていない方々は、一線を越えてはなりません。また結婚されている方々は、浮気をしたり、不倫をしてはいけません。それは一人ひとりの決断にかかっています。簡単に情報が手に入り、いくらでも罪に手が届く環境が転がっています。携帯でもコンピューターでも、汚れた罪の場所に行く情報が多くあります。
 しかし、聖書のみ言葉にしっかりと根を下ろし、はっきりと「ノー」と宣言し、罪から離れる決断をしなければなりません。それは一人ひとりに決断のスイッチが与えられています。
 そして次に三章五節に、

『金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。』

 『わたしはあなたを離れず、また、あなたを捨てない』という約束に行き着くまでに、いくつかの条件があります。隣人に対する思いやり、性的罪からの解放、またもう一つは、金銭を愛する生活から離れることが条件となっています。
 金銭を愛する生活について、私たちがどのような決断が必要なのでしょうか。先週も、このことに少し言及させていただきました。
 先週の木曜日に、一日とりなし祈り会をしました。「今年のテーマは何ですか?」と祈っているときに、主が、「お金という領域に働く悪魔の力に立ち向かう祈りをしなさい」と語ってくださいました。
 第一テモテ六章六節から十節に、

『しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』

 ここでは、「大きな利益を受ける道」について記されています。一度しかない人生なので、誰でも、大きな利益を受けたいと願っています。今朝、ゴスペル・クワイヤーが、「アブラハムが受けた祝福を、私たちも受け継ぎましょう」と賛美しました。聖書は、神は私たちに祝福を与えると告げています。
 しかし、そこには条件があります。利益を受ける道とは何か。それは、私たちが一般に考えている道とは違うのです。

 『満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です』とあります。今の時代は、飽くなき欲望の時代です。満足がなかなかできない時代です。一つのものを得たら、すぐに飽きてまた次のもの、次のものと追い求めている時代です。そして、それらを得るために必要なのが「お金」です。

 金はそれ自体、決して悪い物ではありません。お金の歴史は物々交換から始まっています。例えば、玉ねぎをたくさん作った人が、玉ねぎばかり食べるは淋しいので、お米を作っている人の所に行き、お米と交換して下さいと頼みます。すると、「玉ねぎ五十個くれたら、お米十キロと交換しますよ」というようなものです。
 お金とは、物々交換のための手段です。物々交換では、同じニーズの人を探すのが大変なので、貨幣経済が発展しました。古代ローマ帝国から、お金のシステムは始まりました。
 現代は、お金がなくては生きることができません。聖書はお金が悪いとは言っていません。しかし、『金銭を愛することがあらゆる悪の根』であると記しています。マタイ六章二十節から二十四節に、

『自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』

 ここで、『あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。』とあります。今皆さんの一番の関心事は何でしょうか。「目が健全なら明るいものを見、悪いと見ることができない」とあります。私たちが物事を見るのは、自分の目で見ているようですが、実は意思・心で見ています。自分の関心事は目が留まりますが、関心がなければ光景があっても、情報は入ってきません。
 例えば、動物に関心がある人は、動物に目がとまります。しかし、動物に関心がなければ、犬がいてもあまり気になりません。またスポーツに関心があれば、スポーツに目がいきます。関心がないと関係がありません。中日ドラゴンズ・ファンは、ドラゴンズに関心があります。しかし、ジャイアンツのことにはあまり関心がありません。他のチームが負けたら喜びます。どこに関心があるかで、受け取る情報が変わります。
 私たちがお金を「愛する」、すなわち、いつもお金に関心があると危険です。お金が悪いのではなく、お金が自分の中心になっていたら、気をつけなければなりません。六章二十四節に、

『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』

 私たちが神に仕えると言いながら、一方では、お金が最大の関心事ということはあり得ません。
 ここに「二人の主人に仕えることはできない」とあります。「主人」とは生き物です。一方は神、一方はお金です。本来、お金は無機質のもので、社会全体にあるシステムなので、それが主人になることはあり得ません。
 新改訳聖書では「富」というところに*印があり、注釈に「アラム語でマモン」とあります。これは何を意味しているのでしょうか。ある牧師が書いた文章を先日読み、その通りだと思いました。

 「『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』有名な言葉ですが、ここほど間違って理解されているみ言葉はありません。
 新改訳聖書を見ると、富に*印が付いており、注釈にアラム語マモンと書かれています。マモンとは、古代カナン地方フェニキア人、ペリシテ人が信仰していた神々の一人で、豊穣の女神アシュタロテや、稲妻と雷雨の神バアル、海の神ダゴンと並ぶ「富の神」です。言わば日本で言う商売の神、「えびす」のようなものです。つまりこのみ言葉は、創造主なる神とマモン神という二つの神に同時に仕えることはできません、というのが本当の意味なのです。」

 富とはマモンであり、それは「富を司る神」という意味です。富の神・マモンが何と、神に仕えることに強力に対抗する力を持っていると教えているのです。
 日々私たちは敵の力に対して、立ち向かって祈っています。私たちに最も強い影響を与えている悪霊どもがどこにいるのかと、いつも考えています。
 しかし、私たちを苦しめる最強の敵は、案外、身近なところに存在するのかも知れません。神に対抗する最も強力な悪霊、それが「マモン」と称する霊が、お金を支配し、神よりもお金を中心とし、金を愛する思いをインプットし、大きな力を行使しているということです。先ほどの文章の続きに、

 「マモン神は現代でも巨大な影響力があります。マモン神は人々に富や金銭に対する欲望を植え付け、お金に関する心配事を増やし、人々にお金に特別な力があるように思い込まさせ、争い事の種とし、人々を貧困に陥らせ、金持ちをケチにし、富の奴隷に陥れるのを最大の目的としています。
 一体どれほど大勢の人々が、マモン神の企てにまんまとはまっていることでしょう。夫婦間、親族間、会社内、友人関係、各種犯罪等、すべての人の関係、組織においての最大の問題は、お金です。お金の問題がなくなれば、大半の社会問題は解消するでしょう。
 そもそも、お金や富というのは、それ自体は中立的無害で、何の力のないもの、制度です。創造主なる神は、人をお金や富を支配する存在として創られたのであり、その奴隷となることを望まれてはいません。」

とありました。私たちが日頃の生活の中で、お金が中心になると、富を操っているマモンという悪霊の束縛に陥ります。聖書は、『金銭を愛することはあらゆる悪の根』だと教えています。今、私たちが抱えている問題の根源に、お金を操っているマモンの霊が働いていたらどうでしょうか。私たちが中心を移動する決断をしなければ、問題は解決しません。それは、主に仕える決断であり、決してお金の奴隷にならないという、「決断」にかかっています。
 『私たちの宝のあるところに心もある』とありますが、毎日の生活の中で、金を儲けることしか頭を巡っていないとしたら、そもそも、マモンの支配の影響下にあるのです。お金の上に立ち、お金に支配されるのではなく、金の霊を支配しなければなりません。

 先ほどの文章に、「マモンの霊に惑わされると次のような症状が出る。第一に、お金のことでいつも心配するようになる。」とありました。
 口癖のように、「お金さえあれば…」と言う人はいませんか。「お金さえあれば、良い家に住める。」「お金さえあれば、良い車に乗れる」「お金さえあれば、これが、あれができる」と言います。
 リバイバルミッションの実行委員会でも、「お金さえあれば…」と互いに話していることがあります。「お金さえあれば、リバイバルが起こるかも知れない」と言ってしまいます。
 しかし、イエスさまがそれを聞いたら、「わたしは必要ないのか?わたしに対する信仰はどこに行ったのか。」と言われます。すると、マモン神が出てきて、「お前はおれの手下だ。」と主張します。そうすると、常に、お金のことが心配になります。
 また、「お金の管理ができなくなる。お金が常に不足している。あるいは、不満感に悩まされる。私にはそんな余裕がない、という気持ちになる」とありました。その中に、「度重なる衝動買い」とありました。

 男性と女性は買い物の動機が違います。女性はいつも千円の品物が、五百円になっていると買います。千円で二個というと、つい買ってしまうようです。ショッピングが私のストレス解消と言う人は、マモンという悪霊にやられているのかもしれません。衝動買いの思いが来たら、マモンが近づいていることを察知して、その思いを支配する決断をしなければなりません。
 案外、「今日、これがどうしても欲しい」と思いますが、ほとんどの物が、別に手に入れなくても、いのちには別状ないとある牧師が語っていました。
 一日我慢しても、次の日にも生きていると語っていましたが、実にそうだと思います。私も新しい携帯電話が欲しくて、それを手に入れたことによって、生き延びたという経験はありません。
 欲望の背後に、敵の力が働いていることを、知らなければなりません。諸悪の根源であり、最も強い悪霊が、お金の背後に働いているとわかったら、どうでしょうか。お金の使い方も変わると思います。
 また次に、「ケチ、強欲と拝金主義、不平不満、負債に縛られる、お金に対する過大評価」となっていました。
 私たちは、お金に支配されるようなライフスタイルを切り離さなければなりません。聖書は、衣食があったらそれで満足するライフ・スタイルを目指しなさい、それが一番利益を受ける道だと教えています。

 お金に支配されるのではなく、お金を支配する決断をして働いてください。諸悪の根源に働いている敵の力が打ち破られ、もっと自由になれると思います。
 マタイ六章は、マモンと呼ばれる富を支配する霊からの解放の書だと思います。六章の最終的結論は、六章三十一節から三十二節に、

『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。』

 私たちはお金に信頼するのではなく、神に信頼しなければなりません。お金さえあればできるのではありません。主がおられるなら、すべてできます。すべてが神から与えられるという前提に立つことが重要です。
 色々な心配事を、まず神に全て預けるように教えています。経済的心配、健康的心配、色々な心配がありますが、最も信頼を置くべき方は、イエスさまです。またマタイ六章三十三節から三十四節に、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

 人生の中で決断しなければならない最大の領域は、常に、「神の国とその義を第一に求める」ことです。それが人生の中心にならなければなりません。
 神に仕えるか、マモンに仕えるかという選択の中で、勝利する秘訣は、神の国と神の義を第一に求めること、神のみこころを選び取っていく決断が重要です。
 ヤコブ四章十三節から十五節に、

『聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」』

 私たちの生活の中心は、主のみこころならば生きて、あれこれをしようというものです。こうして、ああして…と計画をするのは悪いことではありませんが、根底の決断は、「主のみこころなら、明日も生きてこのことをさせていただこう」というものです。
 そのような決断の中に生きていくときに、気がつくと最大の利益が与えられています。諸悪の根源である、敵の力から解放され、自由になりますように。
 一言お祈りします。

(告白の祈り)
「イエスさま。私はあなただけに仕えます。その決断します。この世に仕えていた罪を赦してください。マモンの力から解放してください。マモンに対して勝利を宣言します。常に主に仕えることを決断します。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン。」


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