わたしにとどまりなさい


2008.8.17(SUN)
新城教会牧師 滝元 明

新約聖書 ヨハネの福音書 15章1節〜11節
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。いつも皆さんにお祈りいただき、今日は健康でメッセージをする機会が与えられたことを感謝します。
 今年私は「滝元明ミニストリー」ということで、四月は沖縄地区、五月は関西地区、六月は北海道地区、七月は九州地区を廻り集会をしました。非常に恵まれ、実数で四七二七名が集まり、その中で四五〇名がイエスさまを信じる決心をされました。また九月から始まりますが、九月からはロン・ブラウンさんとイボンヌさんが来られて集会をします。特に九月十六日はこの教会で行われますので、ぜひこの日を覚えてお祈り下さり、またご参加下さい。

 九州のある町に行きました。五百名入ることができる会館で集会をしました。会場いっぱいの方々が集まりましたが、ある人は一人で百枚のチケットを売ったと言われていました。この教会で行われるときにも、多くの方が集まられるように、今からご家族やご友人をお誘い下さい。
 今日は「わたしにとどまりなさい」というタイトルでみ言葉を学びます。今日、講壇には、ぶどうの木を飾りました。これは私の家で作ったぶどうです。
 二〇〇五年四月に牧師館が出来ました。家が出来たときに鉢に入ったぶどうの木を買ってきました。それを隣との境に植えました。去年見ると、美味しい実が付いていました。そして今年は大変伸びました。肥料も入れず、消毒もしていませんが、虫が付いていないのは不思議に思います。しかし、ぐんぐん伸びて、今は十メートルほどの長さになりました。五十〜百房ほどの実がなっています。良い実を結ぶことができて、感謝しています。できたら、聖餐式のジュースを作りたいと思っています。ヨハネの福音書十五章一節に、

『わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。』

また七節に、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』

とあります。イエスさまご自身が言われた言葉です。『わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。』という言葉は、イエスさまに親しみを感じる言葉です。この地上に来られたイエスさまは、誰にでもわかるような話をされました。私も生まれたところが百姓で、また東京の農業学校へ勉強に行きましたので、『わたしの父は農夫です』という言葉が好きです。

 一九九八年に東京の日本武道館で十日間集会をしました。その前に祈っていたときにイエスさまがみ言葉を下さいました。

『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』

 イエスさまが直接語ってくださいました。私は激しく泣きました。エルサレムは私にとって一九九三年に行われた甲子園ミッションでした。「あなたは甲子園でやったように、ローマ・東京でも証しなさい」と言われました。
 私は東京でミッションを行うことを遠慮していたところがありました。もう亡くなられましたが、本田先生や有名な先生方がたくさんいるので、東京での集会を遠慮していたところがありました。しかし、東京の方が私に、「先生。いつ東京で集会をしてくださいますか」と言われました。私はまだ時期が来ていないことを言いました。ある時、「先生、時期が来ていますよ」と言われましたが、時期が来たときに東京に出向いて行きました。

 東京の先生方を集めて説明会をしました。「一九九八年に武道館を借りて、十日間集会をすることになりました。ぜひ協力をお願いします」と言いました。
 するとある先生が、「滝元先生は田舎者ですが、田舎者が東京に来て殴り込みをするような集会だ」と言われました。その時、「田舎者」という言葉を何回か出されました。
 東京にチョー・ヨンギ先生が来られたときに、私も招かれて一緒に集会をしたことがありました。チョー先生が私の隣に座った時、私もひざまずいて祈りました。「イエスさま。こんな田舎者をここに連れてきてくださって、メッセージが出来ることを感謝します」と祈りました。
 するとイエスさまが、「わたしも田舎者だよ」と語りかけられました。イエスさまはイスラエルのナザレの村でお生まれになりました。ナザレは現在人口五万人ほどの田舎です。イエスさまも田舎者です。しかも、『わたしはぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。』そして、『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です』と言われました。クリスチャンの関係について、

『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです』

とあります。今日飾ってあるぶどうの木は、今朝八時に切りました。その時は元気でしたが、だいぶ萎れてきました。なぜこのようにぶどうの実があるかというと、ぶどうの木に枝が付いていたので実ができました。けれども実が、「どんなもんだい。すごいだろう」と誇ることは出来ません。木につながっていたので下から養分を受けて、美味しいぶどうの実ができます。
 私の孫・契(けい)が「おじいちゃん、とうもろこし蒔いて。スイカも蒔いて!」というので、私は種を蒔きました。初めは、砂利で埋めてあったので作物が作れませんでしたが、土と肥料を入れて畑を作りました。

 先日、NHKの子どもの漫画を見ていました。一本のトウモロコシの木にたくさんのトウモロコシがなっており、てっぺんにまでなっている絵がありました。それを見てトウモロコシを知らない人が書いた絵だと思いました。トウモロコシは一本の木に一つか、多くても二つです。大きくなって穂が出て実が出来ていきます。我が家でトウモロコシを収穫して食べましたが、美味しかったです。トウモロコシはたくさんの皮があります。皮は実のための着物です。十五枚から二十枚くらいありました。その中に美味しいトウモロコシがあります。神様は素晴らしいです。みかんも皮をむくと人間が食べやすく、一房づつになっています。神様の愛を感じることが出来ます。ぶどうも収穫が出来ることは素晴らしいです。

 イエスさまは『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。』と言われました。木とぶどうは一つです。クリスチャン一人一人は、イエス様がぶどうの木で、私たちは枝です。みんなイエスさまという木にくっついています。ですから、イエスさまの中であったら、素晴らしい祝福を受けることができます。イエスさまにくっついていきましょう。エペソ人への手紙に、

『「人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。』

とあります。イエスさまと私たちは一つです。教会は、イエスさまがかしらで、私たちは各器官とあります。今日はイエスさまの中にあって、私たちは一つであることを感謝しましょう。ヨハネ十五章二節に、

『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』

ヨハネの福音書十五章十六節に、

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

 今日ここにいる皆を、神様が選ばれました。自分で教会に来ているようですが、イエスさまから選ばれています。自分で信じているようですが、「わたしがあなたを選んだ」とあります。皆さんは選ばれています。『それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため』とあります。また二節には、

『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』

とあります。神様は実を結ぶことを望んでいます。クリスチャンになったら、わたしにくっついていなさい。そうしたら実を結ぶことが出来ると教えています。

『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』

とありますが、「ぶどうの刈り込み」ということはありません。
 色々な食物を植えると刈り込みをします。しかし、ぶどうは刈り込みではなく、「剪定」と言います。柿や梨などは剪定します。「剪定」という言葉を辞書で調べると、

「木の一部を切り取って花や実がよく付くようにすること。」

とあります。剪定をすることによって、実がたくさんなります。私の家のぶどうが良くなっていることは、秋に剪定し、芽を残しておいたからです。すると、春になるとそこから実を結びます。剪定をしないでおくと良い実はできません。
 私たちクリスチャンも同じようなところがあります。「多くの実を結ぶために父が刈り込みをなさる」と記されていますが、神様は私たちが実を結ぶために剪定をされます。宣教の実や御霊の実を結ぶために剪定をされます。

 数日前、私は故郷の津具村に行きました。私は津具金山に三年間働きましたが、津具金山で最初に金が掘り出されたところに行きました。お金の問題についてのとりなしの為に行きました。それは、武田信玄が掘り始めたところで、ずいぶん山の上です。山に登るときに、息切れしました。年を取ったと思いました。津具金山は、佐渡の金山くらい金が出ました。私が勤めたのは、伝道に入ってから一年だけでした。
 この金山は、古くは武田信玄が戦争に負け、織田信長、豊臣秀吉らがそこで金を掘りました。それがずっと続き、私もその金山で働きました。私が入ったときは金山は赤字で、つぶれる寸前でした。しかし私は祈りました。「イエスさま。どうか金が出ますように」と祈りました。

 すると、私が入った次月は大鉱脈にぶつかり、一年のうちに三回ボーナスをもらいました。その次の年、私は八つ橋マンガンに行きましたが、私が鉱山を出た途端、全く津具金山には金が出なくなり、百人の中、七十人がリストラになってつぶれました。
 三年間鉱山で働かせてもらったことは良かったと思いました。ある意味で私も剪定された期間でした。重労働で八つ橋マンガンの仕事は苦しくて、木馬をかついで山に上がっていくときは心臓が爆発するかも知れないと思うほどでした。

 ある時、鉱山から帰ると、家内が体に石で傷ついたところを見て、「イエスさま。ここから早く出してください」と泣いて祈りました。その時にみ言葉が与えられました。『人の歩みは、主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる』とみ言葉与えられました。
 今この重労働をイエスさまが喜んでくださるなら、死ぬまでここで働くようにと言われたら、私は働こうと決心しました。
 それから仕事も楽になりました。何が祝福だったかというと、へりくだることでした。真っ黒けになって毎日、「バカ野郎!」と怒られて、低くされました。朝は八時から鉱山に入り、五百メートルほど奥に入り、百二十メートルほど縦坑を下りました。そこに入ると、皆はむだ話をしています。二十分くらいしないと鉱石は出てきません。その時は良い時間でした。へりくだること、み言葉を学ぶこと、そして信仰を持つ訓練の時でした。

 時々私たちの人生には苦しいことがあります。家庭の中でどうしてこんなに苦しみがあるのだろうかと思います。時々人生の中に大学受験を失敗したり、なぜだろうか…とか、またある人は家庭の中でも、子どもたちがどうしてこんなことになったのかと、色々な問題にぶつかります。
 しかし、それは剪定される時間だと考えると良いと思います。詩篇一一九篇七十一節から七十二節に、

『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。』

 時々訓練があります。剪定するを、文語体では「きよめる」と訳されています。私たちはきよくないと主に用いていただくことは出来ませんので、悪いところは取り去られます。憎しみ、怒り、憤りを取り除いたら、神様が用いてくださると記されています。主から用いられるようになりましょう。私たちが主によって大きく実を結ぶ秘訣は簡単です。ヨハネの福音書十五章四節に、

『わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。』

 イエスさまの中にとどまることです。今日お読みしたヨハネの福音書十五章には、「とどまる」という言葉が十回出てきます。「とどまりなさい」とあります。これからのクリスチャン生活は、イエスさまにしっかりとどまることです。しっかりとイエスさまのところにくっついていることが大切です。イエスさまのところにとどまるならば、どうしなくても実を結ぶことができます。離れてはいけません。礼拝に来られることは素晴らしいです。遠くから来られて、み言葉を学ばれていますが、この時間は養分を吸収する時です。そしていつ大きくなっていたかわからないように、いつの間にか大きくなっているのです。
 私たちもそうです。朝ごはんを食べ、昼ごはんを食べ、夜ごはんを食べ…いつ大きくなったかと思うくらい、いつの間にか成長しています。

 私は先日、津具村に行ったときに一つのことを思い出しました。ここに小学生、中学生の友だちがいたと思い出しました。卒業してから出会っていないので、何とかして福音を伝えたいと思い、尋ねてみました。
 小学生時代、綺麗な娘さんがいました。その人の家に行って、「ごめん下さい。お宅さんは、サトミさんですか。」と言うと、「はい。そういうあなたは、どなたさんですか?」と聞かれました。「私は滝元明と言います。」と言うと、「えっ、明さん?背が小さかったけど大きくなったね」と言われました。
 私は小学生の頃、前から二番目でした。サトミさんは太っていました。私が想像していた美しいサトミさんは、どんなに綺麗だろうかと思っていましたが、頭の毛が抜け、おばあちゃんになられていました。お互いにそうですが。
 私は、私の本、『天国への招待』を渡して帰ってきました。成長すると言うことは、いつ食べてどれだけ大きくなっているかわかりませんが、食べたら成長します。毎週教会に来ている方は、いつかわかりませんが成長しています。とにかくとどまりなさい、くっついていなさい。人生で一番大切なことは、有名になることや金を儲けることも素晴らしいですが、最終的にはイエスさまを信じて永遠のいのちを受けることです。もしいのちを失ったら何もなりませんので、何が何でもイエスさまにくっついていくことです。五節に、

『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』

 どんなに素晴らしい知恵があっても、どんなに素晴らしく金があっても、地位があってもイエスさまから離れたらいつかは枯れます。
今朝取ったぶどうの木はだいぶ萎れてきました。木から切り取られたら終わってしまいます。だから何が何でもくっついていたら、実を結ぶことが出来ます。聖書は『わたしから離れては、何もすることができないからです。』とあります。イエスさまから離れたら、いつかは枯れます。枯れたら火で焼かれてしまうと警告しています。どんなことがあってもイエスさまに従っていきましょう。

 あるとき、甲府の近くの塩山という所に行きました。スウェーデン宣教師がやっている教会でした。その教会に入った時から、重苦しい雰囲気がありました。集会に来る人も少なく、この教会には悪魔の支配が及んでいると感じました。
 その晩、私は教会に一人で泊まりました。二月の寒い日でした。寝ているときに気持ちの悪い夢を見ました。夢は、素晴らしい夢もありますが、その時は、悪魔から来た夢でした。気持ちが悪くて、これは悪霊が見せた夢だと思いました。心配になって真っ暗い部屋で祈りました。「イエスさま。家内や子どもたち、教会を守ってください。」と祈りました。
 そして寝ようと思い、パッと目を開けると、生まれて初めて悪霊が立っているのを見ました。悪霊は大声で、「滝元、塩山からすぐ帰れ!!」と言いました。私はビックリして大声で、「イエスさまの名によって、悪魔よ退け!」と怒鳴りました。悪霊は霊的なもので、すぐに見えなくなりましたが、ベッドの廻りをグルグル回っているように感じました。
 私は飛び起きてひざまずき、「あなたの血潮とイエスさまの名前によって、守ってください」と祈りました。悪魔はイエスさまの血潮が嫌いです。祈っているうちに悪魔はどこかに行ってしまいました。それでまた、ベッドに入って寝ました。
 朝目を覚ますと一つのみ言葉が与えられました。

『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』

 今日イエス様から離れて、サタンに勝てる人は一人もいません。イエスさまから離れては、何も出来ません。皆さんは、毎日聖書を読んでいますか。読まなくても生きられる時代です。朝起きたらテレビを見ます。
 しかし朝起きたら、神の前にひざまずいて祈ることが大切です。「聖書は週一度礼拝で学びます」というのではいけません。毎日習慣づけることが必要です。私は教会で、「最低一日三章は聖書を読みなさい」と言われ、これまでの約六十年、毎日読んでいます。毎朝早天祈祷会では、ここに来られている方々の名前を全部挙げて祈っています。祈らなくてもやっていけると思うのが一つの罠です。礼拝は来なくても信仰が持てると思いますが、礼拝は大切です。忙しいと言っても死ぬまで忙しいです。一週間を創られたのは主ですから、一日は礼拝を守ること、聖書を学ぶのは大切です。良い実を結ぶことが大切です。イエスさまにとどまることが大切です。十五章七節に、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』

十六節に、

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

 イエスさまにくっついていたら、『何でもあなたがたが欲しいものを求めなさい。そうすれば叶えられます』とあります。「何でも」です。今日信仰を持ってください。イエスさまにくっついていたら、何でも祈りを聞いて下さいます。何でも祈ることはとても感謝です。

 私は一九五〇年五月三十日に東京の久留米川という小さな川でバプテスマを受けました。その時に先生が、「兄弟。今日は罪に対して悔い改め、神に祈るときだ。バプテスマの時の祈りは何でも聞かれる。何でも良いから祈れ」と言われました。それはこのみ言葉からの引用だと思います。「何でも」というこのみ言葉から引用したと思います。
 私はその時伝道者になりたいと思っていました。「イエスさま。罪を赦してください。イエスさま、僕は伝道者になりたいです。日本中廻って伝道できる伝道者にしてください。世界中廻って伝道できるようにお願いします。アーメン。」と祈りました。大きな事を祈ったと思いました。

 今から六十年ほど前のことです。しかし、「日本中廻って伝道させてください」という祈りが聞かれました。私は一九五四年にオーケ・レナンデル先生に招かれて、豊川で天幕集会をしました。それをきっかけに、スウェーデン・アライアンスミッションやバプテストミッション、ホーリネスミッション、ペンテコステミッションなど、十六年ほどスエーデンの教会を廻り、今は全日本リバイバルミッションで奉仕しています。私を今まで五十四年間、主は、伝道者として導いてくださいました。今年六月に北海道に行きましたが、北海道だけでも今までに、百十一回行きました。沖縄も行ったし、日本で行かない県はありません。「何でも」と言って祈った祈りが聞かれました。世界中廻ってと祈りました。戦争後、世界中を廻るとは、夢のまた夢でした。
 しかし一九七〇年に、スエーデンに招かれ、それから色々な国に招かれました。夕べ起きてどれくらいの国を廻ったかと考えると、三十二ヶ国廻っていました。何でもいう祈りが聞かれました。イエスさまは嘘を言われないので、何でも求めてください。「お金持ちにしてください」という祈りは聞かれるかわかりません。神様のために金持ちにしていただいて、うんと献げたいと祈ると聞かれかも知れません。

 私はずっと旅行をします。新幹線に乗ります。必ず祈ることは、「イエスさま。これから眠りますから、東京駅に着く前の横浜の辺りで目を覚まさせて下さい」と祈ります。
 私には眠る賜物があります。十分寝ると言ったらだいたい十分で起きられます。大きなことではなくても良いので、何でも祈ったら良いとあります。朝食事をするときに、「この食事を祝福して下さい。」「健康のためにお願いします」「子どものためにお願いします」と何でも祈って下さい。箴言三十章七節から九節に、

『二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。』

 「二つのことをお願いします」とあります。今日、「何でも聞いてあげるから、二つ祈りなさい」と言われたら、あなたなら、何を祈るでしょうか。
 この人は「嘘、偽りから遠ざけて下さい。真実な歩みが出来るように。あまり富まないように。あまり金持ちになると傲慢になり、神がなんだと傲慢になっては困る。そうかと言って、貧乏で人の物を盗んでは困りますから、ちょうどなくてはならない物を持って、養って下さい」と祈っています。

 私は今考えていて、祈っている二つのことは、「誰かにイエスさまを伝えることが出来るように」またもう一つは、「良い家庭を作ることが出来るようにしてください」です。
 家内はだいぶ年を取りましたが、私は死ぬ日まで妻を愛し通すことが出来るように、「妻以外の女性に心を寄せたり、手を出したりすることがないように」という一つの祈りは聞かれました。
 今日まで他の女性に手を出したことはありません。祈りが聞かれました。良い家庭を与えてください。何でも良いから祈ることです。

 しかし今の祈りは少し大きな祈りです。『我に求めよ。あなたに地の果てまでも与える』と詩篇に書いてあるので、私は真剣に五十数年求めていることは、「イエスさま。日本にリバイバルを与えて下さい」と祈っています。寝ても覚めてもリバイバルです。
 今月末に大阪で「関西リバイバルミッション」があります。来年の韓国のために、李浩文先生が来て下さいます。ぜひお時間を作ってお出かけ下さい。韓国ミッションは日本のリバイバルの鍵を持っています。

 ヨシュアがエモリ人と戦ったときに、『「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」』と祈りました。歴史が始まって以来はじめて、太陽が一日中動かなかったとあります。私はこんな大きな祈りを神様が答えることができるなら、「イエスさま。日本を救うためにリバイバルを起こしてください」と祈っていますが、私も年ですが、「日本にリバイバルが来るまで健康を与えて下さい」と祈っています。

 今日はイエスさまにとどまったら何でも祈りが聞かれるので、信仰を持って祈りましょう。家庭の問題がありますか。問題とイエスさまはどちらが大きいでしょうか。イエスさまの方が大きいです。サタンが問題を入れても、信仰をもって勝利できるように祈りましょう。何でも祈りが聞かれるとありますので、祈りましょう。お祈りします。


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