私が弱いときこそ、私は強い


2008.8.24(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘

新約聖書 コリント人への手紙第二12章5節〜10節
このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。こうして主の前に出て主を賛美し、礼拝できることを心から感謝します。長いと思っていた夏休みも、あと一週間で終わります。子どもたちにとって、この一週間が楽しい一週間なのか、追いつめられた一週間なのかわかりませんが・・・。親は「やっと終わる」という気持ちかもしれません。
 この夏、ゆっくり休んだ方や、どこかに遊びに行って楽しんでこられた方もいると思いますが、私は一日も夏休みをとっていません。しかし、ほかの人が遊びに行くのを羨ましいと思ったこともありませんし、反対に、楽しんでこられてよかったと思うほどです。仕事をしていても、暑い日には、これだけ暑ければ海水浴場にたくさんの人がいくだろうとか、今日はかき氷が売れるだろうなあ、何杯売れたらどれくらい儲かるだろうかなどと、頭の中で計算したりして楽しんでいます。
 今年は暑い日が続き(この二、三日は、涼しくなりましたが)、体調を崩された方がいらっしゃるかもしれません。私は皆さんの祈りに支えられ、健康でここに立つことができていることを感謝します。まだまだ暑い日が続きそうですから、体調にはくれぐれも気をつけてください。

 今日は第二コリント十二章から学びます。

『ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(十節)

 「弱いときにこそ強い」。このようにいう人は少ないと思います。私は今月、五十二歳になりました。皆さんから、「先生、お元気ですね」と言われますが、やはり、年相応にあちらこちらに弱さを感じています。段々と私たちの肉なるものは衰えていきます。皆さんも、病気になったり、問題にぶつかったり、事故にあったりと、様々な問題の中で弱さを感じてこられたのではないでしょうか。

 私は仕事でよく東京に行きます。数週間前、ある会社の社長に会うために朝早く車で出かけ、東京都内に入ったとき、その方から電話がありました。「今日の打ち合わせをキャンセルしたい」。「何かあったのですか」と聞くと、「私の息子が昨日、突然亡くなったんです」と言われ、驚きで言葉を失うほどでした。やっとのことで「原因は何ですか」と聞くと、「まだわからないんですよ。一人暮らしをしていたので…」と、気が動転しておられるようでした。結局、息子さんは心不全で亡くなったそうですが、三十歳という若い息子さんを失われたこの方のことを思うと、あまりにも気の毒で心が痛みます。
 一週間後、打ち合わせに行き、「少しは落ち着きましたか」と聞くと、「まだ心の整理がついていません」。「私は男で仕事もあるからいいのですが、家内は憔悴しきって毎日泣いて祈っています。最近は、毎朝、家内が泣いて主の前に祈っている声で起こされます」と言われ、どんなにか悲しく辛いことだろうかと、かける言葉が見つかりませんでした。しかし、別れるときその方が言われたのは、「今は神さまのみこころがどこにあるかわかりませんが、信仰を持って祈っていきます」という力強い言葉でした。
 皆さんの中でも色々な病や問題にぶつかって自分の弱さを感じておられる方もいらっしゃることでしょう。特にこの一ヶ月は、Mくんの病のために、みなさんも真剣に祈っておられると思います。私も信仰を持って毎日祈っていますが、幼い子どもが戦っていると思うと可愛そうで、祈りながら涙が出てきます。何もできない自分の無力さを感じます。しかし、神にとっては不可能なことはありませんから、主に信頼して祈っていきたいと思います。皆さんもぜひ彼の癒しのために続けてお祈りください。

 今日でオリンピックが終わります。私は野球が好きなので応援していました。始まる前は、金メダルを期待されていましたが、銅メダルさえとることができませんでした。人は、あの時にあのピッチャーを出したからだとか、采配が悪いとか色々言っていますが、データーを見ると、九試合で四勝五敗の成績でした。つまり、期待ほどの実力がなかったということだと思います。
 オリンピックでメダルをとる。それは、本当にすごいことだと思います。このひのき舞台に立つために、多くの人の期待を背負い、プレッシャーに耐え、陰でどれだけの努力をしているのかと思います。まさに、「強い者が勝つ」という世界です。
 しかし、神さまは私たちクリスチャンに、強いことを求めてはおられません。神さまは、頭のいい人、強い人、役に立つ人を用いたのではなかったのです。それは、世の中の常識とはまったく逆のように思われます。

 新約聖書に出てくるパウロは、伝道者として多くの人を神のもとへ導き、すばらしい働きをした人物でした。しかし、キリストに出会う前の彼は、教会を激しく迫害し、教会を荒らし、家々に入っていって男も女も引きずり出し、次々と牢に投獄し、主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えている者でした。そんな彼がキリストに出会い、すぐさまバプテスマを受け、イエスは神の子であると宣べ伝え始めたのです。
 しかし、彼の働きがすべてうまくいっていたわけではありませんでした。彼には弱さがあったことが第二コリント十一章二十三〜二十七節に書かれています。

『彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。』

 彼の伝道生活は、いつも死が隣り合わせのような状態でした。なぜパウロはこんな苦しみに耐えることができたのでしょうか。なぜそうまでして福音のために前進することができたのでしょうか。その理由は、彼が強かったからではなく、彼が弱かったからだと教えています。

『私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(第二コリント十二章七〜十節)

 彼の強さの秘訣は、弱さを誇りとすることから始まっていることがわかります。
 私たちが本当の意味で強く成長していくためには、まず第一に神の前に自分自身の弱さを自覚することが必要です。

 私たちはたくさん弱い所を思っています。時々、「先生は、何でもできますね」と言ってくださる方がいらっしゃいます。私は、「そうですか、ありがとうございます」と否定しないので、何でもできると思っておられるかもしれませんが、実は何もできません。私は楽器がまったくできません。小さな子どもがピアノを弾いているのも見ると「すごいなぁ」と感動します。
 先週ファミリーコーヒータイムでKくんが暗算を披露してくれました。フラッシュのように現れる数字を瞬時に計算して答えを出しているのを見て、すごいなぁ、どうやって数字を見ているのだろうか、彼の頭の中はどうなっているのだろう、覗いてみたいという気持ちになりました。私も計算は早いほうだと思いますが、とても太刀打ちできません。また、外国語もまったくできませんし、頭もよくありません。本当に、できないことだらけです。

 明先生は世界各国に伝道旅行に行かれます。私も先生について、カリマンタンや韓国に行かせていただきました。先生が訪れた国は、三十数カ国に及ぶそうです。しかし、世界には百九十五の国(二〇〇八年四月現在の調査)があるそうですから、まだまだ未知の国がたくさんあるのです。また先生は、日本の全県に行かれていますが、私は行ったことのない県の方が多いです。日本人でありながら、日本をよく知らないのです。
 第一コリント八章二節には、『人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。』と書かれています。
 人と比べたら知っている、できると思うことでも、どんなに私たちが頑張って知識を得ても、全体のほんの一部にしかすぎないことを思い知らされます。
 また、人は、きよく生きたいと思いながらも、人を憎んだり、ねたんだり、盗みをしたりしてしまいます。一本のたばこがやめられない、運転前には飲んではいけないとわかっていても一杯の酒がやめられない、そんな悪習慣に縛られています。しかし、多くの人は自分の弱さを認めず、自分で頑張ればできる、何とかなると思っているのではないかと思います。
 私はプレイズ出版の責任を持たせていただいています。最初は一人でしたが、現在二十名のスタッフが与えられ、神さまの恵みによって守られ、祝福され、十八年が経ちました。
 この間、著名な先生方にメッセージを書いていただき、何十種類ものトラクトを出してきましたが、今年は趣向を変えて、「トラクト大賞」と題して、大賞五万円の賞金をかけ、一般のクリスチャンから証しを募集しました。三十数件の応募があり、現在選考中で、十月にはトラクトとして発売されることになっています。新城教会にも良い証しを持った方たちがいらっしゃるので、もっと宣伝すれば良かったと思いましたが、次回、ぜひご応募いただきたいと思います。
 送られてきたものを読んでみると、様々な体験の中から主に出会ったという素晴らしい証しが綴られているのですが、一つ一つのタイトルを見ると、「魂の行き場を求めて」「うつ病の苦しみを通して」「何のために生きているのだろうか」など、人の弱さを象徴するようなものがたくさんありました。世の中には苦しんでいる方や弱さを覚えている方がたくさんいるのだなぁと、あらためて思わされました。ノミネートされた一つに、「弱さを受け入れる強さ」というものがあります。その出だしは、次のようなものでした。
 「『弱さ』と聞くと、誰もが連想することは『よくないもの』あるいは『自分は弱くはなりたくない』ということではないでしょうか。私たちは子どもの頃から『強さ』や『勝つこと』を求められてきました。私自身もそのように育ち、強さを求めて生きてきました。でも、クリスチャンになって、この『弱さを受け入れる強さ』ということを初めて知り、今では私の宝となっています。」
 この方は自分でビジネスを興し、初めは順調でしたが、ある時からうまくいかなくなり倒産しかけてしまいました。事業を立て直すためにサラ金から金を借り、みかけは何の問題もないように装っていましたが、心の中は恐れや不安がいっぱいでした。自己啓発セミナーに参加し、「必ず成功できる、やればできる」と何回も言われ、段々マインドコントロールされ、一生懸命自分に言い聞かせて頑張っていました。しかしある時、何も変わっていないことに気づき、もう頑張ることができないと、そのまま家に閉じこもる生活に陥ってしまったそうです。そのような中、クリスチャンの友を通じて教会に導かれ、イエスさまの愛を知ったのです。そして、自分の弱さを認め、弱さをキリストにあって誇ることができるようになったと彼女は言っています。

 あなたが弱いときに強くされる第二の条件は、神の前にへりくだることです。へりくだるというのは、簡単そうでなかなかできないことだと思います。
 よく、「あなたはどうやって救われましたか」「あなたの家は皆クリスチャンですか」と聞いたりします。私は、誰かに救いのことを聞かれたときに、一年四ヵ月ほど前に亡くなった母のことを証しします。
 母は新城のこの地で結婚し幸せな家庭を築いていましたが、最初に生まれた子がダウン症でした。母の人生は順風満帆で、自分で何でもできる、自分の人生は自分で切り開いていくという考えを持っており、神に頼ることは弱い人がすることだと強く思っていたそうです。しかし自分の子がダウン症と宣告されたとき、目の前が真っ暗になり、何度その子と一緒に自殺しようとしたかわからないと言っていました。
 しかし、そんな自分の力ではもうどうすることもできないどん底の中で、近所に住むクリスチャンの姉妹に連れられて教会に行きました。そこで、自分がいかに高ぶっていたか、いかに愚かであったかを教えられ、弱さを認めてへりくだったとき、イエスさまに出会い、救われたのです。私が母のお腹にいるときのことです。そして、私たち家族全員が今、救われているのです。
 マルコマルコ十章四十五節には、

『人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』

とあります。イエスさまはユダヤの田舎町に生まれてくださいました。それは、私たちを救うためでした。イエスさまの生涯は、何の汚れもなく、正しく、へりくだったものでした。それこそが、祝福への道であることを主ご自身が示してくださったのです。

 第三の条件は、すべてのことを感謝することです。
 人は何の問題もなく、幸せで順調にいっているとき、成功したときには感謝することができますが、失敗したり、病気になったり、悲しみにあったときには、「何故ですか」と不平不満を口にし、感謝することが難しいものです。『すべてのことについて感謝しなさい』とみことばを聞いても、「こんな時にとても感謝することはできない」と言うでしょう。感謝できないのも私たちの弱さだと思います。イエスさまに出会って受けた恵みは数知れません。祝福され、今日まで導かれたことを忘れることなく、どんな状況にあっても、「数えてみよ、主の恵み」、まず感謝をする者になりたいと思います。ヘブル十二章二十八節には、

『こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。』

とあります。クリスチャンは永遠のいのちをいただき、御国を受け継ぐ者とされていますから、感謝しましょう。

 弱さを感謝できる人とは、成功したとき、物事が順調に運んでいるときに感謝できると同時に、失敗や苦しみ、挫折したことも感謝できる人だと思います。
 ここにいらっしゃる多くの方が、中学、高校、成人になってから救われたことを思うと、ほんとうにすごいことだと思います。私はいい加減な性格なので、真面目に人生を考えることもなく、イエスさまを求めることもしなかったと思います。しかし、私をクリスチャンの家庭に生まれさせてくださり、信仰を与えてくださり、大きな事故や病から守ってくださったのは、ただ神さまのあわれみによるものだと感謝します。先ほども言いましたように、何もできない者が教会の働きやプレイズの働きをさせていただいていることも、感謝です。また、家が与えられ、家族が与えられ、素晴らしい恵みの中でこうして生かされていることは、本当に主の恵みだと思い感謝します。

『すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』(第一テサロニケ五章十八節)

 これがあなたがたに対する神さまの願いです。

 皆さんは毎日どれだけ祈っているでしょうか。また、どんな祈りをされていますか。朝目覚めて、まずは「健康で目覚めることができ、感謝します」と祈るでしょう。しかしその後に祈っていることは、「今日はテストがありますので、百点が取れますように」「今日は仕事で大きな商談がありますので成功しますように」「子どもが風邪をひいているので癒されますように」など、一つの感謝のあとにいくつもの願い事をしているのが常ではないでしょうか。もちろん、神さまに願い事を聞いていただくことは悪いことではありません。神さまは私たちの祈りに答えることができるお方です。しかし私たちが主に願い事ばかりして感謝を忘れるなら、私たちは強さを身につけることはできません。皆さんも御自分の祈りの中で、どれだけ神さまに感謝をささげているか、一度点検してみてください。

 そしてもう一つ、あなたが弱いときに強くされる条件は、弱さをゆだねることです。すべてを神にゆだねるときに事が始まっていくことを覚えてください。
 皆さんは、心配事や問題があったとき、どうしますか。親や先生、先輩や友人などに相談したり、クリスチャンではない方は、占いに頼ったりする方もいます。しかし、たとえ素晴らしい助言を与えてくれたとしても、明日、何が起こるかを知っている人は誰いません。しかし、私たちクリスチャンには、明日のことを心配してくださる方がおられるのです。

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(第一ペテロ五章七節)

 まことの神の御子イエス・キリストが、明日のことを心配してくださる唯一のお方です。その方を信頼し、ゆだねていくならあなたのすべてを知っている神さまは、あなたのことを心配し、最善の道をあなたに教えてくださるのです。そのとき、本当の安らぎと解決が与えられます。

 今あなたがいちばん弱いと感じる所はどこでしょうか。年配の方は、「私は年をとったから、若い人のようにはできない」と言います。しかし弱いと思っているところに主が働いてくださることを知ってください。若い人が「私は若いから何でもできる」と言うなら、イエスさまは「あなたが自分の力でできるなら、何でもやってみたらいい」と言われます。神さまは、強い者を退け、弱さを覚え、「私はできません」と主の前に出る者を用いてくださいます。

『しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。』(第一コリント一章二十七節)

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』(第一コリント十二章二十二節)

 ある人は、霊的に敏感で、圧制を感じたり、体調を崩したり、霊的戦いを感じている方がおられると思います。私は霊的に鈍感なので、もう少し私も敏感だったらタイムリーな祈りができるだろうにと自分の弱さを思います。しかし鈍感だからこそ、周りに左右されずに大胆に祈ることができるのかもしれないとも思います。
 目に見えない世界は私たちにはわかりません。サタンは透明人間のように私たちの生活に入り込み、色々な問題を引き起こし、私たちを攻撃し、「お前は駄目だ」、「お前は弱い」と落ち込ませ、何とか私たちを神さまから引き離そうと狙っています。一人でサタンに立ち向かっても決して勝つことはできません。私たちは弱く、愚かであっても神にすべてをゆだね、信頼していくなら、神さまが助けてくださり、戦ってくださるのです。そして、私たちは圧倒的な勝利を得ることができるのです。私たちも、パウロのように弱さを誇り、その弱さうちに力を注いでいただいて、力強く主のために前進していきましょう。
 お祈りします。


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