「恐れるな。安心せよ。強くあれ。」


2008.8.31(SUN)
新城教会牧師 滝元 順

旧約聖書 ダニエル書10章18節〜19節
すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」

 ハレルヤ!今日、皆さんとともに、み言葉を学ぶことができ、感謝します。
 今、高校生のバンド「The second floor」が賛美しました。「Don't worry」という賛美でしたが、今日は、「恐れるな。安心せよ。強くあれ。」というタイトルで学びます。聖霊によって、賛美やみ言葉のテーマが与られていると思います。不思議です。

 夏休みも今日で終わりで、学生たちは明日から学校があるので、少し憂鬱かも知れません。日誌や宿題はもうできましたか?
 私が中学・高校生の頃、教会には同年代のクリスチャンホームの子どもたちがたくさんいました。あまりにも子だくさんだったので、家が狭くて居る場所がなく、皆、学校から帰ると教会のバルコニーに集まって来ました。信弘先生は「チェリオ」というオレンジジュースを必ず一本持って来ていたのを覚えています。
 夏休みは何をしていたかというと、勉強をしていたと言いたいところなのですが、勉強もしないで、朝早く起きてカブトムシ採りに行っていました。カブトムシを採って、売って儲けていました。木を蹴る係が信弘先生でした。私たちは拾う係でした。今でも彼はみんなを揺り動かす係です。それで宿題はあまりやっていなかったので、最後の数日間で一気に行いました。みんなで手分けして、宿題をやりました。それぞれ賜物があるので、ある人は読書感想文を書き、他の人はそれを少し変えて提出しました。
 そうしたら、ある事件が起こりました。一人の男が読書感想文を写して学校に提出すると、その作文が入選し、最優秀作品に選ばれてしまいました。彼はばつが悪そうに、賞状を受け取っていました。
 しかし、クリスチャンの友だちが、いつも集まっていましたので、信仰が守られ今では皆が主のために働いています。感謝しています。
 振り返ると、中学生、高校生の頃は人生について、何も考えていませんでした。しかし、主がともにおられたことに気づかされます。
 今日、集まった方々とともに主はおられ、どのような時にも助け、守っていてくださっています。

 今日は預言者ダニエルが主と出会った箇所から学びます。ダニエル書十章十八節から十九節に、

『すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」』

 「人間のように見える者」とは誰でしょう。これは旧約聖書にあるストーリーですが、受肉する前のイエスさまではないか、と解釈する学者もいます。私もそう思います。
 イエスさまがダニエルに現れ、『神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』と励ましました。
 ダニエルは預言者で、神から不思議な預言を多く告げられました。その中で、彼が理解できる事柄もあれば、全く理解困難な預言も含まれていました。ですから、彼は悩んでいました。どう理解したら良いのだろうかと・・。
 しかし、そんな時彼は、『神に愛されている者よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。』と励ましを受けたのです。これは、ダニエル自身に語られた言葉ですので、聖書を読む人によっては、「これはダニエル個人に語られた言葉なので、私たちには関係ない」と解釈する人もいます。
 しかし、聖書は全体的結論に従って、前半のストーリーも解釈しなければなりません。ヨハネの福音書三章十六節には、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

とあります。イエスさまがこの地上に来られた目的は、「世を愛する」ためでした。神は人類全体を愛しているというみ言葉とともに、ダニエル書のみ言葉を理解するならば、『神に愛されている者よ』という記述は、ただダニエルだけではなく、私たちも含まれることがわかります。
 またローマ人への手紙一章七節では、パウロがローマにいる兄姉姉妹に対して、挨拶を送っています。

『ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。』

 神は人類全体を愛されていますが、「主を信じる者たち」には、更に強く愛を示しておられるのです。『ローマにいるすべての神に愛されている人々』とパウロが挨拶を送っていますが、これを、「新城教会にいるすべての神に愛されている人々」と、置き換えることができると思います。そして、私たち個人にも置き換えることが出来ます。
 こうして聖書全体を見ると、「神に愛されている人々」とは、自分のことであると信仰を持って受け取ることができます。

 このみ言葉を、神があなたに語っている言葉として受け取りましょう。私ならば、「神に愛されている滝元順よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」
 時々人生の中には、「どうしたら良いのだろうか・・・」と、理解できない事件が起こります。今後どのように展開していくのだろうか・・・と不安のどん底に陥ることもあります。そんな時にあっても、私たちは神のみ言葉を信頼し、神に愛されていると信じましょう。『神に愛されている者よ。安心せよ。強いあれ。強くあれ。」と主が語ってくださっています。主が私たちの目の前におられ、この言葉を語ってくださっていると信じましょう。

 昨日まで、「関西リバイバルミッションスペシャル」があり、大阪府の生駒市で集会を持っていました。そこには、韓国から李浩文先生が来られ、み言葉を語ってくださいました。韓国の先生方は、「アーメン。ハレルヤ!!」と、メッセージに対して応答するように求められます。日本人のメッセンジャーは、慣れていないので、応答があると途中で語っているメッセージを忘れてしまいそうです。
 「私たちは、神に愛されていることを信じましょう。」「アーメン!!」

 『恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ」と語られています。さて今朝は、この言葉がダニエルに臨んだ背景について学んでいきたいと願います。
 ダニエル書十章を見ると、ダニエルのところに主が訪れ、『神に愛されている人よ。恐れるな。強くあれ。強くあれ。』という言葉を受けるまでに、時間がかかったことがわかります。ダニエル書十章十二節から十四節に、

『彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」』
 実はダニエルは二十一日前に、神から一つのことを教えられました。ダニエルはそのことに対して、完全な理解ができず、悶々としながら断食して、主からのはっきりとした答えを待ち望んでいました。
 けれども、二十一日経ったとき、突然主がダニエルの前に立って、『神に愛されている人よ。恐れるな。強くあれ。強くあれ。』と語りました。

 主は私たちに、このような励ましの言葉を常に語ってくださっています。しかし、実際にこの励ましの言葉が届くまでには、プロセスがありました。

『恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。』

 私たちは毎日のように主に祈りをささげています。しかしその祈りの答えがすぐに来る場合もありますが、なかなか答えが来ない場合もあります。一生懸命祈っても、なかなか祈りの答えが届かないのです。
 今、教会ではMくんのために真剣に祈っています。主はこれまで彼を助けてくださっていますが、なかなか完全ないやしに到達できていません。引き続きお祈りいただきたいと思います。
 どうして皆で祈っているのに、なかなか答えが来ないのだろうか・・、と思います。また他の事柄に関しても、色々と祈っていますが、ある時には祈りの答えが来ますが、ある時は、待てど暮らせどなかなか答えが来ないのです。神さまは、私たちの祈りを聞いていないのか、または聞いても忘れてしまっているのではないかと疑いたくなります。
 特に私たちは、長い間、日本のリバイバルのために祈っています。一九九二年、聖霊様が訪れてくださいました。あの日、私は次の日から大リバイバルが起こるのではないかと思いました。しかしあの日から数えて、もう十六年以上が経ちました。神様は日本を見捨てられたのではないか、日本にはリバイバルは起こらないかもしれないと、不信仰になってしまうこともあります。

 しかし、このみ言葉から、祈りはどのように機能するかがわかります。ダニエルが心を定めた日から、祈りは聞かれていたとあります。
 祈りは、祈ったその瞬間、神のみ前に届いていると教えています。私たちクリスチャンの祈りは、「イエス・キリストのみ名」による祈りです。イエス・キリストの名前での祈りは、瞬時に父なる神のみ前に届くのです。
 イエスの名前を使っての祈りは、誰も阻止することが出来ません。それは直接、父なる神のもとに届くのです。

 皆さんの家に電話をかける場合、一つの電話番号しかありません。皆さんの携帯も、一桁間違えても相手に電話はかかりません。しかし番号をしっかりと押すならば、本人と通話が出来ます。
 同様に、イエスさまのみ名によって祈るならば、父なる神のもとに祈りは確実に届きます。神は私たちの祈りを決してないがしろにはされず、忘れることもありません。
 人間は忘れっぽいです。時々色々な方からメールをいただきますが、続いてメールが来ると早く来た人のメールが下になり、返信しようと思っていたのに、忘れてしまうことがあります。あとから、「そういえば…」と思い出すことがあります。

 けれども、神様はそういう方ではありません。世界中のクリスチャンが同時に祈っても、すべてを瞬時に受け取ることができるお方です。聖書は、「目を造った方が見えないはずがない。耳を造った方が聞こえないはずがない」と告げています。

 私たちは限定された範囲内で、瞬間的に目で認知することが出来ます。神様が目を造られたとしたら、すべてをお見通しでないはずがありません。
 また、耳が色々な情報をキャッチすることが出来るとしたら、神様が完璧な耳を持っておられないはずがありません。皆さんの祈りは、神のみ前に届くのです。

 しかし、イエスさま「以外の名前」で祈った祈りは、残念ながら神の前には届いていません。
 日本人は祈り深い国民だと思います。神社に行って絵馬を見ると、祈りの課題とともに個人情報が多く含まれています。それは教会の祈りのカードと同じ中身です。けれども、残念ながら祈りは神に届いてはいないのです。
 なぜならば、イエスさまの名前で祈っていないからです。心からの祈りではあっても、残念ながら、神のみ前には届いてはいないのです。しかし、イエス・キリストの名前で祈るならば、確実に神のみ前に届くのです。

 そして、祈りに関してもう一つ不思議なことが記されています。祈りは届いていますが、「答えが来るまでに時間がかかることがある」ということです。
 ここでは既に、ダニエルの祈りは神の前に届いていました。そして、祈りに対する答えも天で用意されていました。しかし、答えが来るまでに、二十一日間という時間を要しました。また、その理由も明らかにされています。

『ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。』

 「ペルシャの国の君」について調べると、それは神のみこころに対抗し、立ちはだかる存在であり、ペルシャを牛耳っていた「悪霊たち」と理解できます。
 天において祈りの答えが用意されても、答えが届くのを阻止する力があるようです。

 ダニエルは二十一日間、断食して真剣に祈っていましたが、彼は計らずして、天における戦いに参加していたのです。やがて二十一日後、彼はこの答えを受け取りました。

 してみると、祈りはただ単に、神に願うという領域だけではなく、立ち向かっていくという、戦いの領域をも含んでいるという、その両面を知ることが出来ます。

 信仰生活の中で何を一番優先すべきでしょうか。第二コリント四章十八節に、

『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』

 現代人の生活の中で、最も価値あるものとして位置づけられるものは、見える領域の事柄です。私たちは物質が氾濫している世界に住んでおり、物質を手にするために最大限の努力をします。ゆえに、見える領域が一番価値ある領域と錯覚しやすいです。特に現代は、その錯覚が強い時代です。
 けれども、千年、二千年、三千年前の人類を見るとどうでしょうか。現代人は、「あの人たちは遅れた人たちだ」と決めつけます。なぜならば、現代人と全く生活形態が違うからです。

 エジプトに行くと、ピラミッドを作るために、エジプト人たちが真剣に働いた歴史を見ることが出来ます。また日本の歴史も、歴史が古ければ古いほど、生活の中心が宗教行事そのものであったことがわかります。「あれは昔のことだから…」と言うかも知れませんが、人間はいつの時代にあっても同じはずです。なぜなら、神が人を創られたからです。進化してはいないからです。神様は完全なものを創られたので、どの時代の人たちも、同じ能力をもっていたはずです。生活様式が違うのは、未発達というのではなく、単に、価値観の違いに他なりません。

 現代人は、「見える領域が最高に価値ある」という価値観を持っています。しかし、昔の人たちは、「見えない領域が最も大切」という価値観でした。昔の人たちは、方向は悪かったかも知れませんが、価値観としては、現代人よりも正しい価値観を持っていたと思います。
 それは、見えるものは一時的で、見えないところに本質があるという、真理をつかんでいたのです。

 私たちクリスチャンも、ここに中心を置かなければなりません。私たちは、物質中心の世界に住んでいるので、見える世界に目を留めてしまいがちですが、見えない世界に関心を払っていなければならないのです。
 特に、祈りの世界においては、見えない世界の戦いがあることを知る必要があります。そして、聖書の原則によると、目に見えない世界で勝利するならば、見える世界にも勝利がくること、けれども、見えない世界で敗北するならば、見える世界でも敗北を刈り取らなければならないという原則があるのです。もちろん、それがすべてとは言いません。しかし、そのような原則があることに、心を留めることが大切です。

 私たちは見える世界に関しては、日々十分すぎるほど体験していますから、すべてを見えない世界で解釈することは不可能です。しかし、見えない世界に関して、全く関心を持たない生活は、大変危険です。
 聖書は見えない世界を優先し、見えない世界で勝利を取ったら、見える世界でも勝利がやって来ると告げています。見えない世界で勝利を勝ち取るために祈る必要があります。

 いつも語っているように、聖書は情報の書なので、私たちがどのように情報を受け取り、適応するかで実生活がかわります。
 ダニエルが天で勝利を勝ち取ったとき、彼は地上においても神からの励ましを受け、現実においても勝利を受け取ることができました。
 ダニエルが活躍した時代は、イスラエルがイスラエルとユダに分かれ、ユダはバビロンに七十年間捕囚され、やがて、故郷イスラエルへ帰って来ました。この時代は、バビロンからの帰還という、歴史的出来事との強い関連性があります。その周辺のことを見ていくと、他の事柄も浮かび上がってきます。

 エズラ記には、イスラエルの人たちが故郷に戻り、何を優先したかについて記されています。彼らは長い間バビロンで生活していましたが、解放され、故郷に帰ってきました。かつて自分たちが住んでいた町は荒れ果て、使いものにならない状況になっていました。
 しかし、彼らは、まず、神の宮を建て直そうとしました。そんな時、事件が起こりました。エズラ記四章一節から二節に、

『ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々が、イスラエルの神、主のために神殿を建てていると聞いて、ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て、言った。「私たちも、あなたがたといっしょに建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです。アッシリヤの王エサル・ハドンが、私たちをここに連れて来た時以来、私たちは、あなたがたの神に、いけにえをささげてきました。」』

 ユダの人々が神殿を建て直し始めると、敵がやって来て、「あなたがたと一緒に神殿を建てさせてくれないか」と言いました。これは、イスラエルを陥れるための敵の策略でした。三節から四節に、

『しかし、ゼルバベルとヨシュアとその他のイスラエルの一族のかしらたちは、彼らに言った。「私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない。ペルシヤの王、クロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりだ。」すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。』

四章二十四節に、

『こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。』

とあります。せっかくバビロンから帰ってきて、神の宮を建て始めましたが、敵がやってきて妨害され、「ダリヨスの治世の第二年」まで、工事ができなくなってしまいました。十数年間にも渡って、工事は中止させられてしまいました。
 私たちも時々、何か新しいことを始めようとするとき、妨害があり、出来なくなってしまうことがあります。なぜ、こんなに多くの敵が現れるのだろうか・・、うまくいかないのだろうか・・・、という時があります。

 上記の事件も、それは見える形での現実的妨害でした。イスラエルの人々は、土木・建築工事を行っていたのですが、敵が来て、それを妨害したのです。

 しかしそれが、見えない世界との関連性があったのです。この工事はダリヨスの治世の第二年まで中止され、再度、工事が再開されたことが記されています。エズラ記五章一節から五節に、

『さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。そのとき、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚とがやって来て、こう言った。「だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。」そしてまた、「この建物を建てている者たちの名は何というのか。」と尋ねた。しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。』

 第一回目は、敵によって妨害され、すぐに止められました。しかし十数年後、ダリヨスの治世の第二年、もう一度人々は宮を建て始めると、前回も動いた敵たちが同じようにやって来て、「なぜ、工事を再開するのか。やめてしまえ。」と妨害しました。
 しかし第二回目に関しては、敵は工事を止めさせることができなかったのです。仕事がうまくいき、神殿は建て直されました。
 第一回目は止められ、二回目はうまくいった理由は何でしょうか。第二回目は偶然に運が良かったのでしょうか。そこには霊的原因があったのです。

 工事現場のただ中で、ゼカリヤは神から一つの幻を見せられました。現実の世界は、敵たちが来て、「工事を止めてしまえ。」と脅している最中、ゼカリヤは幻を見せられました。それが、ゼカリヤ書三章一節から五節にあります。

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。』

 現実の世界においては、川向こうから敵がやってきて妨害していました。しかしヨシュアは天におり、その側にサタンが立っており、サタンが彼を神の前で訴えていたのです。けれども、現実の世界に目を移すと、ヨシュアを「仕事を止めてしまえ」と敵が脅していたのです。
 ここから、見える世界と見えない世界がシンクロし、つながっていることがわかります。
 しかしその日、天でのサタンの訴えが退けられたのです。

 ヨシュアは汚い衣を着て立っていたようです。それがきれいな衣に着せ替えられ、きよいターバンをかぶらせられた時、それまで訴えていたサタンの訴えが下げられたのです。その結果、地上においては、工事を止められることなく、宮は建て直されていきました。
 見える世界と見えない世界が、たくみにつながっていることを、ここから見ることができます。
 信仰生活の枠組みの中で問題を体験するとき、天において訴えられているかも知れないという、見えない世界を優先的に考えなければなりません。

 サタンがヨシュアを訴えていたポイントは、「衣が汚い」ということでした。それは、イスラエル全体の罪を現していました。悪魔が訴える唯一のポイントは「罪」です。
 教会に来ると罪から離れるきよい生活について話されます。教会は罪について指摘するからあまり行きたくない、と言う人がいますが、なぜ罪について指摘するのでしょうか。それは、悪魔に訴えられるからです。少しは窮屈かも知れませんが、身の安全のために罪から離れるようにと教えます。教会に来て、きよい生活について知ることは大変重要です。何が罪で何が罪ではないか。何が神に喜ばれることで、何が神に喜ばれないかについてよく知り、理解を持つならば、天においてサタンに訴えられることはありません。何らかの問題があったら、イエス・キリストの十字架の血潮を仰ぎ、もう一度、衣を洗っていただくことが大切です。

 ここでは、ゼカリヤが、「彼にきよいターバンをかぶらせてください」と、とりなしをしました。周りからのとりなしの祈りがあるときに、天における戦いに勝利できます。特にヨシュアが天で訴えられていたのは、イスラエルの国家的な罪、「偶像礼拝」でした。色々な問題の根源に、偶像礼拝があります。その罪が、サタンの訴えの主な原因となっています。
 目に見えない世界で悪魔に訴えられると、地上においては色々な問題として反映されることがあるのです。

 ダニエルも二十一日間に渡り、ペルシャの君に訴えられました。しかし最終的に天における戦いに勝利したとき、励ましの言葉が届きました。天における戦いに勝利しなければならないことを教えられます。

 私は来週の月曜日から、二週間ほどブラジルへ行きます。今年は一月にペルーに行きました。この教会には日本語を話す方々と共に、外国語を話す方々が加わっておられます。それは私たちと同じキリストの体です。
 毎週日曜日午後四時からはインターナショナル礼拝が行われています。そこには主にペルーとブラジルの方々が集まっています。だから私は五年に一度くらい、ペルーやブラジルに行き、こちらで救われた方々の家や教会を訪問し、お互いに励まし合う機会を持っています。一月にはペルーに行きましたので、今度は、ブラジルに行くことにしてます。一月の時点で、今年はブラジルにも行くと決め、予定表に入れておきました。先に予定を入れておいて良かったと思います。その後、韓国リバイバルミッションが始まったので、先にブラジル行きを決めておいたことは良かったと思います。ぜひお祈り下さい。
 ブラジルの色々な教会で奉仕をします。また、この教会で洗礼を受けて本国に帰られた方々がおられます。今までに大勢の方々が救われ、仕事を終えて自分の国に帰られています。新城教会を知っている方々が南米には多くいます。今回はブラジルの南にある、フロリアノポリスという場所に行きます。そこには、今から十数年前に新城教会で救われたカップルが住んでいます。
 彼らは十年前から、「順先生、私の街に来てください」と言っています。私は、いつかは行こうと思っていながら、なかなか行けませんでした。
 しかし今回は、彼らのところに行く決断をし、彼らに連絡しました。すると大変喜んでいました。「順先生が九月に来るのはとても良いタイミングだ。なぜなら、十月から私たちはオランダに移民するから…」と言いました。

 彼らは新城教会で奇跡を体験しました。このカップルはご主人がイラン人で、奥さんはブラジル人です。今から十数年前、奥さんが悩んだ顔をして教会に来られました。ご主人が家庭を顧みず、困っていました。話を聞いて、このカップルはうまくいかないと思いました。「あなたがたは何語で話しているのですか」と聞きました。ブラジルはポルトガル語で、イランはペルシャ語なので、一体、どうやってコミュニケーションしているのだろうかと思いました。すると、彼らは何と、日本語でコミュニケーションしているというのです。しかも、彼らの日本語は片言です。いくら離婚がいけないことでも、彼らは無理だろうと思いました。今は色々な理由があるので、一概に離婚は駄目だとは言えないような時代です。特に、その人たちに限っては、最初から離婚した方が良いとアドバイスしようと思ったくらいでした。
 しかし、うまくいっていない背後に、目に見えない敵に訴えられているかも知れないという視点で祈りました。すると、不思議なことが起こりました。彼らは離婚の寸前でしたが、何と彼らは建て直され仲良くなりました。仲良くなったので子どもができました。
 奥さんのお腹が段々大きくなりました。奥さんは日本で子どもを生む自信がなく、ブラジルに帰ることになりました。しかし、イラン人のご主人は不法滞在者として、日本に長い間住んでいたことがわかりました。奥さんと一緒にブラジルに帰ろうと入管に申請に行くと、「逮捕してイランへ強制送還する」と言われました。

 彼は長い間イスラム教でしたが、この教会でイエスさまを信じました。イスラムの信仰を捨て、クリスチャンになりました。彼は洗礼式の時、コーランを皆の前で焼きました。私はあまり知識がなく、それは偶像を焼くくらいの事として、簡単に考えていたのですが、コーランを焼くことは命に関わることでした。そんなことが国に知れたら、彼は死刑になってしまいます。イランにはイスラム法があり、それは自分の家の宗教を、一生守らなければならないという法律です。それに反したら死刑です。
 彼は不法滞在をしていたので、入管に捕まって本国へ強制送還されることになってしまいました。私たちはどうしたら良いかと迷いました。
 彼は「身重の妻が家にいる」と話し、一度家に帰されました。私たちは彼らのために真剣に祈りました。イランのパスポートと、奥さんのブラジルのパスポートを出してその上に手を置いて祈りました。そして、イランを支配しているペルシャの君が破られるように、また、ブラジルを支配している悪しき力が砕かれるようにと、真剣に祈りました。

 その時、私は入管に嘆願書を書きました。「彼は日本でクリスチャンになりました。本国に帰ると死刑になってしまう危険性があるので、ぜひとも彼をブラジルに行かせてください」と嘆願しました。
 そして、最後に、「新城教会牧師・滝元順」とサインしました。彼は書類を持って入国管理官の所に出頭しました。すると、管理官はその書類を読んで、「滝元順って誰だ?こんな嘆願書、意味がない!」と言って、「お前はイランに強制送還だ」と言いました。
 しかしその瞬間、奇跡が起こりました。ちょうど彼が書類を手渡した時、待合室のテレビでニュースをやっていました。それは、「最近イランで多くのクリスチャンたちが殺されている」という報道でした。

 係官は私の書いた嘆願書を読みながら、ニュースを見ていました。「イランでそんなことがあるのか…」と言いながら、奥の方に入っていったそうです。

 しばらくすると、係官は一枚の書類を持って出てきました。それは、「あなたを第三国ブラジルへ出国することを許可する」という許可書でした。
 私はそれを見せてもらいました。彼は手錠をかけられることもなく、名古屋空港から大泣きしながら、ブラジルに飛び立っていきました。今彼らはブラジルに住んでいます。ブラジルの永住権も取って仕事もしています。主は天における戦いに勝利させてくださいました。

 もちろん不法滞在はいけませんが、主が何らかの目的を持って、このような勝利を与えてくださったと信じます。
 彼は今度オランダに移住するそうです。彼はブラジルに行ってから、イランに住んでいる家族に聖書を送ったり、一生懸命に伝道しました。するとほとんどの家族が、クリスチャンになったそうです。しかし、イランでは信仰を持つことが出来ないので、オランダに移住したのです。
 何と今、オランダには一万人ほどのイラン人クリスチャンの教会があるそうです。今度彼がオランダに行ったら、私に、「オランダのイラン人教会に来て欲しい」と言われています。私はそこまで広がるとは、夢にも思いませんでした。
 あの時の勝利は、ただの勝利ではなく、国々を治めていた敵の力が打ち破られた結果であったと思いました。
 私が何気なく、九月にブラジルに行きの予定を取ったのも、神の計画でした。今回彼に会う事がなかったら、イラン人たちに福音を伝える機会を失っていたかも知れません。
 また、サンパウロの教会などでも奉仕の機会があります。韓国リバイバルミッションとブラジルと何か関連があるだろうかと思いますが、きっと何か新しい導きあると信じています。

 主の働きはパーフェクトです。ダニエルを通して、ペルシャの国の君が打ち破られました。また次に、ギリシャの君との戦いにつながっていくと言われました。国々を支配している敵の力を打ち破るために、私たちを用いてくださいます。

 時々、人生に色々な問題が起こり、意気消沈することがあります。しかし見える世界に重きを置くのではなく、見えない世界に目を向け、立ち向かっていくときに、信じられない展開で大勝利につながるのです。主はどんな時にも、私たちに声をかけてくださいます。

『神に愛されている者よ。恐れるな。強くあれ。強くあれ。』

 私たちは神に愛されている者たちです。戦いのただ中にある人も、決して意気消沈しないで下さい。見える世界ではなく、目に見えない世界を優先し、戦っていきたいと思います。
 教会は見えない世界の働きです。見えない神を礼拝するために集まっています。目に見えない世界を中心に一週間を過ごし、見えない領域での戦いを意識しましょう。教会に集われている方々の問題は、全体の問題です。キリストのからだの機能が一つとなる時、勝利に向かっていくのです。一人一人に任された領域を果たして行きましょう。一言お祈りします。

(告白の祈り)
「イエスさま。あなたの血潮を心から感謝します。イエスさまだけが救い主であることを宣言します。私の罪を赦してください。私の霊的な罪、肉的な罪、魂の罪をすべて赦してください。悪しき力との関係を断ち切ってください。見えない世界での勝利を宣言します。見える世界でも、勝利を与えてください。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。」


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