主はあなたを守る方


2008.9.7(SUN)
新城教会牧師 滝元 順

旧約聖書 詩篇121篇
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 ハレルヤ!おはようございます。今日皆さんとともにみ言葉を学ぶことができ、心から感謝します。私は今日この礼拝が終わったら、東京集会のために東京に行きます。そして明日からそのまま二週間ほど、ブラジルに行きます。ぜひ、お祈り下さい。
 今から二十年ほど前、二人のペルー人が教会に来られました。そのことがきっかけで、南米から来られた方々を中心にインターナショナルの働きが始まりました。以来二十年ほど経ちますが、大きな集まりに成長しフェルナンド先生夫妻が与えられ、スタッフも与えられ、働きが続けられています。神様の働きは、はじめは小さくても、後には大きくなります。ただ中にいる時は何が起こっているのかわかりませんが、振り返ると奇跡が見えます。イエスさまが一緒に歩いてくださった足跡を見ることができます。

 今回私は五年ぶりにブラジルに行きます。新城教会で救われ、ブラジルやペルーに帰国された方々を訪問したり集会をします。一月にペルーに行きましたが、今回はブラジルへ行きます。また、ブラジルの色々な教会でも奉仕することになっています。いくつかの牧師会でもメッセージをすることになっています。新城教会で救われた兄姉姉妹が母国に戻り、色々な教会に集っています。そこで新城教会で救われたことを証しています。そして、「新城教会の牧師が来るので、ぜひ集会を持ってください」と勧め、私がメッセージを語ることになりました。私が有名とか、特別ではなく、日本の片田舎で救われた方々が、世界中に散って福音を伝え、神の国が前進していることを感謝します。人手によらず、主が働いてくださっているのを見て、心から主をあがめます。
 この働きはさらに人手によらずに広がり、世界宣教が前進すると信じます。
 聖書には、「全世界に出て行き、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とありますので、私たちは世界に目を向けることが重要です。

 来年は韓国リバイバルミッションが行われます。不思議な導きの中で、主が道を開いてくださっています。キリストの体の中で、一人ひとりが役割を果たすことが大切です。

 振り返ると、主が私たちを守っていてくださった事実に気付かされます。今日は皆さんとともに、「守り」について学びたいと願っています。詩篇一二一篇一〜二節。

『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。』

 この「山」は単数ではなく、複数形で記されています。聖書の中で「山」とは、目に見える山も表していますが、前回、「山よ。動いて海に入れ。」というみ言葉からも学んだように、山とは人生に起こる様々な問題をも意味します。当時のラビたちは、「山が海に移る」という表現を用い、問題が消えるという意味を現していました。
 時々、目の前に問題の山々が立ちはだかり、どうしたら良いのか途方にくれます。一歩も前に進めない時があります。しかし、『私の助けは、天地を造られた主から来る。』とあります。目の前に問題の山がそびえたとしても、助けは必ず、天地を造られた主から来るのです。

 詩篇一二一篇には、『あなたを守る』という言葉が全篇に渡り、六回も使われています。『あなたを守る方は』、『イスラエルと守る方は』、『すべてのわざわいからあなたを守り』、『あなたのいのちを守られる。』、『今よりとこしえまでも守られる。』などとあります。
 聖書で六という数字は人間を表します。また、七は完全数で、神を表すと言われます。六回、「守り」という言葉が使われていることについて、人には守りが必要であることを意味しています。私たち人間は不完全な者なので、自分ですべての領域を守ることはできません。神様が来てくださって初めて、人生は完全数「七」になります。私たちは六ですが、神様はパーフェクトです。
 私たちの人生にイエスさまをお迎えするならば、人生は完全になり、守られて生きることができます。
 今日初めて教会に来られた方がおられるかも知れません。人は不完全です。しかし、そこに天地宇宙を造られた神が来られるとき、人は生きることができます。そして「守る」という言葉には他にも様々な意味があります。
 「あなたを保つ」、「あなたの砦となる」、「保護する」、「見守る」、「関心を払う」、そして、「あなたを助けます」という意味が含まれます。
 『すべてのわざわいからあなたを守り』とありますが、一週間にどんなことが起こるのかわかりませんが、主は、すべてのわざわいからあなたを守りますと約束しています。

 聖書は私たちが生きる為のマニュアルです。その中の言葉を自分のものにするならば、守りの機能が動き始めます。今週も神のみ言葉により守られ、不完全な者であっても完全な方とともに歩みたいと願っています。
 ここには「守り」という言葉が六回出てきますので、聖書の中から六つの守りのポイントについて学びたいと思います。
 詩篇一一九篇九節から十一節に、

『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。』

 私たちが守りを受け取るために最も重要なことは、神のみ言葉です。『あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。』とあります。
 毎週日曜日に教会に集まってみ言葉を学んでいますが、み言葉を学ぶことにより罪から守られ、それが生活全般を守る秘訣となります。
 聖書の中には色々な言葉があり、罪から離れるようにという強いメッセージがあります。それを聞いてある人は不自由に感じるかも知れません。しかし、それが結果的に私たちを守ります。

 先日、健康のためにウォーキングをしていると、ある所で面白い看板を見つけました。「ですから、通行しないでください。新城工務区長」とありました。何に対して「ですから」なのかわかりません。よく見ると、「危険」という文字が消えていました。その意味は、「危険ですから通行しないでください」というものでした。思わず写メールを撮ってしまいました。
 きっとその場所を通行する人がいるのだと思います。O先生の家の前の線路に獣道があります。猪なのか猿なのか、誰が獣道を作ったのかわかりませんが、線路は危険なのでいくら近道でも通行しないようにと表示があります。
 時々私たちの人生にも、近道に見える場所があるかも知れません。しかし聖書は「危険ですから、通行しないでください」と教えています。私たちが聖書のみ言葉を心に蓄えるならば、様々な人生の場面でみ言葉が浮かび、「この場所を通行しない方が良い、止めた方が良い」とわかります。聖書を読むと、ちょっと不自由に感じることがあるかも知れませんが、危険から私たちの身を守ります。

 最近、「道路交通法」が改正され、後部座席もシートベルトの着用が義務化されました。みなさんは、シートベルトをするのが好きですか。最近の日本車はゆったりしていて、リラックスして座れるのにも関わらず、シートベルトをすると身動きが取れません。
 なぜ、こんな法律を作ったのでしょうか。「国民を座席に縛り付けてやれ、少し不自由にしてやれ、いじめてやれ…」と作ったのでしょうか。そうではなく、私たちの安全のためです。
 新城教会に毎週、遠くから車で来られる方もおられますが、ぜひ安全運転に心がけてください。
 安全に生きるために第一に必要なのは、「み言葉による守り」です。

 二番目に学びたいのは、「信仰による守り」です。
 時々祈っていても、なかなか祈りが実現せず、失望したり、落胆することがあります。そんな時、信仰が試される時があります。
 ルカの福音書十八章一節から八節に、

『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」』

 時々、「神は本当に生きておられるのだろうか・・・」と、不信仰に陥ってしまうようなときがあるかも知れません。そんな人たちが、イエスさまの時代にもいたようです。
 その時、イエスさまが語られたのが、不正な裁判官のたとえでした。イエスさまの時代は、ローマの支配下にあり、様々な不正が横行していました。裁判も賄賂でどうにでも変わってしまうような時代でした。裁判官に訴えても、それを取り合わないこともあったようです。
 一人のやもめが、「この事柄について裁判をして、私を守ってください。」と何回も裁判官に訴えました。しかし裁判官は正しい男ではありませんでした。それを聞き、「うるさいな。この女はまた来たか…」と、あまりにもうるさいので、仕方なく、腰を上げ裁判を行ったというのです。
 不正な裁判官でさえ、こんな行動をとるとしたら、ましてや正しい裁判官である神は、夜昼主を呼び求めている選民のために、いつまでも放っておかれるはずがないと言われました。

 皆さんが叫んで主の前に祈った祈りに対し、神様が「うるさいなぁ」と言ってほおっておかれるはずはないのです。正しい方は、必ず、すみやかに私たちの為に、正しいさばきをしてくださるのです。
 そこで必要なことが、「信仰」です。

 人間の時間の概念と、神の国の時間の概念とは、ちょっと違うようです。私たちは神の国の時間の中に生きる者なので、神の国の時間の概念に慣れる必要があります。
 けれども、夜となく昼となく、主を呼び求めている者たちのために、必ず決着を付けてくださるというのが、聖書のメッセージです。信仰を持ちましょう。
 目の前に山あり、「助けはどこから来るか・・・」と落胆している方がおられるなら、助けは「主から来る」のです。信仰は私たちの守りです。

 第三の守りの武器は、「とりなしの祈りによる守り」です。出エジプト記十七章十節から十三節に、

『ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。』

 イスラエルがエジプトから脱出した後、アマレクという軍隊と戦った様子が記されています。モーセが戦いのさなか、山の頂に登り、両手を上げていたときにはイスラエルの軍隊が優勢になりました。しかし手がだるくなり、手が下がると、今度はアマレクの軍隊が優勢になり、イスラエルは打たれました。またモーセが手を上げると、イスラエルが優勢になりました。
 モーセはその光景を見て、最初は偶然かと思ったかも知れません。それで何度か試したのではないかと思います。手を上げたり、下げたりしてみると、なんと手の上げ下げと戦況がシンクロしていました。周りの人たちもそれに気付いたのだと思います。それでアロンとフルが来て、モーセの右左に座って手が下がらないように支えたのです。するとイスラエルがずっと優勢となり、ついにアマレクは打ち負かせられました。

 先週、「見えない世界での勝利を勝ち取ろう」と学びました。モーセが手を上げるとは、祈りを意味していました。そして、見えない世界と見える世界はシンクロしています。私たちの人生も同様で、祈りの手が上がっているならば、敵は私たちに攻め込むことはできません。しかし、祈りの手が下がってくると、敵の力が優勢となります。ここは祈りの重要性について教えています。
 私たちが何を優先させて生きていくかは重要です。見えない世界での戦いを常に認識しなければなりません。見えない世界で勝利することを最優先にして歩むことが大切です。そのためには、祈る必要があります。
 どのくらい祈るべきか・・・、『夜となく、昼となく』とありましたが、それは、「絶えず祈る」ということです。常に祈り心を持って生活することが大切です。
 アロンとフルがモーセを両側から支え、戦いが勝利に導かれたとありました。それは、誰かからとりなして祈ってもらうことの重要性を表しています。

 皆さんには、祈りの友がありますか。誰かから祈って支えてもらうことは重要です。祈りは一人だけの力では不十分です。キリストの身体の各器官の祈りが大切です。今日、集まった一人一人は一般的には脈略なく、背景も違うかも知れませんが、実は、キリストの体を構成する各器官であり、私たちは一つです。

 一つの問題を打ち破るために、山を海に移すために必要なことは、一人の祈りでは不十分で、周りのとりなしの祈りが必要です。周りがとりなして祈るとき、見ない世界で勝利を勝ち取り、それが現実の世界にも現わされます。なぜなら、目に見えない天の軍勢が、とりなしの祈りによって動員されるからです。私たちの味方である神とともに、天の軍勢が私たちの周りに動員され私たちを守るのです。第四番目、詩篇九一篇十一節に、

『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。』

とあります。クリスチャンの周りには、光の軍勢が派遣されて守っています。
 一九九二年、この教会に力強く聖霊様が訪れてくださいましたが、その後、突如として霊的戦いが始まりました。そこで主が一つのことを示してくださいました。戦うのは、もちろん私たちですが、執り成しの祈りにより、天の軍勢が派遣され敵に襲いかかるというのです。「あなたがたは天の軍勢とともに戦いなさい」と告げてくださいました。
 私は聖書の中に御使いや天使という、霊的存在が出てくるのを知っていましたが、それらは私たちの生活とはあまり関係のないものだと思っていました。天使や天の軍勢はクリスマスになると、裸で出てきて赤子のイエスさまの周りをちらちら舞っている存在だと思っていました。
 しかし、彼らは、「俺たちはクリスマスにだけ出てくる蝶々みたいな存在ではない。強い神の軍隊だ。みんなと一緒に戦いたいから、もっとそのことを認識して欲しい」と言っていると思います。
 もちろん天使に対する理解が逸脱して、天使礼拝やローマ・カトリックのようになってはいけません。しかし、私たちの周りには天の軍勢が派遣され、手を上げて祈るとき、敵の軍勢を打ち負かし、現実の世界においても神の命令によって、私たちを守っているのです。

 第五番目、今日私たちは教会に属しています。教会とはどのような存在でしょうか。教会とは、日曜日に集まって賛美歌を歌い、牧師の話を聞いて、カレーを食べて帰るだけの場所だと思われているでしょうか。
 教会とはどんな所かが、エペソ三章九節から十一節に記されています。

『また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。』

 神が万物を創られた奥義は、教会を創ることでした。今私たちは教会に属していますが、それは万物を創造された神が、最も創りたかった場所なのです。

『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。』

 『天にある支配と権威』とありますが、「天」とはどの場所を指しているのでしょうか。
 聖書には「天」という言葉が数多く出てきますが、どこの天なのかを注意深く読み取ることが大切です。この箇所の天とは、悪魔・悪霊が活動している霊的空間を意味しています。そこに対して、教会が神の豊かな知恵を示すと教えています。
 万物を創造した神が、最も創りたかったのが「教会」です。そして、教会の目的は霊的戦いが前進するためなのです。教会を通して、目に見えない敵の力が破られるのです。私たちが教会に身を置くことは、守りの領域において大変重要です。

 私は牧師という立場にあります。時々「あなたは牧師ですか。大変ですねぇ。牧師は羊飼いのようなもので、羊をどこかに連れて行くような役割ですから大変ですね。あなたの方向が間違うと大変なことになりますからね」と言われます。

 しかし教会の牧者は牧師ではありません。私は牧師という言葉は好きではありません。なぜならば、『主が私たちの牧者ならば、私たちは乏しいことがない』と告げているからです。
 教会の牧者はあくまでも、「イエスさま」です。牧師やスタッフは、イエスさまの子分のようなものです。
 イスラエルに行くと、多くの羊を見かけます。羊飼いが羊を導いている姿を目にします。しかし羊飼いが木陰で休んでいるときにも、羊は一定方向に向かって進んでいます。どうしてあんなふうに、うまくいくのだろうかと思います。
 なぜなら、羊飼いは必ず牧羊犬を持っています。犬が羊を追って、群れから離れた羊のところに走っていき、群れに戻しているからです。
 ベドウィンという遊牧民がいますが、彼らは必ず牧羊犬を飼っており、群れを支えています。そして牧羊犬には細工がされています。犬の耳は尖っていますが、尖った耳の先端が切り取られています。
 なぜ切られているのでしょうか。それは夜、牧羊犬が熟睡しないためです。砂漠の夜は寒いので牧羊犬は切り取られた部分が痛くて、熟睡できないそうです。それで、夜、オオカミやライオンが羊を食べに来ても、眠りが浅いために少しの臭いや物音でも起きて、牧羊犬は敵に立ち向かうことができるのです。戦いの準備のために、耳が切られています。

 耳を切られた犬のような存在が、牧師やスタッフたちだと思います。ですから私たちが、霊的に深く眠り込んでしまわないように祈ってください。霊的に熟睡してしまうと、敵の存在を発見することができません。教会で奉仕する中で一番重要なことは、キリストのからだが完璧に守られることです。そのための機能を果たして行かなければなりません。特に牧師やスタッフたちが霊的に敏感で、敵の力を察知して打ち砕けるように祈ってください。

 皆さんでMくんのために祈っています。皆さんの祈りを心から感謝します。彼が倒れて、すでに四十日以上になります。
 彼が倒れる直前、なぜか私はその日に限り、彼の家の前に行って祈らなければならない衝動に駆られました。それで、いつものウォーキング・コースを変えて、Mくんの家の前に行き、彼と彼の家族のために守りを祈りました。
 家に帰ってしばらくして、知らせを受けました。Mくんが倒れて、救急車で病院に運ばれたと連絡がありました。
 彼はその日、キャンプに行ったりして、日射病ではないかと言われました。しかし、私はその晩、眠ることが出来ませんでした。もちろん、根底には平安がありましたが、なぜか胸騒ぎがして祈らなければならないと思いました。
 私は夜中に起きて車を走らせ、彼の住む地域や中学校、家などを巡って朝方まで、とりなし祈りを一人で続けました。そして夜が明けました。
 すると彼の家族が来て、彼がたいへんな病気だと告げました。それで主が、私にとりなし祈るように命じられた理由が分かりました。それが私の役割だと思いました。
 しかし、これから更にキリストのからだの祈りが強化され、そのようなことさえも事前に防ぐことができるように、祈っていかなければなりません。
 けれども、このような事柄を通し、教会が祈りに目覚めるなら、今まで開かれなかった領域が開かると信じます。

 彼が倒れて四十日が過ぎましたが、主が今まで気づかなかった領域に対する祈りを、多く与えてくださっています。まだこれは戦いの途上なので、皆さんにすべてを発表できませんが、日々、主がとりなしの祈りの領域を加えて下さっています。そしてそれは、キリストのからだの全器官からの情報によって前進しています。一二一篇五節に、

『主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。』

とあります。『昼も、日が、あなたを打つことはなく』とあります。しかし、真剣に読むと、どういう意味だろうかと思う部分があります。昼は日があなたを打つことはないは、わかります。砂漠を歩く人たちは、熱くて日射病にならないようにという意味合いとして受け取ることができます。
 しかし、『夜も月があなたを打つことはない』とあります。日射病は聞きますが、月射病は聞きません。夜、月に照らされて頭が痛いとは聞きません。普通ではないことです。

 しかし、Mくんの病気のために祈っていたときに、一つの祈りのテーマをいただきました。マタイの福音書十七章に、てんかん持ちで苦しんでいる息子のいやしについて記されています。イエスさまがそのような病気をいやされた記事に気付かされ、祈りの必要を覚えました。
 マタイ十七章十五節から十八節に、

『「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。』

 この箇所で、「てんかん」という箇所に*印が付いており、直訳は「月に打たれた」とあります。「月に打たれる」とは、どのような意味があるのかわかりませんが、それをてんかんに置き換えて、当時の人たちは理解していました。
 「昼は、日が、打つことがない。夜は月が打つことがない」という守りの中で、何らかの霊的理由があるのかも知れない、と思わされました。
 黙示録十二章一節に、

『また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。』

とあります。黙示録に月を足の下に踏んでいる、一人の女が出てきます。この女は誰を意味しているのかを調べてみました。カトリックではマリヤだと言っています。しかし、それはキリストの花嫁である「教会」を意味しています。教会が竜と戦い勝利するのです。十二章七節から九節に、

『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。』

 エペソ三章から、教会は天にある支配と権威を打ち破る存在だと学びました。この女とは、「教会」そのものです。そして教会は、「月を足の下に踏みつける」のです。

 今世界の脅威となっているのは、イスラム勢力です。イスラム勢力が今後どのようになるかで、世界情勢が変わります。テロとの戦いは、イスラム過激派との戦いだと言われます。
 イスラムというと、私たちにとって少し遠い世界のように感じます。しかしイスラムは、三日月をシンボルにしています。マホメッドは七世紀頃に現れました。しかし今や世界中にその勢力を拡大しています。
 
 エルサレムから始まった世界宣教がローマに入ってから力を失いました。キリスト教が国教となってから政治的になり、聖書を正しく理解しなくなり、マリヤ崇拝や偶像礼拝などと習合したのです。
 そんなとき、教会に失望した一人の男がいました。それがイスラム教の教祖となったモハメッドでした。彼は始め教会に通っていましたが、教会に失望し、ある時洞窟で断食していたときに、悪しき霊体験をしました。それはアラビアの月神礼拝の影響でした。そし彼はイスラムを立ち上げたのです。
 それが今では、世界の脅威となっています。イスラムの人たちは愛さなければなりませんが、月をシンボルにする背後の敵の力は大きなものです。

 明日から私はブラジルに行きます。ぜひお祈り下さい。まず、フロリアノポリスに行きます。そこでイラン人と会います。彼はこの教会で主を信じました。彼はイスラムでしたが、クリスチャンになりました。そして彼は来月、オランダに移住するそうです。オランダには大勢のイスラムから解放されたクリスチャンが住んでいます。彼が今度属する教会は、一万人ほどの元イスラムの人たちがクリスチャンとして集っているそうです。
 やがて主は、イスラムにも宣教の矛先を向けられる時代が来ると思います。今テロ世界が混乱していますが、イスラムではなく、その背後に働いている、月をシンボルにする霊的力に立ち向かう教会にならなければなりません。
 イスラムへのとりなしの祈りが、Mくんの病気を通して与えられました。その祈りが、同時に、Mくんのような、月に打たれた人たちを解放したらどうでしょうか。
 まさか、イスラムとMくんの病気とは関係はないと思いますが、もしかしたら、私たちが気付いていない意外な場所に、大きないやしの鍵が落ちているのかも知れません。

 今回私がブラジルに行くことは、一つはマリヤ崇拝というカトリックとの戦いがあります。ローマ・カトリックはキリスト教のように見えますが、偶像礼拝を容認しています。南米のリバイバルは、ローマ・カトリックから、正しい福音理解に移ることです。中世の聖画は、マリヤの足の下に三日月があります。なぜなら、創世記十二章はマリヤだと言っているからです。
 そうではありません。月を踏みつけるのはマリヤではなく、「教会」です。このマリヤ崇拝の根源に、「月神礼拝」があるのです。イスラムの背景にも月神礼拝があります。
 今回のブラジルでの働きのために祈ってください。月を神とするような悪魔の力が打ち破られ、教会に不思議としるしが始まり、Mくんが立ち上がったら素晴らしいです。

 彼の全身状態は日々、良くなっていますが、一つ大きな問題があります。それは、エコノミー症候群の症状で、足に血栓ができており、それが動くと一大事だそうです。心臓に飛んだりすると、大変なことになるので、血栓が消えるように祈ってください。

 教会の祈りが、さらに積まれていくことを期待します。今回、ブラジルで、イスラムから救われた兄弟が行っている教会で集会をし、その町の牧師たちとともに、とりなしの祈りもします。その結果が、この教会にも現されると信じます。

 主が教会に、守りのための権威を与えてくださることを感謝します。色々な問題を問題で終わらせてはいけません。そこから、祈りの領域を主から聞き、立ち向かうことが、結果的に最大の守りになると信じます。
 最後に、詩篇一〇五篇八節から十五節に、

『主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」そのころ彼らの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

とあります。イスラエルから出たイスラエルの民は、百万から二百万人とも言われましたが、全体から見たら少数派でした。しかし、そんなちっぽけな民でしたが、列強の国々を打ち破り、今もイスラエルはあります。
 なぜ途中で滅びなかったのか・・・。彼らは国から国へ、一つの王国から王国へと渡り歩きましたが、主が彼らを守りした。
 それは主が、ご自分の民を横に置き、敵に対して宣言されたからです。

『わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。』

 私たちが主に信頼するとき、私たちは油注がれた者となります。そんなクリスチャンに対して、主は何と言われるのでしょうか。敵に対して宣言されます。「油注がれた主を信じる者たちに触れてはならない、何の危害も加えてはならない」と。

 主が先立ってくださいます。『私の助けは、主から来る』あります。「危害を加えるな」ということは、「傷付けるな、病気にするな、壊すな、悲しめるな、苦しめるな、更に悪くするな…」という意味もあります。
 主は私たちを完璧に守ってくださるお方です。私たちは油注ぎを受けた者であると信仰を持って受け取り、今週も、神の国の拡大のために働きましょう。

 今から聖餐式を行いますが、イエスさまが私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえってくださいました。それによって、守りは完璧になりました。

黙示録十二章十節から十一節に、

『そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。』

 私たちの告発者たちは投げ落とされたのです。また、「兄弟たちの証のことばのゆえに打ち勝った」と記されています。
 今日のみ言葉は、「証の言葉」です。主が守ってくださることを宣言します。イエスさまは墓場からよみがえられたのです。助けは主から来ます。それはよみがえられたからです。十字架によって、サタンの力を砕いてくださったことを感謝しましょう。キリストのからだの中で、完全な勝利を与えてくださることを信じ、宣言しましょう。

(告白の祈り)
「イエスさま。あなたの十字架を心から感謝します。今あなたはよみがえられ、この場におられることを感謝します。十字架の血潮の勝利を宣言します。よみがえりを宣言します。
 悪魔よ。よく聞け。お前たちは、神の子たちを告発することができない!イエスさまの御名によって、勝利を宣言します。アーメン。」


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