祝福された信仰生活を送るためのアイテム


2008.9.28(SUN)
新城教会牧師 上條 実

旧約聖書 詩篇103篇1節〜5節
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

 ハレルヤ!今日も皆さんと共にみ言葉を学ぶことができますことを感謝します。金曜日から韓国リバイバルミッションの決起大会が行われています。滝元順牧師は金曜日の夜、クリスチャンインターナショナルコレアという場所で集会があったそうです。そこに一五〇名の方々が集まられ、大変祝福された時を持つことができたそうです。滝元明牧師は久里教会という所の徹夜祈祷会にてご奉仕されました。また昨日はコンサート形式の決起大会が行われ、ロンブラウン氏とティムケプラー氏、そして賛美チームが賛美し、滝元順牧師がメッセージしました。そこにも一五〇人ほどの方が集まられ大変祝福された時を持つことができたそうです。本日滝元順牧師は朝、平沢市という所の城門教会で奉仕し、午後もその教会で奉仕をし、夜は城南市の世界教会という所で奉仕します。滝元明牧師は、城南市という所にある成安教会でこの朝奉仕し、そして午後三時からはソウル日本人教会で奉仕します。滝元明師と賛美チームは明日帰国しますが、滝元順牧師は韓国の各地を木曜日まで奉仕し、金曜日の夜帰国されます。ぜひ続けてお祈ってください。
さて今日は詩篇一〇三篇一節から五節のみことばを学びます。特に二節の、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

というみことばを中心に学んでいきたいと思います。お祈りいただいておりますMくんは車いすで病院の外まで出るまで回復し、リハビリも続いているようです。コミュニケーションもだいぶ回復してきたそうです。しかし右足の付け根のところが化膿しており、その処置をしましたが、まだ中のほうに炎症しており、治療として抗生物質を使用していくそうです。昨日は熱があり、だいぶ体調が良くないとの事ですのでぜひ続けてお祈り下さい。中野兄姉がほとんど毎日、Mくんの情報をメールにて教えて下さっています。先週の二十三日の火曜日、私はそろそろメールが来る頃だろうと思いつつ、Mくんの為にお祈りしていました。ちょうどその時メールが届き、そのメールを開いたとき、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

というみことばが突然私の心に響きました。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

主は私たちにいつもすばらしい祝福ばかりを下さっています。Mくんもここまで良くして下さった事は本当に感謝です。しかし徐々に病気が良くなってくると、感謝は感謝だとわかっていますが、更にもっと良くなって欲しいという思いから、当たり前のように完全に直してくださいと祈ります。しかし主が良くしてくださったことを忘れてしまっています。今まで良くして下さったことがあってもそちらには目がいきません。次々と祈りの課題が出てきて、感謝を忘れてしまっていると教えられました。必ず主は勝利を下さいます。今生きている神です。今日のタイトルを「祝福された信仰生活を送るためのアイテム」と、つけさせて頂きました。「アイテム」とは辞書で調べると、

「項目、条項、品目、また品物。必要とされる物。コンピューターゲームなどでプレイヤーが手に入れて使うことのできるもの。」

とあります。ですから信仰生活の中で、祝福を頂くためのアイテムとして「感謝すること」を手に入れる事、感謝が必要だと言うのです。私たちは祝福された信仰生活を送るために感謝することがアイテムです。そのアイテムをもらうことが、受け取ることが祝福の原動力です。感謝することは簡単なことなのですが、生活の中で感謝を忘れさせるためように働く暗闇の力、悪魔・悪霊がいます。感謝する所を感謝させずに、もっとこうなったら良いのに、まだこんな状況だ、また次にこんな問題が出てきてしまった、などここまでの祝福にたいして感謝することを全く忘れさせ、次々と起こってくる問題を見させて、毎日暗い思いで日々を送ってしまいます。簡単なようでなかなかできないものが感謝です。
以前ここで愛の反対語は「無関心」とある方が言ったと語ったことがあります。では今日学ぼうとしている「感謝」の反対語は何だろうと調べてみました。私は「感謝」の反対語は、不平、不満ではないかと思っていました。しかし今回調べてみると、感謝の反対語は「当たり前」とありました。「感謝」と「当たり前」反対語だとは思ったこともありませんでした。しかし考えてみると「今自分がここにいるのは当たり前」だと思っていました。しかし当たり前ではなく、愛する両親がいて今の自分がある。愛を持って育ててくれなかったら、今私はここにいない。当たり前のことのように考えますが、実は当たり前ではなく、私のために多くの人々が携わり、見守り、愛し、助けて下さったことを神さまに感謝し、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

良くして下さったことをわすれるな。常に感謝しなさいと教えて下さっています。今の今まで、自分で生きてきたかのように思っても、あなたのそばにはいつも家族があり、色々な問題があったときは、相談に乗ってくれた家族、友がいたこと。自分の事のように心配してくれて祈ってくれる兄姉がいること。当たり前だと思ってはいけません。また私たちは全く気になっていませんが、空気があり、水があり、食べる物があることを当たり前と思ってはいけません。世の中には食べることも飲むこともできない人たちが多くいます。また食べれば外に出るものもあります。出てくれることは感謝です。私はいつも快便です。、便秘の方はいつも大変だと思います。また両手、両足があり、歩くことができ、働くことができることも当たり前ではありません。すべての中に神さまのみ手があります。神が与えて下さった土台の上で、自分は生活しています。背後に多くの方とイエス・キリストの愛に守られて生活ができています。当たり前ではなくなんと感謝な事ばかりでしょう。この教会の事を考えても一九九三年に阪神甲子園球場で大きな伝道会「全日本リバイバル甲子園ミッション」を行いました。その時教会に大きな試練がありました。しかし守って下さり、支えて下さり守られてきました。去年はなんと日本だけでなく、神の計画の中でハワイにてリバイバルミッションが開催され、また来年の五月には韓国にてリバイバルミッションが開催できると考えるとき、皆さんが愛し、お祈り下さり、その祈りに答えて下さった神さまがいることを覚えるとき、感謝で感謝でたまりません。私たちのは神さまは、私たちのために十字架にかかって死んで、葬られた神に感謝することを忘れてはいけません。感謝が私たちの信仰生活の中で祝福を受ける大きなアイテムなのです。詩篇一〇三篇三節から五節には、

『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

私たちの神は生ける神です。今も生きていて『二、三人わたしの名によって集まるところに、わたしもその中にいる』と言わます。今日もこの礼拝の真ん中におられます。そして私の、あなたの全ての罪を赦し、すべての病を癒し、さばきの穴である、早く言えばさばきの場所である地獄から救い、常に恵みを下さり、私たちの一生を良いもので満たしてくださる神がいるのです。目に見えませんが今も生きておられる神さまがいる。何と感謝な事でしょう。しかし私たちはイエスキリストを信じる信仰と毎日の生活とがまだ一致していないように感じてなりません。教会に来て礼拝するときは、神さまを認めます。また聖書を読むとき、祈るときはイエスさまが自分の神さまだとわかります。しかしいざ毎日の生活が始まり、学校、仕事、家庭で忙しくしていると神さまを忘れてしまいます。問題が目の前に来てもすぐ神さまに頼ることをせずに、自分で何とかしようとか他の人に頼り、まず祈ろうなどとは考えません。現実は難しい、こんな病気がある、こんな問題があると自分の力だけで生きてしまいます。自分で勉強をし、仕事をし、自分で何かする事が当たり前。神さまは日曜日の時だけ思い出す。そんな生活をしていませんか?あなたの神はいつもあなたとともにおり、あなたが寝ているときも寝ずの番をし、守ってくださる神さまなのです。生活の中にも神は生きています。しかし生活の中で、当たり前に思わせてくる暗闇の力があることを知って下さい。
先週読んで感動したみことばがあります。それはエペソ五章一節から二節です。

『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。』

一節に、『愛されている子どもらしく』とあります。このみことばを読んで「ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」とあるように、こんな私のために天地をつくり、全ての支配を持っておられる神が私を愛してくださっている。私を救うために、私の代わりに十字架にかかり、苦しみを受けて下さり、死んで三日目によみがえり、今も私のために生きて下さっている。そして私に永遠に生きるいのちを与えてくださった事を考えるとき感謝で、感謝でたまりませんでした。私の神は、あなたの神でもあります。私たちは死んでも、天国に行けるという確信。永遠のいのちがあることを心から感謝しました。先日の金曜日、この教会に来ておられる年配の方々の集いであるシオンタイムという集会で奉仕させていただきました。シオンタイムに出席して大変恵まれました。出席された全員の方々が永遠のいのちを持ち、死に対して勝利しておられます。死の恐怖から解放されて、天のみ国を待ち望んでおられる姿を拝見して、感動を覚えました。既に天に帰られた多くの兄姉とまた再会できるという確信と望みを持っておられる姿を見て感謝しました。今日あなたはイエスキリストが、あなたのために死んで下さり

「私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」

というみことば通り、あなたのためにご自身をささげて下さったイエスさまの十字架を「当たり前」だと思わないで下さい。今日も礼拝後聖餐式があります。当たり前のようにパンとカップを取り、いただかないで下さい。あなたを永遠に生かすために十字架にかかり、自身を神へのささげ物、また供え物としてくださつた、あなたの神イエスキリストを覚えていただいて下さい。ルカ十六章二十三節から二十六節を見ると永遠の世界が、聖書の中で見ることができます。

『その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

二十三節「苦しみながら目を上げた」とあります。また二十四節には、「憐れんでください。ラザロの指に水を浸してそれを持ってこさせて自分の舌を冷やさせてください。」とあります。一滴の水でも良いので持ってこさせて下さいと言っています。一滴の水すらない、全く満足のない場所が滅びの場所です。「当たり前」のようにその場所に向かっていた私たちを救ってくださいました。「当たり前」ではありません。この世の最高の愛であなたを愛して下さり、救って下さいました。永遠のいのちを与えて下さいました。感謝しましょう。心から感謝しましょう。皆さんはイエスさまを神と信じていますか。ハレルヤ!イエス・キリストを神と信じるだけで、私たちは救われ、永遠のいのちを得ることができます。今日私たちの持っている唇で、これ以上感謝できないと言うほど、最高に感謝いたしましょう。
 しかし暗闇の力、悪魔、悪霊によって「当たり前」にさせられています。子どもたちに話すとき、どうして毎週礼拝に行かなければいけないの?という子もいます。「当たり前」になってしまい、礼拝や集会で感謝できなくなってしまいます。悪魔、悪霊に問題や病いだけを見させられて、なんで神がいるのにこんな状況になるんだ?と思わせてきます。そして、段々イエスキリストから目を離してしまいます。金儲けが楽しくなります。友達と遊ぶことが楽しくなります。「感謝」ではなく「当たり前」になってしまうのです。そしてエペソ五章の続きには偶像礼拝、不品行、下品な冗談など色々な汚れについて書かれていますが、心がその汚れに引き寄せられ、誘惑に負けてしまいます。また告白したら罪が赦されるとあるから、罪を犯しても赦して下さると罪を軽く考えてしまいます。ルカ十六章にある「ラザロと金持ち」のストーリーをもう一度読み直して下さい。金持ちが味わっている裁きと苦しみにあわないように。イエスキリストがあなたのために、身代わりとなった十字架を軽く考えさせ、罪を犯しても何とも思わないようにさせてくる暗闇の力に対向していく事が必要です。当たり前と思わないでください。あなたが今イエスキリストによって生かされていること、あなたが今日教会に導かれていること。これはイエスキリストがあなたの為に犠牲となって下さったのです。今日も礼拝後聖餐式が行われます。イエスキリストの愛を感謝しましょう。私は良くお話しすることですが、今から二十二年前原因不明の病気になりました。毎日脇腹が痛み、苦しんでいました。何の病気か全くわからず、何の治療もしてもらえず、ただ痛みに耐え、医者から痛み止めだけを出してもらっていました。そんなときみことばで「すべてのことについて感謝しなさい」と読みました。またある本を読み、どんなことでも感謝しなければいけない。順調の時だけでなく、苦しいときでもみことばは「絶えず祈りなさい」とあるから何でも感謝しましょう。という事を読みました。当時痛み止めとして、飲み薬では、胃が荒れて痛みがあったため、座薬を出してもらっていました。時間の間隔を四時間以上空けて使ってください。と言われていましたが、痛みが強く三時間間隔で使う程の痛みと熱が三十九度から四十度程ありました。こんな時なにが感謝だと、始め思いました。しかし病院では午前中検査をしますが、午後からは時間がありました。何もすることがないので、嘘でも良いから感謝してみようと思いました。一つ一つイエスさまに感謝しました。はじめは「生かされていること。」「すばらしい病院で手当をしてもらえること。」「すばらしい医者と看護師がいること。」「食べること」等普通に感謝できることを感謝しました。しかしすぐに感謝することがなくなってしまいました。ですから無理矢理にでも感謝し始めました。「痛みがあることを感謝します。」「熱があることを感謝します。」などいままでありえない事、不平、不満を言っていたことを無理矢理感謝しました。しかしその時、神さまによって奇跡を体験しました。本当にビックリしました。いつも三時間で痛みと熱が出てくるのに、私はその日全く気づかずにいましたが、何と夕方になっても痛みと熱が出てこないのです。それまで全くいらなかったのです。毎日三時間、四時間間隔で座薬を入れていたのに、全くいらなくなったのです。奇跡です。感謝することがこんなに力があると言うことを体験したのです。医者が毎日「何ででしょう?」と言っていた痛みがなくなったのです。何とすばらしい「感謝」という処方箋でしょう。私はそれまで、主のために奉仕している自分がなんでこんな事になるんだろう?何か罪を犯したんだろうかと悔い改めばかりしていました。悔い改めも必要ですが、悪魔、悪霊はまだあるまだあるといつも訴えられていました。苦しくてたまりませんでした。もう主のために働くことはできないと全く人生が終わってしまった気分でした。そんな中、ただ感謝する事がこんなに大きなことだと知りました。感謝には力があります。感謝したときに癒しがありました。ルカ十七章に、今でいうハンセン病。重い皮膚病。第三版ではツァラアト(第二版はらい病)の人が十人イエスさまの所へ出会いに来ました。しかし遠くから「イエスさま、憐れんでください。私たちはツァラアトで苦しんでいます」と叫びました。するとイエスさまはこう言われました。ルカ十七章十四節に、

『行きなさい。自分を祭司に見せなさい。』

と言われました。そして彼らは祭司に見せようとして出かけていきました。その行く途中で癒されたとあります。すると当時ユダヤ人と敵対関係にあったサマリヤ人だけがイエスさまの所に帰ってきました。十六節に、

『イエスの足もとにひれ伏して感謝した。』

とあります。すると十九節に、

『「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」』

サマリヤ人は感謝するために帰ってきました。感謝したことによって主に「あなたの信仰が、あなたを直したのです。」と言われました。信仰の中で感謝は大きな、大切なアイテムです。感謝のために戻ったサマリヤ人に対して、あなたの信仰。あなたの信仰があなたをいやしたと語られました。今日様々な病がある方、是非感謝し始めて下さい。私も感謝する中で癒されました。「感謝」それは祝福された信仰生活を送るためのアイテムです。ぜひ感謝して下さい。また聖書には感謝することによって多くの祝福を与えられています。 ヨハネによる福音書六章には二匹の魚と五つのパンの記事があります。男だけで五千人いたとあります。女性や子どもを入れれば一万人、ある人は二万人いたという人もいます。ヨハネ六章五節から十三節、

『イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。』

シモン・ペテロの兄弟アンデレが少年が持っていた大麦のパンを五つと小さい魚を二匹をイエスさまの前に差し出しました。男五千人の人々で何の足しになるのだろうという、量の食物でした。しかしイエスさまは十一節に、

『そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。』

パンを自分の所に取って、「感謝をささげて」から分け与えたのです。そのとき奇跡が起こりました。感謝した後奇跡が起きました。普通ではあり得ない。「当たり前」無理なことです。しかしそこでイエスさまは「感謝しました」その時パンと魚が増えました。みなが食べて満足し、その余りが十二のかごにいっぱいだったとあります。聖書には「二百デナリのパンでも足りない」とあります。一デナリが一日の給金だそうですから、一万円としたら二百万円です。一つ百円のパンとして二万個のパンが必要です。二万個円のパンをそろえるとしたら、この会堂がパンでいっぱいになってしまう程の量だと思います。どんなに少ない量であろうと、いや無から有を生み出す神さまです。よく来年の韓国リバイバルミッションに対して滝元順先生が「小さな小売店が、大きなスーパーマーケットの売り上げのために、なにか貢献したいんですがと言っているようなものだ」と表現されています。本当にその通りです。人口の二十五パーセントが方々がクリスチャンである国、韓国に、クリスチャン人口わずか0、二パーセント以下しかいない日本がいったい何ができるだろうと思います。逆に助けて欲しいと思います。いやもう既に韓国から多くの助けをいただきました。しかし韓国リバイバルミッションは韓国と一緒に、韓国の愛する魂のために働きたいと願っています。私たちになにができるだろうかと思います。しかしこの五つのパンと二匹の魚の所から、私は励ましをいただきました。とにかく「感謝しましょう。」感謝するとき無きにひとしいものからでも、すばらしい奇跡を現して下さる。すばらしい祝福を下さる。霊的戦いで圧倒的な、国を変えるほどの勝利を見せて下さると信じることができました。私たちは「感謝」というすばらしいアイテムを持っています。感謝して、感謝して神さまが奇跡を現して頂きましょう。そして余ったパンが十二のかごにいっぱいになったように、私たち日本にも、大きな祝福が溢れてくると信じます。
 また続いて第二歴代誌にヨシャパテがアモン人、モアブ人と戦ったことが記されています。その時ヨシャパテは先頭に戦いの勇士をそろえて、綿密な作戦でたてて戦いをしたのでしょうか?いやなんと聖歌隊を出して賛美させました。第二歴代誌二十章十五節から二十五節に、

『彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。ユダが荒野に面した物見の塔に上ってその大軍のほうを見渡すと、なんと、死体が野にころがっている。のがれた者はひとりもない。ヨシャパテとその民が分捕りをしに行くと、その所に、武具、死体、高価な器具を数多く見つけたので、これを負いきれないほど、はぎ取って、自分のものとした。あまりにも多かったので、彼らはその分捕りに三日かかった。』

とあります。ただ主を賛美したのです。普通戦争という観点から考えたらなんとバカバカしい作戦であるかと思います。二十一節に

『彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」』

ただ「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と感謝の賛美をしました。すると二十四節に、

『ユダが荒野に面した物見の塔に上ってその大軍のほうを見渡すと、なんと、死体が野にころがっている。のがれた者はひとりもない。』

「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と感謝の賛美をささげた時、敵は皆殺しにされ、三日かかって分捕り物を取り戻すほどのもの完全勝利でした。韓国リバイバルミッションも、感謝と賛美をささげて行きたいと思います。霊的戦いで大勝利を得たいと思っています。感謝の賛美は大きな力があります。皆さんはいつもどんな歌を口にしていますか?いつもどんな歌を聴いていますか?感謝の賛美をささげましょう。賛美をささげる時に霊的戦いが起こり、神ご自身が戦って下さる。ヨシャパテの時は神が一人で戦って下さったのです。すばらしい奇跡を見せて下さいます。主に賛美しましょう。主に感謝の賛美をささげましょう。
 またヨナ書を読んだことがあると思います。主はヨナにニネベへ行きなさいと言われました。しかしヨナは行くことを拒みました。ニネベには行かず、舟で逃げたのです。その時に大嵐が起こりました。そしてヨナは「私を海の中に入れてください」と言い、ヨナは海に投げ込まれました。その時嵐は止んだとあります。しかし主はヨナのために大きな魚を用意し、ヨナを飲み込みました。三日三晩ヨナは魚の中で悔い改めました。そしてヨナ二章九節に、

『しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」』

と祈ったのです。最後に『私は、感謝の声をあげて』とあります。感謝の祈りをささげました。魚の中で感謝しました。すると十節に、

『主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。』

とあります。魚のお腹の中に閉じこめられたということは、何を意味するのでしょう。それは絶対に助からないような状況。完璧束縛の中、絶体絶命の状態を意味します。ヨナはそんな中で祈りをしました。そして感謝しました。すると何とありえないことが起きました。

『主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。』

陸地に戻されたのです。その後ニネベに出かけて主の勝利、リバイバルを見ることができました。日本の状態は魚の腹の中状態、暗闇の力に束縛されている状態です。いつ滅んでしまっても良いような状態かもしれません。偶像礼拝に満ち、占い、呪いに満ち、高慢、差別等々、日本は霊的に真っ暗な状況。最悪状態かも知れません。しかしそんな中でも祈りましょう。感謝しましょう。ヨナのように悔い改め、感謝の声を上げましょう。主は奇跡を与えて下さいます。解放されて韓国に使わされましょう。過去どんな歴史があったとしても、そこにリバイバルを現して下さいます。感謝によって暗い閉じこめられた所から解放されて、祝福をいただくことができます。またコロサイ三章十七章に、

『主によって父なる神に感謝しなさい』

とあります。また四章二節には、

『目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。』

第一テサロニケ五章十八節に、

『すべての事について、感謝しなさい』

とあります。感謝と聖書にたくさん書かれてあります。感謝は簡単な事ですが、悪魔、悪霊に惑わされて「当たり前」になってしまっています。しかし今日「感謝」というアイテムを持って、感謝しましょう。感謝の賛美をささげましょう。私たちの生活の中を感謝で満たしましょう。感謝は霊的武器として働き始めます。今日感謝し始めて下さい。今がどんな最悪の中にあっても、必ず勝利を下さる神さまです。今日詩篇一〇三篇一節から五節のみことばを信じて感謝し始めましょう。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

感謝するとき、あなたの一生を良いもので満たして下さると言うのです。今週は感謝を忘れずに、祈りましょう。感謝の賛美をしましょう。あなたの人生に奇跡が起こります。韓国リバイバルミッションもすばらしい祝福を見せていただくことができます。今から「感謝」の祈りをささげましょう。お祈りします。


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