代々しあわせに生きる秘訣


2008.10.5(SUN)
新城教会牧師 滝元順

旧約聖書 第二 列王記 4章1節〜7節
預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

 ハレルヤ!今朝、皆さんとともに、み言葉を学ぶことができ感謝します。今日のメッセージのタイトルを、「代々しあわせに生きる秘訣」と名付けました。
 一家が代々幸せに生きることができたら、素晴らしいです。それは誰もが一番望んでいることです。私は週報を見て、ちょっとショックを受けました。なぜなら、「次週聖日礼拝後、婚約式が行われます」とあったからです。なぜなら、それは私の娘の婚約式であったからです。
 日曜日の礼拝中に、「奥さんが陣痛で苦しんでいます。病院に来て、さすってあげてください」と病院から電話がかかってきたのを、昨日のように覚えています。娘が結婚することは、男親にとっては複雑な気持ちです。しかし、代々しあわせになるならば、感謝なことです。そのための秘訣が聖書に記されています。

 皆さんにお祈りいただき、「韓国リバイバルミッション」のキックオフ大会に行ってくることができました。私はブラジルから帰ってすぐに韓国に行きました。八日間程、韓国にいました。八日間で計二十数回の集会を行いました。大変忙しく、集会が終わるのが夜中の十二時頃で、宿舎に帰って寝ると二時頃でした。翌朝は早く出発して次の場所に行きました。今回はソウルでも行われましたが、その後、東海岸を巡って集会を持ちました。

 ハワイリバイバルミッションの後に、「主よ。これから何をしたら良いですか?」と祈っていたら、「韓国で働きなさい」と示しを受けました。この事を韓国側にお伝えしましたが、どうやって集会をアレンジしたら良いのかわかりませんでした。
 しかし不思議な方法で主は導かれました。キム監督が日本に来られました。キム監督はKBSという放送局のプロデューサーで、韓国放送大賞も取られた有名人ですが、彼が聖霊を受けたことを記した本を出版したことが話題となり、教会関係の働きをするようになりました。そして彼とそのチームは、日本のためにとりなし祈るように導かれていたのです。

 そんな中、7月に彼は七十人の勇士達を連れて新城に来ました。人手によらず主が導かれたのです。私たちは共に礼拝を持ちました。そんな不思議な関係ができ、霊的戦いが韓国にどうしても必要だと彼らも示されたようです。そして、韓国リバイバルミッションを全面的にサポートしてくれるようになりました。私の空いているスケジュールを送りましたら、あっという間に韓国の色々な教会で奉仕する道が開かれました。これから月に一度、韓国を巡る道が開かれました。神が扉を開かれるとき、不思議な方法を用いられると思いました。

 今回大変忙しいスケジュールでしたが、家内もいっしょに行ってくれたので、楽しく働くことができました。今、家内から韓国の様子を、少し聞きたいと思います。

(証し)
 「ハレルヤ!心から感謝します。皆さんのお祈りにより、韓国での働きがとても祝福されたことを感謝します。
 今回一週間の予定でしたが、主人に同行して主人の働きのために、とりなし祈る事が出来ました。わずかながら、私自身も主人と共にミニストリーができて感謝します。
 今回は、ソウルの中心地ではなく、田舎をキム監督のチームと共に廻らせていただきました。私は今までに四、五回韓国に行ったことがありますが、いずれもソウルと仁川だけで、そこから外には、出たことがありませんでした。しかし今回は、地方に出て働きをさせていただきました。
 韓国社会にはキリスト教が深く浸透していることを感じました。食堂に行っても、タクシーに乗っても、どこでもイエスさまの話ができます。日本だと、食堂でお祈りをしていると奇妙な目で見られることがありますが、そのようなことが一切なく、韓国の社会はキリスト教社会だと感じました。
 近ごろ、韓国のリバイバルは止まったと言われていますが、まだまだ、底力があると感じました。韓国教会の様子をいくつか廻って見ることができました。現状をも見ることができ、大変良かったです。
 しかし、韓国のキリスト教会は、今、分岐点にあるとも感じました。岐路に立たされており、教会は見た所は燃えていますが、半面、閉塞感を感じているようでした。何らかの壁を打ち破らなければならないと感じました。いくつかの教会で、主人が霊的戦いについて語りましたが、いずれの教会も熱くそれを受け取ってくださいました。東海(トンヘ)という所で集会をしましたが、千人ほど集まりました。そこで主人が説教をするのを見ながら、霊的戦いが始まったばかりの頃、主が私にはっきりと語ってくださったことを思い出しました。
 その頃は、主人が韓国に行ってメッセージを語るような状況は、影も形もない環境下にありました。しかし主は、「あなたがたが歴史の中で肉の剣によって傷付けた国々、特にアジアの諸国に出て行き、霊的戦いの奉仕をするようになる」と語ってくださいました。

 ですから、私は、必ず韓国、中国、ハワイなどに出て行く日が来ると信じていましたが、ハワイが皮切りに、今回、主人が韓国で大胆に説教している姿を見て、預言の成就を見させてくださったと感謝しました。
 これから、働きが本格的に始まっていくと強く思わされ、イエスさまに心から感謝しました。一つずつ神が語られたことが成就している状況にあり、日々、ワクワクしています。

 韓国ミッションを控えて、韓国のために日本人が祈り、また働くことは日本のリバイバルにもつながり、中国やアジアのリバイバルにもつながると感じました。
 日本、朝鮮半島、そして、中国は「仏教、道教、儒教」という、同じ宗教的土台の上にあります。共通の霊的土台の上に住んでいます。よって、韓国で働くことが、日本の解放にもつながり、中国の開放にもつながると信じます。これから情熱を燃やして、韓国のために働かなければならないと感じました。

 日本の主神は「天照」であると言われますが、それも独自のものではなく、ルーツは韓国にあることを見て、とりなし、祈ることができました。
 この一週間は、私にとって大きなチャレンジとなり、これからの韓国リバイバルミッションに向けて、更に力が与えられ、前進していこうという決意が与えられました。感謝します。お祈りありがとうございました。」(ここまでが証)

 私は、新城教会に起こった霊的戦いについて、『主が立ち上がられた日』という本で紹介しました。それが去年は英語訳で出版され、ハワイやアメリカ本土で用いられました。
 そして、今年はそれが韓国語に翻訳されました。それも私がお願いしたわけではなく、これも人手によらず成されたことですが、出版されました。一週間の聖会の中で五百冊ほど売れました。もっと広がって、日本に起こった事柄が、韓国のリバイバルの助けになったら素晴らしいと思っています。

 韓国の方々は、どの教会でも同じように熱く祈られます。祈祷のスタイルはリバイバリストたちが訓練した結果です。真剣に主を求める姿は、素晴らしいものがあります。
 トンヘで千人ほどが集まった集会が行われましたが、それは「FEBC」 というラジオ局が主催するものでした。午後からは牧師、教職者セミナー、夜は聖会でした。大きな会場でしたが、いっぱいの人々が集まり、メッセージを聞いてくれました。最後の祈りの時は皆、前に出て、叫んで祈っていました。毎回、祈りが止まりませんでした。どうやって祈りを止めれば良いのかと思うくらい、真剣に主を求めていました。また、一緒にとりなしの祈りにも行きました。

 先ほども述べられたように、日本神話の根源も朝鮮半島にあります。アマテラスやスサノオは韓国から持ち込まれた偶像です。冬ソナの舞台で有名な、春川(チュンチョン)という町には、スタノオの故郷という伝説があります。地域の教会の先生方とともに、日本と韓国を共に束縛している力に対抗して祈りました。
 またボハンという街には、月と太陽の神が日本に渡ったという伝説があります。それは、アマテラスとヤタガラス伝説でした。それらの神が日本の神となったという伝説があります。春分、秋分の日には十数万人が集まるようです。韓国のリバイバルを祈り、霊的に戦うことが、結果的に日本の勝利につなると、強く感じさせられました。

 今朝語るメッセージは、今回特に韓国で主から語らされたみ言葉です。第二列王記四章一節から七節です。
 預言者エリシャが、やもめの一家を油を増やす奇跡を行って養ったという、奇跡の物語です。ここから、神は困っている人々を助けてくださることを知ることができます。

 けれども、旧約聖書の概念は新約聖書に至って、イエスさまの現れとともに霊的側面が付け加えられます。私たちが旧約聖書を読むときに、常に新約聖書の視点を重ねて読むことが大切です。旧約聖書を旧約的概念だけで読むと、ユダヤ教と同じようになってしまいます。
 第二列王記四章は、エリシャが油を増やすという奇跡です。これは単に、人助けの為の奇跡という側面しか見えてきませんが、ここに記されていることが、新約聖書に至っては、どのような意味があるのかを考える必要があります。それは、初めに語られた言葉が、最終的には何を意味するのかで、前半のストーリーの解釈をも変えることができます。
 油が増えるという奇跡が起こっていますが、「油」にはどのような意味があるのでしょうか。新約聖書で油とは、聖霊さまご自身を意味しています。旧約聖書の中でも、王様になるときに油が注がれました。それは権威の象徴でした。聖霊さまがこの地に来てくださったことにより、教会は敵に対して霊的権威を受け取りました。
 油とは権威を受け取る、聖霊に満たされるという意味があります。ゆえに、第二列王記四章の奇跡のストーリーは、「聖霊に満たされる」ということに置き換えて学ぶことができます。
 このストーリーから、どのようにしたら聖霊に満たされるかについて学ぶことができます。七節に、

『彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 やもめの家族に油が増える奇跡が起こったことにより、負債が帳消しとなり、『その残りであなたと子どもたちは暮らしていけます』と語られました。これは、代々しあわせに暮らすことができるという、ハッピーエンドです。
 このストーリーは、聖霊に満たされるなら、私たちが持っている霊的負債が帳消しとなり、自分だけでなく、子どもたちもしあわせになれることを現しています。そして、聖霊に満たされることが、いかに重要であるかを知ることができます。

 子育てはなかなかたいへんです。子どもたちをどうやって育てたら良いのか、わからない時代です。子育ては日本だけでなく、韓国でも社会問題になっているようです。昔、子ども達は親から学びました。しかし、最近では子どもの方が親よりも情報が多いこともあり、親が子どもから学ぶことが多くあります。テレビとビデオとの配線は親にはできなくても、子どもたちなら、スイスイやってしまったり、携帯電話やパソコンの使い方も、子どもたちの方がよく知っていて、子どもから教えてもらうような時代です。
 また悪い情報が氾濫しており、子どもたちをどうやって正しく導いていけば良いのかわかりません。
 しかし、油を増やしてもらった家族が、その油によって親子共々、幸せになったのです。私を含めて、すべての方が聖霊の油注ぎを受けたら、そのようになります。

 この奇跡が、どこから始まったのかを見ると、真理が明らかになります。奇跡のために預言者エリシャが用いられましたが、やもめの家にあったほとんど切れかかった油壺が、油を吹き出したのです。奇跡は、全てを失って、倒産寸前の家の中から始まったのです。
 私たちも聖霊に満たされることを、外部から「もらうイメージ」が強くありますが、そうではなく、主を信じる者たちの内側から油は増えていくのです。
 第一コリント十二章三節に、

『ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』

 皆さんが心の底から、「イエスは主です!」と告白できるならば、それは、聖霊によって告白しているのです。それは皆さんの内側に、すでに聖霊の油壺があることを示しています。「イエスは主です」と告白しましょう。主が共におられます。皆さんの内側には、すでに油壺があります。
 恵まれることは決して難しいことではありません。「イエスは主です!」と宣言するだけで聖霊さまが喜びを与えてくださいます。あなたと共に聖霊さまがおられます。あなたには、既に油壺があります。だから恐れないでください。

 天地宇宙を創られたとき、「神の霊が水の上を動いていた」とあります。天地を創造された神の霊があなたとともにおられ、あなたの中に住んでおられるとは、素晴らしいことです。そこから奇跡は始まります。

 エリシャは奇跡を行う前に、幾つかの条件を出しました。まず第一は、「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。」と言いました。
 すべてを失ったやもめの家には、ほとんど何もありませんでした。そんな貧しいやもめでしたが、外に出て行って空の器を借りてきなさいと言われました。それも一つや二つではなく、なるべく多く借りてくるようにと、エリシャは言いました。それは無駄な働きのように見えます。そしてその行動は、やもめにとって少々恥ずかしかったと思われます。家に何もないことを、周りの人々は知っていたはずです。
 にもかかわらず、隣近所を廻って、「空の器を貸してください」と頼めば、「お宅は何もないのに、なぜそんな空の器が必要なのですか。そんなバカなことをしていないで、仕事にでも行きなさい」と言われたかも知れません。
 しかし、家族総出で、近くの人たちから空の器を借りてきました。一見無駄なようなこの行動が信じられない奇跡につながりました。
 神様は時々、私たちに無駄と見えるような行動を命じられることがあります。しかし、そんな所に奇跡の秘訣が隠されているのかも知れません。

 クリスチャンではない人々からは、日曜の午前中に教会に行くことは、無駄なことのように見るかも知れません。「日曜日ぐらい、ゆっくりしたらどうだ。日曜の午前中はゆっくりできる唯一のチャンスなのに、教会に行くなんて無駄なことをしない方が良い。無駄な体力を使うことになる」と言うかも知れません。
 しかし無駄のように見える行動が、奇跡につながるのです。神が語られた言葉をエリシャはやもめに伝えました。神の言葉に忠実に従うとき、必ず勝利が来ます。神から示されたちょっと無駄に見える働きの中に、奇跡の秘訣がありました。

 韓国はキリスト教社会になっているので、クリスチャンの立場が確立されています。牧師という職業も認知され、街にとって教会はなくてはならない存在です。私は韓国で、名古屋と同じくらいの二百万都市に行きました。「この街に教会はいくつありますか?」と聞きました。すると、「少なくとも一七〇〇以上はある」と言われました。バスの中で祈っていても、食堂で祈っていても、道ばたで祈っていても、皆はあまり気にしません。クリスチャンはそのように祈るもんだと知っています。クリスチャンとしては過ごしやすい環境があります。

 しかし日本で礼拝に集っている人口は、二十五万人くらいだと言われます。それは人口の〇\二パーセントにしか過ぎません。一方、韓国では二十〜二十五パーセントがクリスチャンだと言われます。そんな国に対して、日本が宣教協力をするのは、「無駄ではないか」と思います。小売店の店主が、隣にできたスーパーマーケットの売り上げアップのために働くような、バカげた行動だと思われるかも知れません。
 しかし、一見無駄なような働きが、次の大勝利につながるのです。

 また、空の器を借りるとは、「飢え乾き」を意味しています。私たちが聖霊さまに満たされるためには、飢え渇きが必要です。飢える、喉が渇くいう経験はありますか?
 喉が渇いたら、一秒でも早く水を飲みたいと思います。また、お腹が空いたときは、一口でも良いから早く食べたいと願います。私たちはそのくらい、聖霊さまに対して飢え渇きを持たなければなりません。「もう十分」と言って、借りてきた器がなくなったら、油が止まったとあります。どれだけ私たちが飢え乾いて、主を求めるかで聖霊の油注ぎは決まるのです。
 主は聖霊を無限に注ごうとされていますが、私たちがどのくらい空の器を集めるか否かにかかっています。

 リバイバルのためには、飢え乾きが必要だと思います。韓国のリバイバルには、聖霊に対する強い飢え渇きがあります。しかし最近では、それが少くなったと言われました。
 韓国のリバイバルは、ある意味で、三世代目を迎えているのではないかと感じました。韓国のリバイバルは二十世紀の初め、北朝鮮の平壌で始まりました。それは聖霊の注ぎと共に始まりました。
 しかしその後朝鮮動乱があり、朝鮮半島は共産化寸前まで行きました。ぎりぎりで国連軍が巻き返し、三十八度線が引かれました。
 その時、平壌から多くの人が逃げ出しました。特に共産党はクリスチャンを迫害し、殺しました。教会が焼き討ちにされたり、牧師たちが殺されたり、大変な迫害がありました。それでクリスチャンは南に逃げました。
 やがて朝鮮半島の南部が自由になり、それが韓国となりました。平壌のリバイバルが韓国へ移動したのです。朝鮮動乱の後、混乱の中で人々は真剣に祈り、飢え乾いて聖霊の油注ぎを求めました。特に一九七〇年、八〇年代はリバイバルが最も熱く燃えた時代でした。一九八〇年代には、ソウルのヨイド広場に百万、二百万人と集まって主を求める聖会が行われました。しかし今はそんな国民的聖会はなくなり、人々を集めることは大変だと言われます。

 けれども、まだまだ教会には力があります。あるところで集会が終わったら、学生たちが私の所に来て、「先生。私たちは来週、学生たちの断食祈祷会をするので祈ってくれますか」と言われました。どのくらいの学生達が集まるのかを聞くと、「一万人」と答えました。街の体育館を借りて、大学生たちが中心となり、国の未来のために祈ると言われました。まだまだ、飢え乾きがあると思いました。
 今はそのようなリバイバルの中から生まれ出た子どもたちが、社会、家庭、そして、教会に多くいます。ですから、今度は、新しい世代がリバイバルを受け継いでいかなければなりません。
 そのように、平壌から始まったリバイバル、朝鮮動乱後のリバイバル、そして、次世代へのリバイバルへと、韓国のリバイバルを三世代に分けることができると思います。
 そして、神が次の世代に大きく期待していると感じました。そのためにどうしても必要なことは、「主を求める、聖霊さまを求める」という、「激しい飢え渇き」が必要です。
 韓国は、国民の二十五パーセントもクリスチャンなので、もうこれで良いと言えば油は止まってしまいます。しかし七十五パーセント以上が救われていないので、「その人たちを救ってください」と、飢え乾いたら必ず聖霊を注いでくださいます。

 新城教会も同じです。一九九二年に聖霊さまが訪れてくださいました。そこから霊的戦いが始まり、甲子園ミッションがあり、十数年の間激しく戦ってきました。
 そして私たちの子どもたちの時代、そして、今ではクリスチャン四世が生まれています。
 私の両親たちの時代では、偶像礼拝との激しい戦いがありました。それは霊的と言うよりも、実際的戦いでした。それをくぐり抜け、私たちにバトンが渡ったとき、霊的戦いが始まりました。そこにも大きな戦いがあり、今も継続中です。

 しかし次の世代が生まれたときは、すでに会堂があり、神学校もカフェもあり、教会の施設は整っていました。「教会とはこんなものだ。整っているものだ…」と考えていると思います。
 しかしそれまでには、激しい戦いがあり、各世代が激しく主を求めた結果であることを忘れてはなりません。
 けれども、三世代目にもなると、それが当然かのようになって、飢え渇きがなくなってしまいます。それはある意味で恐ろしいことです。なぜなら、油注ぎが止まってしまうからです。

 ここに大勢の子どもたちがいますが、ぜひ子どもたちのために祈ってください。先週の上條先生のメッセージをインターネットで読むと、「感謝の反対語は当然」とありました。そうなってはいけません。次世代のリバイバルのために、若い世代が真剣に主を求め、空の器をどのくらい集めるかにかかっています。教会の若い世代のために、祈っていきたいと思います。
 今の環境が当然だと思うのではなく、更に飢え乾いていかなければならなのです。

 私は韓国の学生たちの前で話しましたが、彼らはそれを真剣に受け取り、次世代のリバイバルを起こしてくださいと熱く祈っていました。その姿を見たとき、「この国の未来は明るい」と感じました。
 私たちも、やもめの家族が空の器を借り回ったように、更に主を求めていきたいと願います。そして次の条件が四節にあります。

『家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」』

 次の条件は、「後ろの扉を閉めるように」と言いました。

 私たちが代々しあわせになる秘訣が、この第二の条件の中にあります。一九九二年二月に、聖霊が激しく注がれました。愛知県民の森で祈っているときに、飛行機が飛んで来るかのような「ゴーッ」という音が聞こえました。私は耳鳴りのように思い、何回も耳を触っていました。
 しかしそれは聖霊さまの訪れでした。激しく聖霊が注がれました。普通、聖霊さまが訪れたら、「ハレルヤ!」と喜びますが、私は、「おい、祈祷会を止めるぞ。ここから逃げよう…」と言って祈祷会を止めて帰ってきました。しかしその波は、私たちの車の後ろから付いてきました。
 今でも覚えていますが、長篠城辺りでもう一度「ゴーッ」という音がしました。その夜、祈ったというよりも、祈らされたという体験でした。その夜のことを忘れることはできません。

 私たちは教会に戻り、祈祷会に来ていなかったスタッフたちを呼び出しました。私は家内を起こして、「すごいことが起こった!」と告げました。教会で祈り出すと、再び聖霊が注がれ、すごいことが起こりました。家内はそれを見て、「主よ。これは何ですか。もしも聖霊の働きでしたら教えてください」と祈ったそうです。するとその途端、家内にも聖霊が注がれました。

 聖霊が注がれる時、普通ではできないことができるようになります。祈っていると、再び聖霊の風が吹き、家内はドラムの椅子に座り、ドラムをリズミカルに叩き始めたのです。そんなことは、先にも後にもそれっきりです。
 聖霊が注がれると、普通ではできないことができるようになるという、預言的な現れだと信じます。
 その夜私は、次週から自動的にリバイバルが進んでいくと確信し、鼻息が荒くなりました。強い聖霊の注ぎがあったので、放っておいても人が集まってくると思っていました。
 しかし、それは大きな勘違いでした。聖霊さまは自主的に働いてくださるというよりも、聖霊さまは「助け主」なので、聖霊さまは教えるお方です。

 その時に教えられた最も重要なことが、「後ろの扉を閉める!」ということでした。それは私たちとって宝となりました。もしもその事が教えられなかったら、今頃、油注ぎもなくなり、新城教会は冷ややかな教会になって、何の希望もなくなっていたと思います。
 しかし、「油を内側に止めるために、後ろの扉を閉じるように」と教えてくださいました。私たちは、それをつかみ実行しました。

 その結果、十六年間、聖霊さまが働き続けて下さっています。そして、聖霊の働きの目的は宣教です。「エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして、全世界へ」とありますが、この教会から世界に向けて宣教が展開できる体制ができました。
 それは、後ろの扉を閉めることに秘訣があると思います。今回、韓国の教会で奉仕しましたが、次世代のリバイバルのために必要なのは、「後ろの扉を閉める」ことだと話しました。

 エリシャはなぜ、後ろの扉を閉めるように語ったのか、その理由が一節にあります。

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」』

 『預言者のともがらの妻のひとり』とあるので、このやもめの主人は預言者であったようです。今で言えば、クリスチャンです。その夫が亡くなった後、借金取りが来て家族を脅かしている状況がありました。その家には二人の子どもがいましたが、「子どもを奴隷によこせ!」と、子どもたちを奴隷にしようと、貸し主が狙っている状況がありました。

 最近、借金地獄に落ち込んで苦しんでいる人たちがいます。この箇所では誰が借金を作ったのかについては記されていません。しかし推測すると、もしかしたら、ご主人が生きている間は働くことができたので、家のローンを支払うことができましたが、死んでしまったので働き手を失い、支払うことができなくなって借金取りが来ていたのかも知れません。

 いずれにしてもご主人の死と借金には関連があるはずです。しかし借金の取り立てが、残された奥さんに来ていました。借金取りは奥さんに、「金を返してください」と責め立てました。
 しかし奥さんは、「夫が亡くなって、今はそんな余裕はないです。助けてください」と懇願したと思います。すると貸し主は、「だったら、二人の子どもをよこせ。奴隷に売ったら借金の形になるから…」と言ったと思います。この家には頻繁にこのような事件が起こっており、その度に母親は子どもたちを隠し、奴隷にならないように戦っていたと思います。

 そんな状況下で、エリシャは油を増やす奇跡を行いました。もしも、家の中で子どもと母親が空の器を借りてきて、小さな油壺からどんどん油が流れ出ていたらどうでしょう。それも扉が開いていたらどうでしょうか。
 借金取りが「金を返せ!」といつものように来て、ふっと家の中をのぞいたら、いつもは隠れていた子どもたちが目の前にいました。そればかりか、当時高価であった油が器に並々とあふれています。そんな状況が借金取りに見つかったら、子どもたちは奴隷にされ、せっかく増えた油も奪われてしまったことでしょう。だからエリシャは、そうならないために、「後ろの扉を閉じる」ように告げたと思います。

 一時はすごく燃えたクリスチャンも、いつしか油を取られ、「あれ?どうしたんだろう。私はあれほど燃えていたのに、イエスさまを愛していたのに…。今は何の力もない。油がなくなってしまった」という人がいるかも知れません。

 またある家では、常に子どもたちが狙われており、子どもたちが攻撃の的となっている家もあるかも知れません。「子どもたちを借金の形によこせ」と言われている状況があるかも知れません。

 そんな時、私たちは何をしなければならないのでしょうか?それは、「後ろの扉が閉まっているかどうか」をチェックしなければならないのです。
 借金取りは、ご主人が作った借金にも関わらず、奥さんの所に来て、子どもたちを形によこせと脅かしていました。子どもたちが借金を作ったわけではありません。何の悪いことをしたわけでもない子どもたちが、なぜ狙われなければならないのでしょうか。

 それは霊的原因を現しています。聖書は、三代、四代に渡って代々攻撃が続く原因として、「偶像礼拝」を上げています。
 私たちに聖霊さまが訪れてくださったときに、偶像礼拝は三代、四代に渡って敵が請求書を持ち込むから、その契約書を破棄しなさいと教えられました。契約書があれば、借金取りは合法的に来ることができます。借金取りに追われているとしたら、契約書にサインをしたからです。契約書があるから、向こうの都合でやって来て「返してください」と請求できます。

 契約書が発行される最も大きな原因は、「偶像礼拝」です。偶像礼拝で結ばれた契約を、しっかりとキャンセルすることが、後ろの扉を閉めることです。
 聖霊さまが訪れてくださった後に、それを教えられました。それから、個人的解放の働きが始まりました。後ろの扉を閉めたので、十六年間私たちは守られたと思います。

 次の世代においても、この事を良く理解しなければならないと思います。家庭がクリスチャンであったり、クリスチャン的環境であっても、三代、四代の偶像礼拝を断ち切る祈りをしなければなりません。
 今回韓国に行き教えられたことの中に、後ろの扉を閉める重要なポイントに「祖先崇拝」があるという事です。この事をしっかりと取り扱わなければならないと教えられました。

 韓国は聖霊さまが働いている半面、教会成長は頭落ちで危機感があります。そしてどの教会に行っても、「韓国のリバイバルは止まりました」とか、「今は大変です」と聞きました。
 今まで一生懸命やってきたけど、疲れています。教会で奉仕し、一生懸命リバイバルのために祈ってきた、しかしどこかで油が漏れている\\\\。その原因がわからないという感じでした。

 今回の後ろの扉を閉めるという私が語ったメッセージは、韓国の方々の心にヒットしました。
 韓国社会は儒教社会です。儒教はすべてのシステムを総動員し、先祖を敬うところに集約されます。けれどもそれは日本も同じです。祖先崇拝が生活の中心にあります。そこで結ばれた三代、四代の契約をしっかりと解き、後ろの扉を閉めることが、代々しあわせになるための重要な条件なのです。

 世界の諸宗教の根源を見ると、二つの要素に大別されます。その一つは「自然崇拝」です。しかし、もう一つの要素が「祖先崇拝」です。祖先崇拝がすべての偶像礼拝の根源にあります。
 イエスさまがゲラサに行ったとき、汚れた霊に支配された男が墓場から出てきました。マルコ五章二節に、

『イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。』

 墓を作ることは、決して悪いことではありません。墓は記念の場所であり、聖書は墓を否定していません。
 しかし日本人は墓に行き、祖先崇拝をします。ゲラサの悪霊に支配されていた男が、墓場に住んでいたことは、墓場が地域を支配する悪霊との、強いコネクションてある事を示唆していると思われます。
 日本人で最も強く祖先崇拝をするのは、仏壇よりもむしろ墓です。墓に骨があり、臨場感がありますから、真剣に祖先崇拝を行います。墓場で行われる祖先崇拝が、後ろの扉を開き、悪しき力が侵入し、良きものを奪うのです。

 韓国においても、墓場で祖先の霊(それは祖先の振りをした悪霊をですが)を降ろす行為をしています。それゆえに扉が開き、教会から油を盗み出しているという現実があるように感じられました。

 日本はどうでしょうか。春分、秋分の彼岸、命日、盆などは必ず墓に行きます。墓を掃除するだけでなく、必ず、祖先崇拝が成されます。これは強い霊的束縛であると思われます。
 ゲラサで男が墓場から出てきましたが、ゲラサはヘレニズム時代の影響による、ギリシャ的な街でした。ギリシャでは祖先崇拝が当然のようになされていました。だから墓場が祖先崇拝の拠点であった可能性は大きいと思われます。

 祖先崇拝は人類の根源に悪魔が置いた策略であり、特に、墓場は結び目を作る場所と化していると思われます。
 ですから自分と家族親族が、墓場で行った祖先崇拝を悔い改め、その契約を断ち切りることは重要だと思いました。

 それは墓の存在を否定することではありません。そこで祖先崇拝が成されることが問題であり、危険な行為なのです。
 仏壇も同じ役割ですが、案外墓場が盲点になっているように思います。韓国社会も、墓で行われるシャーマニズム的祭祀が重要です。

 しかしそれは日本でも同様に行われていることであり、日本の兄姉姉妹にも伝えなければならないと思いました。
 墓場で手を合わせたり、祖先礼拝行為をしたことがある方は、しっかりと「後ろの扉を閉める」祈りが必要だと思います。

 扉が閉められてから、『行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。』と告げられました。
 負債はなくなり、残った油で自分も新しい世代も暮らしていくことができたとあります。

 また、パウロは「負債」を、「福音宣教」であると言いました。ローマ一章十四節から十五節に、

『私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。』

 聖霊の油注ぎによって、宣教が広がっていくことを教えています。私たちはリバイバルのために、油注ぎをいただかなくてはいけません。そして、油を取られてはいけません。取られるのは自分のせいと言うよりも、後ろの扉が開いているからです。後ろの扉を閉め、代々しあわせに生き、リバイバルのために用いられる教会になることを願います。

 祈りましょう。飢え乾きをもって、聖霊の油を求めましょう。次の世代のリバイバル、日本のリバイバルのために祈りましょう。
 その前に扉を閉める祈りをしましょう。特に今日は、墓場で行われる祖先崇拝の扉を閉め、悪魔との契約を打ち砕く祈りをしましょう。

(祈り)
「今私たちはイエスさまだけが、救い主であることを高らかに宣言します。イエスは主です、と心から宣言します。
 油の壺が内側にあることを感謝します。あなたを知らないときに、祖先崇拝の罪を犯したことを赦してください。今もなお、先祖の墓場の前で行われている悪霊礼拝を赦してください。家族、親族を代表し、三代、四代以上の墓場における祖先崇拝の罪を悔い改めます。そこで結ばれた、悪魔・悪霊との契約書を、イエスさまの御名によって断ち切ります。後ろの扉を閉めます。契約を無効にします。
 聖霊さま、今私たちは空の器を持って、み前に出ています。満たしてください。油を増やしてください。次世代のリバイバルを日本に起こしてください。代々しあわせに生きることができますように。イエスさまの御名によって勝利を宣言して、祈ります。アーメン」


[バックナンバー]