Again …あなたを回復します…


2008.10.12(SUN)
新城教会牧師 滝元順

旧約聖書 エレミヤ書31章3節〜6節
主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今朝は「ゴスペルランチ」ということで、素晴らしい昼食が用意されています。また、ゴスペルクワイヤーの賛美も聞くことができました。
 先週ゴスペルクワイヤーは、豊橋にある高校でコンサートをしました。最近は色々なところで賛美の活動をしています。素晴らしい主への賛美が、色々なところで献げられるようになり感謝します。

 来週はペルーからオベド先生が来られて、み言葉が語られます。私は先生にペルーでお会いしましたが、世界中の教会が集まって宣教方策について考え、祈る会議が時々行われますが、彼は、世界議長をされています。日本でも近々、世界宣教会議が開かれるそうで、準備のために来られているようです。ぜひ楽しみにしていただきたいと思います。

 今日お読みした聖書の箇所は、来年行われる「韓国リバイバルミッション」のテーマのみ言葉です。既に韓国リバイバルミッションのためにお祈りいただいており、着々と準備が進められています。ぜひ続けてお祈り下さい。
 昨年は、ハワイでリバイバルミッションが行われ、新城から二人のスタッフが現地事務所に派遣され、大会の準備をしました。今回もその二人を派遣しようと思いましたが、その片割れが結婚することになり、行くことができません。それは私の娘ですが。
 しかし、もう一方の娘はファイト満々で、韓国に行くと言っています。言葉ができないのによく行くなと思いますが。
 先日韓国の先生に、「あなたは十二月までに韓国語を覚えなさい」と言われ、「はい」と彼女は答えていました。
 今朝は韓国で何万人と集まっている教会の長老さんが、この礼拝に来られています。歓迎しましょう。
 日本と韓国が一つになったら、素晴らしいことが起こると信じます。そしてこの働きは、神が両国間に長いこと横たわっている傷を癒し、回復するためであると思います。
 回復の働きは単に、国というよりも個人の回復です。主が働いてくださり、一人ひとりを建て直し、国と国との間にも祝福を与えてくださると信じています。

 先週は株価が暴落し、これからどうなってしまうのだろかと世界情勢も含めて、大変な騒ぎになっています。
 サラリーマン川柳の中に、「株価落ち、資産ないのに大騒ぎ」というのがありましたが、私もその一人です。
 しかし今の時代は、株を持っていなくても、世界経済が悪くなれば個人も大きな影響を受けます。自分さえ良ければ良いという考え方が強いですが、国々の回復のために祈っていかなければならないのです。すべての国が手を取り合って、共に主を求めていくことが大変重要です。韓国リバイバルミッションはその先駆けとなり、祝福された集会になると思います。ハングルの賛美も覚えていただき、韓国で一緒に歌えるように準備していただきたいと願います。

 先ほどお読みいただいた聖書箇所を、もう一度お読みします。『おとめイスラエルよ』とありますが、これは主を信じる者たち、さらには、人類全般も指す言葉です。人類は神が創られ、愛されている存在であると聖書は語っています。神に愛されている全人類に対して、神が語られている言葉です。
 エレミヤ書三十一章三節から六節に、

『主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ。」』

 この言葉を神から自分に語られている言葉として受け取りましょう。もしかしたら、ある方は「私は建て直されなければならない」と思われているかも知れません。
 ある方は、「私は健康を建て直していただきたい」、ある方は、「家庭が崩壊しているので、家庭を建て直していただきたい」と思われているかも知れません。
 ある人は経済的に壊れていると言われかも知れません。様々な分野において崩壊があるので、建て直しを必要としています。
 聖書の神様は、私たちを建て直してくださるという前提に立っています。

 日本の神々は、よく拝めば助けてくれるけど、放っておくと鬼に化する神々です。ということは、元々それは鬼なのです。だから鬼のような神々に頼ってはいけないのです。建て直してくださるというメッセージを常に送り続けてくださっている神に頼らなければならないのです。

 聖書の神は唯一の神です。世界にこのお方以外に、神はいない、救いはないとあります。
 しかし一人の神ではコミュニケーションは成立しませんので、愛という性質は実際、持っているのでしょうか。ただ一人でいるのなら、誰かとコミュニケーションをするという概念すらないはずです。神が愛で、また人と交わることができる神だとしたら、そのような性質が神の内になくてはなりません。

 聖書の神は唯一の神ですが、三位一体なる神だと教えています。「父なる神さま、子なるイエスさま、聖霊さま」は、三つにして一つなる神です。三つにして一つなる神は、互いの交わり、互いの愛のあるゆえに、「神は愛」なのです。
 キリスト教史の中で大変重要な役割を果たしたアウグスチヌスは、「三位一体でなければ、神のうちに交わりも愛もあり得ない。というのは、神の三一性は世界と人間の創造を離れても、神の完全性の永遠の行使と表現とが見出される、相関関係を含んでいるからである。」と語りました。

 神は三位一体性の中に完璧な愛を持っておられ、完璧な交わりを保っておられるのです。
 そんな神様に私たちが目を向けると、その完璧な愛によって、もしも愛の関係が崩れていたならば、愛が建て直されるのです。関係が崩れていたならば、その関係も建て直されるのです。ゆえに、神に頼ってくださいと聖書は語っています。それだけの裏付けがあるのです。

 日本人はこのような唯一の神、創造主なる神と言うと、ちょっと首をかしげてしまいます。
 日本人は案外、霊的感性が強い民族です。人は目に見える世界に住んでいますが、見えない世界もあるということを感じています。科学にも学問にもなりませんが、日本人はそれらを感じ取っている民族です。だから、祖先崇拝などが熱心になされるのです。それは何らかの霊的世界があることを感じ取っているからです。ちまたでは祭りが行われていますが、祭りも何らかの霊的存在の手応えを感じなければ続きません。
 しかしそれが何者かということについては、あまり深く考えません。日本人は、よく拝めば神になるけど、放っておくと鬼になる、祟る存在であることを意識しています。しかし、聖書はちょっと触ると手応えを感じるような霊的存在ではなく、天地宇宙を創ってくださった神がおられると告げています。私たちクリスチャンは、その神に頼っている者たちです。

 日本人は霊的なものを理解しますが、学校で教えられることは進化論です。進化論は何もないところで、それも突然変異の組み合わせで今があると教えます。突然変異の連続で今があるという理論を展開します。
 もしも私たちが進化論に根拠を置くならば、将来何が起こるのか、全く予測できません。なぜならば、すべては偶然の連続だからです。あなたの人生、私の人生も、これから起こってくる事柄は、全てランダムな偶然そのものです。
 うまくいくかいかないか、全く予測はつきません。しかしもしも神がおられ、私たちの人生を作り上げてくださっているとしたら、私たちの将来には希望があります。
 ある科学者がこんな言葉を語りました。

「もし、細胞が偶然できるようならば、竜巻がくず鉄置き場の鉄くずを巻き上げて、竜巻が去ったら、偶然ジャンボジェット機ができるようなものだ」

 進化は、竜巻がくず鉄置き場に来て、ジャンボジェット機ができるような確率なのです。
 私たちの身の回りはどうでしょうか。美しい地球が広がっています。秋になると、収穫の秋なので、色々な種類の食べ物を楽しむことができます。人間に生まれて良かったと思います。海のもの、山のもの、空のもの、畑のもの…と色々なものを食べます。人間は雑食です。

 私は一ヶ月程前にブラジルに行きました。ブラジルは食文化が豊かです。シュハスコというレストランに行くと、所狭しと、肉から野菜、デザートまで部屋中食料だらけです。そこに行ったら、誰でも目が輝きます。皆さんを一度ブラジルの本場シュハスコに連れて行ってあげたいです。行くときには断食してください。断食していくと、料金を取り戻すことができます。喜んで一品を多く食べてしまうと、他のものが食べられません。ブラジル人たちは、牛をたくさん食べます。だから、ブラジルに生まれた牛は可愛そうだと思います。
 しかし日本人はどうでしょうか。魚の活け作りを食べます。あれは私たちにとって美味しそうに見えますが、世界から見るとかなり残酷に見えるようです。ピクピクと痙攣を起こしているような魚を食べてしまうのですから。日本人は野蛮だと思われるようです。
 日本人にはそれが美味しく見えるようです。モンゴルでは、羊の首を目の前で切って血を流し、丸焼きにして食べます。そんなのを日本人が見ると、何て野蛮なのだろう、可愛そうだと思います。しかしモンゴル人が日本で活き作りを見て、「なんて可愛そう」と言っていたそうです。

 神は、すべての生き物を、人間の為に創ってくださいました。冬になり、みかんを食べるとき、いつも神がおられることを感じます。なぜならば、みかんは剥くと一口サイズにカットされいるからです。みかんを剥くだけで、創造主なる神がおられると感じます。バナナも猿でも剥けるように作ってあり、不思議と食べやすくなっています。生物が自分で進化したのなら、絶対に食われてなるものかと、みかんの皮が全て鉄で覆われていても良いと思います。そのくらいに進化しても良いと思いますが、人間の手のサイズに合って、一口サイズになっています。神が人間のために創ってくださったのです。

 私たちクリスチャンは、天地宇宙を創られた神を信じています。神はあまりにもサイズが大いですが、同時に細やかな方であることがわかります。一人ひとりに、「わたしはあなたを愛している」と語られます。そして「あなたに誠実を尽くした」、そして、「あなたを建て直してあげる」と語っておられます。

 私たちの人生は、神様によって創られた神の作品として、良いものとして創られたとあります。人間は、動物の中でも一番自由が与えられており、自由に生きることができます。神はおられますが、私たちに対して四六時中、干渉されるわけではありません。

 今日婚約式がありますが、婚約したら常に相手に干渉すると、愛どころか束縛になってしまいます。
 昨日テレビでやっているのを見ました。最近では、男女の付き合い方において、支配的な付き合いが多いとやっていました。相手が信用できず、メールで、「今、お前は何をしているんだ!?」と、一分間に一通メールを送るような人がいて、それに答えないと暴力を振うようです。それが相手を支配しているとは考えていないようです。相手を愛しているから気にしているというのです。しかし、それは愛ではありません。支配であり束縛です。これは壊れた愛の姿です。

 神も私たちに対して、一分間に一通ずつメールを送って、「何をしているんだ」などと干渉するわけではありません。人には自由があります。私たちの勝手に、心が赴くままに生きることが可能です。
 しかし、私たちを創ってくださった神を認めないで人生を歩んでいくと、壊れやすいのです。

 色々な機械でも、しっかりとマニュアルを読み、手順に従って使わなければ壊れてしまいます。コンピューターでも、よくマニュアルを読まないで使うと、便利ですが壊れてしまい、どうにもならなくなってしまうことがあります。
 人間も同じです。天地を創られた神がおられるのにも関わらず、その神を認めないで自分の経験や過去のデータで人生の方向を決めて歩んでみても、ある程度は予想が付きますが、予想外のことが起こるのです。

 先週の株価暴落もある意味、予想外でした。森進一という歌手がこんな事を言っていました。「人生には、上り坂、下り坂、もう一つ、まさかという坂があります」
 人生には、「まさか」という、突然起こってくる出来事があります。人間の知恵だけで生きていたら難しいです。しかし人生の中に私たちを創ってくださった神を招き入れるならば、天地宇宙を創ってくださった神、イエス・キリストを人生にお迎えするならば希望を持って生きることができます。

 コンピューターが壊れても、製造元に持って行けば必ず修理してくれます。人間も同じです。私たちを製造してくださった製造元である、神に持って行かなければ、本当の意味での修理は利きません。「あなたを修理してあげます」という力強い言葉がエレミヤ書三十一章にあるのです。

 天地宇宙を創られた神様はあまりにも大きく、私たちの知恵では理解できません。その神を知ろうとしても、難しいのは確かです。もしも神様に体があったとしたら、天地宇宙を創ったというのですから、相当大きな体を持っていなければ、こんな大きな天地宇宙を創ることはできません。その神を見ることは不可能です。

 しかしもしも、そんな大きな神様が、人間の姿をとってこの地上に来てくださったとすれば、その方と会話するなら、神が人類に対してどのように考えておられるのか、知ることができます。
それがイエス・キリストであり、聖書です。
 神様は天地宇宙を創られた程の大きな方ですので、目で見ることはできません。しかし、その神様が人類の中に、ただ一度だけ現れてくださいました。クリスマスが間もなくやってきますが、それは神が人となって現れてくださった日です。
 イエスさまが語られた言葉を知るならば、神が人類に対してどんな思いを持っておられるのか、どんな計画を持っておられるかがわかります。そして聖書を読むと、神の意思を知ることができます。

 イザヤ書六十一章一節から三節には、イエスさまがこの地上に来て行ってくださるメニューが出ています。

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。』

 『わたし』とはイエスさまのことです。『神である主の霊が、わたしの上にある。』とあります。
 神であるお方が、人となられたことによって、全宇宙はコントロールを失ったということはありませんでした。依然として天地は法則を保っていました。
 ということは、宇宙には神がおられました。しかし、その神が人となられました。神の世界から分離しましたが、三位は一つでした。

 『主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。』とあります。イエスさまがこの地上に来てくださったのは、第一に、「心傷ついた人たち」のために来てくださったと教えています。
 最近は心傷つくことが多い時代です。人間関係においても、また、国内外の色々なニュースも、心が傷つくことが多いです。時々「神様がおられるならば、なぜこんなに悪いことがあるのですか」と言われますが、人間は神からの自由意思が与えられているので、地球号をどのように運転しようと、ある意味で勝手です。

 現代は神から離れると、うまくいかないことを証明しているようなものです。けれども、私たちがイエス・キリストに目を向けるならば、『心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。』とありますので、心を癒してくださいます。

 社会や家庭に、色々な問題がありますが、問題の根源を調べていくと必ず、心の傷が関わっています。
 いじめっ子と言いますが、いじめっ子を調べてみると、家族の中で虐待を受けたり、どこかでいじめられたという経験があるのです。それで誰かを傷付けるような行為をしなければならなくなります。人間は悲しい存在です。自分に傷があると、同じような傷を誰かに付けないと安心しないようです。
 心の傷を癒すために各国は一生懸命努力していますが、なかなか決め手がありません。
 先日、私は引きこもりを専門に扱っている方とお話ししました。
 最近、社会の色々な問題を最前線で扱っているクリスチャンたちの祈祷会と情報交換会を行っています。そこに来られている方々は、引きこもりを専門的に扱っている人、弁護士、老人介護士、国会議員、大学の学長など、歴々とした最前線で問題解決を扱っている方々ばかりです。互いに情報交換し、どうしたら日本を変えることができるかということで、一緒に祈り合っています。私もそのメンバーに加えていただき、先々週、岡本信弘先生とともに出かけました。
 私は霊的戦いの専門として加わっています。次回は、私が講演することになっています。
 そのような中で、引きこもりの専門家の方が、「一人の引きこもりを解放するためには、私立大学に子どもを送るほどの費用がかかる」と言われていました。そのくらいの費用をかけて、押したり、引いたりしないと、なかなか直らないと言われました。事務所も何千万円という予算を使っているようです。しかし年間に扱えるのは、二人か三人だと言われていました。そんなに難しいのかと思いました。

 一度崩れると、なかなか建て直すのは難しいようです。しかしその建て直しの原点は、イエスれ・キリストにあります。そもそも神は私たちを回復するために働いてくださるお方ですので、回復が始まります。

 教会に来られるきっかけの九割ほどが、人生に破壊的な経験を持って来られます。涙を流しながら教会に来られます。
 しかし、イエスさまに出会うと変えられます。今日、初めて教会に来られた方がおられると思いますが、この教会に来られて「明るいですね」と言われるかも知れません。
 教会に来られた時は、色々な問題があって肩を落として来られる方々多いですが、そんな人たちが何百人も集まっているところに行ったら、普通はもっと暗くなるはずです。しかし、明るいといういうことは、回復がそこにあるからです。

 私たちはイエスさまに期待しなければなりません。イエスさまは私たちの心の傷を癒すために、この地に来てくださいました。聖書は、『あなたの若い日に、あなたの創り主を覚えなさい』と教えています。若い時にイエス・キリストを信じたら、人生は守られます。ここに子どもたちがいますが、小さな時からイエスさまを知り、その道をまっすぐに歩んで行けば、混沌とした世の中にあっても、イエスさまが道を示してくださいます。

 多く方が、「もっと早めに会に来るべきだった。もっと早く教会に来ていたら、私はこんなに傷を受けなくても、苦しいことに出会わなくても良かったのに…」と言われます。
 経験しなくても良い試練は受けなくても良いのです。もちろん、色々な試練の中で人は成長します。決してそれは無駄になりません。しかし、度が過ぎた試練は考えものです。破壊し尽くされた人生が最近多くあります。早くイエスさまを信じて歩んでいたら、こんなことにはならなかったと思います。
 しかし素晴らしいことは、イエスさまを信じると、過去、どんな傷を受けたとしても、それさえも使って私たちの人生を豊かにして下さるからです。

 この教会に、以前、豊田自動車の下請けで、エンジンの型を製造する仕事をされていた人がいます。その会社は、豊田自動車が新型エンジンを発表する前に、図面を受け取って型を作りました。型とは、エンジンを作るための溝です。新型エンジンならば、複雑な溝を彫らなければなりません。
 その工場はエンジンの型を制作し、それを豊田自動車に納入していました。型はそのままでは何の意味もありません。「これはエンジンの型です。どうぞ、受けて下さい。プレゼントします」と言われても、そんなものはいりません。何の役割もありません。

 しかしその型が、豊田自動車に渡ると、何と、溶けた鉄やアルミニウムを流し込み、やがて型が取られます。型を取ると立派な新型エンジンができるのです。新型ならば、溝は深く、複雑に切ってあります。型が取られるならば、すごいパワーを発揮するエンジンになります。

 同様に、神は私たちの人生の前半部分で、心の溝、型を彫られることを許されるのかも知れません。もちろん、神が彫るわけではありません。人間の勝手な行動や罪、その他色々な要素が加わり、心の中に型が彫られます。
 しかし神はその型さえも使って、あなたの人生を豊かにされます。心の傷が深ければ深いほど、複雑に入り組んでおり、普通ではどうにもならないかも知れません。しかし、それをイエスさまに納入したら、イエスさまがそこに十字架で流された血潮、聖霊の力を注いで下さり、やがて型が外される時が来ます。
 そうすれば、その人の人生を強力に動かしていく、エンジンに変えられます。これは個人においても、国と国との間においても同じです。

 私は今、韓国リバイバルミッションの働きで、度々韓国に行き、奉仕させていただいています。韓国と日本とは近い国です。どのくらい近いかご存知でしょうか。長崎県に属する対馬という島がありますが、そこに行くと釜山が目の前にあります。たった四十キロです。晴れた日には、釜山の山並みや町が見えます。対馬の人たちは、釜山の花火大会を丘に登って見るそうです。それ程に近いのですが、歴史を見ると遠い国になってしまっており、お互いに意思疎通がなかったり、特に日本が朝鮮半島の方々に深い傷を付けてしまったという、悲しい歴史があります。どうしたらそれを回復することができるだろうかと思います。しかしイエスさまという、共通の救い主に目を向けるならばそれは可能です。必ず、そこに回復があると信じています。
 また今回それが大きく前進し、すべての傷がイエスさまの十字架の血潮によって埋められ、型が取られるならば、日本と韓国が一つとなり、すごいパワーのエンジンとなり、世界の福音化のために働くと信じます。

 先々週の日曜日は韓国の教会で奉仕しました。一日に三回ほどメッセージの奉仕がありました。朝は礼拝、午後は聖会、また夜と、全て違う町で集会を持ちました。
 韓国は教会が多いです。国民の二十五パーセントほどがクリスチャンだと言われます。しかし、日本はどうでしょうか。クリスチャンが少ないです。礼拝に集っているという数は、人口の〇.二パーセントほどです。一つの教会の礼拝出席人数の平均は約二十五人です。
 どうしてこれほど違うのだろうかと思います。歴史的にも民族的にも違いがあまりないのに、キリスト教受容率には大きな差があり霊的な壁があります。日本にはキリスト教を受け入れることができない体質があります。しかし韓国で黙っていたら、どちらが日本人で韓国人かわかりません。
 韓国は教会が多いです。一つのビルの中に、いくつもの教会があるのです。時々ビルの教会は、自分の教会だと思って座っていたら、間違っていたと言うことがあるそうです。それは一階下の他の教会であったという話を聞きます。そんなことが実際、あるのだろうかと思っていました。

 日曜日最後の集会に連れて行っていただいた時でした。私たちを連れて行った人たちも、住所を頼っていったので、どの教会かはっきりわかっていたのではなく、行ったらその住所に教会がありました。
 私は少し疲れていました。その教会は地下にある教会でした。階段を下っていくと、「よくいらっしゃいました」と、笑顔で歓迎してくださったので、私は快く入っていきました。
 そして「どうぞ。」と言って後ろの座らせてもらって待っていると、「どちらから来られましたか。日本から引っ越されてきたのですか」と質問されていたようです。
 「何かおかしいなあ…」と思い、「私は今日ここでメッセージする講師なのですが…」と言うと、変な顔をしていました。
 すると一人の人が焦って来て、「順先生。この教会ではなかった!」と言うのです。
 良く聞いてみると、同じ住所に二つ教会が背中合わせにあって、入口が正面の教会と、後ろを廻って入る教会と二つあったらしいのです。
 私が奉仕する予定の教会は、後ろの入り口からの教会だというのです。こんなことが本当にあるんだと思いました。

 日本と韓国はあまりにも違うと思いました。ある意味で日本が過去に行った行動をとおして、祝福を失っているのではないかと思いました。しかし神は、そんな日本をも必ず、回復して下さるのです。

 今日もしも何らかの傷を持って悩まれている方、また、心だけではなく、体の傷、病を持っておられる方も、イエスさまに期待して下さい。病があっても、体は元々神が与えて下さったものですので、「この病も癒して下さい」と祈りましょう。神は人間の世界に、すでに薬や病院を与えています。癒しは神様のみこころです。それに超自然的な癒しが加わるならば、完璧です。完璧な癒しを神様が与えて下さいます。
 そして、次の回復は何でしょうか。イザヤ書六十一章に、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ』

とあります。私たちは教会に来て『私は救われました』と言いますが、「救い」とは何んでしょうか。その定義が案外曖昧な場合が多いのです。使徒の働き二十六章十七節と十八節に、

『わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

 生まれながらの人間は、サタンの支配下にあると聖書は教えています。私たちは感じていないのかも知れませんが、生まれながらの人間は、サタンの支配下にあるがゆえに、放っておくと、誰にも教えられなくても罪を犯すようになります。「可愛い赤ちゃん、何の罪も汚れもない」と言っていても、段々、罪が芽生えてきます。それは、人間の心に罪の性質があるからです。
 サタンに支配されていたら、サタンの奴隷ですから、この地上でもサタンの支配に生きなければならないし、死後も、彼らの支配下で生きなければなりません。

 人間には死後の世界があります。死後の世界はないと考えても、打ち消すことができないのは、人は本能的に死後の世界がある事を知っているからです。
 しかし神の支配があったら、死後もその支配は継続します。だから、私たちは悪魔の支配下から、神の支配に移されなければなりません。

 初めの人間アダムとエバが、人類を悪魔に明け渡してしまいました。それで支配権を悪魔に渡してしまいました。悪魔は全人類の支配権を受け取ってしまいました。この地球はどんどん悪くなっているのはそのためです。
 今日、ゴスペルクワイヤーがゴスペルを歌って下さいました。ゴスペルが今、日本で流行っていますが、元々はブラックゴスペルと言い、アメリカの黒人社会から出た音楽です。その歴史を見ると、黒人たちが奴隷制度によって、横暴な主人によって苦しんでいる中から生まれた音楽です。

 奴隷になったら、どれほど辛いでしょうか。かつて人類の中に奴隷制度がありました。同じ人間であるのにも関わらず、横暴な主人に売られたならば、その人の持ちものなのです。煮て食おうと、焼いて食おうと、生かそうと、殺そうと主人の自由です。その支配は隅々にまで及びます。奴隷とは、全く希望のない人たちでした。

 実は日本にも、奴隷制度がありました。日本にポルトガルやスペインの商人たちが入ってきた頃、ポルトガルやスペインの商人たちは日本人を捕らえて奴隷として売りました。秀吉はそれに反発したと言われます。しかし日本では、そんなに多くありませんでした。しかしアメリカではそのような制度が長く続ききした。しかしアブラハムリンカーンによって、奴隷解放が行われ、彼らは主人の言いなりにはならなくなりました。自由に生きることができるようになり、自由に自分の時間を謳歌できるようになりました。

 私たちも同じです。私たちは生まれたままでは、渋柿のようなもので、悪魔の支配下にあります。だから、放っておいたら人生は破壊的になります。渋柿は甘柿を接ぎ木すると甘くなります。同じです。私たちの人生も、初めは渋柿で生まれてきますが、イエスさまを接ぎ木したら甘くなります。
 救いとは、サタンの支配から、神の支配下に移されることです。何と素晴らしいことでしょうか。
 聖書はこの地球が悪魔の支配下にあるがゆえに、どんどん破壊的になっていくと告げています。
 私たちは悪魔の支配している星に生まれてしまいました。この星を神の支配に取り戻すために、人類は創られました。
 地球は悪魔が支配している星です。そのような中、私たちがイエス・キリストを知らないで歩んでいくならば、悪魔の支配に生きていくので、死後も彼らの支配している国に生きなければなりません。
 悪魔は霊的な存在です。私たちが肉体を脱ぎ捨てた後は、霊的な体になります。そうすれば直に彼らの支配下で苦しめられます。そんなのはまっぴらごめんです。
 神の支配下に移されるとは、天地宇宙を創られた方とともに、永遠に過ごすのです。その道をイエス・キリストが、十字架によって創ってくださいました。救いは、サタンの支配下から神の支配下に移されることなのです。

 人類はやがて知る時が来ます。色々な問題や苦しいことがあったり、国々を破壊した真犯人が誰であるかを知る日が来るのです。それは私たちがこの地上を去って、霊的な世界に入った日かも知れません。
 また地球の歴史が終わって、すべてが終わった日に、「敵はお前だったのか!」と知るののかも知れません。

 しかし聖書は前もって私たちに情報提供しています。私たちが前もってこの事に気付いたら、地上においても神の支配に生きることができると教えています。イザヤ書十四章十六節から十七節に、

『あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』

 今、世界が荒野のようになっています。これから人類はどこに向かっていくのだろうか、あの国が悪い、この国が悪い、あの人が悪いと皆は言います。
 しかしそれは真犯人ではありません。人間の背後に働き、支配権を奪い、人々を苦しめている、目に見えないサタンがいます。人類はやがて気付きます。「お前だったのか。これがかつて地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。」とやがて知ると。

 しかしその時では遅いです。私たちがいち早く真犯人について知らなければなりません。教会に来ると、何が起こるでしょうか。真の神、天地宇宙を創られた神を知ることができますが、もう一方で、私たちの人生を破壊する真犯人について知ることができます。それは、私たちの敵である、サタンが生きていることがわかるのです。

 サタンに打ち勝つ秘訣と、サタンの支配から抜け出る道をイエスさまが用意してくださったのです。誰一人として、一生をサタンの支配下で過ごさないでいただきたいと思います。
 人生を見ると、同じような問題が繰り返し起こっています。私は牧師をしており、色々な働きをしていく中で、問題は家族や家系の中に繰り返し起こってくるものだと思います。
 おじいさん、おばあさんの問題が両親の問題となり、また子どもたちの問題が孫の問題となり、ずっと受け継がれていきます。神様が人類を創ってくださったというのに、なぜ、こんな問題まで創られたのだろうかと思います。
 それは絶対に違います。悪魔が問題を持ち込んでいます。私は韓国に行き、このように話しました。「日本では同じような問題が家系の中に繰り返し起こっています。韓国では、どうですか?」と。すると皆が、「同じように起こっています。」と言われました。
 また一ヶ月前にブラジルでも話しました。するとブラジルでも、同じような問題が家族に繰り返し起こっていると言われました。

 これが人生だと、諦めていたと言われました。しかし真犯人は誰でしょうか。それは神様ではありません。サタンの働きです。悪魔に立ち向かわなければ、人間は滅ぼされてしまいます。
 しかしイエス様はサタンの力から私たちを解放し、回復してくださるお方です。

 元々良いものとして創られた人間が、良いものと言えないとしたら、サタンに良きものを盗まれています。しかしそれを、「再び」取り戻してあげるというのが福音であり、回復のメッセージです。
 出エジプト記二十二章七節に、

『金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければならない。』

とあります。これは、神が人間に与えた律法です。何か物が盗まれてその犯人が見つかったら、その犯人は二倍にして返せというのが旧約聖書の実際的法律でした。
 しかし聖書の素晴らしいところは、新約聖書に至って、その真犯人について語っているからです。イエスさまは、人生の良きものを盗む真犯人は人ではなく、盗み、殺し、滅ぼすというサタンだと言いました。
 もしも私たちの人生の良きものを盗むのが、他でもないサタンとその一味悪霊どもだと気付いたら、盗人が見つかった場合、「盗人は二倍にしてそれを返さなければならない」のです。

 私たちは失ったものを、倍にして取り戻すことができるのです。今日もしも何かを失った方がおられたら、私たちは倍にして回復できると教えています。イザヤ書六十一章七節に、

『あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。』

 私たちが本当の神に目を向けるならば、失ったものが二倍にして取り戻されると約束されています。
 今日私たちは二倍にして回復してくださる神に期待しましょう。エレミヤ書三十一章三節からに、

『おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。』

 失われたものが回復する、何と素晴らしいではないでしょうか。それも、倍にして回復してくださるというのが、聖書の神のメッセージです。よく拝んだら神になるけど、拝まなかったら鬼になるような方ではありません。私たちをとことん愛してくださっている神様、そして、あなたを倍にして回復しようとされているお方です。人生の中で失ったもの、破壊された領域に回復を受け取りましょう。このみ言葉を自分のものとして受け取りましょう。

 もしも家庭が壊れている方がいたら、神様は必ず私たちの家庭を回復してくださいます。
 また健康を崩されている人がいたら、健康を倍にして取り戻してもらいましょう。経済的に壊されている方がいたら、経済的にも祝福してくださると信じましょう。
 しかしそれは自分のためではなく、神の栄光のためです。私たちは自分のための人生ではなく、神のための人生として変えられる必要があります。

 今日も、私たちを解放してくださり、回復してくださる神に心を留めましょう。お祈りします。
 エレミヤ書の中では「再び」と何度も語られていますので、もう一度、回復してくださいます。今日回復を必要とされている方はお祈りしましょう。

「イエスさま。今私たちはイエスさまだけが救い主であり、私の神であることを高らかに宣言します。私を回復してくださる方であることを心から感謝します。聖書のみ言葉にあるように、再び回復しますというこの言葉を受け取ります。私の人生をもう一度回復してください。二倍にして取り戻してください。サタンに奪われたものは倍になって戻ってきますように。敵に対して渡すものは何一つないことを、イエスさまの御名によって宣言します。
 回復の神、イエスさまを心から賛美し、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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