神に出会う備えをせよ


2008.10.26(SUN)
新城教会牧師 滝元明

旧約聖書 アモス書 4章12節
それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。

 ハレルヤ!おはようございます。久しぶりに、新城教会で奉仕できることを感謝します。先週の日曜日は、大阪の教会で奉仕をしました。その前の日曜日は、埼玉県の草加市で奉仕させて頂きました。長い旅を終え、こうして元気に帰ることができて感謝です。皆さんのお祈りに支えられて、今年は「滝元明ミニストリー」が、沖縄から始まって、北海道、九州と全国色々なところを回り伝道させて頂きました。この10月で予定を終え、ミッションの働きへと切り替わっていきます。

非常に感謝なことに、このミニストリーで多くの教会を回り、集会に出席して下さった方々の人数は、七千三百九十二人でした。決心者も七百十七人あり、その方々に、私の著書、『祝福への歩み出し』をお渡しすることができました。長いスケジュールでしたが、皆さんのお祈りによって今まで支えられたことを、心から感謝します。

先週は、李浩文牧師と金斗植牧師に大阪でお会いして、「韓国リバイバルミッション」の相談会を持ちました。この度は、韓国でも重荷を持って受け入れて下さっており、インチョンのメソジスト教会の監督をしておられた李浩文先生は、リバイバルミッションの集会のために、命をかけて働くという決心をなされたとお聞きしました。インチョンやソウル等で、そのための牧師会をしようという提案があり、実現させたいという願いがあります。大会は一万五千人収容の会場で行われる予定ですが、そのために100台のバスを出すという提案もなされています。
バス一台につき十万ウォンの費用がかかるそうです。今は日本円が強くなったこともあり、だいたい一台につき一万円でバスが借りられるそうです。今回のミッションは日本側から全費用を持ち込む予定でおりますので、是非、皆さんも覚えてお祈り下さい。三日間で三百台のバスを出したとしても、三百人が一万円ずつバス代を出したら解決しますので、皆さんもその一人になって下されば嬉しいと思います。素晴らしい集会になることを信じています。

特に、とてもハードなスケジュールをこなしている、順牧師のためにお祈り下さい。今日は北海道に行って奉仕していますが、帰ってすぐに韓国へ行き、その後もスケジュールが続く予定となっています。
人間は、誰でもよく働くと疲れが出ます。私も、今回、忙しく飛び回って疲れを感じ、足が重たくなったのを感じ、歩くのが辛くなったりもしましたが、感謝なことに少し休んだらよくなりました。

非常に残念なことに、私の留守の間に、豊橋市に住んでおられた中尾さんが天に召されました。とても寂しい思いがします。姉妹が、会堂の後ろの方の席に座って、ニコニコしていた姿を思い出します。入院中、病院に何度か訪問に行かせて頂きましたが、非常に喜んで下さいました。私が二年前に脱腸の手術をしたときには、里芋と大根の煮付けを持って病院に来て下さり、美味しく食べたことを忘れることができません。残されたご遺族のために祈ってまいりましょう。

日を同じくして、私のところに一本の電話が入りました。大阪のJECという団体の理事長をしておられる方の奥様が、六五歳で天に召されたという内容の電話でした。奥様は、祈祷会での祈りを終えたとたん、天にお帰りになったという知らせでした。彼女は、私の天幕集会で救いに導かれ、献身して牧師婦人になった方ですが、活発で明るく素晴らしい方でした。

召されるということを考えるとき、命はいつどうなるか分からないと思わされます。しかし、マタイの福音書十章二十九節に、こんな言葉があります。

『二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには、地に落ちることはありません。』

一アサリオンというのは、日本円にしておよそ百円くらいですが、その半分である一羽の雀さえも、神様の許し無しには、死ぬことがないと語られています。私たちクリスチャンは、生きているのではなく、「生かされている」のです。

二年前の復活祭の日に召された、岡本姉妹のことを今朝も考えていました。彼女のご主人は教会で敬老の日のお祝いをしてもらい、その後、すぐに天に帰られました。姉妹の方は教会の老人会でお花見に行き、「これで見納めかもしれない」とおっしゃったその二日後に、息子さんの腕の中で召されていきました。みな人は御心によって召されていくのです。
私たちクリスチャンには望みがあります。なぜなら、行くところが決まっているからです。なんと素晴らしいことでしょう。

今朝、聖書を読んでいましたら、「一九九二年四月十二日、九時四二分、斉藤栄子召される」という記述を見つけました。
斉藤栄子とは、私の家内の母のことです。召される一週間前に、彼女は私にこんなことを言いました。『お父さん、もう一週間経ったら天国に行くよ。私の使命はもう終わったと思う。』と。
私は、『じゃあ天国に行ったら、イエス様に宜しく伝えてね』と答えました。その週、遠方に住んでいた家族皆を呼び寄せ、彼女が最後に語った言葉は、『勝利は我がもの、ハレルヤ!』でした。
呼吸が細くなる中、家族で賛美歌を歌い、今までのことを感謝し祈ったその直後に、さーっと天に帰っていきました。

行くところが決まっているとは、なんと素晴らしいことでしょうか。今日のメッセージの題名は、「あなたの神に会う備えをしなさい」です。
誰でもいつかは死にます。私は、時々、鏡を見て、「いつの間に白髪が生えたのだろう」などと思うことがあります。
私も、九月の誕生日で七十九歳になりました。私もいつかは死にます。誰もが、いつかは死にます。生きている間、一番大切なことは、行き先をはっきりさせるということです。「神に会う備えをする」ということです。会う備えをするというのはどういうことでしょうか。結婚式などでは、花嫁が花婿に会うときには綺麗に着飾って準備をします。

一九七一年七月九日、私は、佐藤総理の秘書官から電話を頂きました。それは、総理が、私に会いたいので、会って頂けないかという依頼の電話でした。
一人で会いに行くのは心細かったので、田中政男先生と一緒に行きました。その時のことは、今でも忘れることができません。うちの息子達が、生まれて始めて「お父ちゃんの靴を磨くぞー!」と言ってピカピカに靴を磨いてくれ、口臭防止剤のピュオを買って準備してくれました。田中先生のお母さんは、破れたズボンを一生懸命に修理しました。こうして、準備し、完璧にして、総理に会いに行きました。
総理や天皇・皇后に会うというのは、光栄なことですが、そのためにはそれなりの備えをします。汚い格好で行くことはないでしょう。

私は毎年、天皇・皇后の誕生日には、お祝いの電報を打つことにしています。先日の美智子皇后の誕生日には、綺麗なお花を贈りました。二十一日に宮内庁から電話が入り、とても丁寧な言葉で、「皇后様がとてもお喜びになっておりまして、宜しくとのことでございます」とお礼の電話を頂きました。
聖書の中には『上に立つ者のために祈りなさい』とあります。天皇・皇后の救いを心から願い祈ってまいりましょう。

今日は「神に会う備えをせよ」ということでお話したいと思いますが、ヘブル書九章二十七にこんな言葉があります。『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。』
私達がいくら信じられなくても、いつかは必ず死を迎えます。そして、いくら信じることができなくても、私達は死後、全能の神の前に出て裁きを受けることが定まっているのです。
第二コリント五章一〇節には、

『なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。』

と語っています。人生は、自分勝手に何をして、どのように生きても自由ですが、聖書には、死後に神の前で裁きを受けることが定まっていると言っています。

ある人が、人生とは、レストランに入ったときのようだと言っています。名古屋のザワメキの帰り道に、よく、「ザ・めしや」に入ることがあります。美味しそうなものが、ずらっと並べられ、いつもわくわくします。美味しそうなものの中から、特に欲しいものを一通り取り終わった後、最後にレジに並び、取ったもの全ての代金を払います。
レストランに入ったら、何を食べても、どれだけ食べても良いのです。しかし、最後には精算をしなければなりません。

人生も同じです。あなたが、どんなに悪いことをしようが、良いことをしようが自由です。しかし、最後には、神の前で精算しなければならない時が来るのです。
もし今日、イエス様を知らない方がおられたら、永遠に関わる重大な問題ですので、はっきりと、イエス様を信じる道を歩むことは非常に大切なことです。

マタイの福音書二十五章四十一節に、

『それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」』

のろわれた者とは、天の御国に入ることを許された者とは反対の、「一生涯、神に反抗して、でたらめな生活をしていた者」のことをいっています。そのような人々に対し、聖書は、日本的な言葉で言い換えると、「地獄に行く」のだと警告しています。

マルコの福音書九章四十三〜四十八節に、

『もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。』

これはイエス様が語った言葉です。ゲヘナとは、日本的言い方をすれば地獄ですが、そこでは、彼らを食ううじは尽きることがなく、火は消えることはないといっています。ものすごい警告です。実際的に、死後、裁きがあったとしたら、生きている間に罪から離れ、清い生活をしなければならないということを、聖書は教えています。

七月には大阪に、李浩文先生が来られましたが、そこでこんな話をなさいました。先生が子供の頃のことですが、ある親戚から一箱リンゴが送られてきたそうです。そのリンゴの箱を先生のお父さんは、タンスと天井の間の隙間にすっぽりと収めました。幼い先生は、どうしてもそのリンゴが食べたいと思いました。礼拝に出ていても、リンゴのことばかりが気になったので、礼拝中こっそり抜け出してリンゴを盗む決意をしました。
箱に手が届く所までよじ登り、蓋を開け、いくつかを取ってポケットに入れ、綺麗に蓋を元通りに閉め、絶対に見つからないように細工しました。
礼拝から帰ってきて、何食わぬ顔をしていると、牧師であるお父さんが、「お前、何か悪いことをしただろ?」と言いました。
すると、先生は「いいえ、していません」と答えました。すると、お父さんは、「本当のことを言いなさい!」と言い、「何もしていません」と答えると、「お前リンゴを盗んだだろ!」と言いました。
先生は、ドキっとしたそうです。その後、盗んだという事実が暴かれ、ものすごい勢いで「手を切るのを選ぶか、それとも地獄にいくのを選ぶか!」と怒鳴りつけられたそうです。

完璧に隠したはずがなぜ暴かれたのかといえば、リンゴを取るために、お姉さんのピアノによじ登った靴跡が、しっかり残っていたからでした。
泥棒をすることは、良くないことです。泥棒している人はやめなければなりません。聖書には、あなたの手があなたをつまずかせるなら、片手を切りなさいと書いてあります。足があなたをつまずかせるなら、その足を切ってしまいなさいと言っています。目があなたをつまずかせるなら、目をえぐり出してしまいなさいと言っています。

今は、誘惑の多い時代です。私は全国あちらこちらに行きますが、先日、ある綺麗なホテルに泊まりました。普通、ホテルでは、アダルト・ビデオはお金を入れないと見れないようになっています。しかし、先日泊まったそのホテルのテレビには、特別料金無しで、汚い番組が見れるようになっていました。私は、その様な番組が映ったので、パッとチャンネルをかえました。
今は、汚い穢れた世の中です。今の時代は、戦いが必要です。霊的な戦いとともに、実際に、罪の中に落ち込まないようにする戦いです。
先日、私は横浜に行き、コーヒーを買いにお店に入りました。お店の前に椅子が置いてあったので、そこで座っていると、一人のおばさんが隣に座ってきました。そして、私はいつものように「今日はいい天気ですね」と軽く話しかけました。
すると、その女性が「ラブホに行かない?」と、声をかけてきました。ラブホ、皆さん聞いたことがありますか。ラブホテルのことです。それから彼女は、「一万五千円でいいから」といいました。
私は、「あなた、こんな仕事をして、客をつかんだらいくらもらえるんですか」と聞きました。すると彼女は、「いや、金はもらってない」と答えました。
「自分でやっているのか?」と聞くと、「はい、そうです」と答えました。私は、「冗談じゃない、僕は牧師だよ、あなた教会に行ったことがあるか?」と、結局、彼女に伝道をしました。
私は、生まれて初めて、ラブホの誘惑を受けました。もしも、あのとき、私が行っていたら、今ここで悔い改めなければなりません。足を切り落とすか、目でもえぐりださなければいけません。

「永遠」という視点で物事を見るとき、罪は一時的です。ラブホテルでも、一日も二日も入ってはいません。しばらくの間、肉の欲を燃やして終わりです。ですから、聖書はこう書いてあります。黙示録二十章一〇節に、

『そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。』

地獄という場所は、入ったら永遠に昼も夜も苦しみを受けるのです。この地獄が現実であったら、とにかくそんなところには行きたくないでしょう。私達の、愛する父や母や兄弟達が地獄行ったらどうでしょうか。

今回、共にミニストリーに携わって下さった、ハワイの中村智恵子先生は、お父さんが韓国人、お母さんが日本人のハーフです。先生は二十歳の時に初めて日本に来たそうですが、素晴らしい声楽家です。韓国の大学をでて、アメリカのボストン大学で音楽を勉強して、素晴らしい声の持ち主です。その透き通った歌声をもって、今回は一緒に、集会で奉仕してくださいました。
智恵子先生が、こんな証をしておられました。先生のお父さんは非常に頑固で、本当に難しい人だったそうです。とても、気軽に話せるような相手ではなかったのですが、なんとかして福音を伝えなければならないと、智恵子先生は必死に想っていました。
そんな中で、お父さんが年をとり、病気になり、もう絶体絶命という状況の中で、先生は韓国へ帰り、お父さんが苦しんでいるところに行きました。たとえどんな反応が返ってきたとしても、福音を伝えなければと思い、泣きながら「お父さん、イエス様を信じなかったら、永遠の地獄ですから、イエス様を信じて天国へ行ってください。」と訴えたのです。

すると、お父さんは、「俺もお前の行くところに一緒に行きたい」と答えました。その一週間後、天に召されたという知らせが届きました。
智恵子先生は不安になり、「イエス様、父は天国に行ったのでしょうか」と祈ったとき、一つの夢をイエス様が見せてくださったそうです。
それは、天から三人の天使が降りてきて、お父さんを抱いてスーッと天に昇っていく姿の夢だったそうです。この夢を通して、お父さんが天国に行ったことを、確信し平安を得たのだと証されていました。

人生で有名になり、お金を持ち、権力を持ったとしても、もし滅びたら何にもなりません。第一コリント六章九〜十節にこう書いてあります。

『あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。』

天国へ行ってみると、居るはずがないと思えるような人たちが居ることが、ありうると私は思います。
ある宣教師がこんな話をしました。ある熱心なクリスチャンの船乗りがいたそうです。あるとき、彼は堕落して、大酒飲みになり、イエス様の悪口を言うような人となりました。
彼がある日、帆柱のてっぺんで鼻歌を歌っていると、突風が吹き荒れ、海に投げ出されました。
すると周りの人々は言いました「ついに裁きがきた、ついにやつは地獄へ行った」と。

人々は彼が死んだだろうと思い、網ですくいあげたところ、彼が生きて出てきたそうです。海から引き上げられるやいなや、彼は、「ハレルヤー!神様、感謝します!」ととても喜んだそうです。と
いうのも、彼は落ちてゆくその瞬間から、気を失うまでの間、ひたすら罪の許しを請い、祈り悔い改めたのです。そして、瞬時に救われたのです。
ですから、皆さんの中でも、「あの人だけは地獄いったかもしれない」と、思っている人がいるかもしれませんが、実際には天国に入れてもらっているのかもしれません。

また、その反対で、この人は天国行っただろうと思われる人でも、地獄に行った人も多くいるのかもしれません。こう書いてあります。

『だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。』

日本の教会のことを考えるとき、意外と多くのクリスチャンがイエス様を礼拝しつつ、仏壇にも手を合わせている現状があるのではないかと感じます。
早天祈祷会で、最近はエゼキエル書を読んでいるのですが、裁きについての記述が非常に多いです。というのは、イスラエル民族が神の民であったのに、偶像礼拝をやめず、バビロンに追放されたという事実があったからです。
クリスチャンでも、全員が全員天国に行けるわけではありません。はっきり罪を始末しなければなりません。聖書の中で一番忌み嫌われるものが偶像礼拝です。どんなことがあっても、偶像礼拝から離れなければなりません。偶像とははっきり縁を切ることがとても大切です。
それから、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
聖書の中で、イエス様は、『主よ主よという者がことごとく神の国に入るのではない、神の御心を行う者が天国に入る』とおっしゃいました。
ですので、私達は、はっきりと神の前に罪を悔い改めて、天国に行く準備をしなければなりません。

使徒十六章三十一節には、『主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』とあります。愛する家族が、全員しっかりイエス様を信じて、天国へ行く準備をしなければなりません。
エゼキエル書十八章三十〜三十二節には、こう書かれています。

『それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。――神である主の御告げ。――悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。』

神様は、誰が死ぬのも喜ばないのです。死ぬというのは、実際の死だけでなく、地獄へ行くということです。
イエス様は、全ての人が救われて、真理を知るに至ることを望んで、十字架上で私達の罪のために身代わりになって死んでくださいました。
ですから、私達は心から主を信じて、いつでも神の前に出る為の準備をしましょう。まもなくイエス様は帰ってこられます。イエス様が帰ってこられた時には、花嫁が花婿を迎えるように、イエス様をお迎えしたいと思います。

今日、皆さんの中に、まだ天国へ行く確信の無い方がおられたら、今日悔い改めましょう。罪を投げ出して、とにかく偶像を頼みにせず、イエス様だけに信頼してまいりましょう。「あなたの神に会う備えをせよ」という、このメッセージを聞いて、まだ罪を捨てなければならないと思われる方、まだ死ぬことが心配な方は、その席に立ち上がってください。イエス様は、一人も死ぬことを喜ばないとあります。どんな罪でも許されない罪はありません。私の後について一緒にお祈りしましょう。

「イエス様、私の罪を、お赦し下さい。イエス様を信じます。神様の子供にしてください。永遠の命をお与え下さい。私の名前を、天の命の書に書き記してください。永遠の命を与えてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

感謝します!心配しないで、主の御名を呼ぶ者は救われるとありますから、信仰を持っていきましょう。


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