いのちを捨てて


2008.11.2(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘

新約聖書 第一ヨハネの手紙 4章9〜10節
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ハレルヤ! 主の御名を心から賛美いたします。皆さんのお祈りによって、健康で、ここに立つことができて心から感謝いたします。
先週、皆さんにお祈りいただきましたが、娘の泉が韓国に旅立ちました。来年五月に行われる韓国リバイバルミッションのために、六月初旬までアパートを借り、韓国で日本との連絡役のような働きをさせていただくことになります。今回は、私と家内も一緒に三日間だけですが、出かけてきました。住むために必要なものを揃えなければならなかったからです。
私は初め、娘が韓国に滞在することについてあまり深刻に考えていませんでしたが、行ってみて少し心配になりました。日本では欲しいものもサッと車で出かけて買ってくることができますが、韓国ではそうはいきません。布団を担いで、電化製品を持ち、両手に荷物を抱えてあちこち歩き回り、タクシーや地下鉄で移動しなければならず、言葉も通じませんから大変でした。それでも、知り合いの方の協力もあり、なんとか一人暮らしができる環境を整えることができましたし、助けてくださる方も与えられて安心して帰ってくることができました。
皆さんもご存知のように、最近、円が高くなりウォンがとても下がりました。ウォンを日本円に換算するとき、ゼロを一つ取ると考えやすいのですが、私が九月の初めに行ったときには、十万ウォンが一万円でした。しかし、今回は円高のおかげで、十ウォンで一万三千円ほどの価値になりました。ですから、前回の三分の二程度でいろいろなものを購入することができき、たくさんの買い物をするには丁度良い時であったことは、神さまの恵みであると思います。皆さんのお祈りを心から感謝します。来年、韓国に行こうと思っておられる方は、今、円をウォンに変えておくと良いかもしれません。
娘は韓国語をまったく話すことができませんので、本人も必死で勉強すると思いますが、是非知恵が与えられ良き奉仕ができるように、また健康が支えられるように祈っていただければと思います。

今日は伝道礼拝なので、初めて来られた方にも分かりやすく、お話ししたいと思います。先ほど読んでいただいた御言葉の中に、

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』

とありました。神さまは私たちに、ひとり子(イエス・キリスト)をお遣わしくださり、いのちを与えたと書いてあります。
私たちは自分で生きているようですが、それは大きな間違いです。私たちは神によって生かされているということを知ってください。私たちの信じている神さまは、私たちのためにいのちを投げ出し、私たちを救ってくださいました。そして、そのことを信じるだけで永遠のいのちを頂くことができるのです。宝くじで何億というお金が当たったら、皆さんは踊りまわって喜ぶでしょう。しかし、永遠の命を得るということは、そんなものには比べることのできないほどの大きな喜びであり、宝です。
また、こんな御言葉があります。

『人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。』(第一コリント八章二節)

今まで皆さんは、色々なことを経験し学んでこられたと思います。今回、私は韓国に行ってきましたが、海外でその違いを顕著に感じるのは食べ物です。日本では食べたこともない、食べ方すら分からないものが多くあります。また、生活様式や文化も「日本と違うなぁ」と思うことが多々あります。戸惑いもありますが、新しい発見をする楽しみもあります。このように、私たちは知っていると思っていても世の中には知らないことの方が多くあり、知らなければならないことさえも知ってはいないと聖書は教えています。

新約時代の初期に、素晴らしいリバイバリストとして大いに用いられたパウロという人がいます。彼は、イエスさまに出会ったときにこんなことを言っています。

『しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。』(ピリピ書三章七〜八節)

パウロは、今まで得た知恵や知識、全てを損と思うようになったと言っています。人は多くの場合、いい学校を出ている、いいところに就職している、社会的な地位がある、いい服を着ている、金持ちそうに見えるなど、表面的なことで判断し、あの人はすごい人だ、立派な人だ、頭のいい人だなどと、全ての損得、良し悪しを、見えるところで評価しているように思います。
円高の影響は輸出産業にも、大打撃を与え、株もずいぶん値を下げていると報じられています。一方で、首相が、一人ひとりに給付金を出すとか、高速道路がある期間、一律千円にするとの考えを持っていることが報道されました。それだけを聞くと、何か得をするような気がしますが、そんなお金を出し、日本は本当に大丈夫なのか、また、三年後には消費税が値上がりするとも言われていて、さらに不安が募るような気もします。
経済情勢だけにとどまらず、何が起こるかわからない先行き不安な時代に私たちは生きています。人生も「一寸先は闇」、明日のことは誰にも予想がつきません。今は元気であっても明日はこの世にいないかもしれない存在なのです。

損をして後悔するというのが常ですが、「損をする」ということには、いくつかの種類があることに気付かされます。ひとつは、失敗したことによって損をして後悔することです。もうひとつは、見返りを期待せずに損をすること、つまり犠牲を払うことです。
誰も損をしたいと思っている人はいないでしょう。私は、仕事で「あぁ、しまった!」と思うことが多々あります。皆さんも、安く買い物ができた、いい物が買えたと思って次の店に行くと、同じものがより安く売られていたりして、ちょっとのことで、「しまった」「ああ、こうすればよかった」と悔しい思いをすることがあると思います。
損する道を選ぶにしても、「損して得とれ」という言葉にも表れているように、損をしても何らかの見返りを期待して行うことが多いでしょう。一時的には損をしても、それ以上の利益があるという確信があれば、喜んで損する道を選ぶこともできます。
 では、見返りを期待せずに、誰かのために、あなたはどのくらい犠牲を払うことができるでしょうか。自分のためには色々なことをして犠牲を払いますが、人のために犠牲を払うということは簡単なことではありません。

先日、インターネットを見ていたら、こんな事件が掲載されていました。昭和二十三年に二人の人が斧で殺害されたという、本当にあった兵庫県で起きた強盗殺人事件についての記事です。
容疑者として、古川という二人の兄弟が逮捕されました。二人は、取り調べに対し、犯行を素直に認める供述をしました。しかしその後、争点になったのは、兄と弟のどちらが主犯なのかということでした。最初に弟の取り調べをしたところ、弟は「自分がやった」と供述し、次に兄も「弟がやった」と供述したため、弟が主犯とみなされ死刑が確定し、兄は死刑を免れました。しかし、しばらくすると弟は「本当は兄の命令で殺した」と、証言を覆すようになりました。その結果、再度審議がなされ、彼らの姉が事情聴取に連れて来られましたが、姉は「兄が主犯だろう」と言いました。その理由は「弟には窃盗の前科があり病弱なので、妻帯者である兄をかばって自分が身代わりになったのだろう」というものでした。審議は難航し、最高裁にまで及びました。その際も弟は「兄が主犯だ」と訴えましたが、兄は一貫して「弟がやった」と証言し、結局、弟の訴えは棄却され、最初に供述したものが有効であるという結論に至り、弟の死刑が確定しました。
この事件は、後に大きく取り上げられました。それは、弟が死刑前に書いた遺書の中で「裁判所が二度とこんな誤りを繰り返さないように祈ります」と記されていたことと、服役中の兄が、弟の死刑執行後、何度も何度も同僚に「殺したのは俺だ、俺は何て卑怯なことをしたんだ」と言っていたことが明らかにされたからでした。
弟は兄を愛し、兄のために罪をかぶろうと一度は決心しました。しかし、身代わりに死刑になるのが怖くなったのでしょう。この事件を見るときに、人が人の身代わりとなって死ぬということは、本当に難しいことだと思います。誰かのために何かしてあげることはできるかもしれませんが、誰かのために命を捨てることは、簡単にできることではありません。マタイの福音書十六章二十六節には、

『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』

という御言葉があります。たとえ全世界の全ての物を手に入れたとしても、人は死ぬときには、何一つ得たものを持っていくことはできません。ですから、命がなくなったなら何の得にもならないと教えています。人の価値観はそれぞれ違いますが、人が死ぬか生きるかというのは、誰にとっても大きな問題です。
たとえば、同僚や友人、家族から「交通事故に遭った」と連絡があったとします。皆さんはどうするでしょうか。とっさに「車は大丈夫か!」と聞く人は誰もいないでしょう。その前に「怪我はないか? 無事なのか?」と聞くでしょう。命に別状がないことさえ分かれば、車が大破したとしても買い替えればいいことですから大したことではないのです。人の命は、物と並べることができないもの、なくしたら二度と取り戻すことのできない、かけがえのないものなのだからこそ尊いのです。

皆さんは『走れメロス』という短編小説をご存知だと思います。

メロスという羊飼いがいました。あるとき、彼の妹が結婚式を挙げることになり、メロスはお祝いの品を買うために、何十キロも離れた街に出かけていきました。しかしその街には、罪のない民を虐殺しているとても横暴な王様がいました。正義感の強いメロスは、何とかそれを阻止しようと、王様に刃向かったのです。その結果、メロスは捕らえられ処刑されることになってしまいました。しかしメロスは、何としても妹を祝福するために結婚式には駆けつけたいと思い、三日間だけ処刑を待ってほしいと王様に願い出ました。処刑前の人間を解き放ったら帰ってくるはずがないと言って、当然、王様の許可は下りませんでした。そこで、メロスが、自分の友人のセリヌンティウスという人を身代わりにおいていくという条件を出すと、王様は、メロスが少しでも遅れたらその友人を処刑すると約束をして、彼の申し出を受け入れました。友人であるセリヌンティウスは、その話を聞くと何の抵抗もなく、メロスの身代わりになることを受け入れました。メロスはすぐに解放され、自分の村に帰り、妹の結婚式を盛大に執り行いました。
三日目になり、メロスはすぐさま王様の城に戻り始めました。しかしその道中、盗賊に遭遇したり、川が氾濫したりと、さまざまな困難が起こり、約束の期限に遅れそうになりました。そんななか、メロスは、友人が自分の身代わりに処刑され、自分が生き延びることを想像しました。そして、一度は城に戻るのを諦めかけ、力尽きてしまいます。しかし、彼は思い直し、最後の力を振り絞って、日が沈むまでに城に到着しました。そして友人に、自分が一度は友人を見捨てて、戻るのをやめようと思ったことを告白し、自分を殴ってほしいと願いました。するとその友人はそれを聞きメロスを殴りました。しかしその友人も、メロスを待つ三日の間、メロスが帰ってこないのではないかと疑ったことを告白し、疑った自分を殴ってほしいと願いました。そして、メロスもその友人を殴りました。そして、メロスとその友人は許し合い、抱き合いました。それを見た王様は、二人の友情に心打たれ、二人を釈放したというお話です。ここには心の葛藤と、愛が書かれています。
 人間は弱く、誰かのためにと思っても、だんだんと追い詰められると自分を可愛く思い、結局は自分を守る道を選び、自分さえ幸せになればそれでいいと、他の人を見捨ててしまうことが多いのではないでしょうか。人が愛を実践することは、本当に難しいことです。
いつの時代も、母の愛は偉大だと言われます。母親は、もし自分の子どもが難病にかかって死にそうになったなら、代わりに自分の命を差し出すことも厭わないと言われます。父親も同じように子どもを愛しているのに、なぜ父親はここで出てこないのかと時々疑問に思ってしまうことがありますが・・・。しかし、それも、自分の子どもという限定付きの愛です。
親が子どものために命を捨てる、これはある意味で当たり前かもしれません。しかし、神に背を向け、罪を犯し続け、神などいないと言い続け、神を信じていない人にも、神さまの愛は等しく皆さんに注がれていることを覚えてください。そして神さまは、常に私たちが神のもとに来るのを、ずっと待っていてくださいます。
 しかし、神さまの祝福を受けるために、ひとつだけ条件があります。

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』
(ローマ書三章二十三節、二十四節)

今まで、一度も罪を犯したことのない人はいないと思います。全ての人が罪人であり、罪を持ったままでは神の栄誉を受けることができないと聖書は教えています。
私たちは、神の恵みにより生かされ、希望が与えられています。皆さんは、自分の人生は誰の助けも必要ない、自分で将来を切り開いていくものだと思っておられるかもしれません。しかし、私たちは、いつか死ぬ時がきます。聖書には、死後、永遠の滅びである地獄か、永遠の命である天国、どちらかに行かなければならないと記されています。中途半端はありません。どちらかに行かなければならないのです。自分の努力や修養では天国に入ることはできません。
死刑囚が死刑囚の身代わりにはなれないように、罪を持っている人が、罪を持っている人の身代わりにはなれません。では誰が身代わりとなれるのでしょう。それは、一度も罪を犯したことのない、神のひとり子イエス・キリストさまのみなのです。ですから、罪を贖われて永遠の滅びにいくことなく救われる唯一の方法、それは、イエス・キリストを信じて、私たちの罪の身代わりになっていただくことです。まことの神であるイエスさまは、見返りを求めない一方的な愛を示してくださっています。イエスさまは、私たちを永遠の滅びから何とか救いたいと願い、私たちの罪の身代わりとなって自ら十字架にかかり、命を捨ててくださったのです。それほどに私たちを愛してくださいました。

『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。』(第一ヨハネ三章十六節)

イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちのためにご自分の命を捨ててくださったとあります。そのイエスさまを信じることによって、永遠の滅びに行く人生を永遠の命を頂く人生へと変えることができます。
是非、今日、このイエス・キリストを信じていただきたいと思います。

 また、第一ヨハネ四章九〜十節には

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』

とあります。イエス・キリストは、一人一人の持っている全ての罪を背負い、十字架にかかって死んでくださいました。イエスさまの死は、この世の価値観で図ったなら、誰よりも損をしている人になるに違いありません。そして、いちばん得をしたのは、それを知った私であり、皆さんお一人おひとりだと思います。何もしなくても、ただ信じるだけで、永遠の命を頂くことができるのは、素晴らしい神さまからの恵みです。
しかし、頂くだけでなく私たちがすべきことも聖書は語っています。

ルカ十章には「良きサマリヤ人」の話が出てきます。

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」』(二十五〜二十九節)

永遠の命をすでに受けている私たちが知るべきこととして、ここに二つのことが書かれています。ひとつには、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』ということ。イエスさまは私たちを救い、永遠の命を与えてくださいました。そのお方を、私たちは全身全霊をもって愛していくことが必要であると思います。またもうひとつは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということです。この命令を受けて、自分の正しさを示そうとした律法の専門家が、隣人は誰かと聞いたことに対して、イエスさまは「良きサマリヤ人」の例え話をされました。
あるイスラエル人が、エルサレムからエリコに向かう道の途中で強盗に襲われました。半殺しにされ、そのままにしておいたら死んでしまうといった状況でした。そこに何人かの人たちが通りかかりました。初めに通りかかったのは、祭司でした。教会で言うと牧師に当たるような人でしょう。彼は、反対側を通り過ぎて行ってしまいました。そして、二番目に通りかかったのは、レビ人でした。これは教会に仕える者、スタッフのような存在に当たると思いますが、彼も見て見ぬふりをして反対側を通りすぎていってしまいました。三番目に来た人は、サマリヤ人でした。サマリヤ人とは、イスラエル人とはいちばん仲の悪い人々ですので、反対側を通り過ぎていくのが当然である間柄なのですが、にもかかわらず、彼は、半殺しにされたイスラエル人を見て可愛そうに思い、近寄って介抱し、彼を自分の家畜に乗せて宿屋に連れていきました。そして、宿屋の主人にお金を払い、足りない分は自分が帰りに払うからと言いました。
この例え話をした後、イエスさまは、「この三人のうち、誰がこの人の隣人になったと思うか」と聞きました。当然、答えは、三人目に通りかかったサマリヤ人です。口もきかない犬猿の仲であるイスラエル人に、彼は愛を示しました。
私たちも、同じように、自分の幸せ、自分の祝福、自分の家族さえ良ければいいという考えを捨てるべきだと聖書は語っています。あなたの隣人というのは、ただあなたに近い人のことを言っているのではありません。ここで言う隣人とは、助けても何の得にもならないと思われるような相手をさしています。

永遠の命にあずかっている私たちですが、今の日本の現状は、九十九%の人々が滅びに向かっていることを忘れてはなりません。その人たちのために、私たちは祈るべき使命があります。また、日本のリバイバルのために祈っていかなければなりません。
来年の韓国リバイバルミッションについても、二十五%もクリスチャンのいる「お隣の国」のために働く必要があるのかと思うかもしれません。しかし、かつて日本は韓国に攻め入り、拷問をし、言葉を奪い、文化を奪いました。日本のクリスチャンが、過去に犯した罪を自分の罪として告白し、謝罪し、悔い改め、韓国の祝福を祈るなら、韓国だけでなく、日本も癒され、壁が打ち砕かれ、両国の回復に繋がっていくことを信じます。是非、韓国リバイバルミッションの働きのために祈ってください。その祈りの中で、皆さんお一人おひとりもリバイバルされていくことを願っています。
また、皆さんの身近な人々の中に、病気の人や問題を持っている人がいたら、是非祈ってあげてください。M君のことも祈っていますが、この数日間は、嬉しい報告を受けています。ずいぶん歩けるようになり、飲み込む訓練も進んでいるそうです。薬がまったく要らなくなり、完全に癒され、早く学校に行くことができるよう、引き続き祈っていただきたいと思います。
自分の家族の問題や、事情を話せない人もいるかもしれませんが、ここには多くのクリスチャンがおり、信頼できる祈りの勇士が多くいます。ですから、皆に祈りを託してください。互いに祈り合うとき、主がその祈りに答えてくださいます。また、教会は、皆さんの祈りのサポーターとして、皆さんの祈りのリクエストをお受けしていますので、是非、何でもリクエストしてくださればと思います。共に祈っていくときに、主がそこに働いてくださり、主の業が現されることを信じます。

私は、この地上に、あとどれだけ生かされるか分かりませんが、命の日の限り主に仕えていきたいと願います。主から頂いている恵みは、どんなに努力しても返しきることのできないほど大きな恵みです。その恵みを受け取っている者として、心から感謝し、主に従っていきたいと思います。一言お祈りします。

『ハレルヤ! 主よ、感謝します。今日こうして、多くの人がここに集められ、ともに主を賛美し、主をあがめることができたことを心から感謝します。イエスさま、あなたは私たちの罪のために十字架に架かり、死んでくださり、三日目によみがえり、今も生きている方であることを感謝します。そして、私たちの祈りに答えることのできる方であることを感謝します。イエスさま、あなたは、私たちのために、どれだけの犠牲を払ってくださったか、その犠牲に、私たちはどれだけお返しできるか分かりません。しかし、私たちは私たちの隣人、家族、親族の人たちのために祈り、日本、韓国、また世界のリバイバルを祈り求めていきます。私たちの祈りに主が答えてください。そして、私たちが受けた恵みを、少しでも主にお返しすることができるよう導いてください。
今日の恵みを心から感謝します。一同に、神様の豊かな恵みと祝福と平安がとどまりますように。信仰もって、主の御名によって祈ります。アーメン。』


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