「眠っている人よ、目を覚ませ」


2008.11.16(SUN)
新城教会牧師 上條 実

新約聖書 エペソ五章十四節
明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

ハレルヤ!皆さんとともにみことばを学ぶことができることを感謝いたします。いつも私と家族のためにお祈りくださり感謝いたします。イエスさまにあって喜びつつ奉仕をさせていただいております。先ほども皆さんと心をあわせてお祈りいたしましたが、滝元順牧師は沖縄でご奉仕しております。また今週の木曜日からは韓国に行き、とりなしの祈りと決起大会を行います。多忙な奉仕をしておりますので、ぜひ健康が支えられてご奉仕ができますようにお祈りして下さい。また滝元明牧師夫妻と滝元里辺架姉が今日、中国の大連という所で奉仕をしております。その働きも祝福され、守られるようにお祈り下さい。来年の五月には韓国の仁川市において「韓国リバイバルミッション」が行われようとしています。ぜひ主の不思議な扉が開かれて、韓国に更なるリバイバルを起こして頂けるように皆さんでお祈りいたしましょう。人手によらず、考えもしなかった働きが拡大されつつあります。この田舎にある新城教会が昨年のハワイや、韓国のため、中国のために祈ることができることは本当にすばらしいことです。この田舎で神さまの恵みで、世界のリバイバルのために祈れることは幸いです。 
また先ほども祈りの中でもご報告がありましたが、皆さんがM君のためにお祈り下さっていることを感謝いたします。彼は今年の七月二五日に行われました子どもキャンプに参加しました。静岡県の御前崎にあります浜岡原子力発電所とプールなどに出かけました。行く途中から既に調子が悪く、車酔いをして吐いてしまいました。キャンプ中はずっと調子が悪く、何も食べる事も、飲む事もできずにいました。教会に帰って来てから彼に「脱水症状になるから水分が取れるようだったら飲むように。もしだめだったら病院に行って点滴をしてもらった方が良い」と言って別れました。しかしその夜電話をもらい、救急車で豊川市民病院に運ばれたというので、私もその夜病院に行きましたが、その夜から重篤な病との戦いが始まりました。子どもキャンプの後でしたので、私も責任を感じて真剣に祈らされました。先ほど読んで頂いたみことばも、彼のために祈っている時に与えられたみことばですが、皆さんが真剣に祈り、とりなし、また心配して下さいました。しかし本当に感謝な事に昨日中高生が、彼が入院しています「岡崎市民病院」に出かけ、そこで賛美し、祈る時を持ちました。何と彼も一緒に参加することができ、そこに参加したうちの息子も「すごく元気だったよ」と喜んで報告をしてくれました。今日はご両親が皆さんにご報告のために、彼をビデオに取って来て下さいましたので、ご一緒に見たいと思います。

<ビデオ>

こんなに元気になって感謝です。十年に一度にあるかないかの病気だと、岡崎市民病院の医師が言っておりましたが、回復したというのは主が癒して下さったと信じ、主のみ名を賛美します。今まだ少し炎症が残っているみたいですが、その炎症がとれ、薬が全部口から飲み込むことができましたら、なんと今週中にもしかしたら退院できるかもしれない、と医師から報告があったとのことです。来週は一緒に礼拝に出席できるとのことです。最後まで私たちは祈り続けて行きましょう。こんなすばらしい祝福を見せて下さった神さまに心から感謝します。神さまに感謝の拍手をおくりましょう。ハレルヤ!
 さて今日のみことばは、エペソ五章十四節

明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

「眠っている人よ、目を覚ませ」とタイトルをつけさせて頂きました。このみことばを中心に学んでいきたいと願います。今から四十年くらい前になりますが、既になくなられましたが田中政男先生が伝道されておりました静岡県佐久間町浦川に、夏休みになるとよく遊びに行きました。そこにダビデ・マーチンという先生も来られて、伝道集会を行っていました。その宣教師も一緒に寝泊まりしていました。ある時私が昼寝をしていましたら、マーチン先生がものすごい勢いで「ダイジョウブデスカ?オキナサイ、オキナサイ〜!」と、私を揺り動かしたのです。なんでかと思ったら、私は寝ながら目を開いていたようでした。それで先生は、私が倒れたのかと思って驚かれたようでした。私はただ寝ていただけでしたのに、先生は「オドロキマシタ〜!」と言われたことを覚えています。しかし今は家内にそんなことは言われた事がないので、多分普通に寝ているのだとは思います。あなたはいかがでしょうか?寝ていながら目を開けていませんか?しかし今日はそのことを言いたいのではなく、霊的に開いている。起きているようであっても、実は眠っている方いませんでしょうか?あなたの信仰はいかがですか?
 今私は、教会で子ども会を担当しています。いつもみことばを読んでほしいと言うことから「みことばの剣」というカードを毎週渡しています。そこには読んだ箇所や感想を各欄があります。そしてそこには子どもたちが楽しんでできるように、なぞなぞを何問か掲載しています。今礼拝中でもみことばの剣を開いて、なぞなぞを解いている子どもたちがいるかもしれません。
今日のなぞなぞは、こんな問題です。皆さんも考えて下さい。

「二本をとれば全部がバラの花という花束があります。しかもこの花束は二本とれば全部チューリップともいえるし、また二本を取れば全部がひまわりであるとも言えます。さてこの花束は何本の花からできているのでしょう?」

わかった方は後から私の所に答えを言いに来て下さい。何の賞品もありませんが・・・・。
皆さんわかりましたか?頭のやわらかい方はすぐに「何本」と答えることができる方がいるかもしれません。答えを聞けば「何だそんなことか?」と思いますが、わからないんですね。信仰生活も同じです。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」起きているようであっても、眠っている時があると思います。私の大好きなみことばですが、

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

というみことばがあります。私たちクリスチャンは素晴らしい祝福を頂くことができる。見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともないものを与えて頂くことができるとあります。いつも礼拝のメッセージを聞くときに「今日はどんなみことばを聞くことができるのだろうか」と思います。先週の礼拝メッセージは大変すばらしいメッセージでした。滝元順牧師が「あなたの名は祝福です」と語って下さいました。本当に感動しました。是非メッセージが印刷されていますし、教会のホームページにアップされていますので、ぜひご覧下さい。「あなたの名は祝福です」聞くだけでワクワクします。しかし私たちの現状はいかがでしょうか?祝福と言うにはほど遠い生活ではないでしょうか。いろいろな出来事があり、恐怖にとらわれ、あわててしまいます。『あなたの名前は祝福』と言われても、自分はほんの少しの祝福をも、もらうことさえできないと言われる人もいるかもしれません。今日は「眠っている人よ、目をさませ」というみことばです。私のように目を開けて寝てしまっている人いませんか?心の目が開いていると言われるクリスチャンが、実際は目が閉じてしまっている、眠ってしまっている人いませんか?先ほどなぞなぞの問題を言いましたが、答えを聞いたら「なんだ、そんなことか」と思うはずです。聞けば簡単なことです。しかしわかるまでは「何だろう」と考え込んでしまいます。今日祝福を頂くための条件。原則をこの聖書から頂いて、全員が「私の名前は祝福です」と言うことができることを願います。
私たちの新城の教会は今まで、多くの祝福を頂いてきました。新城教会の始まりは、滝元明牧師夫妻が結婚して、愛知県設楽町(旧津具村)の簀ノ子という、家が四軒しかないド田舎で伝道がスタートしました。そこで滝元順牧師が生まれました。その後設楽町の八橋というところで伝道し、その後新城中学校の前のダンスホールだったところを教会にしました。続いて、現新城教会がある、この場所に移ってきました。そして木造の教会を建設し、今の会堂を一九八〇年に建設しました。そして一九九三年にはあの甲子園球場にて「全日本リバイバル甲子園ミッション」を行いました。津具村で伝道していたときは、思いもつかないことです。あの津具村の時も「あなたの名前は祝福」でした。しかし四軒しかない時に、どうして甲子園球場で大きな大会をすることなど想像できたでしょうか?今は会堂が与えられ、教育館、神学校までも与えられ、大変大きな祝福を頂きました。神様が生きていて「見たことも聞いたことも思い浮かんだこともない」祝福を頂いたのです。あの津具村では全く考える事が出来なかったような事が、今現実になったのです。あなたの信仰生活はいかがですか?「あなたは祝福を頂いていますか?」という問いに、はいと答えることができますか?「見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともない」ことを頂ける。神さまが用意して下さっているとみことばにあるのに、見えていません。眠っています。信仰が死んでしまっています。聖書のルカによる福音書二四章十六節〜十七節を読んでみましょう。

「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。」

これは、イエスさまが十字架にかかってよみがえってからの事です。みなさんもご存じだとは思いますが、エマオへの途上で二人の弟子が、イエスさまのことを道々話していました。そこにイエスさまが話しかけたのです。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」と聞いたのです。すると「彼らは暗い顔つきになって立ち止まった」とあります。彼らはイエスさまと話しているのに、その方がイエスさまだとは、わからなかったのです。その後宿屋に入りパンを割いたところで、目が開かれてやっとイエスさまだとわかりました。するとイエスさまの姿が見えなくなったと書いてあります。私たちも、今生きていて、よみがえって下さった神、インマヌエルとして、ともにいてくださっている神さま。今日もこの会堂にいて下さる神さま。不可能な事は何もない神がいるにもかかわらず、私たちの心が本当に見えているかを考えてみて下さい。口では簡単にイエスさまは生きていますよ。見えていますよと言うことができます。しかし現実の生活の中で見えていますでしょうか?今日の礼拝後に聖餐式が行われます。私のためにこれ以上ない最高の犠牲を払ってくださったイエスさま。天国行の切符を与えてくださったイエスさまを感謝し、十字架を覚える聖餐式でありたいと願います。しかしそのイエスさまの十字架を軽く考えてしまったり、知らないうちにイエスさまから目が離れてしまっていないか、確認するときでありたいと思います。せっかく罪から救われ、永遠の命を頂けたのですから、みすみすとその手を、自ら離してしまい、罪のなかに陥ってしまわないように祈りたいと願います。
私たちの神は聖なる神さまです。聖さの中に聖霊さまは働きます。ですからみなさんが自分を神さまに照らして頂きたいと思います。あなたは聖さを持っていますか?聖められれば聖められるほど、素晴らしい祝福を神さまが私達に下さいます。聖霊さまは私たちにミラクルの力を表わしてくださいます。しかし罪、けがれがあれば絶対に神さまは働くことはできません。「祝福を頂きたい」と必死に祈り求めても、求める自分の手のなかに罪を持ったままならば、その必死の祈りは答えられないと思います。イエスさまはまもなく帰ってこられます。マルコ十三章三十三節〜三十七節を読んでみたいと思います。

「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」

ここでも、「目をさましていなさい」と、何回も出ています。今私たちに主が任してくださっている使命は「福音宣教」「リバイバル」です。この暗い世の中に「あなたの名は祝福」と誰よりもあなたを選んで救いに導いて下さいました。「今、あなたの人生を私のために、働きなさい」と、主があなたを体の一部分として、ある仕事を任して下さっています。そのイエス・キリストはいつ帰ってくるか分かりません。いつ帰ってもいいように、私達は目をさましていなければなりません。そのために必要なのは聖さです。最初に読んでいただいたエペソ五章の、三節〜七節を読んでみたいと思います。

「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。」
 
今日、“仲間”になっている人はいらっしゃいませんか?「聖徒にふさわしく」これは、クリスチャンとしてふさわしい生活、「不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。」と書いてあります。私たちは、罪を持ったまま何とも思わないで生活していませんか?私たちの口は、言いたい放題べらべらと喋って、楽しく会話しています。しかし主はしっかりと見ていて、それに対する裁きがあることを覚えて下さい。ヤコブの手紙は、クリスチャンにあてた手紙だと言われています。是非家に帰られてから、ゆっくりヤコブの手紙を読んで見て下さい。ヤコブ二章一節にはこういうみことばがあります。

「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」

とあります。このみことばから私たちイエス・キリストを信じるクリスチャンは、人をえこひいきしてはならないと書かれてあります。そして九節に

「しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。」

人をどのようにはかっていますか?今は読みませんでしたが二節から読んで頂くと「会堂に立派な金持ちの人が入ってきた。その時「どうぞいちばんいい所にお座り下さい」そして、貧しい立場の人が入ってきた時に「私の近くにすわっていなさい」とあります。えこひいきしたならば、罪を犯していると言っています。
私は先週、とある施設に行きました。その施設にとてもお世話になってる二人の方が、私がいる間に来られました。一人の方は「ほんとにどうもお世話になります」と言って入って行きました。しかしもう一人の方は何の挨拶もせずと言うよりも、お世話になっているにもかかわらず、ふて腐れて入っていく姿を人を見て、私は「何という人だ」「何ていう態度だ…。もっと、『お世話になります』とか言って入っていけばいいのに」と、あとから来られた方をさばき、批判していました。そして家に帰ってすぐ聖書を読みました。それが「人をえこひいきしてはいけません」でした。「もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。」 とありました。私はそのみことばを読んだとき、ものすごくショックを受けました。いつも罪を悔い改めていたつもりでした。「聖められた」と思っていた自分が、聖餐式を頂き、祈祷会でも十字架の血潮を仰いで祈りって来ました。しかしまだまだ自分の心のなかに、そんな醜い面、自分が何様かのように裁いてしまっている。私は罪人だと教えられました。続いてヤコブ二章十四節〜十七節を読んでみたいと思います。

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときにあなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」
 
「えこひいきしてはならない」と書いてある後、行いがないものは死んでいるとあります。私たちは、自分の主人に対して、奥さんに対して、子どもに対して、親族に対して、同じ会社の同僚に対して、学校の生徒や先生に対して、また私たちの住む地域の人たちにたいして、その人たちをどのように測っていますか?聖書は「私たちが測るとおりに測られる」とあります。私たちが心のなかで思ったように、そのとおり測られるということを知って下さい。ヤコブは「行いがなかったらそれは死んだものだ」とあります。あなたの信仰は死んではいませんか?目が開いたまま寝ていた私のように、クリスチャンにもかかわらず、苦しんでいる人がいても、悩んでいる人がいても全く愛の行いができない自分。逆にそのように苦しんでいる人を裁き、その人を傷つけてしまっている。信仰が生きているようであっても死んでしまって、自分の信仰が死んでしまっているのに、眠っているのに気がつかない人がいます。
私はこの教会で子ども会を任せられております。その子どもたちに、善悪をしっかりと判断できる子どもになってほしいと思い、ほさなクラブという集会でみことばから話します。しかし今までなかなか話せないことがありました。それは、今は情報社会です。子どもたちでも簡単にインターネットなどで、エロチックな画像を見ることができます。またテレビでも、マンガでも、様々なところで子どもたちは情報を得ています。私は子どもたちのために祈りながら「やはり話さないといけない」と教えられました。今までは話す私のほうが恥ずかしくなり、あまり話せず「Hなこと」とか、「エロい事」と言う表現でしか子どもたちに話していました。しかし先ほども言いましたように子ども番組だと言ってもエロチックな漫画を堂々と放映しています。親たちが会社や家事で忙しくしている間、見ているテレビでは男女間の汚れた場面が沢山出てきます。そして子どもたちは、私たちの時代より、もっと速い速度であたりまえのように知っています。ですから私は正直に、子どもたちにセックスのことに対しても「今、あなたたちはどう思っている?」とわっきり問うようにしました。また「罪に対してしっかりと立っていかなければいけない」としっかりと言うようにしました。私はもっと子ども達が「何ていう話をするんだ」と、恥ずかしそうな、また気持ち悪いとか、ショックを受けるのではと思いました。しかし、全然普通に聞いています。そして子どもたちに、目をつぶらせて、「インターネットやテレビ、マンガでセックスの事を見たりしたことのある人手をあげて」というと、子どもは正直です。ほとんどの子どもが手をあげていました。漫画やテレビなど、そういう汚れたものを頻繁に見ている子どもたち。このまま言ったらこの将来は“終り”だと思います。今も汚れ切っていますが、これからの時代はどんなになってしまうのだろうかと思います。今日子どもたちのためにもぜひ祈ってください。簡単に親に向かって「死ね」と言います。親を親と思っていません。そして汚い情報は溢れきっています。留まることがありません。本当に今私たちクリスチャンが、罪に対してどこに行っても、どんな状況でもしっかり向き合って、戦っていかなければいけません。あなたがはっきりと「私はクリスチャンです!」罪に対してしっかり「NO」と言う事ができるように、その暗闇に対していつでもどこでも戦って行く事を、しっかり覚えて実践していかなければ行けません。今日、イエスさまと十字架をもう一度考えて下さい。最高のこれ以上ない犠牲を払って下さって、イエス・キリストはあなたのために十字架にかかって下さいました。血潮を流して下さいました。今日ここに聖餐式のカップがあります。そこにはぶどうジュースが入っています。それは御霊によって十字架の血潮をあらわしています。絶対に軽く考えないで下さい。何も悔い改めないで杯を頂かないで下さい。聖書のなかのTコリント十一章二十七節〜二十八節にあるように

「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」

ふさわしくないまま食べると罪を犯すことになるのです。だから自分を吟味して食べ、飲みなさいと言われています。祝福を頂くためにどうしても聖さが必要です。目を覚まし、目を開けて悔い改め、はっきりと「NOはNO」と宣言し、罪に対して戦いのポーズを取り、
自分でとりなし戦うクリスチャンになりたいと思います。4軒しかない津具村の中からここまで神様が祝福してくださいました。その新城教会の流れを見る時に、この教会に「聖さ」を持ちなさいと語られ続けていました。ある面、聖さが律法的になりすぎてしまった部分もありますが、とにかく聖さが強調されてきました。
今は「霊的戦い」が語られています。自分の罪のために祝福を失ってしまいます。そして「その問題に悪しき力が働いているので祈って下さい。」と言われます。そして戦いの祈りをして勝利することができると思うでしょうか?私たちが眠っていて、罪を持ったまま、十字架と聖さをおろそかにして祝福を失います。基本中の基本である十字架を覚えましょう。今日悔い改めを徹底して行きたいと思います。ヤコブ4章に「神に近づきなさい。そうすれば神もあなたがたに近づいてくださいます」とあります。昔メッセージで語られたことでずが、私たちが神さまにスプーン一杯お返しすると、神さまはスコップ一杯で祝福を返してくれる、私たちがスコップ一杯で返せば一輪車で返してくれる。私たちが一輪車で返したら、今度はダンプカーで返して下さる、と言われたのを覚えています。神さまは、わたしたちに祝福を与えて下さいます。私たちに見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともない祝福を私達にくださるのです。「あなたの名は祝福」と呼ばれていて、祝福をもらえないのは、私たちの中に汚れがあるからです。
私はメガネをかけています。「見えにくいな」と思って、はずしてみるとレンズに汚れや指紋などがついています。あるいは度があってなくて見えづらい時があります。それを補正すると見えるようになります。「見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともない」祝福を神様から頂くことができるようになります。今日、聖餐を頂くときに十字架の血潮をあおぎましょう。
この教会に霊的戦いが始まった時、祈祷会で聖霊さまが圧倒的に働いてくださった時がありました。みんなが真剣に祈りました。その時参加者全員に悔い改めの霊が注がれて、泣いて長い間祈る時を体験しました。みんなが泣いて悔い改めたのです。霊的戦いをする前、悔い改めでした。聖さがなかったら絶対に働くことができない聖霊さまです。罪を握っていたら祝福がありません。
本物の祝福を頂くために私たちは聖さを頂きたいと思います。そしてもう一つは祈らずに寝ていてはいけません。マタイ二十六章四十節〜四十一節に、

「それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

とあります。これはイエス様が十字架にかかる寸前のゲッセマネの時です。「なんで祈れないのか、目を覚ませ」と言っておられます。私たちは一九九三年に行った全日本リバイバル甲子園ミッションの準備の時は良く祈りました。そして、エペソ六章十八節に、

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

しかしこのごろはひざまずいて祈ることが少なくなってきました。全日本リバイバル甲子園ミッションでは教会が分裂し、大変な時でした。そのためどうなってしまうかわからずに困惑し、祈らなくてはならない事態でした。しかし今はそこまでの問題もなく、教会が祈らなくなってしまいました。眠ってしまいました。再度目をさまして、聖霊さまの働きを求めて祈る教会にならなくてはいけないと思います。また逆に問題を持つと、その問題を見て恐れ、悩み、祈る気力がなくなり、自分で何とかしなくてはと、自分で動いてしまうのです。しかしみことばは

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます」

また、ヨハネ十四章二十七節には

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

「あなたの名は祝福です」この世が与えるのと違う平安、クリスチャンは祝福を頂くことができます。どんな問題の中にあっても勝利することができます。「見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともないもの」を頂くことができます。しかし私たちは現状を見てしまって心配してしまいます。自分に頼ってしまいます。自分の思いで一杯になります。眠ってしまっています。
 皆さんは旧約聖書の士師記に出てくるサムソンという人物をご存じでしょうか?彼は神からのたまものとして強力な力を頂いていました。彼にはデリラというペリシテ人から使わされた女性を愛して、ともに住むことになりました。そしてデリラはサムソンがなぜそんなに力があるのかを聞き出そうとしていました。「あなたはなぜそんなに力があるのか」とデリラに聞かれた時、「七本の新しい弓の弦で私を縛れば、私の力は無くなる」と言いました。しかし、敵が来た時にいとも簡単にそれを切ってしまい戦い、打ち勝ちました。また再びデリラが「なぜそんな嘘をついたのですか、教えて下さい」と願った時「新しい綱で私を縛るなら、私は無力になり、並みの人のようになるだろう」と言いました。しかしそれも嘘でした。その綱を簡単に断ち切って戦いに出かけて行きました。何回かやりとりをし、何度も何度も言い寄られて、とうとう本当の事である髪の毛を切ることを言ってしまいました。その所、士師記十六章二十節を読んでみましょう、

「彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう。」と言った。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。」

とあります。彼は眠り込んでいました。髪を切られても気づかないほど油断して、寝込んでいました。そして彼は主が自分から去られたことを知らなかったというのです。あなたは主がともにいますか?彼は油断して主が自分から去っていたことを知らなかったのです。彼は捕まえられ、目をえぐられて投獄されたとあります。特に異性問題は知らないうちに眠ってしまいます。油断させます。「上條実は、主が自分から去られた事を知らなかった」ということにならないように、聖さを持ち、祈り、主から目を離さずに、眠ることがない者となりましょう。再度Tコリント二章九節を読みます。

「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

「神を愛する者のために」というところに注目して下さい。あなたをイエスさまが、一方的に愛して下さいました。この上ない最高の犠牲を持って、十字架にかかって下さいました。イエスさまがここにいらっしゃいます。あなたが自ら手を出して「頂きます」と受け取れば、主はそこに祝福を与えて下さいます。しかし、聖霊さまは聖さのなかに働くことをぜひ覚えて下さい。今日あなたがほんとうの祝福を頂きたかったら、もう一度主に聞きましょう。目を覚ましましょう。起きあがりましょう。「見たことも、聞いたことも、心に思い浮かんだこともないもの」を主は備えて下さっています。「あなたの名は祝福です」この先週頂いたみことばが確実なものとなるように、罪を徹底的に悔い改めましょう。また、来年の五月に行われる「韓国リバイバルミッション」が祝福され、今までリバイバルのために開かれた扉が、さらに大きく開かれますように。そしてその事によって日本も祝福となるように、また教会が、自分自身が祝福されるようにお互いのために祈りましょう。霊的戦いに押し出して下さった主が、再度「聖められなさい、聖くなければ神をみることはできません」と教えて下さっています。目を覚ましましょう。最後にお祈りして終りにしたいと思います。祈る前に主の声を聞く機会にしたいと思います。日ごろ、主のみ声を聞かずに動いています。「あなたの名は祝福です」祝福を下さる神さまです。また今年のテーマのひとつのみことば「人手によらず祝福を下さる」という約束です。「眠っているよ、罪を持っている、死んでいるところがあるよ、手を離しなさい、起き上がりなさい」と、語って下さっているような気がします。
 少し黙祷をささげ、自分の生活、語っている言葉、思い、測っているはかりなどなど、全部主の前に点検していただきましょう。悔い改める事があればお祈りしましょう。「あなたの名前は祝福です」これがあなたのみことばとなります。


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