「今日は恐れから解放される日です!」


2008.12.7(SUN)
新城教会牧師 滝元 順

新約聖書 ルカの福音書 2章8節〜11節
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 ハレルヤ!今朝は、ロンブラウンさん率いるバンドの素晴らしい賛美と演奏を聴くことができ感謝します。今夜は、もっと素晴らしいコンサートになりますので、ぜひお集まり頂きたいと思います。
 主は素晴らしい賜物をロンブラウンさんはじめ、チームの方々に与えておられます。神を心から礼拝する賛美を通して、私達も心満たされ、主の素晴らしさを体験できますことを、心から感謝します。

 早いもので十二月になり、一年、あっという間に終わってしまいました。終わってしまったと言っても、まだ何日も残っていますが。巷では、新しいカレンダーが配られ、新しい年もうすぐやってくることを感じさせます。皆さんは、どんな一年をお過ごしになったでしょうか。

 ある子供がカレンダーを買いに店に行ったそうです。すると店員が、「坊や、どんなカレンダーが欲しいの?」と聞きました。すると、男の子は答えました。「なるべく休みの日が多いカレンダーが欲しい」と。
 新しいカレンダーを見ますと、休みの日が書き込まれているわけですが、休みの日が多いカレンダーが欲しいと言ったみたいです。私達は、毎週、日曜日に集まって、肉体だけでなく、心も霊も休むことができます。

 十二月に入りましたので、クリスマスメッセージを語りたいと思います。今日の箇所は、イエス様のお生まれの知らせが、初めて人類に告げられた瞬間を記したものです。新改訳の第二版と三版では、少し訳し方が違うのですが、三版で読ませていただきます。

『さてこの土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら、羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光がまわりを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いが彼らに言った。「恐れることはありません。今私は、この民全体のための素晴らしい喜びを知らせにきたのです。今日、ダビデの町であなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。」』

 これが、イエス様のご降誕が、実際に人類に知らせた瞬間の場面です。イエス様誕生の知らせは、誰に初め告げられたのでしょうか。それは羊飼い達でした。
 イスラエルに行くと、羊飼い達がどんな人たちであるのかを見ることができます。それは、ベドウィンと呼ばれる遊牧民であり、国籍も定かでないような人たちです。最も先行きが不安定な人たちに、イエス様の誕生が最初に告げられました。それも彼らが野宿で夜番をしている最中に、知らせが届きました。
 これは何を意味しているのでしょうか。それは、神様は、何か特殊な宗教的雰囲気の溢れる場所だとか、修行の最中だとか、一生懸命祈っている中にのみ、訪れるのではなく、「生活のただ中」に訪れてくださるということです。私達の普段の生活のただ中に訪れてくださる方だ、ということを教えています。
 日曜日に教会に来て、祈ったり賛美したりしているときに、主が訪れてくださるように思いがちですが、主は私達の生活のただ中に来られるのです。
 今週も、職場で仕事をしている最中に、学校において、また様々な営みの中で、主が訪れてくださるのです。

羊飼い達にどのようなことが告げられたのでしょうか。

「御使いは彼らに言った。恐れることはありません。今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせにきたのです。」

 神様の訪れが羊飼いの上に臨んだとき、彼らは「ひどく恐れた」とレポートされています。日ごろの生活のただ中で、神が直接介入されるわけですから、ひどく恐れるのも無理はありません。
 一九九二年の二月、私達は、スタッフ数人と共に、愛知県民の森の山の中で祈っていました。その日は、たった八人だけで、それも七日間連続祈祷会の最後の日でした。みんな疲れ気味で、あまり声も出ないような、元気のない祈祷会でした。
 しかし、そんな私達のただ中にも、主が訪れてくださいました。ここに、羊飼いたちがひどく恐れたとありますが、私達も、主が突然ただ中に訪れてくださったとき、ひどく恐れました。その時、私達は、日本のリバイバルを真剣に求めて祈ってましたので、主が訪れてくださったのなら、「ハレルヤー!感謝します!」と喜べばよかったのですが、それどころかむしろ、「祈祷会をやめて、ここから逃げるぞ!」と、みんなで祈祷会をやめて、教会まで逃げてきた経験があります。ですから、羊飼い達の気持ちが分かるような気がします。羊飼い達は、祈祷会中ではなく、まさに、日ごろの生活のただ中に主が来られたのですから、ひどく恐れたのは当然です。
 しかし、その時に告げられた知らせは、「素晴らしい喜びの知らせ」であったのです。

 今日、共に学びたいと思っていることは、タイトルにありましたように、「今日は恐れから解放される日です!」ということです。「恐れからの解放」というテーマで、学んでいきたいと思います。

 ここに、彼らは「ひどく恐れた」と記されています。そして、その後に、「素晴らしい喜びの知らせ」を受け取りました。この、ひどく恐れた、の「ひどく」という言葉は、ギリシア語では、「メガス」という言葉が使われています。
 このごろ、コンピューターの容量を示すのに、何メガバイトなどという言い方がなされますが、それと同じ、「メガ」です。これは、「超でかい」という意味です。この、ひどく恐れたというところの、「ひどく」は、「メガス」ですから、とてつもなく、「メガ級の恐れ」であったのです。
 また、素晴らしい喜びという、「素晴らしい」というところにも、同じ、「メガス」という言葉が使われています。これは、「超でかい喜び」という意味です。

 イエス様が、この地上に来てくださった目的は、三河弁で言いますと、「ドでかい恐怖から、ドでかい喜びに置き換えるために来てくださった」ということです。超でかい恐れを持っている人たちが、超でかい喜びに置き換えられる、そのために、イエスさまが、この地上に来てくださったと言えます。

 私は、外国に行く機会が多くありますが、行く度に、外国の方々と、日本人との違いに驚かされます。というのは、日本人は自分も含めて、他の国の人々と比べて、「恐れ」に縛られている感じがするからです。
 お隣の国、韓国に行きますと、見た目は同じ顔をしていますし、文化も似ています。しかし、日本人よりも韓国人のほうが、一般的にずっと明るい性格を持っています。日本人のように、細かいことにあまりくよくよしていないように見えます。日本人から見ると、とても陽気に生活しているように見えます。同じアジア人なのに、どうして、こんなにも違うのかと不思議に思います。中国に行ってみても、人々は明るいです。

 私は、今年の九月にブラジルへ行きましたが、ブラジルに行きますとさらに明るいです。また、アメリカに行っても、人々は明るく生活しています。私の友人で、ジョウという牧師がいますが、彼はいつになったら真面目になるのかと思うくらい、いつも冗談ばかり言っています。こういう人たちは、精神的な病気にはならないだろうなと思ったりします。

 けれども、日本人には、彼らにはない暗さがあることに気付かされます。やはり、その根底に、「恐れ」があるのではないかと思わされます。
 この頃、日本では、一つの問題が取り立たされるようになりました。それは、「振り込め詐欺」というものです。振り込め詐欺というのは、日本特有のものだそうです。昨年の振り込め詐欺の件数は、一万七千九百三十件で、被害総額が、二百五十一億円だと聞いています。最近、テレビでも、一日一億円相当の被害が出ているという報道がなされています。
 私は、そのことをブラジルで話しました。すると、彼らは、「そんなことはブラジルでは有り得ない」と言っていました。たとえ同じ内容の電話がかかってきたとしても、振り込む人は誰もいないだろう、むしろ、そんな電話がきたら、逆にお金を振り込んでもらうと言っていました。こんなにも違うものかと、驚きました。

 日本人は、振り込め詐欺に引っ掛かる国民性なのでしょうか。今月号の新城教会ニュースに、「詐欺にご用心」という記事を書きましたが、なかなか評判が良かったので、読んでみたいと思います。

  おじいさんが山にしばかりに行くと、白い鳥がワナにかかって苦しんでいました。
「ひどい事をするもんじゃ・・・」おじいさんはワナを外して逃がしてあげました。
 しかし、おじいさんは白い鳥の恩返しの話を知っていたので、家に帰ると早速、おばあさんと一緒にごちそうを用意し、奥の部屋にはたおり機まで準備して待っていました。

 するとその晩、予想通り家に美しい女性が現れ、「一晩泊めてください」と言いました。おじいさんは「そらきた!」とばかり、興奮しました。

 食事が終わると、美しい女性は、「奥の部屋は決してのぞかないで下さいね」と言い残し、部屋に入っていきました。それでおじいさんとおばあさんは、楽しみにしてずーっと待っていました。
 ところが、いつまでたってもはたおりの音がさっぱり聞こえてきません。おかしいな、と思って隙間から部屋の中を覗いてみると、なんと、昼間助けてやった白い鳥が寝っころがっているではありませんか!

 おじいさんは、「お前、俺に恩返しするんじゃないのか!!」と怒鳴りました。
 するとその鳥はこう答えました。

「私、サギですから。」

 このストーリーは、鶴の恩返しのストーリーを知っている日本人にしか分からない冗談です。今日は、海外からの方々も大勢おられますので、アメリカン・ジョークも一つ紹介したいと思います。

 「GMとトヨタが一台ずつ車を持ち寄って、燃費レースを行いました。結果はトヨタの圧勝でした。しかし、レース直後にトヨタが恐縮そうに、GMにレースのやり直しを申し出ました。GMさん、大変申し訳ございません。当方はサイドブレーキを引いたまま走行しておりました。」

 日本人には面白くない冗談かもしれません。いずれにせよ、日本人が振り込め詐欺などに引っ掛かりやすい原因は、日本人の心の奥底にある、「恐れ」が原因のように感じます。

 私達の心の中に、言いようもない不安があったり、恐れがあったりと、いつもビクビクして生活をしている故に、詐欺師たちはその恐れを利用して、お金を振り込ませるのではないかと思います。

 イエス様がこの世に来てくださったのは、いつもビクビクしている生活から、言いようもない、理由もよく分からない恐れから解放するためでした。

 私は、三週間ほど前、モンゴルという国に行きました。そこで多くの遊牧民たちを多く見かけました。丁度、イエス様の時代に生きていた羊飼い達も、彼らと同じでした。遊牧民とは、草があるところを見つけては移動を繰り返す人たちです。草が無い所では生活も成り立たず、明日の保証もない、常に、先行き不安な人々です。私も、実際にモンゴルの大地に立って、遊牧生活というのが、いかに不安が伴うかを感じることができました。平原に草が生えなければ、羊やヤギと共に、皆死んでしまうのです。本当に不安な生活でしょう。そんな、不安を抱いていた人々のただ中に、主が訪れてくださったとは、私達にとって大きな希望です。

 もしも、皆さんの中で、言いようもない恐れ、不安を抱いている方がおられたら、今日、イエス様の訪れによって、解放されると信じます。イエス様の訪れが、抱いているひどい恐れを素晴らしい喜びに変えて下さるのです。今日は解放されることを、心から願っています。

 旧約聖書、士師記を見ますと、一人の不安を持って隠れていた、男の話が記されています。このストーリーは、大きな恐れの中から、解放されて勇士となった男の話です。彼の名は「ギデオン」。彼は、政情不安定なイスラエルで、自分のことだけを考えて、大きな恐れの中に閉じ込められて生活していた人でした。しかし彼が、恐れから解放されたという記録を見ることができます。
 士師記六章七節〜十二節に、このように書かれています。

『イスラエル人がミデヤン人のために主に叫び求めたとき、主はイスラエル人にひとりの預言者を遣わした。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」』

 イスラエルの人たちは、四百年以上に渡り、エジプトの奴隷となっていたのですが、そこから引き出されて後、四十年間も荒野をさまよい、約束の地であるカナンの地に入りました。
 彼らが四十年間、なぜ、荒野をさまようはめとなったのか?それは、「荒野に一セントを落としたからだ」というジョークがありましたが、そうではありません。これは、神様に従わなかったために、四十年間も砂漠をさまよう結果となったのです。
 やっとのこと、カナンの地に入ったのですが、その後も、色々なことがあって、彼らは、力を失っていました。ギデオンという人物が生きていた時代も、政情が不安定な時期にありました。
 そんな中で、神はギデオンに言いました。士師記の六章十節に、

「それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

 このクリスマスの時期に、羊飼いたちに、天の軍勢が現れたとき、彼らは「ひどく恐れた」とありましたが、この体験を平たい言葉で言うならば、「霊体験」と言えるでしょう。
 普通の生活のただ中に、「霊体験」があったわけです。そんなことが起これば、誰でも、大きな恐れを抱くでしょう。
 案外、日本人の恐れの根元に、「霊的な恐れ」があることを、見ることができます。

 イスラエルの人々も、カナンの地に入ってから、「エモリ人の神々を恐れてはならない」と言われていたにも関わらず、偶像の神々である、「エモリ人の神々」を恐れていました。おそらく、何らかの霊的体験があったのではないかと推測されます。日本人が恐れる原因として考えられるのも、やはり霊的なものの場合があります。

 数週間前に、私は沖縄に行きました。沖縄には、ユタとかノロとか呼ばれる霊能者が多くいます。ある島は、霊能者とその家族しか住んでいないようなところも存在します。私もそこに行ったことがあります。

 一人のおばあさんが、ユッタリ、ユッタリ歩いていました。私が、そのおばあさんに「お仕事は何ですか?」と聞くと、「ユタ」と言いました(笑)

 霊能者ばかりが住んでいる島で、かつて、ユタ(霊能者)のトップであった家を訪問したことがあります。今は、家族皆がクリスチャンになり、そこで家庭集会が行われています。かつて、島一番の霊能者だったというおばあさんとお話すことができました。私は、彼女に、「なぜ霊能者になったのか」という質問をしました。すると、答えは、やはり生活のただ中に起きた霊体験がきっかけだったようです。
 その島には、沖縄を造った神様の奥さんが住んでいるという伝説があり、その神様を、島民あげて一生懸命拝んでいます。

 ある時、おばあさんと息子が、庭で涼んでいたそうです。庭には、ガジュマルという大きな木があり、おばあさんと息子はその木を眺めていました。
 すると突然、沖縄を造った神が住むといわれる山から、鬼が駆け下りてきたというのです。ふと見ると、その木の下に金の椅子が置いてあり、鬼が、そこに、ドンっと腰を下ろしたそうです。その光景を、おばあさんと息子が同時に見たというのです。
 その鬼は、二人を呼びつけて言いました。「俺はこの山に住んでいる鬼だ。お前達が俺をよく拝んだら神になってやるが、もしも拝みが足らなかったら、鬼になるぞ、覚えておけ!」と言って、一瞬で消えたのです。

 そんな霊体験があってからというもの、おばあさんは真剣にその山を拝むようになり、また同時に、先祖の霊を拝むようになったのだそうです。しかし、先祖の霊などというものは存在しません。人間は死んだら、神の管理下に移りますので、どこかにフワフワ浮いていることは有り得ません。とすると、「先祖の霊」と呼ばれるものは何なのでしょうか。それは、「先祖のふりをした悪霊」以外の何者でもありません。
 おばあさんは、それらを一生懸命拝むようになったのです。そうしているうちに、だんだんと霊感が芽生え始め、祭りの際には、色々な声が聞こえるようになったというのです。「さぁ、こっちにきて拝んでくれ」「こんどはこっちで拝んでおくれ」といったように、霊に指図されるようになったというのです。そんな体験があり、おばあさんは、霊能者として働くようになりました。
 おばあさんには、八人の子供が居たのですが、彼女が霊能者として働き始めるのと同時くらいに、じわじわと家族の中に問題が起こるようになったと言います。上から、長男、次男、三男と、男の子三人がみんな精神的な病になったというのです。症状は重く、三人とも病院に入れられ、退院しても、家の中で包丁を振り回したりと、手が付けられない状況であったそうです。また、一番可愛がっていた娘は、自ら命を絶ってしまいました。
 おばあさんは、一生懸命、沖縄の神々に仕えていたのにも関わらず、家族の中には問題が絶えなかったのです。
 そんな中で、あるクリスチャンの人が家に来て、言ったそうです。「おばあさんは、霊能者として一生懸命働いてきたけれど、家には問題が絶えないでしょう。おばあさんが仕えている神様が、本当に神様なのか、一度確かめたほうがいいよ。おばあさんは、霊体験があって霊能者になったと言うけれど、初めに出てきたのは鬼だったでしょ。拝めば神になるけれど、そうでなかったら鬼になると言ったんですよね。よく考えてみて下さい、その存在は、元々鬼じゃないですか」と。

 この言葉で、おばあさんは、ハッと気がついたそうです。初めに出てきたのは確かに鬼であったこと、そして、聖書の神様が恐れを与える神様ではなくて、喜びに変えて下さる神様であり、とことん良い方であるということに目が開かれたのです。
 その時以来、おばあさんは、「神々の恐れ」というものから解放され、自由になってクリスチャンとして歩みはじめました。今でも、霊能者ばかりが住んでいるような島で、クリスチャンとして生活しています。そして、今では、家族全員がクリスチャンになり、かつては、壁一面が仏壇であったのを、全部取り壊し、棚を作り、そこに聖書や信仰書を並べ、かつての仏間が、今では、家庭集会の場所になっていました。このおばあさんは、まさしく、神々に脅されていたのです。

 私達がイエス・キリストを信じるときに、何から解放されるのでしょうか。神々に対する恐れから解放されるのです。
 日本の多くの人々が、神々に対する恐れを持っています。祖先崇拝を考えてみても、その目的は、先祖を慰めるというよりは、「拝まないと祟られる」という理由でやっている場合が多いものです。これは、神々に対する恐れ以外の何ものでもありません。
 また、この近所の祭りごとなどをみても、神々の祟りを恐れて行っているものがほとんどです。すべては、神々に対する恐れから発しています。

 イスラエルの人々も同様、神々に対する恐れをもっていました。しかし、本当の神様が現れて語られたことは、「エモリ人の神々を恐れてはならない」ということでした。
 ギデオンも神々への恐れに囚われていました。しかし、その恐れから解放され、勇士となったのです。

 私達日本人も、神々に対する恐れから解放されなければならないと感じます。イエス様を信じるならば、私達は神々に対する恐れから解放されます。
 イエス様はどのようなお方でしょうか。拝まなかったら鬼になるような方では決してありません。徹頭徹尾、良い方だと聖書は語っています。誤解してはなりません、聖書の神様は、光であって、その中に暗いところは何一つない神であり、とことん良いお方なのです。私達に対し、良いことを行って下さるのです。
 今日、私達一人一人も、神々の恐れから解放される必要があります。イエス・キリストを信じることは、この世の神々に対する恐れからの解放です。

 私達の心の中には、何かしら、いつも恐れがあります。そのことを突き詰めて考えるとき、その根底は、やはり、「死に対する恐れ」ではないかと感じます。人間はやがて死ななければなりません。今日、ここに三百人以上の方がおられますが、百年もしたら、おそらくここには誰一人居なくなるでしょう。誰しも、いつかはこの地上から出て行かなければなりません。死のことを考えるとき、私達は恐れます。死に対する恐れは、誰にでもあります。
 しかし、イエスさまがこの地上に来てくださったのは、死の恐怖からの解放であると聖書は教えています。ヘブル人への手紙二章十四節、十五節には、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

 私達クリスチャンは、死を恐れなくてもよいのです。なぜならば、私達にとって、肉体的生命力が尽きる日が、本当の死ではないからです。聖書を見ると、そのことが書いてあります。パウロという人物は、一度死んだ体験をしたようです。彼は、気付いたら第三の天である、天国に居たというのです。それは、肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか分からないと、彼は二度も述べています。

 私達の人生は、永遠の国、天国に続いていますから、死ぬことは決して恐ろしいことではありません。死んだ瞬間、どのようになるのでしょうか。
 「あれ、おかしいなぁ、私は天国に居るのに、肉体は地上にある、これはどういうことだろう…」と自分でも、判断がつかないのかもしれません。
 クリスチャンの人生は、肉体的な死で終わりではなく、連続して命の中に生きるのです。イエスキリストを信じる者には、永遠の命が約束されているのです。何と素晴らしいことでしょう。

 しかし、私達が、死の恐れを持っているということに関して、どこに原因があるのでしょうか。先ほどお読みしたところに、「悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」とありました。
 ここから死の恐怖とは、「悪魔の力が働いている結果だ」ということがわかります。元々、人間は神によって造られており、神を信じる者には永遠の命が与えられていますので、命は不連続ではなく連続です。ですから、死に対する恐怖心はないはずです。にもかかわらず、「死ぬのが怖い」というのは、どこに原因があるのでしょうか。
 それは、死の力を持つ、悪魔が働いているからだと聖書は語っています。今日、皆さんの心の中に、死に対する恐れがあったとしたら、死の恐怖から解放されたいと願います。

 日本では、一年に三万数千人が自殺するといわれます。それは、旧新城市が一年でなくなるくらいの計算です。元々人間は、一秒でも長く生きていきたいと願う動物にも関わらず、死にたくなって死んでしまうのは、背後で死の力を持つ悪魔が後押ししているのです。

 教会は、自殺の背後に働く悪魔に立ち向かわなければなりません。この年末も、真剣に祈る必要があります。秋が深まり、冬になると、人生を思い悩んで自殺する人々が後をたちません。これを、悪魔の力として、立ち向かわなければならないのです。イエス様が、この地上に誕生して下さったクリスマスとは、一生涯、死の恐怖の奴隷、すなわち、悪魔の奴隷となっている人々を、解放するためでした。

 イエス・キリストの誕生とは、死の恐れからの解放であり、死の恐れというのは、ただ単なる考え方ではなくて、悪魔の働きです。聖書のメッセージは、神もおられますが、同時に、悪魔・悪霊どもが居ることを教えています。私達はこの地球に住んでいますが、何故、こんなにも、どんどん環境が悪くなり、経済が悪くなり、次から次へと問題が絶えないのか・・。この問いに対する本当の理由について知らなければ、クリスチャンであっても、いつも不安です。
 この問いの答えは何でしょうか。それは、これらの背後に、悪魔・悪霊どもが働いているのです。人類は、このことに気付かなければなりません。悪魔・悪霊どもこそが、人類共通の敵なのです。

 先日、面白い話を聞きました。今、世界中で戦争や民族紛争がありますが、これらが一瞬で終わる方法が一つあるというのです。瞬間的に、それらの戦いが無くなる方法があるのですが、皆さんは何だと思いますか。それは、「地球が宇宙人に攻められること」だそうです。地球が、宇宙人に攻められたら、イラクが何だとか、北朝鮮が何だとか、そんなものは関係なく、人類は皆手を繋いで、地球を侵略しようとするインベーダー(侵入者)に立ち向かうようになるというのです。
 それは何故でしょうか。人類共通の敵が見えたからです。そうなれば、人類は心を一つにすることが可能だとのことです。これは、真理をついていると思います。

 では、人類共通の敵とは誰でしょうか。それは、死の力を持つ、悪魔とその一味、悪霊どもです。

 イエス様がこの地上に来たとき、何をされたのでしょうか。様々な問題の背後に、人類の敵である悪魔が存在するということを、はっきりと見せてくださいました。そして、イエス様の十字架と復活は、「一生涯、死の恐怖につながれて、悪魔の奴隷となっている人々を解放するため」であったのです。イエスキリストを信じるならば、人類共通の敵である悪魔に打ち勝つことができるのです。ゆえに、私達は、恐れから解放されるのです。クリスマスには、そのような「死の力からの解放」という意味があります。
 ゼパニア書三章十四節〜十七節に、こんな素晴らしい言葉があります。

『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』

 この言葉を是非とも、「自分に語られている言葉」として、受け取っていただきたいと思います。「主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。」
 これを、自分に語られた言葉として、受け取りましょう。私達のただ中に、主がおられ、私達に対する宣告を取り除き、敵を追い払われたのです。私達に対して突きつけられていた、死の宣告書が取り除かれ、死の力を持つ悪魔と悪霊どもが追い払われたのです。主が、私達と共におられます。そして、あなたは勇士となりなさい、恐れず、気力を失ってはいけませんと言われます。
 実に、イエス・キリストがお生まれになったのは、私達に対する宣告を取り除き、敵が追い払われるためであったのです。

 最初にお話しましたように、日本人というのは、他の国々と比べて、言いようもない暗さ、恐れを抱えている国民のように見えます。これは、何だろうかと私はいつも考えていました。何故、日本人の心には、恐れがあるのだろうと不思議に思っていました。

 人生で、悪い体験、恐ろしい体験があると、その後もずっと影響され、恐れ続けるものです。私は、小学校二年生の時に、桜ぶちの加藤ボート屋の前で溺れたことがあります。泳げるつもりで行ったのですが、溺れて、大変な目に遭いました。それからしばらくは、その場所に行くだけで、足がすくみ、水を見るだけで、怖くなったという体験があります。このように、一つの体験が、人生を束縛していくものです。

 「日本人」という枠組みで考えると、日本人が今のような国民性になったのには、何らかの体験が積み重った故だと言えるはずです。どこに原因があるかということについて、私は長いこと主に祈ってきました。そして、韓国リバイバルミッションの働きの中で、日本と韓国の間の壁を取り除かない限り、リバイバルが訪れないことに気づかされ、色々と調査し祈っている中で、歴史的にある時点から、日本に大きな恐れが入った事実について教えられました。その日以来、日本に一つの恐れが入りこんだのです。
 その時侵入した、恐れの力を打ち破る祈りをするように導かれています。これは私にとって、大きな収穫だと確信しています。

 それは、日本全体が国民的に恐れに縛られた事件をきっかけとしています。太平洋戦争の時、原子爆弾を投下されたりと、大きな恐怖があったことも事実ですが、それ以前に、日本列島を震撼させた事件がありました。
 それは何でしょうか。それが、先週お話しした、「元寇」と呼ばれる「モンゴル帝国の日本侵略」です。日本は、他国から直接攻められたという歴史がありません。日本が何らかのきっかけを作り、戦争になったということはありますが、日本が何もしていないときに、攻め込まれたことは、歴史上、この一回を除いてありません。それが十三世紀、モンゴル帝国によって攻められた事実です。
 案外、この事件はクローズアップされていませんが、一二七四年、「文永の役」と呼ばれていますが、二万六千人のモンゴル軍が日本に攻めてきました。先週もお話しましたように、モンゴルという国は、十三世紀においては、世界一大きな国、世界の超大国でした。そんな大国に、日本は侵略されそうになったのです。もしも、あの時、日本が攻め落とされて、モンゴル帝国の一部になっていたとしたら、日本の歴史は完全に違ったものになっていたでしょう。もしかしたら、私達は今日、ここに存在していないかもしれません。多くが相当変わっていたと思います。
 一二七四年の文永の役では、二万六千人ものモンゴル軍が攻めてきましたが、なんと一晩で全てが滅びてしまいました。それは台風が来て、彼らの船が沈没し、モンゴル軍は攻め込むことができなかったのです。
 しかし、そんなことがあってからというもの、日本全体が、恐怖のどん底に叩き落されました。なぜなら、まだまだ、モンゴル帝国には力があり、再度攻め込まれる危険性があったからです。
 モンゴル軍はその後、韓国の南にある済州島に大量の馬を持ち込み、それらを増やし、日本に攻め込む意欲に燃え、着々と準備をし始めました。日本から、その動きが見えますから、国全体がとてつもない恐怖に陥りました。いつ何時、モンゴルに攻め込まれるか分からない状況の中で、時の鎌倉幕府は何をしたのでしょうか。彼らは総力を挙げて、来るべき戦いに備えました。まずは、日本中に砦を作り、兵隊を配置しました。
 しかし、それと同時に、幕府は朝廷と協力して、もう一つのことを行いました。それは、総力を挙げ、偶像の神々に寄り頼んだのです。「異国調伏」と言って、仏教と神道の神々を総動員し、国民全体が、神々に悪しきとりなしの祈りを捧げたのです。その時代、日本中、どこにおいても護摩炊きの煙が立ち込め、神々を拝む鈴の音が鳴り止むことがなかったと記録されています。国民全体が、一日中、モンゴルに攻められないためにと、偶像礼拝をし続けたのです。
 そんな最中、一二八一年、「弘安の役」と呼ばれる事件が勃発しました。それは、モンゴルが、十五万人もの兵士を船に積んで、周到な準備をして九州に攻め込んできたからです。日本は、絶体絶命の危機に陥りました。

 しかし、なんと信じられないことに、その時にも、また台風がやって来て、十五万人の兵隊たちが一瞬にして、海の藻屑と消えたのです。
 それを見た日本人は言いました。「日本の神々の勝利だ!」と。そして、モンゴル軍を打ち滅ぼした台風のことを「神風」と呼びました。
 その後、「神風」は、世界中で有名な言葉となりました。なぜなら、「神風特攻隊」と言い、太平洋戦争では、命を捨てた若者達が多く居たからです。
 第二次世界大戦では、「神風が吹く」と言って、日本は戦争に出向いていきました。一方、戦争に行かなかった人たちが何をしたかと言えば、「敵国調伏」と叫んで、真剣に日本の神々に祈りを捧げ続けたのです。

 十三世紀、モンゴルに攻められ、国民的な恐怖を味わった体験が動機付けとなり、やがてそれが太平洋戦争に結びつきました。
 それを思うとき、とてつもない恐怖が、日本に入り込み、恐怖によって覆われたといえます。また、その恐怖心こそが、日本を偶像礼拝に向かわせたと言えます。

 私は、三週間前にモンゴルに行き、この事実に気付かされました。モンゴルと日本という関係でかつて侵入し、今なお日本の恐怖心の根底に座している悪しき力に立ち向かい、その契約が断ち切られるように祈らなければならないと思わされました。
 もしもそれが、日本人の心に座している恐れの源だとしたら、それに気付いて祈ったら解かれるはずです。

 日本人は、恐怖心が強いが故に、家を建てる時なども、完璧な霊的操作を施し、家の中に呪術を置きます。土地に関しては、地鎮祭を行い、家を建てる時には、御幣や、また多くの偶像を取り付けます。
 設計の段階でも「家相」という手法が用いられます。家相は、クリスチャンでなければ、どこでも取り入れられます。
 家相とは何でしょうか。それは、「鬼門」と呼ばれる方角から、鬼が入らないようにという考えを中心とする呪術です。家相では、北東の方角から鬼が入ってくると考えます。ですから、北東の方角である「鬼門」を塞ぎ、またその裏の方からも入ってくるとされるので、裏の方角である、南西に位置する場所にも「裏鬼門」を封じる呪術を置くのです。

 さて、この「家相」はどこから生じたのでしょうか。現代でも、多くの人が「家相」というもの信じていますが、この出所は「中国」です。
 中国で、かつて、北方の騎馬民族が、度々侵入し、人々を恐れさせました。そこで、騎馬民族侵入を防ぐため、北方に壁を造りました。それが、有名な「万里の長城」です。北東の方角からの侵入を防ぐために、秦の始皇帝によって造られました。それが、やがて、呪術化し、「家相」となったのです。

 現在、日本に北東の方角から、騎馬民族が進入してくるわけはありません。しかし、北東から敵が入ってくるという、中国で発したその考え方を基にして、家の北東に霊的城壁を築く、「家相」を取り入れているのです。

 十三世紀に、「騎馬民族」であるモンゴルの侵入により、恐怖が入った国が日本ですが、今も尚、騎馬民族に対する恐れを基礎に置き成立した呪術、「家相」で家を建てたらどうなるのでしょうか。「同じ恐れの力」が家庭を覆い、日本を覆うと言えないでしょうか。
 そんな環境の家に住んでいれば、私達は、知らないうちに言いようのない、恐れに捕えられるのかも知れません。このような背景があり、日本人は、理由もなく恐れるのかも知れません。

 これは、元を正せば、神々に対する恐れです。偶像の神々に対する恐れです。しかし、イエス・キリストを信じることは、歴史的にどんな恐怖体験があったとしても、そのメガ級の恐れを打ち破り、最も大きな喜びに変えてくださる、これが、イエス様の与えてくださる喜びです。

 今日、私達の中に、何か言いようもないような恐れがあるならば、それを解いていただこうではありませんか。今日は素晴らしい喜び、メガ級の喜びを頂きましょう。
 また今日は、歴史的に、日本に最初に入ってきた恐れについて話しましたが、これらの力が破られ、日本が自由になるようにお祈りしたいと思います。気がついたら、大きな恐れから解放されていた、ということ体験をしようではありませんか。

 最後に、「主があなたがたのただ中におられる」これこそが、恐れからの解放の最も中心的メッセージです。このクリスマスは、インマヌエル、「主はあなたがたと共におられる」ということの故に、恐れが打ち破られた日であることを、もう一度確認し、私達は主の前に出て、恐れから解放されたいと願います。

 私達の内側から恐れがなくなるように、また、日本を覆っている恐れの束縛が打ち砕かれるようにも祈りましょう。

 ハレルヤ、父なる神様、御名をあがめて感謝します。イエス様、あなたは、私達を恐れから解放するために、この地上に来てくださったことを、心から感謝します。今まで、メガ級の恐れがあったとしても、メガ級の喜びに変えて下さることを感謝します。今日は、私達の恐れを取り除いてください。そして、主が共におられるという喜びで満たしてくださいますよう、お願いします。
 今日は、一人一人の中の恐れを取り除いて下さい。そして、特に、国を覆っている、恐れの策略が打ち砕かれますように。その力が破られ、皆が自由になることができますように、お願いします。

●自分で、声に出して祈ってください。

 父なる神様。今、イエス様のお名前によって、祈りを捧げます。
私のために、イエス様が、この地上に、来てくださったことを、心から感謝します。
全ての恐れを、取り去ってください。
今、イエス様によって、全ての恐怖から、解放されることを信じます。
日本を覆っている恐れを、取り除いてください。
歴史の中で、侵入した恐れの力を、完全に、断ち切ります。
また、私の人生の中で、経験した、様々な恐怖体験で侵入した、敵の力を打ち砕いてください。
今日から、大きな喜びに変えてください。
イエス様が、私の人生に来て下さい。
イエス様が、この日本に、来てください。
日本の民を、喜びで満たして下さい。
イエス様のお生まれを、心から感謝して、御名によって祈ります。アーメン。

完全なる恐れからの解放を宣言します。
もう一度祈ります。

ハレルヤ父なる神様、御名をあがめて感謝します。今日は、私達を恐れから解放してくださる日であることを、心から感謝します。大きな恐れから、大きな喜びへと、変えて下さる日が、クリスマスであることを今日学びました。ここにおられる全ての方々を解放してください。死の恐怖から、解放してください。全員に永遠の命の希望を与えてくださいますように。私達に与えられた人生、喜んで、主に仕えていくことができますよう、お願いいたします。
 特に、この地上を支配している、神々の奴隷から解放して下さい。日本に働いている敵の力を打ち砕いて下さい。歴史的に侵入した恐れの根元について、話しましたが、歴史の中で、日本に侵入した恐怖をもたらす悪魔の力を打ち砕いてください。また、呪術的な力からも解放してください。私達は恐れる者ではないことを宣言します。皆の心の中から恐れが消えますように。恐れが消えますように。恐れがなくなりますように。
 また、今日は、色々な国々から来られていることを感謝します。それぞれの国にある、恐れの力を破ってください。恐れの力が打ち砕かれますように。背後で働いている力が完全に打ち負かされ、今日は皆が解放され、自由の日となりますように。
 心の中から、喜びだけが湧き上がってきますように。ゼパニア書の言葉と同じように、宣告が取り除かれ、主が共に居て下さることがはっきりと分かりますように。聖霊様、感謝します。あなたは大きな喜びと共に、私達のところに来て下さっていることを、感謝します。今日ここにおられるお一人お一人の上に、大きな喜びと平安を与えてくださいますように。勝利を持って、イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

大きな拍手をイエス様に捧げましょう。
ハレルヤー!


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