メリークリスマス
〜Praise the Lord!〜


2008.12.21(SUN)
新城教会牧師 滝元 順

新約聖書 ルカの福音書1章67〜75節
さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

ハレルヤ!メリークリスマス!お互い、お隣の方に、「メリークリスマス!」とご挨拶をいたしましょう。
 今日は、全国的に、クリスマス集会が行われていることと思います。この間、ラジオで「イエス・キリストというのは運のいい男だ、クリスマスに合わせて生まれちゃって。みんなで誕生日祝ってもらえるなんて…」と話していたそうですが、そうではありません。イエス様が生まれた日、それがクリスマスです。

近頃、百年に一度の経済危機と叫ばれ、クリスマス商戦における消費が伸びないとの報道がなされ、今の世の中見ますと、明るい要素を見出すことか困難のようです。
 この頃は、クリスマス集会でメッセージを語らせて頂く機会が多いのですが、私は皆さんにリラックスして頂こうと、ウケをねらって冗談から始めることがあります。年の瀬ですので、サラリーマン川柳などを紹介することが多いのですが、先週は、中高生の“レッツ・プレイズ”という集会で話したところ、全く通じず焦りました。二百人くらいの中高生が集まり、この会場がムンムンしておりましたが、そんな中でも福音を語らせていただき感謝でした。

サラリーマン川柳を少しご紹介したいとおもいます。
「この俺に、あったかいのは便座だけ」
本当に近頃は、暖かい場所を見つけるのが困難になり、社会に暖かい要素を見つけることが難しい時代です。
「前向きに、駐車場にも、励まされ」
みなさんも、こんな経験がおありでしょうか。
「宝くじ、馬鹿にしながら、根は本気」
 皆さんは宝くじを買われましたでしょうか。去年、私は、三枚買ってみました。気軽な気持ちで買いましたが、なんだか発表前の晩はソワソワしました。「本当に当たったらどうしよう…」と、やはり、少し期待してしまいました。
「ボーナス日、裏を返せば、返済日」
そんな人が多いかもしれません。
「たまったなぁ、お金じゃなくて体脂肪」
「メタボまで、二センチあるわと食べる妻」
年の瀬になると、同窓会の案内が届きますが、
「同窓会、行ってみれば、老人会」
「忘れぬよう、メモした紙を、また探す」
私も、こういったことが、この頃よくあります。
「体重計、踏む位置ちょっと変えてみる」
涙ぐましい努力です。

 母親が体重計に乗り、お腹を懸命に引っ込めて体重を測っていたそうです。娘が、「お母さん、お腹引っ込めてみたって、体重は変わらないよ」と言うと、お母さんはこう答えました。「お腹引っ込めないと、目盛りが見えないの!」

「御飯よー、と呼ばれていけば、タマだった」
「地球より、家庭にほしい、温暖化」
 人生はだんだんとさみしくなって、晩年を迎えていく様子を川柳からも見ることができます。

 ある老夫婦が、旅行に出かけたそうです。それも海外旅行に。飛行機に乗った途端、年をとった奥さんが叫びました。「あら大変、アイロンをつけっぱなしできちゃった!」
 すると、年取ったご主人は、慌てずこう言いました。「安心おし、大事には至らないよ、わしが浴槽の蛇口を閉め忘れたから。」

私もだんだんと年をとり、人生が着陸に向かっていることを感じます。しかし、イエス・キリストを信じる者達には希望があります。

近頃では、教会に来る方々の九割位が、人生に問題を抱え、涙ながらに来られることが多いものです。しかし、そのような方々に私はイエス様をご紹介します。そして、イエス様を、人生の中にお迎えすると、涙の人生が喜びの人生に変えられていきます。
この教会に初めて来られた方々は、口々にこうおっしゃいます「明るい教会ですね」と。
しかし、ここに今おられる方の九割が、「人生に重大な問題を抱えている人たちの集まり」だとしたら、どんなにか暗い集まりになることでしょう。けれども明るいと感じるならば、それはイエス様が生きておられる証拠です。

日本人は、一般的に、「神々」は信じますが、「創造主なる神」となると、信じることが難しくなるようです。「そんなこと考えたこともなかった」という人が多いのです。

日本の教育では、進化論を真理かのように教えます。学校教育の中で、「すべてが進化してきた」と教えられた生徒達は、卒業するころには、「世の中は全て、自然に、進化して出来たのだろう」と考えるようになります。
しかし、聖書の主張は違います。万物は、「進化ではなく、創造だ」と告げています。「神が全てを創造した」と語っています。

もしも、進化論が事実だとしたら、物質に偶然、何らかのエネルギーがかかり、それが、時間の経過と共に生命が生じた、というわけです。そこには、創造的なデザインも、計画も、目的もないわけです。あるのは、だらだらと長い時間の経過と、偶然のみということになります。
人間が進化したと考えるなら、人生も「突然変異」に頼るしかないことになります。問題を抱えている人がいたら、それが無くなるには、「突然変異」を期待するしかないわけです。しかし「突然変異」は、そう簡単には起こりません。

けれども創造主なる神様がおられたとしたらどうでしょうか。「創造」ですので、最初に「知的デザイン」が存在します。知的なデザインがあって、物質にエネルギーが加えられて、生命が誕生したということになります。
聖書を見ると神は「物質」を計画に従って整然と配列し、完全に構造が出来上がってから、人間にいのちの息を吹き込んだとあります。
最初に「知的デザイン」が存在するわけです。今日、ここにおられるお一人お一人には、神の知的なデザインが施されていますから、神の計画通りに生きるなら間違いはありません。

聖書は、「初めに、男を作って、その後に女を造った」と記しています。最近は遺伝子工学が発達して、そのことが本当であることが実証されています。男が最初に存在していない限り、女性は存在し得ないのです。
なぜなら、男の染色体は「XY」ですが、女性にはY染色体は存在せず「XX」だからです。
Xというのは、数学で「未知数」を意味します。Xが二つも付く女性は、男性にとっては未知数のように感じられるのも、そのためかもしれません。
聖書は、初めに男性が造られ、その後に女性が造られたと告げています。神様が知的なデザインと共に、創造されたのです。私達は一人一人手作りで造られたのです。

イギリスの有名な天文学者である、フレッド・ホイルは、「人類の進化の確率は、ちょうど、クズ鉄置き場に襲ってきた竜巻によって、ジャンボ・ジェット機が出来上がるのと同じ確率である。進化によって地上に生命が発生する確率は、まさにこのようで、地上で生命は進化し誕生し得ない、他の天体に二百億年のうちに生命が誕生する確率はゼロである」と語りました。
人類は、「進化」でなく「創造」なのです。聖書のメッセージは、「私達を造ってくださった神様がおられる」というものです。

そんな難しい事を言わなくても、私は、みかんを一つ食べるだけで、創造主なる神がおられることを認識します。今日は、ここにみかんを一つ持ってまいりました。これを食べるだけで本当に、神の臨在を感じます。
では、このみかんを剥いてもらいましょう。まずは、このように、子供の手でも十分むけるようになっています。剥いたものを、そのまま口に入れようと思っても大きすぎて、なかなか大変です。しかし、みかんには切り込みが入っており、「さぁ、お食べ」と言わんばかりの一口サイズにカットされています。
誰がこのように切り込みを入れたのでしょうか。お百姓さんが、切り込みを入れたとは考えにくいです。三ケ日に行けば、みかんが人口の何百倍、何千倍もありますから、切り込みを入れるのは至難の業です。
誰があのように、みかんを造ったのでしょうか。これは神です。人間が食べやすいように、神が創造してくださったのです。このように、みかんひとつをとっても、「創造主なる神様がおられる」と感じるのです。

みかんでさえ、こんなにも精巧に、配慮に満ちて作られているなら、ましてや、人間に神の計画がないわけがありません。私達人間一人一人には、神の絶大な計画があることを、このクリスマス、知って頂きたいと思います。

全てを創造した大きな神様を知ろうと努力しても、そう簡単でありません。天地宇宙を造り、人間を造り、全てを支配されている、この大きな方を把握することは非常に難しいことです。
しかし、もしその神様が、人間の姿をとってこの地上に来て下さったとしたらどうでしょうか。人間である限り、どこの国の人々ともコミュニケーションがとれるわけですから、コミュニケーションがあれば、相手がどんな人か、理解し、知ることができるはずです。まさに、「神が人となって下さった日」それがクリスマスなのです。

イエス様がこの地上に生まれて下さったのは、「突然変異」ではありません。あらかじめ聖書の中に預言されていたことの成就です。
イエス様が誕生する七百年前に、イザヤという預言者によって一つの預言が成されました。イザヤ書の七章十四節。
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

何と、イエス様がお生まれになる七百年も前に、「処女が身ごもって男の子を産む」と預言されていたのです。この男の子というのが、イエス様です。両親がいて子供が生まれるのは自然ですが、なんと、処女が身ごもって子供を産む、これは一つのしるしだとイザヤは預言しました。罪のない方が、この地上に、一人の女性の胎を借りて生まれて下さいました。それがイエス・キリストです。

聖書という書物は、一冊のように見えますが、実は、六十六冊の本が一つにまとめられたものです。それぞれが書かれた時代背景も、書いた人たちも様々です。究極的には、神様が書かせた書物ですが、筆者は四十人にものぼります。それが、聖霊によって一冊にまとめられたのです。
聖書は、創世記から始まり、最終的に黙示録で終結します。書き終わるまでに経た時間は千数百年近くかかっています。二千年近くにも渡って、色々な人が、色々な地域で物事を記録し、一冊にまとめられ統一性があるというのは普通では、考えられないことです。

しかし、聖書は読むと分かるように、創世記から始まって、黙示録で終結するまとまりのある、一貫した壮大なドラマです。その壮大なドラマの中心にイエス・キリストが描かれています。

天地創造から始まり、アダムとエバが神によって創造されます。そして、人間が増え広がっていきますが、人間が罪を犯し、「ノアの洪水」が起きます。その後、洪水で生き残ったノアの子孫、セム、ハム、ヤペテの三名から、再び人類が広がっていくのです。
しかし、その途中で、「バベルの塔」という塔を人々が建て始めます。そこから人類は全世界に散らされてしまいます。散らされていく過程でひとりの人物が選ばれるのです。それがアブラハムです。
アブラハムが選ばれて、このアブラハムからヘブル人が生まれます。そしてイスラエルが出来、だんだんと固まってくると、ききんが起こり、彼らはエジプトに移住します。しかし彼らは、やがてエジプトで捕虜となってしまうのです。エジプトにおいて四百年間も捕虜として生活します。
しかし、神は、モーセという人物を通して、彼らを「出エジプト」されます。エジプトの奴隷から解放するのです。そして、その後、「カナンの地」に入ってイスラエル王国が建設されます。
しかし、人々は、また神のまえに罪を犯し、彼らはバビロンという国に七十年間も捕囚とされることになります。
けれども、神はもう一度解放して、自分の国に帰らせます。ここで、イエス・キリストが誕生するのです。

この壮大なドラマの中心人物はイエス様です。聖書は、「イエス様の誕生と生涯」にスポットライトがあたっているのです。
イエス様は、三十三年間、この地上で人生を送ってくださいました。そこで、多くの良いことを成したとあります。それは、悪霊を追い出し、病を癒し、苦しんでいる人たちを解放しました。
最後に、人類の罪の身代わりとなって、十字架にかかり、死んでくださったのです。しかし人間の罪の身代わりと同時に、それは、悪魔に対する勝利宣言でした。
その証拠として、イエス様は死んだだけではなく、死から復活してくださったのです。復活してくださったときに、イエス様は、『わたしは天においても、地においても、いっさいの権威を受け取った』と言われました。それから、その権威を弟子達に与え、続いて教会の時代が始まったのです。

今私達は、聖書の壮大な物語の中の、「教会の時代」に生きているのです。天地創造から始まり、今は、後半部分の「教会の時代」です。その中に私達は生きています。
あの、エルサレムから始まった宣教は、二千年という時間を経て、愛知県の片田舎の、こんな小さな町にも届いたのです。こうしてみると、イエス様の誕生が、世界中にいかに大きな影響力を与えたかを知ることができます。そして、今、私達は、神の計画の只中に生きているのです。

人間は、元々神によって造られた存在ですから、神の計画書どおりに生きていけば幸せに暮らすことができるのです。
しかし、神を離れるとき、神の良い計画が水の泡と消えてしまうのです。今の世界を見たらどうでしょうか。神から離れた多くの結果を見ることができます。連日報道される悲惨な事件や、不幸な出来事は、人類が神から離れた結果と言えます。

人間は、どの時代も、常に、何かしらの「回復」のために動いています。皆さんの職業も、なんらかの回復のために存在していると言えないでしょうか。学校の先生ならば、今日よりも明日、明日よりも明後日、明後日よりも明々後日と、子供達が、良い子に育つようにと教育します。
また、車の修理工場ならば、壊れた車が入ってきたら、修理してお客さんに返すのです。病院ならば、どうでしょう。患者さんが来たなら、症状を改善しようと最善の努力するわけです。

今日は、祈ってきた中野向くんも礼拝に出席していますが、死が迫っていた彼にも、手厚い看護のおかげで、また、皆さんのお祈りのおかげで生きています。

そのように、社会の機関は全て回復のために存在しているのです。全ての職業は、回復のために存在するといっても過言ではないでしょう。政治も経済も、回復のためにあるのです。国を良くしようと、日々努力しています。

先週、私は、あるクリスチャンの国会議員の方からの依頼で、彼のクリスマスパーティでメッセージを語る機会が与えられました。パーティには二百人以上の人たちが集まっておられました。私は初めての経験でしたので、内容についても、皆目検討がつかずに出かけてゆきました。そこには歴々とした方々が集っておられ、来賓として出席される方々のほとんどが、衆議院議員、参議院議員、または会社の社長さんなどでした。
挨拶となると、「今こそ、国を変える時だ!もう自民党政権では駄目だ!」などと叫び訴えるような雰囲気の集会でした。それは、クリスマス集会というより政治集会でした。
ある大会社の社長は「政治家の皆さん。この経済状態を何とかしてください!」と懇願する場面も見られました。このような状況の中でしたので、何を語ったらよいのだろうかと、少し心細さを覚えつつ、主に祈りました。前半は緊張感溢れる集会でしたが、私は、ある小話からメッセージを始めました。

「ある父親が、息子を将来、どのような職業に就かせればよいかを知りたいと思い、部屋に、一冊の聖書と、一個のリンゴと、一枚の一ドル札を置いて息子を閉じ込めました。戻ってきて、もしも聖書を読んでいたら牧師に、リンゴを食べていたら百姓に、お札を手にしていたら銀行家にしようと考えました。
さて、帰ってみると、息子は聖書を尻に敷き、札をポケットにしまい込み、リンゴを全部平らげてしまっていた。そこで、結局、その人は、息子を「政治家」に仕立てることにした。

この話をしたところ、出席者の方々は皆、大笑いしていました。こんな話から始めると皆さんは心を開かれたので、自由に福音を語らせていただくことができ感謝でした。
どの政党も、皆、国を良くしようと日々努力されています。それにも関わらず、国は、世界は、どんどん悪くなっています。

聖書によると、この世は最終的に。人類の力ではどうにもならないところまでいってしまうと預言しています。
今年一年を振り返ってみても、世界中で和平が叫ばれ、そのために努力してきましたが、世界平和は思うように進んでいないのが現実です。イラクでも、大きな犠牲が払われましたが、新たな問題が起こり、テロは後を絶えません。本当に、この世は、これから先、どのようになっていくのでしょうか。

聖書は、神から離れた人類は、最終的に悲惨な状態になると警告しています。
そうなると、最終的に何が起こるのでしょうか。人類の力ではどうにもならないのですから、神自ら、人類の歴史に直接介入し、歴史をストップさせる日が来るのです。それを「再臨」と呼びます。

イエス様は、二千年前にお生まれになり、三十三年間の生涯を終えて、天に帰られたとあります。
しかし、もう一度、イエス様がこの地上に帰ってこられるのです。神がおられるという前提に立てば、それはおとぎ話でも何でもなく、当然です。真実なのです。
先ほども触れたように、今私達は、教会の時代に生きているわけですが、この次に起こってくるのが、イエス様が帰ってこられるという「再臨」です。

皆さんは、それを信じるでしょうか。神自ら、人類の歴史にストップをかける瞬間が来るのです。その日は突然来ます。いつかというのは誰にも分かりません。今日かもしれないし、明日かもしれない、いや、千年後かもしれないのです。いつかは分かりませんが、確実に、イエス様は帰ってこられます。

私の小さい頃、両親は再臨の話をよくしてくれました。「いいか、イエス様をちゃんと信じていないと、再臨が来たときに残されるんだ」と聞かされ、こわかった思い出があります。
再臨で地上に残されたらどうしようかと、私はいつもビクビクしていました。というのは、自分の生活態度があまり良くなかったからです。
昔の通知表は、本人にとってプラスになることが記されている現代と違い、悪いことも遠慮なく伝えるものでした。私の小学校の頃の通知表には、いつも「要領よく立ち回る」と書かれていました。掃除の時など、私は要領よくすり抜ける術を身に付けていました。ですから心には、いつも罪意識があったのです。このままでは、天国行けないかもしれないという不安が常にありました。

ですから、イエス様が帰ってこられる再臨は、そんな私にとっては恐ろしいものでした。私は、再臨が来たかどうかを確かめるためのチェックポイントをいくつか用意していました。
学校から帰ってきて、誰も居ないときには、再臨が来たことを疑って、隣のクリスチャンホームの家を見に行きました。兄弟十二人が皆クリスチャンだったその家に行って、誰かが居れば、まだ再臨が来ていないか、もしくは、地上に残された仲間が居るということになります。お隣さんが、第一のチェックポイントでした。第一チェックポイントで確認できないと、次のチェックポイントに行きました。それが、岡本さんの家でした。当時の岡本家は、おじいちゃんを除いてクリスチャンでした。おじいちゃん以外の誰かが居れば安心でした。

ある日、私が、家に帰ると誰も居ませんでした。ちょっと不安になり、第一のチェックポイントに行きました。すると、12人兄弟が誰一人居ないではありませんか。その時は、背中に冷たいものが走ったのを今でもはっきり覚えています。
それで第二のチェックポイントである岡本さんの家に走りました。すると、その時に限って、クリスチャンではないおじいちゃんが「何か用か?」と言って出てきました。とてつもなく焦ったのを覚えています。その後、慌てふためいていると、皆がいて本当に胸をなで下ろしました。

神が、人類の歴史に直接介入され、ストップをかける日「再臨」がいつ来ても、私たちクリスチャンは心配ありません。瞬間的に神の国に入ることができると聖書は教えています。
イエス・キリストを、自分の救い主として受け入れているならば、必ず、再臨にあずかることができます。『心で信じて義と認められ、口で告白して救われる』と聖書にありますから、「イエス様は私の救い主です!」と、心から信じ、口で告白するならば、再臨の恵みにあずかるのです。
では、皆さんで共に宣言してみましょう。「イエス様は私の救い主です!」これを宣言できた人は、今週イエス様が帰ってこられても大丈夫です。

イエス様が帰って来らると、次には何が起こるのでしょう。その後、「千年王国」といって、神が千年に渡って地上の王となり、地を支配する時が来るのです。その時のことを聖書はこうしるしています。

黙示録の二十章一節〜三節
また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。

なんと、千年の間、悪魔、悪霊どもを縛り上げ、底知れぬところに落としてふたをしてしまうというのです。
このことが起こると、地上には何が起こるのでしょうか。『千年の終わるまでは、それらが諸国の民を惑わすことがない』とあります。
今の世の中は、色々な混乱がありますが、この混乱の原因は何でしょうか。それは、諸国の民を惑わしている、悪魔とその一味悪霊どもの仕業であるのです。
やがて、私達のところに、主が帰って来られ、主が完全に治める国ができるのです。そしてその後、新しい天と地が創造されると教えています。

聖書は、「天地創造」から始まっていますが、最終的な結論は、「新しい天と地の創造」で終わっています。とてつもなく壮大な物語です。
イザヤ書は、先ほども触れましたが、イエス様が生まれる七百年も前に記された書物です。そのイザヤ書六五章十七〜二十五節に、新しい創造についての預言がなされています。この預言は、イエス様のお生まれも含めて、永遠までを見越したとてつもない預言です。

イザヤ書六十五章十七〜二十五節
見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。

何とも素晴らしい預言ではないでしょうか。先週、聖書読んでいる中で、この御言葉を見つけました。

私は、この教会の主任牧師に、一九九九年十二月に任命されました。この教会は、父によって始められました。教会は、世襲ではありませんが、神が、私を選び任命して下さったと信じています。これからも皆様方に、心から仕えていきたいと願っていますので、宜しくお願いします。

一九九九年、父が七十歳になったことから、「お前がやれ」という感じで押し出されるようにして、主任牧師になりました。
一般的に、教会は二代目で滅びる傾向があります。ですので、多くの人がそう思っておられたのではないでしょうか。
「明先生の時代は良かったけれど、順先生になったら駄目だろうね」という声もあったことと思います。私自身も、そう思っていました。
しかし、一九九二年の二月に、聖霊様が私に訪れてくださって以来、大どんでん返しが起こったのです。私は、聖霊様に触れられて、全く変えられてしまいました。この教会に古くから来て下さっている皆さんが、よくこんなことをおっしゃいます。
「新城教会で色々な奇跡が起こったけれど、その中でも一番の奇跡は、順ちゃんが変わったことだよ」と。嬉しいような、悲しいような、何とも言えない不思議な気持ちですが、人は聖霊に触れられると、別人のように変えられます。

一年の世相を反映した漢字が今年も発表されました。今年の一字は、『変』だったようです。これは、変化の変です。人は変化します。オバマさんがアメリカの大統領になりましたが、「Yes, we can. We can change.」という言葉をキャンペーンで用いて有名になりました。

人は、聖霊によってのみ変えられます。主任牧師になった時、私は主の前に出て真剣に祈りました。
「神様、私には力がありません、どうか御言葉を下さい」そのように叫び祈ったときに、一つの御言葉が与えられました。それが、先ほどお読みした、イザヤ書六五章十七〜二十五節でした。
先週、聖書を読んでいたら、メモ書きを見つけ、鮮明に思い出しました。『あなたが主任牧師になることを境に、わたしは、新しいことをしよう』と、約束を下さったようです。この御言葉を読んで、もう一度、心から感謝しました。

イザヤ書六十五章二十三節には、

彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。

 何と素晴らしい約束ではないでしょうか。イエス様の誕生と共に、この御言葉が実現しました。やがて千年王国を経て、神の支配は完全に確立します。しかし、イエス様の誕生日、クリスマスの素晴らしさは、遠い未来のことのみにとどまらないところです。千年王国は、言うまでもなく素晴らしい世界です。
 しかし、イエス様の誕生の意味するところは、永遠の国で起こるであろう事柄を先取りできる、というところに素晴らしさがあるのです。
 先ほど、黙示録二十章で、サタンが縛り上げられ、底知れのところに落とされた時、国々を惑わすことがなくなったとありました。黙示録の二一章は、新しい天と地の創造の続きが記されています。

黙示録二一章一〜五節

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

このような時が来ると聖書は預言しています。クリスマスとは何でしょうか。クリスマスの本当の意味、それは、この黙示録の預言が時を待たずして、私たちの只中に実現した日なのです。

今日の主題の聖句は、「ザカリヤ賛歌」と呼ばれ、新約聖書の中に出てきています。しかしそれは、旧約時代最後の預言であり、新約時代最初の預言とされています。バプテスマのヨハネの父、ザカリヤが聖霊によって預言した言葉が、ルカの福音書に記されています。

ルカの福音書一章六十七節
さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

旧約の時代が終わり、イエス様の誕生と共に始まった新約の時代はどのような時代なのでしょうか。
やがて来るべき千年王国を待たずして、『われらの生涯の全ての日に、清く、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される』ことが実現した日なのです。

今年一年を振り返ってみるとき、多くの恐れがあったのではないでしょうか。また、これから迎える将来に対しても、恐れがあります。
しかし、イエス様が生まれてくださった目的は、ここに記されている通り、恐れからの解放でした。なんと、イエス様の誕生と共に、『私達の人生の全ての日に、清く、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される』ということでした。

黙示録の中にも、こう記されていました。『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』と。
イエス様の誕生と共に、この預言が実現したのです。その前提が、「敵の手からの解放」です。ザカリヤの預言の中でも、何度も繰り返し『この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである』と語られています。
イエス様がお生まれになった意味とは何でしょうか。それは、とりもなおさず「敵の手からの解放」でした。

ザカリヤ賛歌は、イスラエルがエジプトから脱出したという、「敵の手からの解放」を意識して語られているのですが、イエス様が誕生し、成してくださった業は、目に見えない敵から、私達を解放してくだったのです。見えない敵である、悪魔と悪霊どもから解放されるが故に、「全ての日の中にあって、清く、正しく、恐れなく、私達は生きることができる」のです。

私達の目の涙をすっかりと拭い去ってくださり、もはや、死が私達を支配することはなく、悲しみ、叫び、苦しみからも解放されるのです。以前のものが過ぎ去り、新しい天と地が創造される、これがイエス様のお生まれの中心にあると言えます。

クリスマスには深い意味があるのです。イエス様は、この世に、敵の手から私達を解放するために誕生してくださったのです。主を信じる者たちには、敵の力に打ち勝つ権威が与えられます。今日、これらの御言葉を自分のものとして受け取りたいと思います。救いの中心として、この解放を受け取りたいと願います。あなたに、涙があり、叫び苦しみがあるならば、そこには、敵の力が働いていることが考えられます。ですから、その力を破っていただかない限り、なかなか解放は訪れないのです。

一九九二年に、主がこの教会に訪れて下さいました。それと同時に、主は霊的戦いについて教えて下さるようになりました。その日以来、イエス様がどれほど力強い方であり、イエス様の御名の権威の偉大さを、はっきりと理解できるようになりました。
そして、イエス様がこの地上に生まれて下さった目的も良く理解できるようになりました。イエス様は、ただ私達に永遠の命を下さるだけでなく、同時に、この地上においては、敵の手から解放してくださる方であることを知りました。そして、イエス様の訪れとは、神の国の訪れでありました。

マタイの福音書十二章二十八節に、

しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

もしも皆さんが、悪魔の力から解放されたという体験をお持ちならば、神の国である、神の支配がすでに来ているのです。
やがて私達は、百パーセント神の支配に入ることを許されます。しかし、なんとその日を待たずして、この地上でも、神の国に生きることができるのです。それが、クリスマスを機に可能となったのです。今日、私達、主を信じる者が、その特権を頂いていることを覚えてください。

このクリスマス、もう一度、イエス様がこの地上にお生まれになった目的を認識し、ザカリヤが聖霊によって預言した、『われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される』という言葉を受け取りましょう。

また、この新城教会に主が語ってくださっている、イザヤ書六十五章十七〜二十五節『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。』

この言葉を受け取りましょう。これらを、皆さんに、主が直接語ってくださっている御言葉として、このクリスマスに是非、お受け取り頂きたいと願います。

『見よ、わたしはまことに新しい天と新しい地を創造する』と主は、あなたに語っておられます。『先のことは思い出されず、心にのぼることもない』これから、私達の上に起こってくる事柄は、この御言葉の実現であると信じます。二十三節から二十五節をもう一度、自分のこととして、お受け取り頂きたいです。

彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。

なんと素晴らしいことではないでしょうか。私達が、まだ主を呼ばないうちに答えてくださり、まだ語っていないうちに聞いてくださる、こんな恵が私たちには与えられているのです。それが、イエス様の誕生と共に、私達の中に実現したのです。これを、私達に語られた言葉として、受け取ろうではありませんか。

今年一年、私は、無駄に労してきたかもしれないと思っておられる方がおられるかもしれません、また、色々な問題で苦しんだという方がおられるかもしれません。
しかし、主は言われます。『まことに、わたしは、新しい天と新しい地をあなたに創造します』と。『もはや、今までの悪い体験は、思い出すことすらないほどに、あなたを回復します』と主はあなたに語っておられます。
そして、『あなたは無駄に労することはなく、あなたが呼ばないうちに、わたしは答え、語らないうちに、わたしは聞いています』と。
また、『敵があなたに害を加えることは決してありません』

これがクリスマスと共に始まったメッセージです。そして、今、教会に対して、主が語っておられるメッセージです。これらをしっかりと私達自身の言葉として、今、受け取りたいと願っています。一言、お祈りします。

ハレルヤ、天の父なる神様、御名をあがめて、心から感謝します。あなたの壮大な計画の中で、私達のところに、主が来て下さっていることを、心から感謝します。
あなたのお生まれを、心から感謝します。あなたが生まれてくださったことによって、私達は、今、あなたを礼拝できることを感謝します。この、日本の片田舎まで福音が伝わったことを、心から感謝します。
私達は今、教会の時代を力強く生きています。やがて、あなたが帰ってこられる日に、あなたと出会う日まで、私達は、この地上でがんばっていきます。聖霊さまの支えを心から感謝します。今を生きる私達に、素晴らしい恵みを与えて下さっていることを学びました。
どうか、今日は、一人一人の人生の中に、新しい天と新しい地を創造してくださいますように。私達の中には、沢山の祈りの課題もありますが、今日は、このイザヤ書の御言葉を宣言します。
『彼らが呼ばないうちにわたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く』と、私達の思いを越えて、主が祈りを聞いてくださいますように。
これから先、暗い世界が来ると言われますが、主を信じる私達たちには恐れがないことを心から感謝します。清く、正しく、恐れなく、私達の全ての日の中で、主に仕えることを許してくださったことを、心から感謝します。
今日も、私達を敵の手から救い出し、新しい権威と共に、ここに立たせて下さっていることをありがとうございます。この二〇〇八年のクリスマスは、今語った全ての御言葉の実現であることを、新城教会の上に、また一人一人に、また、その家族に親族に宣言します。
ここに来られた全ての方々に宣言します。この御言葉が、今日から実現していきますように。預言的な言葉として、主がこの言葉を一人一人の心に刻んで下さいますように。イエス様、あなたのご降誕を心からほめ称え、イエスキリストの名前によって、祈りをお捧げ致します。アーメン。

イエス様に大きな拍手をいたしましょう。
ハレルヤ!イエス様、あなたの誕生を心から感謝します!

 こんな素晴らしい神に仕えることができるのは、何と素晴らしいことでしょうか。また、この素晴らしいイエス様を、一人でも多くの人に伝えていこうではありませんか。今週は、十二月二十五日、クリスマス当日を迎えます。多くの方々が、クリスチャンや教会に目を向ける時です。是非、多くの人を教会にお誘い下さい。


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