選ばれし者


2008.12.28(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘

ヨハネの福音書15章16節
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。こうして、二〇〇八年最後の聖日にここに立ってメッセージできることを心から感謝します。今年も、あと残すところ三日となりました。皆さんにとって、今年はどんな一年でしたか。色んな問題があった方もおられるでしょうし、また喜びの一年であった方もおられると思います。
 我が家はというと、昨年の四月に私の母親が突然亡くなり、そして今年の四月には、家内の母が天に召されるという大きな出来事がありました。寂しい思いはありますが、私たちクリスチャンには、いつの日にかもう一度、天で会うことができるという希望がありますから感謝です。すでに多くの兄姉が天に帰られていますが、今この光景を喜んで見てくださっていると思います。地上に残されている私たちは、希望を持って、なお喜んで主に仕えていきたいと願っています。
 私自身は、一年間風邪をひくこともなく、肩が凝ることも、腰が痛むこともなく、元気で働くことができました。体の衰えは感じていますが、みなさんのお祈りによって守られ、支えられていることを心から感謝いたします。
 この十二月、新城教会では、ワーシップセレブレーションコンサートから始まり、部会別の様々なクリスマス集会がありました。一つ一つが祝福され、大きな収穫を得ることができ、また、皆さんも多くの恵みを頂くことができたと思います。
 コンサートには、プレイズ出版の業者関係の方々も大勢来てくださり、福音が届けられたことはとても感謝なことでした。先日行われたクリスマスフェスティバルでは食事会があり、私は「餃子作り」を頼まれました。頼まれると、性格上、やはりやりたくなるわけです。前日から準備をし(作っているところを見たら、食べたくなくなるかもしれませんが・・・)、全部で八五〇個ほどの餃子を作りました。ほかにもたくさんの中華料理が用意され、皆さんが美味しいと喜んでくださり、集会も祝福されたことを心から感謝します。

 今年最後の礼拝に与えられたのは次の御言葉です。『あなたがたが私を選んだのではありません。私があなたがたを選び、あなたがたを任命したのです』。ここから、「選ばれし者」というテーマで、私たち一人一人が、主に選ばれ、主のために存在していることを共に学んでいきたいと思います。

 聖書には、多くの預言者、王様、主の勇士の名が書かれています。皆さんもたくさんの名前を挙げることができると思いますが、一人か二人を挙げてくださいと言ったら、誰を思い浮かべますか。私は、旧約時代であればアブラハム、新約時代においてはパウロを思い浮かべます。彼らは、主に選ばれた素晴らしい者たちです。

『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。』(創世記十二章一〜四節)

 アブラハムは、七十五歳で主に呼び出され、その言葉に従ったことにより、その後、「信仰の父」・「神の友」と呼ばれたと聖書に記されています。マタイの福音書一章一節は、『アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図』と始まっており、アブラハムは、イエスさまの系図の筆頭に挙げられるほどの人物でした。

 パウロは、教会を迫害し、クリスチャンを弾圧し、一人でも多くのクリスチャンを投獄し捕らえること、これこそが己の使命であり正義だと思っていた人物でした。ところが、ある時、突然光を受けてイエスさまに出会い、命がけで主を宣べ伝える人と変えられました。百八十度人生が変わったのです。特に、彼は異邦人伝道に用いられ、その宣教の働きは、ヨーロッパ、アメリカ、そして日本にまで渡ってきたのです。彼の働きゆえに、今こうしてここにいる私たちにも福音が届いたと言っても過言ではありません。

 このように、アブラハムもパウロも偉大な人物でしたが、御言葉に、『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選びあなたがたを任命したのです』とあるように、彼らは神によって選ばれた者たちだったのです。また、ここにいるお一人一人も、神さまに選ばれた人なのです。

 皆さんの職場にクリスチャンが何人いるでしょうか。いたとしても一人か二人、学校でも、クラスの中で自分一人がクリスチャンといったケースは決して珍しくありません。皆さんが、神さまを信じてクリスチャンとなり、今ここにいることは、何か不思議な気がするかもしれません。しかし神さまの側から言うなら、それは、不思議なことでも偶然でもないのです。御言葉どおり、一人一人を神さまが選んでくださったということを、覚えていただきたいと思います。

 またもう一つ知っていただきたいのは、私たちが選ばれたのには、それなりの目的があるということです。ただ、むやみやたらに、無差別に、神さまは皆さんを選んだわけではありません。何らかの目的があり、理由があって皆さんが選ばれているのです。
 会社の採用試験を考えてみてください。今はどこも不景気で、職を得るのは大変です。会社側からすれば、少しでも良い人材、利益をもたらす人を採用するために、面接や筆記試験をして採用します。会社の利益を目的としているわけですから、神さまの選びとは基準が違いますが、私たちも神さまにとって役に立つ者、大切な者として、確かに一人一人選ばれているのです。

 旧約時代には、皆さんもよくご存じのモーセという素晴らしい人物が登場します。彼は八十歳の時に神さまからの命令を受けました。それは、「イスラエルの民が、エジプトで奴隷となり大変な苦労をしているから、お前が行って助け出しなさい」という命令でした。この言葉を受けた時、アブラハムは、『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは』と言い、「私はそんなことができる者ではないです、他にもふさわしい人がいくらでもいるではないですか。なにも私が行かなくても…。私は遠慮します」と、何度も断ったと思います。しかし彼は、生まれた時から、この任務に就かせるために神さまが選んだ器でした。
 彼はエジプトで生まれ、ヘブル人であるにもかかわらず、王宮で王子として育てられました。とても不思議な生い立ちです。そして、四十歳の時に一つの事件を通して彼は王宮から逃げ、その後、シナイ山のふもとのホレブで、四十年間、羊飼いとしてゆったりとした生活を送っていました。「これで自分の人生は静かに終わるのだろう」、そう思っていたと思います。しかし突然、神さまから「お前が行け」と声をかけられたのですから、彼でなくても、「なぜ私が…」と答えるでしょう。
 神さまとの押し問答の末、彼は神さまの命令に従ってエジプトに帰り、数々の奇跡をとおしてイスラエル人を奴隷から解放しました。このことは、あの王宮で育てられたからこそ、また四十年間の荒野での生活があったからこそ成し遂げられたことでした。まさに神さまの計画の中で彼が選ばれ、任務遂行のために訓練され、遣わされたということがわかります。

 ほかにも、箱船を造ったノア、エジプトで総理大臣になったヨセフ、そして、最初の王国をつくったダビデなど、神さまに選ばれた素晴らしい人物はたくさんいます。私は時々神さまはなぜ私を選ばれたのかと不思議に思います。しかし、それは偶然ではないのです。聖書に挙げられている有名な人たちと同様に、『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』の御言葉にあるように、私たちは神さまに愛されているからこそ選ばれてここにいるのです。「私一人くらいいなくても、どうってことないじゃないか」、「私一人いても、どうなるものでもないし」と思う方もいらっしゃるでしょう。しかし、それは大きな間違いです。どなたも神さまによって選ばれ、任務が与えられ、それぞれに違った役割が与えられているのです。

 先日、礼拝後、近頃教会に来られている何人かの中国人の方と一緒に食事をしました。私は全く中国語が話せませんが、一人の兄弟が流暢な中国語で通訳をしてくれ、とても楽しい交わりの時を持ちました。その兄弟に、「いやぁ、すごいね。英語だけでなく中国語もできて。私なんか、日本語以外は何もできませんよ」と話すと、その兄弟は、「いや、それほどでもありません。それより、私は中国の事情を色々知っていますが、中国人が教会に来て福音を聞くというのは本当に素晴らしいことであり、同時に大きな驚きです」と言っていました。また彼は、「僕は信仰も弱いし、教会の奉仕も何もできないけど、こうして中国人の方が教会に来ることになって、少しでもコミュニケーションがとれ、交わりができて、パズルのひとかけらになれたら、それだけで十分だと思って喜んでいます」と、目を輝かせて私に話をしてくれました。
 こんな会話をしているうちに、我が家の玄関に飾ってある一枚の絵のことが思い浮かびました。それは、ジクゾーパズルで、二〇〇〇ピースのかなり大きいパズルです。私はせっかちで、地道にパズルをやるような人間ではないし、やったとしても途中で投げ出してしまうような性格なのですが、これだけは家内と一緒にやり遂げました。というのも、私たちは、この会堂が建てられた二十八年前に結婚したのですが、家内の友達が結婚の祝いにと、このパズルを下さったのです。頂いた手前、放っておくわけにも、誰かにあげるわけにもいきません。そこで、一つの部屋にパズルを広げて取り組み始めたのです。二〇〇〇ピースを組み合わせるのは時間がかかり、とても大変な作業でした。今はとてもできませんが、そうしてみると、その頃はヒマだったのかなぁと思います。仕事を終えて、毎日少しずつ、また、誰かが来た時には一緒にやってもらったりして、二、三ヶ月かけてやっと終えたのです。
 しかし、このパズルの話にはちょっとしたおまけがあります。パズルが段々はめられ、あと一つというところまできた時、不思議なことに二ピースが残っていました。しかし、そのどちらも、色は似てはいましたが違っており、もちろん形も違っているのでどうしてもはまりませんでした。結論的には、そのパズルは不良品だったのです。つまり、一九九九ピースはきちんとあったのですが、最後の一つが不良品だったために、完全な絵にならなかったのです。しかし、空いているのはおかしいので、二つのパズルを適当に切り、目立たないようにはめ込んで、やっと完成させたのでした。
 空、海、山、城、色んな景色がつながっているわけですから、似たものはありますが、同じものは一つもないのです。全部のピースにそれぞれ持ち場があるのです。その一つは、「ここにもはまるし、そこにもはまる」といったものではありません。二〇〇〇ピースすべてが、ただ一つの場所にしかはまらないようにできているのです。これと同じように、私たちもちょうど、「キリストのパズル」の一つなのです。

 私は仕事で東京に行くことがよくあります。業者の方から、トヨタがすごく儲かっている時には、「いやぁ岡本さん、景気がいいでしょう。名古屋は儲かっているから。愛知の人にとって“トヨタサマサマ”ですよね」と言われていましたが、最近トヨタが不景気に落ち込んでいるので、「いや〜大変ですね。岡本さんのところも大変ですか」と言われます。東京の方にとっては、「愛知県=名古屋=トヨタ」と考えているようです。
 車は、三万個くらいの部品からできており、下請け会社によってそれらは製造されます。例えば、その下請け会社が車の部品を作る時に、「この部品を作っても儲からないし大変だし、ビスの一本や二本抜けていてもいいか…」と手を抜いたらどうなりますか。出来上がった車は、見た目には普通の車に見えるでしょう。しかし、ビスが抜けているために、何年か後には大きな事故に発展しないともかぎりません。三万個の一つ一つの部品が完璧に作られ、しっかりと組み合わさっているなら、安全な車として機能していくわけです。そして、車や電化製品は、同じものがたくさん作られるのです。
 しかし、私たち人間は製品ではありません。

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』(エペソ書の二章十節)

 横の人の顔を見たときに「私と同じ顔だ」と思う人は誰もいないはずです。皆、顔かたち、性格が違うのです。日本全国を見ても、そっくりさんはいても、全く同じ人はいません。私たちは、同じものが大量に作られる製品ではなく、一つ一つを手づくりされた「神の作品」なのです。

 人間の骨格は、約二百個くらいの骨で形成されていると言います。骨以外にも、肉や筋、脂など、様々なもので形づくられています。その中で、欠けてもいいものは何一つありません。
 聖書に次のような御言葉があります。

『確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見栄えのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(第一コリント 一二章十四〜二十七節)

 この御言葉を家に帰ってゆっくり読んでみてください。「教会」が「キリストの体」に例えられ、一人一人が組み合わさる時に教会が成り立っていく、ということがよくわかります。
 体には、見える部分と見えない部分があります。人から賞賛されるところもあれば、何の話題にものぼらないような部分もあります。しかし、それらの一つでも傷ついたら全体に痛みを感じ、それらが一つでも欠けたら不自由を感じ、一つのところが病んだなら、ついには死に至るような大きな病気になったりするのです。肉体は、すべての機能が正常に働いてこそ、快適に、自由に動くことができるようになっているのです。 
 私たちはキリストの体の各部分として、お互いを認め、しっかり組み合わさっていくことを神さまは願っておられます。

 次に、なぜ私たちが選ばれたのか、その存在価値について考えてみたいと思います。
 その一つは、私たちは神の家族の一員で、お互いに助け合うためにいるということです。今ここに、三百数十人います。また、昼からのインターナショナル集会には、百数十人が来られます。生まれた時から教会に来ている人、学生の時、また、成人してから救われた方もおられますが、救われた時期がいつであれ、国籍がどこであれ、私たちは一つの「神の家族」なのです。神さまが、この教会に必要だとして選び、導いてくださったのです。
 そして、恵みによって先に救われた私たちは、喜びを持っています。その喜びを、まだ救われていない家族のために分け与える者になっていかなくてはなりません。あなたは、家族や親族の中で、「代表選手」として選ばれたのです。放っておいても自分は天国に行くことができますが、自分だけが入れればいいのではありません。肉の家族が救われるように祈り、とりなすことがとても重要なことです。また、神の家族である教会の中で、誰かが病気になったら、祈り、サポートしてあげることも大切なことです。
 問題を抱え、どうにもならない時には教会にご相談ください。教会は、皆さんのニーズに力一杯応え、皆さんの生活が、楽しく祝福されたものになることを心から願っています。私たちは「神の家族」として、愛し合って前進していく、そのような教会でありたいと願っています。
 神の家族が、一人でも痛んでいるならば全体が痛みを感じるのです。皆さん一人一人が神の家族として、喜んで主に仕えていっていただきたいのです。皆が牧師をするわけではありません。皆がスタッフをするわけでもありません。「選ばれし者」がその選びにふさわしく、与えられた使命を全うしていく、これが私たちが選ばれた目的の一つです。

 もう一つ、この教会は、「霊的戦いの拠点」として選ばれ、一人一人が戦いの勇士として選ばれているということです。
 新城における霊的戦いは、一九九二年七月から始まりましたが、当初は本当に大変でした。すでに、翌年九三年の十一月に開催される甲子園ミッションに向けての働きがスタートしていて、プレイズ出版の働きも目まぐるしく変化し、私は夜遅くまで仕事をするような、忙しくてたまらない状況に陥っていました。それまで新城の片田舎で牧師をしながら、プレイズ出版で細々と印刷していた私の人生も一変しました。甲子園にも多い時には週三回くらい往復しました。電車を使うことも多かったのですが、疲れて寝てしまい、こだまで帰ってくる時、ふと目を開けたら豊橋を過ぎて浜松だったということもありました。
 そんな忙しい最中に、霊的戦いが始まりました。子どもたちも神さまから霊的な目を開いていただき、とりなしの祈りに出かけていくようになりました。私がこの会堂の隣にある印刷室で働いていると、「さあ、先生行くよ」と呼びに来るので、「私はいいから行ってきてくれ」と言うと、「いや、イエスさまは、信先生も連れて行けと言っている」と言うのです。そう言われたら、行かないわけにいきません。そういうわけで、私も、霊的戦いの祈りのため色々な所に行かせていただきました。
 ここに霊的戦いが起こされたというのも、神さまの摂理の中にあると私は思います。その昔、滝元明先生が東京に上京して後、郷里の津具村に戻り、伝道を開始してから五十数年がたっています。ここにこのように大きな教会がつくられることも、このような霊的戦いが起こされることも、当初は知るよしもなかったわけですが、神さまはすでにこの新城を選び、計画を進めておられたと思います。
 過去には、設楽が原の戦いという大きな戦いが起こり、多くの血が流され、今もおの怨念を鎮めるための祭りや行事が行われています。このような地だからこそ、霊的戦いの拠点として、神さまがこの地を、この新城教会を選んだのではないかと思います。「霊的戦いはよくわからない。あまり好きではない」という方も何人かおられるかもしれません。しかし、この戦いの中に、皆さんがすでに組み込まれ、大切な役割を担っていることを覚えてください。抜けたいと思ってもできないのです。士師記七章七節の中には、

『そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」』

という御言葉があります。ギデオンと共に戦う三百人の勇士が選ばれたストーリーです。ギデオンが戦う相手は大群でしたから、たったの三百人では、とても太刀打ちできるはずがありませんでした。しかし神さまは、その三百人によって圧倒的な勝利をギデオンに与えたことが士師記には記されています。
 皆さんは、「私にはできない」と思っているかもしれませんが、一人一人は弱くて、何もできない者であっても、神さまが勇士として選んで、この群に入れられているのですから、そのことを是非心に留めてください。そして、この戦いが皆さん一人一人にとって重要なものであることを覚えてください。

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』(エペソ人への手紙 六章十一〜十二節)

 この御言葉にあるように、毎日の日常生活そのものが、ある意味では、霊的な戦いなのです。日々の生活の中で、楽しい時もあれば、問題を感じる時もあります。しかし、立ち止まっていては負けてしまいます。突き進み、打ち勝っていくしかないのです。私たちが「主に選ばれし者」として歩んでいく、それこそ神さまが私たちに望んでおられることだと思います。

 そして、三つ目に、この教会は世界宣教のための一つの拠点とて選ばれ、そのための働きが皆さんに委ねられているということです。
 甲子園ミッション以前、全日本リバイバルミッションは日本リバイバルクルセードという名で活動をしていました。一九七〇年に「日本リバイバルクルセード」発足当時、私は中学生で、その時のことをよく覚えています。「先生たち、大きなことをやるなぁ」と思っていました。全国各地で伝道集会が開かれ、信徒・教職者のゼミナール毎年が行われていました。
 一九八九年に開かれたゼミナールで、下條末紀子先生が「甲子園球場で日本人による集会をしたい」と言われた言葉を明先生が受け取って、甲子園ミッションが開かれることになりました。それを契機に、名前を全日本リバイバルミッションと変え、その後、武道館での大会、スーパーミッション、ハワイミッションと続き、来年は韓国でミッションが行われることになっています。
 甲子園ミッション当時のことを思い出すと、本当に大変だったなぁと思います。
 三日間の集会でしたが、私は一番下にあった暗い「本部席」という、電話とモニターだけの閑散とした部屋に、ほとんど外に出ることなく電話対応に追われていました。しかし、三日目の夜、大勢の方が決心して前に進み出る様子を初めて見ました。そして、「有り難うございました」と帰っていく皆さんの顔が、本当に輝いていているのを目にしました。その時、「聖霊さまがここに働いてくださり、確かにこの人たちは主にお会いした」と強く感じ、疲れがすべて吹っ飛んだ思いがしました。
 前に、明先生に「いやぁ、兄弟もなぁ、わしが甲子園をさせたために髪が薄くなったのかなぁ」と言われたことがありますが、おそらくそうだと思います(笑)。あの時に、十年くらい寿命が縮まったのではないかと思うほどです。しかし私は、「呼ばれるうちが花だ」と思っていますので、これからも与えられた仕事を喜んでさせていただきたいと思っています。

 リバイバルミッションは、新城教会とは別の働きではありますが、同じ敷地内にあり、皆さんの祈り、皆さんの献金、皆さんの協力によって成り立っています。今まで、皆さんがそのように支えてくださったからこそ、今のリバイバルミッションがあります。
 来年は韓国ミッションです。皆さんが韓国に「行く、行かない」ということではなく、皆さんの働きの一部として、引き続き、是非共に祈っていただきたいと願います。
 これはだただ、全世界の宣教が前進することを願っての働きなのです。御言葉に、『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい』とあるように、私たちの教会は、その「世界宣教の使命」を負った教会であるということを覚えてください。そして、お祈りください。そして、その働きのために、皆さん一人一人が「ふさわしい者」として選び出されているのです。また、主は

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

とあるように、神さまは選ばれた私たちが「行って実を結ぶこと」を望んでおられます。もう一度、自分自身を主に捧げ、「主が私を選んでくださったことを心から感謝します」と、感謝の祈りをしましょう。また、反省すべきところは反省し、「主の選びにふさわしい働きをさせてください」と祈りましょう。不必要な人は誰もいないことをもう一度考え、受け取り、主の前に「再献身」の祈りをしていきたいと思います。共に祈りましょう。
 最後に皆さん、周りの方に、「あなたは神に選ばれています」と言って宣言してください。
 一言お祈りいたします。

 ハレルヤ! 主よ、心から感謝いたします。今日、ここに皆が集められて、この二〇〇八年の最後の聖日に、主を賛美し、主を褒め称えることができたことを心から感謝します。主が私たちを選んでくださり、私たちを愛してくださり、私たちに使命を与えてくださったことを心から感謝します。「主に選ばれし者」として、ここにいるお一人お一人が、この新城教会に導かれていることを感謝します。お一人お一人をさらに成長させてくださり、新しい油注ぎと新しい恵みを与えてください。また、喜んで主に仕えることができるように導いてください。主の御名によって、祝福してお祈りいたします。


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