2009年に向けてのメッセージ


2008.12.31(Sat)
新城教会 上條 実牧師
新城教会 四元雅也副牧師
新城教会 滝元 開副牧師
新城教会 岡本信弘牧師
新城教会 滝元 明牧師
新城教会 公畑フェルナンド副牧師

上條 実牧師

ハレルヤ!皆さんのお祈りに支えられ二〇〇八年が守られたことを感謝致します。特別私と家族のためにお祈り下さり感謝します。家族全員一年間守られました。確かに神さまから多くの恵みを頂いた一年でした。この一年間守られ、祝福されたことを心から神さまに栄光をお返しします。さて二〇〇九年に与えられたみことばをご紹介致します。それはマタイの福音書五章六節です。

『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』

昨年韓国リバイバルミッションの事で、何度か韓国に訪問させて頂きました。韓国に行くたびにこのみことばがいつも心の中で響いていました。それは二十数年前初めて韓国に出かけて行った時、ある先生が私のために祈って下さいました。そして「祈りの中で、このみことばをあなたに語りなさいと教えられましたので、お伝えします」と言って、私に下さったみことばです。

『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』

このみことばを聞いたとき、「やっぱり自分はまだ聖くないからな…」という思いで受け止めたのを覚えています。しかし韓国リバイバルミッションの働きが始まってから、このみことばが私の心から離れません。今までも多くの聖霊さまの働きを見せていただきました。しかし、この二〇〇九年は、更に「満ち足りる二〇〇九年になる」と主が語って下さったような気がします。
『義に飢え渇いている者は幸いです。』とあります。今年は私も、この新城教会も聖められることを求め祈っていきたいと思います。
一九九二年に、霊的戦いが始まりました。霊的戦いが始まった直後の、ある聖日の午後のことでした。その日はこの会堂で祈祷会を行ないました。私が司会をしましたが賛美をささげ、普段通り祈りをささげていた時、聖霊さまの突如としての訪れが参加者全員に現れました。聖霊さまが激しく臨み、あの時子どもからお年寄りまで、全ての人が膝まずき、涙を流して、悔い改めたことがあった事を思い出します。霊的戦いが始まり、この教会のために主が私たちに訪れて下さったことは「悔い改め」からだったことに気付かされます。今年はもう一度原点に立ち返り、聖さを求めましょう。その時満ち足りるというのです。それも「義に飢え渇いている者は幸いです」です。飢え渇きを持たなくてはいけません。もし水や食料が全くなかったらどんなに苦しいことでしょう。水や食料を求めて、どんな手段も選ばずに探し求めるでしょう。それと同じように聖さを求めていきましょう。そうすれば「その人は満ち足りるからです。」とあります。聖さを求めるとき祝福があります。二〇〇九年は聖さの中で祝福を頂きましょう。ではどんな祝福でしょうか?ルカ八章五〜八節に、有名な種まきの例えが記されています。特に、八節には、

『また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。』

イエスさまはその解き明かしが、八章十一節から十五節に書かれています。その十五節、

『しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです』。

二〇〇九年は、このみことば通り「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです」」聖さを持ってみことばをしっかり守る時、百倍の実を結ぶとあります。今年は聖さを持ち、百倍の収穫。生活の中で、また病い、問題、特別救いの中で、聖霊さまが力強く働いてくださり、聖霊さまの業に酔いしれるような年にさせて頂きたいと願います。 罪を持ち続けていて百倍の祝福を下さいと願うだけでは不十分です。例えば、我が家でも本当に小さな畑があります。一つの野菜を作る時、もし世界一品質の良い最高の苗を買って、畑に植えたとしても、そのままほかって手入れもしなかったら、実を結ぶかと思いきや、枯れてしまい、畑はひどい状態。草だらけになります。手入れが不十分だからです。雑草をとり、水をあげ、肥料をあげなくては、野菜は育たないのです。また肥料と一口で言っても、その苗に合った肥料を見つけなくてはなりません。このように、野菜に対して最善を施さないと良い実を結びません。最善を尽くせば立派な野菜が収穫できます。二〇〇九年は、実を結ぶために、この教会の一人一人が、聖められるように、罪と戦っていく時、収穫を頂けます。暗闇の力である悪霊は、更に私たちを罪の世界に導こうと、あの手この手を使って誘惑して来ます。二〇〇九年もみことばの剣をしっかり持って悪魔に、立ち向かっていかなくてはなりません。またもう一つ与えられたみことばをお伝えしたいと思います。それは第二コリント 六章十三節〜十八節です。

『私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたは、わたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』

まず「私は自分の子どもに対するように言います」とあります。自分の子どものようにあなたに伝えますということです。何を伝えたいかというと聖さを持てということです。このみことばをリビングバイブルで読むと第二コリント 六章十三〜十八節(リビングバイブル)

『今、実の子供に対するように、あなたがたに話しています。 どうか心を開いてください。 私たちの愛にこたえてください。主を愛していない者の仲間入りをしてはいけません。 神の民と罪の民との間に、いったいどんな共通点があるでしょう。 光と暗やみとが、どうして共存できるでしょう。キリスト様と悪魔との間に、なんの調和がありえましょう。 クリスチャンは、信じていない人と、どうして手をつなぐことができましょう。神の宮と偶像との間に、なんの一致があるでしょう。 あなたがたは神の宮であり、生ける神の住まいなのです。 神様はあなたがたについてこう言われました。 「わたしは彼らのうちに住み、その間を歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」それゆえ、主はこう言っておられます。 「彼らから立ち去り、縁を切れ。その汚れたものに触れてはならない。そうすれば、わたしはあなたがたを迎え入れ、あなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』

 主を愛していない者の仲間入りをしてはいけない。神の民と罪の民との間に、いったいどんな共通点があるか。また光と暗やみとが、どうして共存できるか。キリストさまと悪魔との間に、なんの調和があるのか。クリスチャンは、信じていない人と、どうして手をつなぐことができるか。神の宮と偶像との間に、なんの一致があるか。 そして彼らから立ち去り、縁を切れ。その汚れたものに触れてはならない。と強い口調で聖さを求めよと強い口調で語っています。はじめは自分の子どもに対するようにと言っていますが最後には、

『そうすれば、わたしはあなたがたを迎え入れ、あなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』

新改訳では十八節

『わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる』

聖さを持つとき神様は、実の子どもとなると語ってくれています。他人の子どもと自分の子どもでは大きな差があります。自分の子どもには、親の財産を受け取る権利があります。聖さを持つ時、本当の意味で神に受け入れられ「お前は私の息子だ、娘だ」と、全能の主が言って下さいます。全能とは、何でも、全て、不可能なことが何一つない神さまが、私たちに財産をすべて下さるのです。とにかく二〇〇九年は聖さを第一に求めましょう。その時満ち足りた祝福を頂くことができます。聖さは祝福の源です。一言お祈りします。

(祈り)
愛する主よ。私の中に語って下さった言葉を感謝します。「聖められること」、教会全体が聖さを頂くことができますように。聖さの中で戦うことができますように。そうすれば満ち足りることを心から感謝します。実の子どもとして、息子、娘として、全能の主が、百倍の祝福を下さる事を信じて感謝します。二〇〇九年はその通りになりますように。大収穫を見せて下さい。信じて感謝してお祈りします。アーメン。

四元 雅也副牧師
『深みにこぎ出し、網をおろして魚を捕りなさい。』

ルカの福音書 五章一節〜十一節
群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

「深みにこぎ出し、網をおろして魚を捕りなさい。」というこの言葉を、イエス様はシモン・ペテロに投げかけられました。最初シモンは、半信半疑で、あまり気乗りがしませんでした。しかし、彼が実際にそのことば通りに行動した時に、おびただしい魚を採ることができました。彼は、それを見て驚き、このことばを発せられたイエス様を信じました。そして、「深みにこぎ出し、網をおろして魚を捕りなさい」ということばは、その後のペテロの人生を象徴するかのような重要な意味合いを持つ御言葉となっていきました。
聖書の四福音書には、ペテロについての記述が三十回以上もあります。それらの記事は、ペテロの人間性、また性格の長短を随所に現しています。彼は、単純で考えるよりも行動が先に出るタイプの男です。それ故にイエス様に誉められることもあれば、一方でとがめられることもしばしばありました。彼は自信家である反面、不安定で、臆病な性格でした。そんなペテロの弱さが暴露された事柄も聖書に記されています。それは、イエス様が十字架に架かられる前夜、裁判にかけられているのを見ていたペテロが、周りの人々に「あんな男は知らない、私はあのイエスとは関係ない」と、イエス様を三度否認した、あの一件です。これは、四福音書全てに記されている重要な事実です。彼は、非常に大きな失態を犯したのです。
聖書中、ペテロほど、失敗を繰り返した使徒は他にいません。しかし、彼ほど、神様の恵みを受けたときに、大きな変化を遂げた人物もいません。また、彼ほど重要な場面で、神の器として用いられた者もいないと思います。十二使徒の中で、彼ほどに、神の恵みにより頼んだときに大きく用いられた人物はいません。マイナスであったものがプラスに大逆転というような事柄が、人生にこれほどまで頻繁に起こった人物は、聖書の中で彼ただ一人でしょう。単細胞で気性が激しく、早とちりで臆病な、シモン・ペテロでしたが、神様の一方的な恵みが彼を神の器へと引き上げ、彼を通して大きなリバイバルがもたらされたことを聖書の中で見ることができます。

そんなペテロが、聖書の中で、冒頭のみことば以外にもう一度、漁をしたことを記した箇所があります。それはヨハネの福音書二十一章です。彼は、イエス様を裏切ったという、自らが犯した背信の行為のゆえに自信を失っていました。イエス様の弟子としての志をも失った彼は、その立場を離れ、漁師に戻ろうとしていたのです。そして、ペテロと彼に同調した弟子たちは、ガリラヤ湖へ行き、一晩中網を投げ続けましが、漁獲はゼロでした。しかし、そこに十字架の死からよみがえったイエス様が現れて、あの最初の時と同じようにペテロに網を打つように指示をしました。その指示通り、右側に網をおろしたところ、一五三匹のおびただしい魚が捕れました。これを見た彼らは、それがイエス様だと分かりました。彼らが岸に上がると、今度はイエス様ご自身が彼らのために食事を用意して待っておられました。
そして、しばらくの会食の後、イエス様は、意気消沈したペテロに対し、あの有名な質問をされました。それが、二十一章の十七節に書かれています。

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

イエス様が、ペテロをもう一度立たせるために語られた言葉は「わたしの羊を飼いなさい」でした。ペテロは、この言葉通り、ペンテコステの激しい聖霊の注ぎを受けて、大使徒となり、世界で初めのキリスト教会のリーダーになりました。それまでの彼には考えられないほど大胆に、力のある働きをするようになったのです。まさに、最初にイエス様がペテロを動かした「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を捕りなさい。‥あなたを、人間を捕る漁師にする。」と仰せられた御言葉通りのことが、ペテロの身に実現したのです。
この後、十八節からのところを見ますと、イエス様がペテロの人生について、もう一つ重要な予言をされたのを見ることができます。

ヨハネ二十一章十八〜十九節
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

ここで、ペテロの死に方を通して、神の栄光が現されることが預言されています。これはいったい、どういう意味でしょうか。
ペテロは、一説によると、ローマにおいて、時の皇帝ネロのクリスチャン迫害の中で、壮絶な殉教の死を遂げたと伝えられます。ちなみに他の使徒たちも、ヨハネを除いてほとんどが殉教したと伝えられています。聖書の中の黙示録には、「死に至るまで忠実でありなさい」と書かれていますが、彼らは、まさしくそれを実行し、死ぬまで神の前に忠実に、真実に従い通したのです。
話は変わりますが、私が昨年、この場所に立って開いた御言葉は、ヨハネの福音書一章十六節でした。

ヨハネの福音書一章一六節
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

その時お話しした二〇〇八年に向けてのテーマは、「クリスチャン人生は、恵みの上に恵みが上乗せされる人生である」というものでした。
最近になって、私はここで書かれている「恵み」がどんなものかということを考えさせられています。そして、十八節にあるように、「自分の行きたくない場所」へ行き、「自分がしたくないことをする」ということであり、また一九節にあるように「死を通しても神の栄光を表す」つまり、死ぬまでイエス様につき従い通すことが、ある意味で「恵み」なのではないかと思うようになりました。
二〇〇八年は「恵みの上乗せ」というテーマに胸をふくらませてスタートしました。今振り返ってみると、確かに神様は様々な良いことを私の身の回りに現してくださいました。しかし、一方で「主よ、これは一体何事ですか!?」と思わず口にしてしまうような出来事も多くありました。六月末に起きた秋葉原無差別殺傷事件をきっかけに、各地で起きた同様な通り魔事件や、九月下旬にアメリカで起きた金融危機をきっかけに全世界に拡大した経済不況、地震、台風など自然災害による被害、テロ集団による襲撃など、心を差し向けて祈らされた出来事が、二〇〇八年は例年にも増して数多くあったのではないでしょうか。
そして、身近でも、特に七月二十五日の夜に始まった中野向君の病気は、教会全体を震撼させるような深刻な出来事でした。彼の意識が戻るまでの約五十日間は、なかなか光明が見えてこない長いトンネルの中を歩いているかのような不安が、教会全体を覆いました。この戦いの中で、いつか必ず出口が見えると心に言い聞かせながら祈る日々でした。その他にも、心を痛める様々な問題が教会にありました。
個人的にも、昨年のハワイミッション、そしてそれに続く韓国ミッションやその他の働きの中で、二〇〇八年は副牧師として、主に仕えるものとして、今までで一番責任と重圧を受け、そして自分自身の無力さ、ふがいなさを痛感する年でした。試練、苦しさを先に印象づけられ、とても恵みの上乗せと言えるようなものではないと、神様に文句を言いたくなるような心境で心が締め付けられるような時もありました。
そんな中、先日、滝元明先生のメッセージで、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」と語られたように、個人としても、教会としても、自らの信仰を反省し、真剣に主を求め祈る機会が多くありました。間違いを正し、悪魔との関係を断ち切るといった霊的な戦いの祈りが、様々な場面で、今までになく進んだのが二〇〇八年だったように思います。
そして今、その戦いの勝利が、現実的にも、向君を今日、この所に立たせたと信じます。今年勝ち取った勝利は、七月に新城教会を訪れた七〇名の韓国人兄姉との奇跡的な出会いと交わりに象徴されるように、様々な出来事に現れ、その他いろいろな出来事の中に主の御業として現されていきました。
この一年を思うとき、神様による「真の恵み」とは何かを考えさせられます。例えば、テレビでバラエティー番組を見ている時のように、悩みもストレスもなく、自分と周りのことを考え見つめ直すこともしない、浮かれたクリスチャン生活を送れたら、「恵まれている」と言い、また、安全で平和なクリスチャンライフを楽しめたら最高だと私達は考えるかもしれません。しかし、そうではないと私は教えられました。むしろ神様の恵みとは、多少の苦しみはあっても、そのことを通して神様により近づき、祈りの答えとしての神様の御手の業を間近で見、自分が、そして周りが変えられていくのを実感することこそ「恵み」であると感じています。気楽で気ままなクリスチャンライフより、その方が何倍もすばらしい「恵み」であると今年は学ばされました。
十月には、岡本泉ちゃんが単身で韓国へ行き、韓国ミッションが終わるまで現地で働くことになります。これは、彼女が安楽なクリスチャン生活を楽しむために選んだ道でもなければ、また、自分の願望を叶えるためでもなく、主の成し遂げる御業を間近で見たいがために、水をくむ僕として、孤独にも耐え、頑張っているのです。こうしてみると、彼女は一足先に「深みにこぎ出している」方なのかもしれません。

二〇〇九年は「深みにこぎ出して網をおろして魚を捕る」年になると信じます。二〇〇八年に受けた恵みを持って、さらに「深みに漕ぎ出す」そんな年です。「深み」とは、あなたが今まで一番行きたくないと思ってきた場所、見て見ぬふりをしていた場所、避けて通っていた場所、それがもしかしたら、「深み」なのかもしれません。今までだったら絶対に手を出さなかった場所、そこにこそ神様の「恵みの上乗せ」が待っていることを信じて下さい。神様の号令に聞き従い、そこにこぎ出し、網をおろすときに、必ず神様の素晴らしさを体験することができます。このことを信じ、共に前進してまいりましょう。

 

滝元 開副牧師

ルカ 一九章十節
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

感謝します。この二〇〇八年も、神様の大きな恵みの中で、こうして一年を終えることができ、本当に心から感謝しています。皆さんが背後でお祈りして下さったゆえに、一つ一つの働きが祝福され、主に導かれ、また、その祈りを携えて行ったその先で、みなさんの祈りの答えを見たような、そんな一年であったように思います。今年もざわめきの働きをさせていただいた中で、主のご栄光を仰ぐことができました。今年は多くの場所でチャーチライブをさせて頂き、色々な所に出向くことを主は許して下さいました。本当にイエス様がここにおられる、ここに主の御業がなされている、という現場に立ち会わせて頂くときに、背後で皆さんがお祈り下さったその祈りが、今ここに届いているのだという現実を見させていただきました。また、今年は、韓国ミッションのテーマソングがとても不思議な形で与えられました。「永遠の愛により」が与えられる前に、ミーティングが行われました。そこでは、韓国ミッションのためのテーマソングを「主の愛が今」にするという決定が成されました。テーマの御言葉として、エレミヤ書三一章三〜四節の癒しの御言葉が選ばれました。こうして、テーマとなる御言葉は提示されていたのですが、その時点では、韓国ミッションのための新しいテーマソングはまだ与えられておりませんでした。その日ミーティングを終え、家に帰りました。そして、その晩、家に居ると、エレミヤ書三十一章の言葉が「おとめイスラエルよ…♪」と、メロディーとなって心に巡っていたのです。とても大きな驚きでした。神様が与えて下さったことを確信し、その後、一週間もたたないうちにレコーディングさせて頂きました。今回は、ハングルでも歌わせて頂くという新しい御業がなされて、本当に心から感謝しました。一つ一つ感謝していくと、数え切れない感謝があります。中高生の働きをさせて頂く中にも、今年は神の御業を見せて頂きました。同時に、Mくんが倒れるという大きな試練もありました。しかし、Mくんのことを通し、中高生の彼らが「こんなに彼らが祈るのか…」と、見たこともない、驚くような姿を見せて頂きました。特に、Mくんの名前にちなんで、六時九分になると中高生の皆が真剣に祈り始めるのですが、初めて見た中高生の真剣な祈りの姿でした。Mくんが目覚めたのは、九月十日でした。その日はちょうど、ユースプレイヤーという、中高生の集まりがあったのですが、Mくんが倒れて以来、毎回のように、前の日にメールで受け取った「Mくん情報」を彼らに読んで聞かせ、Mくんの状況を知らせました。そして毎回「Mくんよ、ムクッと起き上がれ!」と、真剣に叫び求めて祈りました。そして、九月十日、いつものように集まり、Mくんのために叫んで祈りました。前日の九月九日の「Mくん情報」はこうでした。「彼のお父さんが彼の手を握り『分かったら握り返して』と耳元でささやいたところ、意識不明のはずのMくんが、ギュッと手を握り返した。」という情報でした。その報告をし、みんなで喜んでいたその最中、私の携帯がチリン・・・と鳴りました。見ると、それは「ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!」から始まった「Mくん情報」のメールでした。そこには、ついに彼が目を覚まし「おれ・・・どうなった・・・?」と、Mくんが声を発したということが報告されていました。それを聞くやいなや、そこに居た中高生皆、拍手喝采となり、あの時の感動を忘れることができません。神様が、大きな戦いの中で勝利を与えて下さり、今日はCRPが一.五まで下がったMくんがここに居ます。本当に心から感謝します。教会の大きな戦いの中の一つでありましたが、中高生にとっても、ひとつの大きな祈りの勝利を体験するという導きにあずかれたことを心から感謝しています。それから、今年は、家内と二人で、五カ所の刑務所や少年院で奉仕させて頂きました。この働きの中でも、本当に、皆さんの祈りの結果を見させて頂きました。三月に一つのある刑務所に行き奉仕させて頂きました。終わった後、所長さんと話をし、なかなか刑務所の扉は固いという話をしました。私が、「なかなかたたいても開かれるものではないですね」と言うと、所長さんが「固いのではなくて、職員が怠惰なだけですよ」とおっしゃいました。「私の名前は開(ひらく)というのですが。」と言うと、それを聞いた所長さんは「開なら、開かれますよ、信じなさい」と、何とも素晴らしい発言をされました。それは、予言的な言葉のようにも聞こえました。それ以来、今まで開かなかった扉が開き始め、今年は、初めて少年院にも行くことができました。そこでは、主が働かれた瞬間を見ました。あまり大きな所ではなかったのですが、そこには、およそ六五名の少年達が収容されていました。時間がタイトな中でセッティングをし、リハーサルして、本番へと続く忙しいスケジュールでした。とても急いでいたので、リハーサルも、ほんの少しだけの時間しかありませんでした。一曲の半分を、三曲分くらい歌いました。その短いリハーサル中、一人、少し年配の方が入ってこられて、深々と頭をさげられました。所長さんだと思いましたので、早々に歌を切り上げてご挨拶しました。思った通り、彼は、その施設の所長さんでした。そして、いよいよ少年達が入場し、クリスマス会が始まりました。開会の挨拶において所長さんが出て来られ、開口一番、「今日、私はリハーサルを聞かせて頂いて、大変感動しております。心が綺麗になり、安らかな気持ちになった気持ちです。今日はみんなもこれを受け取って帰ることを願います」と切々を語り出したのです。本当にほんの短いリハーサル時間で歌ったその瞬間の中での出来事でした。聖霊様の働きというのは、一滴のしずくがポトッと落ちるような、そんな瞬間的働きだと思いました。ポトッと落ちた瞬間に、心が一瞬にして全く変えられるのを目撃しました。イエス様は、祈りの答えをどこで与えて下さるか分かりません。また聖霊様が、どこで何をして下さるのか、私達には分かりません。しかし、主がその一滴を落とされる瞬間があることを覚え、その一滴一滴を携えて進んでいかなくてはと思わされています。

二〇〇九年に向けて私が与えられた御言葉を紹介したいと思います。 ルカ十九章十節です。

『人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』

イエス様が来てくださったその目的は、失われた人を探して救うために来て下さいました。ただ救うためだけではなくて、わざわざ探して下さったのです。ここでは、エリコの町にザアカイを探し、訪ねてこられました。イエス様は全てのことをご存じです。ですから、その町にはザアカイが居て、その日はザアカイに出会って救いを宣言されることまで知っていたはずです。イエス様ですから、朝起きた時点で、もうすでに、その日にする働きを知り尽くした上で一日を始められたことと思います。しかし、知り尽くしていたにも関わらず、イエス様は、その町に入り、ザアカイをわざわざ探されました。そして、彼に出会い、彼の上に救いの御業を成されたのです。魂の救いのために、今年、神様が出会わせようとしている人がどこに居るのか、私達には分かりません。しかし、その一人の人を探し、救うための働きを、この二〇〇九年させて頂きたいと心から願います。

このクリスマスに、ひとつ印象的な出来事がありました。それは、子供クリスマスの時に起こりました。子供クリスマスには、五百名近くの子供達が集い、本当に恵まれました。今年の子供クリスマスは、例年と少し違いました。例年では、開場時間の前になると、外に、長い列ができます。去年は、午前中から座り込んで待っている子供達を多く見ました。しかし、今年はというと、外で待っている子達は見あたりませんでした。開場しても、例年のように、ワーッと来る雰囲気がありませんでした。しかし、その後、コンスタントに子供達が押し寄せ、みるみるうちにホールがいっぱいになりました。私は、スイッチを押す照明係でした。会が始まり、私は、そのスイッチがある場所の配置につきました。すると、足下に四人の少年が座っていました。私は彼らに「どこから来たの?」と声をかけました。すると彼らは「八楽から来た」と答えました。八楽というのは、この近くにある「八楽児童寮」という児童施設のことです。私は彼らに「良く来たね、今日は良いプレゼントが当たるといいね」と声をかけました。すると、彼らは寂しそうに「僕たちには門限があるから、早く帰らないといけないんだ…三時半までに寮に戻らないといけないから、抽選の時に居られないんだ」と答えました。予定では、抽選の時間は、ちょうど三時半でした。そこで私は、彼ら四人の名前と抽選番号をもらい、「もしも当たったらおじさんが寮まで持って行ってあげるから」と約束をし、名前と番号を受け取りました。彼らは真面目に集会に出て、メッセージも真剣に聞いていました。丁度、彼らが帰るはずの三時頃には、メッセージのクライマックスでした。そこで「もう三時だよ」と声をかけると、「もう五分居たい」と彼らは言いました。五分間、真剣に話を聞き、寮へと帰って行きました。そして、いよいよ抽選の時間になりました。彼らから預かった番号を見ながら、他人の事にも関わらず、私はドキドキしていました。すると、預かっていた番号が呼ばれたのです。子供ではない私が前に進み出てプレゼントを受け取りました。それは、見るからにプレゼントの形をした、ブロックで作る車でした。そして、約束通り、早速それを携えて八楽児童寮に行きました。すると、丁度、その同じ時間に施設でもクリスマス会が行われていた様でした。彼らは、わざわざ教会のクリスマス会を選んで来ていたのです。そして、クリスマス会から終わった人達が続々と外へ出てきていました。そこへ車を横付けし、沢山居る人の中から彼らを探しました。すると、丁度目の前に、四人の中の一人が通りかかりました。そこで私は「おーい!」と彼に向かって叫びました。すると、彼は、私を見るなり走り寄ってきました。私が「当たったぞー!」と言うと、「え?おじさん、本当に来てくれたの?」と、とても喜んでくれました。四人のうち、三人が六年生で、一人が五年生でした。六年生と五年生の兄弟の、五年生の下の子にプレゼントが当たりました。そのお兄ちゃんである六年生の子が、喜んで受け取る姿を見て、イエス様が「人の子を探した」その場面を思い出しました。

今年の御言葉は、こんな出来事の中から教えられ与えられた御言葉です。二〇〇九年、イエス様ご自身がされたように、「人の子は失われた人を探して救うために来た」という、イエス様と同じ視点に立って、魂を獲得する働きをさせて頂きたいと思います。

 

岡本 信弘 牧師
『城壁が崩れ落ちる』

ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。こうして、この二〇〇八年最後の日に、健康でこの場所に立ち、主の御言葉を語ることができる恵みを感謝し、皆さんのお祈りを心から感謝します。今日は、名古屋に住んでいる息子も、韓国に遣わされている娘も一時戻り、家族四人でこの集会に出ることができ、嬉しく思います。
今年のテーマとして、この度、与えられた御言葉をお読みします。

『そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。』(ヨシュア記六章二〇節)

昨年、私がこの場所で語らせていただいたのは、第一サムエル記一七章四七節
『この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。』という御言葉から、まず私たちに与えられた剣をみがきなさいということでした。
一年間、どれだけ剣をみがくことができただろうかと思います。私は、年に数回、刺身を頼まれることがありますが、いつ頼まれてもいいように、時々、刺身包丁がさびないように研いでいます。しっかり手入れがされていないと、うまく切ることができません。同じように、私たちの生活の中でも、日頃から、主の御言葉の剣をしっかりと研ぎすまし、いつでも使えるようにしておくことが大切です。今年は、そのことを心に留めながら過ごした一年でした。
そして、二〇〇九年に向けて与えられた御言葉は、去年の「剣をみがく」ということからさらに前進して、「城壁が崩れ落ちるところまで攻め取る」ということです。これがまさに、今年主が私たちに、またこの教会に望んでおられることだと信じます。ヨシュア記の六章一〜二節をお読みします。

『エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」』

イスラエルの民は出エジプトの後、四十年間荒野で生活をしました。そして、約束の地カナンを目前にし、ヨシュアがモーセの跡を継ぎ指導者となりました。カナンの地に入るには、ヨルダン川を渡らなければなりません。イスラエルの民はヨシュアの指揮のもと信仰をもって、契約の箱をかつぐ祭司たちがまず先頭に立ち、一歩足を踏み入れました。その時、奇跡が起こり、川がせき止められ、民は乾いた地を渡り約束の地カナンに入りました。これは、私たちクリスチャンが、荒野のような生活、イエスさまから離れ背を向けた生活をしていた中から救われたことを意味しています。私たちは、もうすでに約束の地に入っています。この永遠の命の恵みは、ヨルダン川を渡った時に、頂いているのです。
イスラエルの民は、「これで自分たちの目的は果たされた」ととても喜んだでしょう。しかし、約束の地カナンに入ったからといって、それですべての問題が解決するわけではありません。実際には、数々の戦いの始まりでもあったのです。
先ほどお読みした御言葉は、エリコでの戦いの時、主がヨシュアに言われた言葉です。『城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった』そのエリコを、主は、『見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。』と宣言されました。そして、イスラエルの民は、この神さまからの御言葉をしっかりと握って、戦いに出て行ったのです。
エリコの城壁は、だれが見ても到底攻め取ることできない強固な城壁でした。どんな方法を用いても、崩れ落とすことなど不可能だと思われるほどの城壁でした。そんな城壁に立ち向かうために、神さまがイスラエルの民に言われたことは、『あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。』でした。彼らはその言葉を聞き、本当にそのような方法で町を勝ち取ることができるのだろうかと半信半疑だったと思います。しかし、信仰をもって、その言葉どおり実行したのです。そして、ついに七日目に、不思議なことが起こったのです。

『そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。』(六章二〇節)

これは、本当に素晴らしいことです。エリコの城だけでなく、非常に頑丈で難攻不落と言われたあのバビロニア帝国の何十メートルもある城壁も、今では見る影もなくなっています。神さまの御心から外れた時に、壁は崩れ去るのです。また逆に、神さまと共に歩むなら、どんな城壁をも崩すことが可能だということです。
二〇〇九年に突入するにあたって、お一人お一人の前にある城壁が何であるかということをもう一度、点検していただきたいと思います。ある人は、不安や恐れに縛られて、それが城壁となって立ちはだかり、心を塞いでいるかもしれません。不況の時代の中にあって会社が倒産することを恐れたり、また自分の家がなくなることを恐れたり、経済的に乏しくなったりと、様々な心配事があると思います。年をとり、体の色々なところに衰えを感じ、病などの不安を持つこともあるでしょう。また、家族のこと親戚のことなど、色々考え始めると不安で眠れないという方もおられるかもしれません。そのように縛られている領域を、主に明け渡し、不安や恐れから解放される必要があります。
またある方は、憎しみや怒りが城壁となっている方もおられるでしょう。「どうしてもあの人だけは許せない」とだれかを憎む気持ちがあったなら、そのことも主の前に明け渡し、新しい年を迎えていただきたいと思います。
また、ある人は、悪いとわかっていても止められない悪習慣に縛られて、それが大きな城壁となっている方もおられるでしょう。信仰を持って前に進みたいと願っているのに、目の前に立ちはだかるその城壁を打ち破ることができず、同じ場所に留まってもがいているかもしれません。今までそこから抜け出そうと努力したけれど、どうしても駄目だと、自分の不信仰を嘆いている方もおられるかもしれません。
それら、私たちの前進を阻んでいる城壁を前に、皆さんは立ち止まってはいないでしょうか。どのような状況にあったとしても、今一度、主の前に悔い改め、そして、新しい年、私たちが信仰をもって主の前に出るならば、どんな大きな城壁も崩れ去るということを信じてください。『ときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。』とあるように、二〇〇九年という年、我々の前に立ちはだかる城壁が崩れ去り、一人一人の信仰によって、新しい扉が開かれる時となることを信じましょう。

また、来年は韓国リバイバルミッションが開催されます。あと五ヵ月しかないという焦りを感じることがあります。そして、今後、本番に向けて、どのようにしていったら良いのかという不安もあります。皆さんも共に祈りに加わってください。韓国と日本は、顔かたちは似ていても、近くて遠い国であり、両国の間には様々な隔たりがあります。また、言葉も通じない状況の中で、困難を極めることは明らかです。しかし、皆さんが祈りによってサポートしてくださることによって、韓国との間にある隔ての壁も崩されると私は固く信じています。
また、この戦いに勝利するためには、我々一人一人が、主の前にへりくだって一致していくことがとても重要です。今週の礼拝メッセージでも語らせていただいたように、一人一人、あなたにしか担えない領域があることを覚え、何百、何千もあるジグゾーパズルのピースのひとかけらのように、自分しかはまることのできない場所を埋めていただきたいと願います。もし、与えられたそのポジションにはまることを拒んだら、そこは空白となり、キリストのからだのジグゾーパズルは未完成のままになってしまいます。
ここにおられる一人一人に、与えられたポジションが必ずあります。そして、そのポジションを私たちが埋める時、壁が崩されていくことを信じます。壁の向こう側がどんな景色なのか今まで見ることができずにいましたが、その壁が崩された時には新しい扉が開かれ、かつて見たこともないような主の偉大な業が現されると信じます。そのために、共に戦い、主の御心を現す一年にしましょう。一言お祈りします。

愛する主よ、心から感謝します。主の恵みの中で、こうしてカウントダウンのワーシップに皆が集い、共に御言葉を聞くことができることを心から感謝します。
新しい年、私たちに与えられたポジションを知り、主の業を現し、壁が崩され、新しい主の業、主の栄光を見ることができますように。また、二〇〇九年が、この教会にとって、お一人お一人にとって大いなる恵みの年となりますように、信じ、感謝して主の御名によって祈ります。アーメン。

滝元 明牧師

ハレルヤ!素晴らしい先生方のメッセージを聞けて、心から感謝します。また、今年も健康でイエス様の前に、こうして守られたことは、皆さんのお祈りの故だと、本当に心から感謝しています。

今日の午前中は、水曜礼拝でメッセージをさせて頂きました。そこに来られていた、一人の子連れのご婦人と話しをしました。その方は、もう何度も教会に来ていらっしゃる方でしたが、私を見るのは初めてだとおっしゃっておられました。新城を留守にし、全国を駆け回っていた一年であったことを改めて感じました。

そんな忙しい中においても、皆さんのお祈りによって、ここまでこれたことを心から感謝します。今年は、滝元明ミニストリーという働きの中で、沖縄から北関東を回らせて頂きました。今年は、全国五六カ所を回ることが許されました。ロン・ブラウンさんや、イボンヌさん、ティムケプラーさんや、マキーダさん、と多くの賛美奉仕者と共に回り伝道する機会が与えられました。
六月はうれしいことに、孫達が結成したバンド「レビ」と共に奉仕に回りました。彼らの成長した姿をみて、とてもうれしく、心から主に感謝をしました。この働きの中で強く感じたことは、賛美と伝道ということが、いかに密接に繋がっているかということでした。
ロンさんは、イエス様から使命を受け、選ばれて、長きに渡って日本のリバイバルのために身を捧げてくださっています。過去には、ロンさんと四〇日間大阪で奉仕をしましたが、彼が共に行く集会は必ず開場が一杯になり、恵まれました。

今回彼と共に回った中での動員人数は、実数で八五五二人でした。武道館で一番多く集まったのが九千六百人でしたので、この八五五二人とは、結構な数です。
私はいつも思うのですが、確かにコンサート伝道は多くの人が集まり、素晴らしいです。しかし、良い面もありますが、悪い面も持ち合わせているように思います。というのは、演奏がどんなに素晴らしくても、福音がダイレクトに伝わり切らないこともしばしばだからです。
そこで、今回のミニストリーでは、ロンさんの賛美半分、また私のメッセージ半分といった形をとりました。音楽伝道をした後には、伝道メッセージで締めるという導き方をしました。
そして、メッセージの最後には招きの祈りまでさせて頂きました。その中で、イエス様を信じたいと決心される多くの決心者がおこされ、本当に素晴らしい御業を見ることができました。決心された方には、私の書いた「祝福への歩み出し」という小冊子をプレゼントしました。これから教会につながって行きたいという意志表示と共に求道決心をした方は、八一七人もおられ、全部で八一七冊の小冊子が配布されました。それを受け取った方々は、とても喜んで下さり、それを見て私もとても嬉しく思いました。これらの人々がしっかり実を結ぶことができるように、祈っていきたいと思います。
十二月には、新城にも、ロンさんが八人の豪華メンバーを連れて来てくれました。こんなにも素晴らしい扉が開かれたことに感謝します。来年は、どんな方法で導かれるか分かりませんが、素晴らしい形でイエス様が導いて下さると信じます。

二〇〇九年という年は、私にとって節目になります。なぜなら、今私は七九歳ですので、二〇〇九年には八〇歳代に突入するからです。ここまで生かされ、導かれてきたことに、心から感謝します。
時々、自分の顔を鏡で映して「あれ?白髪の随分年をとったおじいさんがいるなぁ…」と思うことがあります。外側は日々衰えていきますが、しかし、こうして八十歳まで健康で働くことが許されていることは本当に感謝です。
今年、私の抱えている心境は、ちょうどエリコの城壁が崩れる時のような感覚を覚えています。イスラエル民族がエジプトから解放され、四〇年間荒野を通った後、約束の地、カナンの地に入る直前の心境です。ちょうど、ヨルダン川を前にして、ヨシヤとカレブが、「川の向こうに見える約束の地に入るぞ!」と意気込んでいたのと同じように、私の心も今、ちょうどこれと似た思いになっています。「日よギブオンの上にとどまれ」とヨシュアが言った時、太陽が一日中動かなかったことが聖書に記されています。
私の年を考えるとき、八〇歳で、もう老体ですが、とにかくリバイバルが起こるまでこの地に留まりたい、リバイバルをこの目で見るまで生かして頂きたい、と切に願っています。

リバイバルを願い、新しい年、二〇〇九年に向けての御言葉を求め祈っていたときに与えられた御言葉をご紹介したいと思います。

イザヤ 四十五章一〜三節

主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。

この御言葉が、来年のために祈っていた時に与えられました。これを頂いたとき、非常に感動しました。『主は、油注がれた者クロスにこう仰せられた』と記されています。傲慢に聞こえるかもしれませんが、私も油注がれた者だと自分で思っています。
一九七〇年から田中先生と共に、リバイバルクルセードを始めたのですが、桐生という場所でクルセードをした時のことでした。そこに一人の六〇歳くらいの先生がおられて、その方がこう言われたのです。
「先生、僕は四〇歳くらいから、頭の毛が薄くなりはじめました。そして、そんな中で、ある方が鉱物性の油をつけたら毛が抜けやすくなるから、植物性の油をつけると良いよ、と教えてくれたのです。それ以来、椿油をつけるようになりました。あれからもう二〇年になりますが、全く抜けずに今でも髪の毛が沢山残っています。」
私は、これを聞いた時、良いことを聞いたと思いました。それ時以来、私は、椿油を自分の頭に毎日つけるようになりました。しかし、椿油は高価で高いものです。ですので、小豆島に行ったときに、オリーブ油を安く見つけたので、オリーブ油を頭につけるようになりました。そして、今に至るまで、毎日、朝起きて、顔を洗った後には、頭にオリーブ油を注ぐことにしています。
今は、私の子供達の中にもだいぶ薄くなった人達が居ますが、父である私の髪の毛が残っているのは、オリーブ油のおかげなのです。私が自分を油注がれた者だと言うのは、こういう理由からです。

クロスに注がれていた油は、私のような実際的な油ではないですが。クロスは、バビロニア帝国最後に、メディアの王様を滅ぼして、ペルシアのクロス王様を、神様が感動させ、語らせた言葉がこの言葉です。

第二歴代誌三六章二十二〜二十三節に、

ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」

イスラエル民族はバビロンに七〇年間捕囚されていました。エレミヤが捕囚が七〇年であるという預言をしました。その言葉を実現するために、神様は、王の心を奮い立たせて言いました。「さぁ上がって行って、これからエルサレムに行き、神殿を建て直しなさい」と。

このストーリーを通し、私が教えられることは、来年は韓国でリバイバルミッションをしますが、「来年は神の時が来る」と思います。
考えてみると、私は、リバイバル・クルセードを始めて、それ以来ずーっと毎年リバイバル、リバイバル、リバイバルと求めてきまして、来年は三九年目を迎えます。神様がこの祈りを答えて下さって、必ず、この日本にリバイバルが来ると信じます。
韓国のミッションを通して、大きな門が開かれて、素晴らしいことが起きることを信じています。ここに約束されているように、二節に、『わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。』とありますが、リバイバルが困難だった日本に、神が扉を開こうとしておられるという約束です。

リバイバルミッションニュース十二月号に順牧師が書いた原稿には、日本の対馬から韓国の釜山まで、たった四〇キロしかないとのことです。韓国には二五パーセントがクリスチャンとなるリバイバルが訪れたのに、日本は0.数パーセントであることには、何か壁があるように感じると。確かに不思議です。
たった四〇キロ先には火が燃えているのに、日本には全くその火が訪れない。どうして日本はこうなのだろうと思うけれども、しかし、七〇年の間捕囚になった国に時が来たときに、神様がクロス王の霊を動かせて、イスラエルの国に神殿を建てるように導きました。

日本にも、必ず不思議な方法で、リバイバルが与えられると信じています。信仰とは、『望んでいる事柄を保証し、目に見えないもの確信させるもの』と聖書は語っています。
だとすると、望んでいることとは、日本にリバイバルを起こしてほしいということです。そして、それを、見ていないけれども、実際にそれが叶えられることを確信しなければなりません。
今御言葉を通して、私達が知ることは、「神の時が来た」ということです。そして、このことを通して、神は歴史を支配する方ですから、栄光を現して下さることを心から信じます。

皆さんも信じて下さい。ご自分の宮を建てるとはどういうことでしょうか。それは、キリストの教会を建てることです。キリストの教会とは、イエス様が頭で、私達は枝ですから、韓国と日本が一緒になってミッションにやるということは、韓国のためでは無くて、キリストの体を建てあげることそのものなのです。
私達が韓国のために働くというのは、本当に素晴らしいイエス様の御からだを建てることだということを覚えておかなければなりません。私達も信仰をもってやらなくてはなりません。

『主の民は上っていた』とありましたが、特に、来年、韓国のために、皆さんも上って行って下さい。行ける方は、是非とも共に韓国へ行きましょう。そして、そこで、素晴らしい神様の栄光をそこでみたいと思います。
しかし、行けない人もいると思いますが、それらの人々は、先ほども、『残る者は援助するようにせよ』とあったように、後ろからの援助をお願いしたいと思います。何を持って援助するかと言えば、やはり「祈りをもって援助すること」これが一番大切です。
甲子園の時には、祈りの勇士を募集して、一万人を越える応募がありました。十八万時間祈ることを目的に始まった祈祷プランでしたが、結果的には、三四万時間祈りが捧げられました。その結果、甲子園では素晴らしい御業を見ることができました。韓国に行けない人は、是非、祈りでサポートして下さい。

また聖書を見ると、『金や銀や財宝をもって援助せよ』と書いてありますから、日本がどんな不況の波に押しつぶされようとも、『受けるよりも与えるほうが幸いだ』という法則を覚え、教会全体が与える教会になっていきたいと思います。
是非、皆さんも喜んで捧げて下さい。「青銅の扉を打ち砕く」とありましたが、この教会を眺める時、本当に、その通りだと思います。本当に青銅の扉を打ち砕く材料が揃っていると思います。

何かと言いますと、一つは、「霊的戦い」です。昨日は私も、とりなしの祈りに参加し、霊的戦いの祈りをしました。津具に行って、モンゴル関係をとりなしました。神社などを回って霊的戦いの祈りをしたのですが、実際行ってみて感じたことは、昨日の祈りは、世界を動かす霊的戦いだと感じました。
日本全国に、祈りのチームが出向き、同時につないで祈りました。福岡、鎌倉、津具、京都、長野、新城と、日本中で祈りをしました。その祈りを聞きながら、私は感心しました。
本当に勝利を得るまで、あちらで祈り、こちらで祈り、真剣に長い時間祈り、勝利して次の場所に移動するというような祈りでした。霊的戦いが、神様によって与えられたことをもう一度覚え、この霊的戦いを続けて行く中で、必ず青銅の扉を打ち砕く働きになるに違いないと思います。

私の次男は、とりなしで日本中回っています。一九九二年に、この教会に与えられた聖霊の注ぎが今、青銅の扉を打ち砕こうとしています。同時に、先ほども証させて頂いたように、「賛美」が剣となります。賛美を通して、神様が日本に大きなリバイバルを起こそうとしていることを感じます。来年は、期待すべく、楽しみな年です。どんなことをイエス様がしてくださるか、楽しみに、信仰を持って進んで行きましょう。必ず素晴らしい栄光を見ることができます。私も、その栄光を見せて頂く一人になりたいと思っております。また引き続きお祈り下さい。ハレルヤ!感謝します!


公畑フェルナンド副牧師
「巨人を打ち殺す油注ぎ」

いつも、私自身のために、またインターナショナル部会のためにお祈り頂き、本当に心から感謝しています。来年のために私が与えられた御言葉を皆さんにお分かちしたいと思います。発音がうまくできないことがあるので、通訳を奥様に頼みました。ですので、私はスペイン語でメッセージをします。私の妻は完璧な日本語を話しますので安心してください。

では早速、聖書箇所をお読みします。

第一歴代誌 二〇章四〜八節
その後、ゲゼルでペリシテ人との戦いが起こり、そのとき、フシャ人シベカイは、ラファの子孫のひとりシパイを打ち殺した。こうして、彼らは征服された。またペリシテ人との戦いがあったとき、ヤイルの子エルハナンは、ガテ人ゴリヤテの兄弟ラフミを打ち殺した。ラフミの槍の柄は、機織りの巻き棒のようであった。さらに、ガテで戦いがあったとき、そこに、指が六本ずつ、二十四本ある背の高い男がいた。彼もまたラファの子孫であった。彼はイスラエルをそしったが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を打ち殺した。これらはガテのラファの子孫で、ダビデとその家来たちの手にかかって倒れた。

もう一カ所をお読みします。

第二サムエル 二一章一五〜一七節
ペリシテ人はまた、イスラエルに戦いをしかけた。ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。それで、ラファの子孫のひとりであったイシュビ・ベノブは、ダビデを殺そうと考えた。彼の槍の重さは青銅で三百シェケル。そして彼は新しい剣を帯びていた。しかし、ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。そのとき、ダビデの部下たちは彼に誓って言った。「あなたは、もうこれから、われわれといっしょに、戦いに出ないでください。あなたがイスラエルのともしびを消さないために。」

この御言葉が、私が神様から受け取った来年に向けての御言葉です。メッセージのタイトルに、「巨人を撃ち殺す油注ぎ」とつけました。この巨人とは、野球チームのことではありません。これを聞いて、中日のファンの人は喜ぶかもしれませんが。今お読みした箇所は、イスラエルとまたその敵であるペリシテ人との紛争を描いています。この二つの箇所を読むと、四人の巨人が出てきます。ダビデが、神様からの召しを頂いたのは、ゴリアテに勝って後のことでした。しかし、ダビデ王の統治時代の末期になりますと、油注ぎの移行期というのを見ることが出来ます。つまり、このときになると、ダビデだけが巨人を撃ち殺す油注ぎを受けているのではなく、国の力や権威は、一般の、または普通の人達によって支えられていたということです。
ダビデが王であった間ペリシテ人を打ち破ってはいましたが、聖書を見ると、その巨人達が残っていたとあります。そしてその巨人達が完全に打ち倒されるまでは、国にはいつも戦いや、平和の欠落、敵の侵入というものがありました。ですから、平和な統治を達成するためには、まだ残っていた巨人達を撃ち倒す必要がありました。以上のことをまとめますと、ダビデが初めに巨人に打ち勝ってこの戦いが始まりましたが、後には、その勇士達が彼の代わりに巨人を撃ち倒すようになったことを見ることができます。

この二〇〇九年には、神様はただ一人の特別の人だけではなく、教会の全ての人に油注ぎをしようとしておられます。神は力強い、また今までとは異なった教会をお建てになります。そのために巨人達を撃ち殺す油注ぎを皆さんに与えようとしておられるのです。ここに出てくる巨人達の名前は預言的なものですが、それだけではなく、この巨人達を撃ち殺した勇士達の名前もとても預言的な名前です。神様は、勇士達を立ち上がらせて勝利させ、完全な勝利の中を歩ませます。敵は四人の巨人でした。私は、この四人の巨人に勝利したとき、教会は今までにない祝福の時代に入ると信じています。私は、神様がこの教会を、巨人を恐れない強い教会として建てあげて下さると信じています。今皆さんはただ椅子にこしかけていらっしゃいますが、これからは巨人を打ち砕く油そそぎを受けるようになるのです。二〇〇九年には、今までに教会になかった程の、大きなことを見るよになると信じています。栄光あふれる時代が来ると信じます。たとえ、世界経済が最悪な状況にあり、暗闇のどん底にいるとしても、教会にとっては栄光あふれる時代となるのです。

第一の巨人の名前は、「シパイ」でした。シパイという名前には、「戸口」とか「入り口」「通路」「通過」という意味があります。他の言葉で言い換えるなら、この巨人は、教会の前に立ちはだかり、教会の前進や進歩を制限している者といえます。この巨人が教会の前進や進歩を制限している張本人なのです。ここにいる方の中で、前に進もうとするときに妨げを感じたことがある方はいらっしゃいますか。霊的な領域だけではなく、身体的、感情的、物質的領域にもです。何かが前に立ちはだかり、あなたを進ませないようにするのです。しかし、シベカイのような油注ぎを受けるなら、その巨人を撃ち殺すことができます。シベカイという名前には、布を織る「織物職人」という意味があります。織物職人というのは、糸を結びつける人で、離すことはしません。神様は、一致の霊の油注ぎによって、この巨人に打ち勝つ人を起こされます。そして神様はこの教会にも「シベカイ」達というのを立ち上げられ、彼らは一致の油注ぎによってこの巨人を打ち負かし、その頭を踏みつけるのです。
第二の巨人の名前は「ラフミ」と言いました。名前の意味は、「私のパン」という意味です。他の言葉で言い換えるならば、「あなたのパン」とも言うことができます。この巨人がすることとは、あなたに必要な天からの資源や蓄えを、神様が与えようとすることを制限します。ここにいらっしゃる方の中で、そんな経験をされた方がおられるでしょうか。ある方々は制限や圧迫を経験したかもしれません。ラフミとは、「わたしのパン」という意味です。もし、わたしの手の中に私のパンが無いのなら何もできません。他の言葉で言い換えるなら、もし神様が私に与えられる物が、私の手の内にないなら、私は何もできません。この第二の巨人が、あなたへの天からの資源や蓄えを制限しているのです。しかし、主は言われました。この巨人を打ち砕く油注ぎを与える、と。そして、ラフミはあなたのものである天の蓄えや資源や、天からの必要品を止めている手を離さなければなりません。この巨人を殺した人の名前を、エルハナンといいます。この名前は、「神は良いことを成してくださった」という意味です。神様の恵みが私にあるという意味です。この巨人に打ち勝つ人、それは、神様が良いことをしてくださったと信じる者達です。この巨人が、あなたの天の蓄えに届かないようにあなたにすることは、「お前は神から与えられる物にふさわしくない」と吹き込むことです。そして、あなたを今持っている物であきらめさせるのです。「自分はふさわしい者ではないから、神様は良いものを与えて下さらない」と信じさせることなのです。しかしこの巨人に打ち勝つ者とは誰でしょうか。神様を信じ、「今まで良くしてくださったから、これからも更に良くしてくださる。」と確信する者達なのです。
そして三番目の巨人ですが、名前がありません。しかし、特徴がありました。手に六本の指と、足に六本の指がありました。普通、人間は、五本ずつなのですが、その巨人は六本ずつありました。六という数字には特別な意味があります。それは、「人間」と「サタンの国」です。 
つまり、「完成していない」という意味です。その巨人がする働きは、教会が完成するのを制限する(とどめる)ことです。キリストのからだである教会に失望や落胆を入れ、意気消沈させます。教会の働きが完成するのは、全てのクリスチャンが自分の奉仕の配置につき、神様の命じられることをする時であり、意気消沈させれば完成をとめることができるからです。
この巨人を殺した人の名前はヨナタンと言いました。サウル王の息子ではなく、シムアという人の子供でした。ヨナタンという名前には、「神は与えられた」という意味があります。そして、父親のシムアという名には「話す」という意味があります。この二人の名前の意味をくっつけると、「神様は語られた」となります。この巨人に勝つ方法とは何でしょうか。それは、神様がすでに語られたことを告白する、語るということによってです。まず神様が語られたことにあなたが信頼を置かなければ、あなたはその巨人に立ち向かうことができません。しかし必ずこの巨人を打ち負かす時が来ます。今失望している人達が揺り動かされて、「私はここにどれくらい長く座っていただろう」と、自分で自問自答する時が来ます。何かを始めなくては、と思う時が来ます。神の言葉を宣言する人が、この巨人に打ち勝つのです。
最後に、第四の巨人です。名前はイシュビベノブと言いました。意味は、「私の住居はノブにある」です。ここに書いてあるとおり、この巨人にダビデは命を奪われそうになりました。戦いに行って、ダビデはとても疲れていました。ダビデはこの巨人に対しても、自分がゴリアテにしたように倒せるのではと考えていたようです。しかし、実はこの時、ダビデ以外の人が巨人を打ち砕く油注ぎを受けなければならない時であったのです。しかしまだ彼は気づいていなかったのです。この巨人は新しい剣を持っていました。そして、三キロもある槍を持っていました。そしてこの巨人がダビデを殺そうとしたとき、一人の勇士が出て来てこの巨人を殺しました。これはとても預言的なことです。なぜなら、この巨人の名が、「私の住居はノブにある」という意味であって、ノブという地は、ダビデがサウルに追われていたときにサウルの圧迫から休息を得るために逃げていった土地だったからです。つまり、この巨人は神に仕える者の休息に制限を加える者なのです。重たい槍や武器を神様に仕える者の肩に置き、疲れさせ、失望させるのが目的です。ここで、秘密をお分かちしたいと思いますが、正直、私達牧師も疲れます。教会の方々の前で言うのは、なかなか言いにくいことですが、実はそれが本音です。しかし、神様は、この巨人を撃ち殺す勇士を起こされようとしています。そして、神に仕える人達の肩にかかっている重荷を取り去ろうとしておられます。この巨人を撃ち殺したのは、アビシャイでした。その名前には、「我が父は贈り物」という意味があります。私は、神に仕えている人は神からの贈り物であると、人々は認めるべきだと思っています。それは、誰にでも与えられる油注ぎではありません。本当の家(教会)の真実の子供達に対して与えられる油注ぎです。それは教会の霊の父達が、神様からの贈り物であるということを認めている人達にのみ、与えられる油注ぎなのです。つまり、教会のリーダーが自分の霊的父であって、神様からのプレゼントであると認める人に神様はその油を注がれます。

二〇〇九年は、この四人の巨人達を、皆さんで倒していきたいと思います。ダビデだけの戦いではないことを理解するべきです。つまりは、順先生やスタッフだけの戦いではないということです。神様は、教会の全ての人に力強い油注ぎをされようとしておられます。それは全ての教会に属する人達が、この巨人達を撃ち殺し、霊の父である教会の先生達をサポートするためなのです。

以上です、ハレルヤ!


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