新年メッセージ
〜2009年向けてのメッセージ〜

2009.1.1(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

二〇〇九年が始まりました。けれども、私達は時の連続の中に生きているわけで、二〇〇九年もひとつの節目です。一年の始まりはどこからかというと、毎年私は話していますが、それは、イエス様がお生まれになって八日目に割礼を受け、「イエスという名前で呼ばれるようになった」と聖書に記されています。
イエスさまの誕生日を十二月二十五日とすれば、その日から数えて八日目が、新年、一月一日と定められたのです。巷では多くの人達が、初詣に神社へ行っていますが、実は、この季節を一月一日、年の初めとしているのは、「イエス・キリストの名前により一年を始めている」に他ならないわけです。私達はクリスチャンとして、この日に、日本がイエス・キリストの名によって一年を始めていると、主の御名によって宣言する必要があるのです。日本も、主イエスの名前によって一年が始まっているわけですから、心から感謝をしたいと思います。

 過ぎし二〇〇八年も色々なことがありましたけれど、主が守って下さいました。今日もこうして、みなさんと共に新しい年を迎えることができ、心から感謝します。主が守り導いて下さったことを、心から感謝します。
昨晩は夜の九時から十二時まで、越年の「カウントダウン・セレブレーション」という集会がありました。これは毎年一年の恵みを感謝して、新年に対する主からのみ心を求めるという性格を持った集会です。私は毎年その集会を楽しみにしています。この教会には、私を含めて七名の牧師・副牧師がいるのですが、教会の働きは一人では決してできません。それはキリストの体の賜物によって、総合的に進んでいくものです。牧師とは、そんな中、み言葉をとり継がさせて頂く役割を担っているわけです。しかし、一人の牧師から方向性が出るのではなく、全ての牧師たちが語る中から、神のみ心の中心をつかみたいと願っています。
そんな願いをもって、毎年、主の前に出て主からの語りかけを受け取ります。私はそれを総合して、一月一日にお伝えする役割をあるわけです。

毎年十二月三十一日は、私以外の六名の先生方がみ言葉を語って下さいます。そして一月一日に、私は主任牧師として、それらをまとめ、さらに私に示されているみことばを付け加え、皆さんにお分かちさせていただいています。
毎年、話す順番を決めるときには、どういう風にして決めるかというと、六人の牧師たちの年功序列だとか、あいうえお順だとか、色々な方法があるかとは思いますが、私達は毎回、くじで決めることにしているのです。「何と不謹慎な決め方だ」と思うかもしれませんが、これは聖書的な方法です。

聖書を読みますと、イエス様には十二人の弟子たちがいました。しかし、ユダが裏切って、十二人になってしまいました。それで、誰を弟子に加えたら良いのかと、弟子達は祈ってくじを引きました。そうしたら、マッテヤという人物にあたりました。彼はくじに当たった時、何と言ったか知っていますか?
「ちょっと待ってや〜!」と言ったのかどうか知りませんが、弟子に加わったのです。

主が全ての主権を持っておられますから、「順序を決めて下さい」と祈りました。そして昨日は、上條先生、四元雅也先生、滝元開先生、岡本信弘先生、滝元明先生、公畑フェルナンド先生、という順序に決まり、み言葉を頂きました。大変恵まれたみ言葉でした。昨日、集会が終わってから、それらをまとめ、今朝、皆さまに発表するためにがんばりました。昨夜は風邪気味で少し大変だったのですが、何とかなりました。しかし私がまとめたものよりも、各先生方が語ったメッセージを後日プリントしてお渡しいたしますので、是非読んで頂きまして、その上に、主からの御心を付け加え、ご判断頂きたいと願っています。

最初に上條先生が開いたみ言葉は、マタイ五章六節でした。「義に飢え乾く者は幸いです。その人達は満ち足りるから」
二〇〇九年、祝福された年を過ごしたかったら”義に飢え乾くこと“だと語ってくれました。そうするならば「満ち足りる」と。
近ごろは百年に一度の不況と言われ、世間は混乱しています。不安に感じておられる方がおられるかもしれません。でも、すべての支配は神にあります。神のみ言葉が世界を支配しますから、私達は忠実にみ言葉を実行する必要があるのです。
満ち足りるためには、どのような時代にあっても、「義に飢え乾くこと」なのです。

夏の暑い日に「水が飲みたい!」と、喉が乾いた経験はありますか?私は新城小学校一年生の時、今でも忘れることができないですが、朝礼の時に校長先生の話がすごく長く、とても喉が渇き、「死にそうだ!」と思ったのが、五十数年経った今でも記憶から消えないです。朝礼が終わって、すぐに水道の蛇口に口をつけて水をがぶがぶ飲んだ時の蛇口の色まで覚えています。本当に、あの時、水を飲めたことが嬉しかったです。
そんな感覚を覚えるぐらいに、「義に飢え乾く」というのは“聖さを求めること”です。聖い歩みに対して飢え乾かなければならないと学びました。
聖さを求めないと、世の中とクリスチャンとの区別が無くなってしまします。聖い歩みとは、ただ律法的に、「聖く歩まなければ・・・」と考えるだけでなく、満ち足りるためにも重要です。社会は乱れ、どんどん汚れている今日この頃ですが、私達は義に飢え乾き、聖く生き、罪から離れる決断が必要です。新年にその礎を据えておくことは大変重要です。

今年は義に飢え乾き、聖い歩みを目指そうではありませんか。ちょっと、お隣の方に声をかけてあげて下さい。「聖い歩みをしましょう。あなたのために祈っています!」と。お互い、声をかけて励まして下さい。

アーメン、感謝します。本当にそのような年となりますように。そうしたら必ず、満ち足りるのです。素晴らしいみ言葉でした。

四元雅也先生が開いてくれたのは、ルカ五章一節〜十節でした。その中も主題的に語られたのが、四節でした。ここでは、シモンに対して、「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりなさい」と語られています。
シモン・ペテロにイエス様が命じられた事柄は、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を捕る」事であったと語りました。

二〇〇八年に対して彼が語ったみ言葉は、ヨハネ一章一六節の、「私達はみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から恵みの上に、さらに恵みを受けたのである」というものでした。
けれども、二〇〇八年を終えて、「本当に恵みの上に恵みが加わっただろうか?」と考えたというのです。教会のことを考えてみても、色々、真剣に祈らされることが多くありました。
昨日は感謝なことに、向君が徹夜集会に出てくれて、「有り難う!」と元気よく挨拶してくれました。彼が癒されたのは本当に奇跡でしたが、皆が真剣に祈らなければならない事柄が起こったりして、本当に恵みが加わったのだろうか?と疑ったそうです。
「私は神のみ声を間違って聞いたのか・・・」と思った、と正直に語られました。

しかし、そんな中で、「恵みの上に恵みが加わる」というのは、「深みに漕ぎ出す事とつながっている」と教えられたと語りました。
ペテロが最終的に、どのような方法で神の栄光を表すのか、イエス様が彼に対して預言されました。それはヨハネ二十一章の十八節と十九節にあります。
ペテロは若い頃は自分で帯を締めて、自分の行きたい所に歩いて行った、しかし年をとったら、「あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」と預言されたのです。これはペテロがどのような死に方をして、神の栄光を表すかについて語られたことでした。こうお話になってから、イエスさまはペテロに言われました。『私に従いなさい』

ペテロに、「深みに漕ぎ出して魚を捕りなさい」と語られた結論とは何か。
実は、行きたいところへ行って、やりたい事をするのは幸せで、「これが恵みだ」と人は考えるけれど、神が望んでおられるみこころはそうではなく、深みに漕ぎ出して行くことなのです。それは、もしかすると、「自分が行きたくないところ、自分がやりたくないこと、自分の意志に反するような領域に引き込まれること」だというのです。
その結果、今まで祈っていない領域に祈りが届き、会うことがない人達と出会い、今まで開かれなかった扉が開かれ、「恵みの上に恵みが付け加えられる」と。それは、なかなか深いメッセージでした。

私達は、「恵みの上に恵み」という意味について、「安楽の上にさらに安楽」と考えるのですが、イエス様の方法と視点は違うのです。「深みに漕ぎ出して網をおろし魚を捕りなさい」とは、「手が届く領域だけで働いていてはいけない、もっと奥に入りなさい、深みに漕ぎ出しなさい」と主は語られます。
自分にとっては、「行きたくない、ここで十分だ、ここが私の安住の地だ」と言いたいのですが、“深みに漕ぎ出す”のです。安住の地から離れて、時にはちょっと大変な思いをするかもしれませんが、そんな中で気づくと、恵みが加わっているのです。
まさに二〇〇八年はそのような主の働きを見ることが出来たと語りました。私も本当にアーメン!!と言いました。問題が起きたら、ただ問題を呆然と眺めるのではなく、深みに漕ぎ出し、その問題の根源にある敵の力と戦うのです。さらに主を呼び求め、主に近づくのです。それが、「恵みの上に恵みが増し加わる」ことです。

続いて、滝元開先生が引用したのは、ルカの十九章十節でした。それは、「人の子は失われた人を探して救うために来たのです」という、短い言葉から語りました。イエス様は神の子でしたから、神の御心を一〇〇パーセント受け取っていたはずだと語りました。

一日を始める前に、一つの祈りが必要だと思います。それは、「今日一日、イエス様の計画書の中で生きることができますように」という祈りです。私はいつも祈ります。私が見るもの、聞く音、出会い、喋ること、全てが主の計画通りに事がなりますように、と祈ります。

天皇がお出ましになる時には、歩く歩数までも数え、どこに行くのか全てシュミレーションするそうです。どこに行って何をするのか、シナリオの中に全て組み込まれ、それから警備計画などを立てるそうです。だから、天皇のコースが変わったりすると、大変です。警備陣はすごく緊張するらしいです。

私達も同じだと思います。私達の一日の計画は、神が決めていますから、主が決められたコースを歩むならば安全です。どこに警備の天の軍勢を配備して守ったら良いのか決めておられるはずです。
しかし神の計画から横道にそれて、他の道に入ってしまうと、警備から外れてしまうわけです。私達は常に神の御心の中心を歩むことが重要です。

しかしここでは、「人の子は失われた人を探して、救うために来た。」と記されています。イエス様がこの地上に来られた目的は、魂の救いにありました。その場合においては、ただ単に、決められたコースだけではなく、「探した」とあります。
イエス様はエリコという町に来た時、ザアカイという人物を探して、見つけ出して、彼を救い出し、彼の家に泊まったのです。“探していく”ことが重要です。

神が決められたコースを歩む、これは前提でありますが、「魂の救い」ということに関しては、「探す」態度が必要だと語りました。それは四元先生が語ったみ言葉と共通すると思います。“深みに出て行き”私達が普段、手が届く範囲を超えて探すのです。そこには普通では会えない人達が多くいます。その中にリバイバルの御業が表されるわけです。

次に、岡本信弘先生が語ってくれたのは、ヨシュア記の六章二〇節からでした。「そこで民はときの声をあげ、祭司達は角笛を吹き鳴らした。民は角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁は崩れ落ちた。そこで民は一人残らずまっすぐ町へ上っていき、その町を攻め取った」という言葉を引用し、同時に、六章一節、二節から、「エリコはイスラエル人の前で城門を固く閉ざして、誰一人出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。『見よ、私はエリコとその王および勇士達をあなたの手に渡した』」と。

イスラエルがカナンの地に入国し、最初に出会った町がエリコでした。その町は城門を固く閉ざした巨大な町でした。その町の人達は、イスラエルの侵入を防ぐために、待ちかまえていたわけです。
しかし、戦いの前に主が語られたことは、城門を固く閉ざした場所であったのですが、「見よわたしは、エリコとその王および勇士達をあなたの手に渡した」と語られたのです。
その言葉は、私達にも語られている言葉なのです。

私たちは、東三河また周辺の町々をターゲットにして伝道していますが、まだまだ、この地域を見るときに“城門を固く閉ざして開かない”現実を見るわけです。長く祈ってきたけれど、城門を固く閉ざして動かない、冷たい街を見るわけです。しかし、主は言われるのです。
「見よ、わたしは新城とそのすべての勇士達をあなたの手に渡した」と。

この町は、主からすでに与えられているという信仰を持って、城壁が崩れるまで戦い続け、祈り続けることが大切だという、信仰のメッセージを語ってくれました。すでにこの街は主が与えて下さったという固い信仰と共に、更に戦い、祈り続けていく事が必要です。

それと共に信弘先生が語った言葉の中で印象に残ったのは、「私達自身の道にも、前進をふさいでいる城壁がある」という事です。乗り越えなければならない城壁があり、固く門を閉ざして私達の信仰が一歩も前進出来ないように塞いでいる城壁がある、「今年はそれらに挑戦しなければならない」と語りました。
それは、「恐れの砦であり、憎しみの城壁であり、怒りの砦であり、そして、悪習慣の壁に挑戦しなければならない」と語りました。

自分の内側に色々、葛藤があるかもしれません。「恐れという砦が心の中にある、憎しみがまだ消えない、怒りが根底に沸々と流れている、悪習慣から離れることが出来ない」と。
上條先生が話したように、「聖さを求める」ことはすごく重要なことで、そのような壁を越えなければ、なかなか勝利はこないのです。その壁の向こう側に新しい世界があるのです。我々は壁を見てあきらめてはいけないわけです。主がヨシュアに語られたように、「まだ戦っていないけれど、すでにあなた方にこの町は与えている。」と言われました。
すでに勝利が決まっていたわけです。私達も、目の前に色々な壁がそびえていても、打ち勝つことができないと諦めてはいけません。主がすでに勝ち取って下さっているという前提で、道をふさいでいる壁に立ち向かわなければならないと教えられました。

続いて滝元明牧師が語った御言葉は、イザヤ書四十五章一〜三節から、

「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」

このみ言葉の中から、特に二節、「わたしは鉄のかんぬきをへし折る」と、二〇〇九年は、「神の時が訪れる年になる」と語りました。
五月二十八日〜三十一日まで、「韓国リバイバルミッション」が開かれます。今までの日韓のキリスト教の歴史の中で、このような働きは初めてのことです。韓国はご存じのように、国民の二十五パーセントくらいがクリスチャンです。本当に教会が多いです。しかし、日本は0.二パーセントくらいしか生きたクリスチャンはいないのです。本当に悲しいことです。韓国と比べると、余りにも差があります。

私は先週、二十六日〜二十九日まで、韓国に行って参りました。たったの四日間でしたが、奉仕させて頂きました。いつも韓国に行って、すごいなぁと感動します。
日本は今年で宣教一五〇周年を迎えます。でも、韓国は一〇〇年ちょっとで、日本より宣教の歴史が短いにのにも関わらず、キリスト教は社会に深く浸透しています。どこで祈っても、賛美しても、おかしな顔をする人はいないのです。どこでも伝道できます。

私は今回、大邱(テグ)という町と、ポハンという町で奉仕をさせて頂きました。ポハンという町に「韓東大学」というミッション系の大学があり、そこで二回の講義をさせて頂きました。そこに行って、本当にびっくりしました。ソウル大学とは、日本の東大のような有名な大学らしいのですが、現在は、韓東大学のほうがレベル的に上になっているとのことです。キャンパスも日本のどの大学よりも広々としていました。施設も充実していて、学問的にもたいへんレベルの高い大学です。
その大学には世界宣教リサーチ部門があり、担当の教授がついていて、世界にどうやって伝道したら良いのか、専門的にリサーチしているのです。そして毎年二回、聖書と同じくらいぶ厚い、「世界宣教に関するデータブック」を発行しています。それも世界中に学生達が出て行って、フィールドワークで足で資料を集め、どうしたら効果的に世界宣教ができるのかという、調査部門があるのです。

しかし驚いたことに、日本に関する調査を、いままで一度もしたことがなかったというのです。一番近い国にも関わらず、世界で最も宣教が難しい国にも関わらず、なんで調査をしなかったのかと疑問に思いました。それほど、日韓の溝が深いのかも知れません。イスラム諸国、アフリカや南米などの国々は、専門的に研究しているのです。しかし、日本に関しては、全く興味を持つチームがなかったというのです。「日本に関しては調査なんかしたくない」と思っていたようです。

しかし私が七月にポハンの集会で奉仕した時、「何故、日本に福音が伝わらないのか」という事柄に関し、日本には「霊的覆いがある」と話しました。
この世の神が覆いをかけ、福音が伝わらないように働いている、それは歴史を通して、日本と韓国との関係の中にサタンが侵入したと話しました。そして、そのポイントについて短く話しました。
すると、それを聞いてすごく感動したみたいです。そして今回、初めて日本に対する調査チームが出来たらしいのです。それで私に、「二回の講義をして下さい」と頼まれました。

そのチームが、新城教会のことを研究したいとのことで、一七日から五日間程来られます。是非とも皆さん歓迎して下さい。八人が来られますが、初めて日本の宣教調査をするそうです。私も大学で奉仕させて頂けて光栄でした。
担当の教授の方とも一緒に食事をさせて頂いて、「これからも来て下さい」と招いて頂きました。
大学教授のすべてがクリスチャンで、ノンクリスチャンの生徒たちが入ってきても、クリスチャンにならないで卒業する人は誰一人いない、というのです。すごいものだと思いました。日本もそうなるといいです。

また、先週の日曜日に奉仕した教会は、会員数が六千人でした。大邱という町の大きな教会でした。そこに日本人の説教者がきたのは初めてだと言われました。その教会のとりなし手の方々も真剣に祈って下さり、たいへん恵まれた集会となりました。本当に皆さんが喜んで下さいました。私達が少しでも韓国に貢献できるのは素晴らしいと感謝しました。

今までは、韓国が日本で宣教活動をしても、0.二パーセントの日本教会が二十五パーセントのクリスチャン国を相手に宣教活動を展開するなどとは、歴史に無い初めてのことです。今回は日本が全ての責任を負って、韓国の救いとリバイバルのために奉仕するのです。そして五月には、インチョンにおいて一万人規模の大集会をします。そのことを韓国で話すと、皆、「おお〜!」と反応します。
私がジョークを言っても、日本人はあまり反応しませんが、韓国ではなかなか反応が良いです。国民性は食べている辛さで規定されるそうです。日本は辛みの代表がワサビだそうで、ツンと来てこらえてしまうのですが、韓国は唐辛子で、「辛い!」と発散する文化だそうです。
それにしても、もう少し日本も発散する文化になっても良いのではないかと思いますが。受けるより与えるほうが幸いです。案外、こういう0.二パーセントの教会が二十五パーセントの大きな教会相手に奉仕すると、気づくと自分の国にもリバイバルが起こっているのだと思います。

明先生は、神様が自ら進んで、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折って下さると語りました。韓国リバイバルミッションを通して、主が、日本と韓国との関係の中に大きな業を行って下さると信じます。今年は神の時が訪れる重要な年だと語りました。

最後にフェルナンド先生が語ったみ言葉は、第一歴代誌二〇章四〜八節からです。四節から読んでみると、

「その後、ゲゼルでペリシテ人との戦いが起こり、そのとき、フシャ人シベカイは、ラファの子孫のひとりシパイを打ち殺した。こうして、彼らは征服された。 またペリシテ人との戦いがあったとき、ヤイルの子エルハナンは、ガテ人ゴリヤテの兄弟ラフミを打ち殺した。ラフミの槍の柄は、機織りの巻き棒のようであった。さらに、ガテで戦いがあったとき、そこに、指が六本ずつ、二十四本ある背の高い男がいた。彼もまたラファの子孫であった。 彼はイスラエルをそしったが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を打ち殺した。これらはガテのラファの子孫で、ダビデとその家来たちの手にかかって倒れた。」

ダビデが巨人ゴリアテを倒したことにより、イスラエルは大きな勝利を受け取ったのですが、そこにはゴリアテ以外にも、四人の巨人が居たというのです。
戦いは、親分を討ち取ったら、その軍隊を勝ち取ったことになるという法則を、旧約聖書の中に見ることができます。
昔の戦いは一騎打ちでしたから、敵の大将が討ち取られると、全軍降伏に結びついたわけです。設楽が原の戦いもそうでした。
イスラエルとペリシテの戦いでも、最初に出てきた親分がかの有名な「ゴリアテ」という大男だったのですが、なんと、少年ダビデは彼を石ころで討ち取ったのです。その結果、イスラエルは大きな勝利を勝ち取ったのです。

しかし、まだまだ、巨人と呼ばれる敵の残っていたのです。今読んだ中に、「ガテ人ゴリアテの兄弟ラフミ」というゴリアテの兄弟も残っており、恐ろしい怪獣のような者もいたらしいのです。残りの巨人たちが倒されるまでは、戦いが続いたと話しました。それも大変恵まれたメッセージでした。
最初の巨人はダビデによって倒されましたが、その他の巨人は、「ダビデ以外の勇士達」によって倒された、と語りました。そして、結論的に、「巨人を打ち負かす油注ぎを、全ての人達に与える」というメッセージでした。

主が新城教会に霊的戦いを開いて下さり、十七年目になりますが、世界にまで広がるとは夢にも思いませんでした。しかし、神様は、一人の人物や、一つのグループだけに戦いの油注ぎを注ぐのではなく、他の人達にも巨人を打ち負かす油を注ぎたいと願われている、そして、巨人を倒す油注ぎを受け取るならば、神の国は更に広がると語りました。
今年は霊的戦いが特定の人ではなく、全ての人達が油注ぎを頂き、それも、巨人を倒すのです。敵の首領を捕らえて、打ち負かす油の注ぎを頂くのです。

倒す相手は、人生に立ち向かってくる敵だと具体的にも話されましたから、是非ともメッセージを読んで頂きたいと思います。そうしたら、よくわかると思います。
主は、ただ特定の人達にだけに油を注ごうとしているのではありません。すべての人達を、主の勇士として建てあげようと願っておられるのです。

このように六人の先生方が語られたメッセージを要約させていただきました。それは私の独断と偏見でまとめたところもあるので、正確には、お一人お一人が語ったメッセージのプリントを渡しますので、よく読んで、ご自分でもまとめて頂きたいと思います。二〇〇九年に対する“主の心”が表されていると私は信じました。

さて、私自身に与えられているメッセージは、昨年の十一月と十二月に語らせて頂いたみ言葉の中にあります。

特に主が私に語ってくださっていると信じているのは、「今年は記念の年になる」ということです。なぜならば、私にとって、二〇〇九年というのは記念の年だからです。
私は一九九九年に、この教会の主任牧師として任命されました。そして二〇〇九年は、十年の節目の年を迎えるからです。私はあまり結婚記念日以外の記念日は好きではありません。結婚記念日と家内の誕生日は覚えていますが、時というのは連続しているから、そんなに記念することはないと考えています。
でも聖書を見ると、やはり記念の一里塚のようなものが据えられているのを見ますから、二〇〇九年というのは、私にとって十年目に当たるので、心から感謝すると共に、もう一度こころ新たに思い起こさせて頂いたみことばとして、お話しさせて頂きました。
それは、イザヤ書六十五章十七節〜二十五節です。このみ言葉は年末、ずっと私の心に響いていました。

「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、 彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、 子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、 獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」 と主は仰せられる。」

この言葉を十年前に主が私に語って下さいました。そして、この暮れに、もう一度、記念の年として新城教会の皆様方に語っておられると信じています。
「見よ私は新しい天と、新しい地を創造する」とあります。私が十一月に語らせていただいたみ言葉が、イザヤ書四十三章の十四節〜十九節でした。特に十九節、「見よ私は新しいことをする。今もうそれが起ころうとしている。あなた方はそれを知らないのか。確かに私は荒野に道を、荒れ地に川をもうける」というみ言葉を語りました。

十一月、私は期せずして、モンゴルで奉仕をすることができました。モンゴルは騎馬民族で、十三世紀世界で最も強力な国でした。その国の果たした役割は、現代人の心にはあまり留まっていないのですが、実は、日本の歴史はある意味で、モンゴルによって作られたと言っても過言でないくらい、霊的には大きな影響を受けました。
十三世紀、二度に渡って元寇と呼ばれるモンゴルが、日本に攻め込んだ事件がありました。日本はその時、本当に恐れ、全国民あげて、寺と神社で祈祷を捧げ、全国民的な偶像礼拝が国に定着したのです。

時の幕府は鎌倉幕府でしたが、その前の時代、平安時代、加持祈祷と呼ばれる呪術的な偶像礼拝は、貴族の中だけにありました。しかし、鎌倉時代の元寇を通して、全国民に加持祈祷が行き渡り、真剣に、自発的に神仏に祈るようになったのです。
その結果として何が起こったのかというと、神風が吹いて、モンゴルは二度に渡って退けられたというのです。その体験を通して、「自分たちは特別な“神の民”だ」と、日本人は大きな勘違いをしたのです。
その後、元寇の体験が一番大きく用いられたのが太平洋戦争でした。太平洋戦争の前後を知っておられる方ならば、当時の教科書の中に、蒙古の事が度々取り上げられ、「神風が吹く!だから、銃後の人達は真剣に神仏に対し、24時間の連鎖祈祷をしろ」告げられたと思います。
また、鎌倉時代から武士がこの国を統治するシステムが出来上がりました。そして、現代もその影響下にあります。そのことを、主はモンゴルで教えて下さいました。

イザヤ書の四十三章は、出エジプトのことを思い出しながら、「戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。彼らは皆倒れて起き上がれず、灯心のように消える。先のことどもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ、私は新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている」と。
エジプトの軍勢も、馬に引かれた騎馬隊のような軍勢でした。馬の戦車によって、人に襲いかかる軍隊でした。しかし、それが、「倒れて、灯心のようになって消える」と。その結果、「新しいことが起きる」と語られているのです。

まさに、日本の歴史と重ねる時、鎌倉時代にモンゴルが侵入してきたときに、騎馬民族背景の悪霊が日本に侵入し、また、真剣に偶像礼拝に頼った結果、さらに強く悪霊に支配される国となったのです。
けれども、その時侵入した敵が討ち滅ぼされ、「今度は新しいことが起こる」とイザヤ書四十三章から私は預言的にメッセージを受け取りました。
 その事を十一月、モンゴルから帰ってきてから、語らせて頂いたのですが、二〇〇九年は主が新しいことをして下さると信じようではありませんか。

 そして十九節では、「そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」とあります。二〇〇八年、色々な問題で泣き声や叫び声がありましたが、二〇〇九年は泣き声もない、叫び声もない、回復と解放が起こされると信じます。「韓国リバイバルミッション」を通して、主がそこに到達させて下さると信じます。

そしてまた、二三節、「彼らは無駄に労することもない」とあります。
時に、「私の人生何だったんだろう、本当に無駄な時間を過ごしてきた」と感じることかあります。しかし今年は、「無駄に労することがない年」になるように祈っていきたいです。

NASAが、宇宙飛行士を最初に宇宙に送り込んだ時、無重力状態ではボールペンで文字を書くことが出来ないことを体験しました。
これではボールペンを宇宙に持って行っても、何の役にも立たない・・・、そこでNASAの科学者達は、この問題に立ち向かい、十年間の歳月と、百二十億ドルの開発費をかけて研究に研究を重ねたのです。
その結果、ついに無重力でも、上下逆さまにしても、水の中でも氷点下でも、摂氏三百度でも、どんな状況でも、どんな表面にも書けるボールペンを開発したのです。
しかし一方、ソ連は、「鉛筆を使った」と。

アメリカは「ボールペンが使えない!」と、真剣に百二十億ドルと十年の歳月をかけて新しいポールペンを開発をしました。しかし、ソ連はボールペンが使えなかったら鉛筆でいいと、鉛筆を宇宙に持って行って使ったわけです。
時々私達は、こんな事があるのではないでしょうか。鉛筆を使えば簡単すむことでも、どうしてもボールペンが使いたいために、何十年もかけてしまう・・・。
一番大事な本質から外れて、ボールペンの開発にお金や時間を費やしているようなところがるんじゃないかと思います。しかし、今年は無駄に労することのない一年にさせて頂きたいと心から願います。
労することが全てが祝福となりますように。

そして、「これらは害を加えず、損わない」、なんとも力強いみ言葉ではないでしょうか。「彼らは呼ばないうちにわたしは答え、彼らがまだ語っているうちにわたしは聞く」と。
これから日本には心配なことが多いです。冬になりますと、風邪やインフルエンザなどが流行って大変です。

クリスマス会でも話しましたが、ゴリラとライオンと鶏が、ある時、動物園で一緒になったそうです。そして、「誰が一番強く、影響力があるか」という話になり、ゴリラが言ったそうです。
「僕が森にいたとき、一声うなると、森の木々の鳥たちは、皆おとなしくなったもんだ」
するとライオンが言いました。「俺が草原にいた頃、一声吠えると、周りの動物たちは、皆逃げ出したものだ」
すると最後に鶏が言いました。「私がちょっと咳をすると、世界中の人間達が大騒ぎになるのよ」

確かに今、鶏が咳をして、世界中が大騒ぎになっています。鳥インフルエンザは怖いです。もし東京に発生したら、数日間で全体を覆うそうです。そして、何十万人もの犠牲者が出るかもしれないと言われています。私達は見えない敵に怯えているのです。
皆さんの中にも、風邪にやられている人がいるかもしれませんが、誰にやられているかというと、見えない敵にやられているわけです。本当に、私達は見えない敵と戦えと、そのような所からも教えられます。

実は、人間が造られて最初に神から語られた言葉が何であったかというと、「海の魚、空の鳥、地をはう全ての生き物を支配せよ」です。
私達がイエス・キリストを信じると、そのような支配権が回復します。それを知らなければなりません。向くんの病気から気づかされたことは、「地を這う生き物を支配せよ」という中に、彼が苦しめられていた、見えないバイ菌やウイルスも含まれるわけで、それらも地を這う生き物ではないか、ということでした。

私達の体は、ウイルスやバイ菌で蝕まれますが、最初に神が、「地を這う生き物を支配せよ」と言われた中に、顕微鏡でしか見えない動物も、また、霊的な動物である悪魔や悪霊どもも含めて、「支配せよ」と仰せられたはずです。
だから皆さんに襲いかかってくる、インフルエンザウイルスや、バイ菌に関しても、「お前達を支配する!」と宣言しましょう。そうしたら、そんな物に負けないはずではないでしょうか。

鶏がいくら咳をしても、「私達はお前を支配する!」と宣言し、万が一、そんなものが発生しても損なわれることはないのです。
今日、風邪を引いていたり、細菌に感染がある人は、それらが完全に支配され、打ち負かされるように祈ります。

そして、「私達が呼ばないうちに主は答えて下さる、語っているうちに、すでに答えが出る」
・・そんな年になったら素晴らしいです。

最後に、二〇〇九年のメッセージを総合して、次のように纏めさせていただきました。また、印刷して皆さんにお渡ししますから、それを読んで頂きたいと思います。

二〇〇九年預言的メッセージ

「祝福の道を歩みたかったら、まず第一に、聖い歩みに飢え乾きなさい。そうしたら、あなたは満ち足りて、百倍の実を結びます。
深みに漕ぎ出して魚をとりなさい。これがわたしがペテロに与えた命令でした。同時にそれは、すべての民に語っている言葉です。あなたも深みに漕ぎ出しなさい。深みとは、安住の地ではなく、自分では行きたくない所、避けて通りたい場所かもしれません。
しかしわたしに従いなさい。なぜなら、わたしは失われた人を探して救うために、この世に来たからです。失われた魂を探して、深みにまで漕ぎ出していきなさい。

わたしがかつてエリコで話したように、町をすでにあなたの手に渡しています。見えない城壁が崩れ去るまで、信仰をもって祈り、戦い続けなさい。また、あなた自身の道を塞いでいる、恐れ、憎しみ、怒り、そして悪習慣の壁に戦いを挑みなさい。壁が崩れた向こう側に、新しい世界があります。

二〇〇九年は神の時が訪れる重要な年です。私は青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折ります。それは今年、日本と韓国との関係に顕著に表されます。朝鮮半島に住む人々の祝福を祈りなさい。そして、「韓国リバイバルミッション」のために祈り、援助しなさい。

霊的戦いにおいては、まず敵の首領、すなわち巨人を倒すことが重要です。ダビデがゴリアテを倒した時にイスラエルは戦いに勝利しました。しかし、ゴリアテが倒された後も、イスラエルには四人の巨人が残っていました。その巨人達は、ダビデ以外の勇士達によって倒されたのです。
特定の人に油が注がれる時代は過ぎ去りました。わたしは全ての民に、巨人に立ち向かい、勝利する油を授けます。その時神の国は拡大します。

過去の栄光にしがみついていてはいけません。なぜならわたしは、常に新しいことをするからです。わたしは新しい天と地を創造します。わたしの創造を楽しみ、喜びなさい。
今年わたしは教会から、悲しみと泣き声を一掃します。あなたは自分に与えられた賜物を、十二分に用いなさい。無駄に労する時代は過ぎ去りました。あなたが呼ばないうちにわたしは答え、あなたがまだ語っている内にわたしは聞きます。あなたに害を加えるものは何一つないからです。今年私は新しいことをします。」

 このようにまとめさせて頂き、二〇〇九年の預言的み言葉としたいと願っています。
 今年、このような年となり、主が私達のただ中に、新しいみ業を起こして下さるように、ご一緒にお祈りしましょう。

 さらに、新しいことを起こしてくださる主に期待したいと思います。主のまえに、しばらくお祈りの時を持ちましょう。

 ハレルヤ!天の父なる神様、み名をあがめて心から感謝します。二〇〇八年もあなたが助けて下さり、恵みの上に恵みを加えて下さったことを、心から感謝します。しかしこの二〇〇九年、「見よ、わたしは新しいことをする」と語って下さっていることを信じ、心から感謝します。どうか、あなたの新しい事柄に対応できるように、私達を聖めてください。その中で満ち足りることができますように。
 そして今日語ったみ言葉通りに、主よ、あなたがこの国に成して下さいますように。今、世はさらに暗闇に包まれていますが、暗い世に光を輝かすことができますように。私達を作り変えて下さい。
 今年は扉が開かれますように。特に主よ、韓国のために働こうとしていますが、韓国リバイバルミッションを祝福して下さい。未だかつてない、大いなる勝利が韓国に訪れ、いまだかつてない大いなる勝利が、両国に訪れ、アジア全体に及んでいきますように。そのために私達を用いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

今、皆さんで祈りたいと思います。特に年の初めに、「受けるより与えるほうが幸いだ」とありますから、今朝は特に、北朝鮮のために祈りたいと思います。人々が救われ、解放されますよう、祈りたいと思います。

私は韓国に行って、「南北統一を強く望んでいる」ことを感じます。日本がもし、東京あたりを境に、北と南に分かれてしまったらどうでしょうか。もし、東京が北で、このあたりが南だったら、かわいい孫にも会うことができないです。それが現実に韓国で起こっているのです。それは切実な祈りです。それに関わったのが、歴史的には日本ですから、真剣に祈ってあげなければいけません。
日本の七〇パーセントの人々は朝鮮半島系のルーツを持っているのです。そこで奉仕するのは当然だと思います。朝鮮半島の統一のために真剣に祈りたいと思います。痛みを共有して、共通の敵を知って戦うことができますように。皆さんでご一緒に、韓国、北朝鮮のために祈りの時を持ちましょう。

 今年は「記念の年」となります!今年は新しいことが起きます!と宣言しましょう。


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