「隔ての壁をそのままにしていませんか?」


2009.1.11(SUN)
新城教会 上條 実牧師

エペソ人への手紙二章十四〜十九節
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

ハレルヤ!今日この礼拝でみことばを語ることができます事を感謝します。新しい年、二〇〇九年を迎え、今ここにいることができるのは、神さまの恵みだと思います。早いもので今年も十日たってしまい、今日は十一日です。毎年年末年始は忙しく、今年は十二月三十一日にカウントダウン・ワーシップ。一月一日は新年礼拝、二・三日と二十四時間連鎖賛美、四日は主日礼拝と毎日集会が続きました。しかし新年からとても祝福された時を頂いております。さて今日はエペソ人への手紙二章一四から一九節のみことばから、「隔ての壁をそのままにしていませんか?」というタイトルでみことばを語りたいと思います。

一二月三十一日のカウントダウンの集会で、二〇〇九年に向けて、私が神様からこの教会に与えられたみことばとして、語らせて頂きました。それはマタイ五章六節

『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』

というみことばでした。今まで私たちの神さまはこの教会を守って下さり、またみなさんをも守って、祝福して下さいました。そしてさらに神さま私に、今年のために与えて下さったみことばが有名なみことばで「義に飢え渇いている者は幸いです」ということばです。イエスさまは私たちのために十字架にかかって下さいました。このことは私たちクリスチャンにとって基本中の基本です。イエス・キリストは私たちを救って下さいました。永遠の滅びから救い。そして私たちの罪を完全に赦して下さいました。罪から赦されたことをもう一度心から感謝して、私たちはさらに聖さを求めていきたいと思います。そして

『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』

義に飢え渇いてとあります。飢えとは、「空腹。飢餓。 望み求めているものが満たされない苦しみ。」という意味であり、渇きとは「のどがからからになって、水分が欲しくなる。 満たされぬ気持ちがいらだたしいほど高まる。心から強く欲しがる。」という意味があります。二十三年前になりますが、私は原因不明の病気で入院したことがあります。その時、検査のため絶食絶水を言い渡されました。午後の始めに検査をしますとの事でしたが、突然他の患者さんの手術が入ったりして、検査の時間が遅くなり、お腹がすき、特にだんだん喉が渇いてきてしまいました。喉の渇きは本当に大変でした。やっと夕方遅くに検査が始まり、気管支の検査でしたので、終わってからすぐに水を飲むことができませんでした。たった一日でしたが本当に苦しくて、たまらなかった事を覚えています。水が飲めるということは本当に感謝なことです。たつた一日絶食絶水して時、飢え渇きを覚えましたが、それ以上に、私たちは聖さに対して飢え渇き、主を愛し、慕い求めて行きたいとと願います。そして義に飢え渇いている者は、その後のみことばに「その人は満ち足りるからです」と書かれています。私たちが、霊・肉・魂の全てに満ち足りた生活をするためには、聖さを求める事だとみことばは言っています。私たちは今まで多くの祝福を神さまから頂いていますが、力ある神さま、聖霊の働きは、今私たちの生活の中に現れているようなものではなく、Tコリント二章九節

『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』

私たちの現実の世界で、見たことや、聞いたこと、心に浮かんだことがない、ものすごい力を現して下さる方が私たちの神、イエスキリストですから、今年は私たちが更に聖められ、神さまから満ち足りた祝福を与えて頂けるよう信じましょう。

「満ち足りる」ということばで思い出すみことばは、マタイにもマルコにもルカにも書かれている、種まきの例えです。特に今回私が教えられたみことばはルカによる福音書八章十五節をお読みします。

『しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。』

マタイとマルコの福音書には三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶと書かれていますが、このルカの福音書だけは「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる」とあります。正しい良い心でみことばを聞きなさい。そしてそれをしっかり守れ、実行しなさい。そして耐え、実を結べとあります。この所でも大収穫を頂くためにはどれほど聖さが大切かという事が書かれています。一九九二年この教会に霊的戦いが始まりました。その霊的戦いが始まった当時、主日礼拝の後、午後祈祷会を会堂で行いました。私が司会していた事を覚えています。いつもの祈祷会のように「みなさん聖さを求めて祈りましょう」促し祈り始めた事を思い出します。しかしその祈祷会は本当に不思議な体験をさせて頂いた祈祷会でした。聖霊さまが一同にふれてくださいました。祈り始めて少したった頃、全員の方々が泣きながら悔い改めの祈りをし始めました。子どもからお年寄りまでが、みんなで長い間祈ったことを思い出します。霊的戦いが始まってすぐの事でしたが、霊的戦いをする前に、一人一人が、この教会が聖さを持たない限り、霊的に戦う事はできないと教えて下さったと思います。本当に人手によらず、神の霊によって悔い改めさせて頂いた時でした。今年二〇〇九年は聖さに満たして頂き、満ち満ちた祝福を頂く年になるよう、主に期待しております。
 そして一月一日の新年礼拝において、滝元順牧師がすばらしいみことばを語って下さいました。今年は記念の年になるというすばらしいみことばを語って下さいました。イザヤ書六十五章十七節〜二十五節から「見よ私は新しい天と、新しい地を創造する」またイザヤ書四十三章十四節〜十九節。特に十九節、「見よ私は新しいことをする。今もうそれが起ころうとしている。あなた方はそれを知らないのか。確かに私は荒野に道を、荒れ地に川をもうける」というみことばから語って下さいました。その後滝元順牧師は年の初めに、「受けるより与えるほうが幸いだ」とありますから、今朝は特に、北朝鮮のために祈りましょうと促して下さいました。たとえとして滝元順牧師が語っていた事は日本がもし、東京あたりを境に、北と南に分かれてしまったらどうでしょうか。もし、東京が北で、このあたりが南だったら、私のかわいい孫にも会うことができないです。それが現実に韓国で起こっているのです。それは切実な祈りです。それに関わったのが、歴史的には日本ですから、真剣に祈らなくてはいけません。と語っていました。そのことをみんなで祈り始めたとき、私は不思議な体験をしました。聖霊さまに触れて頂き、涙の出ないものですがその時は涙が止まりませんでした。涙ながら祈るとき、聖霊さまが私に色々なことを語って下さいました。そして一つのみことばを下さいました。それが今日始めに読んで頂いたエペソ二章一四節からのみことばでした。有名なみことばです。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし』

と書かれています。今日から青年会の皆さんが韓国にとりなしに行きます。そして三十八度線近くまで出かけていき、韓国と北朝鮮を隔てている所で祈りをしてくると聞いています。隔ての壁になっている場所です。韓国と北朝鮮とでは、今も家族が会いたくても会えない現実。壁があります。脱北者がたくさんいますが、命がけで逃げてくる状況です。また北朝鮮は飢えと貧困で苦しんでいます。しかし韓国では二十五パーセントのクリスチャンの方々が真剣に祈っています。しかしまだ答えられていません。しかし私たち日本人が韓国のために、北朝鮮のために祈る必要があります。歴史的に朝鮮半島に苦痛を与えてしまった日本ですから、真剣に祈ってあげなければいけません。また日本の七十パーセントの人々は朝鮮半島系のルーツを持っていると言われています。だからこそ今年の五月には「韓国リバイバルミッション」にて、韓国の救いと祝福のために、奉仕するのは当然だと思います。
 しかし韓国と北朝鮮との壁だけでなく、新年礼拝の祈りの時、他にも私たち一人ひとりの中に、まだ隔ての壁があることを教えて下さいました。エペソ人への手紙の箇所を、わかりやすく書かれたリビングバイブルで読んでみたいと思います。

エペソ人への手紙 二章十四〜十九節(リビングバイブル)

『キリスト様こそ、私たちの平和の道です。この方は、私たちユダヤ人とあなたがた外国人とを一つの家族とし、両者を隔てていた軽べつという壁を打ちこわして、平和をつくり出してくださいました。つまり、ご自分の死によって、相互の激しい敵意を、除いてくださったのです。その敵意の原因とは、ユダヤ人を特別扱いし、外国人をのけ者にする、ユダヤ教のおきてでした。そのおきて制度全体を無効にするために、キリスト様は死んでくださったのです。そして、それまで互いに対立していた二つのグループを、それぞれ自分の手とし、足とされました。こうして、私たちを融合させて、新しい一人の人間をつくられたのです。ついに平和が実現しました。私たちが同じ体のそれぞれの器官になったので、互いの怒りは消え去りました。 両者とも、神様と和解したからです。こうして、反目は、十字架によって、ついに終わりを告げたのです。そして、キリスト様は、遠く離れていたあなたがた外国人にも、近くにいた私たちユダヤ人にも、この平和の良い知らせを、もたらしてくださいました。キリスト様が成し遂げてくださったことのゆえに、ユダヤ人も外国人もみな、聖霊様に助けられつつ、父なる神のもとに行けるのです。今、あなたがたは、もはや神様にとって見知らぬ他国人でも、天国に縁のないよそ者でもありません。神の家族の一員であり、神の国の市民なのです。 すべてのクリスチャンと共に、神の一家を構成しているのです。』

こちらの方がよりわかりやすく書かれています。二つのものを隔てている隔ての壁。それはユダヤ教の教えでした。ユダヤ人は選民。神によって特別扱いされているとされていました。外国人とには大きな隔ての壁があったのです。わかりやすいたとえ話が良きサマリヤ人の話です。ユダヤ人は異邦人サマリヤ人たちとは交わる事がありませんでした。対立していました。ユダヤ教の人は神に選ばれた選民。後は異邦人。しかしイエスキリストの十字架によって、隔ての壁が崩されました。今までは神さまにとって見知らぬ他国人であったものが、天国に縁のないよそ者でなく、神の家族の一員であり、神の国の市民となったのです。すべてのクリスチャンと共に、神の一家を構成しているというのです。韓国と北朝鮮の壁と同時に、ドイツに「ベルリンの壁」がありました。一九六一年から八九年まで壁が存在しました。当時は東ドイツと西ドイツに分かれていました。しかし一九八九年の十一月九日に、崩れる事のないと言われていた「ベルリンの壁」が崩壊しました。
 しかしあの新年礼拝の時、主が私に教えて下さったのは、民族と民族。国と国の壁だけでなく、私たちの中にある隔ての壁を砕く祈りをしなくてはいけないという事でした。特に祈りの中で一つのことを思い出しました。今、国会中継を見ると多くの国会議員の方々が、胸に青いリボンをつけています。拉致問題の解決のためにということでブルーリボンをつけています。あの拉致問題を考えると、本当にひどい話です。今まで普通に生活していた一人の人間が、突然拉致され、北朝鮮に連れて行かれてしまったのです。もし自分の家族が拉致されたらと考えたら、いてもたってもおれないと思います。早くこの拉致問題という壁も崩されるように祈らなければならないと思います。拉致問題で有名になった横田めぐみさんをみなさんはご存知かと思います。横田めぐみさんのお母さん早紀江さんははクリスチャンです。毎週教会に行き、一生懸命イエスさまに祈っておられます。ぜひ横田めぐみさんのために、またご家族のためにもお祈りしましょう。私は今回インターネットで横田めぐみさんのことを少し調べてみました。そうしたらこのようなことが書かれていました。

「今から三十年以上前の昭和五二年、一九七七年十一月十五日、日本海に面した新潟の町から一人の少女が忽然と姿を消しました。その日の朝、横田めぐみさんは、家族でにぎやかに朝ご飯を食べ、中学校へ出かけていきました。これが家族にとってめぐみさんを見た最後になってしまったのです。家族は、必死でめぐみさんを探しました。警察も誘拐や事故、家出、自殺などあらゆることを想定した捜査を進めました。目撃者も遺留品さえも見つかりませんでした。ずっと後になって出てきた証言によると、お父さんとお母さんが必死でめぐみさんを探していたとき、めぐみさんは北朝鮮の工作員に連れ去られ、四十時間もの間、北朝鮮に向かう船の中の真っ暗で寒い船倉に閉じこめられていた。めぐみさんは、『お母さん、お母さん』と泣き叫び、出入口や壁などあちこち引っかいたので、北朝鮮に着いたときには、手の爪がはがれそうになって血だらけだったと言われています。めぐみさんがいなくなる前日の十一月十四日はお父さんの誕生日でした。めぐみさんは、お父さんに、くしをプレゼントしました。『これからはおしゃれに気をつけてね』という言葉とともに。」

その前の日まで何の問題もない、普通のあたたかい家庭でした。しかし一九七七年十一月十五日、突如彼女が消えました。その日から何十年も会うことができないのです。家族が救出のために色々な働きをして来ました。街頭でビラを配ったり、講演会をしたり、あるとあらゆる事をしました。そしてやっと政治家が動き出し、政府が動き、北朝鮮まで出かけて五人の方とその家族が北朝鮮から帰って来ました。しかし横田さんの場合は、自殺したと言われて、遺骨で戻ってきました。しかしDNAを調べたら偽物だとわかり返し、今も解放されるように訴えています。もしこれが自分の子どもだったり、孫であったら、いても立ってもおれないと思います。何の情報も入ってこない中、本当に苦しいと思います。近年はアメリカの大統領にまで面会し、協力を要請するなど、とにかくできる事を、必死に行っています。その必死に訴えている彼らの姿を見て、私たちも解決して欲しい、崩れて壁があるにもかかわらず、自分には必死さが足りないとを痛切に教えられました。エペソ人への手紙六章十節〜十三節

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。』

これは、有名なみことばで、霊的戦いにおいてよく用いられるみことばです。「大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に立ち向かうとあります。私たちがイエス様の名前によって祈る時、悪魔から勝利する事ができます。だから悪魔側からすると、この戦いがどんなにか大変な事なのか知っているからこそ働いてきます。しかし私たちはそこまで危機感がありません。戦いの意識がありません。私たちの愛する日本の同胞が、また家族が地獄に行ってしまうならば、永遠の壁が出来てしまい、絶対に出会うことが出来ないのです。だからこそ必死にならなくてはいけないのに、悪魔は他の神々を拝まさせ、仕えさせ、「霊的な壁」をつくって来ます。そして悪魔は存在しない。霊的戦いなんかおかしい。聖書的ではない等さまざまな思いを与え、私たちに戦う意欲を持たせないようにしてきます。何とかしなくてはいけないという事はわかっています。しかしあの拉致問題において横田さんたちが、必死に運動し政府まで動かし、アメリカの大統領にまで訴えた動力と比べると、私たちクリスチャンの熱心さ、祈りは足下にも比べる事のできない程いい加減な祈りです。レベルの低い危機意識です。自分の家族が地獄に行ってしまうという事はわかっています。しかし戦えないのです。祈れないのです。今日まず

『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』

聖さを頂きましょう。そしてイエスキリストの名によって戦いましょう。イエスキリストの十字架によって、イエスキリストは、遠く離れていた外国人と近くにいたユダヤ人に、平和の良い知らせをもたらせたように、「霊的壁」を砕いて下さいます。
 またもう一つの「隔ての壁」は、夫婦に対しての「隔ての壁」です。妻に言ってもわかってもらえない、主人に言ってもわかってもらえないと諦めてしまい、そのままになっていませんか?一つにならなければいけないとわかっていても、クリスチャンでありながら、一つになれない生活をしてしまっています。今日はその壁をイエス様の名前で打ち砕いていきたいと思います。エペソ人への手紙五章二十五節にこのようなみことばがあります。

『夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。』

「キリストが教会を愛し」とありますが、私たちは教会の中の各器官です。自分の体を考えるとき、私は今、少し右足の足の裏に痛みがあります。そんなときは、その痛みに集中してしまいます。そのため右足にできるかぎり負担をかけず、痛みを和らぐように接骨院に行き、電気をかけてもらったり、テーピングをしてもらったりします。私たちは各器官です。いたわり合い、一つになって行かなくてはなりません。また聖書において夫婦は一体だと書いてあります。しかし、夫婦の間で感情のもつれから、壁があります。愛し合って一つになると神さまの前に誓って結婚式をしながら、壁ができてしまっています。一つになって祈ろうとしても、壁が邪魔します。祈りが答えられないのです。私たちはすぐに「あの人がいけない」と相手を批判します。人の目にある小さなチリに気づき、そのチリを取ろうとします。しかし、神はこう言っています。マタイによる福音書七章一節〜五節

『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』

「さばいてはいけません」そして「自分の目から梁を取りのけなさい」とあります。人ではなくまず自分が悔い改めるとき一つになれます。自分のからだを愛するように、イエスキリストによって壁を崩して頂きましょう。

また、親子にも壁があると思います。私も子ども会を担当させて頂いています。クリスチャンの子どもでさえ、驚くようなことばを聞くことがあります。「死ね」とか「くそおやじ」とか「くそババァ」など両親や兄弟に向かって言ったりしています。子どもが親に対して、話したくない。信用できない。親は親で子どもに対して、仕事などのストレスで怒りまくり、親子の間に溝ができます。聖書は、子どもは親に従い、敬う。親は子どもを神さまに導く義務があります。しかし親子に会話がなくなってしまっています。親子間に隔ての壁ができてしまっています。それをイエスキリストのみ名と十字架によって壁を崩して頂きましょう。我が家に、かわいい小学校一年生になる四男がいますが、彼の生活を見ていると、知らないうちにイライラしてくる時があります。私が話したことをなかなか理解してもらえず、すぐにイラついてしまいます。親が感情的に怒れば子どもは傷つきます。今家族の崩壊が多い時代です。アダムとエバが人類始めに創られました。そしてその子どもとしてカインとアベルが生まれました。神さまにささげものをしたとき、カインはアベルを「妬み」ました。そこに兄姉の中で壁ができてしまいました。兄姉で比べてしまうときがあります。兄は弟をみてひがんでみたり親に比べられて、家族間に壁ができ、今新聞紙上でよく見るように、親が子を殺害したり、子が親を殺害したり、親を困らしてやりたかったなど、家庭が壊れています。今日その壁をイエスキリストのみ名によって祈り、背後に働く悪しき力に戦っていきましょう。壁を崩しましょう。
 また友人や知人、会社の同僚という関係等において「隔ての壁」があります。同僚の中で、「あの人だけは許せない」という憎しみはありませんか?その憎しみによって、悪魔はその人を束縛してきます。また同僚に対して無関心な人はありませんか?どんなに周りで困っている人がいても、無関心であったらそこにも壁があります。ぜひその壁を打ち砕いて頂きましょう。私たちの周りは、まだイエスさまを神と信じない人だらけです。そのような方たちに対して、救霊の愛はありますか?憎しみや嫌な感情があったり、救われて欲しいと全く思わなかったら、そこに壁があります。愛がないという事は、隔ての壁があります。全ての人を愛せるように祈りましょう。特に憎しみから解放されるように、祈りましょう。
 もう一つは教会や教団の中に「隔ての壁」があります。この新城教会においても、過去分裂がありました。その壁を打ち砕いて頂きましょう。全ての教会の祝福のために祈りましょう。お互いに傷があると、祝福を祈れなくなってしまいます。その壁を崩して頂きましょう。なぜ同じイエス・キリストを信じていながら、一致できないのでしょうか?一緒に働く事ができないのでしょうか。同じイエスさまを信じて、祈っていながら、批判しあうのでしょうか?教会と教会。教団と教団の間に高い壁が存在します。今年は、教会間の壁が崩され、福音宣教のために一つとさせて頂けるように、壁を砕いて頂きましょう。
 また、国と国の壁のために祈っていきたいと思います。特に今年は五月に韓国リバイバルミッションがありますが、韓国のためにぜひ祈って下さい。いつも祈って頂いていると思いますが、本日も滝元順牧師夫妻が決起大会を行っています。水曜日まで行って、木曜日に帰ってこられます。ぜひ取りなして祈って下さい。私たちは日本にいるから関係ないというのではなく、ぜひとも祈って頂きたいと思います。今日青年会のメンバーが十七名韓国に行かれますが、あの拉致問題において、横田さんたちが必死に訴えて、政府まで動かし、日本中の人々が関心を持ったように、まず青年会のみなさんが必死に祈ってこられ、それがこの教会全体に火がつくように祈ってきて下さい。北朝鮮や韓国の壁が崩されるように、韓国と日本の壁が崩されるように。祈ろうではありませんか?昨年の七月に来られたキム監督の一行はいつも日本のために祈って下さっています。今回青年会のメンバーもその「日本のために祈る祈祷会」に出席されるそうですがその火を頂いて、今度は日本で韓国のために熱き祈りをささげる事ができるように願います。韓国のことを考えると、「主にふれられた、聖き器だな」と思わされます。日本は過去の歴史の中で、虐殺や従軍慰安婦など韓国に対して大変申し訳ないことをしてきました。しかしそれを乗り越えて日本のために祈って下さっています。私たちも壁を崩して頂きましょう。私たちは簡単に、「韓国を祝福します」と言う事はできます。しかし

『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』

日本が韓国に犯した様々な罪を心から悔い改め、韓国を祝福しましょう。今日、もう一度イエスさまをあがめ、まず聖さを求めましょう。今日これから聖餐式を行います。あなたのために、あなたが永遠のいのちを持つために、イエス・キリストはご自分を身代わりとして、十字架にかかって下さいました。そして、葬られ、三日目によみがって下さいました。あなたが地獄に行くところを救って下さり、キリストと一つにさせて下さいました。
拉致問題の方たちが必死に訴えているように、また韓国の方たちが北朝鮮との統一を必死に祈るように、私たちも自分の中にある壁を砕いて頂き、リバイバルのためにとりなして祈っていきたいと思います。義に飢え渇いて行きましょう。水が無かったら、苦しくて、のたうち回って水を求めるように、義を求めて行きましょう。そうしたら満たして下さいます。イエスキリストを信じる信仰によって「隔ての壁」を砕いて行きましょう。もう一度エペソ人への手紙二章一四節を読みたいと思います。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし』

イエス・キリストこそが、問題の壁を崩して下さる方です。悔い改めるということは、ある時は恥ずかしいかもしれません。男なのに妻に頭を下げることはできないとか、私たちには様々なプライドがあります。しかし今日はそのプライドを打ち砕き、徹底的に隔ての壁を崩して頂きましょう。韓国リバイバルミッションのテーマのみことばは、エレミヤ三十一章三節〜四節です

『主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。』

「おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。」

建て直しというみことばを教会に与えて下さいました。夫婦が親子が、同僚が、教会と教会が等々壁が崩されるように、イエスキリストの名によって祈りましょう。「再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう」とあります。苦しいときは踊ったり喜ぶことはできません。しかし建て直され、一つになった喜び、願いがかなった喜びを頂く事ができます。今までの束縛。隔ての壁が今年は崩されて、祝福を頂く記念の年です。今あなたが一番感じている隔ての壁のために祈りましょう。その壁を、イエスさまの名前によって、飢え渇いて祈りましょう。そしてあの拉致被害者の人たちが、必死に訴えた声が総理大臣に届き、アメリカの大統領に届いたように、必死になって祈り権威ある全能なる主に聞き届き、動いて頂けるように必死に祈りましょう。そして、壁が崩され、私たちが見たことも聞いたことも思い浮かんだことがない。あなたが驚くことを、主があなたに計画していて下さり、今年は答えを下さる記念の年です。今年の私たちクリスチャンは違います。建て直されます。最高の希望と祝福を頂くことができます。種まきの例えのように、百倍の祝福を下さいます。普通ではありえないことを、神さまは私たちの生活の中に表して下さいます。今日神さまの前に祈りましょう。そして、砕かれて、イエスの名によって壁が崩れ落ちるように祈りましょう。お祈りします。

「愛する主よ。今、あなたの御前に出ています。まずわたしたちを聖めて下さい。そして私たちの持っている様々な隔ての壁を崩して下さい。一つにならなければならないのに、愛せない人がいます。霊的に隔ての壁があります。その壁をイエスキリストのみ名によって、崩して下さい。今日はいままで二つに分けられていたものが、イエスキリストにあって一つになりますように。今年は満ち足りる年となりますように。今年は記念の年となりますように祈ります。主のみ名によってお祈りします。」アーメン


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