天国はあなたのためにあります。


2009.2.1(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

マタイの福音書4章23節〜25節
「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒された。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」

 ハレルヤ!こうして皆さんの前でお話しできますことを、心から感謝します。私のために祈っていただき、心から感謝します。
 先週の日曜日、私は韓国にいながら、新城教会の礼拝に出席しました。というのは、新城教会では、海外や遠方に住んでおられるなど、事情で礼拝に足を運ぶことのできない兄姉のために、コンピューターを通して礼拝音声を配信しているからです。料金のかからない、スカイプという通信方法で、十数名の方々が毎回利用されています。先週は韓国での礼拝奉仕が午後からだったので、午前中は空いており、スカイプに加わって礼拝に出席させていただき、とても恵まれました。賛美も一緒にできましたし、「うちの娘が昔太っていた」などと話されていましたが、それは“まこと”でございます。
今の時代は、とても便利です。世界のどこにいても、同時刻に共に集まることができるのです。今朝も、コンピューターを通して、多くの方がこの礼拝に加わっておられます。ただ、無料のシステムなので、途中、しばしば回線がとぎれてしまい、改善しなくてはと思っています。
さて、韓国リバイバルミッションの働きも、あと110日あまりに迫ってきました。まだまだ、これからどう進めたら良いのか分かりませんが、主が一歩一歩道を開いて下さると信じます。

話は変わりますが、今週は私にとって、特に忙しい週です。月曜日はリバイバルミッションの定例会議があり、火曜日からは神学校があり、また、水曜日には韓国から十数名のお客様が来られ、二月七日は、いよいよ私の娘の結婚式です。昨年までは、年が改まってから結婚式について考えれば良いと思っていましたが、今年になって大変忙しくなって、今頃になってようやく慌てて準備し始めた次第です。皆さんにも、日程の連絡が遅くなってしまい、本当に申し訳なかったのです。娘の結婚式どころではない状態でした。しかし、クリスチャン同士で結婚させて頂き、新しい家庭ができるのは感謝です。
また、今回の結婚式のため、彼女が二年間アメリカでお世話になった、ジョー・ハイト先生が来て、司式をしてくださることになりました。また、2007年のハワイリバイバルミッションが、彼女の人生にとって大きな転機でしたが、その時一緒に働いた仲間達が海外からも駆けつけて下さるそうで、ありがたく思います。皆様も、是非ともお越しくださいませ。
ジョー先生は、来週の日曜日はここで礼拝を導いて下さいます。様々な働きがありますが、それらが全て、神の国の拡大のために用いられるように願っています。

今日は、「天国はあなたのためにあります」というタイトルで、お話しを進めていきたいと思います。
人生は長いようで短いです。今年私は五八歳になります。いつも話しますが、中学時代の東郷中学校一年C組の名簿番号を今でも覚えています。つい先日まで、あの道を自転車に乗って通っていたなぁと思っていたら、何と、あっと言う間に五八歳になってしまったわけです。娘が小さな頃の写真が出てきて、その中の私を見た人が、「順先生にも髪があったんですね!」と昨日もびっくりしていました。今は“髪なく望みなく”と、なかなか大変なご時世になってしまいましたが、「ここまで年をとればなんでもいいや」と開き直ったりもします。
人生には出会いもあれば、別れもあります。今週の土曜日は私にとって、辛い別れの日です。結婚式というのは嬉しいですが、男親にとって娘の結婚式は、寂しい別れの日でもあるわけです。私がどんな顔をするのか、みなさん楽しみにしていて来て下さい。案外普通だろうと私は思っていますが、その時にならないと分かりません。
私は岡本信弘先生が娘を嫁がせるときには、絶対に号泣するだろうと、今から“預言”しておきます。彼はなかなかエモーショナルですから。でも、私は少し冷たいところもあるので、多分泣かないと思います。

やっぱり人生というのは、色々な出会いや別れがあったりして、過ぎていくわけです。しかし最終的には、誰でも、この地上から出て行く悲しい運命にあるのです。
ここにおられる方々も、100年経って戻ってみたら、誰もいないと思います。今の赤ちゃんの中で、一人か二人くらいは生き残っているかもしれませんが、この会堂もぼろぼろになって建っているかもしれません。しかし、今座っている方々は、私を含めて、誰一人ここには居ないのです。この近所を聞きまくり、「滝元さんという人がこの辺に住んでいたと思うんですが、知っていますか?」「それはいつのことですか」「100年ほど前です」「100年前ですか、それは分かりませんね、他を当たってくれますか」と。そんな風になるのではないかと思います。

人間というのは、この地上に命を受けたからには、必ずこの地上から出て行かなければならない、限りある存在です。しかしそんな中、クリスチャンになることは、本当に素晴らしいです。なぜなら、この地上でどんな別れを体験したとしても、必ず再会があるからです。私達はやがて神の国、天国に行くことが出来る望みがあるからです。
「天国はあなたのためにあります」、今、イエスキリストを信じているならば、天国でまた再会できるのです。ということは、お隣の方とあなたとは、永遠におつきあいをする仲間です。お隣同士顔を見て下さい。「この人と一緒に永遠に過ごすなんて、たまったものではない・・・」などとは言わないで下さい。お隣の方に、「永遠に宜しくお願いします。」とご挨拶をしましょうか。

これは冗談ではないのです。「2009年2月1日に、教会で挨拶したけど、あれは本当だったね」と、天国で語り合う日が来るわけです。
聖書は私たちに、死後の世界まで、はっきりとした答えを与えています。日本人は死後の世界観が定まっていないのです。どういう風になるのか、全然わかっていないです。死んだら霊になって、どこかを彷徨うのか、皆が拝んでくれなければ地獄に行くのか、天国に行くのか、わけがわかりません。
しかし、聖書は死後の世界、永遠の世界について明確に語っています。

「死後の世界」について、一番わかりやすい箇所は、イエスさまが語られた、ラザロと金持ちの話です。そこには死後の世界観がしっかりと提示されています。やがて私達もそこに行くわけですから、大切なので、少し長いですがルカ一六章一九〜三一節を、「リビングバイブル」で読んでみたいと思います。リビングバイブルだとわかりやすく、楽しく読めますので、私が朗読させて頂きます。

 イエスは話を続けられました。 「金持ちがいました。きらびやかな服を着、ぜいたくざんまいの暮らしでした。ある日のこと、その家の門前に、ひどい病気にかかったラザロというこじきが横になっていました。金持ちの家の食べ残りでもいい、とにかく食べ物にありつきたいと思っていたのです。 かわいそうに、犬までが、おできだらけのラザロの体をなめ回します。やがて、このこじきは死にました。 御使いたちに連れられて行ったのは、生前神を信じ、正しい生活を送った人たちのところでした。 そこで、アブラハムといっしょにいることになったのです。 そのうち、金持ちも死んで葬られましたが、彼のたましいは地獄に落ちました。

苦しみあえぎながら、ふと目を上げると、はるかかなたに、アブラハムといっしょにいるラザロの姿が見えます。金持ちはあらんかぎりの声を張り上げました。 『アブラハム様ーっ! どうぞお助けを。 お、お願いでございまーす。 ラザロをよこし、水に浸した指先で、ほんのちょっとでも舌を冷やさせてください。 この炎の中では、もう苦しくて、苦しくてたまりません。』
しかし、アブラハムは答えました。 『思い出してもみろ。 おまえは生きている間、ほしい物はなんでも手に入れ、思うままの生活をした。 だがラザロはどうだ。 全くの無一物だった。 それで今は反対に、ラザロは慰められ、おまえは苦しむのだ。それに、そちらへ行こうにも、間に大きな溝があって、とても行き来はできない。』

『ああ、アブラハム様。 それならせめて、ラザロを私の父の家にやってください。まだ五人の兄弟がいるのです。 彼らだけは、こんな目に会わせたくありません。どうぞ、この恐ろしい苦しみの場所があることを、教えてやってください。』
『それは聖書が何度も警告してきたことではないかね。その気があれば、いつでも読めるはずだよ。』金持ちはあきらめません。

『でも、アブラハム様。 彼は、聖書を読みたがらないのでございます。ですが、もしだれかが死人の中から遣わされて行ったら、彼らも罪深い生活から立ち直れるでしょう。』
アブラハムはきっぱり言いきりました。 『モーセと預言者たちのことばに耳を貸さないのなら、だれかが生き返って話したところで同じことだ。 彼らは聞こうとしないだろう。』」

 この中から、魂は永遠に不滅だということがわかります。しかし、このストーリーは、金持ちが地獄で、貧乏人が天国に行くという話ではなく、神を信じていたラザロは、信仰のゆえに天国に行くことができたという話です。
 神を信じるとは、神の支配下にありますから、やがて神が完全支配している国に入ることが出来るのです。
 しかし、金持ちは、地上では天国のような生活をしていたかもしれませんが、神を神とも認めない、自己中心的な生活をしていたのです。彼も同様に死にましたが、神を信じないもの達が行く、「地獄」に堕ちたと記されているわけです。

 地獄とは何かというと、悪魔が完全支配している国です。「イエス・キリストを信じない」とは、悪魔の支配下にあるのですから、死後は、悪魔が完全支配している国に行かなくてはならないのです。そこは火が燃えていて、熱くてたまらない苦しみの場所です。
 金持ちの「魂が地獄に堕ちた」とありますが、「私の舌を冷やさせて下さい」と語っています。それは、死後の体があることを意味しています。死んで魂が肉体から抜け出た瞬間、今度は永遠に朽ちない体に宿るのです。

 この地上で、天国で過ごすのか、または、滅びの国で過ごすのか、どちらかを定めなければなりません。イエス・キリストを信じることは本当に素晴らしいです。永遠の世界が変わるわけですから、そんなすごいことはありません。
今日、皆さんがイエス・キリストを信じているならば、どこへ行くのでしょうか。それは永遠の国、天国に行くことができます。今日、私達はイエス・キリストを主と信じて集まりましたが、皆、天国に行くことが出来るのです。

また、この箇所から、死後の世界同士では、会話が成り立つとことがわかります。地獄の金持ちは、天国と会話しています。どんな会話でしたでしょうか。それは、「地上に、何とか伝えてほしい」という願いでした。この金持ちは苦しみの中にもだえていましたから、自分の家族に、「こんな苦しいところに来ないように」と、伝えてほしいと願ったのです。
しかし、その願いは叶えられませんでした。また、ラザロが生き返ってくれるようにとも願いましたが、それも却下されました。これは何を表しているでしょうか。

それは、「死後の世界と、生ける者との世界は、直接、コミュニケーションできない」ことを意味しています。
けれども、日本人は、「死者とのコミュニケーションが可能である」という世界観に生きています。そしてその前提で、祖先崇拝をしていますが、それは間違いです。しかし、祖先崇拝によって、もしも何らかのコミュニケーションが成り立つとしたら、それは死者とコミュニケーションではなく、「死者のふりをし、先祖のふりをしている存在、すなわち、悪魔・悪霊ども」とコミュニケーションしているのです。

金持ちは苦しみの場所で、「何とかこの場所に、自分の家族が来ないように」と願っています。天国に行った人も、地獄に行った人も、地上に対して何を願っているのかというと、「皆救われて天国に入って欲しい…」、その事を願っているのです。
不幸にして永遠の滅びに行った人たちが私達の祖先の中に居たとしても、「わしを拝んでくれ、供養してくれ」などと願っていないのです。
「こんなに苦しいところに来ないでくれ!」と叫んでいるのです。そして、何とかイエス様と出会って欲しい、と願っているのです。

金持ちは色々な条件を出して、ラザロがよみがえって、「私は天国から来ましたよ。地獄もありますよ」と話せばきっと、悔い改めて立ち返るのではないかと期待しました。
しかし、天からの答えは、「モーセと預言者達の言葉に耳を貸さないのなら、誰かが生き返って話したところで同じだ。彼らは聞こうとしないだろう」と言いました。
私達が天国のことをこの地上で話して、興味を持たなければ、そういう人達は、いくら死人がよみがえっても信用しないということです。
救われる道は、本人が神について興味を持ち、自分の意志で主を信じることがどうしても必要であることがわかります。
みなさんも、初めは誰かが教会に連れてきてくれたかも知れません。あるいは、家族がクリスチャンで、教会に来たのかもしれません。しかし、やがて自分で、イエス様を救い主として受け入れた時、救いが自分のものになったわけです。やはり、本人の決断が重要です。

さて、日本の教会は、今年で宣教150周年を迎えます。プロテスタント信仰が日本に入って一五〇年間、ずっと福音が伝えられてきました。
しかし現在、日本でどのくらいの人達がクリスチャンであるかというと、あまり多くはいません。寂しいことです。日本に今、教会は八千くらいあるそうです。しかし、日曜日に全国で礼拝を守っている数を総合すると、二十数万人ではないかと言われます。本当に信仰を持っているクリスチャンというのは、日本全体の0.2パーセントくらいではないかと言われます。0.2%のクリスチャン率の国は、世界でもあまり類を見ません。イスラム諸国は仕方ないとしても、普通は少なくとも、数パーセントはクリスチャンが存在します。

私はこの頃、韓国で奉仕させて頂いていますが、韓国では国民の25パーセント位がクリスチャンです。四人に一人です。日本とあまりにも差があるのです。どうしてこんなにも差があるのかと思います。
今日は午後から韓国リバイバルミッションのためのセミナーがあり、特に、朝鮮半島と日本との関わりの歴史を勉強し、とりなし祈る機会があります。歴史を知ることは、重要です。朝鮮半島、中国、アジアの歴史をさておいて、日本を語ることはできません。他の国々の歴史を知るときに、日本がよく見えてきます。

日本は、江戸時代までは中国に目が向いていました。しかし、明治維新とともに、西欧に目を向け、方向転換をしたのです。だからあたかも、江戸時代以前の歴史は、神話くらいにしか思わず、明治維新以降が日本の歴史であるかのように勘違いしています。しかしそれは間違いです。歴史を通して、日本はアジアからの影響を強く受けました。そしてその多くは、朝鮮半島を経て、日本に流入したものです。日本の文化・習慣・宗教も、大陸から朝鮮半島を経て流入したものです。歴史的にも、民俗学的にも、宗教学的にも、バックグラウンドが同じである、日本と韓国。それなのに何故、キリスト教の受容率だけはこんなにも違うのか…。世界の宗教学者の中でも論議の的になっているというのです。ちょっとだけ離れた韓国に行くと25パーセントもクリスチャンがいるのは不思議な話です。

それにはやはり、どこかに原因があるはずです。今までの日本の宣教の視点はどんなものであったかというと、「イエス・キリストを信じたら天国。信じなければ永遠の滅び」を中心軸として、宣教がなされてきました。そのような視点で、戦後は結構、教会が伸びた時期がありました。戦争に負けて混乱していた時代には、大勢の人々が教会に押し寄せ、「イエス様を信じなければ天国に行けない。永遠の滅び」という鋭いメッセージに耳を傾けて救われました。多くの人たちが罪を悔い改め、「地獄には行きたくない」と応答しました。
何故なら、太平洋戦争で日本は地獄を体験したからです。「もう二度と地獄はごめんだ、天国に行きたい」と思ったのです。
そして占領軍の物資豊富な天国のような生活を見て、「私達も天国に行きたい」と思ったに違いありません。
何しろ、日本の福音宣教の中心的視点は、「死後の世界」に焦点が当てられ、「この地上で大変な事があったとしても、やがて天国に行くことが出来る、だから我慢してこの地上を過ごしましょう」というメッセージが多かったのです。

しかし、現代の日本人に、同じメッセージを発信しても、ほとんどの人がおとぎ話くらいにしか聞いてくれないのです。
ラザロと金持ちの話で、地上で生きている家族にラザロがよみがえって、「死後の世界があるんですよ」と伝えたところで、「彼らは信じないから無駄だ」と言われたのと同じように、150年間、「天国がありますよ、地獄がありますよ」というメッセージを伝達し続けたのですが、たったの0.2パーセントしか救われなかったのです。

教会がどのような内容のメッセージを社会に発信するかは重要です。天国と地獄についてのメッセージはたいへん重要ですが、そこに行き着くまでに何をしなければならないかが問われている時代です。
そんな中、イエス様がどのような働きをされたのかについて、もう一度学び直し、見習っていかなくてはなりません。
私達は、天国は、「やがて行くところ」として考えていますが、イエス様の働きを見ると、マタイ四章二三節、「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、み国の福音をのべ伝え、民のなかのあらゆる病気、あらゆる患いを治された」とあります。

イエス様も、御国(天国)の福音をのべ伝えられたわけですが、それと共に、わざが伴ったのです。それは、あらゆる病気、あらゆる患いがイエス様によって癒された、と記されています。その噂が、ガリラヤ全土に流れ、その結果、シリア、デカポリス、ユダ、エルサレム、ヨルダンの向こう岸などから、人々が集まってきたのです。
私たちも同じ福音を語っているつもりなのですが、どこかが違うのです。

韓国には世界最大の教会があります。それがチョー・ヨンギ先生が開拓された、「ヨイド純福音教会」です。現在、どれだけの教会員がその教会にいるかご存じでしょうか。
今、新城教会に登録されている人数は、六百数十名おられると思います。一週間に、実数で大体五百から六百名の方々が集まります。日本では新城教会も大きな教会と言うことができるかと思います。しかし、そんなことで威張れたものではありません。なぜなら、チョー・ヨンギ先生の教会は、実に、「七十五万人」も登録されているからです。新城の人口は三万五千人でしたが、合併して、5万人くらいになりました。豊橋の人口は三十万位かと思いますが。
ヨイド純福音教会は七十五万人です。近頃、あまりにも多すぎるものですから、40万人くらいに教会員を減らしたいそうです。日本教会は、ザルか何か持って行って、おこぼれを受け取りに行きたいくらいですが。それは、教会を独立させるという意味らしいのですが。

チョー・ヨンギ先生が開拓を始めた当初は、朝鮮動乱後のどさくさの中であったそうです。その時、教会員はたった4名位しかいなかったそうです。それはちょうど、私の父が開拓伝道を始めたのと同じ時期のスタートです。しかし、かたや75万人、かたや六百人、この差はいかに、という感じです。
同じ福音をのべ伝えながら、どこかが違うのです。同じみ国の福音を伝えながら、どこかが違うのです。

先週、私は韓国に行きましたが、チョー・ヨンギ先生の教会は新聞社も経営しています。「国民日報」という新聞社で、韓国の四大紙の一つです。先週は、同紙に韓国リバイバルミッションのことを取材してもらい、新聞記者とお話しさせて頂いたのですが、何人くらいの記者が働いているのかと聞いたら、「四百人くらい」と言われました。ビルも十数階建ての大きなビルで、たいしたもんだと思いました。
今回、韓国リバイバルミッションはチョー・ヨンギ先生にも、講師を要請をしています。まだどうなるかわかりませんが…。

私は日本に帰ってから、先生のメッセージをコンピューターで拝見しました。そうしたら、とても恵まれました。
そこで今朝、私はチョー先生に、「十数分でいいですから、新城教会でメッセージお願いします」と頼んだわけではないのですが、そのメッセージをダウンロードしましたので、皆さんにお見せしたいと思います。七五万人の教会牧師のメッセージですから、私のような田舎のおじさん牧師とは訳が違います。しかし、風貌はよく似ています。頭などはそっくりです。だから結構親しみがわくのではないかと思います。
初めは小さな教会が七十五万人にもなったのは、どこに秘訣があったのか…。チョー・ヨンギ先生のメッセージは、神の国に関しての理解を、もう一度問うものでした。17分くらいの短いメッセージですが、私が語るよりずっと良いと思いますので、しばらくチョー・ヨンギ先生のメッセージを聞いていただきたいと思います。では、よろしくお願いします。

CGNTVより

 私は1958年に神学校を卒業し、牧会を始めました。当時、韓国は朝鮮戦争の苦難を乗り越えられずにいました。非常に無秩序であり、絶望的であり、挫折せざるを得ない状況でした。神学校を卒業した私は、行く当てもなく、テント一つを担いで、ブルカンドンに出て許可も得ずにテントを張りました。テントを見た地主にこっぴどく叱られ、土下座をしてあやまりながら、手を合わせて頼みました。「費用を出すから」と頼むと、やっと許可を出してくれました。24人が入れるほどのテントです。240人が入れるテントならまだしも、24人用のテントをはって、地面に藁を敷き、福音を伝え始めました。しかし誰も来ないので伝える相手もいませんでした。

 当時はチョルラドンやキョンサンドンやチュンチョンドンからソウルに上京した人たちが、生活に苦しく、行く当てがないと、ブルカンドンにテントを張って生活していました。全ての人が食べ物に困り、挫折し落胆していました。酒飲みや娼婦、詐欺師や暴力団が沢山住んでいました。彼らに、「悔い改めて天国に行こう」と言っても見聞きもしません。彼らの生活とは全く関係のない世界を伝えたため、彼らにとって福音は、良い知らせではなく、めんどうくさい知らせでした。どこに行っても脅迫され、暴力団が“テントを焼き尽くす”と脅すなど、苦難を受けました。私がいくら、「イエス様を信じて天国に行きましょう、そうしなければ地獄に行く」と叫んでも、その声は空しく響くだけでした。

 ある日、その地方で名の知れた家へ伝道するために向かいました。ユ・ハムン氏という北から避難した人で、息子が9人もいました。娘はいませんでした。奥さんと一緒に住んでいるのですが、なぜこの家が有名かというと、父親が酒飲みで10年間、酒を飲み続けたのです。
 昔はソウル市内の全ての下水が、ブルカンドンに集まったのですが、その近くにテジョ町がありました。その近辺は、下水の悪臭が匂います。しかし酒飲みの父親は、その下水に入り“お風呂”につかります。それで有名だったのです。すると奥さんが来て、首にロープを蒔いて引っ張り出し、川に行って体を洗って、家に帰すのが常例となっていました。その息子達も人の靴を磨いたり、人の物を盗んで生計を立てていました。

 彼らは貧しく飢えており、阻害され、捨てられた人々でした。私は祈りをもってその一家に伝道する覚悟をして訪れました。
 訪問したその家は、最近では博物館にも展示されていないような、土で建てられていた小さな家でした。貧しく、ほぼ崩れかけた家のドアをノックしたら、奥さんがドアを開けました。その顔は痩せこけていました。「誰ですか?」「この町に教会を建てた伝道師です。イエス様を信じて天国に行きましょう」
 すると彼女の顔に怒りがこみ上げ、「天国なんか生きたくない!」と言いました。何で天国に行きたくないのかと聞くと、「イエスはみんな嘘つきだ、だから天国なんか行きたくない!」と答えます。
 そこで私は、「天国に行かなければ地獄に行くしかないですが、地獄に行ったらどうしますか?地獄の火はとても熱いですよ」と言うと、「地獄?今すでに私は地獄にいるよ。考えてみなさい。夫は十年間アルコール中毒で収入もないし、九人の息子は道端で靴を磨いたりスリをしたりしているのよ。こんな私が地獄が怖いと思う?この五坪もない家に、布団は一つしかない。そのぼこぼこ綿が出てる布団に白頭山、漢学山布団と名前をつけたんだよ」と。その布団で、父親も息子も皆で寝ます。本当に貧しいのです。
 その奥さんが言ったことは正しいです。この状況が、地獄みたいなのに、これ以上の地獄はないのです。

 だから、「地獄云々言って脅迫するな。私はすでに地獄に住んでいるんだよ」と。「それなら天国に行きましょう」「そんな嘘をつくな。死んだ後に素晴らしい天国に送ってくれる神様なら、今、生きていつ時に、少しでも天国をくれればいいのに。本当に神様がいて、死んで天国に行けるなら、生きているときに天国をおくれ。私にとって天国とは、毛布数枚と、食事に困らない事だ。そのくらいの天国もくれないくせに、天国に行ってきらびやかな所で暮らすなんて、筋が通らない。早くここから出て行ってくれ」と、怒鳴りながら私を追い出しました。

私は伝道しに行ったのですが、その婦人の言い分は正しいのです。その婦人にとって地獄が怖くないのは、すでに今、地獄に住んでいるからです。本当に私達の想像を絶するものです。
天国も同様です。天国がそんなに美しい所ならば、婦人が望んでいる、小さな天国、毛布数枚と、毎日の食事もくれないそんな神様が、死んだ後、きらびやかな天国をくれるなんて信じられない。
私は伝道しに行ったのに、逆に説得させられてしまいました。私の心は懐疑で一杯でした。「私は本当に神様を信じているのか?本当に天国はあるのか?」そんな疑問が生じました。
伝道に行くときは、堂々と自信を持って行ったのですが、帰ってくる時は自信をすっかり無くしてしまいました。

テントの教会に戻って跪き、「神様、私はどう伝道すべきですか?神学校で学んだ勉強は、この人達とは何の関係もありません。貧しく飢え渇き、絶望的で病んでいる人に向かって、『悔い改めなさい、天国が近づいている』と言っても、何の意味もありません。
このままでは私は牧会はできません。しかもその婦人の話を聞くと、私が説得させられました。本当に神様が生きておられるなら、生きているときに少しでも天国を下さい。私は福音を伝えるためにここへ来ました。ノンクリスチャンはビルを建て、大きな劇場やダンスホール、飲み屋を建ててそこには人が大勢集まっているのに、私は24人用のテントに、臭い藁の上で跪き、ここの人達は、『神様がいるなら、神様と二人仲良く過ごせ』と言って、私の所には誰も訪ねて来ません。私も混乱しています。」と祈りました。

それで私は跪き、ひれ伏して、全ての先入観を捨てて、聖書を改めて読み始めました。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ・使徒の働きなどを、初めて聖書を読む人の態度で、跪いたまま読んでいきました。
私が今まで知っていたイエス様と、聖書に書かれているイエス様とは、全く違いました。神学校で教授が教えてくれたイエス様と、聖書のイエス様は全く違いました。聖書のイエス様は天国について語るのではなく、行く所々で、天国を分け与えていました。
罪人の罪を赦し、病人を癒し、悪霊を追い出し、飢えた人に食べ物を与え、孤独な者に平安を与え、死人を生かし、天国に行けと言いました。だから信じない人は居ませんでした。イエス様は天国について語るのではなく、天国を分け与えて下さるのに、私は天国について語るだけで、分け与えていませんでした。だから私は何もできませんでした。

私は跪き、涙を流しながら祈りました。神様と私は違います。神様は直接人に会って、彼らが足りない物を満たしました。罪人には赦しを、孤独な者には平安を、飢えた人には食べ物を与え、死人を生かし、病人を治しました。悪霊を追い出し、生きているキリストを伝えたのに、私は、歴史的なキリストを伝えるだけで、天国を分け与えることができません。これからどうすればいいのでしょうか・・・」と涙を流しながら祈りました。

すると、「あなたも天国を分け与えなさい」と聖霊が言われました。「主よ、私は天国を分け与える力がありません。私にはそんなことはできません。」「だからお前は駄目なんだ。イエス・キリストは昨日も今日も同じで、今日も生きておられ、お前と共にいるのだから、私が行ったことを、お前がやらなければならない。お前も生きている主を伝え、天国を分け与えなさい。生きている聖霊運動をしなさい。文字だけの信仰生活ではなく、生きている聖霊運動をしなさい」と。

沢山の祈りをもって、再びその婦人を訪ねました。今回は平安をもってドアをノックしました。「また来たの!?」
「いい知らせがあります。」「どんな知らせ?」「あなたの夫がアルコール中毒から解放される知らせです。あなたの息子達が学校に行って勉強し、立派な大人になる知らせです。あなたの胃腸と心臓病が治り、人間らしく生きられるように、小さな家を建ててくれる人を紹介するためにここへ来ました。」
「そんな人いるわけないでしょう」「それがいるんですよ。彼に会えば、人生が変わります」「変ね、この前はそんなこと言わなかったじゃない」「この前は言いませんでしたが、今はこれを伝えたいと思います。その人に会って下さい。私が紹介します。会えば人生が変わります。」

すると彼女は、何も言わずにサンダルを履いて、私の後ろについてきました。「これか!」と思いました。この前は反抗心むき出しだったのに、人生を変えて下さる方を紹介すると言ったらついてくるのか。この町の人にこう言えば、みんなついてくるかもしれない。本当にいい気分でした。

田舎道を通り、山に登り、テントに着きました。私が建てたテントですので、とてもいい加減なテントでした。私はもともと図工は苦手でして、テントは左に偏っていました。そのテントの前で、婦人はその人はどこにいるのかと聞きました。
私は、「その人はこの中にいます」とテントを指さしました。

婦人はテントの中をのぞきました。藁をしき、説教題は土を固めて作り、リンゴの段ボールを一個たてておきました。テントの中を見てから私を見て、婦人はお腹を抱えて笑いました。
「あなたの人生も、私の人生とあまり変わらないのね」
私は衝撃を受けました。『これで教会に出てこなかったらどうしよう・・・』
「その通りです。あなたの人生も、私の人生も同じようなものです。だからこそ、私も人生を変えて下さる方に、会わなければなりません。一緒に会いましょう」
婦人は人生を変えて下さるという希望があるので帰りませんでした。人は希望がないと生きられないのです。希望のメッセージが大切なのです。
この様にして、テントの教会で初めて伝道しました。早朝に祈祷会を持ちました。夫をアルコール中毒から解放するために祈りました。信徒は併せて10人以下でしたが、共に祈りました。
すると、その夫が酒に酔って、私達の所に来てこう言いました。「俺が酒を飲まないように祈ってるんだって?最近、酒の味が格段に美味くなった。君たちの祈りがおれのおつまみだよ」
お酒の匂いをぷんぷん匂わせて、そんなことを言いながらも、教会に座っていました。私はとても落胆してしまいました。「すぐお酒から解放されると思ったのに、彼がお酒が美味くなったなんて言うから、祈っているのにお酒が美味しいなんて、どうすればいいのだろう・・・」
それにも関わらず、彼は酔っぱらっては教会に来るのです。そして、小言や悪口を言いました。

三ヶ月後、婦人は手紙を書いて息子に託し、私に届けさせました。その手紙には、昨日夫が酔っぱらって斧を振り回し、みんな殺してやると叫んだあげく、今は昏睡状態です。早く来て下さい、こう書かれてありました。「アルコールから解放するつもりが、昏睡状態で死んだらどうしよう・・・」
私は、その人の家へ夢中で走りました。行ってみると夫は昏睡状態で、いびきをかいていました。
私は酒の悪霊を追い出そうと、「イエス・キリストのみ名によって命令する!アルコール中毒の悪霊よ、出て行け!」
そう言いながらも、私は悪霊を追い出す人を見たことがありませんでした。教授も教えてくれませんでした。だから自分がちゃんとやっているのか、間違っているのか分かりませんでした。それにも関わらず「出て行け」と言うと反応し、グェーグェーと叫んだりします。「出て行け!」と言うと「出ないぞ!」と答えます。それで私は、「何が出ないんだ?」と聞きました。何が何だか分からなかったのです。
この人が出ないと言っているのか、悪霊が出ないと言っているのか分からなかったのです。
それでも「出て行け!」と言いました。すると気絶してしまいました。その時から彼はお酒をやめて、完全に人が変わりました。後に彼は、私の教会の長老になりました。
(ここまで、チョー・ヨンギ師のビデオ/CGNTVより)

アーメン、皆さん大きな拍手をしましょう。ハレルヤ!
 今も述べられていたように、チョー・ヨンギ先生は、やがて行く天国を伝えていたのですが、行き詰まったときに、イエス様の働きは天国を指さす働きではなく、天国を引き下ろす働きであることに気づかされたのです。
 イエス様はいろいろな場所で、天国を分け与えられた方であったと気付いて、それを実践したときに、リバイバルが起こったということです。
 まさにイエス様の働きは、そのような働きでした。「御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒された。」
 その結果、「こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」

 これは、本当に重要な視点だと思います。私たちは天国を指さすだけの働きではなく、教会は、天国を引き下ろす者達の群であるのです。
 先ほどもみなさんとともに、主の祈りを祈りましたけれども、その中でどのように祈ったのでしょうか。マタイ六章九節〜十一節。

だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

 イエス様は、天国に行けるようにではなく、「御国が来ますように。神の国の支配がこの地上に現されますように祈りなさい」と勧められたわけです。
 日本宣教150年をむかえて、今度は何をしなければならないのかというと、天国を指さす働きだけではなく、天国を引き下ろす働きをしなければならないことを教えられます。イエス様は生きておられ、私達のただ中におられ、御国を私達のただ中に引き下ろそうとされているのです。私たちの教会は、かくありたいと願っています。

 今日は嬉しい知らせがあります。それは、皆で祈り続けていた、Mくんかついに退院して、礼拝を共にしているからです。彼は退院しました。皆さん大きな拍手で共に喜びましょう。主に栄光をお返ししましょう。
 これは本当に天の御国が降りてこなかったら、実現しなかった奇跡です。この会衆の中で、彼ほど死に接近した人物もいなかったかもしれません。
 しかし、主が彼を癒されました。それも、死の力、悪魔の力が打ち破る、とりなしの祈りの結果として、彼は癒されたのです。

 私達は御国を引き下ろす為の働きに、さらに目を向けていきましょう。さて、神の国は、どこで確認できるのでしょうか。その事について、イエス様は、マタイ十二章二八節で教えておられます。

しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

 聖霊の力によって、悪霊が追い出されるのを見るならば、それは、神の国が来ている証拠だというのです。
 チョー・ヨンギ先生の教会のリバイバルも、まさに霊的戦いから始まりました。アルコール中毒でどうにもならない人に対して、どうやって悪霊を追い出して良いのか分からなかったそうですが、「出て行け」「出て行かない」というやりとりの中で、その人が出て行かないのか、悪霊が出て行かないのか、先生には分からなかったのです。
 しかし、悪霊が追い出され、その結果、男はアルコール中毒から解放され、そこから地域に住んでいる人々、すなわち、地獄の中に住んでいるような人達が次々とイエス様の所に来て、地上で神の国を体験していったのです。そして、永遠の希望も与えられたのです。

 実に、神の国はどこで見分けることができるかというと、「悪霊が追い出されるのを見たら、神の国が始まっている証拠」だというのです。
 この教会に一九九二年、霊的戦いが始まりました。ときどき、霊的戦いについて疑いの心を持つ人がいますが、それは「神の国の訪れそのもの」なのです。
 ただ、神の国を指差すだけでなく、地上に神の国が来るように祈る結果として、「悪霊の力が打ち砕かれるのを目撃する」ようになるのです。
 神の国の現れは、初めはからし種のように小さいかもしれませんが、やがて大きくなります。リバイバルの働きも、初めは小さな出来事から始まるのです。
 韓国リバイバルミッションの働きを通して、さらに主は、神の国の領域を広げようとされていると信じます。

 新城教会が単に天国を指さし、地獄を指さすだけの教会に留まるのではなく、天国をこの地上に引き下ろす、イエス様と同じ働きをする教会になりたいです。それは一人一人の信仰に関わり、また一人一人の祈りによってなされるものであると信じます。
 私達は心を一つにして、この地上から体験出来る、素晴らしい天国の中に生きようではありませんか。
 最後に一言お祈りして、今朝の礼拝メッセージにかえさせていただきます。

 ハレルヤ天の父なる神様、御名をあがめます。あなたはイエス様をこの世に送ってくださり、地上に天国を引き下ろす働きを始めて下さり、心から感謝いたします。その道は、永遠にもつながっています。心から感謝します。どうか私達の中にも、天の御国を引き下ろして下さい。家族の中に、御国を必要としている人が多くいます。神の国の支配を必要としている領域が多くあります。どうか勝ち取って下さい。背後で働いている悪魔の力が打ち砕かれ、人々が救われますように。主よ。日本を哀れみ、リバイバルが前進しますように。今日は御国を体験できることを感謝します。
 私達の祈りに答えて、Mくんも立ち上がらせてくださり、心から感謝致します。これは、同様に苦しんでいる人たち、悲しんでいる人たちを癒し、解放する働きが始まる証拠ですから、心から感謝いたします。
 今朝も天の御国がこの地上に降りてきますように。今から、あなたが流して下さった十字架の血潮と、また、裂かれた肉を記念して、聖餐式をもちます。このときに神の国が私達の所に訪れますように。あなたは昨日も今日も、いつまでも変わることがないお方であることを心から感謝して、イエス様の御名によって祈ります。アーメン


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