「主とともに歩む」


2009.2.15(SUN)
新城教会 岡本信弘 牧師

第1テサロニケ5章10節〜11節
「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」

 ハレルヤ! 心から主を賛美し、感謝いたします。

 皆さんのお祈りに支えられて、健康で主の奉仕ができることを感謝いたします。
 皆さんに祈っていただいている韓国リバイバルミッションまで、あと三カ月となりました。私は一月の終わりから、この一カ月の間に三度、韓国を往復しました。皆さんに、「大変ですねぇ」と言われるように、確かに、教会やプレイズ出版にいるよりも、飛行場に二時間前に行って待っていなければならないことは忍耐がいりますし、言葉もわからない国で仕事をするのは本当に大変です。しかし、この一カ月の中で、神様は色々なことを教えてくださり、韓国ミッションに向けても働きが前進していることを見ることができ、心から主に感謝し、また皆さんのお祈りを感謝します。

 昨年から順先生が韓国で、とりなしや集会を導いて霊的な準備をしておられますが、私は、事務関係の働きをさせていただいています。これからは広報宣伝、韓国の先生、兄弟姉妹とどのような協力体制でやっていったらよいのか、いよいよ細かい打ち合わが必要となってきます。そのために、これからも何度も韓国に行くことになると思います。
 メッセージの前に、少し現状をお伝えしておきます。

 昨年の七月にキム監督ほか七十名ほどの方々が新城教会に来られて、ともに祈り良い交わりの時が与えられました。その後、順先生が韓国へ遣わされ、決起大会などを行うと同時に、韓国の先生方に集まっていただき説明会を開き、広く協力を求めてきました。本大会会場の場所も早くから候補が挙げられていましたが、韓国では、その集会が開かれる年にならないと契約ができないと言われ、なかなか決めることができず心配していました。しかし、一月二十二日に明先生と一緒に行き、無事に会場の契約を済ますことができました。その会場のある仁川市の市長さんは、教会においても執事をされている敬虔なクリスチャンで、ミッションに協力してくださり、今回の韓国ミッションの実行委員長をしてくださる李浩文先生のお知り合いでもあったので、その契約の日、私たちは市長室にお招きいただき、親しくお話しさせていただきました。その際、市長は李浩文先生に、「兄の言うことは何でも聞かなければいけないから、韓国ミッションに協力します」と言って笑っておられました。その時の写真がこれです。

 左から私、明先生、市長さんで、順番に李浩文先生、金トウショク先生、そして、いちばん右に写っているのが二月から韓国ミッションのスタッフとして加わってくださったチェ先生です。チェ先生は、日本語が堪能で、日本の神学校を卒業されています。七月に監督さん一行が来られた時には、通訳をしてくださった方です。
 私もにこやかに写真に写っていますが、実は大変でした。前日、明先生、李浩文先生と一緒に、ホテルの最上階の最高級のレストランで、おいしい食事をごちそうになり、ホテルに帰ってきました。その時から「ちょっと体調がおかしい・・・」と異変を感じ始めました。私はいつも「絶好調」がモットーのような男なので、ちょっとした体調の変化でも気付くのです。案の定、この契約の日の朝、熱が出て、下痢で昨日食べたものは全部出てしまい、それから二日間、水以外何も口にできませんでした。この写真を撮った時にも三十分おきにトイレに行っていたような状態でした。しかし、契約、打ち合わせと無事に終えることができ、次の日、帰国した夜にはほとんど治り、日曜日には皆さんと一緒にカレーをおいしく頂くことができました。皆さんのお祈りを心から感謝します。

 その次の週にも事務的な打ち合わせのために、韓国へ出かけました。チェ先生や娘の泉と一緒に新しい事務所を見たり、ポスターやパンフレットをどうするかなどの話をしてきました。ここに持っているこれが、韓国リバイバルミッションのパンフレットと祈りのカードです。ただ全部が韓国語なので、皆さんにお見せしても内容はわからないと思いますが・・・。泉も皆さんの祈りに支えられ、韓国でも周りの方に親切にしていただいて生活しています。韓国語も少しは上達したようで(といっても、私にはよくわかりませんが)、少し会話ができるようになっていました。
 二月の一週目はこちらにいましたが、十三日に会場に一番近いブチョン市において開かれる説明会と、そのほかの打ち合わせのため、十日から十四日まで韓国へ出かけました。説明会にどれだけの方が集まってくださるか心配していましたが、百六十名の先生方・長老さん方が集まってくださり、皆さんから協力してくださるとの言葉をいただいたことを感謝します。明先生や、とりなしで訪韓していた順先生、ジョー先生も出席してくださり、李浩文先生、金トウショク先生等ともゆっくりと話し合いができたことも感謝でした。しかし、文化・習慣の違いもありますし、通訳を介しての話し合いなので、なかなかこちらの意向が伝わらなかったりすることもありますが、少しずつお互いの理解も深くなり、前進していることを心から感謝します。
 そんな中、韓国に行ってからゆっくりメッセージの準備をしようと思っていたのですが、思った以上に忙しく、ホテルに帰ってくるのが夜中という状態でほとんど準備もできないまま帰ってきました。いつも礼拝メッセージのためにはかなりの時間を割いて準備していますが、今回は準備不足で、ただイエス様に「助けてください」と祈りながら、ここに立たせていただいています。

今日、皆さんのお手元にミッションニュースと韓国ミッションツアーの申込書が手渡されたと思います。これも、JTBの確認がなかなかとれず、やっと昨日OKが出て印刷をしました。ツアーの内容を見て、「もう少し安かったら、こういうプランがあったら」と感じる人もいるかもしれませんが、セントレアから行く便は少ないので、席を確保するのが大変です。もし他に良いプランがあれば、三月末まではいつキャンセルしていただいてもかまわないので、皆さんの中で、今行こうと考えておられるは、まずは申し込んで席を確保したいただいた方が良いと思います。
 私も何度か訪韓して、「近くて遠い国」でなく、「近くて近い国」になりましたので、韓国語は全く話せませんが、皆さんのご要望に応えて、できるだけお手伝いをしたいと思います。いずれにしても、行かれる方も行かれない方も、ぜひ続けて韓国リバイバルミッションのためにお祈りくだされば幸いです。

今日は、先ほど読んでいただいた第1テサロニケ五章一〇節、一一節から「主とともに歩む」というテーマでお話をしたいと思います。

 私は、二〇〇八年最後の礼拝の時(十二月二十八日)、「選ばれし者」というタイトルでお話ししました。「ここにいるお一人お一人が皆、神様に選ばれた者ですから、神様の選びにふさわしい者となりましょう」と語らせていただきました。また、年末の越年聖会の時には、ヨシュア記一章を通して、私たちが信仰を持って前進し、目の前にある壁が崩され、今までに見たことのない奇跡が現され、主のみわざを見る年にさせていただきたいという願いを持って御言葉を語らせていただきました。イスラエルの民がエリコの城壁を崩して、前進していきましたが、それですべてが終わったわけではなく、その後も何度も戦いがありました。同様に、私たちクリスチャン生活も、「これで大丈夫だ、これで終わりだ」ということはありません。私たちがこの地上にある限り、戦いは続いていきます。

人生は限られています。長くても百年。百歳まで健康で生きられたら、本当に素晴らしいと思います。私は現在五十二歳ですが、今日まで、神様の恵みの中で生かされてきました。「これからどのくらい生きられるのか、どんな人生が待ち受けているのか」と時々考える時、明先生が八十歳になってもあのようにお元気で、リバイバルのために働いておられるのはすごい!と思います。私はどうかなぁと思います。
 人生を八十年と考えた時、人が生きている時間は約七十万時間。その中で、最も時間を使っているのは眠ることだそうです。平均二十万時間を睡眠に、また食事、入浴、トイレなどに平均六万時間を使っているので、これらを合わせると、人生の三分の一以上、三七パーセント程度を生活必要時間に費やしているそうです。私は食事をするのも入浴するのもあまり時間をかけないので、「平均が六万時間なら、私は二万時間くらいかな」と思いますが・・・。
例えば私が八十歳まで生きるとしたら、あと二十七年あるわけですが、実際に活動できる時間だけ考えるなら、あと十五年くらいかもしれません。この限られている時間の中で、私たちがどのように生きていくかが問題です。
 私たちは明日のことはわかりません。今日までは元気で健康でも、明日どうなるかは誰一人知るよしもありません。そう考えると、不安になったりしますが、私たちがいつも勝利の生活を歩む秘訣は、「主とともに歩む・主ととも生きる」ことです。

 ここにはクリスチャンになったばかりの方、五年、十年、二十年と生活しておられる方がおられますが、もしかしたら“困ったときの神頼み”というように、願い事があるとき、困った時だけイエス様と手をつなぎ、何もない時には、「イエス様、ちょっと先に行ってくさい。私は後から行きますから」、「イエス様、ちょっとそこで待っていてください。私は先に行きますから」というようなことがあるかもしれません。
子どもがお母さんの手に握られている時は守られているのに、美味しそうなものや楽しそうなおもちゃが目に入って、お母さんの手を離してしまうなら、危険にさらされるのと同様に、クリスチャンも神様から離れるなら、安心して生きることができなくなります。

 先日は鈴木陽介兄とリベカ姉の結婚式が行われました。大勢の方からの祝福の中、素晴らしい結婚式でした。これからもたくさんのクリスチャンホームが誕生していくことを期待し、祈っています。
 その日、「順先生はそわそわしていて、いつもと違う」と感じました。順先生にとっては嬉しい日でもあり、娘を手放す寂しい日だったと思います。結婚式の前の週、私は順先生に「信弘先生は、泉ちゃんが結婚したら号泣するに違いない」と言われました。確かに感激して泣くとは思いますが、寂しさはないと思います。今も離れて暮らしていますが、寂しいと思うことはありません。それは、夫婦が基本だと思っているからです。今年で結婚して二十九年になります。長いものだな、と思いますが、先日そんな話をしたら明先生が「僕たちは五十九年だよ」と言われました。一人一人が主とともに歩むことは素晴らしいですが、夫婦が本当に愛し合って、主とともに歩むのはもっと幸いです。皆さんも夫婦仲良く生活していただきたいと思います。

 これからもイエス様と手をつないで、イエス様をいつも身近に感じて生活していきたいと願っていますが、様々な試みの中で、イエス様を見失い、離れてしまいそうになることがあるかもしれません。
 旧約時代、モーセという人がいました。モーセの物語は、クリスチャン人生の縮図だと言われています。モーセは八十歳の時に神に呼び出され、四百三十年間奴隷生活をしていた二百万人以上とも言われるイスラエルの民をエジプトから連れ出し、約束の地カナンへと導く役を担いました。
 民は、今まで虐げられていた中から解放され、自由にされたと、初めは喜び勇んで出て行きました。しかし、結果がどうであったかというと、皆さんご存じのように、二、三週間あれば行くことができるカナンの地に入るまでに、四十年かかりました。なぜ、そんなにもさまよってしまったのでしょうか。地図を持っていなかったからでしょうか。いいえ、そうではありません。彼らが罪を犯し、神様から離れ、自分勝手な生活をしたために道が阻まれたのです。 
 最終的に、エジプトから出てきた人々の中で約束の地に入れたのはヨシュアとカレブの二人だけでした。それ以外でカナンに入れたのは、荒野をさまよっている間に生まれた子どもや孫たちで、出エジプトした民はモーセも含めてすべて死んでしまいました。

 イスラエルの民がエジプトから出て行ってすぐパロはイスラエルの民を手放したことを悔やんで、自分の軍隊を送って、もう一度彼らを引き戻そうと追ってきました。神様は荒野で昼は雲の柱、夜は火の柱を用意し、イスラエルの民の行く道を示してくださいましたが、後ろからパロの追っ手が近づいたのを知った民は恐れ、モーセに不満を言いました。

『エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れ出してこの荒野で死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことはこうではありませんでしたか。私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。事実、エジプトに仕える方が、この荒野で死ぬよりも私たちにはよかったのです。』(出エジプト記一四章一一節)

前には紅海が広がり、両方からふさがれてどうしようもなくなった時、神は奇跡を起こされ、紅海を割って乾いた地を出現させました。イスラエルの民が海の真ん中を歩いて向こう岸に全員渡り終えた時、後を追って海に入ってきたパロの軍勢は、水が元に戻っておおわれてしまったと書いてあります。そんな大きな奇跡を目の当たりにしながらも、彼らは何度も不信仰に陥って、神様に反逆した記事が載っています。「肉が食べたい。パンが食べたい。喉が渇いた」などと要求する民に対し、モーセは彼らのためにとりなしました。神様は彼らの要望に応えて、肉が食べたいときにはうずらを飛ばし、パンを食べたいとなればマナを降らせ、忍耐を持って養ってくださいました。
時々私たちも、「どうしてですか。なぜ、祈りが応えられないのですか」と不平や不満を言う時があります。でも神様は私たちに寛容を示し、見捨てることはないのです。

しかし、神様が嫌われる大きな罪があります。それが「偶像礼拝の罪」です。モーセはシナイ山で十戒を授かりました。それは出エジプト二〇章に書かれていますが、この十戒の最初に挙げられていることは、『わたしのほかに、ほかの神々があってはならない』。次には、『偶像を造ってはならない。拝んではならない。それらに仕えてはならない』ということでした。神様が一番重要なこととしてイスラエルの民に教えられのは、偶像礼拝の罪に陥ってはならないということでした。
 しかし、彼らはモーセが山から降りてくるのを待ちきれずに、アロンをそそのかして自分たちの耳輪をはずして集め、金の子牛を作らせ、祭壇を築きいけにえをささげ、彼らは「飲み食いし、戯れた」のです。そのようにして彼らは罪を犯し神様に反逆しました。
神は怒り、彼らを絶ち滅ぼそうとされましたが、その時にもモーセは彼らのためにとりなして、「あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください」と、主に嘆願しました。その言葉に応え、主は下すと仰せられたわざわいを思い直されました。しかし、神様にとって、それは赦し難い罪でした。
ここにいる皆さんは、偶像礼拝がいかに祝福を失うことであるかを何度も聞いておられるので、偶像礼拝から離れた生活をしておられると思います。しかしここで皆さんに知っていただきたいことは、偶像というのは木や石で作ったものや、神社仏閣に手を合わせて拝むことだけではありません。私たちが神様を第一としていると言いながら、神よりも大事にしているもの、離れることができないことがあったとしたら、それが偶像なのです。
 どうしても酒をやめることができない、どうしてもタバコをやめることができない、またはギャンブルをやめることができないという、自分ではどうしても離れることのできないもの、それがまさしく偶像なのです。そういったことを悔い改め、神様によってきよめていただかなければなりません。
 また、彼らが「戯れた」とあるように、イスラエルの民は不品行を行っていました。今の時代も性が乱れ、「何をしてもいいじゃないか。結婚する前にどうであってもいいじゃないか。結婚してからも不倫や姦淫があってもいいじゃないか」と考える風潮が社会に定着しています。できちゃった結婚などという言葉が普通に使われているような時代です。しかし、私たちは神の前に貞操を保つことが必要です。過去のことは別です。過去のことは私たちがしっかりと悔い改めたならば、すべて帳消しにされます。しかし、私たちが不信仰を悔い改めず、姦淫や不倫や淫行などの罪と決別せずにいるなら、それは決して祝福にならないことを私は断言します。人にはわからないかもしれませんが、神様はすべてを見ておられ、知っておられることを是非覚えていただきたいと思います。
ヘブル書一三章四節には、
『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行を行う者と姦淫を行う者を裁かれるからです。』とあります。
 いくら隠していても、すべてが明るみに引き出される時がきます。皆さんも本当に気をつけてください。

イエス様は私のため、皆さん一人一人のために、すべての罪を背負って十字架にかかって死んでくださいました。そのことを信じるだけで罪が赦され永遠のいのちを頂くことができます。しかし、偶像に誘惑され罪に陥るなら、私たちはイエス様を再び十字架につけるような者となってしまいます。そのような者にならないように、きよめられた生活をすることを心がけなければいけません。
また、私たちは、健康で、事が順調に運び、喜んでいる時、何か自分の方法や戦略がよかったように思い、高ぶってしまうことがあります。自分自身の力で成功したかのように錯覚したり、少しくらい不正をしても「見つからなければいいじゃないか」と妥協してしまいます。そのようにして段々と私たちの道がずれていってしまうことに気をつけなければいけません。
 第一コリント一〇章一二節に『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』とあります。自分たちが自分の力でできると思ったその時点で、「あなたが自分の力でできるのだったらやってみなさい。自由にしなさい」とイエス様は言われます。しかし、私たちは本当に何もできない、本当に足らないところばかりであると皆さんもよくご存じだと思います。

『主は心砕かれた者の近くにおられ、魂の砕かれた者を救われる。』(詩篇三四篇一八節)
の御言葉にあるように、どこまでも私たちが謙遜に、どこまでもへりくだってきよめを頂き、主に近づくことを主は望んでおられます。

『わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』(マタイ二八章二〇節)

私たちが壁にぶち当たった時、「右に行ったらいいか、左に行ったらいいか」と何とか自分で軌道修正をしようとします。しかし、私たちはまず、主の「みこころ」が何であるかを祈り、みこころをしっかりとつかむことが大切です。サタンは常にすきをうかがっており、神様が右を選択させようと思っておられるのに、悩んでいる私たちのところに来て、「左の方がいいぞ、こっちの方が楽だぞ、素晴らしいぞ」とまことしやかにささやいてくるのです。
 イスラエルの民は、道に迷ったのではなく、人生そのものに迷い、迷路に入ってしまったのです。人生に解決を見いだせずに道に迷っている、そのような人が現代には満ち溢れています。しかし私たちは、真理の道を見いだしているのですから、神様のみこころが何であるかをしっかりと見極め、迷っている人のためにもとりなし祈ることが重要だと思います。

そのようなことを考えている時、一つの賛美が浮かんできました。

  主とともに歩む その楽しさよ 
  主の踏みたまいし み跡をたどる
  一足一足 主にすがりて
  絶えず 絶えず 我は進まん 聖歌 五八八番

 主とともに歩むことほど楽しいことはありません。神様が私たちに道を備えくださり、先に歩いてくださるその足跡をたどって、主にすがり、一歩一歩前に進んでいく時に、主が責任を持って導いてくださるということを是非覚えていただききたいと思います。
 偶像礼拝をしている時、皆さんはイエス様とともにいますか? いないです。また、例えば夫婦げんかをしている時、あなたの心にイエス様はいますか? いないです。イスラエルの民が不平不満を言っている時、イスラエルの民の心はイエス様から離れていました。いつまでもイエス様から離れた生活をしないでください。悔い改めて、主の手をしっかり握りしめ、主とともに歩んでください。そうすれば、必ず祝福が与えられます。

最後に、一つの詩を紹介したいと思います。皆さんも聞いたことがあると思います。『Foot Print 砂の上の足跡』という題の詩です。ある晩一人の男が夢を見ました。夢の中で、彼は砂浜を神様と並んで歩いていました。ふと、自分の歩いてきた道を振り返ると、そこには二人分の足跡が続いていました。彼の人生の数十年間にわたってつけられたその足跡を眺めていくと、ところどころ一人分の足跡しかないことに気が付きました。彼はその時が自分にとってどんな時であったか思い出してみると、それは本当に辛い時、悲しい時、苦しい時と一致していました。
彼は神様のみ前にこう訴えました。「神様。私があなたに従って生きると決めた時、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃいました。しかし、私の人生の一番困難な時には、一人の足跡しか残っていないではありませんか。私が一番あなたを必要とした時に、なぜあなたは私を見捨てたのですか」。それに対して神様が答えられた言葉はこうでした。「我が子よ、私の大切な子よ。わたしはあなたを愛している。わたしはあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみの時に一人分の足跡しか残されていないのは、わたしがあなたを背負って歩いたからだよ。その一人分の足跡は、わたしのものだよ」。
皆さんも、病気になって痛みや孤独の中で苦しんだり、これからどうやって生きていったらよいかと悩んだり、家族・親族を亡くして悲しみにくれたり、本当に苦しくて、一歩も踏み出すことがでずにそこに座り込んでしまうような、そんな辛い経験をしたことがあったかもしれません。
しかしそんな時に、この男に言われたように神様は、「あなたが前に一歩も進めない時、あなたが悩んでいた時、あなたが問題にぶつかった時に、わたしはあなたを背負い、あなたを抱き上げ、道を進んで行ったんだよ。だからそこには一人分の足跡しか残っていないんだよ」と語ってくださいます。

私たちは今、イエス様を目で見ることはできません。しかし、主は常に私たちとともにいてくださり、私たちが自分で歩くことができないような苦しい時、悲しい時、問題がある時には、私たちを背負い、抱いて進んでくださる素晴らしい愛の神様であることを是非、知ってください。私たちは主から離れては何もできませんが、主がともにおられるならば、圧倒的な勝利者となることができるのです。
『主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。』と最初にお読みしましたが、どんな時にも主とともに生きることを心がけましょう。それと同時に、『ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。』とあるように、不満を言い中傷し合うのではなく、互いに尊敬し合い、互いの足らないところを補い合って、キリストの体としていつも健康で、互いに助け合い、喜んで主に仕えていくことができるように、互いのために祈っていきたいと思います。

 一つ皆さんにお聞きします。皆さんの中に、自分には罪があり、不信仰があり、不安があり、イエス様を近くに感じられない、かつてイエス様と手をつないだ時があったけれど、今はイエス様の手を離してしまっている。そのように感じられる方がおられるかもしれません。イエス様は私たちの意志を尊重なさる方なので、皆さんが自分から手を離す時にはそのままにされます。今、自分の中に罪があって、イエス様と手をつないで歩くことができない。しかしこのままではだめだ、この中から抜け出したい、変えられたい。そのように願う人、私のために祈ってほしいと願われる方は手を挙げて教えてください。

 今、大勢の方が手を挙げられました。私たちは本当に弱い者であり、罪だらけの者です。しかし主はあなたを決して見捨てることはなく、永遠までともにいてくださるお方であることを覚えて、信仰を持っていただきたいと思います。

一言お祈りいたします。

 ハレルヤ! 主よ心から感謝いたします。こうして皆が健康でここに集められ、主を賛美できたことを感謝します。私たちは本当に汚れた者です、弱い者です、足らない者です。しかし、主とともに歩みたいと願っています。
 今、手を挙げられたお一人お一人の不信仰をお赦しください。また、すべての罪を十字架の血潮で洗い流し、本当にきよい者としてください。そしてこれからの人生、もう一度、神様の前に明け渡しますから、主が導き、ともに歩んでください。そして私たちが主のみ心を悟り、主のみ心を行う者として、強めてください。先に救われた私たちが、家族のために親族のために、また近隣の人のために祈ることができますように。今、手を挙げられた方に、特に、新しい油注ぎ、新しい力、喜びをお与えください。問題の中にある人には、その問題に解決を与え、障害となるものを今、イエス・キリストの御名によってすべて打ち砕いてくださって、喜んで主に仕えることができるように導いてください。
 今日の恵みを心から感謝します。すべての栄光を主にお返しします。信じ、感謝して、主の御名によって祈ります。アーメン。


[バックナンバー]