「準備して待ち望もう」


2009.2.22(SUN)
新城教会 上條 実 牧師

イザヤ書 40章29節〜31節
「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

ハレルヤ。今日も皆さんの前でみことば語ることができます事を感謝します。先ほども皆さんでお祈りしましたが、滝元順牧師ご夫妻は今韓国のワンジュという島にて三十五の教会が合同し聖会を行なっています。豊臣秀吉が多くの人を殺した場所だそうで、感情的には大変微妙な地域だということです。水曜日までそこで奉仕していますので是非お祈り下さい。また滝元明牧師は今年80歳になります。しかし来週日曜日三月一日まで関西地区を巡回して決起大会を行っています。先生方に油そそぎを頂いて、良き奉仕ができるように、霊の扉が開かれるようにお祈り下さい。また健康が支えられるようにお祈りください。

さて先ほど読んで頂きましたイザヤ書四〇章二九節から三一節から、「準備して待ち望もう」というタイトルでみことばを語らせて頂きます。私たちは二月一日の礼拝で滝元順牧師が「天国はあなたのためにあります」というタイトルで大変すばらしいメッセージを聞く事ができました。私たちの信仰生活や福音宣教に対して視点が変えらるメッセージでした。その時語られたのは、日本は今年宣教一五〇周年だと言われています。クリスチャン人口は韓国では二五パーセントだそうですが、日本の教会は八千位あるそうですが、毎週聖日の礼拝を守っている人は約二十数万人、なんと全人口のわずか〇.二パーセントだと言われています。〇.二パーセントのクリスチャン率の国は、世界でもあまり類を見ない。イスラム諸国は仕方ないとしても、普通は少なくとも数パーセントはクリスチャンが存在するというのです。何故一五〇年の歴史にも関わらず日本のどこに原因があるのかということでした。日本における宣教の視点は、「イエス・キリストを信じたら天国、信じなかったら永遠の滅び」でした。戦後まもなくの日本の宣教は大きく広がりました。よく滝元明牧師夫妻が救われた当時の頃を聞いた事があります。東京の新宿駅周辺で路傍伝道をすると、身動きができないほどの人々が集い、メッセージ後にトラクトを配るのですが、あまりにも多くの人がいるのでトラクトを空に向かってばらまいたそうです。しかし地に落ちる前に、人々が争うように受け取って行きそれを読んで大勢の人がイエス様を信じたそうです。それは当時太平洋戦争の時に多くの苦しみを受け、地獄の様な生活を経験したため「イエス・キリストを信じたら天国に行ける」という事に、多くの人が引きつけられ信じたそうです。しかし今現在同じメッセージを投げかけても、物質が豊かになり「イエス様を信じれば天国、信じなければ地獄」という話が“おとぎ話”のようにしか受け取られないというのです。そんな中チョー・ヨンギ先生のメッセージを皆さんで見ました。誰も耳を貸さずに行き詰まった時に、祈り、聖書を学んだとき、聖書のイエス様は天国について語るのではなく、行く所々で、天国を分け与えていた。罪人の罪を赦し、病人を癒し、悪霊を追い出し、飢えた人に食べ物を与え、孤独な者に平安を与え、死人を生かし、天国に行けと言いました。だから信じない人は居ませんでした。イエス様は天国について語るのではなく、天国を分け与えていた。私は天国について語るだけで、分け与えていなかったとという事に気がついたというのです。「あなたも天国を分け与えなさい」と聖霊が言われ「イエス・キリストは昨日も今日も同じで、今日も生きておられ、お前とともにいる、私が行ったことを、お前がやらなければならない。お前も生きている主を伝え、天国を分け与えなさい。生きている聖霊運動をしなさい。」と語られて、天を地の上に引き下ろす働き、悪霊に対して戦い、なんと今では七十五万人という大教会になったという話を聞きました。重要な視点だと思います。私たちは天国を指さすだけの働きではなく、教会は、天国を引き下ろす者達の群である。マタイ六章九節〜十一節。

『だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。』

イエス様は、天国に行けるようにではなく、「御国が来ますように。神の国の支配がこの地上に現されますように祈りなさい」と勧められた。これからは日本宣教は天国を指さす働きだけではなく、天国を引き下ろす働きをしなければならないと教えられました。そのメッセージを聞いて、その通りだと思いました。
 今までの私達の信仰生活は、ある面あまりにも“我慢比べ”の様でした。自分に「クリスチャンはきよくなければいけない」と言い聞かせ、悪い思い、悪い行いをしないように、近寄らない、見ない、触れないなど我慢に我慢を重ねていました。しかし罪を犯してしまうと「地獄に行くんでは・・・・?」と恐れと罪意識を感じて、「主よ赦して下さい」と必死に悔い改めるという連続でした。ですから礼拝の時の聖餐式は、いつもみことばにある「自分を吟味しなさい」と書かれていることだけを考え、「主よ、私は罪人です。赦して下さい。」と悔い改める。こんな連続でした。またヘブル書11章6節には

「信仰がなくては神に喜ばれることはできません」

というみ言葉があります。自分には信仰があるだろうか?神さまに喜ばれる器だろうか?と自問自答していました。何か問題や病いがあると「信じなさい、信じなさい」と言われ、どんな状況の中にあっても「信じればイエスさまが助けてくれる。信じていたら絶対その通りになるから・・・・」となんでも「信じなさい」と言われてきました。ですから頑張って大丈夫と思いこんで信じようとしても、現状を見てしまい。不安だらけ。真剣に断食したり、祈ってもなかなか解決しないと「結局自分は信仰の弱い者だ」と考えてしまうのです。祈りの答えというのは、ある意味で目盛りがあるように思っていました。信じて、信じ続けて行くとき、あるところまで到達したときに“当選しました”という具合に、祈りの答えが得られるような感じがしていました。とにかく信仰は我慢の連続のようでした。マタイ14章25節から33節を読むと

「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。」

 ペテロはイエスキリストだと知って「水の上を歩かせて下さい」と願いました。しかし私はそんな事を言う事さえ出来ないだろうと思います。イエスさまは勇敢にも水の上を歩いたペテロにさえ「信仰の薄い人だ。なぜ疑うのか」と言っています。ましてや私には「信仰が薄い人」というより、「信仰の全くない者だ」と言われているのではと考えてしまいます。悪魔はその手を使って、私たちクリスチャンに疑いを送ってきます。すると私たち
は、悪魔に対して「アーメン」と答えてしまっているように思います。「そうだ、こんな状況では無理だ。答えられるはずは無い。」そうすると悪魔によって、また強い風が吹いてきて、今度は「お前は本当に天国に行けるのか」と言います。そうすると私たちは「本当に救われているのだろうか…」と救いを疑い始めます。イエスさまを信じ、救われたときの喜びはどこかへ消えてしまいます。そして「主が来られた時には、取り残されるだろう。携挙されないだろう」などと、救いを失ってしまいます。しかし先ほど読んだみことば、
 
「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

ここで、二十九節に「疲れた者に力を与え、勢力のない者に活気をつける」とあります。年を取ってくると力が出なくなり、疲れを覚え、またつまづき倒れる時もあります。若い人でもそうです。長年信仰生活を守っていてもやはりある時は疲れ、問題や病いの中で苦しむ時があります。しかし、今日この31節をもう一度良く読んで下さい。

「しかし主を待ち望む者は新しく力を得、鷲の様に翼をかって上ることが出来る。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」

ここに「主に待ち望む」ということが書いてあります。待ち望むとき、性別や年齢、能力に関係なく、主は祝福を下さる。そして新しく力を与えて下さるのです。鷲が翼を張って天高く上っていくように、私たちは「待ち望みなさい」と言っています。この「待ち望む」という意味は辞書を調べてみると、「今か今かと心待ちに待つ、期待して待つ、早くそうなる様に希望する」などと書かれています。私たちは待ち望みましょう。「主を待ち望む者は新しく力を得る」とありますから、今日、聖霊さまによって一人一人が触れるとき、新しい力を頂くことができます。毎日の生活の中で、ちょっとした視点の違いで信仰生活は苦痛からとても楽で、楽しい者となります。

 話は変わりますが新城教会では、毎週子どもたちに「み言葉の剣」というカードを渡しています。毎日どこの聖書を読み、どんな祈りをしたかを記入するカードですが、そこに子どもたちが楽しくできるように、なぞなぞを掲載しています。今日配布したカードには掲載されていないなぞなぞを皆さんに出してみたいと思います。

 「花十三,石八六,虫三六,肉七一,橋一六,イチゴ八五,では草ではいくつでしょう?」

誰かおわかりになりますか?このもんだいには法則があります。それがわかれば簡単に答える事ができます。答えは七です。なぜかというと「花」は、八と七で八七です。それを百から引くと十三になります。これら全部、百から引くとこの数字になり、草だと九三ということで百から九三を引いて答えは七になるのです。「何だ、そんなことか」と思われるかもしれません。分かれば単純なものです。信仰生活も視点を変えてわかれば、楽です。喜びに満たされます。今までは我慢の連続のようでしたが、そうではありません。み国が引き下ろされると、私たちが待ち望むと新しい力が与えられ、走ってもたゆまず、歩いても疲れない信仰生活を送る事ができます。しかし今までは悪魔にだまされていました。信仰は、あれをしてはいけない。これもしてはいけない。このように思わなくてはいけない等、苦しいことだらけでした。リバイバルを叫び求めているのですが、一向に見ることが出来ません。隣りの韓国では二五パーセントもクリスチャンがいるのに「なぜ日本にはリバイバルが起きないのか」と考えます。しかし、あのイザヤ書四〇章三一節

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることが出来る。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

ここにあるように、天のみ国が引き下ろされたのなら、この暗闇の支配である悪霊に対して、私たちが戦うなら、勝利をいただくことができます。クリスチャンって最高だと高らかに叫び、喜ぶ事ができます。今まで問題みて、沈みそうになり、悪魔から「信仰の薄い人だ」と言われ「ごもっともでございます。自分なんか大波の中に沈んでしまいますと叫んでいるような状況でした。
しかし、「主を待ち望む者」というみことばで視点を変えて下さい。必ずみ国が引き下ろされて、主の奇跡を体験する事ができます。待ち望むということは「今か今かと心待ちにする」ということです。私たちは「信仰は望んでいる事を保証し、目に見えないものを確信するのです」必ず祝福を下さる、今見ていなくても、必ず見た事も聞いた事も、心に思い浮かんだ事もない事を、神さまは備えていて下さいます。
先日、鈴木陽介君とリベカさんは待ちに待って二月七日に祝福された結婚式を行う事ができました。しかし二人が結婚を待ち望んだとしても、その日を何もせずに待っていただけでしょうか?そうではありません。沢山の準備がありました。誰を招待するか?いつ、どこで結婚式をするか?衣装は?お返しのプレゼントはどうするか?パーティーは等々、当日が間近になればなるほど、準備が大変になります。それと同じように、ただ待つだけではだめです。準備しつつ待ち望んでいかなければいけません。出産でも同じです。もうじき赤ちゃんが生まれるとなれば準備をして待ち望みます。事前に準備し、整えて、時期が来るのを待ち望みつつ準備するわけです。また、今年の五月には韓国リバイバルミッションがあります。ぜひ皆さんも応援に出かけて下さい。しかし準備せずに、行く事はできません。パスポートがない人は、申請しなくてはいけません。航空券やホテルも申し込まなくてはいけません。それと同じように、祈ったら準備して待ち望むのです。癒し、リバイバル、祝福等頂きたいなら、立ち止まらないで準備しつつ待ち望んで行かなくてはいけません。悪魔の声を聞いて、立ち止まったり、後退してしまったら絶対に祝福を受けることはできません。マタイ二五章一から十三節に

「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。 そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」

ここには賢い娘と賢くない娘の例えが書かれています。賢い娘は、自分の灯火と一緒に油を入れ物に油を持っていました。しかし愚かな娘は油を用意していなかったのです。花婿が来たと言われたとき、油が足りず、買いに行き、その間に花婿が到着してしまい、彼女らは間に合わなかったのです。今日あなたも「主を待ち望む者は新しく力を得る。鷲の様に翼をかって上ることができる」とあるように、私たちの父なる神さま、イエスさま、聖霊さまに会うために、主からの油そそぎを求めましょう。私たちが祝福を受け取るためには、立ち止まってはいけません。準備しましょう。準備した時、祝福を頂く事ができます。聖書は一点一画変わらないことばです。ヘブル十三章の五節には、

「私は決してあなたを離れず、あなたを捨てない」

というみことばがあります。私は愛され、捨てられることは絶対無いと書かれています。全ての人を愛して下さっています。しかし現実は「私は信仰が薄い、お前は駄目だぞ」ということばを聞いています。今日霊的に戦って勝利を頂こうではありませんか。私達は悪魔を意識して戦っているつもりでも、惑わされてしまいます。知らずに悪魔の声を聞いてしまっています。そして「自分が祈っても駄目だ、戦えと言われても無理だ」と、みことばの剣を置いてしまいます。悪魔に戦うためにファイティングポーズしているようで、手を下ろしてしまっています。
何か問題やトラブルがあればぜひ教会に行って下さい。皆さんのためにお祈りします。しかし今日神さまから与えられた権威、主権は、全ての人のためのものです。ですから牧師だけでなく、みなさんにも同じ権威が与えられています。あなたが戦いの現場でみことばの剣をふりあげたら勝利が与えられるのです。戦ったら扉が開かれるのです。あなたが待ち望み「新しい力を得る」とあります。ですから今日戦いの勇士になるように油注ぎを求めましょう。「自分は何も出来ない。信仰が薄いからだめだ」と思っていませんか?あなたの出来る範囲でよいのです。出来ないことを神さまは望んでおられません。あなたのすべての性格、立場、どんな状況で、どんな病気があるか、どんな経済状態で、どのくらい忙しいか全て神さまはわかっています。神は「わたしはあなたを離れず、あなたを見捨てない」と言われています。。今日、あなたが油を求め準備し始める時、主は素晴らしい勝利を与えて下さると信じます。
一つの私が現実に見たことを証しをしたいと思います。今から二十数年前、東京でチョー・ヨンギ先生の聖会に出席したことがあります。その会場は七階か八階にあるホールで行いました。その聖会に出席するため、エレベータで上がろうとしたとき、同じエレベーターにベットに寝かされたままの人が連れて来られていました。私は正直、「大変な人を連れてきたな」と思いました。しかし連れてきた人たちは、その人が癒されるようにと、期待して連れてきたのです。準備したのです。私はその時舞台袖でメッセージ録音の仕事をしていました。チョー先生は最後に癒しのための祈りをし「癒された人は前に出て来て下さい」と言われた。舞台袖で見ていると、どこかで見たことのある人が出てきました。誰かと思えば、あのベットに寝かされたまま来た人でした。来る時は寝たまま会場に来ましたが、自分の足で歩いて出てきました。そしてみんなの前で「私は今まで歩いたことがありませんでしたが、ここで初めて歩くことが出来ました」と喜んで証ししていました。その時、私は神さまの力はすごいと、驚いたことを覚えています。
今日あなたがどんな最悪の状況だと感じていても、主は「不可能なことは一つもない」と言っています。あなたのできることで準備し、待ち望みましょう。主は待ち望むとき新しく力を与えて下さいます。
 ですから、あなたが祈りが不足していたら、準備のため祈って下さい。また賛美が足らなかったらもっと賛美して下さい。また神のみことばである聖書を読むことが足りなかったら、準備のために聖書を読みましょう。ある人は準備のためにもっと集会に参加しましょう。特にあなたが期待を持って、聖霊さまによって油そそぎを求め、み国を引き下ろして頂くように祈りましょう。「主を待ち望む者は新しく力を得る」とあります。悪魔に立ち向かっていきましょう。時々日曜日の午後に油注ぎ祈祷会があります。ぜひ参加して下さい。出席できないときでも、あなたがどこででも「今あなたのみ国を引き下ろして下さい、油そそぎを与えて下さい」とあなたがお祈りするとき、あなたに力を与えて下さいます。悪魔から勝利する事ができます。ヤコブ四章八節にこういうみことばがあります。

 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」

とあります。私はこのみことばが好きです。あなたが準備して一歩前に進んで下さい。神さまにあなたが近づいたら、神さまがあなたに近づいて下さるというのです。私たちは小さな小さな一歩かもしれません。しかし神さまも近づいて下さいます。神さまは大きな一歩で私たちに近づいて下さいます。あなたができることで前進し始めると、祝福を頂くことができます。しかしそれでも「自分には全く何もできない」と思われる方もおられるかもしれません。時間もない。体力もない。自分では何もできないという人もいます。しかしみことばで「神の国と神の義を第一に求めなさい」とあります。先日家内と会話していたとき「昨日、こんなみことばが与えられたのよ」と言ってくれました。大変恵まれました。そして全日本リバイバルミッションの事務所で賛美をして、ある人みことばを語って下さいました。なんと驚いた事に全く同じ聖書箇所でした。その時「これは私と教会に下さったみことばだ」と確信しました。そのみことばはマルコ二章一節から十二節のみことばです。

「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。」

中風で動くこともできない人を、四人で担いでイエスさまのもとに連れてきて、一杯で家に入れなかった時、なんと屋根をはがし、イエスさま癒して頂いた記事です。あなたは自分一人で悩んでいませんか。自分で動けない時中風の人の友達、四人が担いでイエスさまの前に屋根を破いてでもおろしたように、あなたが動けなくても、あなたが祈りの友に祈ってもらうことができるのです。あなたが霊的戦いの祈りができなかったなら、同じ神の家族である器官に、祈ってもらいましょう。教会には牧師やスタッフがお手伝いをします。また兄姉にも「この問題のために、この癒しのために祈って下さい」と祈りの友に前進してもらいましょう。一人の人が病んでいたり、問題を持っていたら、自分が病んでいると同じです。自分が問題を持っているのと同じです。ですからお互いに、自分ができないことがあったら、同じ体である他の器官が前進し、待ち望ぞめば良いのです。中風の人は自分ではイエスさまの前には行けませんでした。四人の人たちが癒しをもとめて、前進したのです。四人の人が待ち望んだのです。他の人があなたの代わりになって準備を手伝ったことで、この中風の人はいやされました。「主を待ち望む者は新しく力を得る」とあります。私たちは待ち望みましょう。
また他の聖書の箇所には、待ち望んだ時にこんな聖書の祝福があると書いてあります。まず詩篇二五篇三節に

「まことにあなたを待ち望む者は誰も恥を見ません。故もなく、裏切る者は恥を見ます。」

ここに、待ち望む者は誰も恥を見ることがないとあります。今まではイエスキリストを信じても、何にも変わらないと思われていたかも知れません。しかし神の国が引き下ろされて恥をみる事がないというのです。また同じ詩篇の三三篇十八節から二二節には

「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。 私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望んだときに。」

ここに待ち望むとき「死から救い出し、ききんのときにも生きながらえさせる」とあります。待ち望んだ時に、死の恐怖からも解放され、今百年に一度の不況の時であっても、生きながらえる事ができる。仕事が与えられるのです。また助けとなり盾となるとあります。主の前に前進していく時、主が喜びを下さるのです。また、詩篇の三七篇九節に

「悪を行う者は断ち切られる。しかし、主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう」

私はこのみことばを頂きました。主を待ち望んだら地を受け継ぐ、この新城。日本。韓国を受け継ぐ事ができる。この地は主のもの。そしてこの地は私たちのものです。ただ立ちすくむのではなく、戦って待ち望みましょう。前進して準備して行く時に、この地を受け継ぐことができるのです。そして最後にイザヤ書三〇章十八節に

「それゆえ主は、あなた方を恵もうと待っておられ、あなた方を憐れもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望む全ての者は」

とあります。主はあなたに恵もうと待っていて下さっているというのです。私たちが待ち望んで進むのです。そうすれば恵みを頂く事ができます。憐れみも頂く事ができます。待ち望んで神に近づいて下さい。あなたができる事で前進して下さい。その時に主が近づいて下さいます。何を具体的に準備したらよいのかを主に祈って下さい。「神の国と神の義を第一に求めなさい」とあります。時間の許す限り主にささげて下さい。準備して待ち望んで下さい。

「それゆえ主はあなた方に恵もうと待っておられ、あなた方を憐れもうと立ち上がられる」

最後に主に油そそぎを求めましょう。新しい力を求めましょう。前進できるように祈りましょう。また今から聖餐を頂きます。「私のための十字架だった」ことを感謝し、神の国が引き下ろされるように祈りつつ頂きましょう。

<祈り>
愛する主よ、今こうしてあなたを「イエスは主」と告白できることを心から感謝します。今まで立ちすくんでしまっていたことを赦して下さい。今からあなたを待ち望みます。新しい油そそぎを求めます。聖霊さま、私に来て下さい。今日み国を引き下ろして下さい。今日新しく力を頂き、鷲のように翼をかって上ることができるようにして下さい。今まで信仰生活が疲れてしまっていました。しかし今日聖霊さまの油そそぎを与えて頂き、走ってもたゆまず、歩いても疲れない信仰を与えて下さい。あなたは全能なる神様です。今日、あなたに近づきますから聖霊さまあなたも近づいて下さい。この聖餐の時を通して、もっともっとあなたに近づき、あなたに触れて頂けますように。悪魔の力を打ち破って下さい。暗闇の地を打ち破って下さい。地を受け継がせて下さい。この新城を、日本を、韓国を与えて下さい。今日新しい力を満たして下さい。主イエスキリストの聖なる名まえにより、信じて感謝してお祈りします。アーメン


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