「素晴らしい知らせがあります」


2009.3.8(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

イザヤ書 61章1〜3節
「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」

 皆さんおはようございます。今日はこうして、みなさんと共に、主に礼拝を捧げることができる恵みを心から感謝します。素晴らしい演奏を聴かせて頂きましたが、今からは、しばらく聖書のみ言葉を聞いて頂きたいと思います。

今日のメッセージのタイトルは、「素晴らしい知らせがあります」です。今日はみなさんに素晴らしいお知らせがあります。
今朝は、礼拝が終わりましたら、IさんとKさんの婚約式があります。本当に素晴らしい知らせです。
また、先週は、「リバイバル聖書神学校」の卒業式がありました。そんなことも兼ねまして、今日は講壇に花が飾られているわけです。30名ほどの卒業生の中には、新城教会のHさんとT君が含まれています。Tは四年かかって卒業しましたが。その他にも、多くの兄弟姉妹が卒業されたのも良い知らせです。

教会とは、よい知らせを聞く場所ですが、この頃ちまたで聞く話は、あまりよい知らせはありません。100年に一度の不況と言われ、職をなくされている方も多くいます。
先日も、サラリーマン川柳を読みましたら、そのような世相が色濃く反映されていました。第一位にランクインされていたのが、「辞表出し 『預かっとくよ』は ドラマだけ」というのがありました。テレビドラマなどで辞表を出すと上司が、「まあ、預かっておくよ」と言って慰留してくれたのですが、今は辞表を出すとすぐに受け取るような経済状態です。
「破綻した おれの小遣い 支障なし」という寂しいのもありました。
「ナビの言う お帰りなさいに 癒される」
ナビを使って家に到着すると、「お帰りなさい」と言いますが、誰も言ってくれない人は寂しいです。
また、「夢を持て 夢を持ったが 夢だった」というのもありました。
「ストレスか? 聞かれる上司 その原因」というのもありました。
「妻からは いつも“低額” 交付金」…定額が“低額”です。

これから定額交付金が支給されますね。何に使いますか?あれは貯めてはいけないのです。使わなかったら何んの意味もないのです。
私も今、何に使うかを考えています。昨日も消費の夢を膨らませて、友人のヨセフ君を呼んで色々と情報を仕入れたのですが、それを妻が横で聞いていて、「ちゃんと反対してね」と彼に言っていました。私は、定額交付金を国のために、ちゃんと使おうと思っていたにも関わらず、夢が砕かれているようです。

また、この頃は色々と事件があり、豊橋のほうでは「鳥インフルエンザ」のニュースで大変な騒ぎです。20数万羽のウズラは可哀想なことに、全て殺されて埋められています。私は数匹もらってきて焼き鳥にしたいと思いました。焼いてしまえば鳥インフルエンザウイルスも死ぬので怖くはないと思いますが。関係者にとっては本当に大変なことです。

こんな話があります。ゴリラとライオンと鶏が動物園で一緒になったそうです。それで誰が一番強くて、影響力があるか、という話題になったそうです。
ゴリラが言いました。「僕が森にいた頃は、一声うなるだけで森の木々の鳥たちはみんなおとなしくなったもんだ」
するとライオンが、「俺が草原にいた頃は、一声吠えると周りの動物はみんな逃げ出したもんだ」と。
すると最後に鶏が言いました。「私がちょっと咳をしただけで、世界中の人間達は大騒ぎになるのよ」
この頃はそんな感じですね。鶏の引いた風邪で人間は怯えています。しかし、これは笑い事ではないのです。

皆さんご存じでしょうか、「新城教会ニュース」に書いたのですが、本当に人類に危機が迫っています。第一次世界大戦が終結した理由は何かというと、勝ち負けというよりも、スペイン風邪の大流行で終結したとも言われます。スペイン風邪とは、当時の新型インフルエンザだったそうで、1918年から19年にかけて、世界人口の20〜30%がこのインフルエンザにかかったそうです。実に、4千万人も死んだそうです。「第一次世界大戦の頃を知っている。私は生きていた」という人はおられますか?まず、おられませんよね?スペイン風邪にかからなくても人は皆死ぬのですが、しかしそんな風邪で死ぬのは嫌です。日本では2300万人がかかって、39万人が死んだそうです。
そして今日、疫学者が言うのには、「新型インフルエンザは、近い将来、必ず出る」そうです。そもそも豊橋に出たくらいですから、これは危ないです。WHOの発表によれば、この新型が出れば、世界で1億5千万人くらいの人たちが死ぬと言われています。そして日本では大体、人口の四分の一、3200万人くらいが感染するだろうと言われています。ということは、ここに集まっている四分の一も新型インフルエンザにかかるということになります。皆さん、覚悟して下さい。64万人くらいが死ぬ、と政府は発表しています。
本当に悪い知らせばかりです。目前に危機が迫っているわけです。車でしたら新型はよいですが、風邪の新型は大変です。人類に危機が迫っているわけです。よい知らせがほとんどないのです。

しかし、私達を造って下さった神を知る時に、危機が迫ったとしても、恐れる事はないです。聖書は語っています。
「たとえ死の影の谷を歩く事があっても、災いを恐れません」と。時には“死の影の谷”というような、死が迫っている場所を歩く事があっても、災いを恐れないのです。なぜならば、神が共にいて下されば、そのような危機の谷も乗り越えることができるのです。

聖書は私達に希望のメッセージを伝えています。教会に来たら、希望のメッセージを聞く事ができます。
イエス・キリストは今から2000年も前に、この地上を歩まれた方ですが、実は、お生まれになる700年も前に、すでに預言されていたのです。すごい事ではないでしょうか。私達は、間違って生まれてきたとか、偶然生まれてきたなどとよく言われますが、イエス様はそうではありません。旧約聖書の中には、イエス・キリストが誕生するという預言が沢山あります。生まれるべくして、生まれた方なのです。

神は天地宇宙を創られた、あまりにも大きいお方ですから、人間の目で見えたらおかしいのです。神が天地宇宙をご自分で作られたとしたら、体があったとしたら、相当大きいと思います。そんな方を人間が知ろうとしても難しいのです。
しかし、ご自分を紹介するために、人類の歴史の中にただ一度だけ、人の姿をとって生まれて下さったのです。神様でも、人となって下されば、人間とコミュニケーションができるはずです。よその国から来た方もおられますが、いくら言葉が違っても、人ならばコミュニケーション可能です。
イエスさまは神様でしたが、人となって下さったので、その方の話を聞いたら、神様がどんな方であるか、どんな考えを持っておられるかがよくわかるわけです。

特にこのイエス・キリストがこの地に来られた目的が預言されているのが、先ほど読んで頂きましたイザヤ書の六一章です。先ほどは新改訳聖書で読みましたが、今度はリビング・バイブルという、大変わかりやすい訳で読んでみたいと思います。六一章一〜四節

「神様である主の霊が私の上にあります。 苦しんでいる人や悩んでいる人にすばらしい知らせを伝えるために、神様は私に油を注ぎました。 心の傷ついた人を慰め、捕虜になった人に自由を、捕らわれていた人に釈放を告げるために、神様は私を送り出しました。嘆き悲しんでいる人に、神様の恵みの時と敵が滅びる日のきたことを知らせるために、神様は私を送り出しました。嘆き悲しむすべてのイスラエル人に、神様は次のものをお与えになります。灰の代わりに美しさを。悲しみの代わりに喜びを。重い心の代わりに賛美を。神様はご自分の栄光のために、優雅で強い樫の木のように彼らを植えたのです。彼らは廃墟を建て直し、ずっと前にこわされた町々に手を加え、長いあいだ荒れほうだいだった所を、にぎやかな町にします。」

ここで「私」と記されているのは、イエス様の事です。神が、イエス様に油を注ぎこの地上に送って下さったのです。イエス様は神様でしたが、人となって来て下さったので油注ぎ、すなわち、“神様の力”を帯びる必要があったわけです。そして、その目的は、「心の傷ついた人を慰め、捕虜になった人に自由を、捕らわれていた人に開放を告げるために」と告げられています。

普通、科学が進み時代が進めば、よい時代が来るはずですが、時代はどんどん混迷を深めています。この時代を背景として、多くの人が傷ついています。“心の傷”というのは、目に見えない領域ですが、大きな問題です。
前にもお話ししたことがあるのですが、ある心理学者は、人の心の中にはブレーカーのような“スイッチ”がついているのではないかと言います。時々、電気を使いすぎると、ブレーカーが落ちます。私も古い家に住んでいた頃は、よくブレーカーが落ちていました。一度ブレーカーが落ちると、どんなに優れた電化製品があっても、使い物にはならないのです。もう一度スイッチの所に行き、ブレーカーを元通りにしないと、新品の冷蔵庫も、洗濯機も、テレビも、何もかも止まってしまいます。もう一度、“ブレーカーを元に戻す”ことをしなければいけません。

人間は神の作品だと聖書は告げています。それも、良いものとして造られたというのです。昨日も「ザ・コール」でこのみことばを紹介したのですが、エペソ人への手紙二章一〇節です。私の大変好きなみ言葉です。

「私達は神の作品であって、よい行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行いに歩む様に、そのよい行いをもあらかじめ備えて下さったのです。」

私達は神様の作品です。“作品”と“製品”とは違います。同じものが寸分狂わず沢山できるのが“製品”です。皆さんが座っておられる椅子は製品ですから、同じ物が右にも左にも並んでいるわけです。
でも、わたしたち一人ひとりは製品ではなく作品ですから、お隣の人とは違った顔をしているわけです。不思議です。皆、顔もかたちも違うし性格も違う、これは神様の作品である証拠です。何と、私たちは神の作品で、よい行いをするためにイエス・キリストによって造られた、というのです。
そして、「神は私達がよい行いに歩むように、そのよい行いをもあらかじめ備えてくださった」とありますから、基本的に、将来を心配しなくてもよいのです。何故ならば、神様が私達のために、良いものをすでに創造済みですから。

しかし、実際の生活はわけが違うのです。どうして違うかと言いますと、先ほど言いました様に、心のブレーカーが落ちてしまっているからです。一旦心のブレーカーが落ちてしまうと、そうやすやすとは元に戻らないようです。どうも、そのスイッチは人間の手の届かない、深いところにあるのです。
精神医学者や科学者が人間を研究し、何とかスイッチを元通りにしようと思っていますが、一度ブレーカーが落ちてしまうと、優れた人間も全く用をなさない存在になってしまうのです。

神様は、人間をとても自由度の高い存在として創造されました。人が神から離れる事も知っておられたのです。ですから、ブレーカーが落ちたり、心傷ついたときの修理方法を定めておられたのです。
どうしたらよいかというと、人間の手ではどうにもならないかもしれませんが、神様のところに持っていけば修理できるのです。何千年も前から人間のために、その方法を用意して下さっていたのです。

教会では“福音”とよく言いますが、この福音の中に“心の傷の癒し”が含まれているのです。
時々私達は、心の癒しというのは、高度な手法によらなければ癒されないと思います。カウンセリングを受けたり、また長い時間をかけて、やっと癒されるものだと思うかもしれません。けれども、心の傷のいやしは、福音の中に啓示されています。福音とは恵みの領域です。恵みとは、神から与えられる一方的なものですから、瞬間的に癒しを与えて下さるのです。イエス様は私達の心の傷を、瞬間的に癒す事が出来るお方です。それも聖霊の油注ぎによって実現します。

今日、皆さんの中で、「心のブレーカーは落ちてしまっているかもしれない・・・」という方がおられるなら、イエス様に頼んで下さい。
「イエス様、私の心のブレーカーを元に戻して下さい」と。実に、イエス様は、この地上に来て下さったばかりでなく、十字架にかかって死に、地のどん底、人が一番行きたくない滅びの場所にまで降りて下さいました。地の最も深い所まで降りて下さったのがイエス様です。ですから、イエス様はどんなに深いところにある傷も、癒す事ができるのです。

この教会には多くの方が来られていますが、きっかけとなったのは、色々な問題があって来られた方が多いと思います。どうにもならず行き詰まり、色んな方法を試してもどうにもならず、最後に、教会に来た方が多くおられると思います。
でも、教会という所は結構明るいのです。初めて来られた方がおられますが、「なかなか元気の良い、明るい場所だな、牧師も明るいし・・・」と感じているかもしれません。
初めは、泣きながら教会に来るのですが、明るくなるとは、「これいかに」です。それは心の癒しが確実にある証拠です。牧師名利につきるというのは、傷ついて教会に来られた方が、イエス様によって癒されていく姿を見る事です。

今日も、六名の方が洗礼を受けられますが、そのほとんどはあまり傷のない子供達ですが・・・。そうでもない人もおられます。後から証をして頂きたいと思いますが、本当に、「この人の人生はどうなってしまうのか・・・」というような人でしたが、主が触れて下さいました。「心の癒しを必要としています」という方がおられたら、イエス様に頼んでみて下さい。

理屈はともかくとして、教会に来ているうちに、神の霊が注がれて、知らないうちに心が元気になり強くなります。私たちの神様は、バチを与える神ではなく、よいお方なのです。 頭の先から足の先まで、とことんよいお方なのです。
日本人の神概念は 「よく拝めば神にもなるけど、放っておくと鬼になる」カミサマを信じています。これではいけないです。
案外、クリスチャンでも、「イエス様をよく拝めば神になるけど、放っておくと怖くなる」これは間違いです。とことんよい方、それがイエス様です。

先ほどもお話ししましたが、この世界は、年を経れば経るほど、どんどん悪くなっていきます。私の少年時代、この近所は結構のどかでした。昨日もザ・コールで私の小さい頃の話を少ししましたが、昨日聞いた方は我慢して下さい。
私は今年五八歳になりました。「おかしいな、なんでもう五八歳にもなってしまったのかな」という気がします。昨日まで、東恍学校に通っていたような気がします。
私の中学生時代、この村に“文明開化”が訪れました。テレビなども村に入りました。テレビなどなかったのですが、この近所で最初にテレビが入った家をご存じでしょうか。
今ではこの教会に来られている、近くの床屋さんの家です。「床屋にテレビが入った!」と、村ですごい話題でした。人の家のテレビでしたが、わくわくしました。もう、大相撲の時など、十両の取り組みの時から床屋さんの家に上がり込んで、テレビを見ました。本当に、よくぞ忍耐してくれたと思います。

ちょうどその頃、エレキギターが流行りだした時代でした。“勝ち抜きエレキ合戦”をご存じでしょうか。知っている人は、私と同年代だと思います。あの番組は必ず見ていました。私は「ベンチャーズ」というグループサウンドにはまりました。私は牧師の息子で、今でこそ、こんなに楽器がそろっておりますが、昔はありませんでした。母は昔、足踏みオルガンで皆の賛美を導いていました。足が止まると音も止まります。母は単音で一生懸命やっておりました。それについて歌うのは大変でした。
それで教会音楽に幻滅しておりました。そんな頃押し寄せたエレキブームは、少年には鮮烈な印象であったわけです。
私はベンチャーズに感動して、エレキギターが欲しくなりました。しかしそんな楽器を買うようなお金はありません。それで私はエレキギターを自作することにしました。自作といっても全て削りだしたわけではありません。キットを買ってきて、組み立てたわけです。また、アンプも無かったから自作しました。どのように自作したかというと、ローカルな話になりますが、近くに廃品回収業者があって、そこには壊れたラジオが沢山捨ててありました。私は、「ラジオの制作」という本を買ってきて、回路図を見ながら真空管や抵抗、コンデンサーなどの部品を拾ってきて、ハンダごてで組み立てたわけです。エレキギターを弾きたい一心で作り上げたわけです。
でも、ギターとアンプはあっても、スピーカーがないことに気がつきました。スピーカーがなければ、どうして音が出るでしょうか。
しかし素晴らしいアイデアが生まれました。当時、昭和三十年代、新城の文明開化の一端として “有線放送電話”というのが普及しました。有線放送電話を知っておられる方はどの位おられますか?かなりおられるようですね。
滝元家は七九二番、でも「にばん」と言わず「ふたばん」と呼ばなければなりません。お隣が五〇二番、岡本家が三五〇番・・・やはり、幼いときのことはよく覚えています。
それは呼び鈴がなるわけではなくて、交換手に頼むと、実際に大きな声で呼んでくれるわけです。お話し中かどうかは、受話器を取ってみないとわかりませんでした。誰かが話しをしていれば、会話が終わるまで次の人は使えなかったのです。
だから私など、「早く終わってくれ」と途中に割り込んだものです。昔からおばちゃん達はよく話していましたから、私はよくいたずらをしていました。

そういうわけで、各家には燦然と輝く有線電話のスピーカーがついていました。「これだ!」と思いました。
それで、私が造った自作のアンプを、そのスピーカーにつないでみました。今から考えるとむちゃくちゃだと思いますが、“鰐口クリップ”というのをご存じでしょうか。まず一本を端子にはさんで、次を挟む時、やってみるとわかりますが火花が出ます。何とかつないでエレキギターを弾いてみると、音が出ました。ちょっとひずんだ、なんとも素晴らしい音が出て、我を忘れて小一時間ほど弾きましたでしょうか。

そうしたら突然、我が家の玄関が開いて、ヘルメットをかぶり、カーキ色の作業服を着たおじさん達が、「ここだ、犯人がいた!」と言って入って来ました。
私はすぐに逃げました。でも、逃げ切れました。別に追われる事もありませんでした。よい時代でした。その当時の写真があるかと思い、今朝探したら一枚ありました。次回、みなさんがこの写真を見るのは、私の葬式くらいかもしれません。ギターを持っています。いやあ、なかなかハンサムな少年ですね。昔は髪の毛もありました。まあ、こんな時代もありました。

この頃は平和でした。近所で鍵がかかっている家など、ほとんどありませんでした。学校から帰って、「**ちゃん、遊ぼう」とどこかの家に行ったら、必ず戸を開ける事ができました。「誰かいる?」と聞いてもシ〜ンとしていて、「どこかに隠れているな」と、中に入っていって一つ一つの部屋をあらため、裏口から出ていきましたが、別にそれで誰も何も言いませんでした。よその家に普通に入っていく文化、習慣があったわけです。今では、そういうわけには行きません。
科学も進み知識も進んで、全てが充実しているにも関わらず、何でこんなに悪くなるのか・・、と時々考えてしまいます。その原因は、人の心にある罪の性質が関わっています。
初めの人間のアダムとエバが罪を犯したことによって、人は罪の性質を遺伝してしまう様になったのです。だから、赤ちゃんとして生まれた時は可愛くて、罪も汚れもない顔をしていますが、それもつかの間です。だんだんと変わってきます。うちの孫が、今日は来ているのですが、この頃、少し自我が芽生えてきました。
手に持っているものを、「ちょうだい」と声をかけると、くるりと背を向けてしまうのです。まだ十一ヶ月ですし、「あれ?これは偶然だろう」と思い、反対側に回ってもう一度、「ちょうだい」と言うと、またくるりと背をむけるのです。どうも、自分の物は自分の物として、すでに所有欲が芽生えているようです。まあ、末恐ろしい?とは思いませんが・・・。
人間というのは本当に罪人です。罪の性質は癌のように人々を蝕んでいくのです。

でもイエス・キリストがこの地上に来て下さった目的は、罪を消し去るためです。人間の犯した罪をその身に負って、イエス様は十字架にかかり、死んで下さいました。その結果、人間の罪を取り去ってくれたのです。罪が許される、とはなんとすばらしいではないでしょうか。
イエス・キリストを信じるなら、過去の罪の責めにあわなくても済むのです。今日、イエス様を信じた方は、過去のことに捕らわれなくてもよいのです。罪の許しがありますから。だから心の傷が癒されるのです。
 
しかしもう一つ考えなければならないことがあります。それが何であるかというと、もちろん人間の罪も関わっているのですが、神に反逆する“目に見えない敵“が存在すると聖書は告げています。
先ほども、イエス様がこの地上に来て下さったのは、「心傷ついた人を慰め、捕虜になった人に自由を、捕らわれている人に解放を告げるために来た」と学びました。
勿論、罪に捕らわれているということもありますが、実は人格的な存在というか、霊的な存在、悪魔にとらわれてしまった人を解放するために、イエス様はこの地上に来て下さったのです。

人類はやがて、はっきりと、なぜこれほど悪い事が連続して起きるか、その原因を知る日が来るのです。
イザヤ書の一四章は、人類の敵であるサタンについて言及されている箇所です。その、一六〜一七節にこの様に書かれています。

「おまえを見る者はまじまじと見つめ、お前であることを知って言う。『これがかつて、地を騒がせ、国々を揺るがせ、世界を荒野とし、その町々を破壊し、囚われ人を解き放たず、故郷に帰らせなかった者か。』」と。

「お前が犯人だったのか!」、と知る日が来るというのです。犯人は誰かというと、実は、サタンです。家庭が壊れている様な問題が多くあります。教会はそんな相談をよく受けます。私は先週、久しぶりに新城教会にいましたから、たいへん忙しかったです。毎日のように、色々な問題を持った方々が教会に来られて、「ぜひ話を聞いて下さい、祈って下さい」と言われました。
昨日は朝から晩まで、十数名もの方々と面会して、お祈りをさせて頂きました。本当に、人生は大変だと思います。
特に、家庭の中に色々な問題があることに唖然とします。「私の育て方が悪かった」とか、「私が我慢仕切れなかったのです。もう少し忍耐すれば、こんなことにならなかったのに」とか涙される方も多くおられます。
勿論、出来る限りの忍耐と、努力は必要ですが、皆、一生懸命忍耐し、努力しているのです。にもかかわらず、崩れていく原因は何でしょうか。実は、家族の中に透明人間のような敵が働いているのです。皆さん、どうでしょうか。家族を壊すことを目的にして、家族の中に入り込んでいる透明人間がいたら、いくら夫婦が一生懸命努力しても、その仲を引き裂くでしょう。子供達が一生懸命がんばってても、子供達の人生にも関わるのではないでしょうか。透明人間がいたら、透明人間が特定できなかったら、壊されていくのです。

聖書の光が人生の中に来る時、闇の中に隠れていた存在があらわにされるのです。実に、イエス様がこの地上に来て下さったのは、人類の不幸の原因として座していた、悪魔が暴かれたのです。そして、「お前だったのか、犯人は!」と。
もし、皆さんの中で色々な問題で悩んでおられたら、一度視点を変えて頂きたいのです。何で私の人生はこんなに惨めなのか、また、ある家系を見ると、同じような問題が次から次へと起こり、「なんでこんなに同じような問題が家族の中で起きるのか・・・」
同じテーマの問題が家族の中に繰り返し起きる事が多いのです。どこに原因があるのかというと、透明人間が潜んでいるのです。それを見つけないと、人は勝利できないです。

聖書にはこんな素晴らしいみことばがあります。それは出エジプト二二章七節です。私の好きなみ言葉ですが、

「金銭あるいは物品を保管のために隣人に預け、それがその人の家から盗まれた場合、もしその盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍にして償わなければいけない」

実はこれは、モーセの十戒の「盗んではならない」という事に関する教えです。泥棒が逮捕されたら、泥棒が盗んだ物を被害者に倍にして返せ、ということなのです。
もしも盗まれても、倍にして返してもらえたら、嬉しいのではないでしょうか。例えば、百万円盗まれても、泥棒が捕まったら、盗まれた金が二百万円になって戻ってくれば、盗まれたのもよかった、と言えるのではないでしょうか。
「泥棒が発見されれば、倍になって返ってくる」これが神が決めた法則なのです。

旧約聖書の盗人というのは、物を盗む泥棒のことです。しかし新約聖書になると、この泥棒というのが霊的意味合いをもち、最も深いところに座している真の“泥棒”に言及されるわけです。イエス様は悪魔のことを、「盗み、殺し、滅ぼす者」と呼ばれました。良き作品として造られた人から、良いものを盗んでいく真犯人は、敵である悪魔です。殺し滅ぼすために二四時間寝もせずに働いている敵がいるのです。
しかし、イエス・キリストがこの地上に来て下さった事により、人類は真の泥棒であり強盗である悪魔を見つける事が出来たのです。人生に起こる問題は、ただ自分の努力や周りが悪かっただけでなく、「犯人はお前だったのか。お前が私の人生を壊していたのか。」と犯人が特定できたら、奪われたものを「二倍にして取り戻す」、というのです。

神様はもともと、私達を良いものとして造って下さったのですが、それを悪魔によって盗まれたのです。それは、神の物が盗まれている事ですから、取り戻して当然ではないでしょうか。
教会に来て、イエス様のことがわかると、その光によって闇の中に隠れていた存在がはっきりわかるのです。そして、敵を特定したら、倍にして取り戻して下さると言っているのです。 
本当に、この教会でも取り戻した方が多くおられます。初めは大きな問題を抱えていたのが、二倍どころかそれ以上のものを取り戻している姿を見て、本当に主のみ名をあがめています。

時々、「私は何でこんなに問題があるのだろうか、私は弱い・・・」と考えて苦しんでおられる方々がおられますが、弱さを覚えているなら、あなたは決して弱い人ではないのです。重要な人なのです。
神の視点と悪魔の視点は常に同じです。神が重要な人としている(勿論全員が重要なのですが)人に対して、悪魔も同じ視点を持って目をつけています。
「この人は重要だから、早めにこの人を束縛して、動く事が出来ない様にしよう」と、罪を足がかりとして、その人が身動きできないようにするのです。
というのは、社会で大きな問題をもって苦しんでおられる方は、社会が変えられるための重要な人です。色々な問題に満ちていたとしたら、あなたは弱い人ではなく、実際は重要な人であり、強い人なのです。だから悪魔も、総力をあげて、あなたを苦しめようとしているのです。

イエス様は悪魔の束縛から解放し、自由にしてあげますよ、告げています。悪魔が立てた帆柱を見つけて、その綱を切ったらすごい事が起きますよ、と聖書は語っています。
最後に一つのみことばを皆さんに紹介して終わりにしたいと思います。イザヤ書三三章二三〜二四節

あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足なえさえも獲物をかすめ奪う。そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。

 悪魔はどこかに帆柱を立てて、人を縛るのです。しかし、帆柱を発見して、綱を切ったら何が起きるのでしょう。帆柱が倒されて綱が解かれたならば、「そこに住むものは誰も、私は病気だとは言わず、そこに住む民の罪は赦される」と告げています。諸問題も、悪魔が立てた帆柱に縛り付けられたことに一因があるのです。

私達がイエス・キリストを信じる時、「灰の代わりに美しさを、悲しみの代わりに喜びを。重い心の代わりに賛美を与えて下さる。」イエス様はあなたに、良い知らせを伝えたいと願っておられます。「心傷ついた方はいやしてあげたい。過去の罪に苦しんでいる方には赦しを与えたいと願っておられます。そして、根源であるサタンの力から解放して自由にしてあげたい」と願っています。

透明人間のような悪魔が暗躍していても、イエスさまが来られたら、もはや透明人間は透明人間ではなくなります。なぜなら、正体が暴かれるからです。そして、奪われたものは二倍にして取り戻して下さいます。
この大変な時代に、イエス様こそ希望です。どんな時代が来ようとも、恐れることはありません。天地宇宙を造られた神の計画に生きたら、必ず、私たちの人生は、「死の影の谷を歩くようなことがあっても、災いを恐れることはない」のです。「敵の前で油を注いで下さり、食事を整えて下さる」とあります。
現代のノアの箱船、それはイエス・キリストです。そしてそれを提供する場所が教会です。この困難な時代を乗り越えていきましょう。最後お祈りします。

ハレルヤ、天の父なる神様、み名を崇めます。ここにおられますお一人お一人の心に触れて下さり、心の傷も癒して下さいますように。聖書の約束が実現しますように・・・。

救いは告白と共に来ますから、イエス様と叫んだら、耳を傾けて下さいます。私が祈るように祈ってみて下さい。では、祈りましょう。

「イエス様、今私は、イエス様を私の人生の救い主として受け入れます。心の傷を全ていやして下さい。罪と汚れを清めて下さい。心を洗って下さい。敵の力から解放して下さい。人生の中にうごめいている、透明人間のような悪魔の力を打ち破り、帆柱を倒して下さい。綱を断ち切って下さい。今日から私を自由にし、灰の代わりに美しさを、悲しみの代わりに喜びを、重い心の代わりに賛美をお与え下さい。
イエス・キリストのお名前によってお祈りを捧げます。 アーメン」


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