「本物のクリスチャン」


2009.3.22(SUN)
新城教会 岡本信弘牧師

第1テモテ4章12節
「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」

ハレルヤ!主の御名を心から賛美します。こうして皆さんのお祈りによって支えられて、今日もこの場所に立つことができることを心から感謝致します。

韓国リバイバルミッションまで、あと六十八日となりました。本当に早いものだと焦っているところもあります。特に、言葉が通じないことに不安を覚えます。同じ言葉であれば、声のトーンや表情である程度わかる場合もありますが、通訳を介してですと、うまく伝わらなかったり、相手の意をくみ取ることがなかなかできなかったりして、行き違いが生まれたりすることがあります。日本人同士でも誤解が生じるのですから、ましてや違う言語、違う文化・習慣を持った人とは、なおさらのことです。しかし、私たちは同じ神を信じる者として、一致させていただいてこの働きを進めたいと願っています。この約二ヶ月間の準備が、すべて神様のご計画のままに進んでいくようにお祈りいただくと同時に、韓国リバイバルミッションに期待して、是非お出かけください。

今日は、先ほど読んでいただいた、テモテ第一の手紙四章一二節の御言葉から、「言葉にも、態度にも、愛にも、信仰にも純潔にも信者の模範になりなさい」というテーマでお話ししたいと思います。

ここにいる誰もが「本物のクリスチャンになりたい」と願っておられるでしょう。
人は、クリスチャンに対して、「こういう人がいいクリスチャン」というイメージを勝手に作り上げていると思います。ある本に、「自分のイメージにピッタリ合った人を見ると『これこそクリスチャンだ』と思う。その人を別名『こそクリ』と言う」と書いてありました。「こそクリ」なんて言葉を聞いたことがありませんが・・・。
反対に、自分の持っているイメージからかけ離れていると、「あれでもクリスチャンか」と批判してしまうことがあるかもしれません。
クリスチャンとは、イエス・キリストを唯一の救い主として信じている人のことを言いますが、その呼び名は元々、一世紀のローマ帝国時代に、キリストの弟子たちがローマ皇帝ではなく、イエス・キリストだけを唯一の救い主であると主張したことから、“キリストに属する者”、クリスティアヌスと呼ばれたことから付けられた“あだ名”みたいなものです。ローマ皇帝を拝さないということで、後にクリスチャンに対する大きな迫害が起こったことは、皆さんのご存知のところです。

皆さんの中にも、クリスチャンは「真面目な、愛のある優しい人」というイメージを持っている方が大勢いるかと思います。しかし、先ほど申し上げたように、イメージと違う「あれでもクリスチャンか」と思える人に出会った時、せっかくイエス様を信じたにもかかわらず、人につまずいて教会に行かなくなり、信仰を落としてしまった方も中にはおられます。人間は完全ではありません。私も牧師という立場にある中で、私が言った言葉、私のとった態度で「あれでも牧師か」と皆さんに思わせてしまったことがあったとしたら申し訳ないことですから、神様から愛を受けた者にふさわしく、キリストに似た者となっていきたいと願っています。

それでは、どんな人が本物のクリスチャンなのでしょうか。
本物があれば偽物があるわけですが、インターネットで「本物を見分ける方法」を調べてみました。そこには、「ブランド品(私自身はブランド品には興味がありませんが)や宝石を見分ける方法は、たくさんの本物を見ることだ」と書いてありました。本物を知っていたら、もしその中に一つでも偽物が入っていたらすぐにわかるそうです。また、偽札が出回ることがありますが、銀行マンなどは、お札を数えているとき偽物があれば、ちょっとした感触の違いで、「これが偽物だ」と何千枚ものうちの一枚を簡単に判別することができるそうです。自分の財布の中に偽札が混ざっていても、私には到底わからないと思いますが・・・。ここで、「本物を知るために」、本物である神様について聖書がどう教えているかを見てみたいと思います。

日本には「八百万(やおよろず)の神がいる」と言われています。本当に八百万いるのでしょうか。皆さんの家の近くにも、神社や寺があるでしょう。そこには神として崇められているものが色々あります。それは本物でしょうか? 人に恐れを与えるもの、一生懸命拝めば神にもなるが、拝まなければ鬼になってたたりを与えるもの、それは本当の神様ではありません。人が作り出した偶像といわれる偽物です。悪魔が本物の神に似せて人々を惑わし、さも本物の神であるかのように拝ませているのです。サタンは功名ですから、気を引き締めてだまされないようにしなければなりません。しかし、私たちの信ずる神様は、真実で、良いお方です。『初めに神が天と地を創造された』(創世記一章一節)とある、この世のすべてを造られた方、私たち人間を造り、私たちを生かし、私たちの過去も現在も未来もすべて知っておられる方が、私たちの信じている真の神様です。
そしてこの神は、『神は愛なり』という御言葉に象徴されるように、愛なる方で、『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ四三章四節)とあるように、私たちを愛してくださるお方です。
被造物である人間は、全知全能である神様から「こうしろ、ああしろ。あれが悪い、これが悪い…」と言われても仕方のない者なのに、イエス様はそうではなく、『人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分の命を与えるためである』(マタイの福音書二〇章二八節参照)と言ってくださったように、仕えられるためではなく仕える者として、この地上に人として来てくださいました。それは、私たちが神様と似た者になっていくようにと、模範を示してくださったのです。
テレビで、スポーツ選手や偉業を成し遂げた人たちが「あなたがここまでになれた秘訣は何ですか」と聞かれて、「良い師匠に巡り会えたからここまでやってこれた」と言っているのを聞いたことがあります。まさしく私たちクリスチャン生活の師匠は、イエス・キリストであり、神のことばである聖書なのです。神様が示してくださった模範に従っていく時、私たちは成長することができるのです。

また、エペソ四章一三節には、『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです』とあります。
この御言葉にあるように、人間はだんだんと成長していくものです。この教会にも大勢の子どもたちがいますが、今年は、四月から中学に入学する子どもが、二十人近くいるそうです。少し前に小学校に入学したばかりだと思ったような子どもたちです。本当に時が経つのは早いものだと思います。
先日、ある家庭集会に行った時、一人の女の子が「今度小学校一年生になるの」と、すごく嬉しそうでした。おじいちゃん、おばあちゃんからプレゼントされた机にランドセルを置いて、机をなでながら「私、今度一年生。嬉しい」と喜んでいる娘の姿を見て、我が子がこんなに大きくなったんだなぁと感無量になったとご両親が言っておられました。私はそれを聞いて、ほのぼのとした気持ちになりました。自分の子の時はどうだったかなぁと記憶をたどりましたが覚えていません。もう、ずいぶん前のことになってしまいましたから。
子どもの成長は楽しみです。しかし、子どもが一ヶ月経っても二ヶ月経っても体重が増えていかなかったら、また、もし二歳になっても三歳になっても歩かなかったら「どうしたのだろう。どこか悪いのではないか、病気じゃないか、問題があるんじゃないか」と、誰もが心配します。
子どもが成長するのと同じように、私たちクリスチャンも『完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです』と書いてある『キリストの身たけ』、つまり、「イエス様に似た者」に成長することを神様は願っておられるのです。

ルカの福音書に、一人のクリスチャンが紹介されています。ここには、ある百人隊長のしもべが病気で死にかけていたとあります。百人隊長は、「この病気を治すことができるのはイエス様しかいない」と思い、ユダヤ人の長老たちをイエス様の所に送り、しもべを助けに来てくださるようお願いしました。イエス様はその願いに応えて百人隊長の家の方に向かったのです。ところが、百人隊長の家の近くまでイエス様が来られたことを知った百人隊長は友人を送り、『主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は私にはありません。ですから私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば私のしもべは必ずいやされます。』(ルカ七章六、七節)と伝えたのです。ここでは、百人隊長が、神に信頼しきっている姿を見ることができます。これを聞かれたイエス様は驚かれ、ついてきた群衆の方に向いて『あなたがたに言いますが、このような立派な信仰は、イスラエルの中にも見たことはありません』(九節)と、この百人隊長の信仰をほめたのです。

四月には、進級したり、新しい学校、新しい職場へ行く人が大勢いるかと思います。その時、「私はクリスチャンです」と証しすることが、「本物のクリスチャン」になっていく一つの条件であると思います。
ローマ書の一〇章一四節に『しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。』とあります。皆さん、学校、職場において、自分がクリスチャンであると伝えていますか。日曜日はクリスチャンとして聖書を抱えて教会に来るけれど、教会から一歩外に出るとイエス様のことなどすっかり忘れ、一週間、聖書を車の中や家のどこかに放りっぱなしで一度も開かない。そんなサンデークリスチャンになっていませんか。

私はクリスチャンホームに育ちましたから、周りにクリスチャンがいることは当たり前でした。しかし学校に行くと、クリスチャンでない友達ばかりです。学生時代、サンデークリスチャンだった私は、毎週礼拝には出ていたものの、いい加減な信仰生活でした。高校時代、仲のいい、俗に言う“悪友”が五人いました。試験が近づくと、テスト勉強をするといって、いつも友達の家に集まりました。といっても、ほとんど勉強はしませんでしたが・・・。私以外はクリスチャンでないので、高校生にもかかわらず、全員がタバコを吸っていました。今思うと、タバコの煙が充満した部屋に、よく平気でいられたと思います。その時は、何とも思わなかったのですから、私の信仰も大したものではなかったということです。
ある時、友達二人が「今日の夜中、岡本が眠り込んだらその時がチャンスだ。岡本の口にタバコをくわえさせてやろう」と、私に聞こえるように言いました。その時、私は「もしお前たちがそんなことをしたら、俺はお前たちに一切会わない」と、烈火のごとく怒鳴ったことを覚えています。私があまりにも怒ったので驚いたらしく「いや、冗談だよ」と言って、その後は、そんな冗談を言うこともなく、大人になってからも、酒を勧めてくることさえもありません。私の信仰は低空飛行だったかもしれませんが、しっかりとクリスチャンであることを証ししてきたことにより、守られてきました。新しい環境に入ったばかりで個人伝道をすることはなかなか難しいと思います。しかし、まず自分がクリスチャンであると言うことはとても重要であり、言うことによって、様々な誘惑や悪から守られます。そして、そこから始まって私たちは「本物」のクリスチャンとなっていくのではないかと思います。ですから、ぜひ「私はクリスチャンです」と証してください。そしてさらに、イエス様を宣べ伝えいきましょう。
ここにいるほとんどの方が、イエス・キリストを唯一の神と信じるだけで永遠の命をいただき、いつ死んでも天国に行くことができるという望みと恵みを獲得されているクリスチャンです。しかし、それがクリスチャンのゴールではないのです。私たち一人ひとりに神様が託しておられる使命があります。選ばれた一人ひとりが宣教に出て行くこと、リバイバルのために働くことを神様は私たちに望んでおられると思います。
最初にお読みした御言葉の中に、『態度にも愛にも』と書かれています。また、ピリピ人への手紙二章一六節には、『いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。』とあり、成長したクリスチャンとなって、人々の前に光のように輝く者となっていきたいと思います。

先日、まだクリスチャンではありませんが、教会のコンサートなどに何回か来られたことのある方が、プレイズ出版に来られ、こんな話をしてくれました。
「私は先日、心温まる光景を見ましたよ。駅のホームで電車を待っていた時、母親と小学生くらいの子が私のすぐそばにいたんです。そこにお婆さんがやって来て、その母親に道を尋ね、彼女は本当に親切丁寧に教えてあげたので、お婆さんは喜んでそこから立ち去って行かれました。すると子どもが『お母さんがそんなにしゃべっていたから、電車が行っちゃったじゃないか』と文句を言ったんですが、彼女は『電車は待っていればまた来るけど、あのお婆さんは今私が道を教えてあげなかったら、きっと困ってしまったよ』と答えたんです。するとその子は、『じゃあ、僕、電車に乗り遅れてよかった』と微笑んだんですよ。いやぁ、素晴らしい光景だなと思いました。もしかしたらあの方もクリスチャンですかね」。
その女性がクリスチャンであったかどうかはわかりませんが、その光景を見たその方は、クリスチャンに対して良いイメージを持っておられると感じました。
皆さんはこのような時、どのような態度をとられるでしょうか。自分のことを差し置いて、人に愛を示すことができるでしょうか。これはイエス様がこの地上に来られて示された愛の態度ではないかと思います。誰かが見ていたらいい格好をすることができるかもしれません。しかし、人が見ていなくても神様は見ていてくださいます。どんな小さなことでもかまいません。私たちはイエス様が示してくださったように、愛を表す者となっていきたいと思います。そして、「あの人がクリスチャンだったら、私もクリスチャンになりたい」と言われるようなクリスチャンになっていきたいと思います。

もう一度、第一テモテ四章一二節を見てみましょう。ここに、『信仰にも』とありますが、信仰とは何でしょう。
ヘブル人への手紙一一章一節には『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです』と書いてあります。信仰とは、私たちがまだ見ていない事がら、将来を神様に託すことだと思います。私たちがクリスチャンになった時、何が変わったかというと、物に対する考え方、価値観が変わったのではないかと思います。皆さんには、色々な目標や夢、将来に対するビジョンがあるとと思います。クリスチャンになる前に持っていたもの、それは、地位や名誉といった欲望を満たすものだったのではないかと思います。
テレビを見ると、毎日のように金にまつわる事件が報道されています。政治の世界を見ても、「国民の皆さまのために」と言いながら、自分の益になることしか考えていないような政治家がたくさんいるように思われます。その背後にあるのは金と権力です。勿論、真剣に国のために働いておられる方もいるでしょう。聖書に『上に立つ者のために祈りなさい』とありますが、今後、大勢のクリスチャンが上に立つ人になっていただきたいと思います。

聖書に、パウロという人物が出てきます。彼は初め、教会迫害に燃えた人でした。しかし、イエス様に出会ってから価値観が全く変わり、『それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。』(ピリピ人への手紙三章八節)と、今まで持っていた地位や学歴のすべてを損であると思うようになったと告白し、キリストのために命がけで人々に福音を宣べ伝え、初代のリバイバリストとして用いられた人です。
私たちも価値観を変え、自分を第一にするのではなく「イエス様が私のすべてである」と言える者になっていきたいです。

また、聖書に『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(第二コリント四章一八節)という箇所があります。見えないところが重要だから、見えないところにこそ目を留めるようにと教えているわけです。これはまさしく、霊的な領域をさしていると思います。

毎朝、鏡を見て、髪や身だしなみを整えて出かけていかれると思いますが、鏡を見ただけでは今日健康であるかどうかはなかなかわかりません。湿疹があったり、どこかが腫れていたり、顔色が悪いといった表面的なことはわかりますが、鏡を見ただけで、胃がちょっとただれているとか、血液がつまっているなどはもちろんわかりません。
取り立てて太っているわけでもなく外見的にも何の問題もないのに、検査を受けてみたら「コレステロール値が高いですから、食事に気をつけてください。メタボ予備軍です」と言われて、「今まで気がつかなかった…」という方も中にはおられると思います。

また、「体は元気だけど…」と、肉体的には何の病気もないけれど、心を病んでおられる方がいらっしゃいます。悪魔は、私たちの心にも攻撃をしかけてきます。
『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』(第一ペテロ五章八節)とあるように、すきあらば神様から私たちを引き離し、信仰を落とそうと狙っているのです。ですから、自分では大丈夫と思っていても、時々は検査してみる必要があるのではないでしょうか。
昔は不治の病と言われていた癌も、早期発見をするなら生存率がグッと高くなるそうです。
クリスチャン生活も同じであると思います。私は大丈夫だと思っている方がおられるかもしれません。しかし本当に大丈夫でしょうか。時々点検して、知らない間に悪魔の罠に陥っていたり、本来の道からはずれているようなところを早く見つけて、健全なクリスチャン生活を送っていいただきたいと思います。
「教会に来なくても、自分で祈って礼拝しているから」と言われる方が時々いますが、教会に来て、礼拝に参加することは重要です。色々な事情で来られない方は別ですが、ぜひ教会にいらしてください。御言葉を聞き、クリスチャンの仲間と一緒に賛美をする。そして、同じ信仰を持つ方と交わりをすることはとても大切です。その中で、自分の信仰を点検することができます。

もう一つ、『純潔』がテーマとして書かれています。
人は追い詰められた時に、真価が問われると言われます。時に、問題にぶつかったり悲しみや不安に襲われることがあります。「何でこんなことが起きるんだろう」といったことがふりかかった経験が皆さんにもあると思います。
ダニエル書には、バビロンの王ネブカデネザルに反抗したダニエルと三人の少年たちのことが書かれています。
『シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」』(ダニエル書三章一六〜一八節)といって、決してあなたの像を拝むようなことをしないと、王に刃向かったわけです。それにより、彼らは王の怒りをかい、普通よりも七倍熱くされた炉に投げ込まれてしまいました。しかし結果はどうだったでしょうか。
ネブカデネザル王は火の燃える炉を見て、『私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。』(二五節)と言い、彼らに出てくるように命じました。出てきた彼らの彼らのからだには火はききめがなく、その頭の毛もこげず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしませんでした。そして、王は『神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分のからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。』(二八節)と言って、神をほめたたえたのです。
このように、ダニエルたちが命がけで主に従った時に、主が業を現してくださったように私たちも、常にイエス様の側に立つ者となりたいと思います。

日本でも、また韓国においても、多くのクリスチャンがその信仰のゆえに殉教していきました。クリスチャンでない人から見たら「なんとバカらしい、そこまでしなくてもいいじゃないか」と思われるでしょう。しかし、イエス様に、神様に従っていくというのは、こういうことなのです。それは、純潔を守るということでもあります。
今の世の中、浮気をしたり、できちゃった結婚が当たり前のような時代になっています。偶像礼拝とは神の前では姦淫と同じです。真の神から離れた汚れた時代の中で、主にのみ従っていき、偶像と一線を画していくことはとても重要なことです。

もちろん、誰も試練に会うことを好む人はいません。しかし、第一コリント一〇章一三節に『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』とあるように、台風のような激しい試練や問題であっても、神は必ず助けてくださいます。そして、それを乗り越えていく時、揺るぎのない成長したクリスチャンとなることができると私は信じます。

初めにお読みいただいた『年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。』の御言葉通り、一人ひとりが成熟した本物のクリスチャンになって、キリストを宣べ伝え者として、多くの人の模範となるべき者となっていきましょう。

お祈りしたいと思いますが、その前に、皆さんにお聞きします。
「私はクリスチャンとして、成長していきたいけど行いが伴っていかない」と、自分の弱さを覚えるおられる方がいらっしゃいますか。また、「誘惑に勝つことができない」と、悩んでいる方がいらっしゃいますか。私も弱い者で、ことばにも態度にも愛にも純潔にも、まだまだ模範となるべき者になってはいませんが、こんな私をも主は選んでくださり、支え、生かしてくださっています。誰も強いわけではありません。皆さんの中で職場や学校において、自分がクリスチャンとしてまだしっかりと表明ができていない人がおられるなら共に祈りたいと思います。「私のために祈って欲しい」、そのように願う方は手を挙げて教えてください。

ありがとうございます。今、多くの方が手を挙げられました。その方々のために、今日学んだ御言葉のように、一人ひとりが整えられ、成長して、主に喜ばれる者となっていけるようにお祈りします。手を挙げなかった方も、同じ思いで祈っていただきたいと思います。

愛する主よ、心から感謝いたします。主は私たち弱い者を選び、クリスチャンとしてキリストに似た者としてくださることを心から感謝します。与えられた恵みの中で、一人ひとりが主に従い、主の御心を行う者として、ことばにも態度にも愛にも信仰にも純潔にも主の模範となるべきものとなりたいと願っています。一人ひとりをどうか今、強めてくださり、弱さを覚えている人には、新しい力と新しい油注ぎを与えてください。ここにいるお一人おひとりを豊かに祝福してください。今日の恵みを心から感謝します。すべてを主のみ手にゆだねます。信じ、主の御名によって祈ります。アーメン。


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