「どうしても必要なこと」


2009.3.29(SUN)
新城教会 滝元順牧師

ルカの福音書 10章38節〜42節
さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

ハレルヤ!おはようございます。今朝、こうして皆さんの前に立って、メッセージを取り次がせていただけますことを、心から感謝いたします。四月から新しい環境に出て行かれる方も多くおられると思います。そのために、緊張しておられるかもしれません。どんな年度になるのか、学校が変わったり、職場が変わったり、持ち場が代わったりして、色々と不安が多いかもしれません。
また、沢山のことに気を使わなければいけませんし、やらなければならないことが山積みという方も多いのかもしれません。私達はこの世において、沢山のことをしなければならないですが、今日は、「どうしても必要なことは何であるのか」ということについて、聖書から、皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。

今日読んでいただきました聖書の箇所は、イエス様がある村に入られたときの出来事です。そこで、マルタという女性が、イエス様を喜んでお迎えしたと書かれています。このマルタは、もてなしの賜物ある方で、イエス様を手厚く接待しました。
このごろ私は、毎月のように韓国に行って奉仕させていただいています。今週も行くことになっています。今回は決起大会での奉仕というよりも、事務的な打合せで平岡修治先生と一緒に行きます。韓国ミッションの本大会でメッセージを語ってくださる韓国の先生方を訪問したり、色々なところに顔を出して、「韓国ミッションを、よろしくお願いします」と、ある意味で、気を使いに行くのです。
でも韓国に行くと、本当によくもてなして下さいます。韓国人の方々は、もてなしの賜物があると思います。先々週は、いくつかの教会が連合して、リバイバル聖会を開催して下さいました。まずは日本海に面した、ソッチョという、北朝鮮との休戦ライン近くにある街で、三日間聖会を持ち、その後、「冬のソナタ」で有名な、チュンチョンという街に行き三日間の聖会を持ちました。連合の聖会では、地域の牧師先生方がよくもてなして下さいます。朝・昼・晩と毎回、誰かが受け持って接待して下さるのです。初めは嬉しいのですが、一週間くらい経つと、なかなか大変でもあります。でも、毎回、心を込めてして下さるのです。
ここで少し映像で、今回の集会をご覧頂きます。これはソッチョでの連合聖会です。この街は人口八万人くらいですが、教会がたくさんあって、写真の教会はその中でも大きい方の教会です。ここで朝と晩の二回集会が持たれましたが、大変恵まれました。
次の写真はFEBCというラジオ局のスタジオで、ラジオ番組を収録している様子です。このラジオ局が今回の聖会を主管して下さいました。このラジオ局は、去年も私の集会を計画して下さり、今回は二回目です。左に写っているのが局長さんで、聖会の合間に、一時間くらいのインタビューを受けました。
韓国では24時間、福音が電波で地域に送られています。日本もそうなったらいいなと思います。またクリスチャン系のテレビ局もあり、全国ネットで放送されています。韓国リバイバルミッションも「CBS」というクリスチャンテレビ局が、全国中継して下さることになりました。ですから、会場にどのくらいの人が来るのかわかりませんが、韓国全国のお茶の間でも大会の模様を見ることができます。
次の写真ですが、祈りの時にはみんな本当に熱く祈ります。このことは、私達日本の教会も、見習わなければならないと思います。
どうしても必要なことはわずか、いや、一つだけだ、マリヤはその良い方を選んだとありますが、それが何かというと、イエス様の足下に座って、みことばを聞くという、「主を愛する、主に対するひたむきさ」が一番重要なことです。その点、韓国の方々は、実に熱く主を求めておられます。ですから聖会に出ても、いつも恵まれます。

次はチュンチョンでの聖会です。ここは若者達が多い集会でした。中学生・高校生が多くおられます。写真に写っている背の低い男の子は、小学校一年生です。みんな真剣に主を求めていました。この教会では、若い先生が牧会しているのですが、ご両親は街の有力者でした。お父さんが国会議員、お母さんが焼肉店を経営しておられました。本当に国会議員かなと思うほど、真剣に主を求めておられ、韓国では、国会議員の三分の一がクリスチャンだそうです。その方はクリスチャン議員団の副会長をしておられるそうです。子どもたちも真剣に主を求めておられました。

次は韓国食事編です。赤い色が食卓を占領しています。朝からこんなにも多くのおかずが所狭しとならべられます。韓国ミッションに行かれる方はぜひ、楽しみにしておいていただきたいと思います。これはソッチョでしか食べることができない、水刺身といいまして、水といっても赤い汁です。中に浮いているのは全て刺身で、特別な料理だそうです。朝・昼・晩毎回このような赤いものを食べ続けると、かなりパワーがつきます。朝なのに、スタミナたっぷりの鍋料理が振る舞われ、私を招いた下さった牧師先生達が勢揃いして一緒に食べます。食べることが仕事のような感じです。せっかく、体重を落として韓国へ行ったのに、また太ってしまいました。

マルタという女性はもてなすこと、イエス様に仕えることに使命を感じていた女性でした。しかし、妹のマリアは、お姉さんに仕事を振っておいて、自分はイエス様の足下に座ってイエスさまの話を聞いていました。その姿を見て、マルタは頭に来て、「イエス様、何とかなりませんか、うちの妹は‥」と文句を言ったのです。そこでイエスさまが言われたことは何であったかというと、四一〜四二節、

主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

私達も色々なことに気を使います。特に、今の季節は新年度を迎える時期ですので、やらなければならないことも沢山あり、忙しい時期です。このときにこそ、一度立ち止まり、聖書のみことばに耳を傾けることが重要です。
私達は何にフォーカスを当てて生きていくべきでしょうか。それは、多くはない、むしろ、一つだというのです。マリヤはその良い方を選んだと言われましたけれど、それが、「主の足下に座ってみことばに聞き入ること」だというのです。
皆さんは今朝、お忙しい中、礼拝に集まって下さいました。本当に感謝します。昨日から、高速道路の料金が、千円になりました。遠くから高速を使って礼拝に来られている方もおられますが、主は、国をも動かして、教会に来やすくされたのではないかと思います。でも渋滞が心配ですが。
先週はここで、岡本信弘先生が、「本物のクリスチャン」というタイトルで、みことばを語って下さいました。そんな中、日曜日は、みんな礼拝に集ってみことばを聞きましょう、と勧めていました。
もちろん、今は私がメッセージを語っていて、イエス様の足下で直接聞いているわけではありません。少し不純物が混じっているかもしれませんが、基本的には、聖書から語っているわけですので、主の足下でみことばを聞いていると言えると思います。これは、私達にとって一番重要な仕事であり、みなさんは今、最も大切なことをを行っているのです。
神が人間を造られたとき、同時に、霊的法則を造られたわけです。ですから、どうしても必要な条件を満たすならば、他の必要も満たされるわけです。

幸せを得るためには、条件は多くはありません。それも、一般的な条件とは違っているのです。これからの皆さんの生活の中で、何を大事にしていけばうまくいくのでしょうか。ひと言で言うと、「主を愛する」ということです。
マタイの福音書の二二章三四節に、関連したことが書かれています。

しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

三月の初めに、ルカの福音書十章の、良きサマリヤ人の例えからお話しさせていただきました。聖書はしっかりとした、目的を持って記されているわけですから、一連の流れ、「文脈」が大切です。ですから、ルカの福音書十章全体の中で、神が私達に語りたいテーマがあるはずです。それが何であるかというと、「神を愛する」ということが、一番大切であるということです。神を第一に追い求め、生活で最優先にすると、あなたは幸せになります、また、永遠のいのちを得ることができると、イエス様は語っておられます。

しかし、神様を愛すると言いますが、目に見えたら簡単なわけですが、見えないわけです。マルタやマリヤは、イエス様を目の前に見ていたのですから、愛情も感じたと思いますが、私達は、イエス様を見ることができないのに、どうやって愛することができるのかと思われるかも知れません。
ルカの福音書十章には、神を愛するとは、具体的にどういうことかが述べられています。それに関連して、第一ヨハネの四章二〇〜二一節に、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

 私達は、神様を愛しますと言いますし、賛美でもそのように歌います。しかし実際、神を愛するとは、どういうことかと言いますと、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいたら、その人は偽り者であり、目に見える兄弟を愛していないのに、見えない神を愛することはできません。」とあります。
 本物のクリスチャンと、偽物との違いは、神を愛しているかどうかであり、それは、「目に見える兄弟を愛することが、神様を愛することだ」というのです。
 「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を、キリストから受けています。」とあります。

 ここでいう「兄弟」とは、ルカの十章では、「隣人」を指しています。実は、神を愛することと、隣人を愛することは、切っても切れない関係なのです。ちょうど、コインの表・裏のように、神を愛することは、ひっくり返せば、兄弟を愛することなのです。この二つが兼備わって、初めて「神を愛する」と表現されるのです。
 ですから、良きサマリヤ人の例えがあるのです。前回もここからお話しさせていただきましたが、私はこの頃、韓国での奉仕を通して、心に響いているみことばです。良きサマリヤ人の例えを見る時、本当にこうあるべきだと感じています。もう一度、この箇所をご一緒に復習していきたいと思います。

ルカの福音書一〇章三〇〜三七節
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 一人の倒れていた旅人とは、ユダヤ人だと思われます。この旅人を助けたのは、サマリヤ人でした。
 前にも説明したように、イスラエルはかつては一つの国でしたが、二つの国に分断してしまいました。朝鮮半島と同じように、北イスラエルと、南ユダに分かれてしまいました。北イスラエルはアッシリアに侵略され、多くの人が姿を消し、残った人たちは、アッシリアの植民地政策によって混血が起こりました。
 一方、南ユダも、バビロニア帝国に捕らえられましたが、七〇年後、もう一度帰ることができました。南ユダの人々は、自分たちは民族性を保つことができたという自負心があったのです。ですから彼らは、北イスラエルを軽蔑していました。もともとは、同じ民族であったのに、大国の狭間で揺れ動かされ、国が分断されたのです。そして、イエスさまの時代は、北イスラエルの子孫がサマリヤ地方に住み、南ユダの子孫は、イスラエルの南に住んでいました。

 エルサレムからエリコに下る道は急な坂道でした。標高七〇〇メートルの高台にあるエルサレムから、地中海から三〇〇メートルも低い地下にあるようなエリコへ至る道は、険しい道が続いていました。直線距離は四〇キロメートルくらいの間に、急激に下るカーブの多い道だったのです。
 この道は、ユダヤ人もサマリヤ人も使っていました。そんな中で問題が起こっていました。それは、街道沿いに、たびたび強盗が出没していたからです。倒れていたのはユダヤ人、そして、助けたのはサマリヤ人だったのです。
 イエスさまがお話しされたこの状況は、民族意識の強いユダヤ人にとっては、受け入れがたいストーリーでした。彼らはサマリヤの人を、卑下して、差別していたからです。
 私達も人生の中で、敵視している人が失敗したり倒れたりすると、「良かったな・・・」と悪い心を持ってしまうことがあります。しかし、そんな状況を超えて、サマリヤ人は、旅人を助けたところに、この物語のポイントがあります。隣人を助けるとは、単なる、隣の人と言うことだけではなく、「ユダヤ人とサマリヤ人」の関係のように、もともとは兄弟同士であったのに、対立関係にある「民族集団」を指すのです。しかし、それを超えて、愛を現すと言うところに、隣人を愛する重要性があるのです。

 なぜ、韓国でリバイバルミッションをしなければならないかといいますと、隣人を愛する、ひいては、コインの裏表でる、神を愛するというテーマにおいて、非常に重要だと思うからです。
 日本と韓国とは、歴史を見ると、まさに兄弟のような関係です。人類はもともとバベルの塔の付近に住んでいました。バベルの塔の事件以来、世界に散らされていきました。その中で東に移っていった人が多くいました。もしかすると、その人たちが一番多かったのかもしれません。バベルの塔は現代でいう、イランとかイラクの地域にあったと思われます。そこから東に移っていきますと、インドがあります。そこで文明が栄えました。
 またもっと東に行ったら、広い草原に出ました。そこが中国です。しかし、もっと東に出て、半島に南下し、北の方に住み着いたのが北朝鮮の人々です。けれども、さらに下って南の方に住み着いたのが韓国人の方々です。
 そこから、海を渡って来たのが日本人です。元々、同じ民族なのです。昔、新羅という国が朝鮮半島にありましたが、当時使っていたことばは、日本語と大差なく、普通に会話できたのではないかと言われています。ですから、いまでも、新羅があった慶尚北道、慶尚南道地方のアクセントは、日本語に似ているそうです。文章の区切りや、長さは大体同じです。ですから私が韓国でメッセージしても、私が話したことばと通訳したことばは、大体同じ寸法でいけますので都合がよいです。

 先々週、私は久しぶりに、インターナショナル集会でスペイン語の通訳を通して、メッセージを語ったところ、スペイン語では結論を先に言わなければなりませんので、話の区切りが日本語と違い、最近、韓国系の通訳で慣れている私は、苦労しました。日本語と韓国語は文法が同じですので、タイミングよく良く話せます。通訳を付けるときには、ことばの法則を知らないと、なかなか難しいものです。
 日本と韓国は本当に兄弟のような国です。しかし、そこに対立があるのです。ちょうど良きサマリヤ人の例えと、そっくりな状況です。そんな民族性を超えて、助け合うことが、神様を愛することにおいて重要なのです。
 私達は日本のリバイバルを長い間祈っていますが、なかなか結果が出ないと感じています。しかし、神の法則は私達の思いとは違うのです。それは、日本の祝福のためにも、お隣の朝鮮半島に住む人々を愛することが大切です。もっとも大切な条件が満たされ、結果として、日本にリバイバルが起きるのではないでしょうか。神様の祝福の条件は、私達が日頃考えているものとは違うのです。私達は、その原則を聖書から学んでいかなければなりません。

 エルサレムからエリコに下る道は、サマリヤ人も使うし、ユダヤ人も使う共通の道でした。そこに大きな問題がありました。それは、常に強盗が出るというものでした。言い伝えによると、あまりにも多くの旅人が襲われ、道路が赤く染まったと言われるほど、頻繁に強盗が出たそうです。
 この物語の根本的な解決法は、倒れている人を助けることも重要ですが、それ以上に、「そこに出没する強盗どもを一掃する」ことです。そうしないと、犠牲者は絶えることがありません。
 強盗どもは、ユダヤ人でも、サマリヤ人でも、境なく襲っていたのです。ユダヤ人とサマリヤ人は互いに対立していましたが、実はこの道中には、共通の敵がいたのです。
 私も、韓国リバイバルミッションの働きの中で、日本人が韓半島の人々を助けることも重要ですが、やはり、目に見えない共通の敵をやっつけることが、最も重要であると思います。
 ルカの福音書一〇章の書き始めを見ますと

「 その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」

 ルカの十章の書き始めは、イエス様が七〇人を定め、先に使わされたと記されています。そこには、「宣教」というテーマがあります。七〇人を、二人ずつ組みにして町々、村々へイエス様より先に遣わされたのです。
 私達クリスチャンは、言い換えると「イエス様の弟子」です。弟子はどのようなことをしなければならないかと言えば、イエス様の命令に従うことです。そして、イエス様の命令は、七〇人を定めて遣わされたように、私達も、色々な場所へ遣わされるのです。

 四月から、ある方々は新しい学校に入ったり、新しい職場に就職したり、色々、環境が変わるかもしれません。それは、たまたま偶然にそこに行くようになったのではなく、神の計画のなかで、あなたはそこに遣わされたのです。そのことを知って頂きたいと思います。
 「私はここに遣わされてきた。それも主によって」と、イエス様の弟子として、イエス様の命令によって遣わされたのだと、信じて頂きたいと思います。

二月、三月は緊張感があります。何故なら、受験シーズンで、教会に寄せられる祈りのリクエストの多くが、「受験のために祈って下さい。」というものだからです。高校受験、大学受験などのために祈って下さいと、祈りの課題が寄せられます。私達も真剣に祈ります。そして、ある時は嬉しい知らせが届きます。「受かりました、有難うございました!祈りが聞かれました」という知らせです。
しかし、ある時は、ちょっと悲しい知らせが届きます。“桜散る”と電報が打たれるといいますが、同じような感じで、「ダメでした・・・」という、悲しい結果を聞くことがあります。
「あんなに祈ったのに…」と、第一希望ではなく、第二、第三希望になってしまったとか、ストレートで入っていれば、こういう人生ではなかったのに、自分の歩みたかった道とは違う道に進まなければならない時もあります。

しかし、皆さん、決して忘れないで頂きたいと思いますが、私達クリスチャンにとって、無駄なことは何一つないということです。受験で滑ったとしても、神様は、さらに素晴らしい、優れた道を用意しておられるということです。そして、さらなる新しい環境に、主は遣わしたいと願っておられるのです。
ですから、この世の価値観で色々な事柄を判断してはいけないのです。皆さんが、今いる環境は、神があなたを遣わした場所なのです。

でも、遣わす時にイエス様は、ちょっと怖いことばを語られました。何を語られたかというと、「さあ、行きなさい。いいですか、わたしがあなた方を遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。」

私達クリスチャンが世の中に出ることは、ちょうどこのような状況なのかもしれません。鴨がネギをしょって来た、という言葉がありますが、狼の中に子羊が行けば狼は獲物が向こうからわざわざやって来たと言って喜ぶと思います。「今晩のおかずが来た!」と。
私達が遣わされる現実は、こういう場所だと教えているのです。四月を前にして、心を引き締めて頂きたいと思います。私達が遣わされていく環境は、“狼の中に遣わされる子羊のようだ”というのです。目に見えない敵が沢山いるのです。そんな中に、私達は遣わされていく、「それが宣教ですよ」と教えているのです。

私は韓国で奉仕していますが、ある意味で、子羊のような私が、狼の中に入っていく感じで、緊張することも多いです。大変なところもあります。
日本に住んでいると気がつかないのですが、日本人は、日本から一歩出たら、誰でも日本を代表しているのです。私は政府から代表として選ばれているわけではないし、国家の重要なポジションでもありません。ただの田舎の一牧師ですが、海外では、日本を代表する立場に立たされることがあります。

先週も、ソッチョという場所で、三日間の聖会を導きました。特に、悪魔に機会を与えるものとして、「憎しみ」があることについてお話ししました。何故なら聖書は、「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはなりません。悪魔に機会を与えてはいけません」とありますから、「誰かを憎む」というのは、悪魔が侵入するポイントになります。そして、兄弟を愛せないという事は、神を愛せないのと同じだ、と語らせて頂いきました。
その聖会には、大勢の方々が来られていましたが、集会の後、八〇過ぎのお婆ちゃんが出て来て、私に向ってこう言いました。
「私は今回の聖会の講師が日本人だというので、あまり来たくなかったけど、昨日から来ました。しかし、日本人の牧師に祈ってほしいなど、全く思っていませんでした。
でも今日のメッセージを聞いて、日本人を赦さなければならないと教えられたので、今日はあなたに祈ってもらおうと思います。」と言われました。

私はそれを聞いて、ドキッとしました。韓国で八〇歳以上の方々と出会うと、ちょっと緊張します。何故なら、日本が一九一〇年から一九四五年まで、日帝支配を朝鮮半島に置いたからです。ですから、八〇歳以上の方々は、日本語教育を受けています。韓国語を喋ったら日本教師が叩いて、無理やり日本語を喋らせました。
また、韓国名をとりあげ、日本名を名乗らせ、日本の一部として扱いました。ですから、八〇歳以上の方々は、日本語も分かるし、直接的な被害を受けた方々は日本に対して憎しみを強く持っています。

そのお婆ちゃんが来てこう言いました。「私は日本人は大嫌いだ。何故なら、日本人が私の家の財産を全て奪って行った」と言って、六〇年以上前の事を、さも、昨日のことのように、噴き出すように話し始め、怒りはじめて、大変な状況でした。その年代の方々は、かつては日本名に変えられていますから、お婆ちゃんの日本名を聞くと、しっかりと覚えていました。
また、日本はかつて韓半島の方々に対して、本当に悪い事をしました。慰安婦といって、若い女性を連れて行き、日本の兵隊達の性的な道具にしたのです。彼女はもう少しで、慰安婦として連れて行かれるところだったというのです。そんな体験もあり、日本人に財産を奪われたこともあって、日本人を本当に憎んでいたのです。
私は日本を代表するということはできませんが、「私は日本人の一人として、心から悔い改めたいです。赦して下さい。」と言いました。そして、「お婆ちゃん、私の所に来てくれてありがとうございます。」と握手し、お婆ちゃんの祝福のために、祈って差し上げました。
何の身分も無くても、一歩国から出れば国を代表するものだと思いました。まして私達は、神の国の住民であり、神の子としての身分を持っていますから、神の国を代表して働くのだと感じさせられました。

しかしある意味、韓国で働くことは、日本にはない、見える世界でも、見えない世界でもなかなか大変なことがあります。聖書が語っている、「あなた方を遣わすのは、狼の中に子羊を送り込むようなものだ」というのと同じような環境があるのです。
私達はどんな環境でも、油断してはいけません。そこには、目に見えない敵がいるのです。常に私たちは心して、新しい環境に踏み出していかなければならないのです。

イエス様は弟子達に対して、「あなた方を遣わすのは、狼の中に子羊を遣わすようなもの」だと語られましたが、いざ弟子たちが出て行って見ると何が起こったのでしょうか。その事が、ルカの福音書一〇章一七節から二〇節に記されています。

「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

 イエス様が最初弟子たちに語ったこととは、まったく正反対のことが起こったわけです。最初は、「狼の群れに遣わされる小羊だ」といいましたが、実際に行ってみたら、何が起こったかというと、七〇人は喜々として帰って来て、「あなたのみ名を使うと、悪霊どもでさえ私達に服従します」と報告したのです。

 何と、悪霊どもでさえも服従するような、華々しい働きができたというのです。するとイエス様はこう言われました。「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」

 それならそうと、送り出す前に、そのことを早く言ってくれればいいのに、という感じです。狼の中に子羊を送るようなものだ、と言われたはずなのに、実際は、「蛇やさそりを踏みつける」、「あなた方に害を与える者は何一つない」というのです。
 「なんだ、イエス様、先に言って下さいよ・・・」と言いたくなるかもしれません。

 「狼の中に子羊を送る」ということから、私達が連想するのは、「弱い小羊が、恐ろしい狼の中に遣わされる」ように思いますが、しかし実は、この「小羊」とは何かというと、ヨハネ福音書一章二九節に、

「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

実は小羊は弱いものではなく、「神の小羊」でなのです。それは弟子達を先に遣わしたようですが、実は、イエス様が共に行って下さる、すなわち、狼の中の子羊とは、「神の子羊」を表わしているのです。
皆さん、この四月から、色々な所に遣わされるのは、狼の中に子羊が送り込まれるようなものだ、と先ほど言いましたが、実はこの小羊とは、ジンギスカン鍋にされて食べられてしまうような弱々しい羊ではなく、何と、「神の小羊」なのです。
私達は、神の子羊という立場で、狼の中に入ることができるのだ、とイエス様は皆さんに語っておられるのです。それで、「あなたに害を加える者は何一つない」のです。

皆さんは絶対に負けることのない、神の小羊であるということを、是非とも知って頂きたいです。
七〇人の弟子達の羊に対する最初のイメージは“か弱い小羊”だったと思いますが、実際は、「勇士」として送られたのです。
しかし、イエス様が語られたのは、どんなに勝利があったとしても、その勝利を喜ぶのではなく、「あなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と語られたのです。あなたは神に愛されており、あなたも神を愛するポジションにあるなら、そのような権威を使うことができるのです。そのようなポジション故に、神の小羊としての素晴らしい権威ある働きができるのですよ、ということをイエス様は語っておられるのです。

ですから私達にとって一番重要なことは、神の小羊と共にいる、イエス様を愛する、主を熱く求めていく、あのマリヤと同じように、イエス様の足もとに座り、神のみ言葉を聞くことが、一番、重要であり、そこに集約されるのです。

 私は先週、チュンチョンで奉仕しましたが、そこに小学校一年生の男の子が来ていました。彼は毎回、最前列に座って、真剣に祈っていました。髪の毛を七三に分け、きちっとして背広みたいな服を着ていました。子供なのに顔が少し大きめだったので、「生まれたときから、こんなに顔が大きかったのですか」と聞いたら、両親が、「残念ながらそうです」と言われました。皆がその子にあだ名をつけていていました。それは、「長老様」というあだ名でした。
 しかし、彼は、真剣に主を求めて祈る、とてもかわいらしい子でした。最後に彼のために祈ってあげました。「将来何になりたい?」と聞くと、彼はすぐに、「牧師になりたい!」と、いかにも彼らしい返事でした。
 彼のために祈ると、体が震えて、異言を語りながら倒れてしまいました。聖霊様が触れていました。
 翌日、その子のお母さんが私の所に来て、「昨日、息子のために祈って下さって有難うございました。息子が変えられたのです」と言いました。
 なんと、彼のために祈った時、彼の目の前に天使が現れたそうです。そして、「君が今、一番大切にしているもの以上に、イエス様を愛さなければいけませんよ」と語ったそうです。

 実は、彼には、大好きなものがあったそうです。それが「ドラえもん」でした。そのグッズを沢山集めていたそうです。この話は、ドラえもんが良いとか、悪いとかいうのではなく、彼が直接イエス様から語られたこととして、話しているのですが、彼は朝になると、自分の持っていたドラえもんグッズを全部集めて、捨ててしまったそうです。
 お母さんが、「なぜ捨てたの?」と聞くと、「昨日、天使が現れて、僕に、『君が一番大切にして、愛しているもの以上に、イエス様を愛さなければいけませんよ』と言ったから、ドラえもんグッズを捨てて、イエス様を愛するの」と答えたそうです。

 もしかしたら今日あたり、彼は一度捨てたドラえもんグッズを、拾いに行っているかもしれませんが、そうだとしても、私は、彼の心意気が素晴らしいと思います。
 今、自分が一番愛しているもの以上に、イエス様を愛せますか。私が彼のために祈った時、天使が語ったと言いましたが、それは私自身にも語られているような気がしました。それは同時に、皆さんにも語っている事だと思います。今、皆さんが一番愛しているもの以上に、イエス様を愛する事が重要です。

 イエス様の愛を頂くならば、隣人をも愛することができるようになります。そして最も大切な条件が満たされますから、あなたは素晴らしい人生を歩くことができますと主は語っておられると思います。
 私達はリバイバルを求めていますが、一番求めなければいけないのは、主ご自身です。ホセア六章三節に

「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」

 この、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」の後に、「そうすれば」という言葉を挿入したら、よく分かります。「そうすれば主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される」

 私達が切に主を愛し、主を求めるとき、その結果として聖霊様が訪れて、地は潤されるのです。リバイバルにつながりますよ、と教えているのです。
 私達が主を愛することは大変重要です。今週も、マリヤのように、主のみ声に聞き従い、主を愛する一週間でありますように。しかし、それはコインの裏表であり、隣人を愛することがくっついていることをよく知って、遣わされた者として、主から与えられた神の子羊として、イエス様と共に敵をやっつける働きをしようではありませんか。

 最後に一言お祈りして、終りにさせて頂きます。
 ハレルヤ、天の父なる神様、み名をあがめて心から感謝します。あなたが私達と共にいて下さる事を心から感謝します。今日は神の小羊であるあなたが流して下さった血潮を記念して、聖餐式を行います。私達を強め、私達を神の愛で満たし、また、隣人を愛する愛で満たして下さいますように。今日のこの時を心から感謝します。すべての栄光をお返しして、イエス様のみ名を通し、祈りをお捧げします。アーメン

 聖餐式のジュースは、子羊イエス様の血を象徴しています。聖霊により、みことばによって行われるとき、これは、「わたしの血だ、肉だ」と語られました。今日、私達が聖餐式にあずかる時、「子羊を狼の中に送る」と言われたように、イエス様と一体となり、神の子羊として遣わされていくのです。


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