「あわれみ深い神」


2009.4.5(SUN)
新城教会 滝元順牧師

ヨナ書 3章10節
神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日もこうして皆さんと共に、礼拝出来ることを、心から感謝しています。先ほどの「セカンドフロア」の賛美は、本当に素直な素晴らしい賛美でした。歌詞を聞いていると、「朝起きただけで喜びがあふれてくる」と歌われていました。「そんなもんじゃないよ、大人になったら…」と思われた方もいるかもしれません。「空を見上げただけで喜びがあふれる」とも歌われていました。「冗談じゃない」と思われるかもしれません。
しかし、「イエス様が共におられる」という結論がありました。確かに、イエス様が共にいてくださるだけで、私達は癒され、喜びに満たされるのです。

先週は「最も大切なこと」というメッセージをさせて頂きました。特に、主を愛するという事が重要だと、お話をさせて頂きました。皆さんにとって、先週一週間どうでしたでしょうか。神を愛し、イエス様を愛し、隣人を愛する生活ができたでしょうか。
振り返ってみると、色々あったかもしれません。しかし、常に主を愛し、歩んでいきたいと願っています。
今も祈りの中にありましたように、新しい年度が始まり、新しい環境に入って戸惑っておられる方もいるかもしれません。しかし、教会は大きな“ファミリー”ですから、色々な事があっても、教会に来たら癒されて、力を受けて今週も頑張っていただきたいと願っています。

しかし、本来は教会というのは、この場所ではなく、皆さんの働いておられる現場なのです。それは職場であり、学校であり、家庭そのものが教会です。もちろん、日曜日にここで力を受けて、また飛び立っていくのですが、あなたが最も多く時間を費やす場所が教会そのものです。
「新城教会はどこにありますか」というと、皆さんが現在最も関心を持っておられる領域、すなわち、会社、学校、家庭であり、一番長く時間を過ごす場所こそ、新城教会なのです。日曜日に集まるこの場所は、そこに必要な力を供給する、一つの機能にすぎないと私は考えています。
教会は、コンビニのようにならなければいけないと思います。このあたりにも、サークルKやローソン、セブンイレブンなどがありますが、コンビニの本部がどこにあるのかご存じでしょうか。どこに本部があるのか、わからないと思います。知っているのは身近にある、コンビニ店だけです。
しかし、本部はどこかにあり、必要な資材を全て最前線へ送っているのです。それで個々のコンビニ店は、商品を売ることが出来るのです。

教会も同じだと思います。教会の本部はどこにあってもよいのですが、私達が一番長く時間を費やす場所が教会ですから、そこに神の力が表わされるように、今日もみことばを学んでいきたいと思います。

先週私は韓国で、「韓国リバイバルミッション」においてメッセージを取り次いで下さる先生方や、この働きを中心的に担って下さっている李浩文先生と出会って、今後の事務的な事柄について話し合いました。忙しい先生方ばかりなので、一同に会してミーティングを持つことは難しいのですが、先週は時間をとって頂き、五月の集会のために準備をしました。きっと素晴らしい聖会になると思います。
今回は、仁川(インチョン)という街で集会が持たれますが、そこは二百数十万人の人口ですが、教会は大体四千くらいあるそうです。クリスチャン人口は三五%から四〇%くらいではないかと言われていました。登録されている教会だけでも、三千くらいあると言っていました。その中で街をリードしている3つの教会の主任牧師の先生方、三人がメッセンジャーとして立って下さいます。李先生に、「先生の教会の教会員は何名おられますか」と聞くと、「五万人くらいです」と言われました。
また他の先生方も、「うちは三万人です」「二万人です」と答えました。「先生の教会の会堂は何人入るのですか」と聞くと「八千人です」と、本当に大きな教会ばかりです。
そのような恵まれた教会の先生方が、一堂に会しインチョンのリバイバルの為に聖会が開かれます。本当に意義あることだと思います。三人の先生方が時間を合わせて集会をすることは難しいのですが、今回は不思議なことに、主が導いて下さり、メッセンジャーとして立って下さいました。また、日本側からも私達がメッセージを語らせていただきます。
また、昨年新城に来られた、金監督もメッセージを語ることになっています。神様が一つ一つ道を開いて下さっています。心から主のみ名をあがめます。

現在、ウォンが安く、韓国に行きやすいので、皆さんも是非とも行って下さい。そして楽しんで頂きたいと思います。一日か二日は、どこか観光にでも行って楽しんで下さい。美味しい物を食べたらよいのではないでしょうか。色々なことにチャレンジされたらよいと思います。
日本人は、チャレンジ精神が少ないのではないかと思います。何でもチャレンジしてみないと、人生は広がりませんから、チャレンジしたらどうでしょうか。日本では食べられないような食べ物もチャレンジしたら楽しいと思います。先日私もチャレンジしましたから、その映像を皆さんにお見せしたいと思います。

これもチャレンジだと思います。もし食べに行きたい方は連れて行ってあげます。色々な食べ物があります。これは極端な例を挙げましたので、驚かれたかと思いますが、お互い同じようなものだと思います。
モンゴルに行くと、羊を目の前で殺して、それをさばいて食べます。日本人が見たら、「ひどい」と言いますが、モンゴル人は何とも思っていません。
しかし、モンゴル人が日本に来て、魚の活き作りを見たら、「可哀そう〜」と言っていたそうです。それらは主観と価値観の違いですから、お互いに多様性を認めなければいけないです。

魚が出てきた所で、今日のメッセージの中心はヨナ書です。ヨナの話はよく教会学校などでも話されるかもしれません。子ども達はヨナさんの話を知っていますか?
先週、このストーリーをもう少し深く研究しようと、韓国で「ヨナ」でインターネット検索をしてみたところ、「キム・ヨナ」が沢山出てきました。あの人はスケート選手ですが、この「ヨナ」とは、ニネベという街に福音を伝えた人物です。
簡単にストーリーがわかる、簡単な歌があります。昔、「ヨナ、ニネベいらっしゃい」という歌を教会学校でよく歌いましたが、この頃の子どもたちは歌っていますか?
上條先生は子ども会の主任ですから、出て来て歌って頂きたいと思います。(彼は昔、聖歌でならした福音歌手でした。人生劇場という歌「人生の海のあらしに」が十八番でした)
「ヨナ、ニネベいらっしゃい。いいえ 行きたくない♪ヨナ ニネベいらっしゃい♪いいえ、行きたくない。大きな魚、ヨナを飲んだ。ヨナは恐れて、『助けて、助けて』ヨナ、ニネベいらっしゃい。ハイ、行きます♪♪」

彼は歌がうまいです。演歌など歌わせると最高です。またやってくれるといいと思います。ヨナは神様から、「ニネベに行きなさい」と語られましたが、行かなかったのです。その結果、大きな魚に飲まれてしまいました。「神様の声に従わないといけないよ」というストーリーです。この箇所を中心にして、今日はお話をさせて頂きたいと思います。ヨナ1章1節〜3節

「アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。」

神様が、ヨナ(彼はイスラエルに住んでいた人物ですが)に語られました。「立って、あの大きな街にニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪が私の前に上ってきたからだ」
実はこのニネベという街は、先週も少し話しましたが、アッシリヤ帝国の首都でした。ヨナはそこから遠く離れた、イスラエルに住んでいました。地図でその位置関係を見るとわかりやすいです。ニネベとは、今のイラクにあたる場所で、イスラエルからずいぶん遠い場所です。
このアッシリヤは大帝国を作り、イスラエルも含まれた時代がありました。この遠くの街、「ニネベに行って叫びなさい」とヨナに語られたのです。

一見、自分とは関係のないような、離れた国について語られたのです。神は「彼らの悪がわたしの前に上ってきた」と言われました。
神様はあわれみ深いお方です。“愛なる神様”ですが、その前に“義なる神”です。悪いことをしても放っておいたら、本当の神ではありません。親でも同じだと思います。子どもが悪い事をして、何も注意しなければ、親として責任を果たしていないのです。やはり、子どもが悪い事をすれば、注意しなければいけません。

けれども神さまは人間とは違い、すこし位失敗しても、悪い事をしても、別に何も怒りません。けれども、少しずつ神の前に罪が積み重なり、上ってくるとストップをかけるわけです。
ニネベは偶像礼拝の街で、多くの罪が溢れていました。神のみ前に罪が上がってきたのです。それで神は、その街に警告を与えようと、遠い国に住むヨナという人物に、「あの国に行って叫びなさい」と語られました。

ここから色々と学ぶことができます。神は“義なる神”です。日ごろの生活の中で、誰が見ていなくても、「神が見ている」と意識する必要があるのです。私達が色々な罪を犯しても、いちいち何も言われないかもしれません。しかし、いつも現場を見ておられる神がおられます。神の前に罪が積み重なってしまうと、愛ゆえに、その行為をストップさせることがあるのです。
ですから私達の人生においても、み言葉を聞いたら、罪から離れ、きよい生活をすることが重要です。罪を悔い改めず、ずっと神に反逆してしまうと、いつか「ストップ!」と人生に介入されるのです。
そんな痛い目にあうのは嫌ですから、早めに悔い改め、きよくなりましょう。「教会に来てリセットしたから、またゼロから罪を犯そう」ではなく、悔い“改め”ですから、改めなければならないわけです。

神は悔い改めを迫るために、ヨナをニネベに送ろうとされました。しかし、ヨナはその時、どうしたかというと、ニネベには行かなかったわけです。
先ほどの歌のように「行きたくない」と、遠く、「タルシシュへと逃れようとした」とあります。イスラエルにヨッパという地中海側の港がありますが、ヨナはヨッパから船に乗って、ニネベとは全く反対方向へ逃げたわけです。しかし、神様はヨナに大きな魚を送り、彼を飲み込ませ、また陸地に戻して、ニネベに遣わすことにされたのです。

実は、このヨナ書は、「おとぎ話にすぎない」と思われていましたが、そうではなく、イエス様もこのストーリーを取り上げて語られていますから、これは実際に起こった事柄なのです。
また最近になって、考古学者が調べてわかったのは、ヨナの事件は実際に起きたという事です。神がヨナという人物を使い、ニネベに遣わし、宣告されたのは史実です。

ヨナはニネベに行きました。そこで何をしたかというと、「神がこの街を裁かれます!」と街中で宣言しました。それがヨナ書三章一節から五節に記されています。

「再びヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。』 ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言った。そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。
神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」

ヨナがニネベに行って、「もう四十日したらこの街は滅びる」と神から告げられた言葉を語りました。
アッシリヤというのは当時の超大国ですから、今で言うならば、アメリカとか、中国のような国だと思います。そこへ名も知れない男が行って、「もう四十日したら、この国は滅びる」などと言ったら、普通はどうでしょうか。
「何をたわけたことを言っているんだ、この男は何だ!?」と、捕まえられ、袋叩きにされ殺されるかもしれません。
しかし、ヨナが歩き回って、「この街は四〇日もしたら滅びますよ!」と叫ぶと、なんと一日のうちにニネベの人々は悔い改め、全員が主の前に出たのです。すごい事ではないでしょうか。超大国の、それも首都に住む人々が、イスラエルから送られた、全く名も知れないヨナの言葉を一日聞いただけで、悔い改め、国が変わってしまったというのです。その様子が詳しく三章六節〜一〇節に記されています。

「このことがニネベの王の耳にはいると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」

この無名の男が大国の首都に行き、神が命じられた言葉を語った時、乞食から王様までが荒布をまとい、また、人間だけでなく獣まで断食して、悔い改めたのです。

先日、私は韓国のある街に行き、聖会を持たせて頂きました。その街の先生方が、「ヨナ書のみ言葉を信じて、祈っています」と言われました。
何を祈っておられるかというと、その街は韓国の中でもクリスチャン率が低く、(日本に比べれば低いとは言えませんが)「私たちは、この街の人々が、全員、クリスチャンになるように祈っています。なぜなら、ヨナがニネベに行ってたった一日叫んだだけで救われたので、私達もその事がこの街に起こるように祈っています!」と言われました。
私もそれを聞いて、「日本は難しい」とよく言われますが、ヨナがニネベに行って一日叫んだだけで救われたのですから、私達も信仰を持たなければならないと思いました。

けれども、考えれば考えるほど、不思議です。なぜ、無名の人が遣わされただけで、大国の王様が悔い改めるようなことが起こったのか、普通では考えられないからです。
ヨナはこの街の人たちが悔い改めることを、好んでいませんでした。ヨナが何故タルシシュに逃げたかというと、彼は愛国者であったからです。
私達には、生まれた国を愛する「愛国心」があります。それは良いところもあるし、悪いところもあります。日本人に、「もっと国を愛しましょう」などと政府が言うと反発します。日の丸や君が代など、偶像礼拝との関連もありますから、クリスチャンとしては微妙な感覚があります。
しかし、WBCなど“日本対韓国戦”ともなると、自然と愛国心が出てきます。皆さんはどちらを応援されたでしょうか。日本ですか、韓国ですか?私もこの頃は、韓国リバイバルミッションを準備している手前、韓国を応援したい気持ちはありますが、「やはり“愛国心”があるんだな」とテレビを見ながら思いました。
この頃、韓国の方々に会って言われるのが、「WBC日本勝利おめでとうございます」です。先週のサッカーは、「韓国対北朝鮮」でした。微妙な戦いだったようです。私はそんなものがあることも知りませんでした。
韓国は北朝鮮に勝ちました。韓国の方々は熱狂的に喜んでいました。また、私に、「この頃、日本が好きになった。何故なら、北朝鮮がミサイルを打つのを、日本が迎撃すると表明してくれたから」などと言われるのです。韓国の方々は国を愛しておられるな、と思いました。

ヨナは愛国者でした。何故かというと、当時のアッシリヤは、全世界を侵略していたからです。しかも、侵略の仕方がとても残酷で、人々を殺し、捕虜にして自分の国に連れて行き、植民地政策を世界中に展開していました。それで周辺の国々はアッシリヤを恐れていました。ヨナはその宿敵に対して、警告を伝えよと語られたのです。
ヨナが何故、ニネベに行かなかったかというと、神様はあわれみ深いから、もしも「この街は滅ぼされます」と叫んで、人々が悔い改めたら、神の裁きが止まってしまう可能性がある、だからたとえ自分が犠牲になっても、国を助けたいと考えたのです。だから “愛国心”のゆえに、そのような行動を取ったのです。

しかし神様のみ心は、どうしてもヨナをニネベに行かせたかったのです。案の定、ヨナはニネベに行き、その事を語るはめになったのです。するとやはり、王様を始め、皆が悔い改めてしまいました。結果的に、ニネベに神の裁きは起こらなかったのです。ヨナは、「やっぱりだ」と憤慨しました。

このストーリーを見ると、神はあわれみ深い方だという事と共に、一つの疑問が湧いてきます。それは先にも述べましたが、一人の名もない人物が遣わされて、ニネベで叫んだだけで、何故、彼らは悔い改めたのだろうか、ということです。
ヨナが魚の腹に飲まれて、三日間生きていたというセンセーショナルな事件があったのは確かですが、今のように情報時代ではありませんから、それがニネベにテレビで報道されたわけでも、インターネットで流れたわけでもありません。多分、そのことはニネベに伝わってはいなかったでしょう。しかしヨナがニネベに行っただけで、なんと一日で、一国が変わってしまったのです。何故でしょうか。

先週、私は聖書を読んでいて、その疑問について、「あぁ、そう言う事だったのか・・・」と気付き、恵まれたので今日は話をしているのですが、実は、このヨナの出来事が起こる前に、神は一つの奇跡を起こされていたのです。

南ユダには色々な王様が出ましたが、ヒゼキヤという十三代目の王の時代に、神が起こされた奇跡が、ヨナが遣わされる準備であったと言うことです。
ヒゼキヤ王が何をしたかという事を学ぶと、神の働きが理解出来ます。というのは、神は一つの事を始められる前に、前もって準備され、その準備と共に次の事が起こされ、また次の機会の準備をもって、さらなる業がなされていく事が分かります。

聖書は立体的に読みますと、よく理解出来ます。ヨナ書を読むとともに、第二列王記にヒゼキヤ王が出ていますから、そのことを見てみましょう。
第二列王記の十八章一〜五節を見ますと、ヒゼキヤがどのように王となったのか、彼の一生がどんなものであったかがわかります。

「イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビといい、ゼカリヤの娘であった。彼はすべて父祖ダビデが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」

先週もお話しさせて頂きましたが、イスラエルは、「北イスラエル」と「南ユダ」とに分かれてしまいました。イスラエルの王、ホセアの時代に、ユダでは「ヒゼキヤ」が、二五歳の若さで王となり、二九年間国を司ったのです。
ヒゼキヤは「神様の目にかなうことを行った」王でした。それまで、南ユダには多くの偶像がありました。しかし、ヒゼキヤが王になった時、国を改革して、「高きところを取り除き、石の柱を打ち壊し、アシュラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人はこれに香をたいていたからである」と記されています。

何と、国には多くの偶像がありましたが、ヒゼキヤが王様になった時、彼の命令で全ての偶像が壊されました。
ユダには一つの古い偶像がありましたが、それはモーセが作った“青銅の蛇”でした。民数紀にそれが作られた経緯が記されています。モーセがエジプトからイスラエルの民を連れて脱出した時、人々が、「何で俺たちをこんな荒野にまで連れ出したんだ」と神に逆らい、モーセに文句を言いました。その時に、燃える蛇が出てきて民に噛みつき、イスラエルの多くの人が蛇の毒によって死ぬという事件が起こったのです。それが民数紀21章5節〜9節にありますが、特に8節から

「すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」

皆、蛇に噛まれて毒がまわり、「もう駄目だ〜」という時に、モーセが青銅の蛇を作って竿の先につけ、「これを見なさい、見たら救われる」と人々の前に出しました。すると、毒が回って苦しんでいる人たちが、竿の先に結わえられた作り物の蛇を見ただけで、苦しみが去り、癒されるという奇跡が起こったのです。死にそうな人が、ただ青銅で作った蛇を見ただけで命が助かったのです。

この出来事は何を意味しているかというと、イエス様の十字架を暗示しているのです。イエス様の十字架により、蛇である悪魔の頭が砕かれ、「暗闇から光に、サタンの支配から神の支配に移されて救われる」ことを預言的に現していたのです。
青銅の蛇を見上げただけで救われるというのは、イエス・キリストが私達の罪のために死んで、復活して下さったという事実を信じるだけで救われるという、やがて起こる十字架の意味を表していたのです。

その時モーセは、一人一人の為に祈ることが出来ない緊急事態でした。それで祈りの象徴として、青銅の蛇を見るだけで救われるように、いわば“死ぬか生きるか”の究極的状況において、主は、そのような事をなされたのです。
しかし、長い時間が経ち、ヒゼキヤの時代にはどうなっていたかというと、その青銅の蛇自体が神格化され、神のようになっていました。そこに、偶像礼拝の一つの原点のようなものがあります。

この頃の人たちはよく、十字架のペンダントなどをつけていますが、“十字架そのもの”は、昔の死刑の道具であって、何も力はありません。しかし、十字架そのものに力があるかのように勘違いしている人が多いと思います。ドラキュラに十字架を見せたら退散するようなイメージがあります。
「これを持っていたら、御利益があるかもしれない」と、特に、カトリック教会などは、むごたらしく貼り付けられたキリストと十字架を持っていたら、何かご利益があるかもしれない、と考えているかのようです。

ヒゼキヤの時代も同じような状況があったわけです。モーセが作った青銅の蛇そのものが、大切に保存され、それが皆の信仰の対象、すなわち、偶像となっていたのです。だから、ヒゼキヤはそれを壊しました。
同じように、十字架を拝むことは偶像礼拝です。十字架を持っていればよい事があるという事とは違います。
十字架上で神が何を成されたのか、その“意味”を知ることが大事です。イエス様の十字架により、暗闇から光、サタンの支配下から神の支配に移されたという、ここに意味があるのです。イエス様が死んで、よみがえって下さった意味をよく知らなければなりません。
蛇に噛まれた人たちが、青銅の蛇を仰ぎ見ただけで救われる、これはイエス様の十字架により、悪魔の力から解放されることを意味します。人々が何故、人生において傷を負うかというと、これは悪魔・悪霊という蛇のせいです。しかし、イエスキリストによって解放されるのです。

アッシリヤ帝国は北イスラエルに侵入し、北イスラエルはアッシリヤの手に陥りました。
先週もお話ししたように、サマリヤはその子孫たちの国でした。北イスラエルは、アッシリヤに占領され、多くの人々はアッシリヤに連れて行かれ、残った人々は植民地にされ、苦しめられたわけです。そして南ユダはそのすぐ隣です。
先週はエルサレムからエリコに下る道について、北イスラエルと南ユダについてお話ししましたが、北イスラエルはアッシリヤに占領され、続いてアッシリヤは南ユダを狙ったわけです。
アッシリヤの王は、ユダの首都、エルサレムの城壁にまで迫り、脅しをかけました。
第二列王記十八章三一節、

「ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。」

アッシリヤの王が南ユダに告げました。「お前たちも降参せよ。北イスラエルは既に攻め取った。今度はお前たちの番だ!」
ヒゼキヤ王は民に、「降参してはいけない」と告げ、アッシリヤに立ち向かいました。しかし南ユダは絶体絶命、危機一髪の状況だったのです。
その時、ヒゼキヤ王とユダの民は何をしたのでしょうか。それは神の前に出て、真剣に祈りました。その事が十九章十九〜二〇節に出ています。

「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」
アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。「イスラエルの神、主は、こう仰せられます。『あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。』

何と、ユダの人たちは皆、神の前に、「この国を助けて下さい」と真剣に祈りました。すると、神がその祈りを聞かれたのです。
ここから、祈りの法則について学ぶことができます。このように、国の危機の時には、国民が神に立ち返り、偶像を捨て、真剣に祈ったら、神がその祈りを聞き、その国を助けて下さるという法則です。
ある意味、日本の事を考えると、神様の目の前には罪が積み重なって、「裁きの時」が来ているのかもしれません。今、日本人にとって必要な事は、本当にこの国の罪を悔い改め、神に立ち返る悔い改めの祈りです。
南ユダの人々は、絶体絶命のところで降参せず、主により頼む道に賭けたのです。すると、預言者イザヤを通し、神のことばがユダに告げられたのです。
「あなたがたの祈りを聞いた」
第二列王記十九章三一〜三三節

「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。彼はもと来た道から引き返し、この町には、はいらない。――主の御告げだ――」

イザヤを通してそのような預言を受け取りました。なんと、目前まで迫っているアッシリヤの軍隊が、この街に入って来ないという約束の言葉を受け取ったのです。
それは普通では考えられないことです。アッシリヤの王が引き返すなど、ありえない事ですが、実はその事がヒゼキヤの時代に起こったのです。どんな事が起こったかというと、第二列王記十九章三五〜三六節に、

「その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。」とあります。

何と、ユダの人々が真剣に国のために、神に立ち返って祈った時、神が天の軍勢を送り、一晩のうちに18万五千人ものアッシリヤ軍が滅ぼされたのです。朝起きると、兵隊達の死体が辺り一面に転がっていました。そんな信じられない事件が起こったために、セナケリブ王は、ユダには攻め込まず、アッシリヤの首都ニネベに逃げて帰ったのです。

そんな事が歴史中、起こったのです。実際、考古学でニネベがあった場所を調べてみると石碑が出てきて、旧約聖書に出ている内容が記されています(自分達に都合の悪い部分は省かれていますが)。その碑文が大英博物館にあるそうです。
神は、一晩のうちに、アッシリヤの軍隊を全滅させるほどの奇跡的を起こされたのです。

神の奇跡的な業により、アッシリヤ王と軍隊とが引き揚げた、という前提がありました。そしてその後、遣わされたのが誰であったかというと、「この街は滅びますよ」と叫ぶヨナでした。

何故、一日のうちに、それほど多くの人たちが悔い改めたかというと、南ユダを攻めた時、十八万五千人が一晩で死んでしまった、それもイスラエルの神のみ名によってそのような事件が起こったのを、彼らはすでに体験していたのです。
その後、神の人が来て「この街は滅びる」と叫んだことに対して、ニネベの人たちはすぐに、神の裁きの恐ろしさを理解したのです。
「ユダを攻めた時、あの国の人々が信じている神によって、我々は十八万五千人も失った。もしも今回、悔い改めなかったら、この国は滅びてしまう!!」と瞬時に理解したのです。それで彼らは悔い改めたのです。

ヒゼキヤという王がとった行動は、とても大きかったのです。もしもヒゼキヤ王様が、主により頼まず、アッシリヤに服従したとしたら、イエス様のお生まれにも支障をきたしたかもしれません。なぜならユダ部族のなかから、イエス様は生まれになったからです。
何と、一人の人物の行動が歴史を変えるのです。また神は本当に“愛なるお方”で、敵の軍勢として用いられているような民族でさえ、裁くことを望まず、人々を救いたいと願っておられたのです。
このニネベが助かったことに不満を持っていたヨナに、神は語られました。ヨナ書四章九〜十一節です。

「すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

神はニネベの人たちを憐れんだのです。しかし、“悔い改め”があったことによって、ニネベは助かった、また、ヒゼキヤを通し、ユダの人々が偶像礼拝から悔い改めた事により国が助かった、という史実を見る時、私達も悔い改めが必要であることがわかります。そうでないと、国の将来も危ぶまれるのではないかと思います。
ヨナとヒゼキヤとのつながりを読んで、「国の悔い改め」がとても重要だということを感じました。

私達は現在、「韓国リバイバルミッション」を準備していますが、「何故韓国でリバイバルミッションなど必要なのですか?」と聞かれることがあります。
これは、日本のため、日本が裁かれないためにも、とても重要ではないかと思うのです。

私は、次のリバイバルミッションのニュースの巻頭言を書いたのですが、先週、色々な交わりを通して、本当に日本が罪を悔い改め、神に憐れんで頂く事が大切だ知らされました。
今度書いた文章を読ませて頂きます。「韓国リバイバルミッションに出かけ、現地で共に祈ろう!」という主題で書きました。

韓国リバイバルミッションに出かけ、現地で共に祈ろう!!

「韓国リバイバルミッション」が、目前に迫ってきました。ミッション本部も、韓国に設置された準備事務所においても、史上初の日本の宣教団体主催の大会のために、連日、夜遅くまで準備作業が続けられています。
さて、なぜ、日本の宣教団体が、韓国のリバイバルのために犠牲を払う必要があるのでしょうか。それは、日本のリバイバルのために、大きな意味があると確信しています。

1907年、北朝鮮の平壌で大リバイバルが起きました。そのときの様子は、さながら、ペンテコステの日のようであり、聖霊の働きは大人たちだけにとどまらず、学生や子供たちの間にも起こったと言われます。このリバイバルの特徴は、ある階級だけにとどまらず、あらゆる年齢や階級にもおよび、人々は自分の罪を告白し、悪い習慣を捨て、互いに赦し合い、和睦がおこったことです。韓国社会は最初は警戒心をもって見ていましたが、徐々に、彼らが国を変えてくれるのではないかと、期待したと記録されています。それは歴史上、例をみないほどの、大リバイバルでした。

しかし、このリバイバルの火を消す、事件が起こったです。それが1910年の「日韓併合」でした。併合条約の第一条は、「韓国皇帝陛下は朝鮮半島全部に関する一切の統治権を、完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与する」というものでした。日本は朝鮮半島を永遠に支配するという、契約を結ばせたのです。それは、ただ単なる政治的契約ではなく、霊的支配でした。
朝鮮半島に多くの日本人が移住するにつれ、各地に神社が建立されるようになりました。そして次第に、神社参拝が強制されるようになり、日本教会もこの政策に積極的に協力したのです。

1938年、日本基督教会大会議長、富田満は、朝鮮の教会の代表者を説得し、平壌の朝鮮耶蘇教長老会第27回総会で、「神社参拝は信仰に反しない」という決議をさせました。なんと、日本教会は、朝鮮半島の教会を、神が最も嫌う罪である偶像礼拝へと誘ったのです。
日帝支配は1945年まで続きましたが、その間、日本は多くの苦しみを朝鮮半島、及びアジアの諸国に与えました。やがて日本が太平洋戦争に敗北したため、朝鮮半島は日帝支配からは解放されたのですが、それもつかの間、朝鮮動乱により南北は分断され、今日にまで至っています。

このような日韓の歴史を見るときに、平壌に起こったリバイバルの火を消した最も大きな原因が日本にあり、日本教会も自らそれに関わったという事実です。
平壌のリバイバルは、全階層に対する悔い改めと和解のリバイバルでした。もしも火が消えなければ、それは野火のように日本をはじめ、アジア諸国に広がったことでしょう。

私たちは日本のリバイバルを求めて真剣に祈っていますが、日本と日本教会が犯した罪の悔い改めを忘れるなら、リバイバルはいつまでたっても難しいでしょう。幸いなことに、この罪に対する悔い改めは、すでに日本の各教団や団体によって表明されています。
しかし次の段階として、リバイバルの火を消す原因となった日本教会が、実際に現地に出向き、韓国のリバイバルのために仕えることが大切であると思います。そしてその行動こそ、真の悔い改めにつながると信じます。

日本がかつて、朝鮮半島において結んだ悪しき「永遠の契約」は、霊的世界においては今なお有効であり、南北統一を妨げる原因となっているのかも知れません。しかし、今回は、「永遠の愛により」、その罪は赦され、リバイバルの火が回復されることを、期待しています。

『主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。 エレミヤ書31章3〜5節』

あなたも、日本人のクリスチャンとして、ぜひとも、「韓国リバイバルミッション」にお出かけになり、現地で、韓国のクリスチャンと共にリバイバルを祈って下さい。その行動には、大きな意味があります。
韓国リバイバルミッションの会場にて、お目にかかりましょう!

全日本リバイバルミッション 実行委員 滝元順

日本は、朝鮮半島に、「永遠の悪しき契約」を結ばせたのです。神社を建立し拝ませたのです。その時に、日本のキリスト教会までも、神社参拝奨励に加担し、「神社崇拝は偶像礼拝ではない」と吹聴し、韓国教会を説得して神社参拝に向かわせたのです。この罪は本当に大きいと思います。
一九〇七年に大リバイバルが起きたと言われますが、その火を消す原因となったのが、日本だったのです。ですから、神様の前に日本の罪が積み重なり、日本にリバイバルが起きないのです。このままでは、ある意味、日本は危ないかもしれません。このことに気付き、日本が、「罪を許して下さい」と祈ったら、神様はあわれみ深い方ですので、ニネベを助けられたように、日本も助かるかもしれないと、み言葉と共に教えられました。
私達はしっかりと悔い改めなければなりません。今回の韓国リバイバルミッションでは、かつて平壌で起きたリバイバルの火を、もう一度燃え上がらせて下さるように、また、日本にもその火が来るよう、祈らなければなりません。

平壌のリバイバルはすごいものであったようです。しかし、そのリバイバルの火を止めた原因が日本だったのです。ある意味、主がヨナのように日本に語っておられるのではないかと思います。
「このままでは日本は滅んでしまいますよ」と。でも、日本のクリスチャンが気付いて祈ったら助かるのです。神が戦いを準備し、「韓国リバイバルミッション」に導いて下さってたことは、本当に感謝です。

ニネベの街は神様によって助けられたが故に、もう一つの名前を持つに至ったそうです。考古学者がニネベについて調べると、ニネベには二つの都があったそうです。それは「ナビー・ユーロス」という名です。その意味は、「預言者ヨナの街」だそうです。
ヨナが来て街が助かったことを記念して、そのような名前が街に付けられました。神様は歴史の中に働いておられます。今日も同様に働いておられます。ニネベの人々が悔い改めて助かったように、南ユダが悔い改めたことで守られ、イエス様の誕生につながったように、私達は日本のためにも悔い改め、また、今回の韓国リバイバルミッションに期待していかなければなりません。

罪があったら悔い改め、神の前に罪が積み重なる前に、悔い改めをしなければなりません。神は決して裁くことを目的としておられず、あわれみ深いお方です。
最後にヨナ書三章一〇節を読んで終わりにしたいと思います。

『神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。』

悪の道から立ち返る努力をすることが大切です。私達は罪に流されるのではなく、悪の道から立ち返る努力をしなければなりません。努力したら、神は裁かないで助けて下さいます。あわれみ深い神様ですから。
日本が裁かれるのではなく、命を得ることができるように祈りましょう。今日の午後は韓国セミナーがあります。滝元望先生がその事を詳しく教えてくれます。日本がどんなに悪いことをしたか、知らずに過ごしていますが、それは神の前に大きな罪ですから、日本の教会として、日本人として悔い改め、また、個人的にも罪から立ち返る努力をして祈りましょう。

青銅の蛇はイエス様の十字架を意味します。それを見上げて、罪を許していただき、聖めを頂きたいと思います。

『ハレルヤ、主よ、私たちはあなたの前に出ます。罪を許して下さい。国が犯した罪を許して下さい。日本を裁かないで、助けて下さい。今日一人ひとりの上に神様の祝福がありますように。あなたがあわれみ深い方であることを感謝します。この国の未来のためにも、韓国リバイバルミッションが祝福され、国の罪が消されますように。今からの聖餐式にて、悪の道から立ち返り、努力することができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。』


[バックナンバー]