「あなたの信仰基準」


2009.4.12(SUN)
新城教会 上條実牧師

ヨハネの福音書11章43節〜44節
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

ハレルヤ!今日こうして皆さんの前に立って、メッセージを取り次がせていただけますことを、心から感謝いたします。いつも皆さんのお祈りに支えられて、主のために奉仕ができますことを感謝いたします。今先生方が、韓国リバイバルミッションのために忙しく ご奉仕しておりますのでぜひお祈り下さい。今日滝元順牧師は韓国でご奉仕しています。連日の奉仕でお忙しくしています。明日一度帰ってこられ、水曜主日礼拝でご奉仕し、メッセージして、すぐにまた韓国に行かれます。なぜまたすぐに行かなければならないかといいますと、韓国の仁川市には約四千ほどの教会がありますが、李浩文牧師が中心となって、今週の木曜日午前十一時から仁川市内の牧師先生を千人集めて祈とう会を開いて下さいます。そしてぜひ滝元順牧師と平岡修治先生が韓国に来て、奉仕してほしいということで出かけていきます。その牧師祈とう会のためにぜひとりなしてお祈りください。また滝元明牧師は大阪市生野区にある大阪みぎわチャペルというところで奉仕しています。そして、明日の月曜日から水曜日までは滋賀県の大津で奉仕をし、そしてその後土曜日から来週の金曜日まで韓国で奉仕します。ぜひ健康で奉仕ができますようにお祈り下さい。
 今朝五時少し過ぎ携帯にメールが届きました。今朝五時から韓国リバイバルミッションが行われる仁川三山ワールド体育館にて仁川市内の教会が合同して復活祭礼拝が開かれています。そこに滝元順牧師も参加しメールを送って下さいました。なんと朝五時から始まる集会ですが、約一万人が集まったそうです。そのところで韓国リバイバルミッションの宣伝をして下さいました。さすが韓国教会の底力を見せつけられたような気がします。
また平岡修治先生は新潟県の長岡聖契キリスト教会にてご奉仕しています。ぜひ先生方のために、韓国リバイバルミッションのためにお祈り下さい。

さて先ほどヨハネの福音書十一章四三から四四節を読んで頂きました。その中でイエスキリストが「ラザロよ出てきなさい」と宣言があります。そして四四節に「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。」とあります。これは有名なラザロのよみがえりの場面です。先ほどは四三節から読みましたが、三九節からお読みします。

『イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そしてイエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」』

今日は、「あなたの信仰基準」というタイトルでみことばを語ります。私たちの信仰の土台はイエス・キリストにあります。イエスキリストの十字架、私たちの罪のために死んで、葬られ、三日目に甦って下さった。この福音によって救われ、天の御国に行くことができます。これが信仰の土台です。もし今日のタイトルを言いかえるならば「あなたは天国に入る事ができるという信仰の基準は何ですか?」です。あなたは救われていますか?あなたは信仰を持っていらっしゃいますか?」「あなたは本当に天国に行けますか?」さてどうでしょうか?あなたはクリスチャンとして「あれをしてはいけない。」「これをしてはいけない」と聖書に照らし合わせながら生活していると思います。しかしあなたが考えているその信仰基準は本当に大丈夫なのかを、今日考える時にしたいと思います。先ほどのラザロは死にました。そして洞穴の中に入れられ、大きな石で蓋を閉められていました。そして死んで四日もたち、臭くなっている状態でした。既に死んでしまった状態でした。そのような状況でイエスさまは「その石をとりのけなさい」と言いました。しかし周りの人は「もう臭くなっているでしょう。四日になりますから」ともうダメ、無理だと言っていました。しかしイエスさまは石を取りのけさせ、ラザロを甦らせました。今日私たちもこの甦りをしっかり信じていきましょう。今回このみことばを読んで、一つ強く教えられたことがあります。私たちクリスチャンの中で、まだ自分の中にラザロと同じ状態、心の洞穴に腐った死体のようなものを入れて、蓋を閉めている部分があります。それをイエスキリストによって「ラザロよ出てきなさい」と宣言して、よみがえらせて頂かなくてはいけないと教えられました。人に見つからなければ良い。絶対に空けたくない部分。隠し通したい部分。主の前に悔い改めなくてはいけないとわかっていても、どうしても空けることのできない場所、部分はないだろうか?あったのなら「ラザロよ」とイエスさまが叫ばれたように、私でしたら「上條実よ出てこい」と腐って死んだ部分をよみがえらせて頂きたいと教えられました。

私たちの教会は今までリバイバルを求め続けてきました。つい最近すばらしいみことばを読みました。それは詩篇一四四編十二節から十五節

『私たちの息子らが、若いときに、よく育った若木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。私たちの羊の群れは、私たちの野原で、幾千幾万となりますように。私たちの牛が子牛を産み、死ぬこともなく、出て行くこともなく、また、哀れな叫び声が私たちの町にありませんように。幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。』

私がよくここでご紹介するリビングバイブルでは、もっとわかりやすく書かれています

『神様を信じる国の祝福された様子を話してみます。初めから良いですね。「神様を信じる国の‥」これが日本だったら本当によいと思います。男の子は、すくすくと成長する木のように、元気いっぱいに育ちます。女の子は、宮殿の壁の柱のように、しとやかで優雅です。倉には穀物がぎっしりで、これ以上つめ込めません。羊の群れは、幾千頭、幾万頭と増えていきます。牛は次々と子供を産みます。敵は一人も攻めて来ず、平和が満ちあふれています。町に犯罪は一件も発生しません。このように、神様を信じる国民はしあわせになれるのです。』

とてもわかりやすいと思いませんか?そして素晴らしいみことばですよね。子どもたちが成長し、経済的に祝福され、牛とか羊とか書かれてありますが、私たちの家族や日本の民が次々と救われ、敵である悪魔・悪霊は一人も入ってくることができず、事件がなく、すべての民は幸せになるというのです。私たちの家族・教会・そしてこの新城市と周辺の町々、日本そして韓国でありたいと願います。このようなリバイバルが一日も早く起こされるように、祈り続けてきました。
また一九九二年、この教会に霊的戦いをしめして下さり、戦わなくてはいけない敵について示して頂き、今まで祈ってきました。戦ってきました。しかしまだ現実はなかなかリバイバルは進んで見えません。なぜかと祈っている時、「ラザロよ出てきなさい」。このみことばで自分の信仰基準がどこに立っているか考えろと、主に語られたようでした。先週の礼拝はとても恵まれました。そして午後のセミナーも大変素晴らしい学びの時でした。今私たちは、韓国リバイバルミッションのために祈っています。「韓国を愛します。祈っています」と言いながら、全く無関心・無知であった事を痛感させられました。礼拝では滝元順牧師より

『「一九三八年、日本基督教会大会議長、富田満は、朝鮮の教会の代表者を説得し、平壌の朝鮮耶蘇教長老会第二七回総会で、「神社参拝は信仰に反しない」という決議をさせた。なんと日本教会は、朝鮮半島の教会を、神が最も嫌う罪である偶像礼拝へと誘った。」』

と語られました。また午後からの滝元望師によるセミナーでは、「隔ての壁を取り除く」というテーマで、

『「私たち日本人の多くは韓国に対してどんな悪いことをしたのか、どのようにして日本が南北分断に関わったかを知らない。日本人は韓国に対して無関心、無知である。日本人がかつて韓半島の、ひとつひとつの市町村に神社を建設し、韓国の方々の名前を日本名に変えたこと等日本は多くの罪を犯してきた。キリストにあって日本と韓国が一つとなって祈る必要がある。」』

と語って下さいました。全く一九三八年に日本のキリスト教会が、そんな大変なことを韓国にしてしまったことは、知りませんでした。数年前から韓流ブームだと言って、多くの日本人の方々が韓国へ出かけました。彼らは過去どんな出来事があったのかとは考えていません。ただ自分の快楽だけを求めて韓国に出かけました。無関心・無知なのです。多くの苦しみを韓国の方々にあじあわせて来たにも関わらず、無関心・無知なのです。この二つのメッセージを聞いて、本当にその通りだと思いました。戦争を実際体験された方は、戦争とその後に辛さをある程度は知っているかもしれません。しかし加害者と被害者では大きなちがいがあり、過去この私たちの日本がそんな大変な事をしていたと言うことを、この出来事は聞いて知っていたけれど、知っているだけで無関心、無知であったと教えられました。戦争が終わって、すべての領域で、平和ボケしてしまっている自分に気かされました。しかしいかに自分の信仰が悪魔の策略によって平和ぼけしてしまっていないだろうかと主に攻められました。自分は霊的戦いを知っている。祈っている。教会の牧師・スタッフが祈ってくれている。だから大丈夫だと勘違いしてしまっていないだろうか。今までこんな祝福を頂いた。こんな戦いをした。祈ってきたから大丈夫と、信仰傲慢になり、今の戦いに対して無知・無関心にさせられてなりません。新城教会がここまで守られ、主のために働き続けることができたのには、新城教会の先輩方の信仰が土台になっているなぁと思います。この地域は、日本どこでも同様ですが、悪魔のネットワークに満ちた土地でした。神社の寄付金、葬式などのつき合い。歴史的に因習の深い土地柄でした。新城教会の初期の先輩たちは、主を愛し、偶像礼拝を徹底的に憎んで戦いました。当時は霊的戦いと言うことはわかりませんでしたから、人と人との戦いでした。しかし本気で戦って下さいました。組つき合いなども、偶像関係だけはしない。協力しない。使えないとしっかり道筋を作ってくれました。ですから教会周辺のこの地域は、この教会に来るためには、偶像を処分しなければいけないということをよく知っています。それは一代目のクリスチャンが戦って、土台を作って下さったからです。昔話を聞くと、地域の慣習に対して、信仰故に戦うことは激しかったそうです。それでも主を愛して、戦って下さいました。そして新城教会の歴史が積み重なってきて、初代のクリスチャンから二世・三世に受け継がれてきています。先輩、親が戦ってくれた地盤の上に、今の人々は信仰が建てあげられています。みことばを聞いて、偶像礼拝がどんなにむなしいものか、恐ろしいものか知っています。しかし自分が戦った地盤ではなく、先輩たちが築いてくれた信仰の土台に立っています。それはすばらしい祝福ですが、大きなまちがいも生まれてくるような気がします。他の人が戦って下さったため、平和ぼけをしてしまっていませんか?信仰の基準が無知・無関心の部分が出てきてはいませんでしょうか?イエス・キリストは私のために十字架にかかって下さいました。そして死んで下さいました。そして、三日目に甦って下さいました。あなたはあなたのためにという十字架がわかっていますか?口では簡単にわかっていると言うことができます。しかしイエスキリストは犠牲となって下さいました。今日全く見も知らずの人のために、あなたは代わりに死ぬことができますか?イエスキリストは十字架にかかると言うことで本当に多くの苦しみを体験されました。自分にはとうてい出来ることできません。しかしイエスキリストは私たちと同じ体を持っていながら、私を助けるために、逃げることはなさいませんでした。新城教会の初代クリスチャンは人と人でしたが戦いました。地域の方々から、イエスキリストを知らないが故に、悪口を言われ、ある時はのけ者にされり、中傷されたりした事もありました。しかし彼らは信仰を守り通してきました。主に妥協せず、戦って下さったその信仰土台の上に、今私たちは今生活しています。この地域では我が家はクリスチャンですと言えば、葬式、祭りなどを伝えなくても、そのような偶像関係に仕えないように、参加しないように、理解して下さるまでになりました。しかしその戦いがどんな大変だったのか知らない世代になって、信仰基準が平和ボケしてしまいます。また
十字架がどんなに大切なものか。罪が許されるということがどれほど幸せなことであるかということを、親が信じていたから、自然とイエスキリストが神と信じることができたので、恵みなんですが、信仰の土台がぼかされてしまうことがあります。自分は信仰を持っています。確かに持っています。しかし霊的土台が崩れている気がします。平和ぼけ、危機感がないまま信仰生活を送っているような気がします。あなたは信仰に対して無知・無関心ではありませんか?第二コリント六章一節に

『私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。』

と書かれています。あなたを救って下さったイエスさまは、命をかけてあなたを愛して下さったにもかかわらず、その恵みを無駄に受けていませんか?Uコリント六章三節をリビングバイブルで読みますと、

『私たちの行動が、だれかをつまずかせたり、主との出会いを妨げたりすることがないように、生活態度には気をつけています。私たちの欠点が、主を非難する口実に用いられたら大変だからです。』

これを読んだ時にドキッとしました。私は時々「牧師がそんなことを言っても良いの?」と言われてドキッとします。このみことばは「私たちの欠点が、主を非難する口実に用いられたら大変だからです」私たちの行動やことばが人をつまずかせていたら大変だと言っています。あなたの言動はどうですか?主との出会いを妨げていませんか?そして同じリビングバイブルでUコリント六章七節には

『何をするにも、神様の力に助けられて、真実を貫いてきました。神様を敬う人に備わる、すべての武器――防衛と攻撃の武器――を、いつも手にしていました。』

みことばの武具と武器を持って真実、信仰を貫いて来たと書かれています。これはいつもメッセージで話されていることです。しかし真実を貫いているどころか、三節のように自分の生活で神さまの素晴らしさを汚してしまっています。信仰が平和ボケしてしまっています。永遠の裁きという危機管理が全くできていません。永遠のいのちに入れて下さるという主の十字架と犠牲、そしてよみがえりを軽く考えてしまっています。無知・無関心です。そして、クリスチャンで有りながら、あるまじき行動やことば、また罪を行い、悔い改めもせず、かくして蓋をしてしまい、教会では堂々と「イエスさま、感謝します」とクリスチャンとして奉仕しています。私が二〇〇九年のために与えられたみことばはマタイによる福音書五章六節

『義に飢え乾いている人は幸いです。その人は満ち足りるからです。』

というみことばです。義を飢え乾いて求めなさいと言うことです。マタイ五章八節では

『心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。』

今年は聖さを頂こうと教えられていました。しかし自分の中に平和ボケの部分があるのではないかと、もう一度主の前に出て祈る必要があると教えられました。臭くなってしまっている。絶対にここだけは空けられては困るという場所はありませんか?今日主は心のとびらをたたいています。あなたが開けるのを待っています。主の権威のことばで「ラザロよ、出てこいと」言われたようにあなたの名前を呼んでいます。私たちなぜ、このイエスキリストを信じたのでしょう。確かに問題が解決されます。病はいやされます。しかし最終的には天のみ国に入るためです。そのためにイエス・キリストは私たちのために、十字架にかかり、死んで、甦って下さいました。そして十字架の血によって罪が赦されるのです。罪が赦されなかったのなら、さばきの場にでなくてはなりません。私たちはラザロのように、死んでいて臭くなってしまっている部分があるなら、悔い改めて、赦して頂きましょう。私が子どもの頃ある宣教師が忘れることが出来ないメッセージを語ってくれました。それは飛騨牛などの高級な肉が入り、全て最高の食材で作った、一皿何万円もするようなカレーがあるとします。その中に最後隠し味として、「人糞がひとかたまり」とその宣教師は言っていましたが、みんなの前でうんちを小さじ一杯入れたらどうでしょう。どんなに高級なカレーであっても誰も絶対食べません。いくら色が似ていても、誰も食べません。全部捨てて、鍋も食器も全部綺麗に消毒します。その宣教師はなぜそんな話をされたかというと、イエスキリストの血潮で私たちは聖められます。しかしほんの少しの罪がすべてをダメにする、捨てられてしまうという話でした。私たちもイエスキリストによって罪が赦されました。赦されない罪はありません。しかし罪を軽く考え、罪に対して、さばきに対して危機感がなく、平和ボケをしてしまっています。悪魔にうまくだまされて知らないうちに、罪が罪だとわからなくさせてしまいます。
 私は今子ども会を担当をしていますが、最近主からもっと聖さについてしっかり教えていかなければいけないと考えさせられています。特に性的な罪に関して小学生の子どもたちに、あからさまに話すのはあまり教育上良くないと思っていました。刺激がありすぎる。子どもには話すことではないと考え、子どもたちには性的罪にはオブラートでくるんだような言い方で表現して教えていました。それも何回も言うことではないと考えていました。しかし今は情報化社会で、インターネットなどでも性的な部分を扱うサイトが数多くあります。私たちが子どもだった時には、例えて言うと広い畑を一人で鍬一本で、耕していたような時代であったかもしれません。しかし今の情報量は、その広い畑を大型トラクターで、一瞬のうちに耕してしまうような違いだと思います。ある時普段どれだけ子どもたちがそのような情報に触れているか聞いてみました。男女交際の中で陥りやすい罪について話しました。その中で質問してみました。「小学生が異性とおつきあいして良いでしょうか?」すると子どもたちの反応は「そんなの当たり前だ」と普通でした。次に「異性と手をつないで歩くことは?」という質問しても、良い事に当たり前じゃないといいました。次は質問する私の方がドキドキしながら「じゃあ、小学生がキスをすることはいいか?」と聞くと、「それはいけないんじゃない」とあっけらかんとして言いました。これはもっと踏み込んで、具体的に言わなければならないなぁと思いました。それでみんなが手にしている雑誌のこと、テレビのこと、インターネットでの危険なサイトなどについて細かく話しました。皆さんは子どもさんが何を見ているかご存じでしょうか。その子ども会で「みんな目を閉じて・・・・インターネットで性的に汚れた画像を見たことのある人?」と問いただしたところ、殆どの子どもが正直に手をあげていました。テレビでも男女の関係についてあからさまに放送している時がありますが、子どもたちはやはり見ています。少年少女のマンガもとても性的にも暴力的にも過激になっています。その時子どもに霊的戦いを教えていても、立つている土台が違いすぎる。鍬で耕す時代でのモラル、信仰基準で考えるものと、大型トラクターで耕している今の時代でモラルは全く違う。もっと具体的に教えないと、わかってもらっているようで、彼らはわかっていないことに気がつきました。何でそれが悪いのか?今までこのことを具体的に話さなかったので、子どもたちが悪魔の罠に引っかかってしまっていないだろうかと、子ども会を卒業した人たちのことを心配すると同時に、責任を感じました。自分の十字架、自分のイエスさまになっているならば良いのですが、霊的戦いを知りながら、親からの受け売り信仰で、知らないうちに悪魔によって、みことばが無知、無関心にさせられ、罪にはめられていると思います。そして罪を起こさせ、悪魔は今度罪を犯したものを責めます。「おまえはそんなことしていいのか?」「親や教会にバレてもいいのか?」と語ります。そして「黙って心の奥にしまっておけば、だれにもばれない」と人に対してだけ目を向かせて、蓋を閉めてしまいます。教会や家庭ではクリスチャンをしています。奉仕しています。という顔をしています。しかし心の中は死んでしまい臭くなっているのです。
 この講壇から話したくないような事柄ですが、あまりにも今世界は狂っています。インターネットで一つのことがレポートされていました。警視庁の二〇〇八年度の発表です。インターネット上で違法・有害なサイトなどを通報するためのホットラインセンターの二〇〇八年の運用状況を公表されました。通報の受理件数は十三万五一二六件、二〇〇七年の八万四九六四件から五九.0%増加増加しました。今ポルノサイトの類に入るサイトがどのくらいあるかというと、四百二十万以上もあり、そのポルノに関連したネットのページ数は三億七千二百万にも達するそうです。しかも新規のポルノ関連サイトが毎日二〇〇以上も誕生していると言われているそうです。他の統計ではポルノのウェブページ数は推定四億二〇〇〇万で、毎日二六六の新たなポルノ・サイトが生まれているというデータもあるようです。実にウェブサイト全体の十二%がポルノ・サイト。また検索キーワードで最も多い言葉は「sex」。そしてなんと毎月平均ポルノ・サイト訪問者数は七二〇〇万人もいるようです。二〇〇二年のロンドンの統計によると、八才〜十六才の子どもの十人中九人はポルノを見た事がある。その子たちが最初にポルノに触れた年令は平均十一才。しかし二〇〇二年ということは七年前ですからもっと低年令化しているかもしれません。二〇〇七年インターネットポルノの最大の消費者は十二才〜十七才だということです。恐ろしい現状です。
 皆さんは九七〇億米ドル。日本金にして九兆七〇〇〇千万円。この莫大のお金、何のお金かわかりますか?これは二〇〇六年、世界のポルノ産業売り上げだそうです。今の不況に入る少し前ですが、なんとなんと欲情のためにこんな大金を費やしているのです。同じ二〇〇六年、世界一の大企業であるマイクロソフトの売り上げは四四〇億八千万米ドル。日本金で四兆四〇八〇万円です。比較して見て下さい。倍以上です。また実に毎秒二万八二五八人の人が使用している計算になります。利用者がポルノサイトを閲覧し、毎秒八九ドル。八九〇〇円がそのサイトに費やされる計算です。これは世界のことですが、現在、日本ではポルノによる収益は十兆円とも二十兆円とも言われています。そして高校生の性病大国日本だと言われています。高校生の約十人に一人が、性感染症の一種、クラミジアに感染していることが、旭川医科大が実施した初の大規模調査で分かったとありました。今日本で二〇〇七年の一年間の国内HIV感染者・AIDS患者の報告は一五〇〇件で感染者報告は過去最多。なんと一日に四人が感染している計算になります。日本は先進国の中でHIV感染者が唯一増加し続けているというのです。これは異常事態です。私たちクリスチャンはこのような状況から、解放されるように、そこに働いている悪しき力が打ち破るように祈らなくてはいけません。ソドムとゴモラより比べることができないほど、世界も日本も汚れきっています。しかし私たちは無知、無関心で自分の事しか祈っていません。祈りも畑を鍬でゆっくり耕やす祈りをしているのに比べて、悪魔は大きなトラクターであっという間に汚してしまいます。
 自分の十字架、自分のイエスさまになっているならば良いのですが、霊的戦いを知りながら、親からの受け売り信仰。また悪魔によって、みことばが無知、無関心にさせられ、罪にはめられて、罪を隠してクリスチャン生活を送ってしまっています。あなたの信仰基準はどこに基準を置いていますか? マタイ五章十八節は

『まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。』

「時代だから」そんな古い事を言ってとは、聖書には全く通用しません。みことばは何一つ変わっていません。信仰生活の基準は、イエスさまが十字架にかかって下さった時と全く変わりはありません。ヘブル一三章八節

『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』

天地創造から今も全く変わらない神が、私たちの神です。しかし私たちの基準が変わっています。悪魔の策略によってごまかされてしまっています。信仰に対しルーズになってしまい、異性関係をはじめ多くの罪にはまってしまいます。そして蓋を閉めて、悪魔の良いなりになっています。無関心、無知にさせられています。
日常の生活で何か問題があると、あわててクリスチャンのみんなに助けを求めます。みんなに祈ってもらいます。またみんな救われてほしいと思っています。しかし心の奥にある蓋を閉めて、死んでしまっている所には手をつけることはしたくないのです。先ほどは特に異性関係について言及しましたが箴言七章十八節から二七節に

『さあ、私たちは朝になるまで、愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう。夫は家にいません。遠くへ旅に出ていますから。金の袋を持って出ました。満月になるまでは帰って来ません。」と。女はくどき続けて彼を惑わし、へつらいのくちびるで彼をいざなう。彼はほふり場に引かれる牛のように、愚か者を懲らしめるための足かせのように、ただちに女につき従い、ついには、矢が肝を射通し、鳥がわなに飛び込むように、自分のいのちがかかっているのを知らない。』

簡単に異性関係で失敗してしまうということはないでしょうか?先ほどご紹介したように、情報量の多いこの時代、インターネット、雑誌、携帯、などによって悪魔がはなつ矢が肝を刺し通し、鳥が自らわなに飛び込むように、罪にはまっている人はいないでしょうか?自ら天国行きの切符を捨ててしまっています。ローマ人への手紙六章十二節

『ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。』

情欲に従う人ではなく、私たちは真の神であるイエスキリストを信じ、この聖書六六巻を土台としてに従いましょう。そのような異性問題で多くの家庭が崩れています。神は悔い改めなさいと促しています。しかしクリスチャンでありながら自分の立場、地位にしがみつき、悔い改めることができません。悔い改めなくてはとわかっていても、ここで悔い改めたら、家族に、友達に、また教会員になんて言われるだろう。このように人を気にさせたり、後に悔い改めればと安易な気持ちを持ち、まんまと悪魔にやられてしまいます。性的・金銭面など様々な領域で、無関心・無知にさせられています。本当は悔い改めた方が良いことをわかっています。恐ろしい罪だとわかっています。しかし蓋をしめて現状から目を離させます。今日イエス・キリストはあなたの罪のために葬られ、三日目に甦って下さいました。このイエス様によって、全ての罪が許されて、やめることのできない悪習慣もイエス・キリストによって断ち切って解放して下さいます。今日心から悔い改めて祈りましょう。先ほどお読みした詩篇一四四篇三節にはこう書かれています。

『主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。』

人とは何者なのでしょう?朝になって働き、飯を食い、眠る。この繰り返し。いくら地位やお金、知恵など人より勝ったとしても、主の前から見れば天国に行くか、地獄へ行くかどちらかのただの人です。命がいつまであるかわかりません。昨日三時過ぎに、教会の駐車場にいた時、救急車のサイレンが激しく聞こえました。今日の新聞を見ると新城市の桜淵公園付近でブラジル人の方が、川で溺れ死んでしまったとのことです。本当に悲しいことです。その方はバーベキューに来て、その時川に入って遊び、深みにはまって死んでしまいました。本当に人とは何だろうと思います。先ほどまで元気であり、遊びに来た人が今は、息がないのです。どちらかに行かなくてはいけません。あなたの信仰生活の基準はどうでしょう?主から「よくやった、お前は忠実なしもべ、はしためだ」と賞賛されるでしょうか?今この前方には私の顔がスクリーンに映し出されています。もし今日あなたの心の中が突然映し出されたら、どうでしょう?私ならばすぐに力ずくでスイッチを切ってしまいたいと思います。しかしイエス様の十字架によって全てが赦され「ラザロよ、出てきなさい」と言われた、ラザロが甦ったように、私たちの心も今日、ふれていただき、聖めていただき、永遠のみ国に入るものとなりましょう。小学生、中高生の人たち、また青年の方々大丈夫ですか?あなたの生活の基準は何ですか?聖書を土台としましょう。もし全く楽しみが無くなったとしても、天国に入ることの方がどんなに大事ではないでしょうか。人は、永遠の命か、永遠のさばきかどちらしかありません。今日も聖餐式の時を持ちます。これはただジュースとパンを食べる時間ではありません。あなたを救うための血潮と肉です。今日主を覚えましょう。しっかりと主の前に出て、聖餐を頂きましょう。今日あなたの信仰基準を、イエスさまにしましょう。「あなたは天の御国に入れます。」と神さまに宣告されるように、主を愛し、従いましょう。毎日が霊的戦いです。聖さを頂くために、戦いましょう。結ばれた悪魔・悪霊との契約を、イエスさまの御名によって断ち切りましょう。死んでしまい、臭くなり、穴に埋めて、蓋を閉めてしまっているところに、イエス様の十字架と、血潮を信じて悔い改めましょう。罪は全部赦されます。二度と思い出されることはありません。悔い改めなかったらそのまま罪は残ります。イエスキリストの聖名によってすべての領域でよみがえらして頂きましょう。最後に皆さん後についてご一緒に宣言してお祈りしましょう。

(祈り)
「よみがえりの、イエスさま、あなたは私たちの救い主であることを信じます。宣言します。私の信仰基準は、聖書であることを、宣言します。今まで、罪を持ち続けていたならば心から悔い改めます。今心の蓋を開けます。そして悪魔・悪霊に結ばれた契約を、イエスさまの御名によって断ち切ります。特別性的な罪を悔い改めます。悪魔との関係を断ち切り、解放して下さい。そして後ろの扉を閉めます。契約を無効にします。あなたのきよさのなかで、イエスさまために、働き、使えることができますように。死んで臭くなった部分が、よみがえりますように、決して悪魔に祝福を取られたりしませんように。しあわせに生きることができますように。聖霊さま、今あなたのみ前に出ます。私を聖霊で満たしてください。イエスさまの御名によって勝利を宣言して、祈ります。アーメン」


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