「復活の奇跡」


2009.4.19(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

マルコの福音書 16章1節〜6節
さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。

 ハレルヤ。皆さんおはようございます。復活祭おめでとうございます。今日は復活祭の素晴らしい礼拝を持つことができて、心から感謝します。
 ところで復活祭とは、毎年日が変わる祝日です。それはイエス様が死んで三日目に甦られた日を記念日ですが、毎年日にちが変わるので、少々面倒なところがあります。現在、世界の教会が復活祭として定めているのは、「春分の日の次の満月の次の日曜日」です。
 復活祭については、昔からいろいろ論争があるみたいです。なぜならば、異なった暦が用いられていたからです。イエス様が甦られたのは、週の初めの早朝と聖書には記されています。それは日曜日ですけれども、暦が違うと、曜日も変わってくるので決着がつかないのです。四月の第二日曜日を復活祭と決めたらどうかという意見もあります。新城教会もいっそ、そうしようかと考えたりします。
 今年は先週が復活祭だったのですが、スケジュールの都合などから一週間ずらしたわけです。先週は世界的には復活祭でした。復活祭のことを英語で「イースター」と呼びますが、これもあまり良い意味ではありません。それはもともと月の女神の名前であり、異教の文化を取り替えて呼んでいますので、私達はイースターとは呼ばずに、復活祭と呼んでいます。

 先週私は韓国にいました。韓国リバイバルミッションの会場となっている仁川の三山ワールド体育館において、仁川の教会が主催する復活祭礼拝がありました。私もその礼拝に行きました。何時から始まったかと言いますと、イエス様の復活が早朝だったことにちなんで、朝の五時から行われました。私も三時半に起きて、韓国リバイバルミッションの案内のチラシを沢山持って会場にいきました。何人集まったかと言いますと、なんと、一万人近く集まって礼拝していました。大変驚きました。復活祭は世界的に大きなお祝いであり、またキリスト教会から、この主イエスの甦りを省いてしまったら、何も無くなってしまうわけです。

 皆さんには韓国での働きのために、いつも祈っていただいており、心から感謝致します。先週私は、韓国を二往復しました。仁川にある長老教会にも行きましたが、その教会は毎週九万人が集まっています。七回礼拝があり、毎回一万人ずつ集まっています。そして子どもたちを加えると、九万人礼拝に集まっているそうです。この度は、仁川の牧師達だけが集まる決起大会を持たせていただき、奉仕させていただきました。そこには牧師・伝道師たちが八〇〇名ほど集まりました。この五月の二九日から行われる、「韓国リバイバルミッション」は、きっと祝福され、素晴らしいものになると思います。ぜひお祈り下さい。またご参加下さい。

 今日は初めて教会に来られた方々のために、わかりやすくお話ししたいと思いますので、リラックスして聞いて頂きたいと思います。教会に初めて来られると、何が始まるのかと緊張するかもしれませんが、この後、バーベキューも用意されています。現在、スタッフ達が一生懸命食事の準備をしています。どうぞ楽しみにして下さい。
 それでも、初めての方は緊張されているかと思いますので、ここで少々アイス・ブレイクと申しまして、冗談で心を解きほぐしたいと思います。時々、ジョークも滑ってしまい逆効果ですが、今日はどうでしょうか。

 ポンキッキを見ていたら、ガチャピンが南の海でスキューバダイビングをしていました。ガチャピンが、「海には珍しい生き物がいっぱいいます・・・」でも、「お前がいちばん珍しいんだよ!」

 一浪している友人が合格発表を見に行った。掲示板を見るなり、Vサインをしながら戻って来たので、「合格か?」と聞くと、「違う二浪だよ」

 お婆ちゃんと公園に行った時、おもむろにお婆ちゃんが池に向って五十円玉を投げた。何事かと思って辺りを見回すと、「鯉の餌五十円」という看板が立っていた。

 算数の授業で先生が、「あなたが今六ドル持っていて、お母さんに”二ドルちょうだい”と頼んだら、あなたは今、何ドル持っていますか」と訪ねました。すると生徒は、「六ドルです」と答えました。
 「ええー。もう一回言うよ。六ドル持っていて、お母さんに二ドルちょうだいと言ったら、あなたは何ドル持っていますか」生徒はもう一度答えました。「六ドルです」
 先生は、「あなたは足し算が何もわかっていないですね」
 生徒は答えました。「先生は私のお母さんのことを、全く理解していないようですね」

 敬老会で手品を披露した。トランプを一枚抜いて皆に見せ、元に戻してから良く切りました。そして、「さっきのトランプは何でしたか」と尋ねると、老人達は「何だったっけ。忘れちゃったよ」と、誰一人覚えていなかった。

 ちょっと寂しいですね。人は誰でも年を取ります。礼拝が始まる前、「召天者記念会」を持ちました。毎年復活祭の日に持っています。過去この教会で一緒に集い礼拝を守っていましたが、今は天に帰った兄姉を記念して、主を礼拝する時です。召天者を礼拝するのではなく、「主を」礼拝する集まりです。その時、天に帰られた方々の写真が映し出されます。本当に懐かしい方々を思い出します。そして、少し悲しいです。
 私は韓国での奉仕が近ごろ多いのですが、かつてこの教会によく来て下さっていた、チョン先生や申先生も亡くなられました。田中政男先生も天に帰られました。考えたら、後百年後には、地球の人口の殆どが総入れ替えです。百年も経てば今生きている人たちは、ほとんどいなくなってしまいます。昨日生まれた赤ちゃんも、この地上から出ていかなければならないのです。そして、この地球は全く違った人たちによって支配されるのです。そう考えてみると、人生は寂しいです。シャボン玉のように、「壊れて消えた」と終わってしまうなら、人生って何なのだろうと感じます。
 しかし聖書は、人生はこの地上だけで終わるのではなく、永遠につづくものだと教えています。そして、それを証明するために、イエス様は三日目に甦ったのです。それを記念するのが、復活祭です。

 もしもイエス様の甦りがでっち上げで、偽りだとしたら、クリスチャンは世界の全ての人々の中で、最も哀れな人たちです。なぜなら、イエス様は死んでしまったのに、「甦りました」などと言っている、おめでたい人たちだからです。また、「イエス様は甦りました」などといって吹聴している牧師は、世界一の偽り者ということになります。
 日本では牧師はあまり良い待遇の職業ではありませんが、韓国は牧師の地位がとても高いです。今、韓国で若い娘たちに、どんな職業の人の妻になりたいかと問うと、その一位が何と、「牧師」だそうです。
 皆さん考えられますか。日本でしたら、そんな辛い仕事の妻など嫌だと言うかもしれませんが、韓国では、いちばんなりたいのは牧師の奥さんで、二番が医者の奥さんだそうです。本当に違いますね。
 しかし、甦りが嘘ならば、「イエス様はよみがえられました」という牧師は、世界一の嘘つきであり、その妻は世界一の嘘つきに騙された女になってしまいます。聖書もこのように語っています。第一コリントの十五章の十四節に

そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

続けて十九節を見ますと、

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

 死んでしまった人たちに希望を置いて、永遠の世界などないにもかかわらず、あると盲信している人たちがクリスチャンだとしたら、あまりにも惨めです。
 しかし皆さん。イエス様が本当に甦られたとしたら、キリスト教は最高に素晴らしい宗教と言えないでしょうか。また、人類の最も大きな希望となるのです。

 先日私は、BS朝日で、「地球伝説」という番組を見ました。そこで、アメリカで人気を博しているクリスチャン・マジシャンのブロック・ギルという人物が、聖地を旅して、キリストの奇跡を検証するという内容でした。その最後に、イエス・キリストの究極の奇跡といえる、復活の謎に迫るというものでした。
 私は感動して、ビデオに撮って皆さんにお見せしようと思っていましたが、何と録画したものが消えていました。残念です。イエス様が墓から消えたように、録画が消えてしまったのです。自動削除機能がオンになっていて、他の番組を録画すると先に録っていたものが消えてしまい、皆さんにお見せできなくて残念です。
 その中で、彼はマジシャンですので、人を消してしまうマジックを行い、復活がマジックだったという設定で、その背後に、どのくらいの仕込みが必要で、どれだけの仕掛けがないと人を消すマジックが出来ないのかを実演しました。そして、イエスさまの甦りがマジックだったという可能性は皆無であると語っていました。
 また弟子たちが遺体を盗み出したと想定して、盗むとしたらどのような可能性があるかを検証しました。結論は、盗むことも不可能でした。
 さらに、遺体が他の場所に捨てられ、もともと墓には葬られていなかったという可能性についても検証しました。しかし当時のローマ統治下で、軍隊が墓の警備を行っていたという事実から、あり得ないとの事でした。
 また、甦ったイエスに出会ったということが、福音書の書き手達による作り話ではという可能性についても検証し、これも不可能だと結論づけられていました。なぜならば、聖書に出てくる甦りのストーリーを検証していくと、作り話ではあり得ない人物が登場しているからです。甦りのイエスさまと最初に出会ったのは、マクダラのマリヤでしたが、この女性はあまり素性のよい女ではなかったため、彼女を第一発見者にすると都合が悪いと語っていました。作り話ならば、一般にも信頼のおける人物を第一発見者に仕立てただろう、と語っていました。
 また、キリストが生きていてほしいと強く願うあまり、幻覚を見た可能性についても検証していましたが、何百人もの人々が同時にイエスさまと出会ったと記録されていることから、幻覚ではないとしていました。
 最終的に、福音書の記録は、実際に起こった事柄を記録したものと考えるのが、一番自然だと結論づけていました。

 イエスさまは甦って後、四十日後、天にお帰りになりました。この地上から姿を消してしまったのです。にもかかわらず、復活のイエス様に出会った弟子たちは、命がけで福音を地の果てにまで伝えていったという事実も、普通ではあり得ないと語っていました。普通ならば、教祖が消えてしまったら、宗教はだんだんと下火になるものです。しかし、二千年で地球を一周し、世界最大の宗教となっていることは、甦りは作り事や幻覚やマジックではなく、事実なのだと結論づけていました。

 私達が信じているイエスさまと甦りは、事実なのです。そして、甦りが事実であるのなら、そんな素晴らしい事はありません。イエスさまは弟子たちに次のように語られました。
マタイの福音書二八章十八〜二〇節

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 皆さん、この言葉は、現代に生きる私達にも語られていることばなのです。イエスさまは、今も生きておられ、私達と共にいてくださるのです。今日も目には見えないけれど、共におられるのです。

 イエスさまは死の力を打ち破り、甦った後、天に帰られました。どうしてでしょうか。せっかく甦ったのですから、地上にいて下さったら、もっと良かったではないでしょうか。
 韓国リバイバルミッションのために、誰を講師としたら良いかと考えました。もしもイエスさまが現在も地上に肉体を持っておられたら、ぜひ、講師としてお迎えしたいものです。もしもおられるのなら、多分エルサレムくらいに事務所があるのかも知れません。そこに電話をかけて、「すみません。韓国リバイバルミッションの講師として、イエスさまに来て頂きたいのですが」
 もしも来て下さったら本当に素晴らしいです。全ての病は癒されるし、悪霊は追い出されます。また、イエスさまにかかれば、五つのパンと二匹の魚くらい用意しておけば、それを五千人でも二万人でも食べさせて下さいます。
 しかし、電話をしたらこう言われるでしょう。「イエスさまは大変忙しく、世界中を飛び回っていますので、すぐには行くことが出来ません。予約が必要です。」
 「ではいつなら来て下さいますか。」「そうですね。千年後くらいです。」ということになるかもしれません。
 千年も待ったら、みな死んでしまいます。イエスさまが地上にとどまっていたとしたら、その働きは限られた範囲にしか及びません。しかし、イエスさまは肉体を脱ぎ捨てて、霊的な姿として、聖霊によって今もこの場所におられます。そもそも甦りとは、肉体の制限を超えたものです。これがキリスト教の中心的教えです。そのことを知る時、毎日の生活にも勇気が湧いてきます。

 先ほども召天者記念会の中で、天に帰られた兄姉の写真を見ながら、ちょっと寂しさを覚えました。人間は死んだらどうなるのでしょうか。このことに関して日本人は、はっきりとした回答を持っていません。
 一般的には、人は死んだらまた生まれ変わるという考え方があります。すなわち輪廻思想です。死んでもまた地上に戻ってくるという考え方です。
 日本では人が死ぬと四十九日まで、一生懸命拝みます。なぜかと言いますと、死んで四十九日間は閻魔大王の前で人は裁かれるからだそうです。地上で悪を行うと、とがめられて人間にはなれず、動物や昆虫に輪廻するそうです。そんなことになったら大変ですので、周りの家族は真剣にとりなして拝むのが49日法要です。そうすると悪者でも人間になれたりするそうです。
 四十九日に子供が生まれる十月十日を足すと、三六五日、すなわち一年になります。仏教によれば、人は死後一年で、もう一度どこかに生まれ変わるのです。つまりリサイクルです。でも、地上は苦しいところという設定であり、苦しみのリサイクルが永遠につづくのです。

 皆さんはこの輪廻の中で生きることを、どう思いますか。地上で大変な思いで過ごし、やがてつらいこの世のどこかに戻ってくる、ひょっとすると、人間以下の下等生物に輪廻するかもしれない、そんな輪廻の世界に生きたいでしょうか。

 けれども、日本人は輪廻を語りながらも、実際に行っていることは、祖先崇拝です。実は、祖先崇拝と輪廻は互いに相容れない、真っ向から対立する理念なのです。仏教の根源は輪廻ですので、死者は戻ってくるのですが、戻って来るのなら、墓場は必要ありません。むしろ輪廻の考え方では、墓に古い体が残っていると、うまく輪廻できないと考えています。ですから、生前の全ての痕跡をなくさなければなりません。インド人は輪廻を信じていますので、人が死ぬと火葬して、残った灰まで全て水に流してしまいます。何も残さないのです。ですから墓は作りません。
 また、全員リサイクルで一年もすれば地上に戻ってきますので、先祖の霊などは存在しないのです。

 しかし日本人は、仏教といいながらも、やっていることは祖先崇拝であり、墓を大切にし、先祖の霊が現世に一緒に住んでいるという前提で、祖先崇拝がなされます。これは大きな矛盾です。一方では輪廻を語り、一方では祖先崇拝することは、実は、全く異なる考え方を同時に受け入れているわけです。ということは、日本人は死後の世界に関して、回答を持っていないのです。

 しかし、聖書は死後の世界に関して、はっきりとした回答を持っています。聖書の素晴らしいところは、曖昧なところがなくクリヤーなところです。生ける世界も、死後の世界も、永遠の世界も、全てはっきりと告げています。
 死後の世界に関していちばんはっきり分かるストーリーは、イエスさまが語られたラザロと金持ちの話です。また一度良く読んで頂きますと分かりますが、ルカの福音書16章19節から少し読んでみましょう。

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

 この地上においては、貧富の差があります。しかし、やがてどちらも地上から去らなければなりません。この頃は長生きするようになったとはいえ、百歳まで生きる人はまれです。死は誰も避けられない事実です。
 しかし、その後が大切なのです。今書かれていた、二二節からみると

さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

 人間には、「死後の世界がある」ことを聖書ははっきりと告げています。アブラハムの懐とは、神の国を現しています。ラザロは死後、神の世界に連れて行かれました。しかし、金持ちは神を信じなかったので、永遠の滅びの世界に行きました。
 死後の世界には二つあります。「神の世界」か「滅びの世界」のどちらかです。死後の世界の人たち同士は、コミニュケーションが出来るみたいです。金持ちは、神の世界に声をあげて会話しています。「何とか、私の苦しみを軽減して下さい・・・」
 少しでも楽になれるようにと懇願しましたが、聞き入れられませんでした。そして、金持ちはなんと叫んだかと言いますと、二七節から

彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

 そのあまりの苦しみの故に、「地上にいる家族がこの場所に来ないように」と、懇願したのです。しかしそれも聞き届けられませんでした。
 死後の世界では、死者同士の会話は成り立つようです。けれども、死後の世界から、生きている人たちに、何らかの情報を伝えることは出来ないのです。
 これは死せるものと、生けるものとの間には、大きな隔たりがあって「情報の行き来がない」ことを現しています。

 日本人は死者と、生きている者たちが同じ空間にいて、コミュニケーション可能と考えていますが、そうではありません。人は死ぬと、神の百パーセントの管理下に置かれ、ある人は苦しまなければなりません。
 いずれにしても、死んだ人々が願っていることは、「生きている者たちが、決して滅びの場所に来ないように」、「神を信じて永遠のいのちに生きること」を、願っているのです。

 ときどき、先祖を拝んであげないと、先祖が悲しむと考えますが、それは間違いです。死者は拝まれることによって、慰められたり、行き先が変わったりしないのです。彼らが願っていることは、「皆が主を信じて、永遠のいのちに入ること」です。
 主を信じ、教会で一生を過ごした方々は、今、確実に神の国にいるのです。そして、神の前で、この地上のために、とりなし祈っています。
 このように、私達が聖書に触れますと、死後の世界観もはっきりします。そして、どのように生きたらよいのかも、分かってくるのです。

 復活のストーリーを見ますと、その時、どのようなことが起こったかが記されています。マルコの福音書十六章一〜五節、

さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。

 すでに、イエスは死んでも甦るといううわさがあった為に、ローマの兵隊はイエスさまを葬った墓の入り口に、大きな石を置いて、皇帝カイザルの印鑑を押して封印し、石を絶対取りのけられないように番兵をつけていました。遺体のある所へ行って香料を塗るのは、ユダヤの習慣だったのですが、そんなことはとても出来ない状況でした。
 でも女たちは、イエスさまを愛していたので、何とかイエスさまの体に香油を塗ってあげたいという一心で墓に向かいました。ここには男性と女性の違いが現れていると思います。良い意味でも、悪い意味でも女性は、感情で行動する事が多いと言われます。しかし男性は、一般的に理性的に行動することが多いから、普通ならイエスさまが葬られ、ローマの兵隊がいて、封印された大きな石があったら、墓には絶対に行きません。行ったって無駄だと思います。しかし女性は違いますよね。何とかイエスさまに香油を塗って差し上げたい一心で、愛情から女たちは行動したわけです。
 でも課題がありました。「あの大きな石を誰が取りのけてくれるのか・・・」

 墓にたどり着くと、何と、その石がすでに転がっていて墓が開いていたのです。びっくりして墓の中を覗いてみたら、何と、イエスさまの遺体がないではありませんか。そればかりか、女たちは甦りを伝える天使に出会ったというストーリーです。

 ここから色々なことを教えられます。時々私たちは、理性的に神様のことを考え、そんなことはあり得ない、復活なんかあり得ない、そんなことはおかしいといって、頭ごなしで否定してしまいます。そうすると神様には会えないのです。この女性たちの行動のように、まっしぐらにイエスさまの所に向かう時、奇跡が起こるのです。
 人生には目の前に大きな石が据えられ、取りのけられない限り前に進むことが出来ない時があります。今日ももしかしたら、一歩も前に進むことが出来ないと言われる人もいるかもしれません。
 しかし、希望をもっていただきたいと思います。イエスさまに期待して、イエスさまにまっしぐらに近づくと何が起こるのか・・・。
 気がつくと、目の前の大きな岩がなくなり、甦りのイエスさまと出会うのです。私も教会で牧師をしていて、本当に牧師という仕事が今は楽しくてしょうがありません。それを目前で見ることが出来るからです。
 昔はそうでもなかったんですが、今私はこの仕事をエンジョイしています。

 私は生まれて気がつきましたら、この教会の牧師の息子として生まれていました。私の両親は東京でクリスチャンになったのですが、なんとこんな田舎で、田舎と言ったら失礼ですけど、伝道を始めてしまったんですね。
 日本のクリスチャン人口は〇.二%です。韓国に行ったら三〇%がクリスチャンなのに、日本では〇.二%。日本に教会は、八千軒ぐらいあるのですが、一つの教会の平均出席人数はたったの二五人です。田舎は一〇人ぐらい集まれば、まあよくできたという感じです。私の父母はそんなことを考えたかどうか分かりませんが、神様から示されて、ここで伝道を始めたのです。でもなかなか人が集まらず、とりあえず産んで増やせと、七人も子供が生まれました。私はそんな中で育てられ、牧師なんてろくでもない職業だと思っていました。牧師業にだけは、将来絶対就きたくないと思っていました。私の父と母は地域に出て行って、普通なら一生関わらなくても良いような、いろいろな問題に関わって、「あなたの助けになりますから、教会に来てください」と、困った人々を助けていました。
 昔は刑務所から出て来た人とか、食事が無い人だとか、困った人たちがよく教会に来たものです。母親がご飯を出している姿を見て、なんという家庭に生まれてしまったんだと、いつも思っていました。牧師という職業は、問題の廃品回収業みたいだと思っていました。

 私は牧師の家庭に生まれなかったら、多分イエスさまを信じていなかったかもしれません。しかしあるとき私は、イエスさまと出会いました。今牧師として働いていますけれど、牧師という職業は、神様の働きを最前線で見せて頂ける職業です。
 教会に来られる方々の多くは、自分の前に大きな石があって、何とかその石を動かして欲しいと教会に来られる事が多いです。しかしそれで良いと思います。石をなんとか動かして欲しいと教会に来る時、不思議なことに、その先におられるイエスさまと出会うからです。この教会に来られている方々は、すでにイエスさまと出会った体験を持っています。もちろん目に見える形でイエスさまと出会ったのではなく、イエスさまが今も生きておられることを、実体験したのです。またその体験を通して、更に主に近づくことが出来るのです。私も毎日仕事をしながら、本当にイエスさまは生きておられると感謝しています。

 牧師業は売る商品が目に見えません。八百屋なら果物を売るとか、野菜を売ることが出来ますが、牧師は売る商品がありません。聖書もそうたびたび売れないし、使えるのは舌ベラ一枚です。言葉で話すしかないのです。「イエスさまは生きていますよ、とか、いやしがおきますよ、解放が起きますよ。」とただ語ります。しかし単なる言葉だけだったら、本当に空しいです。けれども、甦りのイエスさまがおられるために、石は取りのけられ、その奥におられる方と出会うわけです。
 今日もイエスさまと出会って頂きたい、生けるイエスさまと出会って頂きたいと、心から願っています。

 復活のストーリーは死を打ち破った出来事です。死は本当に人間にとって辛いことです。どんな人も打ち破ることが出来ない、一番大きな壁です。人類にとっての一番大きな問題は、ひと言で言えば「死」だと思います。死ほど恐ろしい壁はありません。
 けれども、聖書の素晴らしさ、イエス・キリストの素晴らしさは、まさしく人間が超えることが出来ない、誰もが超えることが出来ない、死をイエスさま自らが体験し、そればかりではなく、「死を打ち破った」ところに素晴らしさがあるのです。そればかりではなく、誰も打ち破ることができなかった死から、何と、新たないのちが出てくる、これほど意外なストーリーはないと思います。

 聖書は、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの、神を愛する者のために神の備えてくださったものはみなそうである」と告げています。
 神様が私たちに用意してくださっているものは、見たことも、聞いたことも、思ったこともないものです。そしてその裏付けが、「イエスさまの死と甦り」にあるのです。復活という奇跡の事実があるが故に、見たことのないもの、耳が聞いたこともないもの、人の心に思い浮かんだことのないことが起こるのです。
 それが第一コリントの2章の9節に記されています。皆さんの人生に、これから何が起こるのか、素晴らしい事が待っているのです。

 それはなぜか、イエス様が死を体験しただけではなく、死を打ち破り、甦ってくださった故です。誰も超えることが出来なかったことを、イエス様が超えてくださったのですから、私達に、素晴らしいものを用意してくださらないはずがありません。最も人類が恐れていた死から、驚くべき、いのちがわき上がったわけです。これが復活の奇跡です。

 旧約聖書の中には、いわゆる、ひな形となるようなストーリーがいくつかあります。そんな中に、サムソンという人物の物語が出てきます。サムソンが一頭の若い獅子に出会った出来事が記されています。士師記の十四章五節から六節を見ると

こうして、サムソンは彼の父母とともに、ティムナに下って行き、ティムナのぶどう畑にやって来た。見よ。一頭の若い獅子がほえたけりながら彼に向かって来た。
このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。サムソンは自分のしたことを父にも母にも言わなかった。

 普通ならばどうでしょうか。若いライオンに襲われたら、その次に起こることは明かです。それは、死以外のなにものでもありません。
 時々、人生の中で、獰猛なライオンのような存在に出会って、その先は死しかないという状況に陥る時があります。しかし、主の霊が彼に下った時に、まるで小やぎを引き裂くように、ライオンを引き裂いたと記されています。
 皆さん、私達の前に獅子のようにどう猛な、死が近づいてきたとしても、神の霊によって生きる人生は、まるで小やぎを引き裂くかのように、敵をやっつけるパワフルな人生になるのです。
 こんなすごいことをサムソンはしたのですが、その後、もう一つの体験をしたのです。ライオンを引き裂き放り投げ、帰り道に、死んだライオンにある事が起こっていたのです。士師記十四章十二節から十四節を見ると、サムソンがペリシテの人たちに、謎かけをしています。

サムソンは彼らに言った。「さあ、あなたがたに、一つのなぞをかけましょう。もし、あなたがたが七日の祝宴の間に、それを解いて、私に明かすことができれば、あなたがたに亜麻布の着物三十着と、晴れ着三十着をあげましょう。
もし、それを私に明かすことができなければ、あなたがたが亜麻布の着物三十着と晴れ着三十着とを私に下さい。」すると、彼らは言った。「あなたのなぞをかけて、私たちに聞かせてください。」
そこで、サムソンは彼らに言った。「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」彼らは三日たっても、そのなぞを明かすことができなかった。

 ペリシテの人たちは、サムソンの謎かけについて、三日間考えたけれど解りませんでした。解らないはずです。
 実は、サムソンが再び戻って来た時に、何と、このライオンの上に、ミツバチがいっぱいたかっていて、自分に襲いかかったライオンから、蜜が出たのです。サムソンはその蜜を採って食べたのです。

 この体験から、「食らうものから食べ物が出、強いものから甘いものが出た」という、謎かけを考え出したのです。
 答えは、自分が倒したライオンのことを意味していたのです。普通はどうですか?ライオンにアタックされたら、死ぬしかないのです。しかしサムソンが体験したことは、ライオンを倒しただけでなく、ライオンから食べ物が出たのです。強いものから、甘いものが出たのです。

 イエスさまを信じる人生は、まさにサムソンが体験したのと同じです。普通なら、喰われてしまう最大の敵、死から、食べ物が出る、まさにイエスさまの死はそのようなものでした。
 人類の誰も倒すことの出来なっかった死によって、人類を救い出す大勝利が引き出されたからです。食らうものから出た食べ物、これは、永遠のいのちであり、いのちのパンである甦りのイエスさまです。
 「強いもの」とは何でしょうか。それは、ヘブル書の二章の十四節から十五節を見ると、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

 この強い獅子とは、「悪魔」を指しているわけです。人類になぜ、多くの問題があるのか、それは目に見えない獅子がいるからです。獅子がいて、人々が喰われているのです。人類はこの見えない獅子に対して、全く無力です。この獅子の力は、死の力です。人々を滅びに連れて行く力です。
 しかし何と、イエス様は、ご自分の死と甦りによって、死の力を持つ悪魔を滅ぼしてくださったのです。
 そしてイエス・キリストを信じる人生は、襲いかかってくる獰猛な若い獅子、悪魔を切り裂き、打ち破り、自分をアタックした獅子から食べ物が出る人生に変えてくださるのです。

 獅子に襲われ、喰われる人生が良いのか、それとも、獅子を小やぎのように引き裂いて、そこから食べ物が出るような人生が良いのか、選択は、私たち一人ひとりにゆだねられています。
 甦りのイエスさまを信じるなら、目に見ない獅子に倒されることはありません。サムソンと同じように、まるで小やぎのように引き裂き、食べ物が出て来るパワフルな人生をあなたにあげますというのです。
 それはイエスさまは死んだけれども、甦がえられたという事実の故です。

 今日私たちは、復活の主を礼拝していますけれど、復活のイエスさまはここにおられます。そして死を打ち破り、死さえも克服することが出来る完全な勝利を与えてくださいます。人生を終えても、永遠のいのちの世界へと入る連続性の中で、支えてくださるお方です。
 先ほども、マタイの二八章を読みましたが、イエスさまは弟子たちに近づいていわれました。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

 どんな時でも、イエスさまが私たちとともにいて、励ましてくださり、神の霊によってあなたに襲いかかる獅子さえも、小やぎを引き裂くように簡単に引き裂くのです。そんな素晴らしい人生を歩ませて下さいます。
 私も牧師をしていて、それを感じます。この仕事は霊的戦いの仕事ですから、まさに、私達を食らうものを料理して、生活が成り立っているのです。悪霊どもを倒す働きを、職業としいているわけです。
 大きな石が目の前にあったとしても、イエスさまは取りのけて下さると、堅く信仰を持ちましょう。最後にご一緒にお祈りしましょう!

 父なる神さま、私は甦って下さった、イエスさまを信じます。今この場所にイエス様がおられること固く信じます。生きている主を、心から崇め礼拝します。甦りのイエス様に近づいていきます。目の前の大きな石も取り去ってください。イエスさまがその石を取り除いて下さい。私の心から、全ての恐れを取り除いて下さい。死の恐怖から解放して下さい。永遠のいのちが与えられている事を宣言します。永遠に生きることを信じます。永遠のいのちの中で、人生を導いて下さい。日々守って下さい。獅子の口から守って下さい。そればかりでなく、神の霊によって力づけ、神の霊によって若い獅子も引き裂く力を与えて下さい。勝利を信じます。宣言します。甦りのイエス様を心から礼拝し、イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。


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