「あなたには重要な使命があります」


2009.5.3(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

エレミヤ書 1章1節〜8節
ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。
「アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今朝は皆さんと共に礼拝を捧げる事ができる恵みを心から感謝します。この季節はゴールデン・ウイークで、巷では休みの時期だと思いますが、教会ではこの期間、“五五時間連鎖賛美”が開かれます。これは私が計画したのでなく、こんな過激な賛美集会を計画するのは若い人たちです。私くらいの年になると、「五五時間!?冗談じゃない・・・」と思いますが、長時間の賛美を通して見えない壁を破ることができると信じています。
 一九九二年、この教会に聖霊様が激しく訪れて下さったのですが、その年の新年に何をしたかというと、「九十二時間連鎖賛美」というのをやりました。それに比べると、五五時間はまだ短いのかもしれません。その賛美を通して、天が破れて聖霊の注ぎがあったと思います。この五五時間にも、必ず素晴らしい勝利があると信じます。是非とも、どのパートでも良いですので、お出かけ下さい。

韓国リバイバルミッションも近づき、あと二六日で本大会を迎えることになりました。だんだんと私も緊張しています。今朝は韓国から五名の方々が、礼拝に出席して下さっています。今年の二月に、私は韓国の南にある島々を回って集会をしました。その時の集会を計画して下さった方々は、ソウルに住んでいる方々で、一〇年間も島々を訪問して教会が少ない場所で伝道し、島の教会を助けています。その働きをされている、チョン先生をはじめ五名の方々がお越し下さいました。ちょっとお立ち上がり下さい。皆さん歓迎の拍手をお願いします。

今晩、九時から一〇時のパートで、このチームの方々に賛美を導いて頂き、チョン先生にメッセージを語っていただく事になっています。是非ともお越しください。
不思議な事に、特別な計画をした訳でもないのに、主が自動的に扉を開いて下さっています。
教会は大きなファミリーです。今日も大勢の方々が来られていますが、これは大きなファミリーです。喜びも共にしますし、悲しみも分け合い、共に助け合い、祈りあう仲間たちです。
昨日は教会の遠足で、地引網大会がありました。百数十名の方々が参加して下さり、とても楽しかったです。また来年もあったら、今年参加出来なかった方々はぜひ参加して下さい。昨日は韓国の方々も一緒に行かれたのですが、彼らがこう言いました。「地引網はとても聖書的ですね、教会みたいですね」と。
何故かというと、「一つの目的に向かい、皆が力を合わせ、バランスを保ちながら縄を引っ張る姿は、正に、教会のようだ。」と言われました。一つの目的とは、地引き網は魚をとることですが、実は、聖書においては“宣教”という意味があります。
一つの目的に向かい、皆が心を合わせ力を合わせて働く姿は、この世の何処にも無いものです。昨日の写真を見せたいと思います。網には一匹、大きなスズキが入り、あとは小さい雑魚が沢山入っていました。本当に楽しかったです。

さて今日、皆さんと一緒に学んでいきたいテーマは、「あなたには重要な使命があります」という事です。
聖書の言葉は、ただ単に、歴史的記録や、ある一部の人だけに語られたのではなく、現代に生きる私たちへの適用があるゆえに素晴らしいわけです。
この箇所はエレミヤという、イエス・キリストか誕生する六〇〇年前の預言者に対して語られたことばではありますが、それは主を信じる者達全員に語られたことばです。聖書を読むときに、歴史的理解と共に、もう一方では、聖書の中に自分をおいて理解すると良いと思います。一章四節から

「次のような主のことばが私にあった。 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」

 時に、「私は間違って生まれてきた」とか言いますが、そうではないことがわかります。聖書を読むと、大きな励ましを受けます。それは、私たちが偶然に生まれたのではなく、間違って生まれたわけでもなく、神のご計画の中で、大きな“使命”と共に生まれた事に気づくからです。

実は私は、もう一人の孫のおじいちゃんになりそうです。なぜなら、私の娘が二月に結婚したのですが、妊娠したようで、十二月に子どもが生まれるからです。なんでこの忙しい時期にと思いましたが、本当に感謝な事です。どんな子が生まれるか楽しみにしていますが、いろいろ考えると心配もあります。しかし、心配しなくても良いのです。誰一人として無駄に命を受けた者はいないからです。エレミヤに語られた言葉は、彼だけに語られたのではなく、私たちにも語られていることばです。五節。

「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」

 何と、「体内に形作られる前から、あなたを知り、お母さんの腹から出る前から、あなたに使命を与えていたのですよ」と語られたのです。この事を知ると、人生に希望が湧いてきます。胎内に宿る前から、知られていたというのです。あなたも私も、母の胎内に宿る前から、すでにこの地上に生まれる事が決定づけられていたのです。決して偶然ではないのです。
“人が生まれる”とは、父親と母親がいて、偶然のように思うのですが、神の世界には偶然は何一つないのです。全てが神の定めの中にあるのです。どんな背景で生まれたとしても、例え良くない環境で生まれたとしても、それを悲観する必要はないのです。命を与えるのは神の仕事です。命を与え、命を引き取るのは、神にしか出来ません。ですから、どのように生まれたとしても、それは関係ないのです。命を与えたのは神ですから、無駄に私たちを作ってはいないのです。「あなたには重要な使命があるのですよ」と語られます。
今日ここにおられるひとり一人、もれなく重要な使命が課せられています。

実は、エレミヤという人物が生まれた背景に、一つの出来事が関わっていました。彼の時代は何んという王様が支配していたかというと、一章二節を見ると

「アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。」と記されています。

イスラエルは南北に分断した歴史があり、北イスラエルと南ユダに分かれました。両国に色々な王様が出ましたが、その中で、ヨシヤは神に喜ばれた素晴らしい南ユダの王でした。彼により、国が改革されました。実に、このヨシヤ王も、神からの使命を受けていた人でした。
ひとり一人に与えられた使命を果たすと、さらに大きな神のみ業につながっていくという原則を、聖書の中から発見できます。
エレミヤに主の言葉があったその背景に、ユダの王ヨシヤが関わっていました。この人物がどのような人生を送ったのか、第二歴代史三四章一節から読むとわかります。

「ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。」

ヨシヤは、八歳で王になったと記されています。そんな子どもに何が出来るのかと思いますが、彼の時代は三一年間も続いたのです。特に、この二節のことばは大変素晴らしいです。何故なら、この短い言葉の中に、彼の人生のすべてが表わされているからです。
やがては私たちも、この地上から出ていかなければなりません。去った時、その人物がどのように評価されるかは、とても重要です。私も、あと何十年かしたら、この地を去るでしょう。
実は先週一年一度の健康診断がありました。だんだんと年をとって、毎年のデータを見ると、「徐々に衰えているな、この延長線でいくとこのあたりで着陸かな」と思います。
私が一生を終えた時、どのように評価されるのか楽しみです。きっと、新城教会の週報の片隅に、「滝元順死亡」というくらいの知らせが出るかもしれません。
このヨシヤはどのような評価であったかというと、「彼は主の目にかなうことを行って、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった」と評価されています。
人生は一度しかありません。ヨシヤと同じような人生を歩みたいものです。「彼は主の目にかなう事を行って、イエスキリストの道に歩み、右にも左にもそれなかった」と評価されたら成功です。
「滝元順は、主の目にかなうことをたまには行っていたが、時々、右と左に大きくそれた」と記されたら、まずいわけです。ヨシヤの人生は、この一行を読んだだけで、すべてがわかります。

近頃は車にカーナビがついています。それは便利なもので、目的地さえ設定しておけば、カーナビの言うとおりに運転すれば、放っておいても目的地にたどり着くわけです。私も、色々な所に旅をする事が多いですから、車にはカーナビがついていています。カーナビをつけると、なかなか道を覚えなくなりますが、便利です。推奨ルートが提示され、効率よく目的地に行けるわけです。時々道を間違えて、変な方向に行くことがあっても、必ず元の道に戻されます。
神は、私たちにゴールを備えておられます。ひとり一人に対する目的も備えられているのですが、時々、私たちは神の定められた道から外れてしまう事があります。右や左にそれてしまいます。しかし、神の霊である聖霊様は、私たちをもとの道に戻す係です。

教会に来る時は悲しいことや苦しい事、問題が起きてから来るのが多いのですが、問題が起きるとは、“元の道に戻そう”とする働きかけだと思います。色々な事を通して、神の道に立ち返るのです。神のみ心を求めなければならない事に気づき、神の道に立ち返っていくわけです。問題を体験したくなければ、ヨシヤのように常に、神が定めた道の真ん中を歩けばいいのです。右や左にそれると、聖霊様は、人生道路に再検索をかけ、もう一度もとの道に戻されるのです。道を曲げられる時、痛みがあるわけです。ですから、決して道を曲げられないように、まっすぐに歩んでいくことが必要です。
ヨシヤは、右にも左にもそれず、人生を歩むことができたわけです。そして、第二歴代史の三四章三節に、

「彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。人々は彼の面前で、バアルの祭壇を取りこわした。彼は、その上にあった香の台を切り倒し、アシェラ像と刻んだ像と鋳物の像を打ちこわし、粉々に砕いて、これらのいけにえをささげた者たちの墓の上にまき散らした。」

とあります。
 イスラエルの歴史を見ますと、国が栄えた時代と、問題があった時代とを、交互に見る事が出来ます。問題があったのがどのような時代かというと、実は、国が偶像礼拝に傾倒した時、必ず問題が生じました。しかし、偶像礼拝から離れた時代は、国に神の恵みが溢れたのです。偶像礼拝は本当に恐ろしいものです。

日本には偶像が溢れており、特にこのゴールデンウイークは各地で色々な偶像の祭りがあり、多くの人が祭りへ参加するために車を走らせています。
偶像は手で作った物体ですが、あんなものが神だとは普通は考えられません。石や木や金属で作った物体が、「自分の助けになる」など普通では考えられないことです。
しかし、日本ではこの偶像礼拝が、二千年以上続けられているわけです。どうしてかというと、自分の助けにはならない事などは承知していますが、拝むと、何らかの霊感を感じるわけです。人間以上の崇高な霊が来たような感覚を覚えるわけです。日本人、東洋人は霊的な体験をする人が多いです。科学にも学問にもなりませんが、仏壇や石の地蔵や手で作ったものを拝むと、何らかの“感覚”を覚えるのです。それで、「カミサマがここに来ているのでは・・。助けてくれるかもしれない」と期待して拝むのです。何も感覚がなければ、拝む人はいなくなるはずです。

しかし、そこで感じる感覚は、本物の神を感じているではなく、神のふりをし、先祖ふりをし、実は人間を苦しめようとする、悪魔、悪霊を感じているのです。その結果、何が起こるかというと、目に見えない世界で扉が開いて、悪の力が人生に侵入するわけです。それで問題が生じるのです。

先週、私はハワイに行きました。二日半、ハワイで休んできた・・・というのは冗談で、二日半で四回の集会をし、その間にも多くの方の解放の祈りをさせて頂きました。本当に忙しかったです。
ハワイはパラダイスと言われ、景色は美しい所ですが、そこに住んでいる方々と話をすると、ハワイはおよそパラダイスではなく、むしろ、「地獄ではないか」と思えるくらい、問題を抱えた人々が多いのに驚かされます。人生に傷つき苦しみ、日本から逃げ出すようにしてハワイに移り住んだ人々が多いのです。そのような方々とお話しさせて頂くと、「大変な人生だ。・・・本当にお気の毒だ」と言うしかない程、悲惨な人生を送っている人たちが多くいます。それも、ちょっとした瞬間に人生の方向が、悪く変わったのです。しかしそれは偶然ではなく、悪魔の綿密なプランがすでに組み込まれていて、あたかも押し出されるかのように、不幸な出会いが重なるのです。

あるご婦人から話を聞くと、ご主人から“DV”、いわゆる家庭内暴力を受け、苦しんでおられました。彼女は国際結婚をし、華やかな生活を始めたものの、やがて主人が麻薬を使うようになり、何度も刑務所に入り、日本に逃げ帰らなければならないなど、多くの苦しみに出会ったそうです。しかしやはり日本女性というのでしょうか、離婚せずに耐えておられました。本当に、大変だと思いました。その方はご主人を愛しておられ、何とか救われて、一緒に生活出来るように祈っておられました。
「あなたはどうして結婚されたのですか」と聞くと、ある日、観光名所にどうしても行きたいと思い、無理にその場所を訪れた時、一人の男性と出会ったそうです。それが現在の主人でした。
「もしもあの時、あの場所に行かなかったら、今はない」と言われました。ほんのちょっとしたきっかけで、大きな苦難を味わう羽目になったのです。
どうしてそんなに悪い出会いが起こるのでしょうか。一連の出来事は偶然ではないように感じます。悪霊に対して扉が開かれると、そのような事が起こりやすいのです。その最も大きな原因が偶像礼拝です。家族が偶像礼拝から離れない限り、勝利はやって来ません。

実に、見える偶像には、見えない霊的な力が関わっています。ヨシヤ王様の功績は、国中にあった偶像を全て取り除いたことです。すると、国に平和が訪れたわけです。実に、敵は見えるものではなく、見えないところに存在していたわけです。

現在、世界中の人々がまさしく、見えない敵に怯えています。私は何も知りませんでしたが、先週の火曜日に帰国した際、成田空港で飛行機からなかなか降ろしてもらえませんでした。何事かと思ったら、メキシコで、“豚が鼻水を垂らした”のが原因でした。世界中がパニックしていました。
友人のジョー・ハイト先生が以前、「メキシコにとりなしの祈りに行かないか。メキシコに大きな霊的ポイントがあり、日本とも関わりが深いから、一緒に祈りに行こう」と言いました。私は忙しかったので、日程について答えませんでした。私はそれを思い出して、今回ハワイからジョー先生に電話して、「先日のメキシコの話ですが、韓国ミッションが終わったら時間が取れると思うので、六月にメキシコに行きませんか?」と言うと、「それはまずい、やめた方がいい。秋くらいにしよう。」と言うのです。
たぶん彼は、私が冗談で言っていると思った事でしょう。今世界は、ウイルスという見えない敵に、脅かされています。つい先日は、鳥が咳をした事で怯えていましたが、今度は豚が鼻水を垂らした事で苦しめられているわけです。

冗談ではなく、豚インフルエンザの被害が拡大しないように、真剣に祈らなければいけません。ウイルスが来たら、すぐに広がるそうです。韓国に患者が出ました。もしもそれが国内に広がったりすれば、韓国ミッションどころではなくなります。日本にも広がれば、礼拝も出来なくなります。一昨日も、麻生首相がそのような趣旨のことを発言していました。現に、メキシコでは、教会の礼拝も全てストップしているそうです。
実に、見えない敵によって、世界中が苦しめられているのです。それは、ある意味で、預言的だと思います。人類の敵は見える存在ではなく、見えない敵が真の敵なのです。

実に、人類は豚や鶏に苦しめられているわけですが、何故、こんな事が起きるのか・・・。様々な医学的、疫学的な説明があるとは思いますが、私は、霊的原因もあるように感じます。
人類が神に創造された時、神は人にどのような権威を与えたかというと、「海の魚、空の鳥、地を這う、全ての生き物を支配しなさい」という、生き物を支配する権威を与えました。
それは地上に生息するすべての生き物を指していますから、本来は、バイ菌やウイルスも含まれているはずです。人間はそれらの見えにくい生き物をも、支配出来るはずです。
しかし、実際は支配出来ていないのです。バイ菌やウイルスを支配できず、逆に支配されているのです。どうしてそんなものが強くなってしまうのか・・・。私は偶像礼拝に理由があるような気がしてなりません。

日本の偶像礼拝を見ると、多くの場合、何を拝んでいるかというと「動物」です。動物を礼拝すれば、権威の逆転が起こるわけです。本来支配すべき生物を、自分の上に権威づけることになりますから、顕微鏡でしか見えないようなウイルスでさえも、支配できなくなってしまうのではないでしょうか。メキシコにも多くの偶像があります。
また、韓国リバイバルミッションのためにも、私たちは祈らなければいけないと思います。韓国では祖先崇拝が活発に行われますが、豚を先祖の霊を呼ぶための道具として用いています。霊能者は豚を祭壇に乗せ、悪霊を引き下ろす祈りをします。その豚肉を切り刻んで、霊のお告げどうりの場所に持って行って捧げ、残りの肉を食べるのです。悪魔は動物を礼拝させる事を通して、人類から権威を奪い人に関わるのです。

ヨシヤ王は国中の偶像を破壊しました。その時期がいつであったかというと、彼の治世の第12年でした。「ユダとエルサレムをきよめ始め、高き所、アシュラ像、刻んだ像及び鋳物の像を除いた」と記されているように、彼は宗教改革を実行しました。これは彼の治世の12年目ですから、20歳の時です。彼はまだ若かったですが、国を改革しました。
そしてその翌年何が起こったのかというと、先ほど読んだように、「アモンの子、ユダの王、ヨシヤの時代、その治世の第十三年にエレミヤに主の言葉があった」と記されているように、国を覆っている黒い雲が無くなったかのように、エレミヤに神のことばが届くようになったのです。ヨシヤの功績を土台として、エレミヤが神からのことばを受け、人々に告げる様になったのです。

ここで、ひとり一人神様からの重要な使命が与えられている事がわかります。教会はキリストの体であり、ひとり一人が各器官だと教えていますから、今日ここにおられるひとり一人に使命を与えておられます。人間の体は、さまざまな器官から構成されていて、一つも欠けてはならず、それぞれに役割があります。それぞれの器官が健康で、役割を果たしていたら、生命が維持されます。
同じように、私たちにもキリストの体の中での役割が与えられていて、それぞれに重要な使命があって、それを果たすようにと願っておられるのです。そして、各自が使命を果たされる時、他の人たちの使命も動きだし、それが総合されて素晴らしい主のみ業につながっていくのです。

ヨシヤは二十歳でこの事を行いました。また、エレミヤは、「私は若く、まだ無理です」と言いました。エレミヤはこの時、二三歳くらいであっただろうと言われます。しかし、「あなたを国々への預言者と定めていた。」と神からの使命が与えられました。この教会にも、若い方々がおられますが、神は言われます。「まだ若いと言うな」と。若くても使命があるのです。その使命に生きてください。
年をとった方は、「私は年寄りですから」と言いやすいですが、「年寄りだと言うな」と言われます。
また「私は忙しいです」という人には、「忙しいと言うな。あなたには使命がある」と。それぞれに、主は語られるのです。

ヨシヤが偶像礼拝から国を救いました。その時、その世代に注がれていた神の怒りが消え、災いが直前で止められたのです。
偶像礼拝は三代、四代に呪いが引き継がれますから、ヨシヤの改革はその祖父である、マナセ王の偶像礼拝によるものでした。マナセが行った不法のゆえに、何とヨシヤの世代に神の怒りが注がれようとしていました。しかし、ヨシヤが率いた改革により、何とそれが止められたのです。
エレミヤ書一章を読みますと、エレミヤに主のことばが臨んだ時のことが記されています。次のように語られています。

「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」

そして引き続き、十一節から、

「次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」 すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」 再び、私に次のような主のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」すると主は私に仰せられた。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。」

エレミヤに主のことばが臨んだ後、神が「エレミヤ、あなたは今何を見ていますか」と問いかけられました。ちょうどその時、エレミヤは目の前にあったアーモンドの枝を見ていました。エレミヤは神に答えて、「私は今、アーモンドの枝を見ています。」すると神が言われました、「よく見たものだ。」
ただ、アーモンドの枝を見ただけでも、神は、「よく見たものだ!」とエレミヤを褒められました。なぜなら、アーモンドの枝を見るとは、別の意味がありました。アーモンドは語源に、「見張る」という意味があります。
神はエレミヤに、“見張り人”としての使命を与えたのです。彼は普段の生活の中で、色々な物を見ていたのですが、神との出会いにより、見張り人としての使命が与えられたのです。
またエレミヤが、煮え立っている窯が北の方からこちらに傾いている光景を見ていた時、神は言われました。「北から災いが来る。あなたはとりなして祈りなさい。」
この時代に与えられている使命は、アーモンドの枝を見る使命ではないかと思います。すなわち、「見張り人」という使命を神がひとり一人に与えているのではないかと思います。

今日はここに三百数十人の方がおられますが、目の数でいうと七百個くらいが集まっています。今週一週間、私たちはその目で色々な物を見るかもしれません。その時ただ表面的に見てはいけないと言う事です。私たちはそれぞれ遣わされた場所で、見張り人として使命を果たさなければいけないのです。
先ほども言いましたように、今は本当に目に見えない敵に脅かされている時代です。テレビをつけても、不安になるようなニュースでいっぱいです。私達はそれをただ単に、テレビの中のニュースとして見てはいけないのです。この時代を霊的な目で見、アーモンドの枝を見る“見張り人”として、神に用いられなければいけないのです。日本においても、韓国においても、見張り人として働かなければなりません。日本側から韓国を見張らなければいけないし、韓国は日本を見張らなければいけない、それはただ単に表面を見るのでなく、霊的世界の見張り人にならなければならないのです。

そして、この見張り人にはどのような権威が与えられているのかというと、次のように述べられています。エレミヤ書一章九〜十節。

「そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」

エレミヤに与えられた権威は、ただ単に見張るだけでなく、ある時は引き抜くことが出来、ある時には引き倒すことが出来、ある時は滅ぼすことが出来、ある時は壊すことが出来る、しかし、ある時には建て直し、植え替えることが出来る権威でした。それも国々の上に立つ権威をエレミヤに与えられました。

今日、私たちはエレミヤと同じように、アーモンドの枝を見る見張り人であり、与えられた権威によって、北からの災いを引き抜き、引き倒し、壊し、逆に、回復する使命が与えられているのです。
今、日本にウイルスが向かっている時期かもしれませんが、まことの神だけに膝をかがめている者たちには、そのような問題は決して近づくことが出来ません。敵の力を引き抜き滅ぼし、逆に、立て直すために主は用いて下さるという事です。
世界中に問題が起こっていますが、主がクリスチャンに願っておられることは、「アーモンドの枝を見る者になりなさい。」ということです。上からの権威を受け取り、神の国を建てあげ、回復させる働きをさせようとしておられると信じます。

正に、韓国リバイバルミッションの働きは、そのようなものです。過去に悪魔が韓国と日本の間に立てた壁を引き抜き、引き倒し、壊し滅ぼして、今度はもう一度回復する使命を日本教会に与えておられると信じます。その事がなされる時に、韓国と日本が一つとなりアジアと世界に向けてリバイバルが拡大していくと信じます。

「私には関係ありません」とは言わないでください。やがて私が天国に行った時、あなたに与えられていた“使命”が何であったか、はっきりする時が来ます。意外に大きな使命が与えられていたことに気づき、唖然とするのではないかと思います。
「神様、私はただ単に、あの店で働いていただけです。私は大した人間ではありません。」
「いや、わたしはあなたをあの店に、見張り人として遣わしたのです。あなたがエレミヤのように権威を使ったら、世界の歴史は変わったのですよ。しかしあなたは、その権威を使わなかったでしょう。だから大きな問題が起きたのですよ。」とは、言われたくないと思います。私も、この教会の牧師として働かせて頂いておりますが、神から与えられている使命を一〇〇%実現する者になりたいと願っております。それは一人で実現できるものではなく、エレミヤとヨシヤが関連していたように、兄弟姉妹との関連によって働きたいと願っています。

ゴールデンウィークの期間は、職場や持場から離れる時でもありますが、もう一度、私たちが遣わされている現場に主が持っておられる使命について、考え、祈り、エレミヤと同じ油注ぎをもって、出かけたいと思います。

最後に一言お祈りして、礼拝メッセージを終わらせて頂きたいと思います。そして聖餐式を持たせて頂きたいと思います。

 ハレルヤ、天の父なる神様、み名をあがめ、心から感謝します。あなたが私たちひとり一人に、重要な使命を与えられておられる事を心から感謝します。このヨシヤの時代に、エレミヤが使命を受けたように、主よ、ひとり一人に与えられた使命を全うさせて下さい。今世界に危機が迫っています。私たちがアーモンドの枝を見る者となれますように。見張り人となることが出来ますように。そして、与えられた権威を使う事が出来ますように。遣わされた現場において、エレミヤと同じように、使命を果たさせて下さい。イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。

 しばらく皆さんとご一緒にお祈りしたいと思います。皆さんが一番長く時間を過ごしている現場について考えて下さい。ビジネスを行っている方ならば、会社が関心の中心だと思います。また主婦の方ならば、家庭が関心の中心であると思います。そこに必ず、神の重要な使命があるのです。エレミヤと同じように、アーモンドの枝を見張る使命があるのです。「置かれている場所で使命を果たさせて下さい」と、お祈りしましょう。そして、聖餐式を行いたいと思います。ご一緒にお祈りします。


[バックナンバー]