「心配無用!」


2009.5.10(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

詩篇55編22節
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」

ハレルヤ!今朝は粟野貢司さんとめぐみさんの素晴らしい賛美を聞くことができました。午後からは、たっぷりと聞くことができますので、期待して下さい。
賛美の中で、「あなたに出会えて良かった」という歌詞は、根本的にはイエス様と出会ったことですが、お互いに会う事が出来て感謝です。教会は大きなファミリーです。イエス様によって出会い、一つになれる場所であることを心から感謝します。喜びも悲しみも共に分け合い、互いに仕え合う姿は、世の中のどこにもありません。
今日は皆さんと共に、詩篇五五編二二節を中心に学びます。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」というみ言葉から、「心配無用!」というタイトルでメッセージを語らせて頂きます。初めて教会に来られた方も、気軽に聞いて頂きたいと思います。

先週はこの教会で、「五五時間連鎖賛美」という集会がありました。とても恵まれました。私も所々、参加させて頂きました。本当に主の臨在が強く、「主は生きておられる」という事を実感する賛美集会になりました。
主が私たちのことを心配して下さっています。なんと素晴らしいでしょうか。「あなたの事を心配していますよ」と言われても、励ましにしかなりませんが、神様が私たちのことを心配して下さっているのは、「支えて下さる」という意味です。

この頃は心配が多いです。豚インフルエンザも、どんどん広がっています。メキシコから始まって、たった二週間で全世界に広がったと言われています。不幸中の幸いというか、弱毒性だということで一安心していますが、毒性が強いものであれば、全人類が滅亡するかもしれないくらいの危機です。
WHOの発表では、「フェイズ五」にあります。「フェイズ」とは、「段階」という意味で、豚インフルエンザの危機が、六段階中、第五段階にまで来ているということです。フェイズ五の意味は、「人から人への相当数の感染、複数の国家での感染を認めるだけの証拠が存在するパンデミック(世界的、爆発的感染)へと発展する可能性が高く、早急に大流行への計画的な対策を講ずる必要がある」と規定されています。
そして現在「フェイズ六」、すなわち一番上の段階に移行するか、しないかで検討がなされているようです。これを、「グローバル・パンデミック」と呼び、いわゆる世界大流行です。フェイズ五は、世界規模で豚インフルエンザが拡大し、人類がその病気に苦しむ前兆であるのです。
疫学者によると、フェイズ六は「避けて通れない」といいます。本当に心配です。フェイズとは、「段階」という意味ですが、phase[feiz]とつづりますが、同じ発音でfaze[feiz]という単語があり、それは「心騒がす」という動詞です。その言葉と上手くひっかけています。心配レベル五、あと一つ上がれば、全世界が絶滅するかもしれないという程の危機に、人類は直面しているわけです。

この時代にあって、私達は色々と考えさせられます。人は目に見えないウイルスがあちこち飛び回るだけで、倒れていくような弱い存在であるわけです。目に見えない敵に怯えているのです。
先週も、アメリカから帰った日本人が三人が感染しました。私は先週、韓国に行きましたが、米国系の航空会社の飛行機を見ただけで、ウイルスのかたまりのように見えて、避けて通りたいような気分になりました。
日本人は案外、危機に弱いのではないかと思います。韓国で日本人はすぐにわかります。なぜなら、マスクをしているからです。不安が詰まっているのが日本人ではないかと思いました。

しかし、私たちクリスチャンは素晴らしい事に、「神が心配して下さっている」と約束されていますから、我々は神のみことばの上に、約束の上に、土台を置かなければいけません。どんなことが起きようとも、主があなたの事を心配しておられる、と信じなければなりません。「主は決して、正しいものが揺るがされるようにはなさらない」とありますから。

さて、「正しい者は揺るがされない」とありますが、今度は、「正しいかどうか」が問題になります。しかし、イエスさまが私たちの罪の身代わりになり、十字架にかかって死んでくださったのですから、多少汚れがあったとしても、十字架の血潮によりきよめられ、義と認められ、正しいと見なされるわけです。ゆえに、このみことばは、「主を信じる者たち」に対して語られているみ言葉です。

ヨハネの福音書十四章一節にも、大変素晴らしいみことばがあります。これは、イエス様が十字架にかかる前、心騒いでいた弟子達に語られたことばです。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

 私たちは時々、心を騒がせることがありますが、そんな時に主は私たちに語られます。「あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じ、また“わたし”イエス・キリストを信じなさい」と。

誰かが気遣ってくれる、心配してくれるというのは、とても嬉しい事です。“愛”とは何かというと、やはりある人に対して気遣っているかどうかだと思います。「愛していますよ」と言っても、何の気遣いもなければ、愛ではありません。気遣っている、気になっている、それは愛している証拠です。
先週も婚約式がありました。なかなか楽しい婚約式でした。カップルはお互いを気遣います。T君も、Mちゃんのことを本当に気遣っています。この五月から、彼は教会のスタッフ研修生になりましたが、私は彼が、イエス様を一番に愛しているかどうか心配です。誰かを愛していたら、その人の事が気になって気になって、しょうがないわけです。
「愛されています」という賛美を聞きましたが、イエス様は私たちのことが気になって、気になって、しょうがないわけです。皆さんも、家族のことや、友達、愛している人のことを気になると思います。もし何かあれば、「大丈夫かな、何とかならないか」そういう気持があるのではないでしょうか。
私はこの頃、孫の事がやはり気になります。先週も孫が三九度くらいの熱を出し、「もしかして豚インフルエンザじゃないのか…」などと、色々、心配し祈ったりしました。
また、娘が結婚して妊娠したと聞いて、「お腹の赤ちゃんはうまく育っているのか…」と、気になるわけです。やはり、家族の事が気になるわけです。そして、新城教会の兄弟姉妹のこともたいへん気になります。韓国に行っても、新城のことをいつも思って祈っています。“愛する”というのは、気遣う事です。神様が私たちのことを、「心配して下さっている」のです。そればかりか、「あなたの重荷をゆだねなさい。」と語られています。

時々私たちは、自分で重荷を抱え込んでしまって、ゆだねる事が出来ない事があります。しかし、私たちは、すでに主のみ手の上で運ばれているのですから、「心配しないでその荷物を下ろしなさい」と言われるのです。

前にもお話しした事がありますが、ある時、トラックの運転手が大きな荷物を背負った、おばあさんが道を歩いているのを見かけたそうです。それで、親切な運転手さんは車を止めて、おばあさんを荷台にのせてあげたそうです。おばあさんは、「本当に申し訳ありません」と言い、荷台に乗りました。
しばらく走ってバックミラーで見ると、なんと、おばあさんは、荷台に荷物を背負ったまま、座っていたそうです。それで運転手さんは車を止めて、「おばあさん、荷物を下に置いて下さいよ」と勧めると、「いや、車に乗せて頂いて、その上荷物まで下ろさせていただいたら、申し訳ない」と答えたそうです。
おばあさんの気持ちも、わからないではありませんが、トラックの上に乗っていれば、荷物もすでに運ばれているのですから、遠慮せず降ろせばよいのです。

私たちも案外、そういうところがあると思います。永遠の神のみ手の中に抱かれ、運ばれているのですが、「この荷物は自分で背負う」とがんばってしまいます。徳川家康のように、「人生とは重い重荷を背負って遠い道を行くことだ」と頑張るのです。
聖書は、「あなたが背負っている荷物を降ろして下さい」と語っています。英語の聖書では、「Cast your burden on the Lord」となっています。「Cast」とは、「投げる」という意味もあります。時々、政治家が官僚に問題を丸投げしているとか聞きます。丸投げは良い意味では使われません。しかし私たちは、神様にすべての問題を丸投げしてよいのです。

重荷を、「イエス様、あなたに任せます」と、お委ねすれば良いと教えています。マタイ六章三三節〜三四節は大変有名なみ言葉です。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

人生において、何を中心に求めるべきか・・・。色々な事があれば、その問題を一番考えやすいのですが、「神の国と神の義」を第一に求めたら良いというのです。神を熱心に求めたら、全てが付け加えられるというのです。
先週の五五時間賛美は、本当に祝福されましたが、その理由は、神を真剣に求めたからです。普段の生活の中でも、主を真剣に求めるならば、「すべてが加えられる」のです。

「明日のための心配は無用です。明日の心配は明日がします」とは、面白い表現です。私たちは瞬間しか生きる事ができない動物です。明日はどうなるのかわかりません。もしかしたら、明日は来ないのかもしれません。しかし、「明日」とは、神ご自身のことです。明日を確実に持っておられるお方、それが、天地宇宙を造られた神、イエス・キリストです。私たちは、明日を持っていませんが、神様は明日を確実に持っておられます。「今日のことだけを考えて生きていきなさい」と語られています。このように、気持ちを整理して歩むことが出来たらすばらしいですね。
しかしそれは、ただ言葉の遊びではなく、本当にそのことをなして下さる神が共におられるからです。

“心配する”というギリシャ語の概念の中に“分解する”という意味が含まれているそうです。私は物を分解するのが大好きです。機械などをちょっと分解してみたい性格です。「どんな構造になっているのか・・」と興味があります。私は工学部の出身で、構造に興味があります。大学の時は構造工学を専攻していました。ですから、分解が好きです。(しかし、組み立てるのは不得意です) 
案外、心配というのは、一つの物事を分解することによって、ウイルスのように増大します。
以前、この教会に来ておられた、一人のおじいちゃんがいました。私は彼をよく訪問しました。おじいちゃんは少し心臓が悪くて、訪問するといつも同じ位置に座って、暗い顔をしていました。こたつの上には、いつも一冊の分厚い本が置いてありました。聖書かな、と思うとそうではなく、「家庭の医学」という本でした。そして自分の身に起きている症状を、一つ一つ調べ、「お腹が痛い?ガンかもしれない。腸のほうにも、いや、全身にすでに移転しているかもしれない・・・」と、家庭の医学を読みながら、いつも心配していました。話すことと言えば、現在の自分の症状から、「どのような重大な病が隠れている可能性があるか」という事でした。
私はいつも、「おじいちゃん、あまり心配しなくてもいいよ。もう、十分生きたことだし、こんな家庭の医学などで縛られるより、聖書を読んで自由に生きた方がずっといいよ」と言うのですが、「いやいや心配で・・・」と、いつも病気を恐れていました。
しかし、それにもかかわらず、彼は九〇歳ぐらいまで長生きました。家庭の医学を読むより、もっと自由に生きたら楽しかったはずです。おじいちゃんは、七〇歳から九〇歳まで、ほとんど毎日同じ場所に座って、家庭の医学を読みながら心配しながら人生を終えました。とにかく、そのおじいちゃんは一つのことを分解するのが得意だったわけです。

案外私達も、色々な事が起こると、分解して心配します。子供が病気になれば、「重大な病ではないか・・・、ああなったら、こうなったら・・・」と、たくましい想像力を働かせて、どんどん問題が大きくなるのです。でも、神様は何と言われるかというと、詩篇六八編十九節に、

「ほむべきかな、日々、私達のために重荷を担われる主。私達の救いであられる神」

これを新共同訳聖書で見ると、「主をたたえよ。日々、私たちを担い、救われる神を」となっています。私たちの神は、日々、刻々、私たちを担って下さるお方です。
有名な詩に、「砂の上の足跡」というのがあります。これは大変有名で、多くの人々を励ました詩です。

「ある晩、男が夢を見ていた。夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えて行った。どの場面でも、砂の上には、二人の足跡が残されていた。一つは彼自身のもの、もう一つは神のものだった。人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼は振り返り、砂の上の足跡を眺めた。すると、彼の道のりには、一人の足跡しか残っていない場所がいくつもあるのだった。
しかもそれは、彼の人生の中で、特に辛く悲しい時におきているのだった。すっかり悩んでしまった彼は、神にその事を尋ねてみた。
『神よ、私があなたに従って生きると決めた時、あなたは私と一緒に歩いて下さると仰せられました。しかし、私の人生の最も困難な所ではいつも一人の足跡しか残っていないではありませんか。私が一番、あなたを必要としていた時、なぜあなたは私を見捨てられたのですか。』
神は答えた。『わが子よ、私の大切な子どもよ。私はあなたを愛している。私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみの時に一人の足跡しか残されていないのは、その時は、私があなたを背負って歩いていたのだ」

ときどき苦しい事があったりすると、神は自分から離れてしまったのではないか、一人ぼっちではないか、そんな気分になることがあります。でもその時、神様はこう言われます。「足跡をよく見て下さい、それはあなたの足跡ではなく、わたしの足跡です。普段の足跡よりも、深くめり込んでいるでしょう。それは、あなたをかついで救いだしたからです。」

この詩は誰が作ったのかわからないと言われていましたが、カナダのご婦人が作ったというのが判明したそうです。どんな時に判明したかというと、この詩を作った婦人が、ご主人と子どもと共に海難事故に遭い、大変な試練に投げ込まれました。幸いにも救助されて、命は助けられたのですが、病院で看護士さんが、「この詩を読むと励まされますよ」と言って、彼女にこの詩を紹介したそうです。それは、かつてその婦人が作った、「砂の上の足跡」という詩だったというのです。

この「砂の上の足跡」は感動的な詩ですが、聖書に照らし合わせると、少し違います。何故なら、先ほどの聖書のみことばには、何と記されていたかというと、「日々私たちを担い、救われる神を」となっていました。
大変な時だけ、担いでくれる神ではなく、「日々担って下さる神」なのです。ですから、この詩以上に素晴らしいのです。日々私たちを担い、救いだして下さる神が共にいて下さる、その事を知るだけで励まされます。

今日は「母の日」です。先週は子どもの日、今日は母の日で、お母さんに感謝する日です。お母さんが子どもを背負っている姿を、昔はよく見かけました。同じように、神様は私達を背負って、どんな状況の中かせらも助け出して下さいます。

今、私たちは「韓国リバイバルミッション」の働きをさせて頂いています。先週は四日間ほど韓国に行って、集会もしましたが、同時に本大会に向けて、決めなければならない事柄を韓国側と話し合いました。本当に忙しく、中々苦労が多かったです。やはり日本とは習慣や文化も違い、韓国では物事の決定の仕方が日本とは違います。日本では一つの物事を決めるのに、持ちかえってよく練って、また持ちかえってその結果をよく話し合うという方式ですが、韓国の特に古い世代の物事の決定の仕方は、トップ同士が会って「即断、即決」方式です。決定したら、その場で携帯電話で人を動かすというような、日本とは違ったスタイルです。私達も最初はなかなか戸惑ったのですが、この頃は慣れてきました。李浩文先生と話し合うのにも、(私はトップでも何でもありませんが)リバイバルミッションでは、私と平岡先生が行くしかないです。その場で即決しなければならない事が多くあり、平岡先生と顔を見合せては、「どうする」など言いながら、話を進めています。
先週は、仁川の色々な教会の役員の方々、長老さん方をお招きして集会を持ちました。四〇〇人くらいの方々が来られ、決起集会を持たせて頂いたのですが、本当に燃えた集会となりました。韓日が一つになって、このような集会をする事は、歴史上初めてのことです。中には、「何故、日本人がするのか」というような、戸惑いも現地にはあります。しかし、本当に大きなインパクトです。

やはり日本人として、国から一歩出ると、「国を代表する立場」になるわけです。韓国に行けば、日本はかつて韓半島で色々な問題を起こしましたから、それを代表するような人物になってしまうわけです。
先週もある集会に行きましたが、そこには、かつては日本の教育を受けたような、お年寄りの方々が多くおられました。私はメッセージをさせて頂きました。途中で八〇代のおばあさんが突然立ちあがり、「私は絶対、日本人なんか赦さないぞ!」と叫んだのです。通訳の先生が、「集会が終わってから話しましょう」と言ってなだめて下さいましたが、険悪な雰囲気になりました。しかしその時にめげていてはいけないのです。どうしてそのような事になったのかと、歴史的な事柄を話して、「共通の敵であるサタンに立ち向かいましょう!」と最後までメッセージを続けました。

集会が終わると、そのおばあさんが私の所に来て、「本当に申し訳ありませんでした。変な事を言って」と謝られました。和解の務めを果たす事が出来ました。「ここは最前線だな」と、時々感じさせられるわけです。
日々色々な重荷を負いながらやっていますが、それらを全て自分で背負い込んでしまったら、ノイローゼになってしまうかもしれません。しかし主が共にいて下さって、主が日々負って下さると信じています。日々、重荷を降ろして歩んで頂きたいと思います。

世界で最も大きな重荷を負った人物といえば、もちろんイエス様ですが、やはり「モーセ」だと思います。モーセはパロの支配下にあった一〇〇万人ものへブル民族を解放し、エジプトから連れ出したわけです。それが何歳の時かというと、なんと「八〇歳」でした。八〇歳でそれだけの人数をパロの手から解放し、連れ出したというのは驚きです。よほど呆けていたのか、よほど頭がおかしくなければ、そんな事は出来ないと思います。それもどこへ連れ出したかというと、砂漠へ連れ出したのです。砂漠に一〇〇万人もが食べる食物があるのか、それをわかっていたのか?と聞きたくなります。しかしよくぞやったものです。

私の父は今年で八〇歳になります。今回は父と一緒に韓国へ行きました。私は飛行機を予約する時、非常口の席を予約します。そこは足を投げ出せるのでよいのです。カウンターで父の分と二人分予約しようとしたところ、窓口の人が父の顔を見て、「この方は何歳ですか?」というので、「八〇歳です」と言うと、「八〇歳では非常口の前には座れません。非常事態に対応できませんから」と言われ、断わられました。
普通八〇歳で民を先導するなどという仕事は絶対に無理です。しかし、モーセはそれをやり遂げたのです。
彼は民を砂漠に連れ出しました。民から文句が出ないはずはないのです。彼は初めは元気に進んで行きましたが、だんだんパワー・ダウンしました。イテロが心配して、「モーセ、組織を作った方がいい」と勧めました。それで組織作りをしました。何せ生活の現場が砂漠ですから、皆が何を言いだしたかと言うと、「何故俺たちをこんな砂漠に連れ出したんだ。肉が食いたい、魚、にんにく、きゅうりが食いたい〜」と文句を言い始めました。
それで民を連れ出した二年後を見ると、彼は大分へこんでいます。民数紀十一章十一節、

「モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。」

モーセには重荷が多かったのです。しかしモーセはこの難局を切り抜けることができました。なぜ出来たのでしょうか。それは彼が聖霊に満たされていたからです。続いて、彼が受けていた聖霊の油注ぎが、七〇人の長老たちの上に注がれ、その時、難局を切り抜けることができたのです。そして、問題が消え去ったのです。
皆さん、私たちは様々な局面に出会いますが、一番必要な事は、「聖霊の油注ぎを求める」事です。聖霊の油注ぎによって、重荷が打ち砕かれていくと聖書は告げています。イザヤ十章二七節、

「その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」

ここを他の聖書の訳で見ますと、「油注ぎによって砕かれる」となっています。私たちは色々な重荷を負って苦しみ、悩むことがありますが、聖霊の油の注ぎが来る時に、重荷が打ち砕かれます。問題がある時は何をすればよいか、それは、「神の国と神の義を求める」、すなわち、「聖霊の油注ぎを求め」なければいけません。聖霊の油注ぎを求める時、肩から重荷が落ちるのです。
毎週月曜日の夜は愛知県民の森で祈祷会をしていますが、それはどのような祈祷会かというと、聖霊の油注ぎを求める祈祷会です。聖霊の油注ぎが注がれると、問題があっても打ち砕かれていくのを体験しています。聖霊の油注ぎなければ、一歩も進むことが出来ません。聖霊の油注ぎがあれば、モーセの事を考えたらよく分かりますが、八〇歳で一〇〇万人も連れ出すことが出来たのです。偉業を成し遂げたのです。聖霊の油注ぎは、私たちの重荷を砕きます。

しかしエジプトから引き出された民は、色々と文句を言いました。時々私たちも様々な問題に出会うと、「何でこんな事になったんだ。こんな家に生まれたせいだ、この仕事のせいだ」等々、文句が出てきます。
実は、エジプトから引き出された民は、ある大切なことを理解していなかったのです。それが、自分たちが解放されたのは、ただ単に、奴隷から、重労働から解放されたという理解しかなかったのです。ですから、初めは感謝していたのが、荒野に出て同じような環境になると、また文句が出てたのです。
神はへブル民族をどこから解放したかというと、民数紀三三章四節、

「エジプトは彼らの間で、主が打ち殺された全ての初子を埋葬していた。主は、彼らの神々に裁きを下された」

と記されています。へブル民族が解放された決め手は、エジプトの長男がみな殺された事件でした。その意味は、「エジプトの神々に対する裁き」であったというのです。その結果、解放が起きたのです。

これは何を意味しているのかと言うと、時々、私達は表面的な様子だけ見て、苦しいことや悲しい事が無くなればそれでよいと思うのですが、ヘブル人達も、ただ重労働や、エジプトの支配からの表面的な解放しか考えていなかったのです。それで、また砂漠でつらい環境に出くわしたら、不平・不満が出たのです。
実はこの“解放”とは、表面的なものではなく、霊的解放であったのです。根本的には「エジプトの神々」すなわち、「エジプトを支配していた悪霊ども」からの解放だったのです。その結果として、彼らはエジプトから自由になりました。

霊的戦いに気づくと、重荷が軽くなり、心配がなくなるのです。私たちは表面しか見る事が出来ず、霊的な領域に対して理解がないので苦しめられるのですが、「この問題は見えない世界に発生源がある!」と気付かされたら、重荷が落ちるのです。

マタイ十一章二八節のみ言葉は、私たちに励ましを与えるものです。多くの教会が看板に掲げているみ言葉です。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

今日、もしも人生に疲れている方がおられたら、イエス様の所に来たらよいのです。この頃、日本でも自殺が多いですが、韓国も自殺する人が本当に多いです。有名な芸能人が、大勢自殺して社会問題になっています。今、世界規模で自殺する人が多くいて、その方々は背負いきれない重荷があったのです。しかし、もしイエス様のところに来たら、重荷を取り去って、休ませて下さいます。もしも皆さんの周りで、自殺するほど悩んでいる人がいたら、教会に連れてきて下さい。絶対に変わりますから。イエス様に出会ったら、人生が変わります。教会はそのための所ですから、もし、皆さんの周りに大きな悩みを持っておられる人がいれば、「教会に行きましょう。イエス様と出会って下さい」と勧めて頂きたいと思います。

それと共に教会に来ると、今申し上げたように、見えない敵の力がわかるのです。そうすると、イエス様と共に、敵に立ち向かい、その結果重荷が消えていく事を体験します。

実は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私の所に来なさい。私があなた方を休ませてあげます」という言葉は、案外、独り歩きしているのですが、聖書を読むときには“コンテキスト”文脈をよく見なければいけません。
この言葉が語られた背景は、マタイの十一章とルカの福音書を比べると、よくわかります。何週間か前に語らせて頂いたのですが、ルカ一〇章十七節〜二二節、

「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」

七〇人の弟子たちが宣教に出て行く前に、「あなた方を送り出すのは、狼の中に羊を送るようなものだ」と言われ、弟子達は恐れながら出て行きました。しかし結果は、“大勝利”でした。イエス様のみ名を使うと、悪霊どもでさえ服従し、弟子達は喜んで帰って来たのです。その時、イエス様が何と語られたかというと、マタイ十一章二七〜二八節なのです。

「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 これは、ルカ一〇章二二節と対応しているのです。七〇人の弟子達が、霊的戦いに勝利して帰ってきた後、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

と語られたのです。それは、私たちが敵の力に立ち向かう時に、その中で休みを得ることが出来、勝利を得ることもできると教えているのです。
霊的戦いの重荷は、決して重いものではないと教えているのです。案外、「悪魔や悪霊と戦ったら、恐ろしいのではないか」と思うかもしれませんが、実は、「その重荷は軽く、大勝利があり、もしも重荷があればイエス様が休ませ癒して下さる」のです。
霊的戦いに気付けば、重荷が消えていくう事を、全体的に教えているのではないかと思います。

私たちは、勝利ある人生を送ることが出来るのです。その約束をここに見る事が出来ます。今日、もしも心配があれば、全て主に委ねましょう。
最後にみなさんとご一緒に、もう一度詩篇の五五篇二二節を読み終りにしたいと思います。

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」

 「あなた」を“私”と置き換えて、大きな声で読んでみましょう。「私の重荷を主にゆだねよ。主は、私のことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
 主に大きな拍手を捧げましょう!ハレルヤ!

それでは一言、皆さんでご一緒にお祈りしたいと思います。立ちあがって、今日は、自分の持っている重荷を、主にお渡しする祈りをしましょう。皆さん両手を出して下さい。イメージとして、自分の持っている重荷を全部出したという気持で、「イエス様、私が持っている重荷を差し上げます。丸投げします。どうか、私を支えて下さい。この重荷の背後の敵の力を打ち破る権威を与えて下さっている事を感謝します」と、しばらくの間、ご自分の言葉で声を出して、祈りの時を持ちましょう。

今私たちは、自分の手に私たちの重荷を出しています。これをあなたに渡します。何一つ残さずにあなたに任せますから、受け取ってください。また、この問題の背後で働いている、敵の力に勝利する権威を授けて下さっていることを感謝します。蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を与えたと主は仰せ下さっています。感謝します。
今日は油注ぎの中で、全ての重荷が砕かれますように。すべての心配事がなくなって帰ることができますように。
主よあなたは日々私たちを背負って下さいますから感謝します。全ての重荷が取り去られ、自由な者として、多くの重荷を負っている方々のために、福音を伝えることが出来ますように。あの七〇人の遣わされた者たちのように、働くことが出来るようにお願いいたします。お一人お一人を祝福して下さい。イエス様の御名によって、感謝してお祈りいたします。アーメン!


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