「Mission Not Impossible/教会の使命」


2009.5.17(SUN)
新城教会 滝元 順牧師

第Uサムエル記 23章13節〜17節
「三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」 すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。」

ハレルヤ!おはようございます。今の石塚さんの賛美は素晴らしかったです。感動しました。
今も祈りの中にありましたように、韓国リバイバルミッション本大会開催まで、あと十二日と迫ってまいりました。
私は先週も、韓国に二日ほど行きまして、木曜日の朝七時から牧師先生方に集まって頂き、集会を持つことができました。「はたして朝七時から集まるだろうか」と心配していましたが、韓国には早天祈祷会があり、そのついでだから七時は牧師にとって都合の良い時間だそうです。一〇〇人位の先生方が集まって下さり、今度のミッションに向けて、「私たちの教会は本大会に何人を動員します」という、決意表明をする集会でした。私たちも韓国の先生方と共に祈ることができ、素晴らしい時でした。
私は明日からまた韓国に行き、今度は大会終りまで滞在します。皆さんとお会いできるのは、本大会の会場、もしくはこちらに帰ってからになります。是非とも現地に行かれる方も、行かれない方も、この歴史的な働きのために祈り、支えて頂きたいと思います。

今日のメッセージのタイトルは、スパイ映画の「ミッション・インポッシブル」に韓国リバイバルミッションを引っかけて、「ミッション・ノット・インポッシブル」にしました。ミッション・インポッシブルという意味は、「出来そうもない仕事」という意味です。それをあえてやる、というストーリーですが、私たちの働きは、「ミッション・インポッシブル」ではなく「ノット・インポッシブル」すなわち、不可能ではない仕事を、神は私たちに与えて下さっています。
リバイバルミッションといいますが、“ミッション”という言葉は、本当に素晴らしい意味を多く含んでいます。ミッションといえば車のトランスミッションのを思い浮かべる方もおられるかもしれませんが、第一の意味は「伝道団」です。ですからリバイバルミッションというのは、「リバイバルのための伝道団」という意味です。しかし、それだけではなく、ミッションには「使節団」という意味もあります。
昔、日本が中国に遣唐使という使節団を送りましたが、国を越え使節団を送るという、まさに今回、韓国リバイバルミッションは、「日本からの神の使節団」です。
また、「特殊任務」という意味もあります。これも今回の大会に当てはまるのではないかと思います。さらに、ミッションとは軍事用語でもあり、空軍が出撃する作戦を指すそうです。この働きにぴったりの言葉です。

そして、「ミッション」には「使命」という意味があります。使命に燃えて生きるのは大切です。皆さんはどのような使命に燃えて、人生を送っておられるでしょうか。「使命どころか、生き残りを賭けなければならない。リバイバルどころかサバイバルだ」という人もおられるかと思いますが。
最近、毎週のように話していますが、豚インフルエンザが大分拡がってきましたので心配です。今朝の情報によれば、感染者が十七人に増えたそうです。そして疑わしい人たちは百人以上だそうです。それも、大阪と神戸に多く発生しているそうです。怖いですね。それも、かかっているのが高校生が多いそうです。“豚と高校生”何の関連があるのかわかりませんが、我々のような年寄りはウイルスに対して何らかの免疫があるそうです。私も今や五八歳になりますが、五八年間、バイ菌やウイルスを食べてきた甲斐がありました。しかし中学生や高校生は新型に抵抗力がなく気をつけなければいけません。そんなに強い毒性はないそうで、それほど恐れなくても良いみたいですが。
しかし、私たちクリスチャンは、神のみことばに立たなければいけません。このような事態にも、みことばにたよって生活したいものです。

今日は“使命”について語る前に、皆さんと共にみことばを朗読したいと思います。私は祈りの中で主から示されましたので、お分ちしたいと思いました。今の状況にぴったりだと思います。それは、詩篇九一編一節〜十三節です。

『いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。 わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。 あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。』

このみことばは素晴らしいですね。三節から七節まで、もう一度読みたいと思います。「あなた」と書かれている所を「私」に置き換えて、ご一緒に読んでみましょう。

「主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、私を救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、私をおおわれる。私は、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。私は夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、私のかたわらに、万人が、私の右手に倒れても、それは私には、近づかない。」

主を信じる者には、主が特別に扱って下さり、襲いかかる疫病からも助けて下さるという約束ですから、たとえ、豚インフルエンザが押し寄せてきたとしても、恐れないようにしましょう。病や疫病が近づくことはできないというみことばと共に、戦っていきたいと思います。

人間は、「自分自身がどういうものであるか」という事がはっきりしていないと、生き甲斐が持てません。韓国は肩書社会であり、「どのようなポジションを持っているか」が大切です。ですから、誰かと出会えば、まずは名刺を出して、「私はこういう者です」と知らせるわけです。私も、韓国リバイバルミッションのために、ハングルで、「滝元順」と書いた名刺を作りました。「私はこういう者です」と渡すと、それを見て受け入れてくれたり、受け入れてくれなかったり、軽くあしらわれたりするわけです。
ですから、韓国側で仕事を統括して下さっている先生がおっしゃいました。「順先生、日本では肩書など並べ立てるとあまりよい印象ではありませんが、韓国では肩書がないと相手にしてもらえないので、上條先生や、岡本先生に何か日本側で肩書きをつけてくれませんか。順先生は“実行委員”という肩書で十分だと思いますが、上條先生と岡本先生には何かつけましょう。」と言って、上條先生に「事務局長」、岡本先生を「財務局長」と決めました。これから彼らをそう呼んで下されば、彼らは張り切って仕事をするでしょう。

昨日、ある方の講演を聞いたのですが、その人は有名な大学の学長を長く努め、社会的地位や経歴を数多くお持ちの方でした。その人が、「私はこのたび大学を引退して名誉学長となったのですが、何がさみしいかと言えば、現場を離れることほど寂しいことはありません。今までは私の名刺には沢山の肩書があり、それを出すとみんな私を認めてくれましたが、今では肩書きが無くなってしまい、自分は一体何者なのか、これから、何をしたらよいのか途方に暮れてしまいました。納得の上で身を引いたのにも関わらず、この虚しさは何なのか」という所から、講演が始まりました。
私たちは、この地上でアイデンティティー、“自分である事の証明”を持って生きているわけですが、やがてそういうものが無くなる日が来るわけです。
それを聞いていたもう一人の人が、「本当にそうだと思います。私の父は八五歳になるのですが、運転免許証の書き換えに行くというのです。『父さん、八五歳になって免許証の書き換えなど必要ないでしょう。』と言うと、『運転はできないが、免許書がないと、自分であるという証明がこの世から何一つなくなる』と言われたそうです。「人間にとって“自分が何者であるか”は重要ですね」と話されました。
みなさんはどのような、“自分自身としての証明”を持って毎日生きておられるのでしょうか。

この頃は外来語が沢山使われていて、わかりにくい事が多くあります。しかし日本語の中にある外来語を無くすと、ほとんど日本語として成り立たなくなるそうです。野球でも「ヒット、アウト、セーフ、ファールなど、」が「打った、だめ、安全、失敗・・・」などに変わったら、調子が出なくなってしまいます。
先ほどの“アイデンティティー”も訳すのが難しい言葉ですが、ほとんど日本語になっています。それは、「自分としての証明」という意味で使われているようです。
また、「ドゥイング/doing」「ビーイング/being」、「トゥドゥ/to do」「トウビィ/to be」などの言葉もあります。案外、私たちは、自分自身の証明を、「ドゥイング」「トゥドゥ」など、「自分が行っている事」で表現する場合が多いのです。しかし、それらは、時が過ぎるとやがて失われるものです。一生懸命働いている時には、「私はこういう者です」と元気よく名刺を配って自己主張する事ができるのですが、やがて年をとって引退すると、「さて、自分は何者だ?」となるのです。そんな時に問われるのが、「ドゥイング」ではなく、「ビーング」、すなわち、自分自身の存在です。“私が今ここに存在している”、というのが自分のアイデンティティーでなければいけないのです。

教会に来ると、アイデンティティが、ドゥイングでなくビーイング、自分自身の存在そのものを自分のアイデンティティーとして、生きることが出来るようになります。それは素晴らしい事です。肩書があっても無くても、神様は、私達の存在を喜んで下さいます。私たちの存在そのものが重要です。

特に、教会の存在は“ビーイング”です。それは「ミッション・インポッシブル、不可能な使命」、ではなくて、実現可能な使命なのです。それが私たち一人一人に与えられているのです。教会を聖書は、キリストの体にたとえており、一人一人を体の各器官としてとらえています。

体は色々な器官により成り立っています。そり結果、生命が維持されるのです。教会も同様であり、イエスさまを頭として、一人一人が各器官です。ここにおられる赤ちゃんからお年寄りまで、キリストの体の各器官を構成していて、その人の肩書や“何をしてきたか”でなく、“存在”そのものが、神の前に重要な使命であり、“喜び”であるのです。この地上に生まれたのは、決して無駄に生まれたわけではなく、私達は神の大きな使命と目的をもって、この地上に生まれたのです。今日は、「教会の使命」というタイトルをつけましたが、教会の最小単位は私たち個人です。あなたの存在そのものに、すでに使命があるのです。

“ミッション”という言葉の中に、「特殊任務、使節団」という意味があると話しましたが、韓国リバイバルミッションのために前線で働いている人も、本大会に足を運ばれる人も、あるいは、こちらに残られる方も、それぞれ神にあって、ミッションを有し、キリストの体の中で「存在そのもの」が重要な使命を持っています。

最初にお読みしました第Uサムエル二三章十三節〜十七節は、ダビデ王という紀元前千年頃、イスラエルがが確立されるための重要な働きをした王様の物語です。今から三千年も前の王であるにも関わらず、現在でも大変有名です。今なお皆ダビデ王を慕っており、ダビデ王と同じような時代が来るようにと、ユダヤ教の人々は祈っています。彼により国がまとめられ、安定した輝かしい歴史があるのです。しかし、その偉大な業も、一人ですべてができたわけではない事がわかります。
何故、ダビデがイスラエルを平定し、敵に勝利出来たかというと、彼の周りにいた家来たちが優秀だったからです。家来たちが心を一つにして、ダビデと共に働いた為に大きな仕事が出来たのです。それ故に、国が勝利したのです。

旧約聖書のダビデは、新約聖書においてはイエスさまを表わしています。そして、ダビデの家来たちとは誰を表わしているかというと、私たちクリスチャン一人一人を表わしているのです。イエスさまと私たち、すなわち教会に与えられている使命を知ることができます。
ここに記されている出来事を読むと、実はこの時、ダビデは戦争のただ中にありました。第二サムエル記二三章十三節〜

「三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」 すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。」

ダビデはどこで生まれたかというと、イエス様が生まれた場所でもある「ベツレヘム」でした。ですから「今日、ダビデの街で救い主がお生まれになりました」とみ使いが羊飼い達に告げたのです。

ダビデがペリシテ人と戦っていた時、自分の故郷が敵の手に陥っていました。ダビデとその軍隊は、ベツレヘムの対岸に陣をひいて、洞穴に隠れて戦況をうかがっていました。そんな中でダビデがぽつんとつぶやきました。「誰か、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなぁ・・・」
彼は自分の故郷が敵の手に陥っているのを見ながら、幼い頃の思い出がよみがえってきたのかもしれません。
人間はやはり年をとってくると、思いだすのは幼い時の思い出です。昔話が多くなると、年をとった証拠です。私のメッセージもこの頃昔話が多くなったと言われますが、私の父のメッセージは、ほとんどが昔話です(笑)。
ダビデも、長い戦いに疲れて、「ああ、あのベツレヘムの門の前にある井戸の水は本当にうまかったなぁ。昔、の山を駆け巡って、喉をからした時、そこで冷たい水を汲んで飲むと本当にうまかった・・・・」
そんな事を思い出したのでしょうか。そのようにダビデがつぶやいたら、何と、その周りにいたダビデの三人の家来たちが、それを聞いて谷を駆け下り、事もあろうに一番危険なベツレヘムの門を突き抜けて、水を汲んで戻って来たのです。
「あなたが欲しがっていた水を汲んでまいりました!」とダビデに差し出したというのです。

私はこの記事を読んだとき、「親分が親分なら、子分も子分だ」とあきれました。一番危険な戦いの最前線であるのにも関わらず、大将が、「のどが渇いた、水が飲みたい・・・」などと脳天気なことをつぶやいたのです。そんな親分の戯れ言になぜつきあうのか、喉が渇いたならその辺のコンビニに行って水を買ってくればよいのに、わざわざ命がけで敵陣を突き抜けて、なぜ水を汲んでこなければいけないのか・・、馬鹿な子分たちだなぁと思いました。
また、そんな非常時にわがままを言うダビデは、ろくな男ではない、とも思いました。しかし、何回も読み直すうちに、そうではないことがわかりました。ダビデが今も英雄であり、国が安定したのには、何らかの秘訣があるのです。
ダビデだけでなく、周りの人々がダビデの考えている事の中心を即座につかみ、理解できた為に、彼は戦いに勝利することが出来たのです。

一見彼はここでわがままを言ったようです。「あの水を飲みたいなぁ」と。しかし、そのわがままを聞いた時、三人の勇士が即座に飛び出して行ったのには深い意味がありました。
実はベツレヘムの門の前は、ペリシテ軍の最も強い軍隊が守りを固めており、そう簡単には突破することができない状況でした。水をくむということが何を意味するかというと、ペリシテの最も強い部隊を打ち破る事を意味していたのです。
「水を汲んで来てほしい、それを飲みたい・・・」とは、「誰がペリシテの最も強い部隊を打ち破り、最前線を突破してくれるのか」という、戦いにおける使命について語っていたわけです。三人の部下は、ただいたずらに、「水を飲みたい」というわがままを聞いたのではなく、ダビデの言葉の真意を鋭くとらえたのです。そして彼らは出て行き、ペリシテの最強の軍隊を打ち破り、その証明として井戸の水を汲んでダビデに差し出したのです。だからダビデは感動したのです。
ゆえに、「彼はそれを飲もうとはせず『主よ、私がこれを飲むなど絶対に出来ません。命をかけて行った人たちの血ではありませんか』彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士はこのような事をしたのである」と記録されたのです。

三勇士が勇士たるゆえんは、ダビデの言わんとしている事を即座に悟ったことです。
これはイエス様と私たちという構図の中で「何をしなければいけないか」ということを教えています。一人一人はイエス様が語られる中心的事柄を即座に悟り、行動に移す事が重要であると教えているのです。私たちは毎週教会に集っていますが、このように礼拝に出ている中で、主が一人一人にそれぞれ使命を与え、語りかけて下さっていると信じます。そんな中で、主が私たちに語られる一番中心的な使命を受け取って行動に移すのです。
イエス様がよみがえって、最初に弟子たちに語られた言葉が何であったかと言うと、マタイ二八章十八節〜二〇節です。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

実は、イエス様は、ユダヤを中心として働いておられました。素晴らしい権威がありましたが、それは完全でなく限定つきの権威であったことがわかります。何故なら、イエス様が宣教を始めた時、何と悪魔が近づいてきて、「石をパンにかえろ」とか、「高い所から飛び降りてみろ」「ひれ伏して拝め」など、色々な事を言ったからです。神のみ子であり、素晴らしい方であるにも関わらず、被造物の悪魔がイエス様にそんな事を言ったのです。また、イエス様が十字架にかかられる前には、側近の十二弟子の一人であるユダが一行の財布持ちであったのですが、銀三十枚でイエスさまを裏切ってしまったのです。人間はお金に弱いから、気をつけなければいけません。一番の側近に裏切られて、それもサタンがユダの心をつかんだ時に起こりました。
イエスさまは神の御子にも関わらず、サタンがちょっかいを出すことが出来たのは、その権威は「限定付き」であったわけです。しかし、イエス様が十字架にかかられて甦られた時、今までの限定付きの権威から完全な権威に移されたのです。なぜなら、イエス様の十字架により、死の力が打ち破られたからです。
イエスさまがその時に語られた言葉が、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」でした。よみがえりのイエス様は全権威を勝ち取られたのです。そして、「出て行ってあらゆる国の人たちを弟子としなさい。」と告げられました。そして、父・子・聖霊の名によってバプテスマを授け、またわたしがあなた方に命じておいた全ての事を守るように教えなさい。見よ、私は終りまであなた方と共にいます」と語られたのです。

ここから、イエスさまが教会に与えられた使命が何かがわかります。それは、「天においても地においてもいっさいの権威」という限定解除された最高の権威を教会に与え、「あらゆる国の人々を弟子としなさい、出て行って福音を伝えなさい」と命令されたのです。それがイエス様が教会に与えた最も大きな使命である事がわかります。
私たちは二週間後に、韓国リバイバルミッションを控えているわけですが、これはイエス様が教会に、クリスチャンに与えられた使命に他ならないわけです。「天においても地においても一切の権威」が用意されていますから、私たちは出て行ってあらゆる国の人々を弟子とする為に働かなければならないわけです。

先ほど、「ミッション」が軍事用語であり空軍の出撃作戦のために使われる言葉だとお話しさせて頂きました。
私は何年か前に、沖縄の米軍の嘉手納基地という大きな空軍基地の軍人さんたちが多く集まる教会で奉仕をさせて頂きました。興味深い集まりでした。沖縄には軍事基地が多くあり、嘉手納基地は東洋一の規模です。私は特別許可をもらってそこに入り、泊めて頂きました。少し緊張しました。基地の中は一つの町のようになっています。街に必要な機能が基地の中にはほとんど揃っていました。レストランのそばでは、戦闘機のエンジンテストが行われていました。ドキドキするような三日間でした。
その教会に来られている方々は、迷彩服を着ているような方々ばかりでした。そこで私は、「霊的戦い」について話をさせて頂きましたが、彼らは戦いを専門にしている人たちばかりでしたから、とてもよく理解してくれました。そこで、「宣教も戦争と同じです。最初に空軍が出て行き、霊的爆弾を落として敵をやっつけてから陸軍が出ていかないと犠牲が多い。最初に霊的戦いが必要だ」と話すと、皆は大きな拍手をしました。とても受けがよかったです。

集会が終わってから色々な人と話をしました。一人のとても体格の良い兵隊さんと話をしました。「この人はきっと、戦闘機に乗っている戦闘員だろう」と思い、「あなたはどんな戦闘機に乗っているのですか?」と尋ねました。すると、「私は戦闘機には乗っていません」と言うのです。「では何をしているのですか」と聞くと、「私はレストランで人参を切っています」「えっ、その迷彩服は何ですか?」「私はコックとして働いていますが、人参を切る時もこの服を着て働いているのです」と言いました。その方は空軍に所属していますが、彼の仕事は戦闘機を操るのではなく、兵隊さんの食事を準備することだったのです。「私はイラク戦争にも行きましたが、イラクでも人参を切っていました」と言いました。その人も戦いのために重要な人であるわけです。“腹が減っては戦ができぬ”という古いことわざがありますが、兵隊さんもお腹を減らしては、戦いができないのです。食事を作ることも、最前線に出て戦うのと同じ使命で働いているのです。

教会も同じです。最前線に出ていく人もいますし、後方で働く人もいます。財務のために働く人も、祈りの奉仕をする人もいます。それぞれの受け持ち分野がありますが、“ミッション”は一つなのです。「あらゆる国の人達を弟子としなさい」という使命の為に働くのです。
教会の使命は福音を伝えることですが、福音を伝えるとは、「暗闇から光に、サタンの支配下から、神の支配に人を勝ち取る」事ですから、まさしく、これは霊的戦いそのものです。
最後に、ひとつのみことばを読んで終りにしたいと思います。エペソ人への手紙三章七節〜十一節

「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。」

パウロの「福音に仕える」という理解がどのようなものであったかというと、神が万物を造ったその最も深い奥義は、「天にある支配と権威に対して、教会を通して神の豊かな知恵が示されるため」だというのです。
天にある支配と権威とは、何を意味するのかというと、それは悪魔と悪霊の組織を意味しています。教会を通して天にある支配と権威に立ち向かわせること、それが万物を創造した神の奥義であり、「その努め」を明らかにするためだと、パウロは考えました。
「務め」とは、「ミッション」です。神が人類に最も与えたかった努めは、教会を作って天にある支配と権威に対抗させる事です。私たちは教会に属していますが、一人一人は「ビイーング」、その存在そのものが天にある、支配と権威に立ち向かう事であり、すなわち、魂を勝ち取るために神は私たちを教会につなげて下さったのです。
今、「国々の民を弟子としなさい」という大きなミッション、イエス様が語られたミッションを目の前にしておりますが、一人一人が神様から与えられた使命を理解し、この二週間はそれぞれの立場から、主の前に仕えていこうではありませんか。ダビデの三人の勇士と同じように、主から語られる中心的な事を即座に理解し、敵の最前線を打ち破るために、一丸となって働いていきたいと心から願うものであります。

その使命は決して“ミッション・インポッシブル”ではなく“ノット・インポッシブル”実現可能なのです。素晴らしい奥義としてのミッションに参加させて頂けることは本当に光栄です。それぞれみなさんの立場で、ミッションのために祈り続けて頂きたいと思います。
最後に一言お祈りして、今朝の礼拝メッセージの締めくくりたいと思います。

 ハレルヤ、天の父なるお父様、心からみ名をあがめます。あなたが私たちに使命、ミッションを与えて下さっていることを心から感謝します。これは実現不可能なミッションではなく、実現可能なミッションである事を、心から感謝します。ここにおられるお一人お一人の立場を通して、主は働きを進めようとしておられることを心から感謝します。どうか、この使命を実現に移させて下さい。特に、目の前に迫っている韓国リバイバルミッションのために、私たちがそれぞれの立場で、それぞれの使命を果たすことができます導いて下さい。私たちはサタンの支配から勝ち取られている事を心から感謝します。今からの聖餐式も祝してください。聖霊により、みことばによってこの聖餐式を行いますから、祝してください。イエス様のみ名を通し祈りをみ前にお捧げします。アーメン。


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