「Go!」


2009.5.31(SUN)
新城教会 四元雅也 副牧師

マルコの福音書16章15節
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

今朝はこの箇所から、「Go!」英語で「行きなさい」という言葉をタイトルとさていただきました。先ほどから賛美の中で、出て行って深みに漕ぎ出してというフレーズを繰り返し歌ってきました。このみことばは、イエスさまからの大宣教命令と呼んだりしますが、私たちクリスチャン、教会に神さまから与えられた使命です。
私は韓国リバイバルミッションはまさにこのみことばを実践しているのだと思います。先週はここで上條先生から「主を待ち望む」というテーマでお話しを聞きました。先生は韓国リバイバルミッションの事務局長ということで、大会の運営を統括する立場から、直面するいろいろな困難の中でこの働きが人間のわざによってではなく、主によって成し遂げられるわざだと教えられたと話しておられました。そして、私たちは余計な力を抜いて、ただ主を待ち望んでいきましょうとお話しされました。
韓国ミッション本大会は一昨日の二九日の金曜日から開催されていますが、一日目は四二〇〇名ほどが集まったそうです。去る二五日に亡くなった盧武鉉前大統領の葬儀の件で大会の開催に悪影響が及ぼされるのではないかと心配されましたが、結果としては国民葬の形で二九日の午前中までで葬儀は終了し、ミッション本大会に支障はありませんでした。これも祈りの中で神さまが許された摂理の中での出来事ではなかったかと思います。
また、集会の内容も、今ビデオでご覧いただきましたように、本当に素晴らしいものとなっていますが、日本から出向いて裏方で奉仕しておられるスタッフたちにとっては、言葉の壁もあり、意思疎通がなかなかうまくいかず困難があるようです。また、韓国側の集会運営の手法も私たちの感覚とは違って、決まっていることが直前に変更されたりと、いろいろ大変な事があるみたいです。いままでのミッションの集会よりもっと全力を傾けなければならない状況の中、みんなで力を合わせてなんとかやっているそうです。そういうわけもあって、今日の礼拝では私が司会と賛美リード、そしてメッセージまで全て担当させていただいているわけです。今までミッション本大会では上條先生が新城に残って礼拝のご用にあたり、私が後ろで音響をはじめとする裏方の奉仕を担当するのが通例でしたが、今日は私が表方になり、裏方は音響にインターナショナル礼拝で音響をしておられる兄弟が担当して下さっていますし、映像や奏楽の奉仕者も今日が初めてだという方が奉仕しておられます。今までにない特別な礼拝となっているわけです。そういう意味で、新城においても韓国と同様に全力を傾けなければならない状況があり、神さまの前では韓国での戦いと同じ戦いをここでもしているような気持ちです。ですからここにも韓国と同じ祝福が注がれることを信じましょう。
先週は韓国ミッションのためにみことばが与えられました。エレミヤ書の四章一節〜三節です。

1 「イスラエルよ。もし帰るのなら、――主の御告げ。――わたしのところに帰って来い。もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。
2 あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる。』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う。」
3 まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。

今回韓国リバイバルミッションのためにテーマとして掲げられてきたのは、

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。

というエレミヤ書三一章のみことばです。ここで「おとめイスラエルよ」と語りかけられていますが、この四章のみことばにも冒頭に「イスラエルよ」と語り始められています。「イスラエルよ、あなたが帰るのならもうあなたは迷うことはない。そして、真実と公義と正義によって『主は生きておられる』というなら、国々は主によって互いに祝福し合い、互いに誇り合う」というのです。日本と韓国の関係における回復がここに語られていると思いました。韓国ミッションを通して、互いの関係の回復が起きると、みことばから信仰を与えられました。そして「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな」ということばですが、今まで韓国全土を巡って成されてきた決起集会の中で順先生を通して語られた霊的戦いについての話、日本から韓国に出向き、また韓国から日本に来られてなされた霊的戦いのとりなしの祈り、また皆さんが個人的に捧げ積み上げられてきたリバイバルへの祈りが、霊的な世界で土地からいばらや収穫を妨げる有害なものを取り去り、耕地を耕すこととなっている。そして今回のミッションで終わりではなく、ここを始まりとしてリバイバルが大きく実を結んでいくと期待します。新城教会や全日本リバイバルミッションの働きにおいて、九二年〜九三年に注がれた新しい油注ぎと、そこから始まった霊的戦いの祈りは教会が変えられ、ミッションの働きそのものも根本から変えられるような出来事でした。そこから福音宣教を霊的戦いと共に進めていくという働きが今日まで続けられています。この出来事が私たちにとっては大きな転機となり、今振り返っても「あの時から私たちの歩みは変わりました」と言うことができます。霊的戦いを通して多くの人の問題が解決し悪魔の支配から解放され、救いを受けてこの群れに加えられました。もしも、霊的戦いがなければここにはいないという人もあるかもしれません。同様に韓国リバイバルミッションが韓国の福音宣教においても大きな転機となるように信じたいと思います。後の日になって、二〇〇九年五月に行われた韓国リバイバルミッションを機に韓国の地が変えられました。あの時から韓国の霊的な空気が変わりました。あの時から韓国における宣教のわざが更に力強く前進するようになりました。日本と韓国の協力が前進しています。ということを見ることができるような耕地がすでに開拓されていることを信じていきたいと思います。ここで種が蒔かれて、ここから出て行く(Go!)という神さまのみことばがさらに実行されていくことを信じていきたいと思います。
そこで、今日もう一つ学んでいきたいみことばがあります。マタイの福音書九章九〜十三節

9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

ここにイエスさまが収税所に座っているマタイという人をご覧なって「わたしについてきなさい」とおっしゃったところから話が始まっています。このマタイは、マタイの福音書を書いた人物です。彼は取税人という職業でした。現代で言えば税務署のお役人さんといったところです。現代においては立派な職業ですが、当時取税人という職はみんなからの嫌われ役、鼻つまみ者でした。
イスラエルは時の超大国であったローマ帝国の支配下にあり、属国という立場でした。イスラエルの富はローマ帝国への税金として吸い上げられていたわけです。もともとイスラエルの国民は自分たちが神の選びの民としての自負心をもち、他の民族とは違う特別な民だと信じていました。そのプライドから独立心の強い国民でした。ですからローマ帝国による統治、搾取はイスラエルにとって屈辱以外何ものでもなく、いつかは見返して独立してやろうという野心を民族的に持っていました。また聖書に書かれているメシヤ待望のみことばを取り違えて、ローマからの独立を実現する政治的リーダーが現れる約束のみことばとして信じていました。そんな中ですので取税人は「売国奴」国を売る者と呼ばれ、嫌われていました。誰からも相手にされない職業でしたので、取税人たちも開き直って、ローマの権力を盾にして正規の金額から水増しして税を取りたてて、余剰金を自分のポケットに入れるような不正をしていました。そんな嫌われ者で罪人であったマタイをイエスさまは「わたしついてきなさい」と呼ばれたのです。
イエスさまはその働きから当時民衆の注目を集める人気スターのような存在でした。そんなみんなのあこがれのイエスさまからお声をかけられたというので、マタイは大変喜んだのではないかと思います。あの人気者のイエスさまが誰も気に留めてくれない自分に声をかけてくれたというので、彼は収税所のお金もそのままにしてイエスさまについて行ったのです。
マタイはその夜イエスさまとお弟子たちを自分の家に招き入れて、宴会を催しみんなで食事を楽しんでいました。するとそこに、マタイが常日頃お付き合いしている友だちが集まって来ました。それがどういう人たちであったかというと、類は友を呼ぶというわけでマタイと同業の取税人、また罪人たちが大勢集まってきて、イエスさまを取り囲んで楽しんでいました。そこで気に入らなかったのは自分を義人だと自負しているパリサイ人たちでした。イエスさまは民衆の指導者のように振る舞っているのに、見るとあんな罪人たちと一緒にいるとはどういう事だ。あのイエスは罪人たちの仲間なのかといぶかしみ、弟子たちに「どうして罪人なんかと食事するのですか」と問いただしたのです。そこでイエスさまが応えられたのが十二節からのことばです。「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

この十三節に「あわれみ」は好むが「いけにえ」は好まないとはどういう事かと言いますと、天の父なる神さまは、あわれみを求めるへりくだった心を喜ばれるということです。私たちが神さまの前に出る時に、自分の罪を深く自覚し、嘆きと悔い改めの心を持って神さまの前に出る時、あわれみを請い求める時、神さまはその心を喜んで下さいます。しかし、自分の正しさを主張し、高ぶった心で神に与えんとばかりにいけにえをささげる心を神さまは嫌われるのです。医者が病人を治すために存在しているように、罪人が救われるためにイエスさまが来られた事をここで述べられているのです。

先日興味深い話を聞きました。新城教会にはヘブンリーキングダムというゴスペルクワイヤーのグループがありますが、今年一〇周年を迎えるそうです。そして、結成当時から関わってゴスペルを指導して下さっている粟野めぐみさんと貢司さんご夫妻をお迎えし、九日の夜にゴスペルワークショップ、そして、一〇日午後にゴスペルカフェでコンサートを一緒にして下さいました。お二人は全国津々浦々に出向きゴスペルクワイヤーの指導育成に当たっておられます。
ゴスペルはアメリカが本場ですので、日本においてもゴスペルというと英語でのコーラスを連想しますが、お二人は最近日本語のゴスペルにも積極的で、ご自分たちが作られたより身近で日本人の感性に合ったゴスペルを教えておられます。彼らのゴスペルに対する情熱や信念は、さすがだなと思います。ゴスペルを通して神さまの栄光を現すことをビジョンとして真剣に取り組んでおられる姿には、感動させられました。
私はお二人と食事をする機会がありましたので、彼らからいろいろなゴスペルにちなんだお話しをお聞きすることができましたか、その中でこんな事を聞きました。それは「ゴスペルクワイヤーというものは、クリスチャンでない人がグループに入っていないとダメになっていくんです。クリスチャンだけでメンバー構成されているゴスペルクワイヤーは良くないです。」とはっきりおっしゃいました。(へぇー、ゴスペルは神さまに賛美をささげるもので、賛美するのはクリスチャンの専売特許なのに、クリスチャンでない人がいなければならないってどういう事かな?)と思い、初めはお話しの意味がわかりませんでした。お二人はこのように続けられました。クリスチャンだけのゴスペルクワイヤーは、完成を追い求めることに意識が向くようになり、小さくまとまっていく傾向がある。もっと素晴らしい“賛美”を神さまの前にささげなければならないという方向に重点が向けられてしまう。そうなると練習していても賛美すると言うより、小さな技術的な部分をつつきまわして「こうしよう」「ああしよう」と粗を見つけてはいじりまわすようになっていく、良い賛美を捧げるどころか、逆に小さく内向きで閉鎖的な集団になって行ってしまう、というのです。
そんな先生方のゴスペルの指導方法もポリシーを反映するかのように、先生方を交えての練習は、当日か前日の2時間くらいしか行わず、後は本番で歌うのみというある意味で簡潔なものです。コンサートに臨むクワイヤーやバンドのメンバーたちにとっては「こんなに少ない練習で大丈夫だろうか。歌詞も覚え切れていないかも、あそこの繰り返しはどうだったかな」といった不安を心に抱きつつ本番に望むわけです。しかし、粟野夫妻は「それでよい。そうでなきゃ」と言う具合でやっているのです。それはなぜかというと、そのような不完全さを抱えた中、一人ひとりが“自分の力ではない。神さまの力で歌う”ということを感じることができるというのです。自分の力に足りなさを感じる時、人は始めて神さまに頼るのです。練習量をこなして完成されたものを発表するとき、神さまに捧げる賛美ではなく、私たちの“音楽を発表する”場所になってしまう。ゴスペルコンサートは、ゴスペル音楽を発表する場所ではありません。良い音楽ならば世の中にいくらでも上がいます。ゴスペルを歌うのは、神さまの福音(ゴスペル)を神さまの力によって“伝えたい”からなのです。ゴスペルの起こりにも、人々の出口のない苦痛な叫びを天に向って叫んだことがルーツにあります。不足しているものを神さまによって満たすものがゴスペルであるならば、そこに価値感を置いた歌声でなければならない。コンサートがあるから練習し、観衆の前だから一生懸命歌うのではなく、いつでもどこでもどんな時でもゴスペルを歌う時に私たちは神さまに向かっていなければならない。というのです。また、そこに新しい人が入っている時、練習もある意味で伝道の場であり、緊張感の走る場になるのです。だから練習の中でも神さまを見上げ、頼って歌うことができるようになるというのです。そんな魂のこもったゴスペルを歌う時、人々はそのスピリットに感動するのだというのです。
コリント人への手紙第二 十二章九〜一〇節に

9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

神さまのみ力というのは「弱い」時に現れるというのです。これは今お話ししたゴスペルに取り組む姿勢についてうまく補足しているみことばだと思います。
話は違いますが今日の礼拝もある意味では「弱い」礼拝かもしれません。いつも共に礼拝を守り、前に立っている先生方は、今日はおられません。奉仕してくださっているバンドの皆さん、音響、映像などの奉仕者も今回が初めてだという方が大勢おられます。このように「弱い」中に、実は神さまの力は完全に現されるというのです。不完全さ、足りなさを覚える中に、神さまは力を現して下さいます。
教会も同じだと思います。教会がもし伝道しなくなったら、教会の関心事は、神さまの前により清く、正しい教会となることに終始することになり、「全世界に出て行き、全ての人に福音を述べ伝えなさい」というイエスさまが私たちクリスチャンに望んでおられる本質から横道に逸れていくのではないかと思います。教会はある意味でこの世界の一番暗闇の中にいるような人々が集まる場所でなければならないのではないか。そのような人々が集うことが、教会には必要なことなのではないかと思わされました。
クリスチャンも同じだと思います。私たちが人生を歩んでいく上での関心事は、自分が清められ正しく、そして問題から守られて生きることも大切ではありますが、それが優先第一事項となったら、「私は汚れや重荷を負いたくないのでのでこんな世の中の罪人とは関わりを持ちたくない」とだんだんと世の中から身を引くようなクリスチャンになってしまうかもしれません。もちろん罪に対して妥協してはなりませんが、神さまは私たちに対して、「教会」という無菌室に止まって清い信仰者として人生を悪から守って細々と生きなさいと言ってはおられません。最初にお読みしたみことばのように「出て行って、全ての人に福音を述べ伝えなさい」とおっしゃっているのです。これこそが神さまが私たちに願っておられる一番の使命なのです。
ここでいう「全世界」とはどういう所でしょうか?さまざまな悪が満ちたような所、私たちを悪が待ち構えているような所です。出て行った時にいろいろな誘惑に出遭うかもしれない、戦いもあるかも知れない、悪魔が「クリスチャンが出てくるか。なら俺たちはお前たちを倒してやるぞ」と、てぐすね引いて待ち構えているような「世界」に、イエスさまは「出て行きなさい」とおっしゃるのです。しかし、それを実行する時にこそ、私たちは素晴らしい「神さまの力」を体験することができると聖書は教えているのです。
時間がありませんのでもうひとつお話しして終わりにしたいと思います。福音を伝えることは霊的な戦いだとよく言いますが、霊的戦いというのはある意味で「ワクチン作り」のようだと思います。この頃新型インフルエンザが世間を騒がしていますが、先日ひとつのニュースをテレビで見ました。なんでも日本が新型インフルエンザのワクチンを創るために他国から新型インフルエンザの「培養株」を分けてもらったという話でした。「培養株」とはウイルスを実験室内で培養することで増やしたものです。そして、その培養株がワクチンの元となるのです。新型インフルエンザのワクチンは新型インフルエンザそのものからでなければ創り出すことができないのです。ウイルスの特性を研究し、どのように人に取り憑き、どうやって病に陥れるのかというメカニズムを解明することによってワクチン作りが進んで行いきます。感染するのが怖いからと言って誰も手を出さず、野放しにしていたら、いつまでもワクチンは創られないのです。恐れを断ち切って奮い立ち、感染を恐れずにウイルスに立ち向かわなければなりません。同様に私たちはサタンの脅威に怯えていては人々を救いに導くことは出来ません。しかし、敵の策略を知らずに飛び込んでいくときに病気にかかってしまうかもしれません。そこで敵の策略を知る必要があります。これが霊的戦いなのです。暗闇に神さまの光を照らし、サタンがどのように人を苦しめ傷つけ、滅びへと向かわせるのか悪魔の手口を知ることによって、その力に対抗するための聖書に基づく神さまの方法を知ることができるわけです。この戦いの目的は、悪魔が私たちを苦しめるためにおいた様々な病気(束縛)から人々を解放するものであるわけです。私たちはその目的からぶれてはいけないのです。新型インフルエンザは最近のWHOの見解では、あまり毒性も強くはなく普通の季節風邪と同様の対応で大丈夫だと言われていますが、サタンがもたらす束縛は、そんな甘いものではなく私たちを死に至らしめる大きな問題なのです。神さまはそのような脅威から人々を解放する権威を教会に与えられているのです。
韓国リバイバルミッションには神さまがご介入できる多くの領域があるのではないでしょうか?言葉が通じないこと、文化的な障害、経済的な問題、動員の問題などです。現実を現実として私たちは目の当たりにするのですが、この大会を遂行していく上でこれらの障害がクリアされ、神さまの力によって弱点が武器になり、勝利につながっていくことを信じていきたいと思います。
私たちはマタイのような「救われた罪人」です。「これから救われるべき人」を私たちを通して救いに導いていただけるように、韓国ミッションの最終日が神さまによって全うされていくことができるように、お祈りしていきたいと思います。「全世界に出て行き全ての造られた者に福音を述べ伝えなさい」というみことばについても、私たちが自らの弱さ故に「出て行けない」と思うものではなく、神さまの力が私たちを覆うように祈りましょう。神さまの「Go サイン」に応えて出て行く者となりたいと思います。最後にお祈りしましょう。

今日のみことばでは、私たちが弱さを感じているということを逆転の発想で勝利へと転換することを学びました。たぶん私たちは自分が強いとは思えないのではないでしょうか?誰しも何らかの弱さを覚えているのかもしれません。伝道したくてもなかなかできない。神さまの前に喜ばれる態度でクリスチャン人生を歩んでいきたいと思いながらできない自分を見せられているかもしれません。自分を取り巻く環境が出来なくさせていると感じておられるかもしれません。忙しすぎるとか、周りが反対しているとか、いろんな逆境の中でやっとの思いでクリスチャンとしての信仰を守っているんだと思われるかもしれません。今日は、神さまが私たちを助けてくださる方であることを信じたいと思います。その信仰の中で具体的な第一歩を踏み出すことが出来るように祈っていきましょう。
新城教会はリバイバルミッションの働きをサポートすることを通して具体的に出て行くことを神さまから委ねられています。そこに私たちも祈りを通して参加させていただけていることを感謝しましょう。私たちの強さにではなく、弱さに神さまが働かれることを感謝しましょう。弱さを自負しているということは、ある意味では感謝すべき事なのです。そこにこそ神さまが働かれることをこの祈りの中で信仰によって宣言しましょう。そして、私たち一人ひとりにゆだねられた領域で私たちが働くことが出来るように、韓国ミッションのためにも最終日が祝福されるように祈りましょう。ではお祈りします。

ハレルヤ、天のお父様、あなたのみ名を崇めて心から感謝します。今日はこうしてあなたのみ前に礼拝を捧げることが出来て感謝します。あなたは私たちに対して「出て行きなさい」とみことばを語って下さる事を感謝します。私たちが弱さを持っていたとしてもそのままで、不安があったとしてもそのままであなたにゆだねて出て行くことをあなたは喜ばれ、そこにみ力を現して勝利を与えてくださる神さまであることを感謝します。韓国ミッションにおいても現実的にさまざまな弱さを覚えています。それらにおいても完全に勝利を取ってくださる神さまであることを信じます。リバイバルため、多くの魂の救いのためにこれを用いてください。私たちの周りにあるさまざまな問題や戦いにおいて、弱いままで、あなたにゆだねて戦います。どうぞ豊かな祝福をお一人お一人に置いてください。そして、この世の戦いにおいて勝利し続けていくことができますように。環境的な問題、人間関係の問題、職場の問題、経済的な問題、健康の問題、全ての問題において、完全み力を現し、解決を現してくださいますように、祝福がお一人お一人にありますように。あなたの武器をいただいて、勇敢に戦い続けていくことが出来ますように。豊かな油注ぎがありますように。御国がこの地に現されるように、私たちを用いてください。尊いイエスさまの御名によってお祈りいたします。アーメン


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