「あなたも赦された者です」


2009.6.14(SUN)
新城教会 岡本信弘 牧師

マタイの福音書 18章21節〜35節
「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。
韓国リバイバルミッションのためにお祈りいただき、祝福の内に無事に終えられたことを心から感謝いたします。
大きな集会の時には、たくさんのお金が必要です。特に今回は、韓国ということで財務・運営担当の私は、「大丈夫かな」と心配していました。幸い韓国は比較的物価が安く、製作費は初めの予算よりもかかりませんでしたが、すべての経費を賄うほどの献金は集まりませんでした。それは、大会三日間において、私たちが思っていたほどの人数が入らなかったこと、それに加えて、一回の献金額が少なかったことが理由として挙げられます。韓国では一万ウォン札が一番大きなお金で、本当に恵まれないと一万ウォンは出さないそうです。しかも、それを日本円に換算すると大体七〜八百円ですから、一万ウォンを献金してくださっても金額はなかなか伸びません。ですから、「結構大きなマイナスになるのではないか」と心配を抱えて帰ってきました。
一週間後にはミッションの実行委員会があるので、「どう報告しようか」と悩み祈っていましたが、大会中や大会後にも、日本各地の方々から「大丈夫ですか、頑張ってください」との励ましの言葉と同時に、多くの献金を頂きました。その結果、全額が満たされたわけではありませんが、「最小限のマイナスです」と実行委員会でも、また、皆さんにも報告できることを心から感謝します。
新城教会からは多くの方が応援に駆けつけてくださり、また、行かれなかった方々にも祈っていただき、尊い献金もおささげいただいたことを、高い所からではありますが、皆さんに心から感謝いたします。
私は昨年から十数回韓国へ行かせていただきました。大会の実際の準備のためには、大会十日前から大会後までの二週間ほど滞在し、事務処理のために昨年十一月から遣わされている娘に「これをこうして、ああして」などと指示され“こき使われて”(笑)、翻弄されたような忙しい毎日でした。私は海外の食事が合わず、出かける時はいつもカップラーメンとレトルトカレーを持参していきます。そのような中でも健康で奉仕ができ、本当に大きな恵みを頂けたことを心から感謝します。参加された皆さんも、恵まれ、楽しく行って帰ってこられたと聞いて、本当によかったと思っています。これからもリバイバルミッションの働きは続けられていきますので、ぜひ覚えてお祈りください。

今日は、マタイの福音書の中から『赦す』というテーマでお話させていただきます。
マタイ六章一四節に『もし、人が罪を赦すならあなた方の天の父もあなた方を赦してくださいます』という有名な御言葉がありますが、皆さんの中に誰かを「赦せない」と思っている人がいるかもしれません。極端に「あの人を殺してやりたい」とまでは思わなくても、相手が深く思わずに言った一つの言葉によって「何でこんなことを言うんだろう」と傷き、「あの人を赦すことができない」という思いに囚われ、その人のことを考えるだけで憤りが自分の中に湧きあがってくる、そんな経験があるかもしれません。

さきほど読んでいただいたマタイの福音書一八章二一節からは、ペテロという弟子が、イエス様にひとつの質問をしたところから始まっていますが、彼には、身近なところに、自分の兄弟あるいは十二弟子の中に、赦せないと思う人がいたのかもしれません。ユダヤには、罪を犯した時に「三度まで赦す」という習慣があったそうです。ペテロは、自分が赦せないと思った人に対して、五回か六回まで赦したかもしれません。そしてイエス様に「罪を赦すのは七回まででいいですか」と言っているわけです。彼は、すでに五、六回赦したのだから、「七回まで位が限度ですよね」と質問し、「それはそうだ。七回までも赦したのだから仕方ない」と言われることを望んでいたと思います。しかし、イエス様からは「七と言わず七を七十倍まで赦しなさい」と、意外な返事が返ってきました。これは、計算すると四百九十回になりますが、もちろんここでイエス様は四百九十回という回数を言われたのではなく、“赦し続けなさい”ということを言われたのです。
最近、一つの大きな冤罪事件が話題になりました。一九九〇年に足利で起きた女児殺害事件で捕らわれ、十七年間拘留されていた菅家さんという方が、釈放されたのです。十七年前にもDNA鑑定が行われましたが、その当時のDNA鑑定はあまり正確ではなかったそうで、何度も再審査を要求し、再度、最新のDNA鑑定をしたところ、犯人ではないということが判明し、釈放されたのです。
真実が明らかにされ、釈放されたことは本当によかったのですが、十七年という歳月を考えると、簡単に「よかった」だけでは片づけられないと思います。この方は釈放されてからの記者会見で、「私は絶対に警察を赦さない」と言い、そしてまた、「この事件のことを思いわずらって死んでいった両親の墓の前で詫びてもらいたい。それでも私は絶対に赦せない」と語っていました。本人は、何度も取り調べを受けて自白を強要され、十七年間も拘留され、苦しい思いをしたわけですが、皆さん、自分がその子の親だとしたらどうですか。我が子がそのような苦しみを受けるのは、何にも代えがたい苦痛ではないでしょうか。ある意味、拷問に近いのではないかと思います。すでに二人とも他界しておられるそうですが、ご両親をも苦しめた人たちを赦せないという心情はよくわかります。
毎年、多くの人が交通事故で亡くなります。不慮の事故で亡くなる人もいますが、飲酒運転によって殺されてしまう人もいます。飲酒運転でわが子を亡くしたお母さんの手紙が本に載っているのを読みました。その母親も、「私は加害者を絶対に赦せない」と書いておられました。
私は、やることが何でも早いのですが、やることが早い分、気の短いところがあります。不合理なことなどに出会うとすごく頭にきます。最近、コンピューターが壊れて修理に出したのですが、なかなか修理があがってこず、やっと戻ってきたけれどちゃんと修理がされていませんでした。電話をすると、「ここではわからないから、違う部署へかけてほしい」と言われて電話をすると、ある部署では「無料で修理します」と言い、次のところでは「四万円かかる」と言う。といった具合にたらい回しにされ、その度に言うことも違っていたので、相当頭にきてしまいました。とうとう私は、「こんな風にたらい回しにするのはどうなのか」と散々文句を言いました。最後に電話に出た人にはかわいそうなことをしたと思うのですが、その人はとても真摯に「お客様、本当に申し訳ありません」と言ってくださり、最終的には四千円位で修理をしてくれることになりました。しかしその後、家内に「あなた、怒りすぎ」と言われ、「ちょっとまずかったかな」と反省しました。こんなことは、終わってしまえば恨みつらみがあるわけではないし、憎しみもありません。しかし、誰かに言われた一言で憎しみを握ってしまい、どうしても赦すことができず、その人を殺してやりたいなど思ってしまったら、そのような状態の時に楽しいはずはありませんし、心に平安があるはずがありません。
ペテロには赦せないことがあったのだと思います。自分の兄弟が不正をしたり、財務担当のイスカリオテ・ユダがお金をちょろまかしたりするのを見て、それに対して腹をたてていたかもしれません。それでイエス様に、「何度まで赦すべきですか?」と尋ねたのですが、イエス様は、ペテロに対して「赦す」ということの本当の意味を例え話を使って話されました。
マタイ一八章二三節からのところに、一万タラントの返済を求められた一人のしもべが、百デナリを返さない人を赦すことができず、そのことによって王に牢屋に入れられてしまったという例え話が書かれています。一万タラントを日本円に換算すれば、六千億円位になります。私はそれを計算した後、「この人は六千億円も何のために借金したのかな」と思いましたが・・・。とにかく、身動きが取れないような大きな借金(ちなみに、日本でサラリーマンが生涯に得られる賃金は、平均二、三億円だそうです)を免除されたのです(免除した主人は、よほどの金持ちだったのだろうと思いますが・・・)。今までずっと背負ってきた借金を、一瞬にして「返さなくてもよい」と言われたら、皆さんいかがでしょうか。天にも昇る気持ちで、躍り上がるのではないでしょうか。
この免除されたしもべは、喜んでそこから出て行った矢先に、自分が百デナリ(約百万円)を貸していたしもべ仲間に出会ったのです。そして彼をつかまえて「すぐ返せ」と強要しました。するとその人は、六千億円を借りた人と同じように、「もう少し待ってくれ。そうしたら返すから」と頼みましたが、彼は承知せず、牢に投げ入れたのです。それを聞いた主人は、「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と言って、彼を借金を全部返すまで獄吏に引き渡したことが書かれています。六千億円も免除されたのだから、百万円くらい赦してやったらいいのに、と思いますが、赦さなかったしもべは、結局全額払うまで投獄されることになってしまったのです。

この御言葉において、イエス様は私たちに何を教えようとしているのかということを学んでいきたいと思います。
まず一つには、私たちは自分が“赦された存在”であることを、イエス様はここで教えたかったのだと思います。誰かを赦せないと思っているあなた自身が、まず“赦された存在”であり、それも「六千億円」という、到底返すことのできない大きな金額で示されているように、私たちが犯してきた償うことのできない大きな罪、その罪のために、イエス様は十字架にかかり、一瞬にしてその罪を「帳消しにします」と言ってくださったのです。私たちはそのことを信じるだけで罪が赦され、救われたのです。
もしイエス様の十字架の赦しがなければ、今も罪にさいなまれ、もし清算されていない罪がひとつでもあれば、死んで神の前に出た時に、「あなたは罪人です。滅びに行きなさい」と言われ、うじの尽きない永遠に苦しみもだえるという、そんな中から私たちが救われました。それは、ただただ神の恵み、祝福です。
以前、クリスチャン新聞にこんな記事が載っていました。ある牧師が、不良や色々問題のある人を更生させようと施設を作りました。そこに、アルコール中毒の元ヤクザの人が来て、なんとか立ち直ろうと努力しましたがやめることができず、自殺を図りました。病院に運ばれたと聞いた牧師はすぐに駆けつけ、「何故、あなたはこんなことをしてしまったのか」と尋ねました。その男の答えは、「俺なんかもう駄目だ。何度やり直そうと思っても失敗ばかりだった。今まで、悪いことをしすぎた報いだ」でした。牧師は「でも、そんなあなたのためにイエス様は十字架にかかってくださったんですよ」と言いましたが、その言葉を聞いたその男は涙をこぼして、「そんな話、いくらなんでも虫がよすぎるよ」と言ったのでした。
確かに、『虫のいい話』です。自分がやりたい放題、遊びたい放題、悪いことし放題で生きてきたにもかかわらず、ただイエス様が十字架にかかってくださったことを信じるだけで、「今までのすべてのものが赦される」なんて、信じられないでしょう。しかし神様は、愛するひとり子イエス・キリストを十字架に差し出すことによって、こんな『虫のいい話』を実現してくださいました。私たちは今、そのことを受け取っているわけです。

ローマ人への手紙三章二四節を見ますと、『ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです』と書いてあります。この「価なし」とはどういうことでしょう。
私たちは、買い物にしても何かを貰うにしても、代償として何かを差し出すわけですが、「価なし」というのは、私たちが努力したわけでも何かを持っていたわけでもお金持ちだったわけでもなく、何もない私たちに何の見返りも求めず、一方的にただ愛し、罪を赦してくださったということです。この恵みを私たちはイエス・キリストに感謝し、赦さない者ではなく、いつも赦されたことを感謝し、赦す者となっていきたいと思います。
私たちが赦されて、神の子どもとされるために一体どれほどの大きな犠牲が払われたでしょうか。第一ヨハネ三章一節に『私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう』とあります。私たちは神の子どもとされ、罪を赦されました。そのことをもう一度、神に感謝したいと思います。

そして二つ目は、人を赦すことのできない人は、心の自由を失っているのです。
韓国リバイバルミッションを契機に、礼拝やセミナーで、韓国との関係について幾度となく語られてきました。韓国という国は知っていたし、かつて日本が韓国を支配していた時代があることも知っていました。しかし、日本が韓国に犯した罪のどれほどのことを知っていたでしょうか。韓国教会に対して偶像礼拝を強要し、火あぶりや板の上に釘を刺した上を歩かせたりなどの拷問をし、殉教に追いやったこと、また、言葉や名前さえも奪い、支配していったこと。そのような大きな痛みや苦しみが今も韓国にあることを、行くたびに思い知らされました。今もなお、多くの韓国人が日本人を赦せないでいます。そのことも覚えていただきたいです。『赦すこと』は、そんなに容易なことではありません。しかし、中には「私は以前、日本人を憎んでいました。しかし、今は本当に日本人を愛しています」と言ってくださる方がいます。それは本当に感謝なことです。しかし、私たちクリスチャンは、日本人が過去に韓国に対してしてきたことを決して忘れてはいけないと思います。「私がやったんではない」では済まされないのです。
御言葉に戻りますが、この例え話の中でイエス様は、赦されなかった人ではなく、赦さないでいれば、その人は自由を得ることができなず、赦さない人がどんなに苦しい目にあうのか、ということを教えています。
この例え話の最後には、赦さなかった男が、赦してくれた主人の怒りをかって、牢に入れられてしまうことが書かれています。『牢獄』という、閉鎖的な自由のきかない所に入れられるということが何を意味しているかというと、「もし赦さなければあなたも同じように不自由を覚え、牢獄に入れられたのと同じですよ」ということを現しているのだと思います。
あなたはいかがでしょうか。もし、赦せない人がいたとしたら、私たち自身の心の自由が失われ、そこからずっと苦しみがあなたの中につきまとっていくのです。六千億円を免除され、帳消しにされたにもかかわらず、わずかな相手の一言により、赦せないでいる自分がいませんか?

そしてもう一つは、赦すことは自分自身の霊的解放につながることを是非覚えてください。この、一八章三三節を見ますと、『私がお前をあわれんでやったように、お前も仲間をあわれんでやるべきではないか』とあります。皆さんは、赦すことのできない人がいますか? 自分の心の傷を癒すことができないで苦しんでいる人がいますか? その人は今日、そのことを共に祈りたいと思います。
「人を赦す」ことは感情の領域のように思われます。ある人に対する憎しみが消えたから、私はこの人を赦した。また、この人に会うと本当にムラムラとした思いがするから、私はこの人を赦していない、と考えます。しかし、明らかな赦しとは「感情的な領域でなく霊的な領域」です。私たちが人を憎くて赦せないと思っている時、心はサタンに支配されてイエス様が入り込む余地もない、そんな状況に陥ります。
イエス様は十字架上で苦しみを受けられました。「イエス様は神様だから、痛みも苦しみもないでしょう」と考えてしまいがちですが、イエス様は私たちと同じ肉体を持っておられました。裸にされ、人々からののしられ、むち打たれ、痛めつけられ、苦しみを受けられたのです。きっと、何度も何度も失神しそうになったのではないかと思います。そこに集まった多くの群衆は「イエスよ、ざまあみろ。お前が本当に救い主だというのなら自分を救ってみろ。ここに降りて来い」などと、罵倒したわけです。その中でイエス様は、『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです』と言われのです。そんな苦しみを受けながらも、私たちの罪を背負い、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださいました。そして、何の代償もなく、信じるだけで救われるという道を与えてくださったことを、もう一度覚えていただきたいと思います。

私は今、誰かに対して「憎らしい、絶対に赦せない」という思いは持っていませんが、一つ忘れられないことがあります。一九九三年に甲子園ミッションが開かれましたが、その一年前、この教会から多くの人が出て行きました(ここにいらっしゃる三分の一くらいの方は、その当時のことを知っておられると思います)。ただ単に出て行っただけならばよかったのですが、教会や牧師を批判し、「教会は堕落した。この教会はもう終わりだ」と教会員に電話をかけまくり、私にも「一緒に教会を出よう」という誘いをかけてきました。その誘いにのった人が、毎週、何十人も出て行きました。ほかの教団、教派へも文書が出回り、「あの教会はサタンに支配された」という噂が全国に広まりました。これほど有名になった教会はないのではないかと思うほどでした。この状況の中、私は、今まで一緒に信仰生活をしてきた人たちの裏切りに「絶対に赦せない」と、すごく憤りを感じました。それが当時の正直な気持ちでした。しかし、神様は、私たちを批判する人たちに対して反論せず、悪口を言わず、へりくだること、そして反対に、赦し、祝福することを教えてくださいました。私たちは教えられたとおり、ただただ主を見上げて歩んできました。私たちの高ぶりが砕かれ、自我が砕かれ、主の前にへりくだったことにより、一年後に行われた甲子園ミッションでは、大きな祝福をいただきました。
『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。』(エペソ四章三二節)
『互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。』(コロサイ三章一三節)と御言葉は言っています。

赦せないという思いにかられたら、まず十字架を見上げましょう。世の中は「やられたらやり返す。言われたら言い返す」のが当たり前ですが、イエス様の法則は違います。『赦しなさい』。イエス様ご自身が十字架上で「父よ。彼らをお赦しください」と叫ばれたのと同じように、私たちもイエス様にならい、十字架の勝利を叫ぶクリスチャンとなっていこうではありませんか。

そして最後にもう一つ、私たちが赦すことは、私たちを解放し、祝福をもたらすものだということを覚えてください。

『だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』(マルコ一一章二四節)

私たちが神の前に必要なものを求めたら、何でもすでに受けたと信じなさい。そうすれば、必ず与えられるという素晴らしい神様の約束の御言葉です。しかし、次の二五節には、
『また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。』と続いているのです。
ここには関連性があります。主は祈りを聞いてくださいます。しかし、赦せない人が頭に浮かんだら、願い事を脇に置いて、相手を赦し、祝福しなさい。そうしたらあなたは祝福され、あなたの祈りが直接主の前に届けられ、願い事がかなえられるということなのです。人を赦すその時に、霊的な変化が起こり、主の業が表わされることを私は固く信じています。

旧約聖書の中に、ヨブという人が出てきます。彼は神の前に正しい人でしたが、サタンの策略により、家も財産も子どもたち全てを失ってしまいました。それでも彼は自分の正しさを主張し続け、友達から「呪って死ね」と言われるほど絶望の淵においやられました。しかし、神の訓練により、全く誇るものがなくなり、最後に彼は主を見上げました。そして、自分を散々馬鹿にした三人の友人を呼んで、その人たちの祝福を祈りました。その後、彼は今まで持っていたものの二倍の財産を得るができた、ということが書かれています。
そのように、私たちが“赦し続ける”ことにより、ただ物質的なものだけでなく、皆さん一人一人が祝福をいただき、主のみ心が表わされる素晴らしいクリスチャン生活を送ることができると確信しています。共に、主の前に祈っていきましょう。

お祈りをしたいと思います。皆さんの中で、「今赦せない人がいる、赦し切れていない人がいる。そのことを主の前に告白し、解放されたい」、そのように示された人はおられますか。皆さんの中で、私のために祈ってほしいと思いがある方は少し手を挙げていただけますか。主に願うなら、主はそれを聞いてくださいます。
皆さん一人一人は、赦されたという体験をしているわけです。今までも、またこれからも、自分を傷つけたり自分に対し悪事を行った、そのような人に対しても、私たちがその人の祝福を願い祈る。また、さらに、傷ついている人のために共にとりなし祈ること、主はそのように私たちに望んでおられると思います。
今手を挙げられた方もそうでない方も、もう一度、私たち全員が主に赦されていることを覚え、主の前に全てを明け渡してお祈りしましょう。

ハレルヤ。主よ、心から感謝いたします。ここに集められた私たち一人一人は弱い者です。すぐに憤ったり、人を憎んだり、人と争ったりするような弱さを覚える者ですが、どうぞ整えてください。到底返すことのできない負債を、イエス様の十字架上の苦しみによって贖われ、免除され、帳消しにされて永遠のいのちを頂き、今赦されていることを感謝いたします。私たちはすべて明け渡します。神様にお委ねしますから、豊かな祝福をもって導いてください。私を傷つける者を、罵倒する者を、私は赦します。これからも、私たちを傷つける者を私たちが祝福し、愛していくことができる者としてください。主よ臨んでください。主のみ名によって祈ります。アーメン


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