「神の国は拡大します」


2009.6.21(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

マタイの福音書 13章31節〜32節
「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。皆さんの前でお話が出来ます事を、心から感謝します。皆さんのお祈りに支えられ、韓国リバイバルミッションも無事に終わりました。しかし終わってからも、私は結構忙しく、先週は、沖縄の基地の兵隊さんたちが多く来られている教会で奉仕させて頂きました。皆さんのお祈りに支えられ、大変素晴らしい集会が持てました事を、心から感謝します。

 この頃私は、通訳をつけて語ることが多いのですが、韓国で長くメッセージをしていると、韓国語通訳に慣れてしまいました。韓国語の文法と日本語の文法は同じなので、途中で間を入れることが出来ます。「私は教会へ・・・、」で一度切り、「行きます」とか、「行きません」とか、後から結論を言う事が出来ます。
 しかし、英語だとそういうわけにいきません。最初に結論を言ってから、説明する文法なので、それをわきまえないと難しいです。
 しかし語る内容は“神の言葉”であり、どこの国の人でも神は生かすことができます。ご一緒に、聖書のみことばを学んで行きたいと思います。今日は「神の国は拡大します」というタイトルで、今読んで頂いた箇所から霊的法則を学びたいと思います。

 私達が聖書の言葉を学ぶ時、どうしても一つの受け皿が必要となります。それが「信仰」という受け皿です。「信仰」はどのように定義されるかというと、新約聖書へブル書十一章一節に、「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えない物を確信させるものです」とあります。
 信仰とは、まだ見たこともないし、受け取ってもいないけれど、先取りするものです。その事柄を保証し、確信させるものと定義されています。私達は神様のみことばを、「信仰」と言う受け皿をもって、受け止めたいと思います。

 特に、新約聖書には、「信仰」という言葉が多く使われています。私が調べたところによると、不信仰という箇所も含めて二百五十六か所にも及びました。多くの箇所で“信仰”が強調されていて、神の言葉を受け取りなさいと語られています。ですから私たちは“信仰”という受け皿をもって、神の言葉を受け取る時、人生に素晴らしい事が起こります。
 人生は、とかく一度始まると、前進するより後退することが多いのかもしれません。人生も晩年に近づくと、本当に寂しいものがあります。私も今年で五十八歳になりますから、「あと、何年生きれるのか・・・」などと、昔は思ったこともなかった事を、この頃は考える様になりました。何でも物事が始まれば終結する日があり、だんだんと物事は悪くなっていくという一般的法則があるようです。今朝も、テレビのニュースを見ていると、「世の中は良くなっていると思いますか、悪くなっていると思いますか?」という調査で、九〇%の人達が、「悪くなっている」と答えたそうです。

 しかし、聖書の神様と出会う時、その逆の法則に気付かされるのです。その事がみ言葉の中に記されていました。 マタイの福音書十三章三十一節〜三十二節。

「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」

 イスラエルに行きますと、からし種の木というものがあります。私も見たことがありますが、その種はパウダーのような、本当に細かいものです。手のひらにのせて吹けば、飛ぶような小さなものです。しかし、そんな小さな種を地に蒔くと、やがて芽を出して成長し、どの野菜よりも大きくなって、やがて木となり、鳥が来て巣を作るほどに大きくなるのです。 そんなからし種の木を目の前にして、イエス様が語られたのは、「神の国は拡大する」ということでした。
 神の国の種が私たちの心に蒔かれると、それは拡大していく、とイエス様は語られたわけです。それも、努力とか修行によらず、「人手によらず」神の国は大きくなる、とイエス様は語られました。マルコ四章二十六節〜二十九節には、

「また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 自然界の法則でも分かるように、植物は人手によらず実を実らせます。りんごが実を実らせるために何か、特殊な努力をするわけではありません。柿の木が努力しながら実を実らせるわけではありません。気づくと実が結ばれているように、神の国も同じ法則を持っているのです。初めは小さな種かもしれないけど、それが大きくなって実を結びます、と聖書は語っています。
 これからの人生は尻つぼみではなく、神の国の種が蒔かれているならば、必ずそれは拡大していくものです。

 先週私は、もう一度韓国に行きました。韓国リバイバルミッションで色々とお世話になった方々に挨拶をして、感謝会を開くために行ってきました。多くの韓国の教会や、兄弟姉妹の助けによって、この働きが出来ました。また、日本の、特に、新城教会の兄弟姉妹に祈って頂き、多くの献金も捧げて頂いて、あのような大きな集会をする事ができました。心から感謝します。

 韓国で多くの方々と会いましたが、皆、本当に喜んでくださいました。今回はインチョンの三つの大きな教会が協力して下さり、開催することができましたが、その先生方も、「日本の兄弟姉妹の熱さに、心を打たれました。韓国人の方が熱いと思っていましたが、今回見たら、日本人のほうがずっと心が熱かった。韓国も燃えていた頃に戻りたい。これからも一緒にやりましょう」と言われました。私達も、もう一度やりたいと思っています。

韓国の「キリスト教新聞」という新聞社が、私の所に取材に来て、編集長が、「何でインチョンでやったんですか。ソウルでやるべきではなかったですか」と質問がされました。それで理由を話して、「やがて、ソウルでも開催したいです」と言うと、「それは大事なことです。ぜひやって下さい」と言われました。ミッションの実行委会の中でも祈りながら、色々と話しあったのですが、もう一度、韓国リバイバルミッションをやりたいと願っています。二年後くらいに、今度はソウルで、リバイバルミッションを開催したいと願っています。今回は伝統的な教会の方々とやりましたが、次回は、純粋にリバイバルを求める方々と一緒にやりたいと願っています。ここにも来てくれた、金監督やその事務局の方々と話したら、「二年後などと言わず、来年しましょう」と、燃えておられました。
一つの事が終わって、働きが尻つぼみになるのではなく、どんどん拡大していくのです。ですから皆さんの人生も、神の国の法則の中で、さらに拡大していく信仰の受け皿で受け取って頂きたいと思います。

この頃は家庭が崩壊し、社会が壊れ、どんどん悪い事が起こっている現実があります。特に、人間関係は難しいものです。私も、結婚して三十三年くらいになりますが、本当によくぞやってきたと思います。しかし感謝なことに、神の国の種がまかれているので、関係は拡大していると思います。
そもそも男性と女性では考え方も違います。男性は千円の価値のものでも、本当に必要だと思えば、二千円払ってでも手に入れようとします。しかし女性は違い、二千円が千円になっていれば、必要でなくても買ってしまいます。そもそも価値観が違うわけです。お互い恋愛している時はよいけれど、結婚すると家庭の中で色々、もめ事が起こり関係は先細ってくるわけです。しかし、神の国においてはそうではないのです。

七月四日には結婚式がありますから、ぜひ来て下さい。伊藤信也さんと加藤悦子さんの結婚式は、伝説の結婚式になりそうです。七月四日といえばアメリカの独立記念日ですから、そんな日を自分たちの結婚式に選ぶのには、相当、拡大を目論んでいるのではないかと思います。しかし、今の信也さんの心境は、少し複雑かもしれません。(笑)
私は先週ある本を読んでいて、「信也君のことでなければよいが・・・」と案じました。
「かっこいい服を着ると、『あなたって流行に振り回されて軽薄ね』と言われる。
流行りのかっこいい服を着ないと、『あなたってださくて恥ずかしい』と言われる。
話を聞きながら発言すると、『黙って聞いてよ』と言われる。
黙って聞いていると、『何か言ってよ』と言われる。
待ち合わせに三十分遅れていくと、『三十分も待たせるなんてひどい』と言われる。
自分が三十分遅れると、『三十分くらい何よ』と言われる。
やきもちをやくと、「縛られるのは嫌』と言われる。
やきもちをやかないと、『もう愛が無いのね』と言われる。
『そうだね』と賛成すると、『自分の考えがないのね』と言われる。
『そうじゃない』と反対すると、『理解がない人ね』と言われる。
ああ、男ってつらい・・・」とありました。先細りの人生を表わしている様です。

今日は父の日です。しかし、調査によれば、大体父の日というのは忘れられているそうです。皆さん、今日は覚えていましたか?私も忘れていました。今日の朝早く気づいて、先ほど司会をした四元雅也先生に、「今日は、何かプレゼントを用意していますか?」と聞くと、「用意してありますよ」と言われて安心しました。お父さんも辛いです。一生懸命働いても、なかなか評価されず、母の日は盛大に祝われるわけですが、父の日となると、「えっ、そんなのあったっけ・・・」と、さみしいものがあります。しかし、今日はお父さんに、「お疲れ様」と言ってあげて下さい。

先週、一冊の本を読んだら、「私は蜘蛛のようになりたい」と書かれていました。皆さん、蜘蛛という生き物は好きですか?「私は蜘蛛が大好きです」という人はどれくらいいますか?多分いないと思います。
しかし、もし蜘蛛がこの地上にいなければ、地球上は虫でいっぱいになるそうです。人間が考える以上に、蜘蛛は色々な虫を食べてくれています。そのおかげで、虫が適当に少なくなるそうです。だから蜘蛛をあまり殺してはいけないです。
お父さんも、同じような所があって、ちょっと嫌われるような所があるかもしれません。「お父さん、ダサい」とか「いや」と言われるかもしれませんが、蜘蛛のように、敵をやっつけて、家庭を守っている存在です。
私も誰から認められなくても、蜘蛛のような牧師になりたいと思っています。私たち一人一人に神は目を向けて下さっているのです。神の国の法則は、この世の中の法則に支配されません。

いつも話しますが、私達は、偶然にこの場に、偶然に生きているかのように思うかもしれませんが、決して偶然はないのです。聖書は、神様が一人一人の名を呼んで、呼び出して下さったのです。今日、皆さんがここに来たのは、色々な偶然が重なって来たように思うかもしれませんが、決してそうではないです。
自分の名前を呼ばれるというのは、とてもインパクトがあります。日本には同じような名字の方が多くいて、鈴木さんや田中さん、佐藤さんといった方々は慣れていると思いますが、案外、私のような「滝元」という苗字は少ないので、「滝元さん」と呼ばれると、びっくりすることがあります。

何年か前、東京でリバイバルミッションをしました。その際にリバイバル聖書神学校の生徒達が、路傍伝道をしました。上野公園に行って、ホームレスの方々にご飯やお菓子をあげて、伝道したそうです。そこに、本当にみすぼらしい、汚い格好で道に寝転んでいるおじいさんがいたそうです。そのおじさんに、「おじさん、何て名前?」とたずねると、「滝元順一」と答えたそうです。何となく、いやな感じがしましたが、その方が解放されるように祈りました。本当に“名前を呼ばれる”のはインパクトがあります。
実は、私たちは偶然に教会に来たように思うかもしれませんが、偶然と言うのは何一つありません。

イエス様がエリコという街に来た時の事が、聖書に記されています。ルカ十九章にあります。ザアカイという一人の男がエリコにいた事が記されています。彼は取税人という、税金を集める職業の人でした。当時は、ユダヤ人から税金を集め、ローマに税金を収めました。取税人は税金をうまく着服しているような人々で、とても嫌われていました。ですから、ザアカイは街で一番の嫌われ者でした。
しかし、そんな街に、イエス様が来られました。イエス様は有名人でしたから、皆がイエス様を見たくて集まってきました。ザアカイも、有名人のイエス様を一目見たいと思って、近づいていこうとしましが、皆から意地悪され、邪魔されました。背の低いザアカイは、イエス様に近づけませんでした。
しかしザアカイは知恵を働かせ、近くにあるいちじく桑の木に登り、イエス様を葉っぱの陰から見ていました。するとイエス様が近づいてこられ、木の下に立ち止まって見上げられ、何と言われたのかが、ルカの十九章五節に記されています。

「イエスはちょうどそこに来られて上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まることにしてあるから』」

イエス様も勝手です。ザアカイには何も許可をとっていなかったと思いますが、すでにザアカイはイエス様に知られ、イエス様は彼の家に泊まることに決めていたのです。ザアカイに向かって、「ザアカイ、降りて来なさい。私はあなたの家に泊まることにしていますから」と言われたのです。

これは何を表わしているのかと言うと、神様は、一人一人に関心を持っておられ、“一人一人の名前を呼んで、私たちの家に泊まって下さる”というのは、私たちの人生に来て下さるという事を意味します。
私たちのすべてご存じの神とともに生きる人生、何と素晴らしいではないでしょうか。

聖書を見ると、もっともっとすごいことが記されています。これも今まで、何度もお話しましたが、イザヤ四十六章三節に、

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。」

 私達は胎内にいるときからになわれており、生まれる前から運ばれたものだというのです。私の娘が二月に結婚し、十二月に出産することになっています。日々、お腹が大きくなって、この頃は家内のお腹の大きさを抜きました。さらに、私のお腹の出っ張り具合に迫っています。「ああ、本当に子供が中にいるんだな」と思います。どんな子が出てくるかと、ちょっと心配やら、嬉しいやらで、複雑な心境です。
 しかし、聖書を見ると本当にうれしい事に、「胎内にいるときから、私たちのことを知っているし、生まれる前から、神様が運んで下さっている」というのです。ですから間違って生まれたなどという子供は、誰ひとりいないのです。どんな不幸な背景で生まれたとしても、「命を与え、命を取ることができるのは、神以外にありません」から、この地上に息を持って生まれ出た以上、神が計画をもって、人を地上に作って下さった証拠です。
 エレミヤ書一章五節には、

「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」

 これはエレミヤに対して語られた言葉ですが、全人類に対して語られている言葉でもあります。神は一人一人に計画を持っておられるのです。胎内にいる時から知っていたというのならまだわかりますが、「あなたを胎内に形作る前から」あなたを知っていましたよ、告げられています。
 お母さんの胎に宿る前から、計画書が神の前にあったのです。神の国の法則を知っているならば、人生も捨てたものではありません。
 さらには、エペソ一章四節、この言葉はあまりにも大きくて深遠です。ここまでくるともうついていけないという感じです。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」

 世界の基の置かれる前から選ばれていた、というのです。聖書は、全宇宙には始まりがあったと主張しています。今の科学も同じ主張です。宇宙には始まりがあったというのは定説です。その原因について、科学では何も言いませんが、聖書にはそれは神様が創られたとあります。「初めに神が天と地を創造した」と。
 なんと、天地創造以前から、神が私を知っていて、生きる目的まで準備しておられ、み前できよく傷のないものにしようとした、とあります。

人生と言うのは時間が立てばたつほど傷が多くなるものです。先週、私は韓国にいく飛行機の中で中日新聞を読んでいたら“ちびまるこちゃん”が連載されていて、「青春について」のトークがありました。「青春って、だいぶつらそうだよ。」「そうなの?」「だいぶキツイみたいだよ」「そうなの?」ほのぼのとした会話がのっていました。「だいぶ傷ついたり、たくさんの汗や涙を流すみたいだよ」「そんなの知らなかった。青春になってみないとわからないね」というような内容の会話でした。

 人生は時が経てばたつほど、傷つき倒れることが多いのです。しかし、聖書は、「神のみ前で聖く、傷のない者にしようと計画している」というのです。
 何と、私たちの傷をいやして、私達に豊かな人生を与えようと、計画して下さっている、というのです。エペソ二章十節には、

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

これを、新共同訳聖書で読んでみますと、

「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです。」

 神が前もって準備して下さった“良い業”があるのです。一人一人のために、神が天地宇宙が出来る前から、計画して下さった“良い業”計画をお持ちですよ、と。それを受け取って歩んで下さい、そうすればあなたの人生は、捨てたものではないと聖書は語っているのです。

 私たちの心の中に、神の国の種が落ちますと(この種は神のみ言葉ですが)それがひとりでに大きくなって、神様のよい計画として成長していくのです。教会には様々な理由で来たのかもしれませんが、聖書のみことばを聞いていると、知らないうちに神の国の種が落ち、夜は寝て朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽をだし実を結んでいくのです。やがて、それは大きな木になって、信じられないくらいの拡大がありますよ、告げています。“よい業が用意されている”のです。

 この素晴らしい人生を手に入れるためには、どうしたらよいか、ということについて、聖書は次のように語っています。ルカ十二章三十一節に、

「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」

これと同じみ言葉が、マタイ六章三十三節

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 人生には優先順位の法則があります。何を優先していけばうまくいくのか、それが神の国です。
 人は何らかの世界観をもって生きていますから、それぞれの最優順位を設定して生きています。皆さんは何を優先にして、生きておられるでしょうか。人生で最優先のものが何ですか、と言われたら、何と答えられるでしょうか。様々なものがあると思いますが、それは皆さんの自由です。「私にはこんな夢があります。こんなビジョンがあります」それは良い事ですが、私たちの夢以上に、すえておかなければならない優先順位があるのです。それが、「何はともあれあなた方は神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて加えて与えられます」

 神の国を最優先にすると、知らないうちに人生はうまく動き始めるというのです。これは具体的には何を意味するのでしょうか。それは、イエス・キリストを最優先にするときに、他はついてくるということです。
 この頃はあまり見かけませんが、昔は雨戸というものがあり、夜寝る前に雨戸を閉める係が子供達でした。また、朝起きると雨戸をもとの戸袋に収めるのです。めんどくさいなぁと思いながら適当に雨戸を閉めていくと、最後の一本か二本が余って戸袋に入らなくなるのです。どうして入らなくなるのかというと、めんどくさがって最初の一本を、うまく納めていなかったからです。それで、はじめは入っても最後の二、三本が余ってしまうのです。もう一度雨戸をすべて引き出して、最初から入れ直さないと、最後の一本まで残らず入らないのです。そんな経験があるかも知れません。
 人生も同じです。最初の一本目をしっかり納めておかないと、次からが続いていかないのです。それが何かと言うと、「神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすればそれに加えて全てのものが与えられていきます」と、天と地と宇宙を造られた神を人生の中心において、人生を始めるのです。それが、神の国の法則です。

私は牧師という仕事をしていますが、牧師という仕事は、自己弁護をしているようですが、結構大変な仕事です。何故かと言えば、普通の仕事であれば何らかの“商品”がありますが、牧師にはないのです。何かを形にして、「どうぞ買って下さい」という、売り物がありません。聖書も一度買ったら、あまり買い換えませんから売れません。牧師の仕事は、聖書の枠組みの中でしか話ができず、その枠組みを超えたら牧師として認められません。「舌ベら一枚での勝負」です。
そして、その聖書はいつ頃書かれた書物かといいますと、一番新しい箇所で、二千年前です。旧約聖書となると、三千年前に書かれたような書物です。二〜三千年も前の書物をポンと手渡され、「この中から勝負しろ」と言われても、なかなか難しいのです。
日本の古文書といえば、古事記や日本書紀になりますが、それらは紀元七世紀位のものですが、あれを一冊もらって、「人生の法則を語れ」と言われても、なかなか難しいと思います。しかし牧師はそれ以上です。聖書から皆さんに法則を語るのです。それでも何らかの事が起きるとすれば、それは人の働きではなく、神の働きです。それは本当に、神がおられる証拠です。

この教会には色々な背景から、多くの方が来られています。しかし、神の国の種が蒔かれると、知らないうちにそれが成長していくのです。
先週、あるご家庭で恵まれた家庭集会をしました。そのご家庭だけでなく、その街に住む、いくつかの家庭の方々が集まり、一緒に神を礼拝する時を持ちました。
実はその家庭集会を開いて下さった家庭には、八年ぐらい前には、大きな悩みがありました。それは、ご長男が中学生でしたが、引きこもりになり、ベットに潜り込んで誰が呼んでも反応しませんでした。お母さんが涙ながらに教会に来られ、私たちも一緒にお祈りをしました。牧師は、聖書の法則をはみ出しては仕事ができませんから、聖書に記されているとおりにその方に話をし、聖書の神であるイエス・キリストに祈りました。

その方は、教会に来られる前、引きこもりから解放されるためのカウンセリングや、治療など、色々と試みていましたが、ほとんど効果がなかったのです。そんな所に牧師が行って、何ができるだろうか、と思いました。
初めは教会で話を聞いていましたが、一度お宅にお邪魔しなければいけないと思い、その家を訪問しました。そして少年に会ってみました。
「私は教会の牧師です。ちょっと話をしよう」と言っても、布団をかぶって、全く反応しませんでした。私も少々荒っぽい所があるので、無理矢理布団をはいだら、引っ張り返してじろりと睨まれ関係が断たれてしまいそうでした。それでもめげずに、次はお菓子を持っていくと、少しにっこりしましたが。テレビの前でゲームをしていて、私の事など全く相手にしません。

でも、そうこうしているうちに、神の国の種がその家に落ちたのです。夜は寝て、朝は起きて、やがて、その少年は元気になったのです。今では、誰と比べてもひけをとらない、素晴らしい青年に成長しました。
そのお母さんが、一番苦しい時に、「イエス様、もしもあなたが生きているならば、やがて私の家で家庭集会ができるくらいに変えて下さい」と、悩みのただ中で祈ったそうです。その時は、真っ暗闇で、どこにも出口が見えない時でした。そんな状況でしたが、その祈りは聞かれました。

先週の家庭集会には、周りの家庭の方々が来られ、それも、同じような問題を持って教会に来られて、解放された方々ばかりでした。本当にこの八年の間に、同じような問題を持っておられる方々が解放され、喜びの人生に変えられたのです。それを喜び、共に主のみ名をあがめました。
神の国というのは、初めは小さく見えるかもしれないけど、だんだん大きくなっていくのです。こうして教会に来られているのは“神の国と神の義を第一に求めている”事です。一週間の最初の日を、神に捧げ、神に礼拝を捧げることは、神の国と神の義を大事にしている証拠です。それに加えて、全てのものが与えられる、と聖書は教えています。この聖書のみ言葉を、信仰により、自分のものとして受け取って頂きたいと思います。

最初に読んだ聖書の箇所をもう一度お読みしたいと思います。マタイ十三章三十一節、

「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」

また、三十三節に、

「イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」

 パン屋さんというのはほんとうにいい仕事だと時々思います。(もしパン屋さんがおられたら失礼します)本当に、ちょっとの粉を大きくして売るのですから、ほとんどが空気のようなものです。空気を売れるのは、パン屋さんくらいかもしれません。何であんなに大きくなるのかと言えば、イースト菌というパン種をいれるからです。パン種を入れると、ちょっぴりの粉が大きくなるのです。神の国も同じです。イースト菌は、顕微鏡でなければ見えないようなものですが、それを粉に混ぜると、大きくなっていくのです。神様の働きも同じで、教会に来て、「神の国が植えられると大きくなっていく」とイエス様は言われたのです。

聖書の素晴らしさというのは、旧約聖書から新約聖書に到り、縮小ではなく拡大しているところが本当に素晴らしいです。聖書と言うのは筆記した人たちが四十名以上いて、中近東からアジア、ヨーロッパや色々な人々が書いたのですが、しかし神の霊によって集められ、一つの本を形成しているのです。これは人の手に寄らない、神が編集されたものだと信じています。それを読むと本当に、別々の所で、別々の人が書いたにも関わらず一貫性があり、テーマが保たれているのです。

新約聖書の最後は、黙示録です。ヨハネという人物が書いたのですが、この世の終りのことまで書かれています。しかし、世の終わりというと、すべてが無くなってしまうと考えやすいのですが、実はそうではなくて、神の国の拡大を表わしているのです。
ヨハネは、世の終わりの時の幻を神から見せられました。それが黙示録二十一章一節から五節まで、こんな幻をヨハネが見たと記されています。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

 それは、大きな新しいエルサレムが、天から降りてくる幻だったのです。その中を見ると、そこに住んでいる人達にはもはや死もなく、悲しみも、叫びもなかったというのです。以前のものが過ぎ去り、全てが新しくなっていたのです。
 実はヨハネが見た幻は、神の国を表わしています。それは、もちろん天地が改まる、究極的には世の終りの時に現されるものですが、同時に、人生のただ中に、神の国が降りてくる事を教えています。イエス様は、神の国は初め、からし種のように小さなものですが、蒔かれると大きな木になりますとこう言われました。
 しかし、最後にヨハネが見せられた神の国の幻は、巨大な天のエルサレムの幻でした。実はその大きさまで記されています。二十一章の十六節を見ると、

「都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。」

 何と、ヨハネが見た幻は、縦も横も長さも一万二千スタディオンという大きな立方体でした。それは、イエス様が言われたからし種の「神の国」が、やがてさらに拡大するという幻だったのです。一万二千スタディオンを現代の寸法に直すと、一スタディオンが百八十五メートルくらいであろうと言われ、それは、「二千二百二十キロ」になります。
 北海道から沖縄まで大体二千二百キロです。何とこの、一万二千スタディオンの正方形の立方体は日本全体を包み込みます。イエス様が語られた“からし種”ほどの神の国は、一辺が二千二百キロもの領域を含む巨大な領域として、地上に降りてきたのです。それは日本を、世界をすっぽり包むのに、十分な大きさであるわけです。

 神の国がどのくらい拡大するのか、ヨハネが見た幻以上に拡大するはずです。内側に蒔かれた種がどのくらい拡大するのか、大きな信仰をもちましょう。このまま人生が終わるだろうとは思わないで、神の国は大きく広がっていくというビジョンを持ちましょう。家族の中で一人のクリスチャンであるならば、必ず、家族を含み、親族を含み、地域を含むような大きな神の国として拡大するのです。

 私達は日本のリバイバルのために祈っていますが、このみ言葉を読む時、信仰を持つことができるのです。それは大きく拡大していくということです。神の国は何と関連性があるかというと、マタイ十二章二十八節に、

「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」

と語られています。神の国の拡大は、霊的戦いと共にあるのです。霊的戦いが押し進められ、敵の力が打ち砕かれていくと、神の国の領土はどんどん広がっていくのです。
 今年主は、「ただ日本だけで働くのではなく、韓国のリバイバルのために働きなさい」と語られました。初めは少し不安がありましたが、神からのみことばを受け止めました。
 しかし、今回のミッションは、私たちが考える以上に大きな戦いだったと思います。この教会でも、韓国リバイバルミッションを旗揚げしてから、色々な問題が起こったような気がします。特に一番大きな問題が何であったかと言うと、去年の七月に、韓国から七十名の方々が来られた後、「日本と韓国が一つとなって、神の国の働きを進めましょう!」と宣言し祈った後、一人の少年が倒れました。ご存じのように、それが中野向君でした。もちろん、そのような問題が、すべて霊的なものとは誤解しないで頂きたいのですが、もちろん病気などは色々な原因が重なって起きます。しかし、タイミングは、何らかの霊的関連性があると思います。
 私も彼のために一生懸命祈りましたが、彼は瀕死の重体でどうにもならない状況に陥りました。私は韓国リバイバルミッションのために、働かなければいけないのに、愛してやまない向君が倒れ、今にも死にそうな状況でした。皆も心をこめて真剣に祈って下さいました。
 ある人が私の所に来て、「先生、癒しも、霊的戦いも信じておられますよね。何で、こんな問題が起きるのですか。」と言いました。「人生の中には、わからないことが多くありますよ」と答えました。いくら信仰をもっていても、わからないことはありますから、一概に“これが原因だ”とは特定は出来ないのです。でも、私たちが出来ることは、「神に頼る」ことです。

 その方は言われました。「でも、彼が死んだら、シャレになりませんよ。皆、がっかりするじゃないですか」私もそう思いました。皆で真剣に祈りました。「主よ、どうか癒して下さい・・・」
 その祈りに答えて、主は素晴らしい事をして下さいました。医学的には難しい、この人はこのまま死んでいくでしょう、と言われていたのが、癒されて、皆の前に立つことができました。それは戦いの勝利の結果だと思いました。真剣に、韓国リバイバルミッションのため、お隣の国の神の国の拡大のために戦っていく時に、知らないうちに、この田舎の教会の神の国は拡大して、彼は癒されたのではないかと思います。

 先々週は、午後から韓国ミッションの感謝会がありました。そして送別会もあったので、夜はバーベキューパーティーをして、皆で楽しみました。本当に、「やれやれ、やっと終わった・・・」という感じでした。
 私のその日のメッセージは、「喜び、勝ち誇りなさい。敵は追い払われました」という、ゼパニヤ書のみ言葉を語らせて頂きました。
 パーティが終わって、向君と両親と話をしました。「彼には後遺症が残っていて、斜視になってしまい、一つのものが二つに見える」と言う事でした。
 向君はコップが二つに見える斜視になっていました。それで、専門の病院に行ったら、「これは手術が必要です」と言われました。その医者は名医で、予約が来年まで一杯だったのですが、緊急性もあり、「来週手術をしてもらえることになり、感謝です」ということでした。手術をすれば治るというので、よかったと思いました。
 その時向に、「これ、いくつに見える?」と聞くと、「二つに見える」「お母さんは?」「二人に見える」と答えました。でも、私たちは別れ際に、彼のために祈りました。私には信仰などありませんでしたが、手術で治るなら、それでよいと思っていたので、「手術がうまくいくように」と祈りしました。
 しかし、韓国リバイバルミッションで、神の国を拡大したならば、彼の上に勝利が表わさますようにと、彼の頭に手を置いて祈りました。目を開くと、周りの方々が彼の上に手を置いて、祈っていました。

 彼は家に帰って行きましたが、その後何が起こったと思いますか。何と、その斜視が完全に治ったのです。その後、医者に行くと医者がびっくりして、「これは神がかり的な事だ!」と、騒ぎになったそうです。向の人相まで変わりました。誰もそんな奇跡を期待していませんでしたが、癒されました。神の国の拡大は、熱心な祈りとか、我々の努力ではないと思いました。神が働いて下さり、人手によらず、拡大するのだと思います。
 手術の予約はキャンセルされ、中止になりました。これは神の国拡大の証拠だと思います。

 皆さん、奇跡は起こります。彼が生きていること自体そうですが。私は、これにはとても大きな霊的意味を含んでいると思います。今まで、日本と韓国のクリスチャンの目が、別々のところへ「向」いていたのが、神の国が拡大して、同じように見る様になったという、預言的意味があると信じます。そのような霊的解放が、今回の韓国リバイバルミッションで勝ち取られたのではないかと思います。

 彼は皆さんの中の誰よりも、死に近づいた男です。一歩先は死でした。しかし、神が勝利を与えて下さいました。素晴らしい奇跡を与えて下さった主に、もう一度大きな拍手をしましょう。ハレルヤ!

主は生きておられます。神の国は拡大します。私たちが戦い続けていく時に、必ず神の国は拡大します。あのヨハネが見た幻以上に、神の国は拡大します。そんな神の国を見たいと思います。イエス様に期待しましょう!
 最後に一言祈って終りにします。

 ハレルヤ、父なる神様、み名をあがめて感謝します。あなたは神の国を拡大して下さる方である事を心から感謝します。今週は、夜は寝て朝は起き、そうこうしているうちに種が実を結んでいきますように。神の国が拡大していきますように。人手によらず向の目を癒して下さったことを、心から感謝します。私たちの霊的な目も癒して下さい。預言的な現われを心から感謝します。私たちが一つのものを、一つとして見ることができますように。一人を一人として見ることが出来ますように。イエス様、あなたを見つめ続けることが出来ますように。今日のこの時を心から感謝します。今から私たちは、あなたが流して下さった十字架の血潮を記念して、聖餐式を行います。その中で、もっと深く、あなたと交わることが出来ますように。イエス様の素晴らしさを味わう事ができますように。神の国を一人一人の上に拡大して下さい。イエス様のお名前を通し、祈りをみ前にお捧げいたします。アーメン!


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