「再び燃え立たせて下さい」


2009.6.28(SUN)
新城教会 上條 実 牧師

第2テモテへの手紙 1章6節〜7節
それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

ハレルヤ。いつもお祈りを心から感謝します。週報の報告欄に記載されていますが昨日の朝7時頃、豊橋市在住のI兄が召天されました。今日の夜に前夜式、また明日のお昼から葬儀がおこなわれます。是非覚えてお祈りくだり、都合のつく方はご列席下されば感謝です。I兄は、数年前から前立腺の癌を患っておられました。近日はだいぶお体が弱っておられましたが、感謝なことに痛みもありませんでした。召天される前日の先週金曜日には、シオンタイム(お年寄りたちの集会)にも参加され、みなで一緒に賛美をし、証しもされていました。最後の最後までイエス様をほめたたえ、イエス様を第一としておられた方です。私も何度かご自宅に訪問させていただきました。特別先週の木曜日にお会いしたときには、I兄と共にもう一度イエス様を受け入れるお祈りをすることができました。「イエスさま、あなたを私の神さまとして信じます。イエスキリストが私のために十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえられた事を信じ受け入れます。」などお祈りする事ができました。はっきりとした声で共に祈ってくださいました。そして交わりの中で「クリスチャンって最高ですよね、死後行くところがハッキリわかっているから本当に感謝ですね」という会話もしました。とても神さまを愛しておられる方でした。I兄は今日、確かに天のみ国、永遠の都の住人となってこの礼拝を見ておられることと思います。是非ご家族の慰めをお祈り下さるとともに前夜式と葬儀が祝福されるようにお祈りください。
では先ほどお読みしましたみことばから、『再び燃え立たせて下さい』というタイトルでお話ししていきたいと思います。このみことばは一ヶ月前の韓国のリバイバルミッション後に与えられたみことばです。六節に『私はあなたに注意したい』とありますが、このところを読んだとき、あたかも神さまご自身が私の耳元で語って下さったような気がしました。何を注意するかというと『私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。』ということでした。正直韓国リバイバルミッションが大変祝福されて終了し安堵感がありました。しかしこれで力を抜くのではなく、再び燃やされていくべきであることを教えられました。
皆さんが今もっておられる聖書は、世界最高の書物です。近頃日本の政治の中で、新しい政党ができたのをご存じでしょうか?一つの新興宗教である幸福の科学という宗教団体が「幸福実現党」という党を作りました。そしてこのド田舎である茶臼山の駅前にも、党首の写真が印刷されたポスターが貼ってあるのを見て驚きました。まもなく総選挙も近いので政治の中に主の守りと祝福があるようにとりなしの祈りをささげていかなければならないと思います。彼らは憲法9条を変えたいと訴えています。現在私たちは日本国憲法の中で、日本人として生活しています。感謝な事に信教の自由が保障されています。だから今日も自由に礼拝を持つことができます。また戦争がなく、平和でいられるのも本当に感謝なことです。憲法を改正するということは大変な事です。憲法の一文だけでも替えることは決して容易ではありません。議論に議論を重ね、改正されてます。しかし今皆さんが手にしている聖書は、そんな憲法と比べる事のできない、権威のあることばです。書き始められて四千年も経っている書物です。しかし今まで一点一画変えられたことのない、またこれからも変わる事のない権威のことば、それが聖書です。ヨハネの福音書一章一節にこんな言葉があります。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

聖書イコール、イエス・キリストであると述べています。一点一画変わらない聖書のことばはものすごく古い本ではありますが、今も生きていることば。いや永遠に生きることばが聖書です。私たちはだれも毎日日本国憲法を持ち歩いている人はいません。しかし私たちはいつも気軽に聖書を持ち歩き、毎日読むことができます。聖書は私たちの人生を導くマニュアルです。一点一画変わらない今も生きて働き、悪魔、悪霊に対して勝利するみことばをしっかり握って頂きたいと願います。その時神さまが大いなる祝福を与えて下さいます。そのみことばによって教えられて、去年の夏から今に至るまで、この教会では韓国のために熱く祈り続けてきました。この新城教会の皆さんの祈りとご協力がなければ、「韓国リバイバルミッション」は絶対にできなかったといっても過言ではありません。皆さんのお祈りと尊いささげものを感謝致します。先週の木曜日にも、電話で韓国の先生とお話しをする機会がありました。その韓国の先生が「韓国リバイバルミッションは大変祝福された。特に日本の方々が聖霊に燃やされて熱く奉仕をされていた事に感銘を受け、恵まれました。」という事でした。また韓国リバイバルミッションに向けて、この礼拝でハングルで賛美を多くささげ、韓国の祝福、韓国のリバイバル、南北の壁、韓国と日本の壁が崩されるように祈りを積んできました。今までささげられてきた祈りによって勝利があった事を感謝します。皆さんと日本中の祈りの勇士によって祝福された事を心から感謝致します。そんななか韓国リバイバルミッションの大会中、与えられたみ言葉があります。先々週岡本牧師も同じ所を教えられていましたが、それはマタイの福音書一八章二三節〜三五節です。

『このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」』

これは、有名な聖書箇所です。一万タラントとは、どれくらいの価値があるのでしょうか。聖書の注釈を見ますと、一タラントは六千デナリに相当するとのことです。一デナリは一日分の給金だと言います。仮に一年間に三〇〇日仕事をしたとすると、一タラントは、二十年分の給金になります。それはとっても大金なのですが、このしもべが借りていたのは一万タラントだったと言います。計算すると二十万年分の給金に相当するのです。とてつもない金額です。返却不可能な金額であることがわかります。このしもべは、王に必死に借金を免除してもらえるように懇願しました。それを見た王は、彼を可哀想に思い、その二〇万年分の給金に相当する金額を全額許したのです。同様にイエスキリストは、どれだ
け罪を犯した罪人でさえ、全てを許して下さいます。これは、本当に素晴らしい喜びです。返すことのできない負債を、主は負ってくださり、全てを赦して下さったのです。その二十万年分の給金を赦されたしもべは、百デナリを貸した人に出会ったと書かれています。彼はその百デナリ借りている人を捕まえて「借金を返せ」と詰め寄ったというのです。百デナリですので、百日分ほどの給金です。しかし巨額な金額を許されたばかりのしもべが、百デナリをのために友人を許さず、牢屋にまで入れてしまったというのです。その一部始終を、王のしもべが見ていて、そのことを王に伝えました。すると王は「なぜ許せなかったのか、お前が人にしたように、私もお前を獄屋に引き渡す」と言って、そのしもべは、牢屋に入れられました。みことばの一番最後には

『あなた方もそれぞれ心から兄弟を許さないならば、天のわたしの父も、あなたがたにこのようになさるのです。』

と書かれています。同じように兄弟を赦しなさいという事が書かれています。韓国リバイバルミッションの大会前日の二八日に、韓国側の主導で聖会が行われたことは皆さんもご存じかと思います。そこには、大勢の人が集まりました。約一万人ほどが集いました。しかし集会が終わり、皆が帰った後、会場内は大量のゴミが散乱している状態でした。そしてその大量のゴミを、私たちが分別して処分しなければならないと聞いたときには、気が遠くなるような思いでした。しかし私は何を置いてもこのゴミ処分の時間が最高に恵まれた一時でした。神さまから私達に足りていなかった、ある重要なことを神様から教えられたような気がします。韓国リバイバルミッションは、テーマのみ言葉から、「回復」というテーマで祈りが積まれていました。テーマとなったみ言葉は、エレミヤ三一章三節〜六節。

『主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ。」』

大会には、延べ一万五千九三二人が集まりました。本当に祝福されました。特に日本人と韓国の方が一緒に抱きあいながら、涙を持って祈る和解の姿を見て、私も本当に感動しました。今まで、歴史の中で、多大なご迷惑をかけてきた韓国の方々が、日本人と一緒になって、許しを祈ってくださっている姿は、見ていて本当に感動的でした。回復の御業、建て直しの業を見ることができました。霊の世界では大きな解放が起こされた事と信じます。大きな一歩だったことを感じてました。

しかし、大会前日の二八日の聖会後、私達は大きな戦いを経験しました。その聖会が始まったのが夕方の六時半で、夕食時でもあり、集まった会衆はワイワイ言いながら、お弁当や飲み物のペットボトルを開けて食事をしていました。しかし集会後それらのゴミ全てを、置いて帰っていってしまったのです。聖会後の会場は、ゴミが散乱していました。そして、私たちが掃除をしなければならないことを聞いた時、正直言って本当に不愉快な気持ちになりました。ミッション側の支払いで、とても高級な貴賓室などを設け、日本では必要としない所に多額のお金をかけるという不愉快な気持ちが要所要所にありました。そして追い打ちをかけてゴミ収集をさせられたときは、なんという事だと韓国を裁いてしまいました。ペットボトルの中に残った水分を捨て、食べ物の残りかすをすべて処分しました。またパンフレットやチラシをそのまま置いていき、山のようなゴミと、とてつもない匂いがしました。その片づけは夜中までかかりました。その二八日を主催した韓国の方々は集会が終わると、そそくさと帰って行かれました。それを目の当たりにし、正直私は、憤りを覚えていました。そんな中滝元順先生が「ここで腹を立てたら霊的に負けだ。とにかく、これが霊的戦いなのだから。今回は韓国の仕えるために来たのだから、頑張れ!」と言われました。そのことばで私の目が覚めました。「仕えるために韓国に来た」という言葉が私の心に刺さりました。回復のために開催しようとしている「韓国リバイバルミッション」であるにも関わらず、このゴミの件で韓国との間に、自ら壁を築くような思いを抱いていることを心から恥ずかしいと思いました。主の前に、このことの許しを一生懸命に祈り、とにかく許さなければならないと思い、片づけ始めるとそこにいた奉仕者がみんな喜びに満ちながら奉仕を終える事ができました。その後私の心に与えられたことばが、先ほどのマタイ一八章二三節〜三五節でした。あのストーリーの中で、一万タラントを借金したしもべは、私であり、日本だと教えられました。そして、百デナリを借金したのが、韓国ではないかと思います。今まで日本は韓国に対して、多大なご迷惑をかけました。韓国の方々の名字を奪い、神社を強制的に拝ませたりしました。これに従わない者に対しては、とんでもない拷問を加えました。多くのクリスチャンは神社参拝するより信仰を守り通し、殉教して行きました。もしも今、私達が同じ立場であったらどうでしょうか?なんと日本は大変な事を韓国の方々に行ってきました。想像を絶する辛さであったかと思います。しかし、私はといえばゴミの回収というその一件のことで、許せない思いがありました。また従軍慰安婦のことなどを考えてみても、本当に悲惨です。もしも、自分の娘や妻が、強制的に連れて行かれ、性奴隷のようなことをされたらどうでしょう。その苦しみたるや、いかなるものだろうかと思います。韓国リバイバルミッションの前に行われたセミナーで、語られていた「日本は無知で無関心だ」ということでした。日本の教科書では韓国に対して、日本がどんなに悪いことをしてきたのかは全くと言っていいほど触れていません。しかし、一方韓国では、これらの事実について、しっかりと教育され、韓国の中には未だに強い反日感情が存在します。一万タラントの負債、いやそれ以上の負債が、私たちは韓国の人たちに対して負っています。しかしただのゴミのことごときで腹を立ててしまった自分を恥ずかしく思いました。文化の違いによって、コミュニケーションがうまくいかないこともしばしばで、自分の中で、嫌な気持ちが積もり積もっていたことも事実です。しかし今回口では赦すと良いながら、あまりにも、無関心で、無知で、自己中心でした。「韓国に仕えるために来たのではないか」と言われたとき、滝元順先生ではなく神が私に声をかけてくださったようでした。その後は使える姿勢で奉仕させて頂きました。韓日関係の回復、また南北朝鮮の和解を心から主に期待して働かせていただきました。
さて祈ってきました「韓国リバイバルミッション」は終わりました。しかしこれで終わりとしてしまってはいけない。と教えられました。「あなたに注意したいことがあります」と語って下さいました。韓国が終わった今、もう一度、自分が無知な部分、無関心な部分を悔い改め、韓国のために祈り続けなければなりません。また韓国だけでなく私たちは、キリストを通して自分自身の事を考えなくてはいけないと思わされました。私たちはあらゆる点で、人との間に多くの壁を築いているのではないかと思います。日本は傷つけた側です。しかし傷つけられた人たちは、傷つけられたことをよく覚えています。私たちは、
度々、壁を取り除く祈りをしてきました。しかしもう一度、みことばに注意を払い、みことばから、更に神が私たちに、望んでおられる回復、壁が崩されるように、更に力一杯祈って行かなくてはいけない事に気づかされました。まだ自分の中に主にあって「無関心・無知」があると教えられました。マタイ七章一節〜二節には

『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』

皆さんの中に人を裁く心を持っておられる方はいないでしょうか。私自身、人を裁く専門家のような者だと思います。二〇年以上前の話ですが、教会にある方から電話がありました。電話に出た瞬間から、その方は、訳のわからない悪口を言い続け、一方的に電話を切られました。その時私は「なんだこの人は・・・」とひどく裁く心を持ったことを思い出します。私は最悪最低なものです。人のいやしを求めるのではなく、裁いてしまいました。しかし、聖書は、『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』と述べています。仕事仲間の中で、家族の中で、夫婦の中で、裁いてしまっている人はいませんか?特にひとつにとならなくてならない夫婦の態度、ことば、思いやりなどを受け入れる事ができず、自分勝手、そしてさばき、憎しみあうようになっていませんか?こんな人と結婚しなかったら良かったなど愛がさめてしまっている家庭はありませんか?聖書は量った通りに量られているというのです。またルカ六章三七節〜三八節

『さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」』

今日このみ言葉をよく覚えてください。人を裁いてはいけません。裁いたら、自分も裁かれます。人を罪に定めたら、あなたも罪に定められます。聖書はとにかく赦しなさいといっています。あの人がと相手ばかりを攻めるのではなく、その解決方法はあなたが許せば関係が良くなっていきます。今日胸に手を置いて、自分が毎日語っている言葉、人に対してとっている態度、どの様に人々を量っているかを点検しましょう。また、今まで、見下げた思いを抱いていた人達に関して、全てを自分より勝っていると見る事ができるように祈らなくてはいけません。ローマ人への手紙一四章一節には

『あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。』

霊的戦いをしていく中で、これは、本当に必要なことであると感じます。戦いに開かれている人、開かれていない人、色んな方がおられます。また戦いが理解できている教会とできていない教会があります。他の教会から来た方々と交わってみると、「私たちの教会では、今まで偶像を拝むことが罪だなんて、聞いたことがありません」と言う方がおられます。そういった意見に出くわすとき、私は、すぐに裁いていました。「聖書の中で、モーセの十戒を見れば、偶像礼拝が罪であることは明らかだろう…」とその教会を裁いてしまいます。しかしそれぞれの教会は、神様の選びの中にあり、それぞれの教会には違った役割があるのです。私たちが裁く事ではありません。他教会のために心から祝福を祈るべきです。先ほどの聖書のみ言葉には、信仰の弱い人と書いてあります。生活の中で常に聖書と照らし合わせて、もっと注意して生活していく必要があります。またルカ六章二七節〜二八節

『しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたのしかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。』

今、人間関係の中で、辛くて、苦しんでいる方がおられるかもしれません。世の中の法律は変わりますが、一点一画変わらない聖書のみことばは『あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。』と述べています。決して、仕返ししなさいとは書いていません。また、『あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。』といっています。憎む人に善を行う。祝福する。実際は簡単なことではありません。しかし神様は、これを望んでおられるのです。ルカ六章二九節〜三〇節

『あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。』

殴られたら殴り返したいのが、人間の心理です。言われたら言い返したいのが心理です。しかし、主は、復讐を喜ばれません。またルカ六章三一節〜三八節

『自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」』

このみ言葉を受け入れ、このみことばを実践していくことを決心し祈りましょう。エペソ二章一三節〜一四節

『しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、』

これは、韓国のテーマのみ言葉と平行して、よく用いられていたみ言葉です。二つのものを一つにするのは、キリストによらなければ不可能です。現代は、多くの家庭が崩れています。また、夫婦の関係も崩れてしまっています。一緒に居たとしても、何かあると、すぐに相手のせいにしてしまいます。大義名分をつけて相手を責めますが、自分に目を向けることをしません。あなたが反省しなさいと言われても、なかなか、反省できないものです。確かに悪いところはあったかもしれないということは認めても、自分をどうにかして正当化させようとします。自分の事は棚に上げてしまって人のことばかり責めてしまうものです。二〇万年以上の給金以上の負債を私たちは負っています。今日、もう一度、み言葉に心をとめましょう。第二テモテ一章六節〜七節には

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。』

韓国リバイバルミッションが終わり、このみ言葉を頂いたとき、韓国のために祈りをストップしています。あれだけ聖霊さまに導かれて祈ったにもかかわらず、熱さが無くなってしまっています。燃えていないのです。再度祈っていかなければならないことを教えられました。またそれと同時に、キリストの体である教会が、また家族が、互いに愛し合い、体の末端に至るまで、全てが生きた体となることができるように祈っていく必要があることを教えられました。私達が互いに対し、無関心、無知になっていませんでしょうか?ことなく、また、自分自身の言動にもよく注意していくことが必要です。韓国リバイバルミッションは素晴らしく祝福されました。これで終わりと考えてはいけないと思います。『按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。』とあるように、韓国の回復をなお祈り続けましょう。またそれと共に、教会、家族の中の回復をも求めて祈りましょう。憎しみの壁があったら、私達は決してひとつになることはできません。私達は各器官が一致して体が存在しています。体には多くの血管があります。その血管が切れてそのままになってしまっていたら体は死んでしまいます。また、手の指先一本が痛むだけでも本当に不自由な思いをします。一部分だけでも、痛みがあると、体全体が不自由な思いをするのです。一つの器官が苦しむと体全体が苦しむのです。私達は今日、もう一度、主の前に、へりくだる心を持ってみ前に出たいと思います。私は第二テモテ一章七節

『神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』

このみ言葉を頂いて、私は心から感謝しました。私達の生ける神様は、私達を滅ぼしたり、怖がらせたりする神様ではありません。力があり、癒しや奇跡を行われるパワー溢れる真の神様です。同時に愛なる神様です。ですから私達が更に聖霊に満たされて、聖霊の油注ぎを頂くときに、今まで欠乏していた愛が、心の中に満たされていきます。油注ぎによって、無関心、無知だった心に、愛が注がれるのです。イエス・キリストを愛する心だけではなく、同時に、周りの人々を愛する愛の心が与えられます。そして、聖書は、『慎みの霊』とあります。私達はついつい出過ぎてしまって、語り過ぎてしまって、多くの人を傷つけてきました。しかし、油注ぎを頂き、力を頂くときに、聖霊によって、慎みの霊を受けることができます。今までは、とっさに、思ってしまった悪いこと、語ってしまったことが、慎みの霊によってコントロールされ、人間関係の中や神様との関係の中にあっても、正しい歩みができるということを知って下さい。私達には、色々な戦いの中にあります。今日は、特別許せない人を許す祈りをしましょう。主の前に出て、私達が日々営んでいるコミュニケーションの中に、油を注いで頂いて、今週は、皆さんが憎しみから解放され、人間関係が変えられたことを体感することができる週となるように祈りましょう。あなたが変われば、人々が変わります。「言葉が優しくなった」とか「丸くなった」とか言われるくらいに、油注ぎによって変えていただきましょう。無関心、無知を無くしましょう。常に主にあって関心を持って行きましょう。韓国ミッションリバイバルに対し、私達は祈りました。燃えました。一ヶ月経って『再び燃え立たせてください』とあるように、今度は、私達の教会が、地域が、家庭が、家族が回復するように祈りましょう。今までそびえ立っていた隔ての壁が崩され、ひとつとなるように、今日は特別祈りましょう。相手をとがめることをやめて、今日は、許しの祈りをしましょう。今から聖餐式をいただきますが、これは、二〇万年分給金の負債を許されたしもべのように、十字架の血によって赦され解放されたように、この聖餐式をもって祝福を頂きましょう。あなたが心から罪を悔い改めれば、罪は赦されます。あなたが相手を許したとき、あなたも許されます。聖書は『わたしはもう二度と、その罪を思い出さない』と語っています。今朝このみ言葉を読んで、私は心から感謝をささげました。赦されている幸せをもう一度、体験し、かみしめ、今日、心から祈りましょう。聖餐式を受け、もう一度燃え立たせていただけるように祈りましょう。一言お祈りします。

<祈り>
「愛する主よ。あなたの十字架を感謝します。私達には、返すことのできない負債がありました。しかし、あなたの十字架によって、負債が全て許されたことを心から感謝します。聖書の中に、自分を吟味して、聖餐をいただきないとあります。今日もう一度反省し、赦し、悔い改めることができるように、熱く祈れるように祈りを回復させて下さい。聖霊さま来て下さい。この聖餐式の中で、豊かに触れて下さい。臨んでください。力と愛と慎みの霊を注いでください。無関心、無知を許して下さい。熱く祈り、一つとなる事ができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります  アーメン。」


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