「孤独と絶望からの解放」


2009.7.5(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

マルコの福音書 5章1〜5節
こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。

 ハレルヤ!素晴らしい聖歌隊の賛美を心から感謝します。いつもは、あまり聖歌隊に拍手をしてはいませんが、感謝の心をこめて、大きな拍手を送りましょう。有難うございました。聖歌隊の賛美にあったように、「わがたま、いざ称えよ、大いなるみ神を」と、私たちを造って下さった神を礼拝できることを、心から感謝します。

 先週の月曜日は、ここで伊藤光次さんのお葬式があり、悲しいひと時でした。しかし、昨日は、同じ会場で、結婚式が行われました。伊藤信也君と加藤悦子さんが、ご結婚されました。葬式と結婚式が、同じ会場で出来るのは教会以外にはないでしょう。一般の社会においては、葬式をする場所は毛嫌いされがちで、決して、同じ場所で結婚式を挙げることはしません。「この度、斎場にて結婚式を行いますので是非ご参加下さい」などと招待されたとしたら、どうでしょうか。行きたくないと思います。しかし、教会は同じ場所で両方することが出来ます。先週の月曜日には、この場所に棺が置かれていましたが、昨日は、同じ場所に、花婿と花嫁が立っていて、今日は私が立っている、という具合です。

 何故、このようなことが可能なのでしょうか。それは、「生きるも、死ぬも、すべて神のみ手のなかにある」という信仰と事実に基づき、生と死の境目がないからです。イエス・キリストを信じるとき、私達は、一般に「縁起」といった物事に左右されなくなるのです。常に、どんな時でも、主が共におられ、今日もここにイエス様がおられるのです。

 昨日の結婚式の写真を、結婚式に参加できなかった方々のためにお見せしたいと思います。花嫁は、本当に驚くほど綺麗でした。そして、信也君も立派な出で立ちでした。皆さん、お二人に、大きな拍手をしてあげて下さい。本当に素晴らしい、盛大な結婚式でした。

 もう一つ、嬉しいお知らせは、韓国リバイバルミッションのために、八ヶ月間、韓国で、孤独と絶望をくぐり抜け、戦い抜いた岡本泉さんが帰って来たことです。孤独と絶望というのは冗談で、「韓国が今まで行った国の中で、一番楽しかった」と、喜んで帰って来ました。
 彼女は、韓国語が全くできない中、一人韓国へ渡りました。彼女の勇気には、本当に驚かされます。韓国リバイバルミッションは、彼女がいなかったら、実現できなかったこと思います。しかし、この八か月で韓国語をマスターしたのには、さらに驚かされました。韓国では、上下関係が厳しく、特に、目上の人に対しては、丁寧語を使わなければならないので、韓国に居る間に、日本では使い慣れなかった尊敬語もマスターしてきたようです。
 韓国ミッションは、皆さんからの熱き祈りとご協力によって、成し遂げられたことを覚え、心から改めて感謝します。韓国リバイバルミッションが終わった今、心機一転、広げられた神の国を、さらに広げていきたいと願っています。

 さて、聖書のみ言葉を学んでいきたいと思いますが、今日の主題は、「孤独と絶望からの解放」です。
 現代社会を見るとき、人々は忙しく動き回り、とても華やかに見える一面もありますが、実は、そこには多くの孤独と絶望が存在していることも確かです。そのような中で苦しんでいる人々が多くおられます。
 先日、世界的歌手として活躍した、マイケル・ジャクソンが亡くなりました。お金を稼ぎ、名声もあり、全てを持っているかのように思われる彼ですが、彼の人生を顧みるとき、決して幸せとは言えない側面が見え隠れしてます。スポットライトを浴び、多くの人から称賛されていても、夜は薬を使わなければ眠ることが出来ず、孤独と絶望の中で終えた寂しい人生でした。
 新城に、何度か来て下さったアルフィー・サイラスさんは、ロンドンで行われる予定だったマイケル・ジャクソン・コンサートのバックコーラスになっていたそうです。そのため彼女は、彼が亡くなる前日まで共に練習していたそうです。人生とは、わからないものです。

 しかし、そんな分からない人生でも、イエス・キリストを信じ受け入れたら、どんな境遇にあっても、希望を持って生き抜くことが出来るのです。私達クリスチャンは、「死んだ」という時、それは「永遠に生きる」ことを意味します。この地上において、人間は不自由な「肉体の幕屋」に入れられていますが、この幕屋を脱ぎ捨てた瞬間、永遠の体に宿り、死も苦しみも悲しみもない所で、永遠に生きることが許されるのです。ですから、「孤独と絶望」はありえないのです。

 最初にお読みした聖書の箇所は、ゲラサという場所において、イエス様がなされた奇跡について記しています。ゲラサという地域にイエス様が入られた時、最初に出会った人物は、どんな人物だったのでしょうか。彼について聖書は、「墓場に住み着いており、誰も彼を抑えるだけの力がなかった」と記しています。イエスさまは、墓場を住処とする、非常に凶暴な男と出会ったわけです。

「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」

 人間は神によって創造されました。したがって、神は、人間の世界に起こる諸問題を、自ら解決する能力を人類に与えられました。その証拠に、いやしの機関である病院に行けば、近ごろでは多くの病が治ります。昔は、非常に恐れられていたガンという病も、最近では、徐々に知識が進み、初期段階であれば、高い確率で治るようになりました。人間が人間の力で、病気を治すことが可能となってきたわけです。
 このようにして、私達は、日々の社会生活の中で、ある領域の問題解決のため、お互い仕えあっているのです。人生の様々な問題を、誰かによって解決してもらう、お互いがお互いを修理し合うのが、私たちが生きている社会ではないかと思います。

 しかしながら一方では、周囲を見回すとき、聖書にあるように、「誰にも彼を抑える力がなかった」というような問題や人物が多く存在することも確かです。誰が関わっても、どうにもならない問題が多くあるのです。聖書で描かれている、このゲラサの男は、まさにそれでした。誰にも、どうすることも出来ない、手に負えない存在でした。そんな彼を、イエス様が解放し、いやされた、というのが、このマルコ五章のストーリーです。

 ここで、『イエスが船から上がられると、すぐに汚れた霊につかれた人が墓場から出てきてイエスを迎えた』とあります。何と、彼は、汚れた霊に支配されていたのです。
 先ほども触れましたが、人間は、自分たちの力で問題を解決出来る機能を神から与えられています。しかしながら、私達の手に負えない、「誰にも抑えることが出来ない」といった類の問題が存在することも確かです。これについて、聖書は、「他者の力が加わっている」と教えています。このゲラサの男を、現代社会に置き換えるならば、一般的な言い方では、「精神的に問題を抱えた人」と言われるでしょう。おそらく今日ならば、強い薬が投与され、鉄格子の中に、むりやり収容されてしまうような人なのかもしれません。

 しかし、ここで注目すべき点があります。それは、「誰にも手に負えない」という状況に関して、聖書は、「汚れた霊の影響があった」というのです。どうにもならない問題が数多くありますが、それら諸問題について聖書は、背後に、「汚れた霊」が働いていると語っているのです。
 勿論、全ての問題が「汚れた霊」によって引き起こされるのではありません。しかしながら、人間が知恵を用い、総力をあげて関わっても解決できない問題の背後には、「汚れた霊」の力が働いている可能性が高いのです。

 では、この「誰の手にも負えない男」を解放するために、イエス様は何をなさったのでしょうか。それは、「汚れた霊」を追い出し、その結果、「彼が良くなった」という事実を見ることができます。

五章六節〜十節には、

彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。

 この悪霊には名前があったことが分かります。それは、「レギオン」という名前でした。しかし、「レギオン」とは、本来、名前というより、「数の単位」でした。
 当時、このゲラサという地域には、「レギオン」と呼ばれるローマ軍が駐屯しており、それは、およそ五千人から六千人の兵を要する、「一個大隊」を現す単位でした。現実にも、軍団が地域に遣わされていたのです。
 しかし、興味深いことは、目に見えない世界においても、これと同じ単位と名称を用いた、「レギオン」が関わっていたことです。その結果、男は、誰にも手に負えない状況に陥っていたのです。
 ある注解書では、「レギオン」について、「統率がとれていて、ひとつの意図の下、組織的に活動する恐るべき存在」と定義していました。したがって、この「レギオン」というのは、単なる烏合の衆でなく、「一つの意志によって、一つの目的のために動く恐るべき軍団」を意味します。彼らの存在故に、その男は、どうにもならない状況に陥っていたのです。

 教会に助けを求めて来られる方々の中には、どう対処して差し上げればよいのか、分からない大きな問題を抱えている方が多くおられます。社会のどこに持っていっても、解決せず、政府が総力をあげて働いたとしても、どうにもならない、大きな問題を抱え、教会のドアをノックするのです。
 牧師は、そういった意味においては、大変な仕事と言えます。自己弁護のように聞こえるかもしれませんが、牧師には、見える形で売る商品がありません。八百屋であれば、野菜があります。レストランであれば、提供できる料理があります。しかし、牧師は舌ベら一枚で勝負しなければなりません。しかも、二千年前に書き終えられたような、一般的には、古文書と呼ばれる本一冊で勝負しろというのですから大変です。たとえば、古事記や日本書紀を渡され、「これ一冊で勝負しろ」と言われたら、非常に困難だと思います。しかし、牧師は、聖書一冊に全てをかけて、勝負しなくてはならないわけです。
 しかしながら、この聖書によって、様々な問題を抱えた方々が解放される姿は、聖書が本物であることの証拠です。

 先日、この教会に、一人の女性が来られました。それは若い方でした。彼女は、誰の手にも負えない、とても大きな問題を抱えていました。両腕には、ズタズタに切り込みが入り、まるでフランスパンのようでした。傷がふさがると、すぐにまた切り込みを入れるのでたいへんな状況でした。それは、あたかも彼女の人生を現しているかのように、引き裂かれた傷跡は、本当に痛々しいものでした。
 私は彼女と話をしました。何度も自殺未遂を繰り返し、救急車のお世話になったことは数知れないというのです。ある地域の救急隊の間では、彼女は有名人だというのです。救急隊が彼女を発見すると、「あぁ、この子か」と、誰しもが口にする状況でした。
 それと共に、彼女は、解離性障害という意識障害を抱えていました。解離性障害とは、多重人格とも言われます。彼女という人物の中に、複数の人格が存在していて、これまで確認された人格は、少なくとも十二人はいるというのです。ある時は赤ちゃんのようになってしまったり、ある時は、暴力的な男性の人格も出るというのです。また、ある時は「死神」に取りつかれたような人格が現れ、その人格が現れると、極めて死に近い、瀕死の状態に陥るような自殺未遂を繰り返すのです。ある時は、二階の窓から飛び降り、固いコンクリートの床に叩きつけられ、腰の骨を始め、体中の骨を骨折したそうです。気が付いたら病院のベッド上だった、と話していました。家族は、一生懸命になって、彼女のために手を尽くしましたが、打つ手がなかったのです。病院に入れても効果は無く、逆に薬の依存症になり、本当に彼女は、孤独と絶望の中にありました。

 先ほどの、墓場に住んでいた男は、皆から毛嫌いされていました。「あの墓場に近付かないほうがいい。あんな所に近づいたら、ひどい目に会うから」と、皆、その墓場を避けて通っていただろうと思われます。その男が住んでいるが故に、人々は墓を訪れることもできなくなっていました。男は地域の人々から除者にされ、非常に恐れられていたのです。
 けれども、男の立場に立ってみれば、墓場で、もがき苦しみ、孤独と絶望の中で苦しんでいたのではないかと思われます。

 実に、教会に来られた女性も、孤独と絶望の中に苦しんでいました。彼女は、そんなただ中で教会を訪れたのです。普通に考えたら、それらの問題を解決することは容易なことではありません。一生解決できず、苦しみ通す人も少なくないのが現状です。
 しかし私たちは、聖書のみ言葉により、その原則に従い、彼女のために祈ってさしあげました。すると、本当に、信じられない不思議な事が起きたのです。さてその、聖書の原則とは何でしょうか。

 先ほどの、墓場の男は、人々に恐れられ、誰にも受け入れてもらえない暴力的な男でした。彼自身も孤独と絶望の中にありましたが、そんな彼に対して、イエス様は何をなされたのでしょうか。「レギオン」を打ち破り、その結果、「彼が正常になった」のです。

 現代社会において、私達は、手に負えない問題を多く見ますが、我々も、イエス様がなさったように、「レギオン」という存在を発見し、同じように、権威をもって立ち向かうならば、勝利できるはずです。聖書の原則に沿って、敵と戦う時、孤独と絶望のどん底にいる人をも、解放することが出来るはずです。
 そして、それが出来るのは、聖書のみ言葉を武器とする教会以外にはありません。してみると、教会には、果たさなければならない大きな社会的役割があるのです。教会は、その機能を働かせる義務があると思います。しかし日本においては、教会が、そのような機能を十分に働かしていない現状があるようにも感じます。
 新城教会はその役割を果たし、地域のため貢献できるようになりたいと、心から願っています。この地域で、孤独と絶望の中に閉じ込められている人々が解放され、一度しかない人生を、幸せに生きて欲しいと心から願って止みません。

 人々を孤独と絶望の中に投げ入れる「レギオン」は、なぜ、人に、地域に、関わることができたのでしょうか。もしも、その理由を解明できるなら、現代社会に溢れている悲しい問題も、いくらかコントロール出来るのではないでしょうか。私はいつも、そのような視点で、聖書を読んでいます。

 神が人間を造られた時、一つの権威、権限を人に与えられました。それは、人が「地を支配する権威」でした。最初の人類として造られたアダムとエバに、「地を支配しなさい」と命令を与えられました。私たち人類には、本来、地を支配する権限が神から与えられています。しかし、地は、「レギオン」という目に見えない敵に侵入され、支配されていたのです。人類が地を支配することが出来ていないことを表しています。なぜでしょうか?

 それは、人類が誤って地を支配する権威を放棄し、敵をこの地に招くようなことをしてしまったからです。故に、このような状況が起こっていたのです。

 ゲラサという地域は、日本から遠く離れた、中近東に位置する場所であり、聖書の記述と私たちとは全く関わりはないと考えるのでしょうか。ここにはきっと、何か特殊な環境があったと、私たちは考えます。しかし、この場所をよく調べてますと、興味深いことが分かってきます。

 「レギオン」という存在は、男から追い出されたのですが、その後も言葉を喋っています。先ほど読みましたように、五章八節で、イエス様が、『汚れた霊よ、この人から出て行け』と言われた後、『お前の名は何か?』と尋ねると『私の名前はレギオンです』と答えています。
 「出て行け!」と命じられた後にも、彼らは喋っているのです。そして、この男(レギオン)には、一つのこだわりがありました。それは、『自分達をこの地方から追い出さないでくださいと懇願した』という記述からも分かるように、レギオンは「地域」に執着していたのです。
 ゲラサは、デカポリス地方という十の連合都市のうちの一つの街でありましたが、レギオンは、この十の街連合にとても固執していたのです。

 冷静に考えてみてください。レギオンは、五千、六千の悪霊の集団ですから、それらがもしもすべて、人の中に入っていたとするならば、悪霊どもは蜂の巣状態で人の中に住処を設け、一人が犠牲になったら、他の人々は安全であるはずです。日本人は一般的に、「霊は体の中に住みつく」という考えを持っているのですが、実は、霊とは、体に宿るような存在ではないのです。彼らは、地域全体を支配する構造を持っているのです。

 このゲラサの当時の環境を知るために、考古学的資料を聖書の情報にドッキングさせると、今まで見えなかったような領域が見えてきます。このゲラサという地域は、先ほども言ったように、ローマ軍が駐屯していた町でした。
 イエス様が生まれる、約四百年前から、ヘレニズム時代が始まりました。ギリシャのアレクサンダーは、一つの事を熱心に行いました。それは、「ギリシャ風の街々を全世界に作る」という運動でした。実は、このゲラサも、ヘレニズム文化の影響で出来た街であり、ギリシャ風の街でした。ギリシャ風の街とは、どんな構造をしていたのでしょうか。それは、町の真ん中に、大きなギリシャ神話の神々を祀る神殿がそびえ立ち、地域の人々はこぞって、偶像礼拝を行っていました。今でも、このゲラサ付近の街々を発掘すると、その状況を知ることができます。
 その地域の神殿に祀られていた神々は、「アルテミス」と、もう一つ、「デメテル」というギリシャの神でした。そして、この地域は、農耕地帯でした。

 さてここで、日本でも同じような状況があることに気づかないでしょうか。街の真ん中に大きな神社が居座り、地域の人々がこぞって礼拝するという、ギリシア神殿を中心とする街作りと、似通った構図があります。この新城も例外ではありません。街の神社には、その地域の特性に合わせた「祭神」が祀られています。この近所の神社を調べてみますと、やはり農耕地帯ですから、祀られている神といえば「農業神」であり、作物が沢山採れるようにと祈願される、「豊穣神」です。
 ゲラサも同様でした。農耕地帯ですので、中心的に祀られていたのは「農業の女神デメテル(ローマ神話名ではセレス)」でした。この神が、神殿において最も多く崇敬をあつめ、拝まれていたのです。

 レギオンは地域だけでなく、「墓」にもこだわっていました。さらに、『墓と山で昼となく、夜となく叫んでいた』との記述から、「山」とも何らかの関わりがあったと考えられます。
 最後に、レギオンがイエス様に、あることを懇願しています。それは、『私達を追い出さないでください』という内容でした。

五章十二節
ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。

 これを何気なく読むとどうでしょう。六千匹ほどの悪霊が、男の中に入っていて、イエスさまが「出て行け」と言われたので、体から抜け出て、仕方なく近くにいた豚に乗り移った、豚は驚いて、崖から飛び降りて死んでしまったと、理解するでしょう。
 しかし、このストーリーに、先ほどの街がギリシャ風の街で、真ん中に神殿があり、そこに祀られていた祭神が「デメテル」であったと仮定すると、非常に興味深いことが見えてきます。

 実は、ギリシャ神話によると、この「デメテル」と呼ばれる神は、「聖獣」と呼ばれる獣を引き連れていました。それが何かというと、それこそが、「豚」であったのです。
 豚は、当時、礼拝の対象となっており、私が調べたところによると、エジプト神「セト」をルーツに持ち、カナンの神アシュタロテなどとも習合していた存在でした。当時、豚が礼拝の対象動物であったことが分かります。ですから、レギオンが、『豚の中に入れてくれ』というのは、言い換えれば、『俺達を追い出さないでくれ』という願いともとれます。

 さらに、「デメテル」とは、農耕神であり、自然界をつかさどり、「風や天候を支配する神」としても名高かったと言われます。となると、イエス様がゲラサに行く途中で経験した、行く手を阻むかのような風が吹いたことや、また、高波によって、もう少しでゲラサに行けなくなったのも、ひょっとすると、それら、地域で拝まれていた「神々」の力が関わっていたのかもしれません。
 また、レギオンが『豚に入れてくれ』と懇願出来たのも、地域の人々が農業神デメテルを、真剣に礼拝していた背景があったからかも知れません。当時の事を調査した研究書などを読むと、それらの事柄が浮かび上がってきます。現在、慶応大学をはじめ、世界の大学がこの地域の発掘調査を行っています。私も、それらの論文などを一部取り寄せて勉強していますが、そこからわかることは、街の真ん中にあったギリシャ神話の神殿を拝む行為によって、レギオンに、地を譲渡してしまったのではないかということです。

 そうなると、人の手に負えない、非常に困難な問題が、「地域の偶像礼拝と深く関わっていた」と推測されます。
 私達は何気なく、地域の偶像礼拝を見ていますが、それらは、人の最も大事な権威を、「レギオン」に委ねてしまう危険な行為なのです。

 男は、夜となく昼となく、「墓場と山で叫び続けていた」とありますが、「墓場と山」も、レギオンと深い関係があることが分かります。
 この、ギリシャ神話の神々を見ると、それらはすべて“山の神”です。オリンポス山に住むの“十二神”が中心となり、“神々ファミリー”が形成されています。日本の神話を調べても、必ず、山との関わりがあります。日本とあまり変わらない状況が、ゲラサにもあったわけです。

 そして、この男が最も深く関わっていたのが、「墓場」でした。「墓場」は、親族や身内が葬られている場所なので、やはり思い入れもひとしおで、心惹かれる場所です。
 実際、聖書を見ますと、墓場を否定しているわけではありません。私たちの教会には、納骨堂がありますし、将来は、綺麗な墓地を作れたらいいと願っています。皆さんにもぜひ、お祈り頂きたいと思いますが、中々、法律が難しく、新城市は公営墓地さえ作るのが難しい位です。

 しかし、人間が一番心の拠り所としていた墓場に、最も強い悪霊軍団、レギオンが関わり、危険な場所となっていたのです。これは何故でしょうか。

男が墓に住んでいたということを、聖書から読むと、我々はどう感じるでしょうか。私がこの箇所を読んで思い浮かべたのは、「ゲゲゲの鬼太郎」の物語でした。妖怪達は、「今日も〜、墓場で〜、運動会〜」と、墓場に住んでいたわけです。
私は若い頃、ゲゲゲの鬼太郎が大好きで、よくテレビを見たり、少年サンデー等の漫画で読んでいました。悪い影響を断ち切らなければいけないと思いますが。そういう“妖怪達”といえば、墓場に住んでいるものだと考えるわけです。しかしこの箇所も、深く研究していきますと、そうではない事が分かります。

 実は、このギリシャ風の街の人々は、ギリシャの文化と習慣に基づき生活していました。当時の人々が、どのような死後の世界観を持っていたかを調べると、“墓”がレギオンが集結する場所になった理由が分かります。
古代のギリシャ、ローマはどのような性質を持った社会であったかというと、「祖先崇拝を基軸とした祭祀的血縁集団」であったと言われます。そこでは、家長が絶対的権威を有し、集団の構成員を統率していた「父系社会」でした。
このことを聞くと、どこかの国とよく似ていると思いませんか。それは、日本と同じ社会構造があったのです。日本も、父方を中心とする祭司的血縁集団です。“祭祀”というのは祭りごとです。誰かが家で、クリスチャンになると、家族から反対されます。何故反対されるかといえば、「ご先祖に申し訳ない」という理由です。この頃は大分そのシステムも壊れてきたところもありますが、やはり家では父が絶対的権威を持って、祖先崇拝を仕切っているのです。お隣の韓国など行きますと、それが更に色濃いです。これは、古代ローマやギリシャと全く変わらない状況が日本にもあることがわかります。

「小泉八雲/ラフカディオ・ハーン」というギリシャ人の作家がいましたが、彼の書物を見ますと度々、「古代ギリシャ人と、日本人は似ている」と主張しています。何が似ているのかと言えば、“祖先崇拝を行う民として同じだ”と論じているのです。当時の古代ローマやギリシャの社会的システムを研究した書物などを見ますと、まさしく、日本の祖先崇拝と同じ状況があったことがわかります。彼らの死後の世界観と、墓場をどのように考えていたかというと、墓場は死者の霊が住む場所だと信じていました。ですから人々は墓に行き、食べ物を捧げ、死者礼拝を真剣に行っていました。ゲラサにおいても同じ事が行われていたはずです。そんなただ中で出来上がったのが“レギオン”という、最も強力な悪霊の軍団と、彼らに支配された、誰にも手に負えない男でした。

これはよく、考えなければならない事柄です。先ほども触れましたが、教会という場所は、葬式も結婚式も同じ場所で出来るのですから、生も死も超越している場所と言えます。そこには境目がありません。しかし、日本人の死後の世界観は一貫していません。
先週の月曜日の葬式でも語らせて頂きましたが、仏教の基本原理は“輪廻思想”であり、それは「人は死んでも輪廻して地上に戻ってくる」という考え方です。本来、仏教徒であれば、輪廻を信じきらなければいけないはずです。しかし日本の仏教は、輪廻は語りますが、真剣には信じていません。
しかしもしも、輪廻が事実であれば、寂しいと思います。それは人が死んだら、四十九日が勝負だそうです。閻魔大王の前に出て、生前犯した色々な罪を裁かれるらしいのです。「お前は悪い事ばかりしたので、人間には輪廻できない。犬になれ!」などと判決が出れば、犬になるわけです。ですから、四十九日には地上からの援助が必要だそうです。「うちの父ちゃんはちょっと酒飲みで、悪い人でしたが、閻魔様助けてあげて下さい」などと、一生懸命拝めば、「まあ、しかたないな。地上で拝んでいるから、人間にしてやるか」というわけで、どこかの人間に輪廻できるそうです。輪廻には悲しいものがあります。ある人が、「お前は虫になれ」と言われ、虫に輪廻したとします。だから、仏教では殺生をしないわけです。自分の連れ合いが死んだら、夫は虫になっていた、そして妻は犬になってしまったら、いつまでたっても出会えないのです。
前にも話しましたが、四十九日と十月十日を合わせると、365日だそうですが、一年もしたら皆、この地上に戻ってくるそうです。ということは、「祖先崇拝も、墓場も必要ない」わけです。墓場があり、古い体が残っていればうまく輪廻できないというのが教えです。本来、仏教では、「墓場もいらないし、先祖の霊もいない」のです。

しかし、祖先崇拝というのは、「祖先の霊が一緒に住んでいる」というのが前提であり、それが、祖先崇拝の基本的考えです。輪廻では、皆、死人は地上に戻ってきていますから、そんな霊はいないことになります。
日本人は、悲しい輪廻のサイクルで苦しむのか、それとも、祖先崇拝なのか、全く日本人の死後の世界観は、はっきりしないのです。

しかし聖書ははっきりしています。私達は神から来たので、死後は、「神の手に完全に戻る」のです。死後、行き先を失い空中を風になって舞っているとか、輪廻して、虫や犬になったりしないのです。神は命をリサイクルなどされず、永遠に「個人」として扱って下さるのです。素晴らしいではないでしょうか。死後の世界はありますが、死者の霊は、決してこの地上には存在せず、神の100パーセント管理下に戻るのです。それが聖書の教えです。

あの、ラザロと金持ちの話を読めば、よくわかります。ラザロと金持ちは、死にました。金持ちは死後、何とか死後の世界の情報を、地上に伝えたかったのです。しかしアブラハムから、「生きている人から教えてもらえ」と、全く、死後は地上に意志を伝えることができなかったのです。これは、死後の世界と、生ける者の世界には、神の秩序の中、「決して交流ができない」という前提に立っているわけです。
ということは、地上には死者の霊はおらず、「100%神の管理下にある」のです。

しかし、ギリシャ人もそうでしたが日本では、「死者は、墓場に住んでいる」という考え、祖先崇拝と死者礼拝を墓場で行っているのです。
死者の霊が墓場に住んでいるという考えは、神が人類に与えた情報ではなく、そもそも悪魔が教えた偽りです。ゆえに、その考えに従えば、騙されているわけですから、支配権は悪魔に奪われるわけです。

日本人は古代ギリシャ人と同じ世界観を持っていて、「人は死んでも、霊を呼び出すことができる」と考えています。
私は何年か前、青森県の下北半島にある、恐山という場所に行きました。そこには、「イタコの口寄せ」という看板がありました。はじめは、「たこ焼きでも売っているのか」と思いましたが、そうではなくて、“死者の霊を呼び出す”場所だったのです。死者と交流を持ちたいという人々が、全国から来ていました。特に、子どもを亡くした両親が多く来ていました。若いカップルや夫婦が来て、「亡くなった子供の霊を呼び出して下さい」とイタコに依頼していました。それを受けたイタコは、何か呪文を唱えた後、霊が憑依しているようでした。
「ああ、よく来てくれたね、ありがとう・・・」などと、子供のような声でイタコが答えるのです。「ぼくは、寒いよ、冷たいよ」などと言っていました。それを聞いた家族は、「うちの息子は水死したんです。やっぱり・・・」すると、「もっと私を拝んでちょうだい。そうでないと寒くてたまらん。」などと言うわけです。
そんな声を聞けば、家族はもっと真剣に拝むわけです。しかしそれは死んだ子供の霊などではなく、「死者のふりをした悪霊」です。祖先崇拝をやっていますが、よく考えたら、とても怖い事です。
祖先崇拝に向かわせる、気持ちは分かります。それは愛する者に再び会いたい、という気持ちがあるからです。それは誰にでもありますが、その気持ちを逆手にとって、悪霊どもはあたかも、自分が先祖のような顔をして出現しているわけです。その結果、何が起こるのか、それは、レギオンという最も強い悪霊軍団と化すのです。

実はこの男が墓場に住んでいた、という情報に、当時の祖先崇拝という環境と重ね合わせる時に、何故、この男が誰にも抑えることができないほど凶暴化していたのかという、理由が浮かび上がってきます。
それは街の真ん中にある神殿を街中で拝むという環境と共に、「墓場で行われていた祖先崇拝」が原因となっていた可能性が高いのです。それらが重なり、地域を支配する「レギオン」という、恐ろしい存在が出来上がっていたわけです。この男は凶暴化し、誰にも手がつけられない存在と化し、地域住民を苦しめていたのです。今語っている事柄には、もちろん仮説の部分も含まれていますが、当時の状況を調査するとき、それらが理由として浮かび上がるのです。神が人間に与えた、努力による問題対処と共に、一方では、霊的視点を持ち、地域を覆っているレギオンに立ち向わなければいけないのです。そうしない限り、中々、手に負えない問題は解決できないのではないでしょうか。

先ほどお話しした、内側に十二人もの人格を持つ女性ですが、普通では手に負えないはずです。しかし、私達はこの視点に立ち、この人が住んでいる街を支配するレギオンに立ち向かいました。何故ならば、ゲラサの男も、マタイの福音書を見ると、『イエスが陸に上がられるとこの町の者で悪霊に憑かれている男がイエスに出会った。』と、記しています。「この街の者」、つまり、「ゲラサの街で生まれ育った、街と関わりのある男」でした。

私たちも、彼女の住んでいる街を支配しているレギオンが破られるように、街の人々が熱心に拝んでいる偶像礼拝の拠点の背後に働く、レギオンが破られるようにと祈りました。
それと共に、もう一つは「墓場」です。墓自体は悪くはなくても、そこが祖先崇拝の拠点となっていますから、恐ろしい、先祖のふりをした強力な悪しき力が関わるのです。そのつながりが打ち砕かれるようにと祈りました。すると、彼女はこの頃、とても変化してきました。

十二人も人格があると言うので、どうやって祈ればよいのかと思っていました。教会に来ても、ひっくり返って、赤ん坊のようになって「私、誰?」などと言ったりしますから、どうしたらよいのかわからず祈りました。「主よ。どう祈ったらいいですか」、するとひとつのイメージを下さいました。
コンピューターを使っている人はわかると思いますが、メインフォルダがあり、そこからサブフォルダを作る事が出来ます。サブフォルダは、メインフォルダーの支配下にあるのです。しかし、それをコピーし直して、メインに統一することが出来ます。そのイメージでした。
「もしかして、この人はメインの人格フォルダーの後に、十二の人格フォルダーがついているのではないか・・・」と思って、「主よ、それを一つにまとめて下さい」と祈りました。
何とそれ以後、他の人格がほとんど出なくなったそうです。そして、回復されつつあるのです。

実は、その人がそんなにも、深い傷を負うようになったのは、親子関係が原因だったのです。ある時、父親からちょっとした言葉をかけられ、それが心に刺さってしまったそうです。お父さんは、娘を励ますつもりで言ったのにも関わらず、娘は責められているように取ってしまったのです。以来、 「お父さん、大嫌い!」 という状態になり、精神病院に入院しました。お父さんが病院に来て、涙ながらに、「そんなつもりで言ったんじゃない、ゆるしてくれ」と謝ったそうですが、「うるさい、お前が私をこんなにしたんだ。お前なんか大嫌いだ」と、お父さんに何年にもわたり、罵声を浴びせていました。

しかし教会に来て、自分をそのような状況に仕立てられたのは、父親でもない、母親でもない、悪魔の力だということに気づきました。その時、彼女の心が解かれて、お父さんを受け入れることが出来る様になりました。なんと近ごろでは、「お父さん、ありがとう」と言えるようになったのです。

 実は何週間か前の父の日に、お父さんも礼拝に来られました。近々、お父さんの解放の祈りをさせて頂く事になっています。娘が、「お父さん、今日は父の日だから教会に来て祝福の祈りを受けて下さい」と教会に誘ったのです。まだまだ、彼女は多くの問題を持っていますが、以前とは違います。本当に心から主に感謝しています。そして、気づくことは、ゲラサの男もそうでしたが、彼女が孤独と絶望の中にあったということです。
 周りの人々は、「こんな人物とは関わりたくない」と思っていたのです。実は、このゲラサの男こそ、地域で最も重要な人物であったのです。
 マルコ5章7節から見ていきますと、

すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

 彼が解放され、家に帰ったとき、皆はびっくりしました。何と、ゲラサの人々だけでなく、デカポリスという十の街にもその事が評判になり、イエス様を受け入れ始めたのです。人手によらず、福音が伝わったのです。

 実は、この男こそ、「この地域で最も重要な鍵となる人物」であったのです。
 鍵は使い方によれば、部屋を閉じることも、開くこともできるのです。まさに、だれにも抑えることのできないような問題を持っている人々は、鍵です。我々はそういう人々を拒否しやすいのですが、そのような人たちこそ、最も重要な人であるわけです。その鍵が悪い方に使われるならば、家を閉じてしまい、人々を皆苦しみのどん底にたたき落とすのですが、鍵を開ける方に用いるなら、家の人は解放されるのです。また 地域全体にまで、大きな影響を与えることができるのです。

 その人の孤独と絶望からの解放は、「地域の孤独と絶望の中で苦しんでいる人々の解放」に用いられるわけです。もしも、皆さんの家族の中に、どうにも手に負えない問題があれば、その人を拒否せず、新しい視点をもって立ち向かっていこうではありませんか。そうすれば、必ず勝利できます。そのような方々を重要な存在として、教会は愛の手を差し伸ばしていかなければいけないのです。

 今日は午後から、ウォーキング祈祷があります。皆さん是非とも、参加してこの地域のために、地域を覆っている悪霊の力が打ち破られるように、祈って下さい。日本人が最も思い入れのある場所を危険な場所と変えている、悪霊の力が破られて、どうにも手に負えない孤独と絶望のどん底にある人々が、救い出され、よい鍵として用いられるように祈らなければいけないのです。今日の午後は、そのような祈りの時を、皆で持ちたいと思います。

 今回、韓国リバイバルミッションの中で、「祖先崇拝」の悪霊に立ち向かう祈りをさせて頂き、その戦いの権威を取ったと信じます。この祈りは、大変重要だと思います。そして、素晴らしい神のわざを見せて頂きたいと思います。
 また、どこに連れて行っても手に負えないような方々が解放され、神の国が広がるように祈ろうではありませんか。そのためには、教会に属している全ての兄弟姉妹が、その視点を持ち、祈ることに勝利の鍵があります。先に救われた人々は、地域の番人ですから、その役割を果たしていかなければならないのです。

最後に一言お祈りして、終りにしたいと思います。
 ハレルヤ、天の父なる神様、心からみ名をあがめます。あなたこそ、孤独と絶望の中から救って下さる方であると宣言し、心から感謝します。
 また、教会を通して、あなたは人々を孤独と絶望から救い出すために、イエス様とおなじ働きをさせて下さることを、心から感謝します。主よ、どうか私達を強めて下さい。そして今日は、一人一人が、孤独と絶望から解放されますように。地域に働いている、暗闇の力が打ち砕かれ、祖先崇拝の中に働く悪霊が打ち砕かれ、人々が鍵として用いられますように。今日お一人一人の上に、特別な祝福を注いで下さい。この時を心から感謝します。今からの聖餐式も祝福して下さい。イエスキリストのみ名によって、祝福して祈ります。アーメン


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