「主をほめたたえよ」


2009.7.12(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

詩篇103篇1節〜5節
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」

ハレルヤ!
 皆さんおはようございます。本当に暑くなりました。今日もどのくらい温度が上がるか知れませんが、皆さん共に礼拝が守れますことを、心から感謝します。
 今日は「主をほめたたえよ」という題で、メッセージを語らせて頂きたいと思います。今、読みました五節に、「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さはわしのように新しくなる」とありました。
 たいへんすばらしいみ言葉です。先ほどの、特別賛美の中で、「鏡に写る自分の姿、受け入れられなくって・・・」と歌われていましたが、受け入れられるように開き直るまでが大変です。自分の姿を鏡に写し、「こんなはずじゃなかった!?」という方も、多くおられると思います(先ほど歌った方も、その一人なのかもしれませんが)今日のみ言葉は、「あなたの若さはワシのように新しくなる」というすばらしい約束です。その素晴らしいみ言葉を受けとって帰って頂きたいと思います。

先週は金曜日に、韓国から三五名の若いダンスチームのが方々が来て下さいまして、若さいっぱい一時間近く、踊りまくって下さいました。それは圧巻でした。あまり集会の準備をする時間がありませんでしたが、二五〇名もの若い方々が来られました。 「ああ、若いっていいな・・」と思いました。しかし、主を信じる者は“ワシのように新しくなる”のです。
ワシは、古い羽が抜け落ちたら、再度新しい羽が生えてくるそうです。そうすると、高く飛べなくなっていたのが、高く飛べるようになると言われます。私達の人生も同様に、神が一新してくださいます、という素晴らしい約束です。
 聖書は、私達が生きるための法則を教えています。一生が良い物で満たされるための法則、若返るための秘訣を、この短い箇所から、しばらく学んでいきたいと思います。

日々み言葉を学び、主に近づくことは大変重要です。この素晴らしい人生を手に入れるために重要な法則は、「わが魂よ、主をほめたたえよ、み名をほめたたえよ」とあります。
今日も、私達は、心から主をほめ讃え、賛美の歌声を捧げましたが、賛美しているだけで心身共にリフレッシュし、若返るような気がします。“主をほめたたえる”ようにと、何度も繰り返し勧められています。主をほめ讃えることは、最も大切な原則です。

それと共に、二節に、「主の良くして下さった事を何一つ忘れるな」と教えています。年を取りますと、忘れっぽくなり、聞いても、右から左に筒抜けていくようになります。皆さんはいかがでしょうか。「この頃忘れっぽくなった・・・」という方は、老化現象です。私もこの頃、忘れっぽくなりました。家内とよくそのことを話題にしています。互いにチェックして、「忘れたの?年取ったね」となじりあうような時もあります。(笑)
年を取ると忘れがちなのですが、主が良くして下さった事に関しては、「何一つ忘れるな」とあります。

「感謝します、ありがとう」という言葉は、どこの国にもあります。日本では、「ありがとう」。英語では「サンキュー」。スペイン語では、「グラシアス」。ポルトガル語では「オブリガード」。インドネシア語では、「トリマカシ」。中国語では「シェシェ」、韓国語では「カムサハムニダ」。ドイツ語では、「ダンケ・シェーン」・・・。どの国にも、「ありがとう」という言葉があるわけです。「うちには『有難う』という言葉がない」という国はないと思います。「有難う」という言葉は、最も多く使われる言葉ではないかと思われます。

人間に与えられている性格は、そもそも、神から与えられたものです。それは、神のご性格が“感謝する”気持ちを持たれているからです。
神様が、私達に対して、感謝して下さっているのです。我々が、神をほめ讃えたら、感謝して下さり、さらにこちらも感謝すると、さらに喜んで力強く臨んで下さるのです。
皆さんの家も同じだと思います。子供達が、「お父さん、お母さん、有難う」などと、冗談でも言ってくれると、ホロっとするものです。変な事ばかり言うと、「こんなやつには何も買ってやらない」と思います。しかし、「お父さんありがとう」などと言われると、(その後はねだられるので気をつけなければいけませんが・・・)やはり、嬉しくなります。感謝は大変重要です。

皆さんはイエス様に出会って、イエス様が何をして下さったかを覚えていますか?
「何があったっけ?」ではいけません。主が良くして下さった事を、何一つ忘れてはいけないのです。しっかりと心に刻んでおくことが大切です。そうすると、

「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」

と続くわけです。主をほめたたえ、主の良くして下さった忘れない人生を歩むならば、その後のみ言葉が続くわけです。
 一週間を振り返ってみて、感謝と不平のどっちが多かったでしょうか。天秤にかけたらどうでしょうか。明らかに、不平や不満が多く、感謝はちょっぴり、という方もおられるかもしれません。
 しかし感謝すると、素晴らしい事が起きるのです。感謝と賛美に素晴らしい霊的な法則があるのです。それがわかったら、我々は、主をほめたたえずにはおれません。主に感謝しなければならないです。

 先週は新城教会にとって、大きな記念日でした。それは、一九九二年の七月八日、九日に、主が霊的戦いを突然、開いて下さったからです。その時の事を、私は今でも忘れることができません。毎年、七月のこの週になると、思い出します。今年もこの週が近づいたので、「主よ。今年は何をしたら良いですか。どんなとりなしの祈りをしたらよいですか?」と祈った時、主が私に語りかけて下さったのが、このみ言葉でした。「主をほめ讃えよ。主の良くして下さった事を何一つ忘れるな」でした。
 「教会に霊的戦いを開いて下さったことを、心の底から感謝しなければならない」と思います。私は牧師として働いていますが、もしも、霊的戦いの剣がなければ、今頃私は、どのように働いているんだろう、と思います。その恵みは、決して忘れることが出来ません。

 時々、人生、八方ふさがりで、どこにも出口がないように見える時があります。私の人生にもそのような事がありました。今から二〇年くらい前のことですが、ある意味、家族全体に暗闇が迫った時期がありました。それは家内が病気になり、体重がどんどん減って、三十数キロになり、骨と皮になり起き上がることさえできなくなってしまったからです。
 「このまま、うちの家内は死んでしまうのか・・・」と思いました。調べても、どこに原因があるのかわからず、絶体絶命だと思いました。悪い時には、悪い事が重なるもので、上條実は私の弟ですが、(彼は上條家の養子になりました)へんな咳をしだして、「胸が痛い」と言いました。検査しても、どこに原因があるのかわかりませんでした。最後に、東京の慶応大学病院に紹介状が書かれました。そこまで行くと、治療の最終手段のようなところがありますが、そこで調べたら、「背骨の中に腫瘍があるかもしれない・・」と疑われました。私の家内は死にかけているし、上條まで、そんなになり、「本当に絶体絶命だ」と思いました。

 しかし、そういう時こそ、ある意味チャンスかもしれません。私達クリスチャンには、八方塞がりに思える時、天だけは開いているからです。そのような時は、天に向かい、叫び祈る必要があります。
私はクリスチャンでしたから、祈ることは知っていました。しかし牧師の息子として生まれ、私の両親は幼いころからキリスト教教育をしてくれまして、あまり祈りとか賛美とか、聖書を読むことに良いイメージを持っていませんでした。私は牧師になりましたが、祈ることと、賛美することと、聖書を読むことが嫌いでした。それは牧師にとっては致命傷です。魚屋なのに魚を売ることが嫌い、というのと同じです。私は、「祈らなくても、神様は全部知っているよ」と思っていました。

一九七〇年から八〇年代にかけて、韓国で大きなリバイバルが起きたのを聞きました。それで様子を見に行ったことがありました。ヨイド広場という所に、百万から二百万人もが集まり、大声で、「主よー!」と叫んで祈っていました。廻りのビルのガラスが震え、割れそうなほどに叫んで祈っていました。

私は、韓国の方々にインタビューして、「韓国のリバイバルの秘訣は何ですか?」と聞くと、皆、「祈りです!」と答えました。

韓国では、朝の四時半頃から、人の動きが活発になります。皆、何かを小脇に抱えて、小走りにどこかに向かっているのです。日本では、朝四時半に何かを抱えて走り回っているのは、新聞屋さんくらいです。私は、「この国は新聞屋さんが多いな」と思いました。
しかし、良く見ると、それは聖書を持って早天祈祷会に向かう姿でした。「冗談じゃない、この人達はいつ寝ているんだ」と思いました。「こんなに祈らなければリバイバルが起きないなら、リバイバルなどいらないよ」と、高ぶった思いを持っていました。

しかし、人間というのは、苦しい事や問題があると、祈るものです。皆さんも今までに、一番祈ったのはどういう時かというと、やはり問題があった時ではないかと思います。これもやはり神の法則です。もしも今、大変なことがあったら、とりあえず祈って下さい。天はいつもオープンしていますから、真剣に祈って頂きたいです。私も、その時、「これは祈るしかない」と思いました。

それは冬の寒い日でした。一月の事でしたが、「よし、私も一人で祈ってみよう」と決心しました。以前にも、ここでお話したことがありますが、愛知県民の森の頂上に、一人で夜中に登って祈る決心をしたのです。ちょっと勇気がいりましたが、切羽詰まっていると、祈りたくて仕方ないというか、祈らずにはおれませんでした。大変寒かったので、リュックサックの中に熱いお茶を用意し、自分でおにぎりを二つ握り、(先日家内が「私が作ったよ」と言いましたので、定かではありませんが)入れました。そして聖書を入れましたが、重くなったので、「どうせ暗くて読めない」と思い、それは取り出してから、山に上って真剣に祈りました。
「神様、助けて下さい!うちの家内は死にそうです。上條も、あんなに痩せて死にそうです。どうなっているんですか、助けて下さい!」と、力いっぱい叫んで祈りました。

私は牧師の息子に生まれ、神様の事は、いやになるほど聞かされていましたが、悪魔とか、悪霊の事は全く眼中にありませんでした。この頃はよく話しますが、昔は全然興味がありませんでした。
しかしそれほど色々な事があると、「もしかすると、悪魔や悪霊どもが働いているのではないか・・・」と思いました。あまりにもタイミングが悪すぎると感じたのです。家内の具合が悪くなるのと同時に、追い打ちをかける様に、弟の具合が悪くなり、また、教会の中に、色々な問題が起こりました。「これはおかしいぞ・・・?」と思って、夜中の二時頃でしたが、寒風吹きすさぶ、県民の森の岩の上に立ち、悪魔に立ち向かって祈りました。

先週も悪魔に立ち向かうことについて話しましたが、「我が家に働いている悪霊どもよ、出て行け!」と大声で叫びました。私はあまり霊的に敏感なものではありませんが、その時は霊体験だと思いますが、目の前に、天狗が出現したのです。それで震え上がってしまいました。その頃は髪の毛も一杯ありましたが、総毛立って山からどう降りたのか、覚えがないくらい怖かったです。

次の日に教会の事務所に行き、「昨日、天狗を見た!」と言うと、スタッフたちは、「夜中に県民の森なんかに行けば、そんな気分にもなる」と言いました。「そうかな・・・。でも、絶対に天狗を見た」と思いました。それで、負けてはいけないと思い、次の週に、一人で行くのは怖かったので、皆を誘い同じ場所に登って真剣に祈りました。二回目は天狗が出るどころか、大変恵まれました。
それから、愛知県民の森の祈祷会が始まりました。天狗のおかげ、ではありませんが、それが出てこなければ、祈祷会は始りませんでした。本当に色々な事が起こり、問題の背後に悪魔、悪霊どもが働いているという事が徐々に分かってきたのです。

私の真似は、絶対にしないで頂きたいのですが、徐々に、「家内の問題は、霊的問題だ」と気付きだした頃、家内が夜中に倒れてしまったのです。すぐに救急車を呼ぼうとして、受話器を取りました。一一九をダイヤルしようとした時、主が、「まずは祈れ!」と言われたような気がしました。決して私と同じ事はしないでください。私は牧師としての働きのための、特別なトレーニングであったと思います。倒れた家内を抱きかかえ、教会に連れてきて、十字架の前に置き、「主よ。私の家内をどうにかしてください!」と祈りました。

そうすると突然、「オエッ、オエッ」と何かを吐くような仕草をして、突然、「あれ、私はどうしたの」と気づいたのです。以後、徐々に体調が良くなっていきました。上條も死にかけていたのが、ワシのように若くなって、退院しました。これは二十年くらい前の話ですが、本当に主が助けてくれた、と信じます。あの時に、「愛知県民の森に登って祈れ!」と、主が私の思いに語って下さらなければ、今頃どうなっていたことでしょう。私に、あの体験がなかったら、霊的戦いも本気ではやれてはいないと思います。確実に、主が、戦いの中で家内を解放してくれました。その感謝と体験があるゆえに、次の段階において、一九九二年の七月九日、地域に根をおろして働くレギオンに対する戦いに導かれたのだと思います。その後の十数年の歴史も、心から感謝しなければいけない、と先週は主に感謝しました。
これは私の体験ですが、皆さまの中にも色々あると思います。「あの時、あの一点が狂っていたら今はない」という事が多くあると思います。それは偶然ではないのです。「主が良くして下さった」ことを心から感謝し、賛美して、主を礼拝する事が大切です。

 第一テサロニケ五章一六節〜一八節は有名な箇所です。ここから、「神が私達に望んでおられる事」がわかります。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 今、神のみ心をうかがったなら、どんな言葉が伝えられるかというと、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」と確実に語られるのです。今の状況があまり喜ばしくないかもしれませんが、「数えてみなさい、あなたの恵みを」と聖歌にありますが、現状はともかくとして、今まで主が良くして下さったことを数えて、感謝し、今の状況に関しては、絶えず祈り続けることが大切です。

 常に祈るとは、「常に祈り心で過ごす」事です。私達は忙しい中にあっても、常に祈り心で過ごすように心がけています。それはとても重要だと思っています。コンピューターも、この頃は「常時接続」と言って、常にインターネットにつながっています。そうすると、新しい情報がすぐにコンピューター上に反映されるわけです。しかし、インターネットが遮断されているとどうでしょうか。新しい情報がアップデートされないのです。
 同様に、私達の心が主に、常時接続している事が「絶えず祈る」という意味だと思います。そうすれば、神のみ心が常に、私達の心に反映されるはずです。
 今週一週間、どんなに忙しい中にあったとしても、常に祈り心で過ごすならば、神の情報が私達の心に常に反映され、決して失敗する事はないのです。私も常にそれを心がけなければいけないと思っています。こうしてメッセージを語る時にも、いつも主とつながり「私は何を語ったらよいですか?」と主に聞きながら話さなければ、ただの演説会になってしまいます。皆さんに祝福どころか、良いものさえ、奪ってしまう結果にもなりかねません。「絶えず祈りなさい」に集約されると思います。

「すべての事について感謝しなさい」、そうすれば良いものを与えて下さいますと、詩篇と第一テサロニケ五章は同じ視点で語っています。旧約から新約まで同じ視点については、特に重要なテーマです。私達が常に主をほめ讃え、主の良くして下さったことを何ひとつ忘れないで歩んでいくならば、「あなたの一生は良いもので満たされます。あなたの若さはわしのように新しくなります」と、結果は自然に生まれます。

また、「主をほめ讃える」具体的な行為が、“賛美”という行動の中に表わされています。今朝も賛美をしましたが、賛美というのはただ単に、音の高低を変化させながら言葉を発する作業ではありません。「賛美」は見えない世界とのつながりがあるのです。

以前にも一度ここで学んだことがありますが、ユダにヨシャパテという王様がいました。このヨシャパテ王の時代に、国の存続も危ぶまれるような、大きな危機がありました。それは、ユダの周辺のアモン人やモアブ人、セイル山に住む人々が結託し連合軍を作り、「ユダを潰してしまえ」と攻めて来たからです。その兵の数は、ユダの兵の数をはるかに上回り、「絶体絶命」の状況でした。これでユダ王国は消えて無くなってしまうだろう、という絶体絶命の危機に直面したのです。

私達も時々、絶体絶命というピンチに直面することがあります。しかしこの場合は、「国の危機」でした。ある意味、日本は今、国の危機に直面しているのかもしれません。これからどうなってしまうのか・・・、不安があります。今日も東京都議会議員の選挙があり、この結果次第では、大きく政局も変わってきますから、日本がどうなっていくのか、どの政党が政権を握るのかわかりませんが、いずれにしても、国に大きな変化が起ころうとしているのは確実です。なぜなら、世界中が、現在、危機に瀕しているからです。経済的にも、社会的にも、軍事的にも、様々な分野で危機があるからです。そのあおりを受けて、日本も変わらざるをえないわけです。私達の未来は、あまり明るい未来ではないかもしれません。
しかしそんなただ中で、私達が何をしなければならないのか・・・、このような危機は、実は、霊的危機なのです。第二歴代誌二〇章二〇〜二二節では、

「こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」

 どうにもならない、兵力の差では、必ず打ち負かされてしまう、そんな時にヨシャパテ王は主の声を聞いたのです。当時は預言者を通してしか、神の言葉は知らされなかったですが、今の時代は、誰でもイエスのみ名によって、父なる神にアクセスすることができます。だから、私達はイエスのみ名によって、神のみ心を求める事が出来るのです。
 さて、その時に与えられた神のみ心は何かと言うと、「主に向かって歌う者達、聖なる飾り物をつけて賛美する者達を任命して、彼らが武装した者の前に出ていって歌った」というのです。何と、聖歌隊が、戦いの最前列に出て、主を賛美したのです。
 現代的に言えば、武器を持った兵隊達が、聖歌隊の後ろに隠れて敵に立ち向かったというのです。そんな丸腰の人々が、歌を歌いながら前に進んでいくなど、普通は馬鹿げた戦術に思えるかも知れません。しかし、何と、その時に何が起こったかというと、神が伏兵(隠された兵隊)を引き出して、敵をやっつけた、というのです。これは、天の軍勢ではないかと言われます。神を賛美する時に、天の軍勢が動員され、現実的に勝ち目のない戦いにも勝利するという、歴史的に起こった事実です。
 これを読む時、何を学ぶべきかというと、賛美を人生の最前先に置くならば、人生はうまく行くと教えているわけです。

 考えてみれば、一九九二年二月に激しく聖霊様が訪れ、七月に霊的戦いが始まった背景に、一九九二年は新城教会の歴史の中で、最も賛美が盛り上がった年でもありました。九二年の一月に、「九二時間連鎖賛美」が行われました。それに比べると、今年の五五時間はまだ甘いです。九二時間賛美しました。あの時に、天が開かれたのだと思います。教会の最前線に、賛美が出て行って主をほめ讃えた時、何と、主が伏兵を設け、敵を打ち負かされ始めたのです。そして、真の敵が誰であるかを、明らかにされました。

 私達はもう一度、「主をほめ讃えること、主を喜ぶこと、主に感謝すること」を最前線に置かなければいけないことを教えられます。
 これは、新約聖書でも同じ事が記されています。使徒の働き一六章二五節を見ますと、パウロとシラスという二人の伝道者が捕えられ、「明日は死刑になるかもしれない・・・」という絶体絶命の中で、何をしたかが記されています。

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」

 何と彼らは、獄舎に捕えられ、明日は死刑になるかもしれないというただ中で、真夜中に、祈りつつ賛美し始めたのです。すると他の囚人たちは、「聞き入っていた」とあります。囚人達はうるさいと言って、怒らなかったようです。何故なら、彼らも朝になれば処刑されるかもしれないので、眠れぬ夜を過ごしていたのです。
 そんな中で、不思議な囚人たちがパウロとシラスでした。彼らは祈りながら、賛美し始めた時、奇跡が起こったのです。何と、獄舎の土台が揺り動いて壊れ、鎖も外れてしまったのです。そして、看守と家族も救われたのです。それが一六章が伝えている事です。
主を賛美する時、主が働いて下さるのです。私達は状況はともあれ、心から主を賛美しなければならないことを強く教えられます。

 聖書の中で起こった事柄は、霊的法則が隠されています。パウロとシラスがピリピで捕えられたのは何故かというと、一六章全体を読んでみれば分かります。それは、占いの霊に取りつかれた一人の女祈祷師を解放した事から始まっています。この霊能者の女がパウロとシラスの後について来て、「この人たちは、神様のことをのべ伝えている神の僕です」と宣伝塔になったのです。パウロとシラスも始めは、「こいつはよく分かっているな」と心を許していたのかも知れません。
 しかしあまりにも付きまとわれて、パウロが何をしたかというと、この占いの霊に支配されていた女に向かい 「占いの霊よ、この女から出て行け!」と叫んだのです。するとその霊は、「即座に出て行った」とあります。私は、「そんな権威があれば、初めから使えばよかったのに」と思います。占いの霊が出て行った時、女は占いができなくなってしまいました。すると、女奴隷の主人が怒って、パウロとシラスを訴えたことにより、彼らは牢屋に入れられたのです。
この箇所から、「あまりうかつに霊的戦いなどしないほうがいい。悪霊を追い出すと、パウロとシラスのように試練に会うから、やらないほうがいい。パウロとシラスも悪霊をすぐに追い出したのではなく、最後に行った、しかし、結果は良くなかったから、霊的戦いなどしない方がよい」という意見もあります。

しかし、この背景をよく調査すると、そうではないことがわかります。実は、ピリピという街は先週お話ししたゲラサと同じ、ヘレニズム文化のギリシャ風の街でした。街の真ん中にはギリシャ神殿が建っていて、そこにはギリシャ神話の「アポロン」という神が祀られていました。アポロン神殿は託宣が有名で、いつも占いがなされていました。占いをする時は、アポロンではなく、アポロンの子分、“ピュトン”という霊を呼んで占いをしていたのです。そのような環境が街にありました。
そこにパウロとシラスが行って伝道し、ピュトンの霊に支配されていた女奴隷がつきまとっていた状況でした。

使徒の働きを見ると、原文では「占いの霊」ではなく、「ピュトンの霊」となっています。パウロは、ピュトンと呼ばれる、ギリシャ神話の神の名を語る、悪霊を追い出したのです。その結果、女は占いが出来なくなってしまい、彼らは捕えられたのです。
けれども、夜中に賛美した時、夜中三時ごろに獄舎の扉が開いたのです。それが何を意味しているかというと、実は、さらなる深い意味があるのです。

「夜中に賛美する」というのは、聖書的裏付けがありました。以前にもお話しましたが、この頃、私の心の響いている言葉なので、もう一度皆さんにお分ちしたいと思います。
詩篇一四九篇一節〜九節に、

「ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行なうため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。」

 詩篇一四九篇は、「主をほめ讃える」ことを強調しています。この中で六節には、「彼らの口には神への称賛」とあります。この、「称賛」とは「賛美」の意味ですが、実は、この言葉は聖書全体の中で、「ただ一か所」ここでしか使われていない単語です。それがどういう意味かというと、「最高の賛美」という意味です。
 最高の賛美を捧げると何が起こるのか、実は、最高に神をほめたたえる時に、それは丁度もろ刃の剣の様に、一方では主を賛美しているのですが、一方では、「国々に復讐し国民を懲らすため、また鎖で彼らの王達を、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため」とあるように、最高潮の賛美がなされる時、敵の力が打ち破られるのです。最高潮の賛美が、一方では霊的戦いのために用いられるのです。
 我々も、常に、神への称賛という“最高の賛美”を捧げたいものです。礼拝に集まって賛美する時には、最高の賛美を捧げましょう。

感謝なことに、私達の教会は賛美チームに恵まれています。これは本当に感謝しなければいけないと思います。奏楽隊は結構上手いですし、次から次へと新人が登場します。
色々な教会で奉仕すると、時には賛美がつらい教会もあります。先日も、歌う時になると、カセットテープのスイッチを入れてカラオケでした。会衆の歌う速度がばらばらで、カラオケはどんどん先に進んで行くし、間奏の時はもじもじして、どうしていいのかわりませんでした。
しかしこの教会の賛美も、音響システムもすごいです。賛美をするにはふさわしい環境が整っています。「神への称賛」、最高の賛美を捧げるためのツールは、全て備わっています。こんなに良い環境があるのに、賛美しなかったら、主に申し訳ありません。

しかし、「最高の賛美」は、奏楽隊やPAシステムにも、少しは関係するかもしれませんが、本質的には違います。実は、「最高の賛美」がどこでなされるかというと、「聖徒達は栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で高らかに歌え。彼らの口には神への称賛、彼らの手には両刃の剣があるように」

何と、“最高の賛美”は「床の上」での賛美です。原文でも、「ベッドの上で賛美しなさい」となっています。皆さんの寝床が、実は、最高の賛美する場所なのです。
パウロとシラスがどこで賛美したのでしょうか。それは寝床でした。明日は処刑されるかもしれないという、牢獄のベットの上で、知ってか知らずか、み言葉の約束が実現したのです。PAシステムも楽隊も何もない、しかし聖書のみ言葉の真理の法則が動いたのです。

それが何と、最高の賛美に位置付けられたのです。「一方では神への称賛、一方では敵が打ち破られた」のです。その時の敵は、「国々に復讐し、国民を懲らすため」ですから、ハイレベルでの戦いです。その結果、獄舎が開いたのです。
実は、この霊的戦いは、最初は占いの霊、ピュトンから始まりましたが、ピリピの“主神”はピュトンではなくて、アポロンでした。ピリピの人々が、最もひざをかがめて礼拝していたのは、アポロンという、“太陽神”でした。

では何故、賛美している時にこのような事が起こったかというと、実は、このアポロンは“太陽神”であると同時に“音楽神”でした。(アポロンというカーステレオのメーカーもあります)
神はピリピで、ここまで戦いを進めたかったのです。牢獄の中が“最高のレベルでの戦いの現場”だったのです。

人生の中で捕らわれ、絶体絶命、もうだめかという時期がありますが、そこが最終決戦場なのかもしれません。
パウロとシラスが知ってか知らずか、床の上で賛美した時に、最高レベルの賛美として、主のみ前に受け入れられ、一方では敵の力が打ち砕かれ、ピリピの街を支配していた主権的な力、アポロンが打ち砕かれたのだと思います。獄舎が壊れ、鎖が外れたというのは、街の住民たちを預言的に代表していたと思われます。その結果、看守の家族が救われたわけです。ピリピの街の看守家族が救われたというのは、実に預言的であり、街全体のレギオンが打ち砕かれた事を物語っていると私は理解しています。

この様に私達が最高の賛美を捧げるのは、重要なことです。昔、「床の上の賛美大会」というのをしたことがありますが、朝起きがけに賛美が流れている体験はないでしょうか。
別に目覚ましで賛美歌を流しているわけではなく、夢うつつのなか、賛美が耳元に流れている、それは“床の上の賛美”です。
毎朝、その賛美を携えて、仕事や学校に出かけて下さい。街を支配しているレギオンが打ち砕かれ、勝利の条件の一つかもしれません。

今朝も起きたら、私の耳元に一つの賛美が流れているような感じでした。「聖なる飾りをつけて、主にひれ伏せ、栄光と力を主に帰せよ。捧げもの携えて…♪」という賛美が響いていました。
「あれ、誰か賛美しているのか、家内か」と見ると家内は先に起きていました。天の軍勢が礼拝のために賛美しているんだな、と思い感謝しました。

主をほめ讃える時、主が伏兵を設けて、敵を打ち破って下さいます。主が私達にして下さった良い事を何一つ忘れることなく、主をほめ讃えていくならば、何が起こるのか、「主はあなたのすべての咎をゆるし、あなたのすべての病をいやし、あなたの命を穴から贖い、あなたに恵みと憐みの冠をかぶらせ、あなたの一生を良い物で満たされる。あなたの若さはワシのように新しくなる」

今週一週間、主をほめたたえて下さい。朝起きた時に流れてきている賛美を受け取って賛美してから、仕事に出て行って下さい。必ず主が勝利を与えて下さる事を信じます。

最後に一言お祈りして終りとさせていただきます。
 ハレルヤ、父なる神様、み名をあがめます。今、心からあなたをほめ讃えます。あなたがここにおられますから、ありがとうございます。私達は心のどん底からあなたをほめ讃えます。あなたが私たちによくして下さった事を、何一つ忘れません。
 主よ、さらにあなたを賛美し、人生の最前線に賛美を置くことが出来ますように。主をほめたたえ、あがめ、感謝し、主を礼拝する人生を送ることができますように。今日この時を心から感謝します。教会の最前線に、最高の賛美を置きます。ハレルヤ!
 主が私達を導いて下さいますように。感謝します。今からの聖餐式も感謝します。あなたが、私達の罪を背負って下さり、十字架にかかり死んで下さり、三日目によみがえって下さったことを心から感謝して、今聖餐式を行いますから、導いてくださいますように。イエス様のみ名を通し祈りをみ前にお捧げ致します。アーメン

 主に感謝の拍手を捧げましょう!今から主に感謝するひと時を持ちたいと思います。願い事ではなく、「ただ感謝の祈りのみ」を捧げたいと思います。


[バックナンバー]