「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」


2009.7.19(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

詩篇 91篇1節〜13節
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今日は私も少しクールビズで、いつもは自分の足らなさを隠すために、ネクタイをしめて、皆さんの前に立っていたのですが、リラックスした格好で皆さんの前に立たせて頂いております。暑い日が続いていますが、お元気にお過ごしでしょうか。夏という季節があることによって、自然の豊かさを楽しめますし、暖房しなくてもこれだけ温かいのは大きな神の祝福です。この暑さをセーブしておいて、冬に使えないものかと時々考えます。いずれにしても、日本は四季がはっきりしていて、変化に富んだ季節を体験できることは感謝なことです。

 先週は、「朝起きた時に、主が与えて下さる賛美を受け取りましょう」という話をさせて頂きましましたが、皆さん、いかがでしか。朝起きた時に賛美を受け取って、一日を始められたでしょうか。私も毎日心がけておりましたら、本当に、目の覚める少し前に夢の中に聖歌隊のようなものが出てきて、私の横で歌うような感じでした。その賛美を握って一日を始めた時、主が共におられ、私を支えて下っているのを感じた一週間でした。是非ともこれを忘れずに、毎週、主が与えて下さる賛美を受け取って歩みたいと願っています。

 教会では、聖書の中にある“人生の祝福の秘訣”を毎週学ぶわけです。色々な側面から学んでいるわけですが、それを受け取るなら、素晴らしい人生を歩むことが出来ます。
 今日は、新城教会ニュースの七、八月号を久しぶりに頂きました。私はその中で、毎回、「シオンちゃん」という漫画が好きです。誰が書いているかというと、青木みゆきさんという方です。いつも、私は、「名前をちゃんと書いて下さいよ」というのですが、謙遜な方で、「名前は書かなくていいです」と言われるのです。私は、シオンちゃんをまとめて、本にして出版すればいいと思うのですが、今回のシオンちゃん、「私の名」も絶妙でした。
「ポチ、私の靴を持って来て。えらいねぇ。」「タロ―、あのサンダルを持って来て」「???」、「違う名前を呼んだらダメだった。」「そう、本当の神様の名前はイエス様。その名を呼んで願ってね」そして、「あなたがたが私の名(イエス様)によって求めることは何でもそれをしましょう(聖書)」と。

 わかりやすいですね。聖書の真理を、うまく表現しています。日本はヤオヨロズの“神々”で、色々な名前の“カミサマ”があり、へたな鉄砲数うちゃあたる、というように多くの神々の名を呼んで過ごしていますが、本当の神様の名前は、多くはなく、ただ一つです。それが「イエス様」です。
皆さんの家に電話をかける時、普通、番号は一つしかありません。適当にひと桁くらい間違えてもかかるだろう、といって適当にしたら、他の家にかかってしまうわけです。私達は「神に祈りたい」という気持ちを、誰しも持っていますが、使う名前が問題です。「イエス・キリスト」という名前を使って祈ったら、真の神に祈りが届きますが、名前が違ったら届かないのです。ポチのことを、「タロ―ちゃん」と呼んでも、見向きもしないのと同じです。

今日は、詩篇の大変有名な箇所から、学んでいきたいと願っています。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」という題をつけさせて頂きました。九十一篇の一節と二節にこう記されています。

いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。

 「私は主に申し上げよう。」、「わが避け所、わが砦、私の信頼するわが神」
ところで“私も主に申し上げましょう”「わが避け所、わが砦、私の信頼するわが神」と大きな声で宣言しましょう。私達の信頼する神、イエス様を今日も心からほめ讃え、イエス様だけが避け所であり、砦であり、信頼できる唯一の神であることを、深く心に刻みたいと思います。
 聖書の言葉を、自分に語られている言葉として受け取るなら、人生が変わらないはずはありません。三節に、「主は狩人のわなから、恐ろしい疫病からあなたを救いだされるからである。主はご自分の羽であなたを覆われる。あなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾であり砦である。」
六〜七節、「また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。」と約束されています。私達が主を信じ、この神に信頼を置き、隠れ場とするならば、「恐ろしい疫病からあなたを救いだす」と約束され、「千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない」というのです。

 今朝テレビを見ていましたら、この頃また、新型インフルエンザが流行り出したそうです。この夏はすごく流行るそうです。そして秋から冬にかけて、四人に一人、さらには、二人に一人位はかかると言っていました。そんなことになったら、本当に大変だと思います。この会衆の中で、半分から三分の一くらいの人が感染する計算になります。教会に新型インフルエンザが流行ったら困ります。教会の礼拝で大きな声で賛美したりしますと、ウイルスがどんどん宙を舞い、他の人に感染してしまいます。けれども、そんな事が日本に起こったとしても、主を信じ、主に信頼する者は、「恐ろしい疫病から守られる」と約束されているのです。
これからも、新城教会はこのみ言葉を宣言し続けなければいけません。ちょっと見ものです。日本中に新型インフルエンザが蔓延した時、新城教会に属している方々が、誰も感染しなかったとしたら、このみ言葉が教会に適応されている証拠です。しかし教会が発生源になったり、教会閉鎖などになったら、しゃれにもなりませんから、そうならないように祈らなければなりません。
 私達の目の前で、千人が新型インフルエンザで倒れても、万人が倒れても、「あなたには近づかない」というのですから、主に信頼し、このみ言葉を堅く信じましょう。

ですから、私達は主に申し上げるのです。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」。
皆さん、もう一度宣言しましょう。そんな疫病が流行ったとしても、私達に近づく事はできないし、ウイルスは我々に影響を与える事はできない、と宣言しましょう。そしてイエス様に大きな拍手をお捧げしましょう。ハレルヤ!

 「千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけだ」とあります。新型インフルエンザにかかったら、悪者だという意味ではありません。しかし病気は、人間の罪が根源にあって発生します。日本には罪が多くあり、世界中に罪が蔓延していますから、やはりそういうものが出てくるのだと思います。万が一、感染しても「私は悪者だ」と落ち込まなくてもよいです。その中でも、主は守って下さいます。私達の神は偉大な神であり、信頼するに足る、素晴らしい方であることを堅く信じ、宣言しましょう。

 ある人が神様に、「あなたにとって百万年はどのくらいの長さですか」と質問しました。すると、「私にとって百万年は、たった一分くらいのものだ」と答えたそうです。
すると、今度は、「神様、あなたにとって一億円というのは、いくらくらいのものですか?」と聞くと、「一億円か、そんなもん、私にとってはたったの一円くらいのものだ」と答えました。するとその人は「神様。その一円を私に下さい・・」と頼みました。
すると神様は言いました。「じゃあ、一分間待ちなさい」。

これはジョークで聖書のみ言葉ではありません。聖書は、「千年は一日、一日は千年」とあります。しかし神にとっては、百万年も一分くらいのものです。本当に偉大な、永遠の神に信頼を置いて生活できるのは、どんな保険に入るよりも安心です。

 特に詩篇九二篇は、私達の守りのための言葉です。神が我々を守って下さる保証書です。家に帰られてから、もう一度よくお読み頂いて、自分自身に語られている言葉として受け取って頂きたいと思います。
 九十一篇十節から読みますと、「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。」

 将来を考えると、時々、不安になります。「災いがあったらどうしよう、事件に巻き込まれたらどうしよう、病になったり、事故にあったらどうしよう」と、時々不安になります。しかし神は信頼する者達に、保証書を発行して下さっています。「災いはあなたにふりかからず、えやみもあなたの天幕に近づかない」
 「えやみ」とは何でしょうか。聖書には時々、難しい言葉が使われています。「えやみ」という意味を調べてみますと、「打撃、傷、疫病、災害」です。「えやみは近付かない」とは、人生に対し打撃、傷、疫病、災害は近づかないという意味です。

 「あなたの天幕に近づかない」とあります。聖書が書かれた時代は、住まいが天幕でした。私たちも、夏テントでキャンプしたりしますが、昔はテント生活でした。ですから天幕とは、自分の住まいです。家、家族、そして、家系さえ含む言葉です。素晴らしいではないでしょうか。私達が主に信頼するならば、「打撃・傷・疫病・災害」はあなたの家族・親族・家系に近づくことはないという保障です。この言葉は素晴らしい言葉です。今日、私たちは、この約束をがっちりとキャッチし、悪魔に宣言しなければいけません。詩篇九十一篇のみ言葉は、「私に語られたみ言葉だ!」と。「お前たちは、私に近づく事はできない。災いは、私にはふりかからず、えやみも私の天幕には近付かない!」と宣言するのです。ここには、「あなた」と記されていますが、「私」と置き換えて宣言しましょう。みことばを神のみ前で保証として宣言するとともに、人生をおびやかす悪魔や悪霊どもに対しても、宣言しようではありませんか。「わざわいはふりかからず、えやみも、天幕に近づかない。」
 素晴らしいですね。次は、お隣の方に宣言しましょう。アーメン!イエス様に大きな拍手をしましょう。
 十一節に、「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」
 この「まことに」とは、「何故なら」と訳すことが出来ます。そうすると、意味がよく通ります。「災いはあなたにふりかからず、えやみもあなたの天幕に近づかない。『何故なら』、あなたのためにみ使い達に命じてすべての道であなたを守るようにされる」

 ここから、守りとみ使いが、深い関係にあることがわかります。主を信じる時、神が何をされるかというと、ご自分の使いである「天の軍勢」を遣わし、神の民を守るのです。ここでは生活一般の様々な打撃、傷、病など、全ての悪しき事柄から、我々を守るように天の軍勢に主が命じられる、というのです。
 私達の周りにはかつては、暗闇の天使、悪魔・悪霊どもがいましたが、イエス・キリストを信じる時に、霊的構図が変ったのです。光の天使達が周りに来て、我々を守るようになったのです。主の命令によって、天の軍勢が配備につくのです。天の軍勢がさらに派遣されるように祈る必要があります。

 九十一篇の十一節の「まことに」は、「何故なら」または、「確かに」とも訳すことが出来ます。これはですよ、保証しますという意味になります。「確かに、主はあなたのためにみ使い達に命じて、すべての道であなたを守るようにされる。彼らはその手であなたを支え、あなたの足が石に打ち当ることのないようにする。あなたは獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう」となります。そのように約束されているわけです。
 神様は私達の道の全てをご存じです。我々は忘れっぽい者ですが、神様は忘れっぽい方ではありません。すべての道を知っておられ、あらかじめ、すべての道に天の軍勢を配備し、「あなたのすべてを守ります。」と言われます。主に信頼する者達には、このような約束と保証があるのです。何と素晴らしいではないでしょうか。イエス・キリストを信じる人生は、霊的構図が変わり、暗闇の天使達が一掃され、光の軍勢がすべての道を守るのです。

 今週、皆さんが歩むすべての道に、光の軍勢が派遣され、守られるように主のみ名により祝福します。皆さんもそのことを祈って頂きたいと思います。

実はこの詩篇の九十一篇が新約聖書の中で引用されている箇所があります。誰が引用したのかというと、何と、「悪魔」が引用しました。悪魔も聖書のみことばをよく知っています。実はイエス様が公に宣教に立つ前、「悪魔の誘惑を受けた」ことが記されています。悪魔は、主を信じる者達に対する、神の約束の書を知っていて、それに攻撃をしかけたのです。それがマタイ四章一節〜十一節に出ています。
 何故、神のみ子であるイエス様が、悪魔の攻撃を受けなければならなかったのでしょうか。それは、イエス様はこの地上に、完全な人として来て下さったからです。そして、イエス様ご自身が試みを受ける事によって、悪魔がどういう手口で人に関わるのかという、悪魔の戦略を自ら引き出して下さったのです。そして、誘惑に対する勝利の道を示して下さったのです。

 という事は、我々がマタイの四章と詩篇の九十一篇を関連させて学ぶ時、悪魔の策略と手口を見抜くことが出来るのです。彼らにどのように立ち向かったらよいのか、わかるわけです。

「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」

 詩篇九十一篇は、「守りは主がみ使い達に命令し、み使いが我々の周りに配備についたときに実現する」という観点から見ても、誘惑に勝利したイエス様が、「見よ、み使い達が近づいてきて仕えた」とありますから、最初に悪魔の誘惑に勝利しないと、詩篇九十一篇の守りの保証に欠けが出る可能性があると言うことです。ですから、この二つの箇所を、関連付けて学ぶことは重要です。
 さて、悪魔がどこの箇所をピックアップして攻撃を仕掛けたのかというと、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」という、詩篇九十一篇十二節でした。
 「彼らはその手であなたを支え、あなたの足が石に打ち当ることのないようにされると書いてあるではありませんか」と、イエス様に攻撃をしかけたのです。

 先ほど申しましたように、イエス様は私達クリスチャンの代表者で、悪魔が私達にどんな攻撃を仕掛けるのか、その手口を教えられます。イエス様は悪魔に、打ち勝たれたわけです。勝利した結果、み使い達が近づいてきて、「イエス様に仕えた」のです。その後、完璧な守りの中で、イエスさまは活動されたのです。

 悪魔がどのような言葉をもってイエス様に攻撃したかというと、イエス様が四十日四十夜断食した後、空腹を覚えられたのです。イエス様は神様だからお腹がすかなかったかというとそうではありません。完全な人となって下さいましたから、お腹がすくという気持ちも体験されたわけです。今、お腹がすいている方は、かつてイエス様が体験されたのと同じ気持ちです。感謝して、しばらくお待ちください。
 サタンが近づいて来て、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」と言いました。お腹がすいているイエス様に、そこらに転がっている石がパンになるように命じてみろ、と言いました。それを食べれば、お腹がいっぱいになるじゃないかと。
 しかし、悪魔は、おかしな事を言うと思われませんか。また、その後のイエス様の反論も、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によると書いてある」、というものでした。「パンだけで生きる事はできない、神の口から出る一つ一つの言葉による」と言うフレーズだけで、悪魔に勝った、という訳です。これはどういう意味なのでしょうか。

 実は、現代社会を分析すると、「石をパンにする」事のみで生きている社会です。現代社会を集約すると、「よりよい経済活動」です。経済活動が豊かになるためなら、何でもありです。ヤオヨロズの神々を動員して、儲かりますようにという祈願です。一口で言えば、人生すべて、「お金のため」です。
 お金とは、「金」と書きます。現代の貨幣社会は、「金本位制度」から始まっています。金が百円分あれば、百円分の紙幣を発行するシステムです。“金”は石から出るものです。また、今はコンピューター社会で大変便利に生きていますが、その中身は、全てシリコンという「石」です。アメリカにはシリコンバレーという所があり、石を採掘し、コンピューターなどの製品を作るわけです。
また、私達の生活で使う製品も、ほとんど金属が使われています。金属も元々は石です。石から抽出したものを、何らかの加工を施し製品となります。それが結果的に何になるかというと、結局、「パン」、すなわち食べ物になるわけです。実は私達の生活は、言い換えれば、石をパンにする生活です。

 この頃は省エネが叫ばれており、今日は私も少し省エネの気分で、家内がユニクロで買ってくれたシャツを着ているわけですが、何故今、省エネやエコが叫ばれているかというと、石油が有限資源であり、やがて枯渇するだろうということで、節約しているのです。代替エネルギーが叫ばれていますが、石油とは読んで字のごとく、「石の油」です。

 先週私はひとつの興味深い本を読みました。石油が何から出来るか、皆さんはご存じでしょうか。今まで石油は有機物、動物の死骸や植物などが何百万年も堆積して、やがて油に変わった、と言われていました。それを汲み出していくと、やがて枯渇するものと考えられていましたが、この頃の科学では、そうではなさそうだというのです。有機物が砂漠の下になぜ貯まったのかと考えると、おかしなことだと思います。
 この頃では、石油はもしかしたら、無尽蔵かも知れないと言われています。なぜならば、地球中心のマントルの岩のすきまから、無尽蔵に湧いていると言うのです。しかし、現在、世界の動きは石油は枯渇資源という前提で動いている事から、それは修正できないというのです。「石油はいくらでもあります」とわかったら、政治的にも、経済的にも大変なことになってしまうそうです。「石油はもうありません」という前提で、省エネ活動や地球温暖化防止などが成り立っているのです。すでに世界中にその考えが組み込まれていますから、変える事はできないそうです。私は、その考えに同意します。きっとそうだろうと思います。石油は有機物ではなく、地球の中心から生成されるものと考えた方が合理的です。証拠が沢山あるそうです。

 世界で一番富んでいる人々は、アラブの石油王達です。砂漠の下に石油が沢山眠っていて、それを売り、それがすごい量の“パン”になっているわけです。
先週も、一つのジョークを読みました。それは、イスラエルの民がエジプトから脱出し、カナンの地を目指したのですが、「カナンの地に行かずに、南下したほうがよかった。そうしたら石油があったのに」と。

 しかし、石をパンにするという、経済活動のみで人類は幸せになったのかというと、誰も幸せになっていないのです。石をパンに変える生活が全てのように考えさせるのは、実に、悪魔の策略です。イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」と語られました。
 私達は経済活動のただ中に身をおいていますが、ただ、石をパンに変える働きに終始してはいけないのです。私達は神の言葉を受け取らなければ、悪魔に打ち勝つことは出来ません。石をパンに変える生活のただ中で、神の言葉を受け取るなら、天の軍勢が我々の周りに来て、我々を支えるという、詩篇九十一篇の守りが実現するのです。

 ですから、「石をパンに変える」活動を六日間行ったら、週の初めの日に必ず教会に来て、神の言葉を聞くのです。皆さんの人生の守りのためにも、神の言葉を受け取る習慣をつけなければ行けません。それが敵に勝利する秘訣です。日曜日の礼拝を守る事は、サタンに打ち勝つ霊的戦いの武器です。

 続いて悪魔が何と言ったかというと、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい」と言いました。これはまさしく、「自殺しろ!!」という事ではないでしょうか?
 今まで「死にたい」と思った事はありますか。「身を投げてみたい」と思ったとしたら、誰がそれを語ったのでしょうか。それは「サタンの声」です。イエス様に、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみろ」と言いました。神の子イエス様にさえ、そんな事を言ったのは、クリスチャンにも、悪魔はそのようなアタックをするのかもしれません。
 「お前。身を投げてもいいよ。イエス様を信じているから、天国に行けるよ。神が支えてくれるよ。死んだ方が楽になるよ」という声を聞いた時、「これはサタンの声だ!」と、立ち向かわなければいけません。神は死ぬことではなく、生きる事を望んでおられるからです。

 悲しい事に日本は年間、三万数千人の人々が自殺します。若者の死亡率の半分は、自殺だそうです。そして、男性と女性では、どちらが多く自殺するかというと、男性は女性の倍自殺するそうです。男性は強そうですが、実は、女性の方が強いです。女性は何があっても、力強く生き抜いていくそうですが、男は何かあると、「もう死んでしまおう〜」という誘惑に駆られわけです。
 しかし、身を投げてはいけません。もし、皆さんの中で万が一、「私は死にたい。死ぬ前に教会に行こう」と言って、今日礼拝に来た人がいたら、絶対に取りやめて下さい!それは悪魔の声です。そこには、神の支えはありません。死後の保証はありません。私達は主を信じ、生きることが重要です。

 そしてもう一つ、悪魔が何を語ったかというと、「もし、私をひれ伏して拝んだら、これら全部をあなたに差し上げます」と。それは悪魔を直接拝む行為です。日本人は知らずしてサタンにひれ伏しているのです。それが何かというと、「偶像礼拝」です。偶像礼拝は、悪魔の巧みなだまし事であり、ただの像を拝んでいるようですが、サタンを拝んでいるのです。これに関連して、ルカの四章五節から見ると、

「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」

 私をひれ伏し、拝んだら、国々さえもあげますよ、と誘惑をしたのです。偶像礼拝は“よりよい経済活動”や“家内安全”など、自分が得をするために“神々”にひれ伏すのです。日本語の“神”には“鬼”という概念もあります。ですから、日本人は生活のただ中で“神々”とは、良い神ではないと分かっています。それが神にもなり、鬼にもなることがわかっています。しかし、鬼であっても、ひれ伏し、彼らと取引をしたら良い物をくれると錯覚しているのです。実際はそれが悪魔の手口で、その事によって何が起こるのかというとその人の良きものが全て盗まれ、破壊されるのです。悪魔は、「この国のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げます。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです」と。

 悪魔は世界の国々を支配しているのです。ですから、どこの国に行っても問題は同じです。いくら努力してもコントロールできないのは、これはサタンの力です。これと思う人に国さえもあげてしまう、というのです。ただひれ伏すだけで、「国をあげる」とイエス様を誘惑したのです。

 世界を見ると“ひれ伏す”スタイルの礼拝が、イスラムの国々です。一日に数回メッカの方に向かいひれ伏します。皆さんはイスラムの国に行かれた事はあるでしょうか。我々にとってはショッキングな行為です。ある時間になるとコーランが鳴り響き、道路でもメッカの方向に向いてひれ伏します。モスクなどへ行くと、全員が身を投げ出してひれ伏しています。
 しかし、イスラムの国々を見ると、必ず誰か特定の人物の手に国が渡っているのです。イラクでもどうでしょうか、フセインという暴君の手に渡っていました。今でも、ほとんどのイスラムの国々は、特定の宗教指導者の手に渡っていて、一部の人はものすごい金持ちかもしれないけれど、ほとんどの民は貧しくて大変な中にあるのです。一人の人に国を乗っ取られているのです。

 この、ひれ伏すスタイルを研究しますと、チベットの「チベット密教」が五体投地と言って、体を地にひれ伏して礼拝します。あの国は誰にとられているかと言えば、「ダライ・ラマ」という人物に支配されているのではないでしょうか。

 そして、もう一つ、アジアでひれ伏すスタイルを持っているのが、朝鮮半島です。韓国と北朝鮮では、祖先崇拝の時に、皆、ひれ伏しているのです。朝鮮半島には何が起こっているかというと、北朝鮮には金正日という問題児がいます。小さな貧しい国ではありますが、彼の手に半島は握られています。
 偶像礼拝が悪魔の策略であるという事を、ここから知るわけです。石をパンに変えるとか、高い所から身を投げるとか、ひれ伏して拝む事が、守りを取り去る危険な行為なのです。人生を乗っ取られる危険な行為だということを、イエス様は身をもって悪魔の策略を引き出し、我々に教えて下ったのではないでしょうか。この三つの事柄をよく理解しなければいけません。

 今週も、私達は石をパンにするような働きをするかもしれませんが、常に主を礼拝し主をあがめていく、「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と、主のみ名を叫びながら歩みたいものです。
 「高い所から身を投げよ」などと悪魔が語っても、絶対にそんな引き金をひいてはいけません。主は生きる力を私達に与えて下さいます。「悪魔よ、出ていけ!」と、死の力を打ち破らなければいけません。
 そして、「私にひれ伏しなさい」という、偶像礼拝から遠ざかる事は、人生にとって最も大切なことです。

 実は、悪魔が何故、この詩篇九十一篇十一節の、「主はまことにみ使い達に命じて、全ての道であなたの足を守るようにされる。その手であなたを支え、あなたの足が石に打ち当ることがないようにする」という言葉をうまく利用して、身を投じてみろと言ったのか、ここで理由がわかるような気がします。
 悪魔は「身を投じてみなさい。神様が支えてくれますよ。そんな無謀な行為でも神様が助けてくれますから」という意味合として、このみ言葉を利用したのですが、実はこの詩篇九十一篇が意味する真の意味とは、十二〜十三節にその答えがあります。

「彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。」

 「私達の足が石に打ち当る事のないようにする」というのは、何を意味しているのでしょうか。それは高い所から飛び降りた時に、天使が支えますよ、ではなく、「石に打ち当ることがないようにする」というのは、「十三節」にその意味があります。
 私は若いころ、夏がすごく楽しみでした。何故なら、夏には夜よく豊川にアユを突きに行きました。防水の懐中電灯を持ち、銛を持って豊川に潜ると、大きなアユが寝ており(魚は夜はいびきをかいて?寝ています)それにそっと近づいて、ゴムじかけの銛でついて、一匹とればそれを水泳パンツの中に入れ、もう一匹とればまた入れ、それを焼いて食べました。しかし、寝てるアユでも、突くと逃げることがあるのです。そうすると、下が石なのでモリが石に突き当たって、歪んでしまうのです。何度も失敗すると、銛が役に立たなくなるのです。うまく狙いを定めないと、敵もさるもので、銛がヒットせず石に当たってしまうのです。
 まさに、「あなたの足が石に打ち当ることがないようにする」というのは、私達には神の権威が与えられています。歩みのただ中で獅子やコブラ、蛇とは何かというと、悪魔、悪霊どもの象徴です。それを踏みつけながら歩むことが出来るのです。
 しかし悪魔がそのみ言葉をうまく曲げてしまったのです。今までの人生は的外れというか、石を踏んで足に傷を負った人生だったのかもしれませんが、主に信頼していたら「あなたの敵を的確に破壊しながら、歩むことが出来る。決して、あなたの足が折れるような、傷つくような事は無く、敵を的確に打ち破って歩むことが出来る」と、教えているのです。悪魔は一番の武器となるみことばを捻じ曲げて、「無謀なことをしるても神が支えますよ」と変え、攻撃を仕掛けたように感じます。

 今週も、的確に敵を踏みつけ、勝利の人生を送りましょう。主は私達に、素晴らしい権威を与えて下さっています。
 ルカ十章十九節にも、「確かに」とあり、ここを読んでみたいと思います。先ほどの詩篇九十一篇の、「まことに」と同じです。証しますよという意味です。

「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」

あなたは決して、石を踏んで傷つくようなことはありません、と主は保証して下さっているのです。素晴らしいです。
先々週も、ゲラサの男がレギオンという軍団に支配されていたが解放された、という箇所からお話させて頂きました。そのレギオンは、ローマ軍の五千から六千の軍団を意味している組織軍団でした。

 このレギオンという言葉を、イエス様も使われました。どこで使われたかというと、それはイエス様が十字架にかかられる前に使われた言葉に入っています。マタイ二十六章五十三節〜、

「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。」

 この軍団というのは、“レギオン”がもとの言葉で十二レギオンもの、光のみ使いの軍団を配下に置くこともできるのだと。
 どういう状況の中でイエス様が語られたみ言葉かというと、イエス様が捕らえられ、十字架の刑に連れて行かれるただ中で、語られた言葉でした。イエス様を逮捕するために群衆が来た時に、弟子の一人がイエス様を守るために刀を抜きその敵に切りつけ、耳を切り落としてしまったのです。その時イエス様は、「やめなさい」と言われ、切り落とした耳さえも治してあげたのです。そして二十六章五十三節〜五十四節を見ると、

「それとも私が父にお願いして12軍団よりも多くのみ使いを今私の配下に置いて頂くことができないとでも思うのですか。だが、そのような事をすれば『こうならなければならない』と書いてある聖書がどうして実現されましょう」

こう言われました。実はイエス様が十字架にかかって死なれたというのは、決して殺されたわけではなく、預言の成就であり、自らすすんで十字架にかかり、命をすて、自ら、命を拾われました。多くの人達がイエス様は、十字架で殺されたと思っていますが、それは間違いです。イエス様は、聖書の預言の成就のために、自ら進んで十字架にかかられ、命をお捨てになり、ご自分で命を受け取った方です。ヨハネ十章十八節、

「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」

 何と、イエス様が十字架にかかられたのは、殺されたのではなく、自分から命を捨てて、自分から受けたのだと。そして、十字架にも、ご自分自ら進んで行かれたのだと。イエス様は決して、殺された方ではないのです。

 ユダヤ人の歴史の中には、大勢のユダヤ人が虐殺された悲しい歴史があります。近年、ナチス・ドイツにより、六百万人くらい殺されたと言われています。それは、調べてみますと、「イエス様はユダヤ人達に殺された」という理解から始まっていて、特に、教会がユダヤ人を強烈に迫害したという、悲しい歴史があるのです。「イエス様を殺したのはユダヤ人じゃないか、じゃあ、ユダヤ人を殺してしまえ」
 ユダヤ人を豚と呼び、スペインでは豚にまつわる多くの祭りがあります。それはユダヤ人を皆殺しにすることから始まり、近年まで続いたわけです。本当に悲しい事です。
 しかしイエス様が言われたのは、「わたしには自分から命を捨てる権威もあるし、受ける権威もある。決して殺されるのではない」と。

 ですから、イエス様を逮捕しに人々が来た時にも、「今でも、十二軍団の天の軍勢をここに遣わすことが出来る。しかしそうしたら、聖書の預言さえも変わってしまうから、それはできない」と言われました。

 絶大な神の権威の傘の下に身を置くことが出来るのは、たいへん素晴らしいです。私達は悪魔・悪霊どもを恐れる事はありません。あの、ゲラサの男は一レギオンに支配されていましたが、イエス様は、十二レギオンもの軍勢を動員できるのです。
 十二レギオンもの光の軍勢が来たら、何と、十字架のプランさえも変わる可能性があるというのは、サタンのプランなど、粉々に粉砕することができる事を意味しています。

 主に信頼する者の人生は、何と素晴らしいではないでしょうか。なぜならば、主はあなた方のために、「み使い達に命じて、すべての道であなたを守るようにされる」と。そして、「あなたは獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう」と。
 一レギオンどころか、十二レギオンもの天の軍勢を、私達の所に送って下さるのです。「悪魔のプランは粉々に粉砕される」と約束して下さっていると、私は信じています。

 「確かに私は蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた、だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。決して、石に打ち当って足を傷つけるようなこともないですよ」と。この聖書のみ言葉を受け取って下さい。
 先週、この箇所を読んで、本当に恵まれました。主が私達を守って下さる、共にいて下さるのです。

「わが避け所、わが砦、私の信頼するわが神」と、心の底から叫び、主を礼拝し、今週も過ごしていきたいと思います。
 皆さんの所に十二レギオン以上の天の軍勢が遣わされ、悪魔のプランが粉々になり、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に勝利する週でありますように、心から願い、祈り、このメッセージを終えさせて頂きたいと思います。

一言、お祈りします。
 ハレルヤ、天の父なる神様、み名をあがめます。あなたは私達に素晴らしい守りと勝利を与えて下さっていることを、心から感謝します。完璧な守りを与えて下さると約束して下さっている事を感謝します。また、敵の策略をも、解き明かし、私に告げて下さっている事を心から感謝します。
 主よ、どうかここにおられるお一人お一人の人生に、守りを与えて下さい。敵の力に打ち勝つ権威と、力をお与えくださいますように。一人一人の所に天の大軍勢、十二軍団以上の軍隊を配備して下さい。悪魔のプランを粉々にして下さい。ハレルヤ!感謝します。この素晴らしい勝利を、心からほめ讃え、賛美します。
 あなたが避け所であり、砦です。心から信頼できる唯一の神である事を、今宣言します。すべての栄光を主にお返しします。今から、聖餐式の時を持ちますが、その時を祝福して下さい。イエス・キリストのみ名に全ての勝利を宣言し、み名によってこの祈りをお捧げします。アーメン!


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