「教会には永遠の希望があります」


2009.7.26(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

ローマ人への手紙 6章23節
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

 ハレルヤ!皆さん今日は!“You are so special”と、先ほど、ゴスペルクワィヤーが歌って下さいましたが、一人一人、神から愛されている素晴らしい神の作品です。今日、皆さんと共に礼拝に集い、心から主を讃えることが出来て感謝します。
 先週は、詩篇の91篇から、お話しさせて頂きましたが、先週一週間はいかがでしたでしょうか。神の守りの中で、元気で集われている事と思います。暑い日が続いておりまして、また、この頃はちょっと雨が多くて大変な地域もあるようですが、全ての災いから主が守って下さるように祈っていきたいと願っています。

 今日の聖書の箇所は、ローマ書6章23節です。大変有名な箇所です。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私達の主イエス・キリストにある永遠のいのちです」
 タイトルとして、「教会には永遠の希望があります」と付けました。イエス・キリストを信じるとは、結果的に何が起こるのかというと、永遠の希望である「永遠のいのち」です。
 何度もお話するのですが、教会には人生の四季があります。今日も、礼拝後に献児式がありますが、新しい命が与えられた事を神様に感謝するとともに、一生祝福されますようにと神の前に祈る一時です。
 また、成人の祝福もあります。結婚式もありますし、葬式もあります。教会は人生の四季を体験できる場所です。そして、教会だけが、結婚式とお葬式を同じ場所で行います。つい最近もお葬式がありました。しかしその数日後は、棺が置かれていた場所に、花婿さん花嫁さんが立ち、一生の愛を誓いました。普通では考える事はできませんが、教会はそれを何も矛盾と考えてはいません。何故なら、神の中にある命は有限のものではなく、永遠だからです。

 ここにおられるお一人お一人はイエスさまとお会いするなら、永遠の命が与えられるわけです。皆さんの前後左右の方々とは“永遠のお付き合い”です。ちょっと、お隣の方の顔をご覧になって下さい。その方とは、永遠のお付き合いであるわけです。隣の人を見て、「この人と永遠のお付き合いではたまらない」とは言わないでください。天国に行ったら、どんな性格の人でも、よい性格に変えられ、共に過ごすことが出来ますから。それは、地上だけのお付き合いだけではなく、永遠です。

 人は、いつかは地上から出ていかなければなりません。そんな悲しい存在です。この頃日本では、平均寿命がとても延びて、今や世界一だそうです。それでも、いつかはこの地上から出ていかなければいけないわけです。
 7月、8月は日本人が“死”について考える時期ではないかと思います。何故ならば、巷では「盆」があり、それは「地獄のふたが開いて、死者が生ける者の世界に帰ってくる」と言われるからです。日本全国で盆行事がなされ、特に、7月、8月は“死”に心を留める時期です。
 しかし、良く考えてみれば、日本人の死後の世界観はむちゃくちゃというか、一定していません。死の門は、誰もがくぐらなければならない門ですが、その先の事はあまり深く考えていないのが現実ではないかと思います。
 教会が何故、結婚式も葬式も、同じ場所で出来るかというと、それは、「死も命も、全て神のみ手の中にあり、全て解決済み」であるがゆえに、同じ場所で行う事が出来るのです。
 今日の聖書のみ言葉には、「罪から来る報酬は死です」とあります。しかし、「神様が下さる物は永遠のいのちです」と告げています。聖書の教える“死と命”とは、何を意味しているのでしょうか。そのことについてお話させて頂きたいと思います。

 日本人の死後の世界観は一定してない、と言いましたが、日本人に、「あなたの宗教は何ですか?」と聞けば、ほとんどが「仏教です」と答えます。しかし仏教の死後の世界観を詳しく理解している人は、あまりいないのではないかと思います。けれども、聖書の死後の世界観は、はっきりしています。
 死後についてはっきり教えている箇所がどこかというと、やはり、イエスさまが例話をもって話された、「ラザロと金持ち」の箇所であると思います。この箇所は死後の世界観を扱っています。そこを少し読んでみたいと思いますが、ルカの福音書16章19節から31節です。これは、イエスさまが“死後どうなるか”という事に関して、はっきりと告げられた箇所です。
 私達はやがてこの地上から、死後の世界に入っていかなければいけないのですが、その時、聖書の言葉が現実であり、真実だった事に気づくと思います。けれども、後で気づくより、先に知っておいたほうがいいのです。この箇所は少し長いですが、ストーリー性がありますので、読んでみたいと思います。

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

 仏教では、「人が死んだらどうなるか」という事に関して、“輪廻”すると教えます。人は死んでも、またこの地上に戻ってくるという教えです。皆さんは輪廻したいと思いますか。ある人は、「もう一度輪廻して、やり直してみたい」という思いもあるかもしれませんが、仏教では、人は死んでから49日間が勝負だそうです。この期間に地上から一生懸命拝んでもらわないと、人間界に輪廻できるかわからないというのです。地上で悪さばかりしていると、閻魔大王が、「お前はこの地上で悪さばかりしていたな。お前はもう、人間の世界には輪廻させてやらない。虫になれ!」などと言われると、虫になってしまうそうです。

 徳川時代に、徳川綱吉という将軍がいましたが、「生類憐みの令」というものを出し、特に、犬を保護しました。それは何故かというと、背後に輪廻思想があったからです。「もしかして、この犬は、もともとは人間かもしれない。犬に手荒な事をすると、死んでから犬に輪廻するといけない」という事でした。

 皆さん、この輪廻が本当であれば一度死んだら、二度と出会う事は出来ないはずです。私と家内が今仲良く連れ添っていますが、多分私が先に死ぬと思います。私は家内にいつも、「僕より先に死なないで」と言っています。私は家内より先に死にたいと願っています。
 私は家内より先に死んで、家内もやがて死にます。「愛していた、順ちゃんに会いたい!」と、あの世に来て、「順はどこにいますか?」と聞いたら、「ああ、順さんですか。あの人は悪さばかりしていたから、地上を見て下さい。今、夏の蝉になっていますよ」と。
 家内が地上に目を向けると、かつての夫が蝉になって、「ミーン、ミーン」と鳴いていたらどうでしょう。家内は本当にがっかりすると思います。
 私の家内はきっと言うと思います。「私も蝉にして下さい!」そして、蝉になって地上に戻ったら、蝉の命は三日と短いのです。家内が蝉になった頃には、蝉の私は死んでいるでしょう。その後、さらに輪廻して、「今度は犬になれ!」と言われ、犬になったらどうでしょう。
 それでも家内が追いかけて、猿にでも輪廻したら、犬猿の仲になってしまい、大変な喧嘩になるわけです。
 このように、もしも輪廻を信じていたら、二度と死んだ人と再会出来ないのです。それはたいへん悲しい事ではないでしょうか。

 皆さん、輪廻したかったら、仏教に行って下さい。けれども、聖書はそうではありません。人は神から来たので、死んだらどうなるかというと、完全な神の管理下に移るのです。そしてこの地上には、決して輪廻などしません。先ほどの賛美の中でも、「You are so special」と歌われました。「あなたは特別な人です。愛されている人ですよ」と、歌ってくれましたが、神がおられるなら、私達をリサイクルにかけたり、人を犬にしたり蝉にしたりすることは、決してないはずです。

 聖書は、「一度生まれたら、永遠に生きる」と教えているのです。しかし、死後の世界には二つの国があるようです。ここでは、“金持ちが行った国”と、”貧乏人が行った国”です。今日、金持ちの方はおられますか。その人は永遠の滅びのようです。「私は貧乏人でよかった…」と思うかもしれません。
 しかし金持ちと言っても、この聖書に出てくるような金持ちは、あまりいないと思います。何故なら、この金持ちのレベルはかなり高いからです。
 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていた」というのですから。いくら金があっても、毎日贅沢に遊び暮らしている人はあまりいないと思います。
 けれども、貧乏人は天国に行けるらしいのです。「貧乏人でよかった!」と思われるかもしれません。しかし、聖書を見ると、この貧乏人の基準も、我々には合いません。なぜなら、金持ちの家の残飯で、暮らすほど貧しかったからです。

 けれども、一般の人が聖書を読むと、「金持ちは神から嫌われていて地獄に行き、貧乏人には慈悲があり、天国に行ける」と思うのかもしれません。
 しかし実はそうではありません。この言葉をよく読んでいくと、他の意味が浮かび上がってくるのです。

 実は、このラザロと金持ちのストーリーはどこから語り始められたかというと、ルカの16章13節です。

「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

と語られ、続いて「ラザロと金持ちのストーリー」が始まっているのです。あなたは二人の主人に同時に仕えることは出来ません、神と富に仕えるのは両立できない、という所から話が始まっているのです。
 けれども、「神にも仕え、また富にも仕える」というのは、つきつめて考えると、かなり矛盾する話です。なぜなら、神という方は、生きていて、人格を持っている存在ですが、“富”とは何でしょうか。それは無機質な物質です。
 今、私達が住んでいる世界は、貨幣経済というシステムで成り立っていて、お金があれば何でも手に入ります。それで、「お金が欲しい、お金が欲しい」と言っていますが、お金とは流通を支えるシステムの一アイテムに過ぎません。ゆえに、本来、人格を持った存在に対比させる事は出来ないのです。神に対比させるには、“もう一つの人格”を対比させなければいけないわけです。ですから、“神と富”とは、比較対象にならないはずです。

 この“富”と訳されている単語は、「マモン」という言葉が使われています。「マモン」とは、単に「富」と訳されていますが、ある注解書には、「この有名な言葉ほど間違って理解されている言葉はない」とありました。新改訳聖書を見ると、この所に*星印がついていて、注釈に「アラム語、マモン」と記されています。
 実は、「マモン」というのは、富ではなく、古代カナン地方、フェニキヤ人、ペリシテ人が信仰していた神々の一人なのです。豊穣の“女神”アシュタロテや、稲妻と雷雨の神、バアル、海の神ダゴン、と並ぶ”富の神”なのです。いわば、日本で言えば商売神、恵比寿や稲荷のようなものです。つまり、このみ言葉は、創造主なる神と、マモン神に、同時に仕えることは出来ませんよ、というのが本当の意味なのです。

 実は、「ラザロと金持ち」は、金持ちが地獄に行き、貧しい人が天国に行くというような、単なるストーリーではないのです。「神にも、富にも仕える事は出来ない」という前提があって語られているからです。ここで、「ラザロ」という実名が記されています。
 しかしこの金持ちが誰であったのか、名前は出ていません。名前が伏せられているのです。これは何を意味しているのでしょうか。ラザロという貧乏人の名前が出ているのは、命の書に、「ラザロ」と記されていた証拠です。それは、「創造主なる神を信じていたゆえに、天国に入ることが出来た」と意味しているのです。

 けれども、金持ちは単に“金持ち”とだけ表現され、実名が記されていないのです。それは、命の書に名が記されていなかった事を表しています。
 さらに、“金持ち”とは、単に富んでいたという意味だけでなく、「マモン神」というこの世の“神”に仕えていた事を意味するのです。ゆえに死後何が起こったかというと、神の支配の中で生きることができず、永遠の滅びへ行ってしまったのです。

 私達がなぜ、神を信じることが大事かというと、それは霊的支配権が変わるからです。イエス・キリストを信じる時、暗闇から光、サタンの支配下から、神の支配に移されるのです。故に、私達は死後、神の完全支配に移されるわけです。
 しかし、この地上で悪魔の支配下にあればどうなるでしょうか。死後は、悪魔の完全支配に陥らなければならないのです。ですから、金持ちが滅びに行ったのは、ただ金持ちであったという理由ではなく、マモン神を信仰していた故なのです。

 私達の周りを見ますと、多くの偶像があります。何故偶像礼拝がなされるかというと、それは、ある意味で、手っ取り早く、分かりやすいからではないかとかと思われます。石や木、金属で神々を作り、「これが神様ですよ。これがあなたを助けてくれますよ」と言われると、何となく、イメージ的に分かりやすいのです。それで安易に偶像を拝んでしまう傾向があるのですが、実は、聖書は偶像の背後には、暗闇の力、悪霊が働いていると教えています。
 また、人は死んでも、人としては変わらないし、死んでから行き場を失ってさまよっているような存在ではないのです。しかし日本では盆の時期に何を拝むかと言うと“先祖”の霊を神のようにして拝むのです。それは、祖先崇拝と呼ばれています。
 「祖先崇拝」や「偶像礼拝」は、聖書から見ると、先ほどの金持ちと同じ、「マモン神」を礼拝するのと同じ意味です。

 先ほども、日本人が輪廻を信じていると話しましたが、日本の仏教は、実は仏教ではありません。何故なら、輪廻も語りますが最も強調するのが、「祖先崇拝」だからです。輪廻と祖先崇拝は、真っ向からぶ対立する「別の考え方」なのです。もし輪廻が本当ならば、墓も要らないし、魂はリサイクルしますから、先祖の霊などいないはずです。
 しかし、一般的に行っている事は、「墓を大切にし、先祖達が生きる者達と一緒に住んでいる」という前提に基づいて、祖先崇拝が行われるわけです。祖先崇拝は、死んだ人達の霊が地上に残っているという前提がなければ、成り立ちません。ですから、よく考えれば仏教の輪廻と日本人が行っている、祖先崇拝とは全く別物なのです。

 仏教徒ならば、輪廻なのか、祖先崇拝なのか・・・、はっきりと決めなければならないと思います。しかし祖先崇拝も考えてみれば、本当に虚しい感じがします。人が死んでどうなるかといえば、行き場がなく、草葉の陰に隠れ、ふらふらしているらしいです。そして生きている人たちが、一生懸命拝んでくれたら、家族によい事をするらしいのですが、一生懸命拝まないと、悪い霊となって家族を襲うそうです。
 皆、何故、先祖を一生懸命拝むのかと言えば、恐怖心があるからだと思います。色々な問題があれば、「この頃ちょっと、ご先祖さんが怒っているのではないか・・・、ちゃんと拝まなければ」というわけです。先祖の霊を拝み忘れると、先祖は敵に回るようです。

 皆さんはどうでしょうか。あなたが死んでから、家族が拝んでくれなければ、「この頃、拝みが足りないな。よし、たたってやろう」などと考えるでしょうか。絶対に、そんな事はないはずです。私ならば、もし地上に霊魂として残っていて、家族のそばにいたら、いくら拝んでくれても、くれなくても、家族を守り助ける側に回ると思います。しかし、拝みが足らなければ、必ず祟る存在になってしまうのは、おかしな話ではないでしょうか。

 私達はやがて、誰でも、死のゲートをくぐり、向こう側に行かなければならないわけですから、死後の世界についてはっきり理解しなければいけません。聖書の死後の世界観は、本当にわかりやすいです。天地宇宙を作った神を信じるならば、永遠の命を得て、永遠の国に行くのです。死も苦しみも悲しみもない場所です。そこで永遠に暮らすことが出来る、という事です。しかし、悪魔に捕えられていたならば、永遠の滅びの国に行かなければいけないわけです。
 もしも、祖先の中で、誰か悪魔に捕えられたまま、地上を去った人がいるならば、今、何を考えているのでしょうか。それは、ここに述べられているように、「こんな苦しい所に絶対に来ないで下さい!」と、真剣に神の前でとりなして祈っているのです。「こんな苦しい所は、私だけで十分です。生きている人達が、こんな苦しい所に来ないように」と叫んでいるはずです。

 教会は全ての方々がイエス・キリストを信じて、天国に行って欲しい、と言う願いで開かれています。信じるならば、永遠の命に入ることが出来、永遠に神と共に過ごすことが出来るのです。なんと素晴らしい希望でしょうか。この地上で別れがあったとしても、やがて、私達は神のもとに行って、再会できるのです。「先に天に帰ったお父ちゃんだ!」「お母ちゃん、おじいちゃん、お祖母ちゃんだ!」と。
 その日は本当に嬉しいと思います。二度と別れがない場所です。そんな場所に行けるのは、何と素晴らしいではないでしょうか。

 イエスさまが与えて下さるプレゼントは、“永遠の命”です。実は、日本の人達が先祖崇拝や偶像崇拝を一生懸命やるには、やはり理由があると思います。そこには、手ごたえを感じるからだと思うのです。仏壇の前に行って、手を合わせたりすれば、「ああ、これはご先祖さんか・・・」と言うような、手ごたえを感じるのです。しかしそれは決して神でなく、先祖ではないのです。決して騙されてはいけません。

 何年か前、私のところに一人の男性が相談に来られました。その方はクリスチャンではありませんでした。「すみません、私の話をちょっと聞いてくれますか」と言われました。「どんな話でも聞きますよ」と答えると、「ちょっと頭がおかしい人と思うかもしれませんが、話しても大丈夫ですか?」と言われました。
 実は、その方の愛していた、お祖母ちゃんが亡くなったというのです。本当に悲しんで、お祖母ちゃんが祀られた、仏間で寝る様になったそうです。皆さんはいかがでしょうか。お祖母ちゃんが亡くなったら、仏壇の前に布団を敷いて寝たいと思いますか。
 家の中にはその人しか住んでいなかったそうです。しかし、しばらくしたら、その家で怪奇現象が起こるようになったそうです。障子の向こうに廊下があるのですが、誰もいないはずなのに誰かが、「ミシミシ」と通る音がするそうです。「おかしい、気のせいか…」と思ったそうですが、夜、いつも人が通るような気配がしたそうです。
 ある晩、また始まったそうです。「ミシ、ミシ…」と誰か通ったそうです。「あっ、また誰か来た」と思ったら、一人が二人になり、三人になり、最終的には六人になり、その人の前に勢ぞろいしたというのです。それは息も止まりそうな、恐ろしい体験だったそうです。
 そうこうしているうちに、また、怪奇現象が起こったそうです。誰もいないはずの家で夜寝ていたら、誰かにつつかれ、はっと目を覚ましたそうです。すると、死んだはずのお祖母ちゃんが、目の前に立っていたというのです。それも、どんな格好をしていたかというと、顔に真白いおしろいをつけ、ニッと笑っていた、というのです。そして、人差し指を出してペロリと舐め、孫のおでこに手を置き、ぱっと消えたそうです。
 彼はそれ以来恐怖で、仕事に行けなくなったそうです。家族も心配して、病院に連れて行ったそうです。病院でそのストーリーを話したら、医者は、「だいぶお疲れですね。ゆっくりお休み下さい」と、薬をくれたそうです。けれども、それを飲んでも落ち着かなかった、というのです。

 彼はそんな悶悶とした日々の中で考えました。「私の前に出てきたのは、顔はお祖母ちゃんの顔をしていたけど、お祖母ちゃんは人を驚かすような人ではなかった、もっといい人だった。あれは、お祖母ちゃんじゃない!お祖母ちゃんのふりをした、死の霊に違いない、悪魔、悪霊に違いない」と思ったそうです。
 そして、「もしもこの地上に、悪魔や悪霊どもがいるとしたら、本物の神様もきっといるはずだ。それはイエスさまに違いない」と思ったそうです。それで教会に来られたのです。
 私は「あなたの考えは、正しいですよ」と答えました。

 実にそうです。人は死んだら、100パーセント、神の元に戻るのです。この地上で拝むと何かが出てくるとしても、それは絶対に、先祖や“神々”などではありません。それが誰かというと、「神や先祖のふりをした、死の霊」なのです。そんな力を家の中に招きいれたら、どういう事になるのでしょうか。家に問題が起きるのは、当然かも知れません。
 特に、この7月、8月は、日本人は先祖のふりをした、死の霊に心を開く危険な時期です。教会はとりなし祈らなければいけないと思います。決して、そんな力に人々が捕まえられるのではなく、本当の神様に目を向けるように、祈ることが大事です。
 また聖書が教える死後の世界観を正しく教えるべきです。死んでから輪廻するわけでもなく、先祖の霊になって漂うわけでもありません。神が100パーセント管理して下さる“神の支配下”で永遠を過ごすのです。

 先週、イエスさまが、悪魔からの誘惑を受けられ、どのように勝利したかについて学びました。その中で、マタイ4章2節から4節に、こんな事が書かれていました。

「そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

 悪魔は“石をパンにする”ようにイエスさまに要求したのです。私達の社会は、実に石をパンにする努力をしている社会だとお話しさせて頂きました。そして、そのような社会の中には、決して祝福はないとも話しました。

ラザロと金持ちの話も、ここに通じると思います。金持ちは「マモン神」を祀り、自分の経済活動が豊かになるようにと、真剣に偶像礼拝を行っていたであろうと思われます。しかしその行く先は、滅びでした。イエスさまは、「石をパンにするような事だけを考えるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって人は生きる」と教えました。私達の社会は、石をパンにするような社会です。何しろ儲かるためには“神々もうまく利用して”と考えています。しかしそこには救いはないのです。

 私たちは案外、知らないうちに、マモンと呼ばれる富を司っている力の影響を受けて生活しているのではないかと思います。しかし、お金や富だけに価値を置くのではなく、「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」という価値観に変わる事が最も大切です。そして、日曜日、礼拝に出席することは、神の口から出る一つ一つの言葉を受け取るためです。それは、永遠のみ国に至るために、とても重要な時間です。

 話は変わりますが、今年の夏は教会で色々なイベントがあります。特に、この地域で“盆”と呼ばれるような祖先崇拝が強い時期に、教会では素晴らしいコンサートがありますので、是非ともご参加下さい。今朝、「2 days」というチラシを渡されたと思いますが、直接的には、新城教会の主催ではありませんが、「Music arts revival movement」という、ロン・ブラウンさんのミニストリー主催のミュージックセミナーと霊的戦いセミナー、そして、コンサートを組み合わせた集まりです。二日間、素晴らしいミュージシャン達が贅沢に集まり、コンサートを、何と、無料で開いて下さいます。
 このチラシは面白いと思います。“贅沢な夜”と、本当に贅沢な紙面の使い方をしています。また、後ろには、「来たらわかる」と書いてあります。いつもコンサートのためには、2〜3千円払っていたと思いますが、今回は無料です(席上献金はありますが)。これはお金の束縛ではなく、ただ神を礼拝するために計画されたコンサートです。是非とも、最も祖先崇拝が強い時期に、人々を教会に誘って頂きたいと思います。

 今回出演して下さる方々は、世界的に有名な方々ばかりです。一般の社会ではすごくお金持ちになることができる人達ですが、主のために、今回は奉仕して下さいます。ロン・ブラウンさんやドラマー、今回のギタリストはエルトン・ジョンのバンドで長年ギタリストです。また、感謝な事に、うちの息子もベーシストとして加えて頂いています。
 私の息子は今、東京でプロのベーシストとして働いています。このリバイバルムーブメントに参加するのも、彼にとっては“マモン神”との戦いがあったらしいです。それが何かというと、ちょうどこの時期、彼にとって、たいへんよい仕事が舞い込んできたというのです。それが何かというと、私は知りませんでしたが、たいへん有名な歌手のバックでベースを演奏する仕事で、それに行けば三か月分の給料に相当するほどのおいしい仕事だったそうです。
 しかし一方では、このリバイバルムーブメントの依頼があり、彼は悩んだそうです。それで夫婦で祈ったそうです。すると彼は、ある朝起きて、「俺はリバイバルムーブメントに行く」と決断したそうです。

 時々私達には、神からのテストが与えられるのではないかと思います。「神に仕えるのですか、それとも、富に仕えるのですか?」と。
 しかし、真の神に仕えるならば必ず、大きな祝福があるのです。

 人々は神々を利用しているのです。それを突き詰めていけば、「よりよい経済活動のために、神々は何をしてくれるのか?」という要求です。先祖を拝む理由の一つはそれです。
 「先祖さん、うちに何をしてくれるの。この頃は悪い事ばかりじゃない。これだけ拝んであげてるのだから、何かしてよ・・・」という具合です。このようなスタンスでは、幸せになることはできないのです。私達は、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです。それが、私達を幸せにする秘訣です。

 イエス・キリストを信じて、永遠の命を得るためには、何が必要かというと、それはたいへんシンプルです。第一コリント15章1節〜5節までを読んでみますと、

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」

 私達が救われるためには、何を信じたらよいのでしょうか。それがこの箇所に凝縮されています。何かと言うと、「イエスさまは私達の罪のために死なれた」という事実に基づきます。
 人間には良心があり、悪い事をすると、別に警察に捕まる罪ではなくても「悪かったな」と責められます。それがなぜかというと、人には良心があり、「これは罪ですよ」と、神が罪を責めているからです。罪があったら、どうでしょうか。地上でも罪があれば、必ず裁きがあるのと同じで、神は正しい方ですから、罪をそのまま放っておくことはなさらないのです。死後、何らか、神からの評価があるのです。しかし、イエスさまは私達の罪の身代わりとなって、十字架にかかり死んで下さったのです。

 「罪の支払う報酬は死です・・・」罪があったら、死ななければならないのです。しかし、イエスさまが私達の身代わりとなって、死んで下さったのです。教会が何故十字架を掲げるかというと、それは拝むためではなく、イエスさまが私達の罪の身代わりとなって、死んで下さった事を記念するためです。イエスさまが十字架にかかって下さったのは、罪の身代わりのためであり、十字架の犠牲があるがゆえです。そして、敵の力に勝利し、神の支配下に移されるのです。

 さらに、イエスさまは聖書の示すとおりに、三日目に甦られたのです。イエスさまがただ十字架にかかり死んだままであったのなら、他の様々な宗教と同じかもしれません。しかし、イエスさまは、死を打ち破られ、蘇って下さったのです。“よみがえり”が嘘であれば本当に虚しいことです。聖書もそのように語っています。もしもイエスさまがよみがえった事が嘘ならば、私達は一番哀れなものです。
 しかし本当にイエスさまは蘇られたのです。それは、「死の力は何んの意味もなく、永遠の命がある」ことを証明して下さったのです。15章5節には、「また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」
 よみがえりのイエスさまは、弟子たちと出会いました。ですからイエスさまが十字架にかかり死んだことも事実であり、よみがえられた事も事実なのです。それも私たちの罪のために、十字架にかかり死んで下さったのです。その事を信じたら、その福音によって救われるのです。

 今日、「イエスさまが私の罪のために十字架にかかって死に、よみがえって下さり、今も生きておられる」と信じるならば、永遠の命が与えられるのです。たったそれだけです。とても簡単ではないでしょうか。
 人生の中で、信じるための時間があるのは素晴らしいと思います。

 時々聖書を読んでいて、疑問に思う事柄があります。悪魔はもとは天使でしたが、彼らが罪を犯した時は赦されませんでした。しかし、人間の罪は赦されるのです。両者、同じ被造物であるのに、一方は赦されず、我々は罪が赦されるのか・・・、疑問ではないでしょうか。悪魔、悪霊どもも、神の前に罪を犯し、人間も罪を犯したのは同じです。そうであれば、悪魔・悪霊どもも赦されて、天使に戻してくれればよいのにと思う人がいるかもしれません。
 しかし彼らは永遠の滅びるのです。人間だけが、「You are special」で、イエスさまは、人の罪の身代わりとなり死んで下さいました。人間にとっては、たいへん感謝なことですが、なぜなのか、意味がわからないことがあるわけです。

 皆さんは、この事に関してどう理解されるのでしょうか。私はこのように理解しています。悪魔や悪霊どもが、どのような世界で罪を犯したかというと、彼らは霊的な存在ですから、時間のない領域で罪を犯したはずです。すべてを理解した上で、時間のない領域で罪を犯すとは、何を意味するのでしょうか。時間という概念がないわけですから、罪を犯した瞬間が、同時に、永遠の裁きの瞬間になるわけです。赦される機会が全くない世界で、彼らは罪を犯したのではないかと私は思われます。
 しかし、人間は本当に感謝なことに、第二コリント6章2節にあるように、

「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」

 時間という概念が、人間の中にはあります。生まれてから死ぬまでの期間、すなわち時間の推移が“機会”であり、罪を犯した者でも救われるチャンスがあるのです。
 だから、聖書は言うのです。「今は恵みの時です。今は救いの日です」と。今日、初めて教会に来られた方も、明日機会があるかどうかはわかりません。「今が救いの日、今がチャンスです」今、イエスさまを、自分の救い主として受け入れて下さい。死んでからでは遅いのです。何故なら、人間は死ねば時間や空間の領域から、抜け出すのです。始まりが終りの永遠の世界に入ったらどうでしょうか。時間がなければ、罪を犯した瞬間が裁きの瞬間となってしまいます。時間のない世界に入ったら、ある意味おしまいではないかと思います。死後の世界というのは、時間や空間の概念から解き放たれるのですから、救われるチャンスを失うわけです。
 ですから命がある今日、この日に、イエス・キリストを救い主として迎え入れ、永遠の命をいただくのです。
 今日、イエスさまはあなたを愛しておられ、あなたの罪の身代わりとなり、十字架にかかって死んで下さいました。そして三日目に墓を破り、よみがえって下さったのです。ですから墓には誰もいないのです。

 私達がイエス・キリストを信じる時、虚しい祖先崇拝や偶像礼拝から解放され、まことの神の中に生きるのです。なんと素晴らしい事ではないでしょうか。私達は日々経済活動の中にありますが、「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」のです。今日も、このような伝道集会が持たれていますが、まだクリスチャンではない方々も、「今日が恵みの時、救いの日」です。明日に先延ばししないで時間がある時に、イエス・キリストを信じて、永遠の世界を“解決”して下さい。そうしたら、いつ時間の概念から解き放たれたとしても、永遠の命の中で生きることが出来ます。

最後に一言お祈りして、終りにさせて頂きたいと思います。
ハレルヤ!天の父なる神様、み名をあがめ心から感謝します。あなたが私達に与えて下さるものは“永遠の命”であることを心から感謝します。虚しい“神々”や、先祖の霊を語る悪霊から解放され、自由の中にあることを心から感謝します。今日ここにおられるお一人お一人を祝福して下さいますように。誰ひとりとして、悪魔の支配する国など行きませんように。神の支配の中で、永遠の命を受け取ることが出来ますよう、導いて下さい。今日のこの時を心から感謝します。イエス・キリストのお名前によって、祈りをお捧げ致します。アーメン


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