「いのちに至る道」


2009.8.2(SUN)
新城教会 滝元 順 牧師

マタイの福音書 16章24節〜26節
「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」

 ハレルヤ!皆さんおはようございます。今年は天候が不順で、今日もたいへん足もとの悪い中、集って下さいまして、共に礼拝できますことを心から感謝します。
 子供達は夏休みで、いいなぁと思います。私は今週で58歳の誕生日を迎えますが、小学校のころは夏休みがたいへん楽しみでした。私の家は大変兄弟が多く、両親は教会に人が集まらないので、とりあえず生んで増やせ作戦で七人も子供を生みました。また、廻りのクリスチャンホームも子供が多く、家に場所がなかったので、昔の古い教会に、バルコニーがあったのですが、そこにクリスチャンホームの子供たちがいつのまにか集まり、共に励まし合い(あるいはけなしあい)生活しました。もしかしたら、十年以上そこで生活したのではないかと思います。申し訳ないことですが、教会を根城にしていました。
 岡本信弘先生は学校が終わると、毎日、チェリオというジュースを持って教会にやって来て、彼の特技は、寝ながらチェリオを飲む事でした。我々がやると鼻の中に入りますが、彼は入りませんでした。また一度やってもらったら面白いと思うのですが。夏休みは宿題などはほとんどせず、朝早く起きて早天祈祷会をやるかというとそんな事もせず、山にカブトムシを捕りに行きました。そしてそのカブトムシを売って、お金をためて、教会のキャンプではなく、自分たちのための私設のキャンプをしました。その時には毎回近所の養鶏家の小屋に行き、卵を産まなくなった鶏をもらいました。生きた鶏を袋にいれて河原に持って行き、さばいて食べました。まさしく、サバイバルキャンプをやっていました。しかし、そんな中でお互いに信仰生活が支えられたような気がします。

 信仰生活は、時として大変です。八月はクリスチャンにとっては、中々厳しい月だと思います。何故なら、「盆」という仏教行事があり、祖先崇拝が大変強い月だからです。
 是非、今日は午後からのプログラムに出て頂きたいと思います。盆の時期をどのように過ごすか、特に、「盆とは何か、仏教とは何か」について学びます。仏教が何かという事について少し勉強すると、こんなものを信じてなくてよかった、と思います。イエスさまを信じてよかった、と思います。ですから、午後からは、盆とは何か仏教とは何かをしっかり知って、とりなし、そして、主からの油注ぎをいただく、素晴らしい「セミナー&油注ぎ祈祷会」です。その講師として、素晴らしい講師を呼んでいます。八百年間続いた仏教の家庭に生まれ、そこから救われた、実は、私の家内です。彼女はそのために勉強し、セミナーを私の代わりに持ってくれます。是非ともご出席して頂きたいと思います。

 いずれにしても日本という国は、中々信仰生活が大変な国ですが、教会に来てよい友達が出来ますと、困難さも互いに分け合って励まし合い、勝利出来ると思います。
 私達も幼い頃、この近所は古い因習と多くの偶像礼拝のただ中にありますが、クリスチャンホームに子ども達が多く、お互いに励まし合い、戦って来ました。ある時には、通学団をクリスチャンで乗っ取った事があります。大体、8割から9割がクリスチャンホームの子供達でした。この富沢地区の通学団は、日本のキリスト教の歴史で初めてだと思いますが、クリスチャンがノンクリスチャンを迫害したという歴史があります。
 当時はまだまだ封建的な所がありましたが、「お前たち、クリスチャンにならなかったら、仲間にいれてやらないぞ。地獄へいくぞ!」などと言って脅しました。それが学校に知れて、校長先生に呼ばれ、私はこっぴどく怒られた事があります。そんな環境で私は育ちましたが、その中で救いを受け、将来への夢をもらったのです。

 小さい頃、私は両親を見て、「牧師は大変な職業だな、こんな事はやりたくない・・・」と思っていたのですが、段々と、「私も神様のために働きたい」と思うようになりました。私は牧師の息子として生まれたので、そういう道を歩むようにセッティングされていたと思うのですが、中々その道を歩むことが出来ませんでした。お互いに励まし合いながら、徐々に主の道を歩むようになりました。

 私は若いころ、こう見えても、グロリアシンガーズという賛美グループを作って、全国を演奏して回っていた時期がありました。グロリアシンガーズを知っておられる方は、かなり信仰生活が長い方だと思うのですが、何枚かアルバムを発表したりと、結構なものでした。その時に作った曲をこの頃聞いて、昔は素直な曲を作ったものだと感動したりします。その中の一曲を、メッセージ前に皆さんにお聞かせしたいと思うのですが、それは「子供の頃の思い出」という曲です。

 空に浮かんだ雲を 野原に寝転び 数えた
 サメやクジラや 魚が 心の海を 泳いだ

 子供の頃の 思い出
 鮮やかに よみがえる
 大きな空を 作った
 神様がそこにいる

 あの頃僕の家は 四軒長屋の 片隅
 時には思わぬ 出来事 お米もお金も 底をつく

 子供の頃の 思い出 鮮やかに よみがえる
 米びつ囲み 祈った そして僕が ここにいる

 子供のころにやどった 神様への思いは
 大きく強く 育って 命燃やしてる

 ・・・こんな曲ですが、中々、さわやかな曲だと思いませんか。幼い頃からイエスさまを信じ、共に歩んでいくと、“生きる道”がわかってきます。そしていのちに至る道がどこにあるかを知るのです。

 聖書を学ぶと、普段とは全く違う価値観を見つけ、面食らうような事もあります。「えっ、こんなこと・・・」というような事柄がたくさんあります。しかし案外、私達が受け入れがたいような価値観が、本来は、いのちに至る道であり、私達の人生を豊かにする法則なのです。

 今日、皆さんと共に学びたい聖書の箇所も、普通では絶対にありえない考え方です。しかし、そこにいのちに至る道があるというのです。またそれが、イエスさまの歩まれた道でもあり、最も大きな勝利への道でもあるのです。マタイ16章24節〜26節、

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れてもまことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 この25節に、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」とあります。
 普通は、「いのちあってのモノダネ」と言うように、自分のいのちを失ったら何の徳になるのか、と思いますが、ここでは、「自分のいのちを救おうと思うと、いのちを失う」と語られています。けれども、イエスさまのためにいのちを失うような人生が、いのちを見出すのです。そんな信じられないような法則があるのです。

 四福音書には、この事がすべて取り上げられています。聖書の各記者にとって、このイエスさまの発言は大変印象深かったようです。それで四福音書すべてに、記されているのでしょう。それは同時にイエスさまが普段から、その事を多分、頻繁に口にされていたのだと思います。
 それが究極的に、どこにつながったかというと、「十字架」でした。イエスさまの十字架は、ご自分のいのちを捨てられたように見えましたが、どのような実を結んだかというと、「一粒の麦が地に蒔かれると、豊かな実を結ぶ」とありますが、何と、全世界の人々の救いへつながったのです。

 先週も少しお話しましたが、何故教会は十字架を掲げているかというと、イエスさまは私達の罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さったからです。それで私達の罪は赦されたのです。罪があったら、本来は永遠の滅びにいくべきであったのが、行かなくても良くなったのです。何故ならば、イエスさまの十字架によって、すべての罪が赦されたからです。

 今度選挙がありますが、各党がマニフェストを出していて、それはたいへん興味深いです。今朝もテレビを見ていたら、何党の議員だったか忘れましたが、「日本を変えるためにいい方法がある。それは今、借金している人達の借金を、何年間か凍結することだ。そうしたら、日本は変わる」と話していました。すると、「それをマニフェストに入れたらどうですか」と話していました。「私は、教会にも少し借金がありますから、それを返さなくて良くなったらいいのに・・・」と思いました。
 皆さん、私達は本来、死に至るほどの借金があったけれど、イエスさまの十字架によって、何とその全てが取り消されたのです。それがどこから始まったかというと、イエスさまが「ご自分のいのちを捨てる」ことから始まったのです。けれども、いのちを捨てたように見えたけど、イエスさまはよみがえられ、また、全世界の人々を生かしたのです。
 しかしこれは、イエスさまに限ったことではないのです。それは、私達の生きる法則の一つでもあります。

 ある本に、「イエスさまは、完全さが人となられたお方だ」とありました。「なるほど」と思いました。
 私達も、手本がなければ中々正しく生きる事は出来ません。私の幼い頃の思い出を話しましたが、お互いが良い手本となったり、悪い手本となったりして生きてきたわけですが、人は完璧ではありません。
 しかし、完全さが人となったイエスさまは、私達の人生の完璧な手本なのです。それに、私達の人生を合わせていけば、うまくいくはずです。

 ある時、律法学者がイエスさまに質問しました。「いのちを得るためには、どうしたらよいですか?」と。
 その時イエスさまが示した例えがありました。それが何かというと、「よきサマリヤ人の例え」でした。実は、よきサマリヤ人の例えは、イエスさまの人生そのものでした。良きサマリヤ人とは、「イエスさまご自身」を表わしていたのです。

 実は、イエスさまはどこで育てられたかというと、ナザレという街で育ちました。また、イエスさまの宣教のベースは、始めはガリラヤ地方でした。歴史を見ますと、ガリラヤ地方は、もともと、サマリヤ人の領土でしたが、後にユダヤ人側についたのです。ですから “よきサマリヤ人”というのは、歴史的にもイエスさまご自身のことでした。

 ルカ10章30〜36節は、韓国リバイバルミッションの中でも、ここから色々と示され、みなさんにお話ししましたが、お読みします。

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 「いのちを得るためにはどうしたらよいですか」という、問いに対して、イエスさまはよきサマリヤ人の例えを話され、「あなたも行って同じようにしなさい。そうしたらいのちを得ることができます」と語られたのです。この“いのち”とは、最終的には永遠のいのちにつながるわけですが、私達が幸せな人生を送るための条件も含まれています。

 このサマリヤ人は、自分の目的があって、ある場所に道を急いでいたと思います。すると、その道の途中で、一人の旅人が倒れていました。そんな人に関わったら、自分の旅の目的が果たせなくなってしまう可能性もありました。にもかかわらず、彼は傷ついて倒れている旅人を現場で手当てし、自分の家畜に乗せて宿屋まで連れて行き、翌日まで介抱し、宿代まで払ってあげ、「この人を介抱してあげて下さい。帰りにもう一度この宿屋に寄りますから、もしもお金が足らなければ、私がそれを払いますから」とまで言って、彼のための費用を宿屋の主人に置いて、自分の仕事を果たし、多分、彼は仕事が終わってからも確実に、この宿屋に立ち寄り、旅人の様子を見て、必要な経費を支払って去って行ったと思われます。
 実はこのよきサマリヤ人が誰かというと、イエスさまなのです。

 イエスさまはどういうお方かというと、倒れている私達のところに飛んできて、介抱して、宿屋、それは教会に置き換えることができるかもしれませんが、教会に連れて来て介抱させ、最後の最後まで、責任を持って下さるお方なのです。
 皆さんの中で、「私は神に見捨てられたかもしれない・・・」と思っている人がいるかもしれませんが、そういう人は絶対にいません。

 前にも話しましたが、去年だったか、私が教育館二階のトイレに行くと、かぼそい声が聞こえてきました。「順先生、ちょっと来て…」見ると一人の少年が、“カミに見捨てられて”そこに座っていました。何故なら、トイレットペーパーがなくなって、トイレからどうにも動けない状況にあったからです。私はカミを持ってきて、彼を助けてあげました。
 そういう“カミ”でなく、ほんとうの神に見捨てられている人は、絶対にいないのです。イエスさまのところに来たら、必ず最後の最後まで、私達に責任を持って下さいます。そして、イエスさまを信じたら、イエスさまにならうような生き方をしてみなさい、それは一見、割りにあわない人生に見えるかもしれませんが、自分のいのちを削るような人生が、結果的には、自分のいのちを支える、と教えているのです。

 先日、悲しい事故がありました。北海道で年配の方々が山で遭難し、亡くなられましたが、ある時こんな話を聞きました。
 二人の旅人が、雪の降る山道を目的地に向かって急いでいました。すると山道で二人の行く手を遮るかのように、一人の旅人が倒れていたのです。二人はすぐに脈をとってみると、まだ息があったそうです。その時、二人の内の一人は、「この人を助けてあげよう」と言いました。
 しかしもう一人は、「この吹雪のさなかで、この人を助けたりしたら、自分たちも死んでしまう。三人がいのちを失うより、この人はあきらめて先を急いだ方がいい。」と主張しました。
 しかし、一人はそれに反対しました。するともう一人は、倒れている人を助けたいと主張する友人をおいて、先に行ってしまったのです。

 しかしもう一人は、どうしても倒れている人を助けたくて、旅人をかついで、山道を登って行ったそうです。それは本当に大変な事でした。
 息を切らせながら山を登って行くと、やがてもう一人が倒れていたそうです。近づいて見ると、何と、それは先に行った友人だったそうです。そして、すでに息はありませんでした。何故なら、その日はあまりにも寒く、友人は体温が下がって倒れてしまったのです。けれども、倒れていた旅人をかついで山道を登っていたもう一人は、寒さの中でも熱くて仕方なく、あまりにも発熱したものですから、その熱によって凍えて死にそうな、倒れていた旅人までも生かしてしまいました。それで、二人とも助かったのです。

 私達の周りには、苦しんでいる方々、悲しんでいる方々がおられます。その人たちに関わるのは、ちょっと大変だな、その人たちの問題に関わって生活を削られては困ると思うのですが、実は、自分のいのちを救おうと思っていると、案外、失うものです。しかし、自分のいのちを投げ出すようなライフスタイルは、最終的に自分をも助け、相手のいのちをも得ることになるのです。

 よきサマリヤ人、それはイエスさまの事ですが、その根底にあったのは「深い憐みの心」でした。「憐み」という言葉は、英語で、「“compassion”コンパッション」ですが、これは合成語で、「Comコム」と「Patyパティ」がくっついて出来たものだそうです。「コム」がどういう意味かといいますと、(近頃ドットコムなどとよく聞きますが)「共に」とか、「一緒に」という意味です。そして、「パティ」とは「痛みを覚える」という意味だそうです。憐れみとは、「一緒に痛みを感じる」という意味なのです。
 人の心には、「愛」があります。「今まで愛を感じた事がない」という人はいないと思います。“憐みの心”それが、本当の愛の姿ではないかと思います。

 愛とは一体何かということで、哲学者や精神医学者たちがいろいろと定義づけています。ユダヤ人を父に持つ、オーストリアの精神分析学者のフロイトは、愛とは、「無意識の中に隠された性的衝動だ」と、冗談ではない定義づけをしました。近ごろでも、このフロイト理論が色々な所で使われていますが、彼は愛を生物学的・生理的現象としたのです。
 しかし、同じオーストリア生まれで、ユダヤ人の哲学者、マルチン・ブーバーは、前にも話した事がありますが“対話の哲学”で広く知られるようになりました。彼がどんな事を語ったかというと、「宗教とは、神について語ることでなく、神に語りかけること」と主張したのです。
 彼によれば、聖書の真髄は“人間と神との対話にある”とし、「人間はあらゆる機会において、神から語りかけられている存在であり、常にこの語りかけに対して、自らを開き自らの全存在をもって応答する用意が出来ていさえすれば、その事に気づくようになる」と語りました。中々、彼の分析は鋭いと私は思います。

 人間はあらゆる出会いにおいて、神から語りかけを受けているというのです。神からの語りかけは常にあり、自ら応答する用意が出来ていさえすれば、それに気づくというのです。そして“愛”とは、「神との交わりの中で与えられるもの」と定義したのです。

 私達は、倒れている旅人を見過ごしてしまうような、利己主義的な愛しか持っていませんが、人間は実際は神によって造られた存在であり、常に、「神の声を聞きたい」という願いをもって、心を全面的に神に対して開いていると、神の声は聞こえるものだとブーバーは語りました。
 私達が神に対して心を開いているなら、神が持っている深い憐みの心、すなわち、愛を受け取ることが出来るはずです。そして、それを原動力として生きるならば、人生はいのちに至る道を歩むようになります。

 私達の心の中には、深い憐みの心などは、ないのかもしれませんが、常に神様に心を開いて、「いつでも語りかけて下さい。あなたの語りかけを受け取りたいのです」という祈り心を持って歩んでいると、気づかないうちに神様が持っておられる“コンパッション”、深い“憐みの心”を共有し、よきサマリヤ人と同じような人生を歩むことが出来るはずです。それは、結果的に大きな祝福となります、というのが聖書の教えだと思います。

 聖書は愛について語っていますが、ギリシャ語では、よく聞く話ですが、“愛”という言葉が四つに分類されているそうです。有名なのが男女の愛「エロス」です。「エロい」などというのはギリシャ語の影響で、男女の愛の事です。他に「ストルゲー」それは親子関係、師弟関係の愛を表す言葉だそうです。また、「フィーリア」という、友情愛を表す言葉もあります。
 しかし神の愛は、「アガぺー」です。それは、“無条件の愛”、見返りを求めない愛を表す言葉です。そして、私達は、この“神の愛”で生きる必要があるのです。しかしそんな愛は私達は持ち合わせていませんが、深い神との交わりの中で、イエスさまのキャラクターを私達のキャラクターとして、歩むことができるのです。

 しかしそうは言っても、中々、よきサマリヤ人のライフスタイルを、私達の人生に適応するのはハードルが高いと思います。実際、日ごろの生活の中で、自分の仕事があるただ中で、とことん他人を助けて面倒をみるというのは無理だと思います。
 私は牧師という職業をしていますから、ある意味、そういう仕事をして給料を頂き、人助けを専門にしていますから、少しは出来るのかもしれません。しかし、全員にそれを適用するのは、なかなか難しいかもしれません。いくら牧師でも、難しい時がよくあります。損得を考えながら生活するのが人間であり、弱さだと思います。
 けれども、イエスさまは、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。私達はイエスさまを手本として、歩んでいくならば、そのように変えられると思います。イエスさまは、地上で、よきサマリヤ人のスト―リーを実践して下さった方です。それは最終的には、十字架であり、全人類の罪の身代わりとなって下さり、そればかりか三日目によみがえって下さいました。

 さてイエスさまは、現在、何をされているのでしょうか。実は、イエスさまは天に帰られた後、何をされたかというと、父なる神様から、「イエスよ。十字架ご苦労さん、大変だったな、ゆっくり休んでくれ。これからは俺がやるから、お前は天国の花園でゆっくり休んで、何かうまいものでも食べてくれ」と言われたかというとそうではなく、この時点での、イエスさまの仕事が聖書に記されています。
 ローマ人への手紙8章34節、

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

へブル人への手紙7章25節、

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

 イエスさまが今、何をしておられるかというと、「とりなし」をして下さっているというのです。イエスさまの地上での働きは、実際的に苦しんでいる人達、悲しんでいる人達に近づいて、とことん助ける仕事をされました。しかし今は、天において、私達のために「とりなしの祈り」をしてくださっているのです。

 「とりなしの祈り」を英語で言いますと、「インターセッション」といいます。私達の教会では、とりなしの祈りが多く持たれます。今週は特に“とりなしの週”として位置づけています。何しろ、色々なテーマでとりなし、祈らせて頂きたいと願っています。是非とも皆さんも、とりなして祈って頂きたいのですが、“とりなし”、インターセッションという言葉は、どこから出来たかというと、「インテル」と「ケデーレ」という言葉がくっついて、「インターセッション」という言葉になったそうです。多分、ラテン語が語源ではないかと思いますが、「インテル」というのは、「何かと何かの間に入っていく」という意味があり、「ケデーレ」とは、「代価を払う」という意味があるそうです。

 とりなしとは何かというと、「何かと何かの間に入って行って代価を払う」事が、とりなしだ、というのです。実は私達は、「とりなしの祈りをしましょう」とよく言いますが、これが何を意味しているのかというと、よきサマリヤ人と同じ働きです。あのよきサマリヤ人の話に出る旅人が、どのような状況にあったかというと、人々の間で倒れていて、誰かが関わって助けなければ、彼はいのちを失うかもしれない危機的な状況だったのです。サマリヤ人は、旅人と死との間に割り込んで、彼のいのちを救ったのです。実は、とりなしというのは、何かと何かの間に割り込んで、代価を払う働きだというのです。

 私達はイエスさまと同じように歩むことは大切ですが、現実的に、問題と問題の間に入ってとことん助けるのは、中々難しいことです。
 しかし、現在、イエスさまが何をされているかというと、天においてとりなしの祈りをされているという事実は、現代を生きる私達にとって、最も大切な働きを示唆しているのではないかと思います。

 今、イエスさまが私達に願っておられる事柄は、とりなしの祈りではないかと思うのです。それは、祈りによって隙間に侵入し、「代価を払う」のです。その根底には「コンパッション」、深い憐みの心を持ち、人々のために祈るのが、第一に求められる事ではないかと思います。

 「自分のいのちを救おうと思うならそれを失い、私のためにいのちを失うものはそれを見いだすのです」という言葉を聞く時、ハードルが高いと思うかもしれません。しかし今、最も必要な事として主が私達に願っておられる事は、イエスさまと同じ仕事、「とりなしの祈り」ではないかと思います。

 今申し上げましたように、とりなしの祈りは、何かの間に割って入る事です。“割って入る”事がどういう意味かというと、悲しんだり苦しんでいる人が周りにいたら、祈りによって割り込むのです。その人の問題が解決するように、共に祈りによって苦しみ、代価を払って祈ってあげる事です。

 人と神との間に割って入ることもとりなしですが、同時に、人と悪魔や悪霊との間に割って入る事も、神はいのちじられます。人の抱えている問題の多くは、敵に攻撃されていることが原因となっています。人と悪魔との間に、誰かが割って入り、敵の力に立ち向かうことがないと、多くの人がいのちを失うのです。

 今、イエスさまが天においてとりなしの祈りをしておられるならば、私達も、問題と人、悪霊との間に割り込んで、代価を払って戦って祈るようにと、主は私達に望んでおられるのではないかと思います。それは神のまえに、尊い仕事であり、同時にイエスさまの仕事でもあるわけです。

 人類の歴史は、限りなく続くとは聖書は語っていません。やがて終止符が打たれる時が来るのです。皆さん、それを信じますか?人間の歴史は、やがて終止符が打たれる日が来るのです。
 この頃、核拡散防止条約が結ばれ、昔ほど核兵器は作られなくなりましたが、人間は一度造ったものは使いたいと思うものです。
 この週は、日本の歴史の中でも、大変悲しい週です。何故なら、広島と長崎に原爆が落とされ、大勢の人たちが亡くなった記念日があるからです。先日もテレビで、アメリカがどのようにして核爆弾を開発したかを、レポートしていました。それは、すごい執念と労力を使って開発したのです。当時のアメリカの消費電力のなんと、七分の一を原爆製造のために使ったと言われます。長い年月をかけて、ひとつの爆弾を製造したのです。そこには大勢の人員が秘密裏に投入され、原爆は完成したのです。やがて、その爆弾が広島と長崎で使われ、多くの人が犠牲になりました。

 私は何年か前に、ジョー先生と一緒に、原爆が作られたニューメキシコ州の街に行ったことがあります。そこには原爆が(本物ではないと思いますが)展示されており、当時の人々が何を考えていたかを知ることが出来ます。何と、長崎と広島に爆弾が落とされて、大勢の人々が死んだ日、その研究所では、きのこ雲型のケーキを作って、お祝いのパーティーが開かれていました。人間とは、本当に残酷なものだと思います。太平洋戦争は日本が最初に引き金を引きましたから、戦争はどこにも勝利者はいないのです。現在、当時の原爆を造った施設も閉鎖され、取り壊されています。人類の歴史は悲惨な歴史ばかりです。今でも世界には多くの原爆がありますから、必ずそれらが使われる日が来るのです。人間ではどうにもならない時が必ず訪れます。すでに、どの国の首相も、大統領も、世界の混乱にストップをかけることが出来ない時代です。最終的にだれがストップをかけるのか?それは、神がストップをかける以外にないのです。そのような日が来るのです。

 ある意味、私達は、終りの時代に生きているのではないかと思います。これから時代がどれだけ続くのかわかりませんが、かなり危険な時代に生きているのではないかと思われます。聖書は、「罪の支払う報酬は死だ」とありますから、人類の罪が多くなればなるほど、世界は混乱し、最後は滅亡につながります。「ストップ!人間の歴史はここまで」という日が来ないと、止まらないのです。その日は、全人類が神からの評価を受ける日です。日本でも不公平なことが多くあります。無実の罪で刑務所に入っている人たちも結構いると思います。本当に、人間の裁きは完全ではありません。この地上で大変悲しい目をして、去って行った人たちも多くいるし、悪い事をしてもわからない人達も、結構いると思います。
 しかし、最後の日に、神はそれらを公平に裁くのです。私達も、神の前にいつ出てもいいように準備しなければいけないのです。
 日本人には、「誰も見ていなければ、何をやってもいい」という考えがありますが、それは間違いです。いつも、神が見ておられる、という意識を持つ事が必要です。常に神が見ておられるのです。ビデオなどで簡単に記録がとれる時代ですから、ましてや、神が私達の行動のすべてを、記録にとっていないはずはないと思います。私達は、いつ神のみ前に出てもよいように、準備しなければならないのです。その日の事が、マタイ25章31節〜40節に記されています。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」

 歴史が改まる日、神は全人類を二つのグループに分けられます。羊飼いが、羊とヤギをより分ける様に、神に属する者と、属さない者の二つのグループに分けるようです。
 羊のグループに分けられた人々に、何と語られるかというと、33節から記されています。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」と声をかけています。
 なんとしても、右側のグループに入りたいものです。どうしたら入ることができますか。それは、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、私達の為に十字架にかかって、三日目によみがえって下さったことを堅く信じるならば、右側のグループに入るのです。

 それと共に、ここで「祝福された人たち」が、地上でどんな生活を送っていたのかが、記されています。それは、言いかえれば、私達がどんなライフスタイルを送るなら、祝福の中に留まることが出来るかを教えています。
 右側のグループに、「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」 というのです。

 しかしそれを聞いた右側のグループの人はこう聞き返しました。「あなたがいつ、空腹で旅をしておられたのですか。また、宿がなくて裸で着るものがなかったのですか。そんな事は知りません。あなたを助けたという記憶はございません。」

 その時、神が何と言われたかというと、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」と。

 この箇所を、よきサマリヤ人のたとえと合わせると、「よきサマリヤ人」というのはイエスさまだったのですが、同時に、「傷ついて倒れていた人も、イエスさまご自身」であったという事です。
 時々私達は目の前にいる、苦しみ、悲しんでいる人達のために祈ったり、人生を使うというのは、何か自分のいのちを削るようで、損をするように考えます。しかし、何と、そのような方々のためにとりなして祈ったり、力の限りその人のために助け船を出すという事は、実は、イエスさまのために働くことなのです。それはイエスさまを助ける事なのです。
 私達の中にはそんな意識はないのかもしれませんが、その働きはイエスさまご自身を助ける事であり、「わたしの父に祝福された人達、み国を継ぎなさい。」と語られます。右側の人達は、自分の生活の中でも気がつかないうちに、イエスさまに奉仕し、イエスさまを助けていたのです。
 そしてその道が、「いのちに至る道」だったのです。そこが神の国であったわけです。

 神の国の道、祝福された道、いのちの道をどうやって歩んだらよいのかと、時々深く考えてしまう事がありますが、その道を歩むのは難しくないのです。周りを見渡すと、どうでしょうか、多くの苦しみ、悲しんでいる人達、行き場を失っている人達がおられます。まずは、その人達のためにイエスさまが天でとりなしておられるのと同じように、とりなしの祈りをする事です。また、倒れている人は、言いかえれば、イエスさまご自身です。

 いのちの道を歩むためには何をしたらよいかというと、「自分のいのちを救おうとする人はそれを失い、いのちを失う者はそれを見出す」という、究極的なみ言葉の実行にあるのです。自分のために生きるのではなく、誰かの救いのために働く、そのようなイエスさまと同じ人生を歩んでいくならば、そこにいのちがあります。そこに神の国が表わされるのです。

 大きなことからやろうとしても、なかなか難しいかもしれませんが、イエスさまを目標として、目の前の出来ることから始めていきたいと願っています。神との対話の中で、神のみ心を誰でも知ることが出来ると私は信じています。

 私達は生活のただ中で、「このために祈りなさい」と語られることが、多くあるのではないでしょうか。「この問題と、この問題の間に入って祈ってあげなさい」と語られます。しかし、その問題のために祈る事は、自分が苦しくなってしまうような印象を持つかもしれません。しかしそれが、共に苦しむことであり、「とりなしの祈り」なのです。そこに神の国が表わされるのです。今週も神が私達に与えて下さる、とりなしの祈りを受け取って、一週間歩んで頂きたいと思います。

 先日、不思議な事がありました。ある場所にとりなしの祈りに行きました。そこには一つの神社があり、その近くに数年来、教会に来ていない人が住んでいました。その方の顔が浮かびました。「あの人のために祈らなければ・・・」と思い、「彼がもう一度、信仰を回復するように」と祈り、神社の背後で働く悪霊に立ち向かいました。
 帰ってきたら、二日後、その人から私に電話がありました。どうしたのかと思ったら、「順先生、祈って下さい!今、頭が割れそうで気持ち悪くて、死にそうなんです」と言いました。「今、どこから電話をかけているの」と聞くと、何と、私が戦って祈った、神社の前からでした。
 彼が友達の家に行こうとして、その神社の前に来た途端、頭が痛くなって、気分が悪くなって、蟻地獄のように、その神社の周りから抜け出ることが出来なくなったそうです。何度も、神社の前に戻ってしまったそうです。そこから救急車を呼ぼうと思ったけれど、「電話して祈ってもらおう」と、私に電話をしたわけです。
 「あの時、彼のために祈ってよかった!」と思いました。彼は今日も、この礼拝に来ています。ちょっとした祈りの課題を主から受け取ると、神の国がそこにあり、回復の道があり、勝利があります。いつもアンテナを、神に向け、神の声を聞いて、誰かのために祈って下さい。自分のために生きる事も大事ですが、それ以上に、誰かのために生きるのがいのちの道です。その道を歩んで行きたいと思います。イエスさまを手本にして歩んで行きたいと願っています。 最後に一言お祈りして終りにしたいと思います。

ハレルヤ!天の父なる神様、み名をあがめて感謝します。イエスさま、この地上に来て下さった事を本当に感謝します。イエスさまの十字架と血潮によって、私達は救われたことを心から感謝します。
今日、ここにおられるお一人お一人の上に、特別な祝福があることを感謝します。どうか主よ、イエスさまがいのちの道、十字架の道を歩まれたように、私達も自分の十字架を負ってあなたに従っていくことができますよう、お願いいたします。自分のために生きるのではなく、誰かのために祈り、生きていくことができますように。その中で神の国を体験することができますように。
 今日、すでに主に選ばれた人達を心から感謝します。すべての方々の上に、特別な祝福がありますように。イエスさまのみ名を通して、祈りをみ前にお捧げいたします。アーメン!


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