マタイの福音書 16章15節〜19節
「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
ハレルヤ!皆さんおはようございます。本当に暑い日が続くようになりましたが、こうして皆さんと共に礼拝出来る恵みを心から感謝します。
先週は、「誰かの間に入って、とりなして祈りましょう」というメッセージを語らせて頂きましたが、いかがでしたか。先週はどんな祈りを、受け取られたでしょうか。それを先週だけの事にせず、今週も続けていきましょう。
今週はある意味で、日本は霊的に重い週かもしれません。それは「盆」もありますし、終戦記念日もあり、全国で死者礼拝が強く行われるからです。クリスチャンはそれらに対して、とりなしの使命が与えられていると思います。
さて、今日のメッセージ・タイトルは、「教会はどこにありますか?」というタイトルです。「教会はどこにありますか」と聞けば、日本では、しばしば路地裏に教会があるので、一般の人たちは、「どこだったかな?」と迷うかもしれません。新城教会は感謝な事に、田舎にありますが、50年以上やっていますから、新城では少し知られてきたかもしれません。
ある人が新城教会に来たくて、それが、茶臼山駅前にあると聞いたので、「すみませんが、茶臼山駅はどこにありますか?」と聞くと、「新城教会の前にあります」と答えられたそうです。時々全国から、リバイバルミッションのイベントなどに参加するために来られますが、新城教会は新城駅前にあると思って新城駅で降り、タクシーに乗ってここまで来る人がいます。すると、運転手さんはすぐに教会まで連れて来てくれるそうです。その上、新城教会について色々、説明してくれ、情報をくれると言っていました。田舎にあっても、教会の場所が知られるのは、感謝だと思っています。
「教会はどこにありますか」と聞いたら、この場所に存在し、それは共に礼拝をささげる場所でもあります。今日も共に礼拝を守ることが出来、本当に感謝です。
しかし時として、私達は感謝を忘れてしまいがちです。何気なく礼拝を捧げていますが、この礼拝を開くにあたっては、多くの兄弟姉妹の協力と、支えがあって私は今、講壇に立つことが出来ています。
何気なくしているようですが、礼拝を開くためには、いろいろ手間がかかります。賛美する時、スクリーンに字幕が出ますが、カラオケボックスのように自動的に出るものではありません。誰かが歌詞を出しているのです。時々、歌詞が遅れて、いらいらしてしまう事もあるかと思いますが、事前に一行一行、文章を作り、スクリーンに写し出すわけです。時にはコンピューターが壊れて、歌詞が出なくなる時もありますが、大目に見てあげて下さい。そのために前日から準備してくださる方がいるのです。
また礼拝の模様は、録画もされています。そのおかげで新城教会に来たくても、事情で来れない遠方の方々や、病床でも礼拝に参加できます。
また、こうして礼拝している間にも、駐車場には多くの車があるため、車上荒らしなどがないように、警備を担当して下さる方もいます。時には、礼拝には参加しないけれど、家族を送って来られ、駐車場で待っている方もおられます。警備の人たちは、その方々にお茶やアイスなどをお持ちして、伝道することもあります。
このように、教会は多くの方々の協力があって、成り立っています。多くの方々のご協力と祈りを心から感謝します。
しかし目に見える教会は、「愛知県新城市富沢407の1番地」にあるのですが、教会はどこにあるのかというと、それは物理的空間ではなく、「目に見えない霊的存在である」と聖書は告げています。
教会は、目に見えない領域に存在しているのです。今日は皆さんとそのことを学び、しっかりと教会の位置を確認したいと願っています。そうしたら、人生はさらに聖霊によってパワーアップします。
今日読んで頂いた聖書箇所は、マタイ16章15節〜19節です。弟子達はイエスさまと行動を共にしたのですが、イエスさまが誰か、初めはよくわかっていなかったらしいのです。しかし行動を共にするうちに、「イエスさまはただものではない」と気づき、イエスさまが“生ける神のみ子”であり、聖書に預言されている“メシア”であると気づいたのです。そしてこの箇所は、イエスさまに対する、信仰告白した有名な箇所です。
またその答えに続いて、イエスさまが教会という存在について語られた箇所でもあります。もう一度お読みしたいと思います。マタイ16章15節〜19節
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。
皆さま方も教会に来られ、初めは、「日曜日の朝から集まって歌っている奇妙な人たち」と疑っておられたかもしれません。しかしだんだんと、イエス・キリストが生ける神の子であり、私達の救い主であると気づいたと思います。色々と皆さんには証があると思いますが、実は、これは自分で理解したように思っていますが、そうではなく、「これを示したのは人間ではなく天にいますわたしの父です」とありますから、私たちがイエスさまを“救い主”とわかるのは、人間業ではなく、神によって心開かれ、信じさせて頂いたわけです。実に、一人一人に神が働いて下さった故に、今日、私達はこの場所に集っているのです。
同時に、このような言葉が弟子たちに語られた背景を知りますと、もっと深く、信仰告白の意味を理解出来ます。
実は、マタイの16章を読んでいきますと、弟子達が「イエスさまはキリストである」と告白した場所がどこかわかります。それはどこかというと、「ピリポ・カイザリヤ」という場所です。
私は何回かイスラエルに行ったことがあるのですが、ピリポ・カイザリヤ地方のダン・バ二ヤスという所にも行きました。それはガリラヤ湖の水源にあたる場所であり、水が湧き出ている、大変美しい場所です。そこに、イエスさまは弟子達を連れて行き、「わたしの事を誰だと思うか?」と質問されたわけです。その時に弟子達は、「あなたは神の御子キリストです」と、大胆に告白したのです。
実はこのピリポ・カイザリヤ地方は、イエスさまの伝道の拠点であったガリラヤ地方より、北方にあり、以前、ゲラサ地方についてお話ししましたが、その場所と同様、ギリシャ風の街でした。そして、ピリポ・カイザリヤには、有名なひとつの拠点がありました。
ギリシャ神話には、“パン”という存在が出てきますが、“パン神”と呼ばれる”神”が祀られている神殿で有名でした。パンとは、食べるパンではありません。「パニック」という言葉がありますが、「今日はパニックした」などとよく言いますが、それはパン神から出ている言葉です。「パニックした」というのは、「パン神と同じ態度をとりました」という意味です。パンという神は普通は大人しいのですが、何かあるとわめきちらして大騒ぎをする、という性格の神でした。そこから“パニック”という言葉が出来たと言われます。
実は、このピリポ・カイザリヤは、ギリシャ神話にまつわる神々の拠点でした。何と、イエスさまはそこに弟子達を連れて行き、異教の神殿の目前で、「あなたはわたしの事を、誰だと思いますか?」と質問されたのです。
その時の弟子達の答えは、「あなたは神のみ子キリストです!」という大胆な信仰告白でした。
私はピリポ・カイザリヤに行き、その場所の写真を撮って来ましたので、お見せしたいと思います。これはピリポ・カイザリヤのパン神殿です。昔はこの様に賑わっていた事でしょう。イエスさまは弟子達をこの場所に連れて行き、この近くで信仰告白がなされたと思われます。今は廃墟となっていて、神殿の穴だけ残されています。私達もここに行き、とりなしの祈りをしました。
こうして当時の状況をあわせてみると、イエスさまがひとつの質問をされる場合にも、背景があることがわかります。弟子達はこのような異教の神々の面前で、「イエスは主です!」と大胆に告白したのです。
この事実は、私達の信仰生活にも通じるのではないかと思います。私達の社会のただ中にも、多くの偶像があり、中々、「イエスは主です」と告白する事が出来ない環境があります。しかし、そんなただ中でも、「イエスは主です!」と告白することが重要だと教えられます。そんな偶像のただ中でも、イエスさまが主であると理解出来たのは、人の業ではなく、父なる神が働いておられる証拠であると教えているわけです。
弟子達が信仰告白をしたのは異教の神々の面前、すなわち、“敵のただ中”でした。これは日本の状況と変わらないのです。この事を知ると、励まされます。
特に今週は盆の時期でもあり、日本全国で祖先崇拝がなされます。皆、墓参りに行きますが、人間は人間ですから、死んで神になるわけではありません。以前にもお話ししましたように、人は死後、神の完全管理下に戻るのです。
地上を去った魂は、永遠の神のみ手にゆだねられます。決してどこか草葉の陰に隠れたり、ふわふわ浮いてるわけではないのです。
また人々は、祖先崇拝をすると、何らかの手ごたえを感じるから行うという側面もあります。しかし、それは先祖の霊ではないのです。先祖の霊のふりをした、”先祖の死に関わった死の霊”の可能性が高いのです。そんなものを家の中に招き込んだら、大変な事になります。
先週は、盆の時期を迎えるにあたり、「仏教とは何か」に関してセミナーがあり、とりなしの祈りの時間が持たれました。仏教は、原始仏教から現代仏教に至っては、全く内容が変わっている事を教えられました。仏教は原始仏教に続き、修行するものしか救われない小乗仏教、次に誰でも救われるという、大乗仏教に変化し、それが日本へ伝わりました。けれども日本では、さらに独自の鎌倉新仏教が出来て、今に至っています。仏教は、全く違うものに変容しているのです。途中で変わったものなどに、人生をかけるのはいかがなものかと思います。
私達クリスチャンは、聖書を拠り所として信仰生活を送っています。しかしもしも、キリスト教がイエスさまが始めた時から、内容が全く変わっていたら、教会も、クリスチャンも、やめたほうがいいのです。しかし聖書は、昔から変わらない真理のみことばであり、信じるに足るのです。
盆とは、「ウランバーナ」という言葉が起源です。もとはサンスクリット語で、意味は、「逆さづり」だそうです。先祖が地獄で、逆さづりの刑にあっているから、それを供物によって助けるというのが盆の目的です。“盆の行事を守る”のは、何を肯定しているかというと“自分の祖先は地獄で逆さづりの刑を受けている”という事を、前提とするわけです。ゆえに、食べ物などを捧げて、逆さづりから助け出すというのです。
けれども、三日間ぐらいは助け出すことが出来るらしいけれど、また地獄に戻って行きます。祖先は365日中、362日は逆さづり状態で、三日間だけ家に帰ってくるわけです。
そんな虚しい考えを肯定している日本人は、もう少しその意味について考えた方がよいのです。
この時期、盆行事や祖先崇拝の力は大変強いですから、そんな中で信仰告白するのはなかなか大変です。しかし、イエスさまは、あえて私達を日本の大変な状況に置いて、「あなたはわたしの事を誰だと思いますか?」と質問されるのです。その時、私達も弟子達と同じように、大胆に「あなたは神の子、キリストです!!」と宣言しなければならないのです。
今週、ある人は苦しい立場に立たされるかもしれませんが、イエス・キリストのみ名を高らかに宣言するものでありたいと心から願います。
弟子たちが、「あなたは生ける神のみ子、キリストです」と宣言した時、イエスさまは続いて何を語られたのでしょうか。それは重要です。マタイ16章18節〜19節、
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
異教の神々の面前で、「あなたは神の子、キリストです」と宣言した時、イエスさまはその告白に引き換え、弟子達に何を与えたのか。(ここではペテロという人物が代表して答えていますが、その後を見ると、弟子達全員に対して語られた言葉である事が分かります)
「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に私の教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」と語られました。「岩」というのが何を表わしているかというと、「イエスさまご自身」を意味しています。
実は、ローマ・カトリックはこの意味を曲解して、「岩」を「ペテロ」としているのです。だから、バチカンに行くと聖ペテロ教会というものがあり、「教会はペテロの上に建てられており、ペテロの血を受け継いでいる。ペテロの化身がローマ法王であり、法王と、ローマ教会なくして救いはない」と言うわけです。これは大きな間違いです。
私たちはイエスさまの上に立っていますから、誰でもイエス・キリストを信じ、信仰を告白するならばローマ教会とは関係なく、救われるのです。
そしてイエスさまは、「ハデスの門もそれには打ち勝てません」と語られました。それは、教会は強力な存在であり、同時に、教会がどこに建てられているかについても教えています。教会は、「ハデスの門前」に建てられるものであり、ハデスの力も、決して教会を倒すことは出来ないのです。
実は、この「ハデス」というのも、ギリシャ神話の下界の神”ハイデス”から出た言葉ですが、注解書などで調べていますと、マタイ16章では、「サタンの本拠地」という意味で、イエスさまは「ハデス」という言葉を使われました。
目の前のパン神殿には、ハイデスという冥界を司る神も祀られ、拝まれていたことでしょう。それが“死の力”でした。
しかし、「それらも、教会を害する事はできません!」とイエスさまは語られたわけです。
教会はどこにあるのかというと、「ハデスの門前」、すなわち、“死の力の門前”に教会はあると教えているのです。
イエス・キリストを信じ、永遠の命を受け取るのは難しいと考えますが、何も難しいことはありません。イエスさまを信じ受け入れ、ただ告白したら救わるのです。イエスさまと一緒に十字架につけられた強盗の一人は、それまでずっとイエスさまの悪口を言っていたのですが、イエスさまの態度を見て、「これは、神の子に違いない」と気づき、途中で考えが変わりました。そして最後に、「あなたが天のみ国に行かれた時には、私を思い出して下さい」と頼みました。
すると、イエスさまは何と言われたかというと、「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます」と答えられました。その箇所を読むだけで、イエスさまは素晴らしいお方だと思います。私なら絶対にそうは言わないと思います。今まで悪口ばかり言っていた人が、最後死にかけてから態度を改め、「私を救って下さい」などと言ったら、「何を言うんだ。舌ベらが乾かないうちに、そんなことよく言えたものだ。地獄に行け!」と言ってしまいそうです。
やはりイエスさまは素晴らしいです。そんな、ある意味、あと数秒したら永遠の滅びに行くかもしれない男が、「私を救って下さい」と言っただけで、パラダイスに行くことができたというのです。「世界で最高にラッキーな男」と言えるのではないかと思います。ですから私達は、最後の最後まで伝道し続けなければいけないのです。
今日も礼拝が始まる前に一組の家族が来られて、「今から危篤のおばあちゃんの所に伝道に行きますので、祈って下さい」と言われ、祈らせて頂きました。おばあさんは、今まではイエスさまを知らなかったかも知れませんが、世を去る寸前でも、永遠の命を得ることが出来るのです。
救いは教会を通して提供されますから、教会はどこにあるかというと、死の直前まで救いが提供されるとしたら、「教会は、ハデスの門に限りなく近い位置」にあるはずです。
何年か前のことですが、忘れる事ができません。この教会に来られている方のお兄様が危篤で、病院を訪問した事があります。すると、「意識が無くて、全く分からないので会っても無駄かもしれません。」と言われましたが、そこに行って声をかけました。しかし、全く反応がありませんでした。けれども、人間は意識がないようでも案外、耳は聞こえているようなので注意しなければいけません。(意識がないと思って、葬式のことを話していると、後で息を吹き返して、「何でおれの葬式のことを話した」と言われるそうです)
私はその方の耳元で、「順です。来ましたよ。イエスさまを信じて天国に行きましょうね。私の後について祈って下さい。声は出ないかもしれないけど、心で叫んで祈って下さい」と語りかけました。全然反応がなかったですが、「イエスさま、私を救って下さい。永遠の命を与えて下さい。天国に入ることが出来ますように。アーメン」と祈ったら、「アーメン」の時にその方が突然声を出し、「アー…」と言いました。
と同時に、横のモニターがピーっと音を発して、心臓が止まり、お医者さんや看護師さんが駆けつけて来ました。アーメンの「メン!」の所で、天国にロケットにでも乗って帰って行かれたようでした。絶対に、あの方は天国に行ったと確信しています。「最後の祈りがあって、私は天国に来ることができました」と、やがてお礼を言ってもらえるのかわかりませんが。
いずれにしても、救いは死の直前まで、限りなく死の門に接して提供されているのです。としたならば、教会がどこに立っているかというと、「ハデスの門前に限りなく近く」あるのです。
今週、盆行事があって、死の霊を呼ぶような呪術的行為が行われるので、不安な方がおられるかもしれません。
「私はどうしたらいいのか…」しかし、心配しなくてよいのです。教会はハデスの門前に限りなく近く立っていて、教会はそこにあるからです。
今週、教会はどこにありますか?それは、死の霊が呼ばれるハデスの門に限りなく接してあるのです。
礼拝に来た時だけが教会で、帰ると教会から離れると思わないで頂きたいのです。教会とは、ハデスの門前に、それも、永遠に変わらない岩であるイエスさまを土台としてあるのです。私達の人生の中で、最も暗い闇の淵に、教会は燦然と輝いているのです。
同時に、「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」とイエスさまは言われました。
異教の偶像の面前で弟子達が、「私はイエスさまを信じます!!」と宣言した時、天のみ国のカギを受け取ったのです。
私達日本人クリスチャンは、この項に当てはまると思います。なぜなら、異教の神々、ハデスの門前で、「イエスは主だ」と告白しているからです。私達には、天のみ国のカギが渡されているのです。
そのカギでどのような事が出来るのでしょうか。「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら天においても解かれています」と約束されています。
しかし、これを深く考えると、「天のみ国で本当にカギが必要なんだろうか?」と疑問に思います。やがて、私達も天国に行く日が来ます。聖書には、この地上で神様のために奉仕したら、必ず天に宝として積まれているとあります。
今日、礼拝に出て、主を賛美した事は、神の前の目盛りはアップしています。先週も、とりなしの祈りについて話しましたが、自分のためではなく、誰かのために祈り労し、共に苦しんだ事は、主は決してお忘れになりません。ちゃんと天において、報いて下さいます。私達が天国に帰った時には、イエスさまが、「あなたはこの地上でよくわたしのために働きましたね。あなたが天に積んだ宝はこんなに大きくなっていますよ」と、見せて下さるに違いないです。そして、天には住まいが用意されています。素晴らしい天国マンションを用意して下さっているはずです。
今日、ここにおられる誰にも、イエスさまは天の住まいを用意して下さっているはずです。皆さん、期待して下さい。
以前、この教会に来られていて、すでに天に帰られたひとりのおばあちゃんがいます。おばあちゃんは晩年、特別養護老人ホームに住んでおられたので、私は度々訪問しました。そのおばあちゃんは祈りの人で、いつも私達のために祈って下さっていました。しかしおばあちゃんには一つの心配ごとがありました。それは、ご主人がクリスチャンではなくて亡くなったからです。私もそのご主人のことをよく知っています。彼は教会に対して反発し、おばあちゃんの聖書を破いたりして、迫害しました。
するとある夜、突然脳梗塞で倒れ、それっきり亡くなられたのです。「主人が倒れました」という連絡を受け、私はすぐに家に飛んでいくと、すでに息はなかったのです。おばあちゃんは、「夫は今日も、寝る前にイエスさまの事や私の事について悪口を言ってた。だからおじいちゃんは地獄かもしれない…」と言っていました。(私はそのことについては、何もコメントしませんでした)おばあさんはいつも、心の中に悲しみがあったそうです。「私の連れ合いは滅びてしまったに違いない…」と。
しかしある晩、おばあさんは夢を見たそうです。どんな夢かというと、それは天国に行った時の夢だったそうです。天国に行くと、新城教会から先に天国に帰って行った兄弟姉妹が集まり、あれこれ、新城教会について話しが盛り上がっていたそうです。その中に自分もいたそうです。
「ああ、ついに素晴らしい天国に来た!昔、新城教会で一緒に礼拝を守っていた人達がいる!」と、とても嬉しかったそうです。
「でも、主人はいないだろうな〜」と思いながらあたりを見渡したら、皆が集まっている前に道路があったそうですが、その道路を一人の男が竹箒で掃除していたそうです。その人を良く見ると、なんと、ご主人だったそうです。「あの、うちの主人も天国に入っている!」と喜んだそうです。
いくら反発していても、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる」という約束がありますから、家族のために真剣に祈った祈りを、神は忘れておられないんだろうな、と思いました。ですから皆さん、家族のために真剣に祈って頂きたいです。
盆の行事で偶像礼拝をしている家族のために、とりなし祈って下さい。そうしたら、必ず神の救いのみ手が延ばされると信じます。
さて、天国のマンションに行って、「これがあなたの部屋のカギですよ」と手渡されたらどうでしょうか。「やった、ついに私も天国の住人だ!」とカギを受け取って、喜ぶと思いますが、もしも、私がカギを受け取ったら、一つの事を質問したいと思うのです。
「天使さん、カギを受け取りましたが、天国でも戸じまりが必要ですか?」と。そうしたら天使がこう答えたらどうでしょう。
「はい、天国でも戸締りが必要です。ちゃんとカギをかけて下さい。この頃は天国も泥棒が増えて、けっこう危ないのです。だから、カギをしておかないと、景色は美しいけど、変な人達が沢山来ていますから、盗まれますよ」と言ったらいかがでしょうか。
「天国なんて言うけど、ここは天国ではない…」なぜなら、天国には悪いものが何もないからです。皆さん、天国はカギなど必要ありません。100パーセント安全で、自由で、そこには悪者もいないし、悪魔・悪霊どももいないのです。神が100パーセント支配しておられる場所が天国ですから、カギはいらないのです。
では、「天のみ国のカギをあげます」というのはどういう意味でしょうか。それは、神の支配しておられる天のカギではなく、暗闇の支配の天に対するカギなのです。暗闇が支配している天、すなわち、第二の天です。
「ハデスの門」とは、先ほどもふれましたが、「サタンの本拠地」という意味として、イエスさまは使われました。このカギは、”悪魔・悪霊どもが支配している天”で使う事ができるカギなのです。そのカギにはどんな作用があるかというと、「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
「つなぐ」というのは、「縛り上げる」とか「鎖をかける」、「禁じる」という意味があります。
「解く」とは、「束縛を解く」とか、「解放する」、「無効を宣言する」という意味もあります。敵が私達に対して手出ししようとしても、その働きを禁じたり、敵を縛り上げる、また、つながれた人の束縛を解いて解放してあげるカギなのです。そんなみ国のカギをあなたにあげますよ、という事です。もちろん、このカギは神の完全支配の中から与えられるカギですから、み国のカギと呼ばれるわけです。しかし、カギが使われる場所は、敵の領域の中で使える勝利のカギなのです。
今週も、私達はこのような時期に、ハデスの門前に送られるかもしれません。しかしイエスさまが何を用意しておられるかというと、「み国のカギ」を用意しておられるのです。そのカギを持って私達は出掛けて行くのです。そして、教会はそこに広がるものです。私達は頂いたカギを使わなければいけません。それは、“つないで解く”権利です。死の霊を縛り上げ、ハデスの力を縛り上げ、鎖をかけ、働きを禁じるカギなのです。
すべての兄弟姉妹が、このカギを受け取る権利があります。今日はこのカギを受け取って頂きたいと切に願います。
聖書を見ますと、教会は特定の場所にあるのではなく、突然、ある領域に開かれるものであることがわかります。それは突然性をもっているのです。
そもそも、“教会の始まり”は「聖霊の激しい注ぎ」から始まりました。使徒1章では120人が集まっていたと記しています。そして、使徒の2章1節〜6節から読むと、
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。」とあります。
120人の人達が祈っていた時に、突然、天が開かれ、教会は誕生したのです。そして、エルサレムに住んでいるユダヤ人をはじめ、多くの国の人達が広場に集まり、その結果、三千人が弟子に加えられたとあります。それは予期もしなかった出来事でした。広場に突然、三千人教会が出現したのです。120人の弟子達が祈っていた時、突然その事が起こったのです。
私達も、”主の業は突然起こる”と期待しなければいけないです。私には今年、大きな期待があります。特にこの7月、8月は期待に満ち溢れています。
1992年に、突然の出来事がありました。2月に突然、聖霊が注がれ、7月には突然、霊的戦いが始まりました。信じられない業が、どんどん起こされました。それから数えて今年は17年目を迎えるわけです。
92年、93年は、日本に、大きな扉が開かれた年ではなかったかと思います。93年は、日本が中心としている稲作が大きなダメ―ジを受けた年でした。それまで米を100パーセント自給していましたが、その年は雨が多くて、稲が育たなかったのです。それで、93年には大量の米を海外から輸入しなければなりませんでした。
そもそも、霊的戦いは稲作の背後の悪霊との闘いでしたから92年から93年にかけての霊的戦いの中で、見えない世界に大きなインパクトがあったのではないかと思っています。
そして今年も何故か、その年と似ています。雨が多く不作で、自然災害も多くあります。何か主は、大きな事を用意しておられるのではないかと感じます。
ペンテコステの時、聖霊が注がれて弟子達が語った言葉の中に、「上は天に不思議を示し、下は地にしるしを行う」というヨエルの言葉が引用されました。
「天にしるしが起こり、続いて地にもしるしが起こる」と語られましたが、92年に主が突然この教会に訪れて、その時は色々なしるしが起こされました。
私は忘れることができないのですが、1992年の7月31日の事でした。その日は、霊的戦いが始まって、一番混乱していた時期でした。私は疲れて、「これからどうなってしまうんだろう…」と落胆していました。
その日、家庭集会の為に名古屋へ行きました。少し早く着いたので、木陰で休んでいました。そして車の中から空を見上げた時、突然私の目の前に、光輝く十字架が雲の中から現れたのです。ちょっと、頭がおかしいと思われるかもしれませんが、本当に私は見たのです。雲の中から突然十字架がにゅーっと出てきて、すっと引っ込みました。
「十字架が出た!」と、私は始めは信じられず、他の所を見回しました。目の錯覚だと思って、もう一度同じ場所を見たら、今度は、始めの位置から少し左下から、また、十字架が出現して消えて行きました。
今から考えると、この教会の屋根について白い十字架と、会堂内にある、薄茶色の十字架に似ていました。何しろ、十字架が目の前に出てきたのです。私は本当にびっくりしました。私はそんな事はなにも期待していませんでした。
しかし主は、「これから、新城教会に不思議としいるしを行います」と、あるとりなしの祈り会の中で、私が天に十字架を見た意味について語られました。私は今でもそれを信じています。
その後、95年だったと思いますが、この街で“マーチ・フォー・ジーザス”と言って、賛美して新城を練り歩いたことがあります。ちょうど新城を一周し、皆が教会に帰ろうとした時、「うわぁ!」とある人が叫びました。何故なら新城の上空に、巨大な雲の十字架が出現したからです。それらは、「天におけるしるし」であったと思います。
あの日、雲の大きな十字架を見た人はおられますか?見た人は、どのくらいいますか?結構大勢いますね。写真もとったと思います。
「天にしるし、地にもしるしが起こる」と語られましたが、これからは地に不思議としるし、いやしや奇跡、そして、解放が起こるのです。
今年、主は私たちに、「あなた方は、もっと期待しなさい!!」と語られているような気がします。敵の面前に、神の教会が突然現されることを期待しようではありませんか。
聖書を読むと、今日は時間がないので詳しく見る事は出来ませんが、使徒の働きに「教会の出現」の場所を見ることが出来ます。
弟子達がユダヤ教の宮へ行った時、突然美しの門の門前の足なえの男が癒されて立ち上がったのです。何と、ユダヤ教の神殿の門前に、教会が現れたのです。
また、サマリヤの街は、何度も神の働きやイエスさまの働きに対抗したような街でした。もちろん、良きサマリヤ人の話もありますが、全体的にはイエスさまの働きと対立していました。
しかし、ピリポがサマリヤに行った時、8章5節から見ると、そこに大きなリバイバルが起こった事が記されています。汚れた霊は出て行き、中風の人はいやされ、8節には、「それでその街に大きな喜びが起こった」と記されています。そのように、敵対していた街にも神の教会が出現したのです。
また、サウロという男は、クリスチャンを迫害するため、ダマスコ街道を進んでいたのですが、突然、まばゆい光に照らされ、回心しパウロとなりました。
聖書を見ますと、教会とは、ある特定の空間にとどまっているのではなく、突然、様々な場所に現れるものである事がわかります。
新城教会はどこにあるのかというと、決して、この場所にあるのではないのです。教会は私達のただ中にあり、私達と一緒に移動するものです。教会はハデスの門前、それは最も戦いの激しい、死の霊との闘いの門前に出現するものです。そこに新城教会もあるのです。
「教会に来て下さい!」と牧師は言います。もちろん、礼拝に一同が集うのは大事な事です。しかし、それよりももっと大事なことは、我々が最もストレスに感じていて、激しい戦いがある戦場に教会はあるのです。そしてカギが使われる時に奇跡が起きるのです。
「新城教会はどこにありますか」と聞かれたら、新城市富沢にあるのではなく、皆さんの中、最も激しい戦いを感じている現場にあると答えて下さい。今週は特に、祖先崇拝の行事のただ中に教会は出現し、そこで主はカギを使わせようとされています。
ある方はビジネスマンで、大変忙しい中にあると思います。そこで大きなストレスを感じているかもしれません。しかしそこに教会はあるのです。本部教会はどのような役割かというと、最前線の教会に、何らかの支援を行う役割です。
先週も色々な領域のとりなしの祈りをさせて頂きましたが、それはなんのためかというと、新城教会に所属する兄弟姉妹が“一番関心をもっている場所”に教会が出現するための支援です。最前線に不足がないように、本部教会には必要な資材と勝利を送る役割があるのです。
私は教会はコンビニに似ていると思っています。コンビニは地域にあるのですが、必ず、どこかに本部があるのです。しかし、サークルKの本部がどこにあるか知っている人はほとんどいないと思います。けれども、本部があるが故に、地域のコンビニは存在しているのです。本部は何をするかというと、必要なもの、不足しているものを最前線に送る役目です。それは誰も気づかないかも知れませんが、本部が最前線に物資を送っているのです。ゆえに仕事が出来るのです。
教会もそれと同じです。本部教会は、現場に神の力が注がれるように、助ける役割であると思います。そして、教会は、一番激しい戦いのただ中に存在している事を、知って頂きたいと思います。
何カ月か前に、ある方が言われました。「先生、うちの息子のために祈って頂けますか?」
何故なら、息子さんに大きな問題があって、家族は苦しい立場にあったからです。私達も真剣に祈っていましたが、中々、解決しませんでした。私も一度その方の家にお邪魔して、問題がある息子さんに出会って話をしたいと思いました。
しかし私も色々と忙しく、私のスケジュールの中で、その家を訪問できる日程を二ヶ月ぐらい前に決めました。
そして、先々週、その家をやっと訪問できました。息子さんには大きな問題があったのです。その息子と会って私は直接話をしたかったですが、そんな事は不可能だと言っていました。
しかし私は事前に訪問の日を設定していましたから、もしも会えたらお話したいと願っていました。会えなければ、とりなしの祈りをしようと考えていました。
当日お母さんに、「今日は会えそうですか」と聞くと、「いや、無理でしょう」と言われました。
いろいろな問題が起きる原因に、地域の霊的環境がリンクしています。その方の家の後ろには古墳があり、そこが悪のたまり場になっていました。また、すぐ近くには神社があり、そこもまた、不良のたまり場になっていました。私たちはそこに働く悪しき敵の力が打ち破られるようにと、み国のカギを使って祈りました。お母さんにも来ていただいて、一緒に祈りました。
そうこうしているうちに、お母さんの携帯電話が鳴りました。それは息子さんからの電話でした。
「今日は、新城教会の牧師が来るという事だけど、ちょっと会いた」という電話でした。絶対に会えないと思っていたのに、彼の方から、「会いたい」と言ってきたのです。なぜなら、お母さんは、突然家に行くと切れて大変な事になるといけないので、「今日は、もしかすると、新城教会の牧師が家に来るかもしれないから、その時は避難して下さい」というようなメモを置いて来たのです。しかし彼はメモを見て、「牧師と会いたい」と電話がかかってきたのです。
どこで会うのかと聞くと、「裏山の古墳のところで待っていてくれ」と言いました。私達はちょうどそこで、祈っていたのですが、彼はサングラスをかけバイクに乗ってやってきました。私は古墳の上で、心の中で祈りつつ、彼と話しました。暑い中で、そこには蚊がいっぱいいたので、私は、「君の家に連れて行ってくれないか、ここは暑いから」と頼むと、承知してくれました。それで彼の家に行くことが出来、最後には彼と一緒に祈ることが出来ました。
不思議な事です。今まで一番手ごわい、どうする事も出来ませんでしたが、私達は主に祈っていたのです。最も激しい戦いの現場に、教会を現わしてくださいと。
お昼になったので、「では、帰ります」というと、息子がお母さんに、「順先生達に、何か食べさせてあげて」と気を使ってくれました。
「じゃあ一緒に食べに行こう」と言うと、「俺はいい」と言いましたが、「せっかく出会ったんだから一緒に行こうよ」と言うと、「先に行っててくれ」と言いました。私は彼はまず来ないだろうと思っていましたが、後から彼はレストランに来ました。それで、食事をしながら、さらに親しく話すことができました。
何故彼は、そんなに私たちに心を開いたのかというと、私たちが訪問した翌日は、彼の犯した罪の判決が下りる日でした。予想では、まず刑務所に入らなければいけないと言われていました。彼は強がっていましたが、内心は不安だったのです。それで、「牧師に祈ってほしい」と思ったらしいのです。
私の予定もすべて主がコントロールされていると感じました。「この日しか時間は開いていない」とマークした日が、ばっちりとはまったのです。翌日は、彼にとって最悪の日だったのです。私は別れ際に、「また会いましょう」というと、「会いたいけど、まずは無理だ。明日からは刑務所に入らなければならないから」と言いました。
私は、「じゃあ、今日私が祈って、明日から刑務所に入らないで済んだら、教会においでよ」というと、「そんなことが起こったらいいけど…」と言いました。
私は、「主よ、どうか裁判所に教会を出現させ、今回は赦されますように。」と祈りました。私は彼に、携帯番号を渡しました。「明日、判決が出たら、かけられる状況ならかけてくれ」と言いました。もしも連絡がないなら、入所したという事です。
しかし何と翌日、彼から電話がかかってきました。「奇跡だ!刑務所に入らなくて済んだ」と彼は興奮していました。
「じゃあ、これから教会においで」というと、「はい、行きますとも!!」と言いましたが、今日来ているかわかりませんが・・・。
彼は裁判所で奇跡を体験したのです。彼は本当に心を開いてくれました。
私達は時々、あきらめモードになります。「この問題は無理だ、動くはずはない」
しかしそうではありません。私達の戦いの最前線に、神の教会が現わされ、そこでカギは使われるのです。
長くなりましたが、最後に皆さんで聖餐式を持ちたいと思います。八月のこの週、最前線に教会があることを信じて、イエスさまの十字架の血潮を仰いで、聖餐式を受けたいと思います。
ハレルヤ、天の父なる神様、み名をあがめ、心から感謝します。あなたが教会を敵の門前に立てて下さった事を、心から感謝します。今週、日本は重苦しい週ですが、そのようなハデスの門前に、あなたが教会を現して下さい。私達にカギを与えて下さっている事を、心から感謝します。どうか主よ、一人一人の最前線と思われる場所に、教会を現して下さい。突然、主の業が起きますように。主よ、その事を期待します。
天のしるし、地のしるしを信じます。2009年に大きな期待を持ちます。イエスさまの十字架の血潮を感謝し、聖餐式を行います。どうか、聖餐式を祝福して下さい。イエスさまのみ名を通して、祈りをみまえにお捧げします。アーメン