「蒔いた種は刈り取る」


2009.8.23(SUN)
新城教会 岡本信弘 牧師

ガラテヤ人への手紙6章7節〜9節
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

ハレルヤ! 主のみ名を賛美します。
八月も後半になり、日中は暑いですが、朝晩はだいぶ涼しくなって過ごしやすくなってきました。皆さん体調はいかがでしょうか。この夏も、私はずっと忙しい毎日を過ごしています。
先々週は、地震があったために、運送業者に頼んでいた荷物が予定通りに着かないかもしれないと連絡を受け、東京までトラックで十四〜十五時間かけて荷物を納品に行きました。そんな忙しい中にあっても、健康が支えられ、守られていることを感謝します。
長いと思っていた夏休みもあと一週間となりました。「あと一週間しかない」と思っている学生と、「あと一週間もすれば子ども達が学校に行ってくれる」と思っている親御さんがおられるのではないかと思います。
今日は中高生キャンプがあります。先週、開先生から「十二時には中高生が出かけますから」と暗にプレッシャーがかけられましたが、私は「大丈夫ですよ」といって今日のメッセージの準備をさせていただきました。

私事ですが、私は先々週、五十三歳になりました。振り返ってみると、この五十三年間でどれだけのことができたのかなぁ、長いようで短かったなぁ、と思います。
私の時計は電波時計です。一秒も狂わないのでとても便利です。よく電車で東京まで出かけるのですが、飯田線茶臼山駅から五時四十八分の始発に乗ります。プレイズからすぐなので、四十五分までに準備をして駅に向かえば間に合います。電車は時刻前に出ることはありませんし、時計が正確だから、安心してギリギリまで仕事をすることができます。今は、そんなせわしない生活をしていますが、時々、順先生が昔話をされるのを聞くと、昔はずいぶんのんびりとした生活をしていたことを思い出します。
若い頃に、何年間か(順先生は十年間と言っておられましたが、私は五年くらいだと思います)古い会堂のバルコニーで過ごしていました。当時、私の家は教会の隣にあったのですが、学校から戻るとすぐ次の日の用具をかばんに入れ、五〇〇ml入りのチェリオというビン入りのジュース(今はないかもしれませんが)を片手に教会に行きました。そこには、自分専用の、自分のにおいの染みついたセンベイ布団が敷いてあり、皆で集まり、祈ったわけでもなければ伝道に行ったわけでもなく、とりなしに行ったわけでもなく、ただ、安いお菓子を食べながらしゃべっていました。順先生は「あの炭酸入りのジュースを寝ながら一気に飲み干したのは、信弘先生しかいない」とよく言いますが、そんなこともあったなぁと懐かしく思います。
私たちの若い頃と比べると、今の若者は頑張っていますね。来週は、第一青年会主催のザ・コール サマーフェスティバルがあります。たくさんの楽しい催しと、屋台風の店、青年たちの劇やクワイヤーの賛美もあるそうです。私も、餃子を出してくれと頼まれたので、六百個くらい作るようにと考えています。「家族みんなで来られるイベント」になるようにと、一生懸命準備している若者を見ると微笑ましく思います。是非この絶好の機会に、教会に一度も来たことのない人に案内をしてください。来られた方が「教会にはこんな楽しい一面がある」ということを知ってくださったら素晴らしいと思います。

特別、教会に集まって何をしたわけでもなかった学生時代。今思うと無駄に過ごした時間のように思えますが、神様の恵みの中で今こうして奉仕することができていることを思う時、何年間かの一日一日の積み重ねによって、少なからず成長させていただき、「あの時があったからこそ今がある」と思います。そんなことを思い巡らしているとき、神様がみ言葉を語ってくださいました。初めにお読みした有名なみ言葉ですが、今日は、「蒔いた種は刈り取る」ということについて、皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。

聖書の中に“種”ということがたくさん語られていることは、皆さんご存知でしょう。その中で、「種を蒔く」ということには、いくつかの神様の法則が隠されていると思います。
当たり前のことですが、種は袋に入れて戸棚にしまったままでは、何年たっても芽を出すことも実を実らせることもありません。しかし一度地に蒔かれ、水をやり、肥やしをやれば芽を出して成長し、大きな実をならせることができるのです。そのままでは何年たっても芽を出さないのに、土に植えて水をやれば芽が出る、それは当たり前のように思えますが、不思議なことです。それは神の法則であるわけです。
教会の前に田んぼがありますが、この田の持ち主は、私の同級生です。稲は、三月、四月に種を蒔いて苗を作り、田を耕し、田植えをして肥やしをやったり雑草や害虫駆除などの世話をして、九月、十月頃に収穫されます。私の同級生は仕事を持っているので、朝早く来て世話をしています。「大変だね」と声をかけると、「いや、大変だけどこれは息抜きというか、稲が成長するのを見るのは楽しみだよ」と話してくれました。
皆さんの中にも家庭菜園をしておられる方がいらっしゃると思います。取れたての野菜が食べられると聞いて、私も「ちょっとのんびりして家庭菜園でもしようかな」と言うと、家内に「無理無理!」と言われてしまいました(笑)。それもそうだと思います。
蒔いた種がだんだん成長して実をならせることはとても楽しみであり、神の自然の法則の中にあるわけです。そういうことを覚えつつ、少し学んでみたいと思います。

種蒔きにおいて、「蒔いた種は必ず刈り取る時が来る」ということは原則です。蒔かなければ何もできませんが、蒔けば必ず刈り取る時が来るということです。
先日、私にとってショックなことがありました。車で東京に行くことも多いのですが、路上パーキングで五分位時間をオーバーし、駐車禁止のシールを貼られてしまいました。「いやあ、しまった」と思いましたが、この程度のことであれば裁判所に行く必要もなく、後で反則金を支払えば済むことです。蒔いた種をその場で刈り取って終わってしまうことです。しかし、日本の現状は違います。
来週の日曜日には選挙が行われます。皆さん是非選挙に行ってください。今まではあまり関心を持っていなかった人たちも、今回の選挙は気になるのではないでしょうか。「政権が代わるか代わらないか」。私は、どこの誰が政権を取っても同じだろうと思っていたので、ほとんど関心がなかったのですが(投票にはいつも行っていますが)、候補者の政策を聞きながら、誰が上に立つにしろ、私たちの思いや意見に関係なく、政治家や官僚が決めた事を進めていくということを思う時、クリスチャンである私たちは、上に立つ人たちが方向を間違えないように、正しい国造りができるように祈らなければならないと痛感します。それが私たちの使命だと思います。日本は、今までどんな種を蒔いてきたでしょうか。悪い種もたくさん蒔いたのではないでしょうか。
特に、偶像礼拝という種は、多くの所でたくさん蒔かれてしまいました。日本は韓国や東南アジアにおいて、侵略し、偶像礼拝を強要してきました。今年五月に韓国でリバイバルミッションが行われた時、韓国の方がいまだに深い傷を負っておられることを感じました。そのように、日本は、海外にまで悪い種を蒔きましたが、それも、刈り取らなければいけません。
皆さんはどんな種を蒔いてきたでしょうか。偽りの種、憎しみの種、偶像礼拝の種、酒やタバコや麻薬の種、それら全部を収穫しなければならないとなると大変なことです。なぜなら、種は一粒植えると、その一粒が何十倍にもなって収穫されるわけですから、当然のように、悪い種も何十倍も刈り取らなければいけないことになります。私たちはそれを全部刈り取り、清算することは到底できないでしょう。しかし、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなり、十字架にかかって死んでくださいました。そのことを信じるだけで、私の罪、蒔いた悪い種を全部帳消しにしてくださるのです。ここにいる方のほとんどが、そのような素晴らしい神様を信じておられ、その何にもかえがたい素晴らしい神様の恵みを受けておられます。ですから、私たちはそれを忘れることなく、感謝の思いを持って生活していきましょう。
しかし、悪い種ばかり蒔かれたわけではありません。良い種もたくさん蒔かれたと思います。皆さんの祈り、伝道によって救いという大きな実をならせたでしょう。皆さんの奉仕により、教会が祝福されています。また教会にかかわることだけでなく、皆さんの家族や地域において為した良い働き。蒔かれた良い種は確実に神の前に覚えられ、成長しています。そして、いつか収穫の時を迎えます。

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』(マルコ四章二六〜二九節)

私たちは、自分で蒔いた種を収穫する楽しみがあります。しかし、いつ、どこでそれを収穫するかはわかりません。ある本に、『小さな親切』という十九世紀中頃にあった実話が載っていました。

一人の国会議員が、馬車に乗ってある村に向かっていた途中、ぬかるみにはまってしまいました。困っていると、通りがかった農家の少年が、馬車を引き上げてくれたそうです。その国会議員はとても喜び、少年に「どれだけのお金を払ったらいいか」と言いました。すると少年は「僕は何もいりません。あなたのような偉大な方をお助けできて光栄です」と言いました。それを聞いた国会議員は、この少年が気に入り、「あなたは将来何になりたいのか」と聞くと、少年は「医者になりたいけど、僕の家は貧乏なのでとてもそれはかなわない夢だと思います」と答えました。それを聞いた国会議員は、少年を連れて彼の家に行き、両親に「私がすべての費用を負担しますから、この子を医者になるために学校に行かせてあげてください」と言いました。そしてその少年は学校に行き、一生懸命勉強し、医者になりました。
五十年の歳月が流れ、第二次世界大戦中、ドイツから空襲を受け劣勢に立たされているイギリスでのこと。首相であったチャーチルは肺炎に冒され治療を受けていましたが、どんな薬を投与しても効果がなく、危険な状況にありました。医師団は相談し、これまで使われたことのない、ペニシリンという薬を投与することを決断しました。その薬はよく効き、チャーチルはすぐに回復しました。実は、あの国会議員の馬車を引き上げ、助けた少年こそが、ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング、その人でした。そして、さらに驚くことに、チャーチル首相は、その国会議員の息子だったのです。

この話を聞いて、「偶然だ」と思われる方もおられるでしょう。しかし私は、神様の深い摂理だと思います。蒔いた良い種を刈り取ったのです(フレミングは、敬虔なクリスチャンであったそうです)。何も見返りを求めなかった少年が、国会議員にしてあげた親切により学費をもらい、よき医者となって大きな発見をしました。一方、国会議員は、助けてもらったお礼に、少年が医者になるためのすべての学費を出してあげたことによって、後に自分の息子が死の淵から助け出されるという恵みにあずかったのです。これは、一人の人の命を救ったと同時に、イギリスの国全体を救ったとされる出来事でした。

ガラテヤ六章八節のみ言葉を見ますと、『自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです』とあります。自分のために蒔き、収穫するのであれば誰でもしていますが、本当の祝福を受けるためには自分のために蒔くのではなく、ここにあるように「聖霊のために蒔く」ことが大切であると教えています。親切や、伝道や奉仕などを蒔くなら、大きな収穫、祝福としての永遠の命を刈り取ることができるというのです。
また、『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。』(第二コリント九章六節)とあるように、たくさん蒔いたらたくさん刈り取ることができます。蒔いた分だけ刈り取るのです。「私は十分蒔きましたから、後は十分刈り取るだけです」と思っている人はあまりいないのではないかと思います。私も、まだまだ足りないと思います。良いものを収穫するために、もっと多くの良い種を蒔かせていただきたいと思っています。

この教会は五十年以上の歴史があります。初めの頃のことを知っている人はわずかになってきました。私も五十三年間、全部を覚えているわけではありませんが、この教会と共に歩んできました。
この会堂は、二十九年前に、隣の教育館は十七年前に建てられました。今は、エアコンのきいた心地良い椅子に座って礼拝を持っていますが、ここに至るまでには多くの方の働き、祈り、犠牲があったことを忘れてはいけないと思います。
初期のクリスチャンたちが、因習の深いこの地域で迫害の中を戦い抜いてくださいました。金持ちがいたわけではなく、持てる中から精一杯ささげて会堂建築がされてきたのです。そのような犠牲の種蒔きがあってこそ、このような収穫を見、恵みを受け取ることができているのです。
また、全日本リバイバルミッションの働きが進められています。全国各地、またハワイや韓国でも、人々の救いを願って、大きな大会を開催してきましたが、中には「そんな打ち上げ花火のようなことばかりしないで、もっと地道な働きをされたらどうですか」と言われる方もいらっしゃいます。しかし、リバイバルミッションは、宣教団体として、委ねられている働きがあると思います。同じリバイバルの思いを持つ人たちが一つ所に集まって祈る時、その地に多くの種が蒔かれ、大きな祝福となり、多くの実となって収穫することができると思います。そして、この働きは、教団・教派を超え、多くの方の祈りや献金で支えられていますが、これからもなお、さらに拡大し前進していくことを信じています。

確かに収穫はありますが、その実をいつ収穫できるかはわかりません。時間がかかることもあります。ガラテヤ六章九節を見ると『善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります』とあります。これは、善を行うことをやめてはいけないということです。精一杯頑張っても、「こんなに伝道しているのに、なぜ私の主人は救われないの」とか、「これだけ祈ってきたのに、どうして娘の病気が癒されないの」、「こんなに犠牲を払ってささげてきたのに、なぜ家は貧乏なの」と失望しておられる方もいるかもしれません。しかし、すべて神様は知っておられ、忘れてはおられません。教会に来て一日で救われる人もいますし、五年、十年、それ以上かかる方もおられます。
私の母親は、五十三年前にクリスチャンになりました(私が母のお腹にいる時、バプテスマを受けたそうです)。それからしばらくして、父や子どもである私たちはクリスチャンになりました。しかし、家族全員がクリスチャンになるまでには二十年かかりました。頑なに拒んでいたのは祖父でした。とにかく頑固で、「絶対わしは教会には行かん。お前たちはヤソ教にだまされているんだ。今に全部吸い取られるぞ」といつも言っているような祖父でした。私はそれを聞き続けていたので、「すべての人は救われても、この人だけは救われない」と確信していました(笑)。この人は救われなくても仕方ない、と思っていたので、「お祖父ちゃんが救われますように」とは祈っていなかったと思います。しかし、そんな祖父が奇跡的に救われたのです。「こんな人でも救われるんだ」と、本当に驚いた記憶があります。
当時、母が、毎日早天祈祷会で家族の救いのために祈り続けていました。きっとその祈りが応えられたのだと思います。私の信仰が守られてきたのも、母の祈りのおかげと感謝しています。祖父は、病気で臥せっていましたが、救われてからは元気になり、この会堂の献堂式には、今教会でスタッフをしているひ孫の司の手を引いて参列し、礼拝に毎週参加していました。
私たちは長年、日本のリバイバルを祈っていますが、「こんなに祈り続けているのに、日本にはリバイバルが起きないのでなかいか」と疲れを感じてしまう人もいるかもしれませんが、主は必ずリバイバルを起こしてくださいます。
第十六代アメリカ合衆国大統領であったエイブラハム・リンカーンは、五十一歳で大統領に当選し、一八六三年に奴隷解放宣言をしたことによって、その演説とともに人々に偉大な人として覚えられ、その素晴らしいところだけがクローズアップされます。しかし、そこに至るまでには、商売に失敗したり、議員選挙に落選したり、たくさんの挫折を経験し、多くの忍耐と苦労があったようです。それでも彼は、「すべての人が神の前に平等である」ことを訴え続け、認められたのです。
このように、収穫には忍耐と時間が必要な時があります。しかし必ず神様は覚えておられ、必ず収穫する時がきますから、祈り続け、戦い続けていきたいと思います。

そして、どんなものを収穫できるかが重要です。稲が成長してもそこに穂に実が入らなければただの雑草と同じです。クリスチャンにとっての実とは何でしょうか。
ガラテヤ五章二二節にはこう書いてあります。『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です』。これらのものは、「こういう実がなった」と肉の目で見ることは難しいと思います。
「愛」とは何でしょう。『神は愛です』とみ言葉にあるように、神様はまず私たちに愛を示してくださいました。その愛を受けて、私たちが誰かのために祈ること、誰かの必要を満たすこと、誰かを助けるために手を差し出すこと、それが「愛」という一つの実です。また、「喜び」。いつも主と共に歩むことができ、将来に希望がある。それはもちろん喜びですが、たとえ孤独で寂しさを覚える時、不安にかられ恐怖の中にいるような時でも、御霊の実が結ばれるなら主の平安が与えられます。
そして、「寛容、親切、善意、誠実」などの実を結ぶ時、神様は私たち一人ひとりに対して、「よくやった、忠実な僕だ」と言ってくださるのです。また、「労苦した農夫こそまず第一に収穫の分け前にあずかるべきです」というみ言葉どおり、皆さんのしたことに報いが与えられ、素晴らしい収穫の分け前を頂くのです。

聖書の中に『だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。』(マタイ一八章一二節)とあります。日本の現状は、人口の約〇・二%しかクリスチャンがいないと言われ、それは、千匹のうち二、三匹しか囲いの中におらず、残りの九百九十七匹が散り散りバラバラになっているような状況です。しかし逆に言えば、刈り取られるべき多くの収穫があるということになります。
ルカ一〇章二節には、『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』とあります。クリスチャンとして生きる私たちは、先に選ばれた者として、迷っている者を神の元へ導く働き人となり、たくさんの収穫を受ける者となっていきたいと思います。

今日学んだように、私たちは、良い種を蒔き、失望せずに忍耐を持って御霊の実を結び、たくさんの良い収穫をすることができるように、信仰持って主に仕えていきたいと願います。


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